生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

道は閉ざされなかった(その2)

2007-02-27 10:22:34 | エッセイ
これから実家に帰ります。母が白内障の手術を受けるので、その付き添いと家事手伝いをしに行くのです。片目ずつ2週間にわたって手術を受けるので、週末には一時戻ってきますが、翌週もまた出かけます。白内障の手術は成功の確率が高いそうですが、まれにうまくいかないこともあるのです。どうかお祈り下さい。


昨日の詩を書いてから9か月後には少し立ち直っていますが、書き続けていていいのか?わたしにとって書くことが神さまのみこころにかなったことなのか?それがいちばん悩むことでした。みこころがはっきりと示されない10年くらいの間、何度も神さまに問いかけました。

みこころを求めて

童話のストーリーが次々と与えられて
物語の中にすっぽりと入っているときは
とても幸せなとき

でも、書きはじめると、
拙い文章と、乏しい想像力にがっかりし、
書きたくない……いや、書いていこう
と、闘いがはじまる

神さまのことで頭がいっぱいになっているとき
イエスさまの深い深い愛をおもうときは
もっと幸せなとき

このことを 童話に書いて伝えたいと
なんとか伝えたいと
思ってしまう

神さま、もう一度聞いていいですか?
わたしが 童話を書くことは
みこころに かなっていますか?
(1995年9月)


キリストを信じてから、神さまのみこころをずうっと求めています。でも神さまのみこころは、なかなかわかるものではありません。
イエスさまは、十字架につけられる前に「わたしの願いではなく、みこころのとおりにして下さい」と祈られました。
キリストを模範として、自分の願いが叶うようにではなく、神さまの願いが叶うように祈っていますが、実際自分の願いが叶わないと落ち込んでしまうのでした。
落選が続いたからといって書くことが神さまのみこころではないと決めつけることはできません。それで何度もたずね、躓きながら書き続けました。


今は次のように考えています。
みこころにかなっていなければ、10年以上も書き続けることができなかったのではないでしょうか。もし書くことがみこころでなかったなら、神さまは何らかの出来事を通して、わたしに書くことをストップさせると思います。

神さまのみこころと自分の願いが一致したとき、その人は幸いですと以前牧師先生が言われました。その言葉をいま、かみしめています。

道は閉ざされなかった(その1)

2007-02-26 11:23:17 | エッセイ

15年前、死を願う子どもたちに福音を伝えたいという思いから童話を書き始めました。35歳の時でした。以前にも書きましたが、1991年からキリスト新聞社のクリスマス童話に9年間毎年応募し、1度も入選しませんでした。(佳作にもなりませんでした)


後に、「作品の出来、不出来ではなく、選者のイメージと違っていたから選ばれなかったのでしょう」と言って下さった方がいて慰められました。

先日、テレビの取材を受けたとき「よくあきらめずに9回も応募しましたね」と言われましたが、落選のたびにかなり落ち込んでいたのです。かつて書いた作品を整理していて、こんな詩を発見しました。確か3回目の落選がわかったときの詩です。こんなに落ち込んでいたことすら忘れていました。



94年のクリスマス


今日は クリスマス
何事もなかった クリスマス
起きなかった ミラクル

ずっと ずっと 祈ってきたのに
それが 答えですか?
「どうしてですか?」と言わないように
心に決めていたのに 言ってしまった

あきらめてはいたのに
ずっと 胸さわぎがしていた12月
とうとう 決着がついてしまった

み心のままにって
ただひたすらに そう思おうとしてきたのに
だめな時のこと 考えられなくて・・・・。

やっと見つけたと思った生きる道
これからの人生を
生き甲斐を持って生きられると思って
進み始めた道なのに
完全に閉ざされてしまった

神様 これから どう生きればいいのですか?
何をしたらいいのですか?
教えて下さい

死んでいく 子供たちのために
福音を伝えたいと
ただ それだけを 願っていた私だったのに・・・。

1994.12.25



道は閉ざされてはいませんでした。あれから12年。わたしはまだ書き続けています。


創作あれこれ

2007-02-24 16:29:55 | 日記

昨日は雨の中お茶ノ水まで出かけ、クリスチャン・ペンクラブの小さな集いに出席しました。小さな集いは、詩歌と児童文学に分かれて学びますが、わたしは児童文学の方に出ています。


