生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

今年の恵み

2007-12-29 09:39:29 | 日記

25日に娘が東京から戻ってきたのですが、翌日の夜から体調をくずしてしまいました。下痢嘔吐から始まって、38.5℃の熱。普段貧しい食事をしている娘にあれも食べさせたい、これもと料理を考えていたのに……。

病院に行かせようとしたら、保険証を持ってきてないと言うではありませんか。市販の風邪薬と胃腸薬を飲ませて様子を見ていたら、昨日から熱が下がりました。おなかの調子もよくなってきてほっとしました。

高熱が出たのは3年ぶりだと言いました。一人暮らしをしてから一度も熱を出したことがなかったのです。「こっちに帰ってきてからでよかったね」と娘と感謝のお祈りをしました。
その前は、息子一家が風邪をひいて、ヒックンも38℃の熱を出してしまいました。わたしは、2週間ほど前に風邪をひきましたが、熱も出ず、今回も大丈夫そうです。


先日は祈祷会で今年を振り返っての恵みを考えるときをもちました。わたしは、今年も『よかった探しリース』に参加させていただいたので、参加するときに今年のよかったことを10項目考えました。それに説明も加えて書き記したいと思います。


1)一年間健康が支えられたこと

乳癌術後4年たちました。何年たっても再発転移の可能性は消えませんが、どうしても術後の年数を数えてしまいます。いま、健康が与えられていることを感謝します。

2)主人の健康と仕事が守られたこと

主人が働いてくれるからこそ、わたしは書くことに打ち込めます。感謝。

3)初孫が与えられたこと
 
 3月31日に息子に男の子が与えられました。ブログ上での愛称ヒックン。
 おばあちゃんになることを拒否する気持ちが、孫を見たとたん吹き飛びました。

4)「ライフ・ライン」に出演させていただいたこと
 
太平洋放送協会のスタッフから1月末日に突然のメールをいただきました。わたしのHPをみて番組を作りたいということでした。天から降ってきたような事にただただ驚きました。そして、2月に撮影。3月に放映されました。

5)トラクト「よろこびの泉」にあかしと詩が掲載されました。

「ライフ・ライン」を見た「よろこびの泉」の編集者の方から執筆を依頼されました。

6)一人暮らしをしている娘の生活が守られたこと

一人暮らしの若い女性が殺されたなど恐ろしい事件があると、神さまに委ねているとはいえ、心配になります。2日も連絡がつかないと、いてもたってもいられなくなります。祈祷会では毎回、お祈りする相手の方に「一人暮らしの娘のことを祈って下さいと」頼んでいます。

7)3年ぶりに教会の夏期学校の奉仕ができたこと
 
泊まりがけで夏期学校の奉仕が出来るほど健康になったことを感謝

8)クリスチャン・ペンクラブの55周年記念会で奉仕させていただけたこと。

55周年が守られ、祝福のうちに行われたこと、メメントドミニの優子さんとお会いできたことも感謝でした。

9)「エデンの東」読書ツアーに参加できたこと

一昨日、ようやく最後の感想文が提出できました。

10)ペンライト賞に佳作入選し、「百万人の福音」に『心のフィルムに』が掲載されたこと。

去年、このブログで末期癌の父のことを書き綴ってきましたが、ブログを見ない人たちにも読んでいただくことができました。母や妹、親戚や母の友人にお配りし、福音を伝えられたことが大いなることでした。


この10項目以外にもまだまだたくさんの恵みがあります。OBIネットコースの学びが祝されたこと。子供クリスマス会のこと、児童文学の会のこと、家庭集会や聖書輪読会のことなど……挙げればきりがありません。また、今年はHPやブログ、「よろびの泉」を通してたくさんの方からメールや手紙を戴きました。神さまの祝福が溢れ出た年になりました。

訪れて下さった方々に心から感謝いたします。今年はたぶん今日が最後の更新になります。31日から息子一家が泊まりに来るので、おせち料理の準備をしなければなりません。
お正月は主人とわたし、両方の実家にも行き、大忙しになりそうです。

みなさま、よいお年をお迎え下さい。

言葉で傷ついたとき(パートⅡ)

2007-12-27 12:43:10 | エッセイ

22日に言葉で傷ついたときのことを書きました。傷つくとはどういう時なのか考えてみました。


わたしは、デリケートで傷つきやすい性格なので可愛そうだと自分を憐れんでいました。傷ついても決して表情に出さないので(出せないのです)他の人にはわかりません。人にはわからないけれど、こんなに傷ついているのだから、どうか傷つけるような言葉を言わないで欲しいと願っていました。でも、最近傷つきやすいというわたし自身の中に問題が潜んでいることがわかってきました。
「わたしは、傷つきやすいんだからね」なんて自慢げ(?)に言うことはできないのです。


傷つける言葉を言った人が悪いとはかぎりません。全くの誤解で傷ついてしまうこともありますし、ある問題を抱えていて、それに触れるような言葉を聞いたとき、傷つくことがあります。

また、独特のしゃべり方や特徴的な声を聞くと、その人とは全く関係なく、過去の痛みを思い出すということで傷つくこともあります。
発言者にまったく非がないのに勝手に傷ついて、勝手に怒りを燃やす人もいます。


