生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

一大事

2014-04-30 15:42:20 | 日記
昨日、インターネットエクスプローラー(IE)が危険だというニュースが入りました。一大事だと思いました。
IEとはインターネットのサイトを閲覧するソフトで、PCを購入するとたいていこのソフトがついてきます。(水色のeに黄色の輪がかかっているようなマーク)

今まで何の疑いもなしにIEからネット検索をしていたのですが、これまででも絶対安心というわけではなかったようです。

今、IEを使っているとどんな危険があるかというと、正規のウェブサイトが改ざんされる恐れや、使用者をだまして悪意のあるウェブサイトを見させて、遠隔で操作されてしまったり、データを流出させることがあるそうです。

米国のマイクロソフト社は、現在IEが危険なので、IE以外の閲覧ソフトを使うように呼びかけているそうです。
2週間ぐらいすると、マイクロソフト社から修正プログラムが出されるので、それまで閲覧しなければいいのですが、Gメールも使っているのでそういうわけにいきません。

IE以外の閲覧ソフトとは? IEが使えないなら、それを調べることもできません。
教会で何人かの方に聞きました。そのニュースのことを知らない人がほとんどでした。

Firefoxかgoogle chromeかoperaをダウンロードして使うと良いと言われましたが、ダウンロードするにもIEを使わないとできません。
スマホでダウンロードして、USBに保存し、USBからインストールできると聞きましたが、スマホを持っていません。
GoogleのHPなら大丈夫かもしれないと思い、IEで開き、google chromeを無事ダウンロードすることができました。

このことを一大事と思うのは、日本クリスチャン・ペンクラブのHPを作成しているからです。
また、ペンクラブでほかの方から預かった大切な原稿を保管しているので、PCがウイルス感染すると、大変なことになるからです。外付けハードディスクにバックアップはとっていますが、流出してしまったら困ります。

企業や組織なら、ものすごい被害が出ることでしょう。
どうか、ウイルスが広がりませんように。



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ピース・チャイルド

2014-04-28 20:12:47 | 教会
昨日は聖餐礼拝でした。
神との和解についてのメッセージが語られました。

『神との和解』と聞くと、神に敵対しているわけでもないのになぜ和解が必要なの?と思われる方がいるでしょう。
『キリストを信じるということは、キリストを信頼することです。キリストを敬わないことは、侮辱していることです。創造者を礼拝しないことは不敬にあたります。神から期待されているのに従わないのは不従順です』と聞いてドキッとしました。

信頼するとは、他のものを頼りにしないということです。少しも疑いの心を持たないということです。わたしは心からキリストを信頼しているのでしょうか。礼拝を捧げていても真心を持って捧げているでしょうか。かたちだけになっていないでしょうか。神様に対していつも従順だったでしょうか……そんな自問をすると、足元がくずれていくようです。

『神を神として愛していないことは的外れなことで、それは罪です』と牧師先生が言われるのを聞いて、自分は罪人なのだと改めて思いました。

聖書には「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず……(ローマ3:23)」と書かれています。
それでは、どうしたらいいのでしょう。

神様と和解する必要があります。でも、そのためにわたしたちがしなければならないことは何もありません。
イエスキリストによって、すでに和解が成立しているからです。

1960年代、宣教師のドン・リチャードソンが奥さんと共にパプアニューギニアの地へ行ったときのことが紹介されました。

伝道は難しく、リチャードソンが十字架のことを話すと、現地の人たちは笑ったそうです。身代わりの死は愚かだという価値観があったからです。

部族同士の争いがあって、それが何年も続きました。ようやく部族間での和解が成立するとき、サウィ族にタロップ・ティムという習慣があることに気づき、ドン・リチャードソンは驚きました。

タロップ・ティムとは『和解の子』という意味で、和解のしるしとして、生まれたばかりの子どもを互いの酋長に渡して交換する儀式です。その子どもが生きている間は争いをしないのだそうです。

このことを糸口として、ドンは神が永遠の和解のいけにえとして送ってくださったイエス・キリストを伝えていきました。すると、ようやく人々の目が開かれていったのです。

「ピース・チャイルド」という題名の映画になっているそうです。

赤ちゃんを差し出すとは、その母親は引き裂かれるような思いだったでしょう。お互いに赤子を差し出し、敵だった部族の赤ちゃんを大切に育てることによって平和が保たれるのですから、まさにピース・チャイルドですね。

