生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

主の良くしてくださったことを……

2005-12-31 08:57:55 | 聖書から

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは鷲のように、新しくなる。
(詩編103編)
     

「主(神さま)が良くして下さったことを何一つ忘れるな」とありますが、たくさん忘れているような気がします。
この1年、失敗も数多くありました。でも、神さまがすべてを働かせて益として下さいました。

わたしの咎(とが)を赦し、病を癒し、一生を良い物で満たして下さる神さまに心から感謝します。年が改まるとひとつ年をとるはずですが、鷲のように新しくして下さる神さまによって魂はひとつ若くなるでしょう。

このブログを読んで下さっているあなたの上にも神さまが働いておられることを信じます。あなたの一生が良いもので満たされることを願って、祈りつつ新年を迎えたいと思います。


1年を振り返って (その4)

2005-12-30 16:33:24 | 日記

昨日は癌が再発転移しなくて感謝しますと書きましたが、ふと来年の今頃もそのように書けるのだろうか?と不安になりました。また、再発転移しても感謝できるのだろうか?とも思いました。

神さまがわたしにいつも最善をして下さることは信じていますが、もし再発転移した場合、感謝しますと心から言えるのでしょうか? 自分でもわかりませんが、そう言えたらいいなあと思います。

今、旧約聖書のヨブ記を読んでいます。ヨブは正しい人だったのに財産も子供たちもいっぺんに失い、自分は不治の病にかかってしまいました。
そんなヨブが、

「私は裸で母の胎から出て来た。
また裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名(みな)はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」


と言って、素晴らしい信仰告白をしています。でも、その後で3人の友人が慰めるために来て論争になったとたん、ヨブの信仰はくずれていきます。ヨブは自分の生まれた日をのろうまでになってしまいます。

友人たちはヨブを愛し、哀れみ、最初の7日間はヨブと一緒に地に座り、誰も一言も話しかけなかったそうです。それはすごいことだと思います。わたしは、7日間も口を開かないでいることなどできないので……たぶんすぐ気休めにしかならない言葉を口にしてしまうでしょう。

友人たちはしゃべらずにそのまま帰れば良かったものの、ひとりが口を開くと論争になり、ある者は因果応報説を語って、ヨブに悔い改めを迫ります。ヨブは対抗して、自分は潔白だと言い張ります。(友人の正義感がヨブを怒らせたと解説があります)そんな友人たちとヨブのやりとりが延々と続くわけです。

数年前、ヨブ記を読んだときはヨブの気持ちが理解できませんでした。すばらしい信仰告白していたのになぜ? という気持ちでした。でも、苦しみを通った後に読むと、ヨブの気持ちが手に取るようにわかります。

「ヨブの心の葛藤は癌を宣告された癌患者の葛藤と同じだ」
と書いてある記事を読んでなるほどと思いました。

ヨブ記はカウンセリングの失敗例として読むと文脈が理解できると書かれていましたが、その通りだと思います。ヨブ記を読んでいると、ヨブの友人のように冷たい自分の姿も映し出されてきます。

昨日、一昨日と今年1年で感謝する出来事をあえて10個書きましたが、思い起こせばもっとたくさんの感謝があります。
反省することもたくさんあります。子供の頃は非常に無口で、言いたいことの1割くらいしか口に出せませんでした。若い頃は5割くらい。だんだん積極的になって、2年前までは7割くらい。そして今は9割も思ったことを口に出してしまいます。

2年前に乳癌になってから、死を意識するようになり、「今言わなければ次の機会はないかもしれない」と思って、言いにくいことでも思い切って話していました。
でも、あとになって、あのことは言わない方がよかったのかもしれないと思うことがありました。(8割くらいでとどめておいた方がいいのかもしれませんね)
わたしの言葉で人を傷つけてしまったのではないか? 教会学校では、わたしが積極的に動きすぎて、他の人の才能を発揮する機会を奪ってしまったのではないか? ご主人を亡くした友を励ますつもりで傷ついた心を逆撫でするようなことを言ってしまったのでは?……などと思い、心が痛んでいます。

ヨブの友人のようにではなく、悲しむ者の傍らにいて共に涙を流す者になれますように。

1年を振り返って(その3)