人の言葉で心が傷ついたときは、よくよく自分の心を吟味する必要があるのです。
相手が故意に悪口を言った場合は別として、傷ついたときは、傷ついた人の側に問題がなかったか冷静に考える必要があると思います。


早口のAさんが、ゆっくり話すタイプのBさんにイライラし、「あんたが話すのを聞いているとむかつく」と言ったそうです。Bさんは深く傷ついて、「どうしたらいいの?早口でしゃべる練習をした方がいいのかしら?」と相談に来ました。
わたしは、「わたしはBさんのしゃべりかたが好きですよ。Bさんと話しているとほっとします。他にもそう思っている人がいるでしょう。Bさんはそのままでいいんですよ」と言いました。

Bさんが傷つくのはもっともなことです。むかつくなんて言われたら、わたしだって動揺します。でも、客観的に考えると、むかついたのはAさんであって、すべての人ではありません。Bさんがしゃべり方を変える必要は全くないのです。


十人十色といいます。性格も、感性も、能力も……。それぞれ神さまが与えて下さったタラントがあるのです。違いを認めあって、互いに尊敬しあって、傷つける言葉の代わりにいたわりの言葉を語り、互いに愛し合うようになりたいですね。


もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(Ⅰヨハネ4:12)

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

2007-12-25 15:52:05 | 
Moscow

23日の礼拝メッセージを聴いて書いた詩を紹介します。

もしイエスさまが来て下さらなかったなら   土筆文香


もしイエスさまが来て下さらなかったなら

わたしの心は闇におおわれていたでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

人間らしく生きることができなかったでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

身体も心も病んで、ボロボロになっていたでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

生きる意味がわからずに、あてもなくさまよっていたでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

ああ……わたしはとっくに死んでいました


聖書の言葉
きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)




キリストの灯火(ともしび)

2007-12-25 15:35:03 | 教会


The world's largest Christmas tree display up in the slopes of Monte Ingino, in Italy's Umbria region, made of about 500 lights connected with 40,000 feet of wire


メリークリスマス!!


今日はお昼からヒックンを預かっています。やっと昼寝をしてくれたので、合間に書いています。

昨日、23日のメッセージを紹介しましたが、その続きがあります。


牧師のS先生は数年前インドに行かれたとき、マザー・テレサの「死を待つ人の家」を訪れたそうです。
インドのカルカッタで多くの貧しい人が路上で死んでいきました。それを見たマザー・テレサは「死を待つ人の家」を作り、ひとりひとりを助けていきました。それはいのちを助けるためではなく、人間らしく最期を迎えることができるようにするためでした。
マザー・テレサの逸話が紹介されました。


アボリジニーのある居住区に貧しい老人がいました。彼は誰からも顧みられず、家の中は散らかり放題でした。
「家の掃除をさせてくださいませんか。」とマザーが言うと、「ほっどいてくれ」と老人は答えましたが、マザーとシスターは掃除をしたそうです。

そのとき、部屋に小さなランプがあるのに気づいたマザーは、「ランプをともさないのですか。もう使わないのですか」と尋ねました。
老人は「どうせだれも来ないから、つけてもしかたない」と言いました。
「もし、シスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」
「もちろんだとも」
彼はうなずきました。

その日から毎日シスターがその老人の家を訪問するようになりました。部屋を片づけ、身体をふき、話しかけました。
老人は最初心を閉ざしていましたが、次第に心を開き、語り始めました。シスターはじっと老人の語るのを聞いていたそうです。
それからしばらくして老人はシスターに言いました。「あんたがともしてくれた灯火は、それからずっとついているとマザーに言ってくれ」と。
灯火とはランプのことではなく、老人の心にともった灯火です。生きる気力が老人の心にともったのです。


昨夜教会ではキャンドルサービスとキャロリングが行われました。車の運転の出来ないわたしは、夜なので行けませんでしたが……。
今までに一回だけ友人の車に乗せていただいてキャンドルサービスに出席したことがあります。2001年のクリスマスイブでした。ちょうど小説を書いたときでしたので、キャンドルサービスの感動をラストに持ってきました。その小説がはからずも最初の入選となったのです。まだ土筆文香という名を戴いてない頃のことです。
小説のタイトルは『キャンドルの灯火』。本のタイトルは「ほほえみが生まれるとき」(クリスチャン新聞出版)です。

そのラストには次のように書いています。

「高田美咲にもらったキャンドルの灯火は、良美の心の中にもともった。ぽっかりとあいた心のすきまが埋まったような気がした」


美咲の心を傷つけてしまった良美。教会のキャンドルサービスで美咲から灯をもらったとき、暗い心に灯火がともったことを書きました。

それはわたし自身が、キリストに出会って心に迎え入れたとき、小さな灯火がともった経験からきています。
灯火がともって、ほんとうのいのちに生きることができるようになりました。灯火は消えることなく、いまでも心を照らし続けています。

それは、マザー・テレサに灯をいただいた老人と同じ灯火です。


あなたの心にもキリストの灯火がともりますように。

本当のクリスマス

2007-12-24 09:43:11 | 教会

Murano Island in Venice, Italy; home to the tallest glass tree in the world sculpted by master glass blower Simone Cenedese