神さまは、和解のためにひとり子イエスのいのちを差し出してくださいました。こちらからは何も差し出さないのに……。

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。(Ⅱコリント5:18)」



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その指先から

2014-04-22 16:45:34 | 
一昨日はイースターでした。イースターとは、救い主イエス・キリストの復活を祝う日です。

イエス様の復活を信じない人が多いです。証拠がないと言います。でも、復活しなかった証拠もないのです。わたしは信じます。確かにイエス様は復活されました。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」

礼拝メッセージを聞いていたら、なぜかわかりませんがイエス様の指先がイメージされました。

その指先から

その指先が形造り
その指先から生まれ
その指先で守られ
その指先に愛(め)でられ
その指先に導かれてここまで歩いてきた

右へ左へ動く指先
右へ動くとき、日は照り輝き
左へ動くとき、嵐がやってくる
犬が飼い主のようすを伺って片時も目を離さないように
いつでもじっと見つめていたい

指先から落ちる雫
ドロップのように甘い雫
吐き出してしまいそうな苦い雫
どんな雫でも一粒もこぼさずに喜んで受けたい
主の指先からこぼれるものはすべてよいものだから




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無力さを知ったとき

2014-04-19 21:05:48 | 日記
今日から筑波実験植物園でさくらそう展が始まりました。「花を見に行って、どうするんだ」という主人をせきたてて、出かけました。




上の写真はすべて種類の異なるさくらそうです。遠くから見ると同じように見えるのですが、花びらのかたち、色などがそれぞれ違っています。

同じ種類のものでもどれひとつ同じものがありません。神さまがひとつひとつデザインして造ってくださったのです。とてもいとおしく思えました。


植物園には、実にたくさんの種類の植物が植えられていました。八重桜が満開で、つつじもきれいに咲いていました。



昨日、家庭集会で信仰者の証しを聞かせていただきました。証しを聞いて思ったことは、自分の力で何とかしよう、何とかなると思っているときは、心がかたくなになっていて神様に心を開くことができませんが、自分の無力さを知って、自分の力では何もできないとギブアップしたとき、心が開かれるということでした。

クリスチャンになってからも、それは繰り返されます。
順調にことがすすんでいると、自分の努力の成果だと思って傲慢になります。
でも、思わぬ禍が起きて、自分の無力さを知ったとき、神様を求めます。そしてうまくいったとき、また傲慢になるのです。

恵まれた環境にあって、挫折を経験しない人は、成功者と言われるかもしれません。でも、その人が神様に背を向けているのなら、悲しいことです。

子どものころから体が弱く、何度も病気していたわたしは、無力さと挫折感をたくさん味わってきました。乳がんになってからは、明日にでも再発転移するのではないかという不安の中にあり、神様の守りがなければ一日たりとも生きられないことを知って神に頼る毎日です。

人生で大切なことは、何かを成し得たことではなく、神様に心が向いているかどうかだと思いました。



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ほかの重荷を負わせない

2014-04-16 20:11:41 | 教会
この数日、捜し物ばかりしています。ひとつが見つかると、別のひとつがなくなるといった具合です。今やったことを忘れて同じことを繰り返してしたり、何度も同じことを言ったり。
ものすごい勢いで頭が老化していくようで、恐ろしいです。忘備録を作っていますが、それを見ていても記憶から消えてしまうのはなぜでしょう……。


今日水曜礼拝で聞いたこともすっかり忘れてしまいそうなので、ポイントだけ書き留めておくことにします。
新約聖書の黙示録は、一世紀の末にキリスト教迫害の中にあってヨハネがパトモス島で書いた手紙です。
約2000年前に書かれたものですが、当時の教会の人たちに対してだけでなく、終末に直面する教会に対して書かれ、同時に今を生きるわたしたちに向けられてもいるそうです。

ヨハネはアジヤにある7つの教会に手紙を書きました。
その中でテアテラの教会へあてた手紙について学びました。
「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる(黙示録2:18)」

『燃える炎のような目』『光り輝くしんちゅうのような足』は、イエス様のことを示しています。そのまま想像するとちょっと怖いですが、外見を表しているわけではないのです。

目は、イエス様がテアテラ教会の長所と短所を見ていることを意味しています。
足とは何かを行っていく力です。イエス様が行動されたように教会は悔い改めたり、主の業を守ることを期待されているのです。

テアテラ教会には4種類の人がいました。①イゼベルと呼ばれる女預言者。②イゼベルの子どもたち。③イゼベルと姦淫を行う者たち。④イゼベルの教えを受け入れない人たちです。

イゼベルは旧約聖書に出てきます。北イスラエルの悪王アハブの王妃で、バアル礼拝をイスラエルに持ち込み、民を惑わせた人です。
女預言者にその名がついているということは、テアテラ教会で人々を惑わせていることを示しています。イゼベルはキリスト教信仰を持ちながらも同時にこの世の価値観や世俗主義を容易に受け入れました。