今回は「雨」というモチーフを使って書いた童話の合評をしました。あらかじめ書いた作品を読んでおいての合評ですが、今回は初めての方もおられたので、それぞれが朗読しました。3作品だったので1作品20分ずつの時間が与えられ、朗読の後、感想など言い合いました。
さすがに書き慣れたおふたりの作品に感心し、たくさんのことを教えられ、感謝しました。


今回わたしはハイファンタジー作品を持っていきました。ファンタジー作品の場合、読者にしっかりイメージしてもらうために苦労します。リアリズムの作品なら、細かく描写しなくても読者はわかってくれますが、別世界の物語だとかなり書き込んでいかないと、作者のイメージする世界とかけはなれたものを読者が思い浮かべることにもなりかねません。もちろん、作者と読者が全く同じイメージを持たなくても良いのですが、あまりズレがあるとテーマも伝わらなくなってしまいます。


数年前、茨城児童文学の会でわたしの作品は「ダイジェスト版を読んでいるようだ」と言われました。ストーリーばかりが先行して、情景描写、心理描写ができていなかったのです。
できるだけくわしく書き込もうと心がけていたら、こんどは、「他のことを書きすぎて肝心のストーリーがわからなくなってしまう」と言われてしまいました。
今回は、子どもたちにお話するということで創作したものだったので、長くなりすぎないように押さえ気味でストーリー優先で書きました。すると、「ちょうどいい」と言われました。創作を始めて15年目にしてやっと加減がわかってきたようです。


ひとつの作品を仕上げるのに30回くらい推敲を重ねます。パソコンなので推敲の跡は残りませんが、推敲しすぎて元の方が良かったなんてこともあるので気をつけなければと思いました。




梅の写真は近所に買い物へ行く途中で撮りました。

キリスト者のアイデンティティー

2007-02-22 12:48:47 | 教会

祈祷会では「キリスト者のアイデンティティー」について学んでいます。昨日は深く考えさせられる学びでした。
突然「自分は一体誰なのか?」と問われたら、即答できません。「神さまによって造られた人間。イエス・キリストを信じている者」と答えるのがせきのやまでしょう。


聖書にはあなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもです。(ガラテヤ3:26)と書かれているので、「私はキリストによって神の子どもです」と言うことができます。でも、答えはこれひとつではありませんでした。
キリスト者のアイデンティティーに関して聖書に書かれていることのリストがあげられていました。しかも、これはすべてではなく一部だそうです。



「私は」
・世界の光です(マタイ5:14)
・キリストにつながっている者です(ヨハネ15:5)
・キリストの友人です(ヨハネ15:15)
・実を結ぶために任命された者です(ヨハネ15:16)
・義の奴隷です(ローマ6:18)
・神の神殿です(Ⅰコリント3:16)
・新しく造られた者です(Ⅱコリント5:17)
・聖徒です(Ⅰコリント1:2)
・良い行いをするための神の作品です(エペソ2:10)
・神に選ばれた者です(コロサイ3:12)
・光の子です(Ⅰテサロニケ5:5)
・選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です(Ⅰペテロ2:9)


わたしはこのリストを見て、なんて嬉しいことなのだろうと思いました。わたしが頑張ったからでも、努力し精進したからそうなったのではありません。ただキリストを信じて罪赦されたから、神の子となり、キリストの友人となり、光の子となったのです。


キリストを信じた後も罪を犯し、失敗ばかりしてしまう者です。罪に気づいたとき、心から悔い改め、そして赦されたことを自覚します。その後、「神さま、ありがとう、ハレルヤ!」と喜びが訪れるときもありますが、ときには過ちを犯した自分を責め、非常に落ち込んでしまうことがあります。
赦された喜びより、悲しみが大きくなってしまうのは自分を正しく認識していない証拠です。


自分は「新しく生まれ変わった罪人」ではなく「新しく生まれ変わって神の子となった者」なのだということをしっかり覚えておきたいです。
自分の惨状を嘆くのではなく、感謝に溢れる日々を過ごせるように祈りました。