2005-12-29 08:58:44 | 日記
昨日に引き続いてわたしの10大ニュース(後半)を書きます。

6)8月末から9月にかけて家族で北海道旅行(釧路、知床)にいってきました。
旅行記をホームページ(サイト名「生かされて…土筆文香」)に載せています。そのホームページ記事を主人が読んでくれました。
今まで、わたしの書く物に関心がなく、ホームページもいっさい見てくれなかった主人ですが、旅行記を読んで添削までしてくれました。とても嬉しかったです。

7)10月にこのブログを開設しました。インターネットをやらない友人が、ケイタイでホームページが見たいと言ったことがきっかけで始めました。エッセイや童話はホームページに載せているものの一部をブログに移しただけなので、すでにホームページをご覧になっている方が見てもあまり目新しくないと思います。でも、ブログを開設したおかげで頻繁に日記を書くようになりました。

8)9月に教会の修養会で丸屋真也先生のお話を聞いたこと。「境界線(バウンダリーズ)」を読んだことは大きな恵みでした。(これもHPのBBSに詳しく書いています)

9)家庭集会やCS(教会学校)、子供家庭集会の奉仕が今年もできたことは、色々なことが守られていたからだなあと思います。教会学校の奉仕はわたしの生きがいです。いつまで続けられるかわかりませんが、体力の続く限りさせていただきたいと思っています。

10)白血球値が下がっていて医師に要注意と言われながらも、今まで健康が支えられていること。癌が再発転移していないことを感謝します。



1年を振り返って(その2)

2005-12-28 16:56:46 | 日記


この画像は桜川土手から撮った土浦めぐみ教会です。ちょっと遠景ですが、夕日が沈んでいくところがきれいだったので写しました。画像をクリックするともう少し大きい画像を見ることができます。

今日は教会で年末感謝祈祷会があったので歩いて行ってきました。祈祷会ではこの一年を振り返って、神さまの恵みを考える時が与えられました。
 
今年のわたしの10大ニュースを書いたので紹介したいと思います。

1)息子が社会人になりました。
高校生のときは、学則を破って学校から親呼び出しになったり、謹慎になったりし、大学生のときは、昼夜逆転気味でのらりくらりしていた息子が、社会人になると規則正しい生活になり、まじめに働いていることが驚きであり、また喜びでもあります。

2)娘が美術の専門学校に入学して東京でひとり暮らしをはじめました。
1月から3月までは、アパートを探したり、ひとり暮らしに必要な物をそろえたりであわただしかったです。入学式が終わり、ほっとすると同時にわたしが寂しくてたまらなくなりました。息子は家から出勤してくれるので、同時に2人が出ていかないで良かったと思いましたが、やはり娘がいないと寂しく、また心配でもありました。18歳でひとり暮らしを許可したことを後悔する毎日。(2時間以上かかりますが、自宅からでも通える学校なので)娘にいやがられるのを知っていてよく電話をかけていました。
最近は慣れて、ひとりで居る時間、好きなことをして自由を満喫しています。

3)5月に肺炎になったけれども癒されました。
4月に風邪をひき、咳が長引いてなかなか良くなりませんでした。病院からの薬を飲んでいましたが効かず、何度も熱を出しました。
それでも熱が下がると、あちこち出歩き、少し無理をしていました。とうとう高熱が出て起きられなくなりました。病院へ行くと肺炎と言われ驚きました。入院をすすめられたのに断って点滴だけ受けて帰ってきてしまいました。あとから考えると、どうして入院を断ったのかと後悔しています。命とりになりかねない肺炎になったというのに……(しかも比較的軽いマイコプラズマ肺炎ではありませんでした)入院を断ったことを後から家族や友人にしかられてしまいました。
高熱で意識がもうろうとしていたときに、イエスさまがそばにおられることと、多くの人たちに祈られていることを実感したことは大きな恵みでした。

4)6月に教会で傾聴の学びをしました。
人間関係のあり方で、いちばん知りたかったことを教えてもらえて感謝しました。
これは、「生かされて…土筆文香」のHP(ブックマークに載せています)のBBSで詳しく書きました。
                            
5)7月はクリスチャン・ペンクラブの夏期学校で近江八幡にいってきました。
充実した学び、新しい方との出会いがありました。また、同じ志をもつ方々と祈りあい、よき交流ができました。

                     つづく

1年を振り返って (その1)