昨日教会学校の分級(学年毎に分かれたクラス)でクリスマスビンゴゲームをしました。小学2年生のクラスで、クリスマスと聞いて連想するものを16考えて、ます目に書かせると……ツリー、サンタクロース、トナカイ等書く前に、イエスさま、マリヤさん、ヨセフさん、羊飼い、宿屋の主人……幼稚園のときクリスマス会でやったクリスマスページェントを思い出して書いています。さすが教会学校に通っている子供たちだと感心しました。子供たちは本当のクリスマスの意味を知っているのです。
「礼拝」「神さま」と書いた子供もいてはっとさせられました。
わたしは、それらのことばは書かなかったのです。くいしんぼうなので、ケーキとチキンなど食べ物を書きました。


礼拝と書いた子供たちは、赤ちゃんのころから家族で毎週礼拝を守っている子供たちでした。神さまと書いた子供は、よく祈っている子供です。
クリスマスと聞いてイエス・キリストを連想することはあっても、神さまを連想する人は少ないのではないでしょうか。でも、忘れてはいけませんね。
神さまが、痛みを感じながら、わたしたち人間のことを愛するが故にイエスさまを地上に送って下さった日、それがクリスマスなのです。


クリスマス礼拝では、クリスマスの真の意味についてメッセージをいただきました。


2000年余り前、イエス.キリストが存在していたということは否定しようのない事実です。ベツレヘムの馬小屋で生まれたイエス.キリストは、自分が神から派遣されたメシア(救い主)であることを人々の前で宣言されました。
イエスは大勢の群衆の前で「わたしが来たのは~のためです」と語りました。

1)わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないためです(ヨハネ12:46)
イエスさまは光として来たので、わたしを信じなさいと言われたのです。

2)だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)
わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)


パンも水も生きるためになくてはならないものです。わたしが与えるパンと水は人間らしく生きていくうえでなくてはならないものです。

3)医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。(マタイ9:12)
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マタイ9:13)


あなたは自分の弱さに涙したことがありますか?
あなたは、自分の醜さに震えたことがありますか?
あなたは自分の罪に打ちひしがれたことがありますか?
そのようなことがあるなら、わたしのもとに来なさい。休ませ、癒し、元気にしてあげよう。と語りかけて下さいます。

4)わたし来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。(ヨハネ10:10.11)

わたしがあたえるいのちは、生きる力を与えます。すなわち、生きがいを与え、生きる感動を与え、躍動して良きものを生み出す力を与え、良きものを沸き上がらせます。

光として、本当の食べ物として、癒し主として、いのちを与える者として来て下さったイエスさま。クリスマスはその方の誕生を祝う日です。


何て嬉しいことでしょう。もしイエスさまが地上に来て下さらなかったら、わたしはどうなっていたんだろう……と思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。


言葉で傷ついたとき

2007-12-22 17:42:13 | エッセイ

Prague's Old Town Square in the Czech Republic



今日台所の大掃除をしました。掃除は苦手です。でも年に1回くらいは換気扇をはずして洗わなければと思います。本当は年1回ではダメなのでしょう。洗剤液に2時間つけ置いたのに汚れが取れません。再びつけてそのままにしていたら、主人が洗ってくれました。


誰に何を言われても傷つかないようになるには、どうしたらいいのですか?と質問されました。その方はクリスチャンではありません。
わたしは、聖書を読んでイエス・キリストを信じて下さいと答えましたが、それは完全な答えではありません。なぜならクリスチャンになっても人の言葉に傷つくことがあるからです。


「ことば」は生物の中で人間だけに与えられたものです。新約聖書ヨハネの福音書の最初には「初めに、ことばがあった」と書かれ、神が「ことば(Logos)」であることを示しています。
言葉は、目に見えない心の動きや感情を表現することができますから、非常に大切です。その言葉を用いて人を励まし、勇気づけることもできますが、逆に人の心を傷つけてしまうこともあります。


今まで、わたしの口から出た言葉がどれだけ多くの人を傷つけてしまったかと考えると心が痛みます。面と向かって「傷ついた」という人は少ないので、こちらが気づかないことがほとんどです。ですが、何度かはっきり言われたことがあります。

以前、友人から「あなたの言葉で傷ついた」と言われて非常にショックを受け、自分の全人格を否定されたかのように落ち込んでしまったことがあります。わたしは「傷ついた」という友人の言葉に傷ついてしまったのです。

人との交わりを一切したくないと思ったほどです。ひとりになると涙が出て、テレビで殺人のシーンを見ると、殺される人はいいなあと思うほど鬱状態になっていました。


ヘンリ・ナーウェンの本「いま、ここに生きる」(あめんどう)を読んで鬱状態から脱却しました。
わたしはアイデンティティーが確立してなかったのです。「自分は何者か」がわかっていなかったのです。
「いま、ここに生きる」には次のように書かれています。



私たちはふつう、その問い(「自分は何者か」)に対して3つの答え方をしています。(略)その答えとは「自分とは、自分の行ったことだ」「自分とは他人からどう見られているかだ」「自分とは、自分の所有しているものだ」という答えです。

言い換えれば、「自分とは成功のことだ。自分とは人気者のことだ。自分とは権力のことだ」となります。

成功、人の歓心、権力に左右される人生はもろい、と悟ることはとても大切です。
この3つはいずれも、自分でコントロールすることが困難な外的要因だからです。(略)
イエスは成功、人の歓心、権力に基づいた自己は、偽りの自己であり、幻想だと伝えるために、この世に来て下さいました。大声ではっきりとイエスはこう語られました。「この世が与えるあなたの姿は本物ではありません。あなたの真の姿は、あなたが神の子どもだということにあります」