子どもたちを守るために(その2)

2007-02-20 11:31:53 | CS(子供伝道)

メディアの発達によって確かに便利になりました。このブログもインターネットを通して多くの人に読まれています。ネットの検索機能を使えば、あらゆることが調べられ、簡単に資料が集められます。
でも、情報の中には間違ったもの、危険なものもあり、特に子供に害を与えるものが多分に含まれていることを大人は知り、守ってあげなければなりません。


テレビゲームの害について話を聞き、怖いと思いました。
ゲームをやりすぎると慢性疲労になり、朝起きられなくなり、不定愁訴を訴えたり、不登校になったりするそうです。

慢性疲労になった子供の顔写真がスクリーンに映し出されました。目の輝きが失われ、疲れ切った表情をしていました。横にはキラキラ目の輝いた子供の顔写真がありました。同じ子供だと聞いてびっくりしました。その子供の場合は一週間ゲームを禁止しただけで、慢性疲労が治ったそうです。


ゲームをやめさせる。ただそれだけのことで問題が解決することがあるのに、親はやめさせることができず、ゲーム中毒になっている子供は、ますます仮想世界にのめりこんでいきます。

現実世界を離れての時間が行き過ぎると、現実世界の中で直接顔を会わせることによってつくられる親子の絆(人間の絆)の形成に障害が起こります。その結果、「自分の気持ち」を伝える言葉や、「ほかの人の気持ち」を感じる力に障害が起きます。そのため人間として生きる力が育たないので、色々な問題が起きているようです。


子どもたちの描く絵にも変化が現れてきているそうです。家で食事をする絵を描かせると、テーブルとテレビが大きく描かれ、人間は顔がなく記号化している絵。あるいは人間が描かれていない絵。食卓の食事も粗末に描かれている絵が映し出されました。
家族団らんがなくなってきている証拠ですね。子供がひとりでテレビを見ながら夕飯を食べ、その夕飯もコンビニで買ってきた物だったりするわけです。


子どもたちをメディアの害から守るために、わらべうたを歌ったり、絵本や児童書を読んでやってほしいと言われました。特に10歳までは読み聞かせをしてほしいと。

おすすめの本のリスト(200冊くらいあげられていました)を戴きましたが、約90%はかつてわが子に読み聞かせたものでした。(当時はメディアの害から守るという意識はありませんでしたが)長男の場合は6年生(12歳)まで毎日読み聞かせたのですから、リスト以外にも膨大な量の本を読んでいます。こんどは、孫に読み聞かせることになりそうです。



                      おわり

子どもたちを守るために(その1)

2007-02-19 12:16:10 | CS(子供伝道)

17日に教会で教育講演会があり、息子の嫁と一緒に聞きに行ってきました。

「子供の発達とメディア」と題して児童文学者斉藤惇夫氏と小児科医田澤雄作氏が語って下さいました。

「いま、子どもたちがあぶない!」
 斉藤惇夫他著 古今社 
「脳内汚染」 岡田尊司著 文藝春秋社 を読んで昨年9月1日、2日と11月10日のブログにも関連することを書きましたが、今回は直接講演を聴いたので、インパクトが強かったです。印象に残ったことについて感想を交えて少しだけ書かせていただきます。


生まれたばかりの赤ちゃんに授乳しながらケイタイメールをしている母親がいると聞いて驚きました。赤ちゃんはおっぱいを一生懸命飲んで、ふと不安になって母親の顔を見ます。そのときお母さんと目を合わせると安心してまた飲むのです。でもメールをしていたら、赤ちゃんが見上げても目があいません。赤ちゃんは不安になります。人生のスタート時からこれでは悲しいですね。



いじめによる自殺が相次ぎ、青少年による不可解な事件が起こっている背景には、テレビ、ビデオ、ゲームなどの非現実的映像への不適切な接触があると考えられるそうです。
ビデオを子守代わりに用い、成績が上がったことのご褒美にゲームソフトを買い与える親がいます。すると、子供はいつしかメディアづけになってしまいます。