2005-12-27 12:30:54 | 日記


25日の教会学校の分級で小学2年生の子供たちにプリントが配られました。分級とは、礼拝の後学年ごとに各部屋に分かれて聖書の勉強をしたり、誕生会をしたりするクラスのことです。
プリントには「1年の中で神さまに感謝したいことはありますか? また、それは何ですか?」「1年の中で神さまに感謝できなかったことはありますか? また、それは何ですか?」と書かれていました。

 前の日が24日だったので、感謝したいことは「サンタさんにプレゼントをもらったこと」と書いた子供が大勢いました。「1年間にだよ」と言っても、「この前、かぜひいたけど、なおしてくれて神さまありがとう」とごく最近のことばかり書きます。

子供は大人と時間の感覚が違うのですね。1年前は、ずいぶん昔のことに感じられるのでしょう。それでいいのです。今を生きているのですから。
年を取れば取るほど時間が早く過ぎるように感じられるといいます。わたしは1年前なら昨日のことのように感じ、10年前のことでも「ついこの間……」と言ったりするので「この間っていつのこと?」と若い人に笑われることがあります。

子供たちは、感謝できることをたくさん書きました。Sくんは「動物をつくってくれて神さまありがとう」と書きました。動物が大好きな子供です。動物がつくられたことを素直に感謝することができるって素晴らしいなあと思いました。

わたしは感謝することが山ほどあるのに、すぐに思いつつかず、時間内に書けませんでした。

冬の桜川

2005-12-26 21:33:18 | 日記


12月20日に「桜川ウォーキング」の日記を書きましたが、携帯で写真を撮ったので載せてみました。
桜川の土手を歩きながら小説や童話のストーリーを考えています。パソコンの前にすわっているときより、外を歩いているときの方がアイディアが浮かびます。

今日はひときわ風が冷たかったです。つくば市へつながる学園大橋の上から桜川をながめるとき、川の上を飛んでいけるような気になります。
空想にふけっていると、車にぶつかりそうになってしまいました(危ない、危ない)土手にもときどき車が通ることを忘れていました。


暗闇を照らす光として

2005-12-25 16:56:54 | 日記

メリー・クリスマス!



今日は教会へクリスマス礼拝に行ってきました。クリスマス礼拝は、25日より前で25日にいちばん近い日曜日に行われます。今年は25日が日曜日で嬉しいです。今日は、礼拝のメッセージから受けたものを書きたいと思います。 

イエスさまが生まれた時代のイスラエルは、独裁者ヘロデ王が支配する暗い時代だったそうです。現在の日本の社会と似ていると言われましたが、本当にその通りだと思います。

年に3万人もの自殺者がいて、子供が殺され、また子供が子供を殺すという信じられないような犯罪が起き、ニートや不登校の若者が増え、児童虐待はエスカレートしていっています。子供も、若者も、壮年も婦人も高齢者も苦しんでいます。

わたしはこの一年間、虐待をしてしまう親と虐待を受けている子供のことをずうっと考えていました。親に愛されずに育った子供は、人を愛することがむずかしいと聞きます。愛してくれるはずの両親にその存在を嫌われたら、生きる意欲がなくなってしまうかもしれません。

そんなあなたに伝えたいのです。
「どんなに親に疎まれても、たとい誰からも愛されなくても、造ったお方があなたのことを深く愛しているよ。あなたは、どうでもよい存在じゃない。いなくてもよい存在なのではなく、尊い存在なのだよ」
と。

そのように言えるわけは、神さまがイエスさまを人として誕生させて下さったからです。イエスさまの誕生の事実が神さまの愛の現れです。

「どんなに希望の見いだせないところでも、神の中に希望がある」と牧師先生は言われました。イエスさまはあなたのため、そしてわたしのために生まれて下さったのです。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」

暗闇を照らす光として生まれて下さったイエスさま、ありがとう!