神の子とはどういうことなのでしょう。両親がいるのになぜ神の子なのだろう?と思われる方もいるでしょう。クリスチャンは神さまのことを天のお父様と呼びますが、創造者である真の父親が神さまなので、人間はみな神の子といえるのです。
イエスさまがヨハネから洗礼を受けたとき、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)という神さまの声が聞こえてきました。
神さまに愛されている子としてイエスさまがこの世に遣わされたことを意味しますが、同時にイエスさまを通してすべての人が神さまに愛されているということを示しています。

つまり、どんな過ちを犯しても、人から何を言われようとも、神さまから愛される価値がある人間なのです。何があってもその価値は変わらないのです。
このことがわかってから、言葉にそれほど傷つかなくなりました。

聖書の言葉

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
(イザヤ書43:4)
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。(エレミヤ31:3)

検索の不思議

2007-12-21 13:10:25 | 日記

Trafalgar Square in London




死んでしまいたいと思って、検索サイトに「だれかたすけてください」と打ち込んだら、土筆文香の『生かされて』という詩に行き当たり読ませていただきました。
というメールを戴きました。
詩を読んで「生かされている」ことが自分へのメッセージだと受け取ったと書かれていて、震えがきました。神さまが働いて下さらなければ、どうしてこのようなことが起こりましょう。

ネット上に文章を公開するということは、わたしが想像しているよりすごいことなのかもしれません。様々なワードで検索されるのですから不思議な気がします。検索のしくみはよくわかりませんが、人為的なものではなく、自動的にやっているそうですね。でも、その背後に神さまが働いておられることを感じます。


わたしがブログで書いた言葉……たとえば「ノルバテックス(薬名)」という言葉で検索して「生かされて」のブログを読むようになった方もおられます。乳癌が再発転移して悩んでいる方からのメールも戴きました。
検索サイトからわたしのブログを訪れる方は、クリスチャンのブログと知らずに読むこともあるでしょう。クリスチャンのサイトだとわかって、キリスト教はいやだと離れてしまう方もいるでしょう。


「だれかたすけてください」と打ち込んだ方はクリスチャンではありませんが、小学生のころ教会学校に通っていたそうです。わたしの詩に込められている真意を受け取っていただけて、とても嬉しかったです。A子さん、あなたのことを毎日祈っていますよ。


「よろこびの泉」に掲載された詩「死なないで下さい」を読んで救われましたと連絡を下さった方とは、半年近く文通をしています。心の病に罹っている方で、自殺願望があります。心の内を何枚ものレポート用紙にびっしりと書いて送ってきてくれます。
昨日は半日かかってその方に手紙を書き、ささやかなクリスマスプレゼントを贈りました。どうか、彼女の心に神さまの愛が届きますように。


メールや手紙のお返事を書くには深く祈らないと書けません。一行書いては祈り、祈っては書き……なので書くだけで一日を費やすこともありますが、このことを優先的にしています。その方と神さまをつなぐパイプとして用いられていると思うと、何よりも大切にしていきたいです。

わたしも中学生の時、お会いしたことのない中学教師との文通によって命が救われたのですから。
(くわしくは「生かされて…土筆文香」HPのエッセイのページ「書くこととわたし・1」に書いています)

平和の君

2007-12-19 16:43:13 | 教会

Red, White and Blue [on display at an unknown location]



今日の祈祷会はクリスマスの黙想でした。祈祷会で学んだことの一部を紹介させていただきます。


「エサイの根より 生いいでたる くすしき花はさきそめり わが主イエスの うまれたまいし このよき日よ」

これは、讃美歌96番の歌詞の一節です。
エ(ッ)サイの根とは、イザヤ書の救い主誕生の預言、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。(イザヤ書11:1)」からきています。

根株というのは、腐りかけている切り株のことで、新芽というのは、細い芽なのだそうです。若枝が出て実を結ぶとは、イエス・キリストが誕生するという意味です。エッサイというのはダビデの父親の名です。事実、エッサイの子孫、ダビデの家系にイエス・キリストが誕生しました。(マタイの福音書はその系図からはじまっています)

ダビデはイスラエルの統一王国を立てた王です。預言者ナタンによって「あなたの家とあなたの王国は、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」と約束されていました。
ところが、イスラエルはダビデの孫の代で南北に分裂し、後に外国に侵略されて滅んでしまいます。


前回も書いたようにイザヤが預言していたのは、イスラエルにとって暗い時代でした。ユダ王国は北イスラエルとアッシリヤに脅かされていました。絶望的状態の中で救い主が生まれるという預言がなされたことは意味深いことだと思いました。
南ユダ王国のアハズ王はアッシリヤに囲まれたとき、アッシリヤと手を結ぶか戦うか迷いました。イザヤは、まず、神を信頼すべきだと言いました。神に信頼していくとき、平和が必ず訪れるというのがイザヤのメッセージです。