主は悔い改める機会を与えたのですが、イゼベルは悔い改めようとしませんでした。

②のイゼベルの子どもたちとは、子どもではなく、イゼベルの教えの信奉者たちのことです。この人たちもイゼベル同様悔い改めようとしませんでした。

③のイゼベルと姦淫を行う人たちとは、偽りの教えに惑わされ、世と妥協し、罪に陥った人たちのことです。
主はこの人たちにも悔い改めを迫ります。

④のイゼベルの教えを受け入れない人たちというのは、女預言者イゼベルの誘惑に屈せず、彼女の教えを受け入れようとしなかった人たちのことです。
世俗の価値観が根強く残る商業都市テアテラにおいて、純粋な神への信仰を貫き通した人々がいたのです。

「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。(黙示録2:24)」

「ほかの重荷を負わせない」と書かれているところに心打たれました。

「わたしはあなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。(黙示録2:19)」
テアテラに対する主からの賞賛です。

テアテラ教会はイゼベルやその信奉者たちが大きな罪を犯していましたが、その中に純粋な神への信仰を貫き通した人々がいたのです。その人たちがいたからこそ賞賛され、主からの励ましと約束の言葉が届けられたのですね。


また、励ましの言葉として「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい(黙示録2:25)」と書かれています。

持っているものとは
『主をあかしし、福音を伝え、教会と隣人に仕え、愛と信頼を抱き、苦しみや理不尽に耐え、神の深みに達することを求めて生きること。』です。

わたしたちもそれを持っているのだと知らされて嬉しくなりました。理不尽や苦しみに耐えるのはつらく、何もかも投げ出したくなってしまうことがありますが、イエス様がしっかりと持っていなさいと言われるのですから、そうしたいと心から願いました。

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すばらしい宝物

2014-04-12 20:29:12 | CS(子供伝道)
今日は子ども家庭集会でした。月に一度、土曜日の午後に教会学校に来ているMちゃんの家に友達が集まってきます。I先生とわたし、ときには落語をしてくださる長老、教会学校の若い先生も訪れます。ゲームをしたり、聖書のお話を聞き、賛美をして楽しい時間を過ごしています。ゲームというのはテレビゲームではありません。ピンポン玉やペットボトル、トランプ、ハンカチなどを使ってする集団ゲームです。毎回考えて準備していきます。

子ども家庭集会はふだん教会学校に来ていない子どももやってきます。

今日はわたしがお話をしました。「すばらしい真珠を見つけた人(高見澤潤子著)教文館」という絵本を読みました。その絵本はイエス様のたとえ話をもとに書かれています。商人がすばらしい真珠を捜して旅をし、みつかったとき、全財産を売り払って真珠を手に入れたという内容です。

絵本を読んだあとで以下のようなお話をしました。

あなたは宝物を持っていますか? どんな宝物ですか?
このお話は、イエス様のたとえばなしです。イエス様は神様のこと、神様の国のことを人々に話すとき、わかりやすいようにたとえ話をされました。
財産すべてを投げ打ってでも手に入れたかった真珠とは何のことでしょう……。

わたしたちの心には罪があります。罪とは嘘をついたり、友達に意地悪してしまったり、あんな人いなくなればいいのにと心の中で思ったりすることです。罪をなくしたいと思っても、自分の力ではなくすことはできません。このままでは罪のために滅びてしまいます。

でも、神様はご自分のひとり子を地上に生まれさせてくださいました。それがイエス様です。イエス様を信じれば罪が赦されるのです。

どうして信じるだけで罪赦されるかというと、イエス様が十字架にかかってくださったからです。わたしたちの罪に対する罰をわたしたちに代わって受けてくださったのです。

イエス様は十字架で死にました。でも、三日目に墓の中からよみがえりました。
十字架のおかげで、わたしたちはイエス様を信じるだけで神のみ国でずっと神様と一緒に過ごすことができるようになりました。

それが宝です。イエス様はこんなすばらしい宝をくださいました。
この宝をいだたいているわたしたちは、どんなにすばらしい真珠や金銀宝石などよりも価値のあるものを持っているのです。


お話の後、「ぼくの宝物」を賛美しました
歌詞を紹介します
     
ぼくの宝物

イエス様がくれた このくちびるで
イエス様を賛美しよう
今日も注がれる 限りない愛
心から感謝ささげよう
ぼくの宝物はイエス様を知ったこと
イエス様と一緒に生きること
わたしの宝物はイエス様を知ったこと
イエス様と一緒に生きること