花のリース

2005-12-22 12:17:00 | 
絵本「ちいさなリース」を読み感動して詩を書きました。
自分の両親を殺したカロル将軍にリースを届け続けた女の子の気持ちを書いてみました。教会の若い人が素敵な曲をつけてくれて、教会学校のクリスマス会で教師たちが歌いました。紹介します。



        花のリース
こんなことできないんだと思ったの
あなたの敵を愛しなさい
それだけど父さん母さんいっていた
あなたの敵を愛しなさい

*リース リース 花のリース
 あなたのこころに届けたい

イエスさまは十字架の上で祈ってた
いたみをこらえ祈ってた
お父さま、かれらをおゆるしくださいと
十字架につけた人のために
*おりかえし

祈ったの。イエスさま見上げて心から
敵を愛するようにしてと
そうしたら、わたしの心変えられて
愛せるようになったのよ
*おりかえし


敵を赦すことはとても難しいことです。ましてや自分の肉親を殺した人のことを愛することなどできるのでしょうか? わたしは『もし肉親を殺されたら、殺した人を愛せるのか?』と問われたら、「愛せます」とは言えない者なのですが……。

イエスさまは十字架につけられたとき、
「父よ。かれらをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)」

と、十字架につけた人たちのために父なる神に祈っています。
そんなイエスさまを見つめたとき、敵を愛することのできる心が少女に与えられたのだと思います。
世界中の人が、この女の子の心のようになれば、戦争はなくなるのにと思いました。



「ちいさなリース」を読んで

2005-12-21 22:03:47 | 日記

素晴らしい絵本と出会いましたので紹介したいと思います。

「ちいさなリース」さかもとふぁみ作  フォレストブックス


これは、ルーマニアで実際にあった話をもとにした絵本です。感動的な物語で絵も素晴らしいです。

物語
ある国に、「カロル」という名の恐ろしい将軍がいました。そのカロル将軍は、罪のない人を次々と牢屋になげこんでいました。
ある日、将軍が家に帰ると、小さな花のリースが門の前においてありました。将軍はそれを見つけて、足で踏んずけました。ところが、来る日も来る日も、小さなリースが家の門の前に置いてあるのです。
 その贈り主はなんと、小さな女の子でした。その女の子の両親は、将軍によって牢屋に入れられ、死んでしまったそうです。しかし女の子は、お父さんとお母さんの教え「あなたの敵を愛しなさい」ということを守ってカロル将軍にやさしくしてあげようと思い、花のリースを贈っていたのでした。
このことを知った将軍は、大きな声をあげて、泣き叫びました。自分がなんて悪い人間だったのかと罪を悔い改め、優しい人間になろうと決心し、その国は平和になりました。


あなたの敵を愛しなさいというのは
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」
という聖書の言葉に基づいています。
わたしは、この物語を読んで感動しました。リースとは終わりのない環なので終わりのない愛を示すそうです。
赦すということは忘れるということだそうです。人にされた悪いことを忘れたとき、赦したといえると聞きました。わたしは、悪いことをいつまでも恨みがましく覚えていて、良くしてくれたことをすっかり忘れている愚かな者です。この女の子のようになれたらいいのにと思いました。


桜川ウォーキング

2005-12-20 10:52:25 | 日記

今年の冬は本当に寒いですね。わたしの住んでいる茨城県土浦市はまだ雪が降っていませんが、雪の多い地方に住んでおられる方はさぞかし大変だろうと思います。土浦でも明日か明後日あたり雪が降りそうです。

わたしはひどい冷え性なので、夕べは足が冷たくてよく眠れませんでした。電気あんかと電気ざぶとんを当てているのに足は氷のように冷たいのです。冷え性を改善するためにあらゆることを試みましたが、治りません。昨日もテレビで冷え性対策をやっていましたが、今まで試したけれども効果を得られなかったものばかりでした。

寒さに弱いわたしですが、冬は好きな季節です。寒い日は、本当は家から一歩も出たくないのですが、夕方になると用事のない日でも強いてウォーキングに出かけていきます。

桜川のほとりは、ことさら風が冷たいのですが、空気が澄んでいて背筋がぴんとのびるような緊張感があります。すっかり葉の落ちた桜の木の細い枝が夕焼け空をバックに編み目のように張り出していて素敵です。

桜川は深緑で全く流れてないように見えます。向こう岸にわたしの通う教会が見えてくるとほっとします。教会の向こうは高台になっていて、そこはエルサレムの町のようだとエルサレムに行ったこともないのに勝手に思っています。

今日は夕焼けがきれいでした。神さまが毎日大空のキャンバスに夕焼け空を描いてくれているように思えます。夕日が教会の向こうに沈みかけるのを見ながら土手を歩いていくと、犬を連れた人やウォーキングしている人たちとすれ違います。早足で30-40分くらい歩くと体がホカホカしてきます。土手から降りて家に着く頃にはすっかり暗くなっていました。