神さまを信頼するというのは簡単なようでとても難しいことです。なぜなら神さまは、目に見えなくて、声も聞こえないからです。わたしはかつての過ちを思い出しました。

30年以上も前のことです。短大を受験して補欠の10番という結果にショックを受けました。当然合格すると思い他校を受けていなかったからです。電話で問い合わせると、毎年補欠の8-10番ぐらいまで繰り上げ合格になっているけれど、その年によって違うのでわかりませんとの答えが返ってきました。母は親戚の人で学校関係の人がいるから頼んでみて、ダメだったらお金でなんとか合格させてもらおうと言いました。
当時18歳のわたしは、それが悪いことと感じつつも合格したい一心で同意しました。

まだ信仰をもってない時だったとはいえ、黙って結果を待つことなどできなかったのです。
しかし、学校側からきっぱり断られて、逆にほっとしたことを覚えています。裏口入学したら、きっと在学中うしろめたい気持ちで過ごしたでしょう。

結果を待つ時間の長かったこと。夜になっても電話がないのであきらめていたら、午後9時に電話。「合格です。前の人が断ったから合格になったのです。よかったですね」と言った教務の先生の言葉が忘れられません。
こんなとき、神さまを信頼して神さまに委ねることができたなら、心は平安ですね。


祈祷会では、このあと絵本「この国が好き」(鎌田 實 作、木内達朗 絵)が朗読されました。日本は憲法九条が守られていたからこそ60年間平和だったのに、それを変えていこうとする動きがあることを憂いた文章です。孫に向かって語るという書き方で、憲法の問題がわかりやすく書かれています。
 

外国から攻撃されないために武器をとることが平和を守ることになるのでしょうか?本当の平和とは何でしょうか?
イエスさまは平和の君と呼ばれています。クリスマスを前に平和について考えさせられました。

インマヌエル

2007-12-17 13:07:01 | 教会

宣教師の先生から送られてきた世界のクリスマスの写真を戴いたので、何回か続けてアップします。今日の写真はニューヨークから。

The Christmas Tree in Rockefeller Plaza, New York City



教会学校のクリスマス祝会で、子供たちが心から賛美しているのを見て感動しました。「イエスさまに心をプレゼントする気持ちで賛美したら、イエスさまは喜んで下さるよ」と話したら、その言葉をそのまま素直に受け止めてくれたのです。


昨日の礼拝はイザヤ書7章からのメッセージでした。イザヤ書は、イエス・キリストが生まれる800年前に書かれたものです。その中には、降誕の預言が書かれています。

それゆえ、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと名づける。(イザヤ書7:14)


*インマヌエルというのは神がわたしたちと共におられるという意味です。


この聖書の言葉は有名ですが、どのような状況の時に語られたのか考えると、およそふさわしくない気がします。

そのころ、イスラエルは国が2つに分断されていました。ひとつは北イスラエル王国、もうひとつは南ユダ王国です。両国は対立していました。北イスラエルは近隣の国アラム、モアブなどと手を組み、ユダを滅ぼそうとしていました。
北イスラエルの王ペカがアラムの王レツィンと組んで南ユダを攻めましたが、攻め落とすことができないでいました。そのとき、南ユダの王アハズの心も民の心も木々が風で揺らぐように動揺した(7:2)そうです。エフライム(北イスラエルの別称)にアラムが加担したなら、勝つことは不可能だと思ってしまったのです。

そのようなときイザヤが、ユダの王アハブに向かって「恐れてはなりません。これらは燃えさしの木のようだから」と言い、さらに「しるしを求めなさい」と言いました。
ところがアハブは「わたしは求めません。主を試みません」と答えます。それは『イザヤの言うことが信じられない。ほおっておいて下さい』という意味です。
それに対して、イザヤはしるしを与えるといって
見よ、処女がみごもっている。……と言ったのです。

このとき神さまがされた処女降誕の約束を告げますが、実現するのは800年も後のことです。神さまの時間概念は、人間のものとは違うことを知らされます。

アハズ王にしてみれば、最大の敵の前にあって無力さを感じ、勝てると言われてもその根拠がないので信じられません。しかし、イザヤは勝てる根拠として処女降誕のことを語ります。

処女がみごもるということは、どう考えてもありえないことで、人には不可能なことです。でも、全知全能の神さまなら可能です。処女降誕を可能にできる神さまが、ユダ王国を勝利させることができないはずがないというわけです。


わたしは、このことを聞いて心がストンと納まるところに納まったという気がしました。今まで、処女降誕の預言が唐突だったので、そのことが不思議でならなかったのです。


「わたしたちは皆、アハズのような存在です」と牧師先生は言われました。敵に囲まれて生きているようなものです。浦和レッツのように無力で勝利の可能性がないところにいますが、神さまが勝利に導いて下さるのです。


どんなに挫折を味わっても、絶望的な苦しみの中にいても、不可能を可能にされる神さまが必ず助け出して下さるのだと知って深く感謝しました。


イエスさまが生まれたわけは?(その2)

2007-12-15 17:59:13 | 教会

今日は教会学校のクリスマス会でした。70名近くの子供たちが集まって、祝会が行われました。子供たちは学年ごとに歌や合奏、劇、ペープサートなどをし、教師たちはスライド劇をしました。

わたしの風邪はほとんどよくなっていて、咳もすっかりおさまったので、ちゃんとセリフが言え、賛美もできました。感謝です。
ほっとして、もうクリスマスが終わってしまったような気さえします。いえ、いえこれからが本番。明日はアドベント3週目です。