確かにわたしも子供が夕方ぐずったとき、ビデオやテレビを見せていました。ゲームも買い与えました。もちろんテレビゲームは時間を制限してやらせましたが、兄と妹がそれぞれ毎日30分くらいやっていました。


テレビやビデオは一方的に語りかけるだけで、人間的触れあいがありません。テレビやビデオから言葉が発せられるから、それで言葉を覚えるからいいなんて思ってはいけませんね。子供がテレビから言葉を覚えたとしても、それは意味を持ちません。子供は親子のコミュニケーションの中でひとつずつ言葉を覚えていくのです。


ゲームは1日30分くらいならいいかと思っていましたが、1回5分で1日15分までが安全なのだそうです。理由はそり以上長くゲームをすると、ゲーム中毒になる危険があるからです。

人は前頭葉を使ってものごとを考えますが、ゲームをしているときは後頭葉しか働いていないそうです。前頭葉の機能の低下は最新の脳科学機器で証明されています。まさに「脳みそがくさる」状態ですね。



                  つづく

ホームページがテレビ番組に(その2)

2007-02-16 18:50:16 | 日記
今日は我が家での家庭集会でした。7人の方が訪れ、牧師先生からの学びをし、昼食を共にしながら祝福された時を過ごしました。


テレビ放送ライフラインの取材依頼を受けたとき、全く予期しないことでしたのでえーっ、わたしがテレビに?と本当にびっくりしました。

それから3日間睡眠不足になりました。わたしよりもっと取材されるのにふさわしい人がたくさんいるのに何故?という思いが強かったのです。


毎週日曜の朝、教会でCS教師祈り会が行われていますが、お祈りの前に「いと高きかたのもとに」(オズワルド・チェンバーズ著、いのちのことば社)を校長先生が読んで下さいます。2/4に読まれた箇所はテレビ取材のことで心騒がせていたわたしに向けて主が語られたのだと受け取りました。それは従順のすすめでした。


イエスの言われることの意味がわからなくても、イエスを信じてまず一歩踏み出せ。何も考えずに喜んで主に従え。


イエスの母アリアが受胎告知されたとき、驚きとまどったのですが、
「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と祈ったように従順な心で祈らなくてはと思ったのです。


HP開設してこの春で3年。ブログを始めて1年半。
HPやブログを通してたくさんの人に福音が伝えられるようにと祈り続けてきました。
人前に出ることが苦手で、目立ちたくない、隠れていたいと思っていたわたしですが、神さまが手をつかんで引きずり出して下さいました。番組を通して主の栄光が現れますように。


PBA太平洋放送ライフラインのHPです。ライフ・ラインhttp://www.pba-net.com
ブックマークにも入れました。TV番組表にはわたしの番組が紹介されています。放送日も書かれていますのでご覧下さい。


写真は取材風景。左端がわたしです。

ホームページがテレビ番組に(その1)

2007-02-15 21:32:10 | 日記

PBA太平洋放送協会「ライフライン」に出演することになりました。番組のディレクターの方がわたしのHPを読んで取材依頼してくださったのです。

先月31日に連絡を受けてから2週間。悩みやとまどいがありましたが、今日我が家で撮影が行われました。朝10時半から夕方の4時半までかかりました。それでまだ終わりではありません。

生まれて初めての経験です。狭い部屋に大きな機材が運ばれての撮影。とても緊張
しましたが、ディレクターのH氏の温かい人柄に触れて心の内にある思いが話せました。

何よりイエスさまに守られている実感がありました。
放送日や詳しいことは後日書きます。

死と隣り合わせになって

2007-02-13 11:58:44 | 乳癌
昨日は体調が悪く、いちにち横になっていました。頭痛がするので風邪だと思っていたら、肩こりからくる頭痛のようでした。40肩、いや50肩なのかもしれません。とにかくとても疲れていて、気持ちも落ち込んでいました。でも癒しのみ手が働いて、だいぶ元気になりました。

今日は日本クリスチャン・ペンクラブから去年の12月に発行された「生かされている喜び」に掲載されたエッセイ「死と隣り合わせになって」を紹介します。これは、乳癌手術の後の心境を綴ったもので、2004年3月に書きました。この本には、以前紹介した「傷つき渇いている心に」と「風の種」、とこの作品あわせて3作品が掲載されています。