健康が支えられていることが奇跡のようなわたしです。こんな寒い日でも、ウォーキングができました。神さまありがとう。


クリスマスに寄せて(その4)

2005-12-19 11:34:32 | エッセイ

赤、緑、白、金のクリスマスカラーで赤はイエスさまの流した血の色を意味すると書きました。

緑は常緑樹の葉の色を象徴し、一年中枯れないということから永遠の命を示しています。
白は、雪を象徴しています。雪というと、イエスさまの贖いによって罪赦され、黒い心が雪のように白くなったことを思わされます。
金はベツレヘムの星の輝きを意味し、高貴さを表すそうです。
イエスさまが生まれたのはベツレヘムの家畜小屋の中でした。生まれたときに家畜小屋の上にはひときわ明るい星が出たそうです。東方の博士たちはその星を目当てにイエスさまを拝みにやってきます。
 
イエスさまが救い主と呼ばれるのは、わたしたちに永遠の命を与える者となって下さったからです。 
永遠の命をいただけるというのは、神さまからの約束です。目には見えませんが、もうすでにいただいているのだと思います。天国とか永遠の命というと、おとぎ話みたいでピンとこない方もおられるでしょうが、クリスチャンはそれを本気で信じる者なのです。

今は地上にいて、肉体の限界を感じ、色々なことに悩まされ、苦しみを背負って生きていますが、やがて肉体が死んだのち、神さまに新しい体をいただき、天国で永遠に生きられるということを信じています。

天国は、はるか遠くにあるのではなく、今わたしの中にもあります。わたしにとって天国は、死後に行けるところとしてではなく、もっと近いものとしてとらえています。日常生活の中で、天国とはこういう感じなのかなあと思う一瞬があり、感動で胸がいっぱいになることがあります。

そのときのことを「天国の前味(まえあじ)を味わっている」と言うそうです。たとえると、天国の食卓にはすごいごちそうが並んでいる。天国に行かないと全部を食べることはできないけれども、地上では天国の食卓に出るごちそうの味見ができるという話しを聞きました。クリスチャンは、地上と天国とふたつの国籍を持っているので、地上にいながら天国を体験できるのです。

今年のクリスマスも天国の前味を味わうときでありますように。



クリスマス祝会

2005-12-17 17:37:56 | CS(子供伝道)

今日は教会学校のクリスマス祝会でした。いつも教会学校は日曜日の朝ですが、今日は特別です。もちろん明日の日曜日も教会学校があります。クリスマス会では、それぞれの学年で劇や歌や合奏などを発表しました。わたしは、小学2年生の先生をやらせてもらっています。2年生は12人で「よきサマリヤ人」の劇をしました。

「よきサマリヤ人」というのはイエス様のしてくださったたとえ話で聖書のルカの福音書(10:30-37)に書かれています。強盗に襲われた旅人が道に倒れていると、祭司が通りかかります。聖書の教えは全部守っているという祭司ですが、旅人を見ると道の反対側を通り過ぎていきます。

次に祭司につかえるレビ人が通りかかります。彼も旅人を見ると道の反対側を通り過ぎていきます。

そこへユダヤ人である旅人とは敵の国の人、サマリヤ人が通りかかります。彼は、旅人を介抱し、宿屋に連れていって一晩面倒を見、宿屋の人にお金を渡して翌日エリコの町にでかけていきます。

「さて、この三人の中でだれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。とイエスさまは問われます。隣人(となりびと)になるとは、自分と同じように相手を愛し、大切にすることを意味します。

練習のときはふざけたり、セリフがなかなか覚えられなかったりしたのですが、本番になると子供たちは瞳を輝かせて立派に演じました。


クリスマスに寄せて(その3)

2005-12-17 17:00:51 | エッセイ

「すべての人は罪を犯したので(ローマ3:23)」

と聖書に書かれています。罪というと犯罪を思い浮かべるでしょうが、法に触れなくても、嘘をついたり、人をうらやんだり、ねたんだり、憎んだりすることを罪といいます。本来罪というのは「的はずれ」という意味なのだそうですが、神さまのみ心からはずれていること、つまり神さまが喜ばれないことを言ったりしたり思ったりすることを示します。