9日の礼拝メッセージから、なぜ神の子どもであるイエスさまが生まれたかについて昨日の続きを書きます。


創世記12:3には神さまがアブラハムの子孫を祝福すると一方的に約束して下さっています。その後も、神さまはモーセやダビデを通して祝福を約束しましたが、人々は神から背を向けてしまいます。

神さまは、預言者の口を通して神に立ち返るように呼びかけますがだめでした。
そのようなとき、神さまはご自分のひとり子を地上におくるという計画を立てて下さいました。神が人となるというのは、人間が蟻になるようなことです。
全知全能で無限なお方が有限な者となってくださったのです。

神の子が人間の世界に来て下さったのに世は受け入れませんでした。ヨセフと身重のマリヤを迎え入れる家はなく、家畜小屋で出産することになったのです。
そこにはあたたかいベッドもふとんもなく、イエスさまはかいばおけに寝かされました。
クリスマスは、神の片思い。神の人間に対する熱烈な想いが成し遂げたできごとです。


メッセージを聞いて、神さまがご自分のひとり子、イエスを人間の赤ん坊として生まれさせて下さったことがものすごいことだと改めて感じました。神さまが人間のことを熱烈に愛していなければ、そのようなことはなさらなかったでしょう。

もしわたしが、踏みつぶされたらすぐに死んでしまうような小さな蟻になってその世界で生きなさいと命じられたらどうでしょう? しかもその世界では暖かく受け入れてもらえず、最後は死刑になるのです。でも、その蟻たちがいとおしくてたまらないから行っておくれと神さまに言われたら、「冗談じゃありません。そのような所に行きたくないです」とわたしなら答えるでしょう。

でも、イエスさまは地上に来て下さいました。赤ん坊という最も無力な存在として、最も貧しいところに来て下さいました。わたしたちの身代わりとなって十字架につけられて死ぬという使命を果たすために来て下さいました。

何という神さまの熱心! 神さまの一方的な愛!


イエスさまが生まれたわけは、神さまが一方的に熱烈に人間を愛したからです。


神さまの片思いのままで終わらせたくないです。神さまの熱烈な愛に応えていきたいです。

              おわり


結城浩さん主催2007年12月1日~年12月25日のクリスマス限定企画の
「よかった探しリース」に参加させていただきました。
わたしのよかったことはこちらをご覧下さい

イエスさまが生まれたわけは?(その1)

2007-12-14 12:28:54 | 教会

昨日電話で娘に「風邪ひいちゃったの」と言うと、「風邪ひいたって、流行語? 会う人、会う人が同じこと言うよ」と返事が返ってきて大笑いしました。
はやっているのは言葉じゃなくて、風邪なのです。とっくにわかっていることですが、冗談めかしていうのを聞いて、なんだか嬉しくなりました。娘の心が元気だという証拠です。

風邪による体のだるさは癒されてきましたが、まだ咳が出ます。気管支が弱いので、咳き込むと止まらなくなるのです。明日は教会学校のクリスマス会。教師の出し物としてスライド劇「三本の木」を行いますが、わたしは2番目の木のセリフを担当しています。声がかれないように日に何度もうがいしています。


クリスマスは神のひとり子、イエス・キリストの誕生日です。サンタクロースの誕生日ではありません。
なぜ神の子どもであるイエスさまが生まれたかについて9日の礼拝メッセージで語られたことを感想を交えて2回に分けて紹介します。


聖書のいちばん最初に書かれている言葉は初めに神が天と地を創造した(創世記1:1)です。1:27には神はこのように人をご自身のかたちに創造されたと書かれています。ご自身のかたちというのは、外見ではありません。神に似た性質をもつ者として人間を造られたということです。
神に似た性質とは、知、情、意をもつ。真、善、美を求める。自分の意志で生きるという性質です。

自分の意志で生きる者とされたというのはすごいことですね。でも人間は、その自由意志があるために神のいいつけにそむき、神さまから禁じられた実を食べて、エデンの園から追い出されてしまいます。その後も、人は神にそむいてばかりいます。


かつてわたしは人に自由意志を与えなければいいのにと思ったことがありました。ロボットのように心まであやつれば、神さまだって楽なのになあと……。
でも、それでは人は神さまの道具となってしまい、神様の愛の対象とはならないと聞きました。


神さまのいいつけにそむいて木の実を食べてしまったアダムとエバは、木の間に身を隠します。そのふたりに神さまの方から声をかけます。「あなたは、どこにいるのか(創世記3:9)」
人は呼びかけに答えますが、言い訳をし、他人のせいにします。

この神の方から人をもとめる。人の方は神をふり向かないという関係がずっと続きます。
聖書は、神の人間への片思いが描かれているのだそうです。  
               
つづく

追記

一昨日の記事にたくさんの方々からのお祝いの言葉をいただき、有り難うございます。ひとりひとりにコメントできなくてごめんなさい。この場を借りて感謝の意を表します。小さき者のあかしが神さまの栄光のために用いられますように。

「心のフィルムに」の最後に、「美しい記憶」と書いているのは、「カラマーゾフの兄弟」アリョーシャのセリフからの引用です(カラマでは追憶)。去年は「カラマーゾフの兄弟」の読書ツアー(感想を9名の方とメールでやりとりしていました)に参加し、父を見舞う電車の往復で本を読んでいました。そして、父が召された後、アリョーシャのセリフを読んで大いに慰められたのです。