死と隣り合わせになって          

2003年12月にわたしは乳がんの手術を受けました。初期だったので温存手術ですみ、退院後、放射線を当てに通院しました。
1年でいちばん寒い時期でした。放射線を当てれば転移の心配もなくなるのだと思って毎日必死に自転車をこいで病院に通いました。
通っている間は緊張していたためか元気でした。ところが25回の照射が終わると、急にがっくりとしてしまいました。放射線を当てている間は再発転移の可能性はない。でも、今後は大丈夫なのだろうか。抗ガン剤は飲んでいるけれど、効くのだろうか……。
 乳癌が肝臓に転移して亡くなった人の話を聞き、不安でたまらなくなってきました。
 
 わたしが死んだら、子供たちは……。主人は……。年老いた両親は……。いろいろ考えると落ち込む一方で、夜も眠れなくなり、情緒不安定になってしまいました。
 受難週の礼拝で三度イエスさまを裏切ったペテロの話しを聞いて、自分は三度どころか数え切れないほどイエスさまを裏切っているなあと思いました。
 我が家の家庭集会に八年間集い、求道している姉妹のために何年も祈り続けてきました。彼女が救われるならこの命が削られてもかまいませんと祈りました。でも、現実に命が削られそうになってあせりました。

「神様、ちょっと待って下さい。まだ死にたくありません。せめて娘が成人するまで、いや娘が結婚するまで、いや娘が子供を産むまで……。あと10年、いや、あと20年生かして下さい」
気がつくとそう祈っていました。心の中には彼女の存在はなくなっています。友のために命を捨てることなど、とうていできません。死と隣り合わせになって、友のためだけでなく、主人や子供のためにも死ねない、愛に欠けた自分の姿を発見しました。

そのとき、「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」という星野富弘さんの詩を思い出しました。
いのちよりも大切なものというのは、イエス・キリストへの信仰だと思ったとき、イエスさまのしてくださったことの大きさに気づき心が震えました。
人のために命を捧げることのできないわたしですが、イエスさまはこんなわたしのために命を捨てて下さいました。その大きな愛に迫られて、自分がまだ神様に委ねきってないことに気づきました。わたしを愛して下さる神様は、わたしに最善をして下さる。だから、すべて委ねようと思い、
「神様、いっさいをあなたに委ねます」

そう祈ったとき、平安が訪れ、夜もよく眠れるようになりました。
これからは、一日一日生かされている日々を大切にして、与えられている時間を無駄にしないように使っていきたいです。

育まれる命

2007-02-10 20:50:29 | 日記

今日は子供家庭集会「はこぶねクラブ」でした。初めての子供が2人も来て、総勢11人の子供が集まりました。
創作童話「謎の海底王国」の紙芝居をしました。30分近くかかったので、途中で飽きてしまうのでは?と少し心配でしたが、みんな静かに聞いていました。
この物語は、「はこぶねクラブ」のおかげで完成しました。数回に分けて連載で話していたのですが、登場人物が多く、ストーリーも複雑なので途中で放り出してしまいたくなりました。
子供に「先生、海底王国の続きは?」とせかされて、ようやく最終回にたどりつきました。


先日、息子夫婦がきて夕食を共にしました。嫁のT子さんに赤ちゃんが与えられています。

夕食後、胎児の超音波画像を録画したビデオを見せてくれました。今は病院でビデオに撮ってくれるのですね。頭や背骨、手足がはっきりとわかり、一生懸命動いていて感激しました。


息子は初めてこのビデオを見たそうですが、見ながら感動して涙を流していたのでびっくりしました。悲しいドラマを見ても決して涙など流さないのに……。
出産の時には仕事をぬけて立ち会いたいと言っています。出産の壮絶さと命の誕生の瞬間をしっかりと見つめて、よき父親になって欲しいものです。

ビデオを見ながら聖書の言葉を思い出していました。

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。
私のたましいはそれをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。(詩編139:13-16)