「悪口を言うくらいかまわないでしょう。」「だってみんな言っているもの。」「つぶやくぐらいいいでしょ。」「あの人嫌いと心の中で思うくらいかまわないでしょ。」と思われる方もいるかもしれませんが、それは明らかに神さまの喜ばれないことです。

神さまは清いお方なので、罪を見過ごすことはできません。その罪には罰が与えられます。
「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)」
というように、死によって償われなければならないものです。

イエス様は神さまですから、罪がありません。罪のないイエスさまだけが、わたしたちの身代わりになることが可能です。イエスさまは何の罪もないのに、わたしたちのために十字架にかかって死んで下さいました。十字架の死によって、わたしたちの罪が赦されました。どんな罪があっても、イエスさまを見上げるだけで罪が赦され、肉体は滅びても魂は永遠に生きられるようになりました。まさに、わたしたちの罪を赦すためにイエス様は生まれ、十字架にかかって下さったのです。


「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じ様な形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ8:3)」


そのことを思うと、心は感謝と喜びでいっぱいになります。


クリスマスに寄せて(その2)

2005-12-16 12:21:50 | エッセイ

 
神様が最初の人間(アダムとエバ)を造った後、しばらくの間、ふたりはエデンの園にいて苦しみや悲しみもなく幸せに暮らしていました。そのときは老いも死もなかったのです。でも、ヘビに誘惑されてエバが神さまから禁じられていた木の実を食べ、それをアダムにもすすめてアダムも食べてから罪が生まれました。ふたりは神さまに問われたとき、アダムはエバのせいに、エバはヘビのせいにしました。そのためにふたりはエデンの園から追放され、男は苦しんで食を得なければならなくなり、女には産みの苦しみが与えられ、また人は年老いて死ぬことにもなってしまいました。

 わたしは2人の子供を出産するときどちらも大変な難産でした。陣痛がきてから出産までに長男は27時間、長女は48時間かかり苦しみました。そのとき、エバのせいだ!と腹をたてていました。

 アダムとエバが罪を犯しさえしなければ、人間は永遠の命を持つ者として、今でもエデンの園で暮らしているでしょうか?
いいえ、アダムとエバが罪を犯さなくても、その息子たちの間で殺人事件が起きています。(カインが弟のアベルを殺しました)ノアの時代には、「地上に人の悪が増大し……」と創世記6章5節に書かれています。(まるで現代社会のようですね。)
 
そして、自分自身の心を見つめると、罪という意識はなかったものの、すでに3歳のときから嘘をついています。その後、数え切れないほど罪を犯してきました。それを考えると、アダムとエバを恨めません。

 人間はもともとすばらしい存在として神さまから造られたのに、罪のために滅ぶ者となってしまいました。でも、神さまはご自分の造った人間ひとりひとりをとても愛しておられるので、わたしたちが滅びてしまわないように計画をたてられました。

 それは、イエスさまが生まれる何百年も前からいや、アダムとエバをエデンの園から追放したときに計画されていたことだったのです。その計画とは、イエスさまを人間の赤ちゃんとして生まれさせ、成人してから十字架にかかって死ぬというものでした。
 クリスマスはその計画の最初のことが実現した日です。


クリスマスに寄せて (その1)

2005-12-15 11:38:36 | エッセイ

 
神さまが、ご自分のひとり子イエスさまを地上におくってくださった日、それがクリスマスです。
 
 神さまがイエスさまを人間の赤ちゃんとして誕生させた目的のひとつは、イエス・キリストを通してわたしたちが神さまを知るためだと12月5日の日記に書きましたが、今日はもうひとつの目的について書きます。
イエス・キリストの誕生は十字架の伏線だと言われていますが、十字架にかかって 死ぬためにイエスさまは生まれてくださったのです。
 
 キリスト教の教えはいいと思うけれど、十字架なんて残酷なことを持ち出すからいやになると友人がいいました。十字架はアクセサリーにもなっていますが、十字架刑というのはとても残酷な死刑方法です。
そんな残酷な十字架につけられ、血を流したイエスさまのことを話すと、友人は「気持ちが悪いからやめて」と言いました。

 クリスマスと十字架刑。関係のないことのように思えますが、実は大いに関係があります。クリスマスカラーには金、緑、白、赤がありますが、赤はイエス様が十字架上で流された血の色を示しているそうです。


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