「百万人の福音」はいのちのことば社HPから申し込めます。




心のフィルムにが「百万人の福音」に

2007-12-12 17:40:36 | 日記

「百万人の福音」1月号(いのちのことば社)が発行されました。「百万人の福音」はキリスト教の月刊誌です。ペンライト賞佳作に入選した「心のフィルムに」が1月号に掲載されています。(これは本名で出しました)

「心のフィルムに」には、父が末期癌だとわかった去年の春から父が召された10月までの間のことが書かれています。実家に帰って父と会うたびにこのブログで書き綴っていました。(現在は消しています)それをまとめてペンライト賞に応募したら、小さな賞を頂いたのです。神さまからのプレゼントだと思って感謝しています。

この間、母と父のことを話しても涙が出なくなったと書きましたが、これを読み返すとやはり涙が出ます。細かいところまで思い出すからです。

父は口ではっきりと信仰告白をしていませんし、洗礼も受けられませんでした。でも、今回の入選は、確かに父がキリストを信じて天国へ行ったのだということを証明してくれるものとなった気がします。そういう意味でとても嬉しいのです。
母も喜んでくれ、親戚や友人に送ると言って12冊も買ってくれました。これを読んだ人たちが神さまを見上げることができますように。

もっと書きたいことがあるのですが、風邪をひいてしまい体がだるいので、今日はこのへんで。


4年たちました

2007-12-10 14:02:33 | 乳癌

今日は乳腺外来へ診察に行ってきました。乳癌手術したのは2003年12月8日ですから、まる4年たったのです。血液検査の結果は異常なしで、ほっとしました。ここまで、守られたことを神さまに感謝しました。
ノルバテックスを4年飲み続けていますが、今後飲む薬について5通りの選択を迫られました。

ノルバテックスをあと1年飲んでから、新しい薬(薬の名を忘れました)をさらに5年飲むというのが、いちばん再発リスクが低いのだそうです。これからすぐ新しい薬に切り替えて1年飲んでやめるという選択もできます。

思わず「新しい薬の値段は?」と聞いてしまいました。ノルバテックスと大体同じだというので、いちばん再発リスクの低いものを選びましたが、あと6年も薬を飲み続けなくてはならないと思うとがっかりです。


アメリカで乳癌の手術を受けた方は、術後、薬はなしだったそうです。また、別の友人は薬を拒否して何の治療もしていないそうです。
薬を飲んでも飲まなくても再発転移するときはするのだから、薬をやめた方がいいのかなとも思います。でも、たいした副作用もないので、ようすを見ながら飲み続けることにしました。

次回は3月で、1年ぶりにエコーとレントゲンで検査します。それがクリアーできたら、万歳です。


教会でチャペルの掃除奉仕を申し出ていました。人手不足と聞いていたのに
なかなか返事をいただけないので、なぜだろうかと思っていました。
昨日係りのIさんに「チャペルの掃除は椅子を全部動かして掃除機をかけないといけないから、あなたにはきついと思って……チャペルより教育観の2階の方がいいのでは?」と言われました。

そういえば、わたしは左のリンパ節を切除しているので、左手で重い物を持ってはいけないのでした。チャペルの掃除は乳癌手術前にしていたのですが、そのときは難なく椅子を運んでいました。椅子運びがあると知りながら、何の考えもなく奉仕を申し出ていたのです。無謀ですね。
Iさんの方がわたし自身より、わたしの身体のことを考えてくださっていて……涙が出るほど嬉しかったです。


さきほど日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHPを更新しました。11月24日に関東ブロックのクリスマス会で創作童話『ミミとホホロの地球旅行』(三浦喜代子作)をパネルシアターに合わせて朗読しました。そのときの文章と絵を掲載しました。ぜひご覧下さい。

            ***************

夕方JCPのHPを確認したら、画像がアップされてないことに気づきました。いろいろ調べて、jpgが大文字になっていないことが原因だとわかりました。ソースを書き直してようやくアップしました。
今日、14時から17時の間にJCPのHPをご覧になった方は、申し訳ありませんが、もう一度ご覧下さい。画像が見られるようになりました。

実家の大掃除

2007-12-08 17:55:50 | 家族

さきほど実家から戻ってきました。
昨日は娘も来て、母、娘とわたしの親子三代で大掃除をしました。
洗剤を捜していたら、4年くらい前に父が買った洗剤が出てきました。粉状になっていて水で溶いて使う洗剤です。万能洗剤と書かれていました。きれい好きな父は、自分で買ってきて家の中のあちこちを掃除していたそうです。半分ほど減っていましたが、まだたっぷり残っています。


そういえば、思い出しました。3年前現在のマンションに引っ越したとき、父がこの洗剤を分けて持ってきたのでした。その1か月後に大動脈瘤の手術を受けているので、父がこのマンションに来たのはそのときが最初で最後でした。
父が召される半年くらい前からは、掃除もできなくなっていましたが、汚れているところは気になっていたようでした。わたしが実家に行ったとき、台所のレンジフードをふいたら、父がとても喜んだことを思い出しました。
今回もレンジフードを父の洗剤で磨きました。
「お父さん、きっと喜んでいるね。」
と母と話して、その後、父の思い出話に花が咲きました。