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ブックマークにありますので是非ご覧下さい。

ねじれた心が

2007-02-08 13:24:36 | 
知人が詩集を出版され、プレゼントとして送ってきて下さいました。心を打つものが多く、文学的質の高さを感じました。
触発されてわたしも久々に詩を書いてみました。詩集を出された知人とは天と地ほどのレベルの差がありますが……。昨日の記事の内容と関連することです。


ねじれた心が

ねじれて曲がったわたしの心
まっすぐにしたいと願うのに
石膏で固められたように動かない

これはひどい、ひどすぎる
こんなにねじれていたとは……と泣いたとき
かたい心が粘土のようになった

「どうかこのねじれをなおして下さい」と訴えると
心は揉まれて叩かれ
打ち付けられた

あまりの痛さに悲鳴を上げ
文句を言おうとしたとき

打ち付けた者の手が傷だらけで
わたしの心より痛んでいたことを知った

「ごめんなさい……どうしたらいいんですか?」と叫ぶと
心のねじれがひとつほどけていた

りんごの花が咲いたよ

2007-02-07 17:13:19 | 日記
このところ暖かい日が続いています。りんごの花が咲きました。このように可憐な花を造って下さった神さまに感謝します。


一昨日の「病んだままでいい」には大勢の方からコメントをいただき、有り難うございました。
わたしは乳癌、子宮筋腫、喘息で通院しているので体は病んだ者です。心はどうでしょうか? 心も病んでいます。

生まれて初めて嘘をついた3歳の時から(そのときのことをいまだにはっきり覚えています)心はねじ曲がっていきました。おとなしかったので素直そうに見えたようですが、実はかなりひねくれていました。



体が弱く、遠足と聞いただけで熱を出していた小学生の頃、「残念ね、お大事にってみんな言っていたわよ」と母親から告げられると「みんな、心の中でいい気味だって思っているんだよ」と答えました。
中学生の頃はもっとひねくれていました。「どうせわたしなんか……」と、いつもふてくされていたのです。

そんなねじ曲がった心でしたから、22歳でキリストを信じてからも、心はすぐにまっすぐになりません。でも、このねじれを治してもらいたい。癒されたい。罪を犯す前のアダムのようになりたいと切望し祈り続けてきました。


50歳になった今、自分の中にまだねじれているところがあるのを見つけて泣きました。自分の力ではどうすることもできないのです。どうかまっすぐにしてくださいと祈ることしかできません。こんなどうしようもない自分に絶望したとき、「病んだままでいいんだよ」とイエスさまの声が聞こえてきました。そして祈ったその時から癒しが始まっていることにも気づきました。


信仰による祈りは病む人を回復させます。主はその人を立たせて下さいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ5:15)


病んだままでいい

2007-02-05 13:53:04 | 乳癌

医療費控除の申請をしに税務署までいって来ました。昨年は、わたしの医療費だけで10万をはるかに越えてしまいました。9時からだと思い、ちょうど9時に行くと部屋は人でいっぱいでした。

それでも書類は主人にきっちりと書いてもらっていたのですぐに提出できました。
国税庁のHPからネットで申請もできるそうですが、税務署が自転車で行ける範囲の場所にあるので直接提出してきました。


そして今日は先週受けた血液検査の結果が出る日で、さきほど病院に電話をしました。検査結果を電話で聞けるようになって助かります。(乳腺外来だけなのかもしれませんが)今までは結果を聞くだけで2.3時間待たされていました。
ちょっと緊張して電話をかけると「血液検査の結果何の異常もありません。腫瘍マーカーも、そのほかの値もとてもいいです」と言われ、ハレルヤ!と叫びたくなりました。


父の病状を見ていて、腫瘍マーカーに異常がなくても癌が転移していることがあると知ったので、ほんとうは手放しでは喜べないのですが……。
癌の再発転移は検査で発見されるより、体調が悪くて来院してわかるケースが多いそうです。今、体調がよく元気なので大丈夫なのでしょう。