イエス様と出会ったことがわたしの宝物です。ほかのものは何もいりません。イエス様という宝が与えられているすばらしさに感動し続けています。この思いが子どもたちに伝わったでしょうか。

聖書の言葉
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 (ピリピ3:8)」 



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永遠のいのち

2014-04-09 21:07:11 | 教会
昨年の10月から水曜礼拝では「使徒信条」の学びをしています。20回にわたって学んできましたが、今日最終回を迎えました。「使徒信条」とは、キリスト信仰の内容を示したもので、信仰告白文です。

使徒信条を紹介します
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、
生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。 
 アーメン。


使徒信条は、礼拝の中で唱えますが、一文一文に深い意味のあると教えられました。

最後に「永遠(とこしえ)のいのちを信ず」と書かれています。

若いころ、永遠のいのちとは何だろう……と思っていました。
ちょうど銀河鉄道999の映画が上映されていたころでした。
映画を観て、永遠のいのちとは死なない身体になることで、それを得ても必ずしも幸せとは限らないと思いました。限られた時間を生きているからこそ、幸せと感じることもあるのだと考えていました。


でも、聖書に示されている永遠のいのちとは、そのような意味ではないのです。永遠とは時間の無限の延長ではなかったのです。

「「永遠のいのち」とは、「もの」ではなくて、「神と共にいる状態」のことです。」と牧師先生が言われました。
聖書には次のように書かれています


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」

永遠のいのちを持つことは、神の国に入る、神の国を見るということになるそうです。

永遠のいのちは「もの」ではなく、神ご自身の中に包んで、いつまでもその状態でいてくださることです。


神様自身の中に包まれ、その状態がずっと続くのなら、このうえなく幸せでしょう。

そんな幸せな気分を地上でも味わう瞬間があります。
美味しい物を少しだけ試食するような感じです。
そんなときは、すでに永遠のいのちをいただいていると言えるのですね。


「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:13-14)」


写真は教会へ行く道、帰り道での散りゆく桜。



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お久しぶりです

2014-04-06 17:28:53 | 日記

しばらくぶりにブログ更新します。

ヒックンは一週間我が家にいて、昨日ママのところへ帰って行きました。

ヒックンがいると、ほとんどPC作業ができません。メールとコメント欄をチェックして返事を書くのが精いっぱいでした。
夜、ヒックンが寝てから自分の時間がとれると思っていたのですが、絵本を読み、お話をしてあげながら疲れてヒックンより先に寝てしまっていました。

4月1日には川崎にある藤子F不二雄ミュージアムに行ってきました。
日時指定の完全予約制なので、先月予約してチケットを購入していました。天気が悪くても、風邪をひいたりして行けなくなってもキャンセルができないので、その日のために祈っていました。

わたしは風邪をひいて前日まで調子が悪かったのですが、当日は奇跡的に回復しました。そしてお天気にも恵まれ、主人とヒックンと3人で出かけることができました。

ヒックンはずっと前からドラえもんが大好きで、DVDを観るとき、何がいい?と聞くと必ず「ドラえもん」と答えます。
3歳のころは「お友達の名前は?」と尋ねると「ドラえもん」と答えていました。
いつかミュージアムに連れて行きたいと思っていたのですが、土浦から電車で片道2時間半もかかります。ミュージアムには駐車場がないので車では行きにくいのです。

去年は東京タワーでドラえもん展があったので連れて行きました。東京タワーの方が少し近いのですが、それでも電車に乗る時間が長いので退屈してしまいました。


今回は、興味のある本を持って行ったので、読んであげると夢中になり、退屈する間もなかったようです。
乗り換え3回して、登戸駅前からシャトルバスに乗って10分ほどでミュージアムに着きました。



全員に(子どもにも)音声ガイドを貸してもらって、見学しました。屋上ではどこでもドアやどかんに入って遊ぶ場所があって、大喜び走り回っていました。




今日の礼拝では、祈ることと祈られていることの大切さについて教えていただきました。

わたしのブログを読んで祈ってくださる方がおられることをおぼえて感謝しました
親しい友達も祈ってくださいますが、お目にかかったことのない方までも祈ってくださっているのです。

2人目の孫の出産のために祈ってくださった方、わたしの体調のために祈ってくださった方々、ほんとうにありがとうございます。
微弱陣痛だったので時間がかかり、難産だったとあとから聞きました。出産の立ち合いをしたのは息子だけだったそうです。
28日に生まれて、1日に母子ともに退院しました。赤ちゃんは、すくすく元気に育っています。
無事に生れるのは、当たり前のことではないのです。神様の守りとみなさまの祈りを覚え、心から感謝します。



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