そして、はっと気づいたことは、母もわたしも父のことを話しても涙ぐんだりしなくなったということでした。もちろん、寂しさは感じます。もし、生きていれば曾孫を見てどれだけ喜んだだろう……などと考えると、胸がズキズキします。
でも、涙なしで父のことを語り合えるようになったのです。いつの間にそうなったのかわかりませんが……。


先月祈祷会でグリーフワークの学びをしました。愛する人を失ったとき、悲しみの対処法について、グリーフワークの10段階を教えていただきました。学びの通り10段階を経たわけではありませんが、母が父の死後1年余りで現実を受け入れられるようになっていることを感謝しました。
祈祷会のレジメに書かれていた文章の一部を紹介します。「すばらしい悲しみ」クレンジャー・E・ウェストバーグ著 地引網出版の「はじめに」より。


大切なものを失って嘆き悲しむのは、ごく自然なことです。時には失ったものがあまりにも大きくて、人生の土台が揺らぐほどのショックを受け、深い絶望の淵に投げ込まれてしまうこともあります。……私たちがもっと上手に悲しみに対処していくために、共に悲しみのプロセスについて学んでいきたいと思います。

確かに信仰はあらゆる悲しみに対して重要な役割を果たします。しかし、一部の人々が考えているような方法ではありません。彼らは強い信仰を持った人間は悲しまないし、そういったものは超越していると考えているようです……敬虔な信仰においては『真の信仰者は嘆き悲しまない』とは言いません。むしろ、悲しみには良い対処と悪い対処の両方があり、その人が人生で最も大切だと考えていることが悲しみ方にも表れてくると主張しているのです。

自らの喪失を正面から見つめ、その問題と前向きかつ誠実に取り組んで闘う人は、悲しみの体験を通してより強く深みを増した人間になり、他の悲しみにある人々をより効果的に助けられるようになることがわかってきました。

コメント受付再開しました

列王記を読んで

2007-12-06 14:31:39 | お茶の水聖書学院

今日は教会の家庭集会のクリスマス会でレインボーミュージックジャパンのコンサートがあり、母と一緒に行って来ました。すばらしいコンサートでした。主を心からほめたたえているその賛美に胸が熱くなり、涙がこぼれました。

これから、母と一緒に実家に向かいます。大掃除の手伝いをしてきます。土曜日には帰ってきますが、留守の間コメントは受け付けない設定にしておきますので、帰ってきましたらまたよろしくお願いします。


お茶の水聖書学院ネットコースで学んでいることのほんの一部を紹介させていただきます。

今、旧約聖書の列王記を学んでいます。昔、イスラエルには王がありませんでしたが、民衆の希望でサウルが王としてたてられました。でも、サウルが神さまに従わなかったので、神さまは預言者サムエルによってダビデに油を注ぎ、ダビデを王としました。ダビデが苦難の後、ダビデ王朝を築き、その子ソロモンのとき国は大いに繁栄しました。でもソロモンの子、レハブアムの代で国は南北に分断されてしまいます。


列王記には分断後の北イスラエルと南ユダ王国の王の名が連ねられています。
読んでいると、北と南が交錯しており、しかもヤロブアムとかエホヤキムとか舌をかみそうな名前が出てきます。また、ヨアシュやヨラムのように同じ名の人が北イスラエルと南ユダにもいるのですから混乱します。
学んでいて次第にその混乱がなくなり、すっきり整理されてきました。今、一生懸命南ユダの王の名を順に覚えています。さびついて記憶力のにぶった頭なので、なかなか覚えられませんが……。


列王記には、北イスラエルと南ユダ王国の王が神さまの目にかなうことを行ったか、それとも悪を行ったかについて書かれています。王のなした功績や国の繁栄よりもこのことが重点的に書かれているのは、神さまの視点から見て大切なことは何かを示しているように思います。
イスラエルの多くの王たちは偶像礼拝をし、金の子牛を拝み、まじないをしました。何度も主は警告し「このようなことはしてはならない」と命じておられるのにもかかわらずです。イスラエルはついに滅ぼされてしまいます。


一方南ユダは、北イスラエルより長く続きます。それは、神さまの目にかなったことをした王がいたからでしょう。でも、結局ユダもバビロンによって滅ぼされてしまいます。エルサレムは焼かれ、人々は捕囚としてバビロンに連れて行かれます。

南ユダ王国が滅ぼされたところを読むと胸が痛みました。
「ユダを主の前から取り除くということは、実に主の命令によることであって」
と書かれていますが、愛と赦しの神さまがなぜ? 神さまがダビデに約束されたことはどうなったの? と思いました。

そのような中で、エレミヤは70年の後に解放されることを預言します。イザヤはイエス・キリストがダビデの子孫から生まれることをはっきりと示します。そこに神さまのなさることの確かさを感じます。人はなかなか約束を守り通すことができませんが、神さまは約束を必ず守られるかただということを教えられました。
また、歴史を支配しておられるのは神さまだということもはっきりと示されました。


今まで列王記は、ややこしい王の名がたくさん出てきて、読んでいてもさっぱり意味がわかりませんでした。現代の日本に生きるこの者と、どうかかわりがあるのだろう?と思っていました。けれども、そこに隠されているメッセージがあったのです。
列王記を読んで、人間として生きるのにいちばん大切なことは、
「何をなしたか」
ではなく、「神さまに対して忠実であったかどうか」「神さまをどれだけ愛したか」であることを教えられました。

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