それでも腫瘍マーカーのちょっとした変化や、体調がすぐれないとき、すぐに恐れが沸き上がってきます。昨年は自分の弱さをとことん感じました。

昨日のメッセージで「教会はホスピスである」と聞いてほっとしました。ホスピスは病んだまま安らげるところです。教会は病院でもあります。教会に行って心の病が癒されることも多いです。でも、すべての病がすぐに癒されるわけではありません。


欠点、弱さ、醜さを隠す必要がなく、病んだままここにいていい。
と言ってくださっているので、わたしは安心して教会にいられるのです。

イエス・キリストの言葉

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)


出会い

2007-02-03 16:06:36 | 日記
今日は久しぶりに何の予定も入っていない土曜日。
主人に車を出してもらって買い物に行ってきました。


先日友人から「神に出会う」ことはどのようなことか? という質問のメールをいただきました。
以前は、「神に出会う」とは奇跡のようなことが起きたり、洗礼を受ける決心をしたときかと思っていましたが、それだけではないですね。
たとえば聖書輪読会でヘブル3章を読んでいたとき、7節の「きょう、もし御声を聞くならば」というところを読んではっとしました。明日ではなく今日御言葉を聞くことの大切さを示された気がしたのです。
こんな小さな事ですが、聖書を読んだり、本を読んだり、友と語り合ったり、メッセージを聞いていて、はっとさせられることがあります。それがわたしにとって「神との出会い」なので、毎日「神に出会う」経験をしています。


「人との出会い」にも神様が働いて下さっていると感じます。
ときどき友人と楽しくおしゃべりしているとき、『あれっ?この人は以前は全く知らない人だったんだよね。知り合う前に顔を会わせていたかもしれないけれど、すれ違うだけだった人と今こんなに心打ち明けて話している。不思議だなあ』と思います。神様が出会わせてくれたのです。世界に何億もの人がいるのに同じ時代に生き、同じ日本に住み、出会っている。なんと不思議なことでしょう。


ネットでの出会いも不思議です。ネットでは日本だけでなく海外からのアクセスがあるのですから、もっと範囲が広がります。『たまたまあなたのサイトに巡り会って……』とメールをいただくことがありますが、わたし以上に(自分で書いておきながら忘れていることもあるのです)記事の内容を詳しく把握しておられることがわかると、びっくりしてしまいます。何時間も読んで下さったのだなあと思い、感激します。

たまたまは偶然ではなく神さまの導きです。出会いによって生き方が変わることさえあります。ひとつひとつの出会いを大切にしていきたいです。


昨日久々にホームページ更新しました。ブックマークのいちばん上にありますのでご覧下さい。

手を上げて

2007-02-01 13:59:48 | 日記
りんごの花の蕾です。先月13日(教会での父の納骨式の日)真冬のりんご園で剪定したりんごの小枝が上野駅で配られていたそうです。ちょうど土浦にくるときに通りかかった妹がもらって持ってきてくれました。
窓辺に置き、ときどき霧吹きで芽に水分をやっていたら、蕾がふくらんできてもうすぐ咲きそうになりました。
今年も春がやってきたのですね。りんごの枝は神に向かって手を上げているようです。


昨日は茨城児童文学の会の集まりがあって、長編2篇の合評会をしました。1篇はわたしの作品。228枚という今までで最長の作品でした。ひととおり読むだけでも1時間以上かかるものを5回も読んでくださったかたがおられ、丁寧に分析してくださり、胸があつくなりました。色々な欠点を指摘されましたが、『筆力がある』と初めていわれて嬉しくなりました。これから書き直していきます。それは大変な作業ですが、ひとつの指針が与えられたことが感謝なことでした。


先日メールをくださった方に励ましの意味をこめて30日のブログにも書いた詩編91篇のみ言葉(聖書の言葉)を送りました。(「祈りは奇跡を生む」本田弘慈著(いのちのことば社)20ページに書かれていて、そのところを読んで感動したので……)
すると、ちょうどその日にその方の友人が家に来られて全く同じみ言葉を読んで祈って下さったそうです。聖書の言葉は限りないほどたくさんあるのに……なんということでしょう。
偶然ではありません。神様が働いて下さっているのです。
そして、このブログをみてくださっているあなたの上にも……。
この春、新しいことが始まりそうです。



私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。(哀歌3:41)


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