生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

足りないと思っていたけれど・・・・・・

2013-10-29 20:47:30 | 教会
体力がなくて疲れやすいわたしは、多くのことができません。
それは子どものころからなのですが、試験勉強のために少し遅くまで起きていただけで翌日熱を出して学校を休む羽目になってしまうのでした。

午前中何かをしたら午後は休み、一日用事で出かけたら、次の日は半日横になっています。
2日続けて出かけたら、次の日は一日寝ています。昼間たくさん寝ても、夜は早く寝ないともちません。この間は4日間忙しい日が続いたので、回復するまで随分かかってしまいました。
そういうわけで、書きたいことはたくさんあったのですが、ブログ更新も滞っていました。

体力がないことを嘆いていた時期もありましたが、体力がないからこそできることもあると気づいてから、嘆くのをやめました。
でも、もう少し体力があったらなあ……と思っていたときに日曜日の聖餐礼拝で、主の食卓というメッセージをいただきました。メッセージを聞いて感じたことを書かせていただきますね。


新約聖書には、食事に関することが多く書かれています。
イエス様が最初の奇跡を行ったのは、カナという町で結婚式に出席されているときでした。ぶどう酒がなくなって、イエス様が水をぶどう酒に代えるという奇跡を起こされましたが、そのとき、食卓にはぶどう酒だけでなく、ご馳走が並んでいたことでしょう。

イエス様が取税人レビを弟子にしたときは、レビの家に招かれて共に食事をしています。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです(マルコ2:17)」と、大切なことを語られたのは食事の席でのことでした。

女の子を生き返らせる奇跡を行ったとき、イエス様は女の子に食事をさせるようにおっしゃっています。

イエス様が大勢の群衆に語っていると、夕方になってしまいました。そのとき弟子たちは、人々を解散させてそれぞれが食べ物を買いに行かせてくださいと言いましたが、イエス様は、5つのパンと2匹の魚を増やし、5千人もの人たちが満腹する食べ物を与えてくださいました。

「食事は肉体の養いだけではなく、全人格的養いのために必要です」と牧師先生が言われました。
 
復活されたイエス様が、ガリラヤ湖のほとりで弟子たちの前に姿をみせたときも食事とつながっていました。
そのとき弟子たちはすでに復活のイエス様に2度ほど出会っていました。

弟子たちはガリラヤ湖に行って、もとの漁師の仕事をしていました。ペテロはどんな気持ちだったのでしょう。主の復活は喜んでいたはずですが、心の中では主を裏切ってしまったという、うしろめたい思いでいっぱいだったような気がします。
ペテロはイエス様が捕えられたとき、恐ろしくてイエス様のことを知らないと3度も言ってしまったのでした。そのとき鶏が鳴き、イエス様の言葉を思い出して激しく泣いたのでしたね。

魚が一匹もとれなくてがっかりしている弟子たちに、復活のイエス様が岸に立って言われました。「子どもたちよ。食べるものがありませんね」そして、船の右側に網を降ろすように言われ、弟子たちがその通りにするとたくさんの魚が網にかかったのです。

弟子たちは、最初に弟子として召されたときと同じような奇跡が起きたので、きっとそのときのことを思い出したでしょう。イエス様は弟子たちに新たに使命を与え、再び召してくださったのですね。

イエス様は、弟子たちにお説教するのではなく、炭火と魚とパンで朝食の準備をされました。

イエス様は、あり余るほど豊かな食べ物を与えてくださいました。(魚は大きなもので、数匹で十分でしたが153匹も与えられたのです)

「わたしたちも、よみがえりの主により、ふるまわれ、養われている」
と聞いて、食べ物だけでなく、必要なものはすべて豊かに与えられていることに気づきました。
足りないと思っていた体力もじゅうぶん与えられていたのでした。



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ネット依存症の詩

2013-10-23 20:59:46 | 
先週の金曜日は、お茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の詩歌の会へいってきました。

JCPは奇数月に例会があり、偶数月は童話エッセイの会と詩歌の会の小グル―プがあります。いつもは童話エッセイの会へ出ているのですが、今回は童話エッセイがお休みだったので、初めて詩歌の会に参加させていただきました。

詩をみていただくのは初めてで、少し緊張しました。
今回は「隣の扉を開けてみよう・未知の扉を開いてみよう」というテーマの自由詩だったので、ネット依存症の若者の気持ちを詩にあらわしてみました。

詩の出来不出来は別として、「自分の気持ちを詩に書くのではなく、ほかの人の気持ちを詩にあらわすのは新鮮です」と言われて公開することにしました。
ネット依存症のことは以前ブログにも書いています。また今朝、NHKのあさイチで取り上げられていました。

スマホの中から  

もう やめたい
でも やめられない
ネットを切ったら ひとりぼっち
悪口書かれるかもしれない
だから切れない どうしても

もう つかれた
ゆっくり やすみたい
何をしているんだろう
何の意味があるんだろう
別のことをしたいのに

アホ ボケ シネ
簡単に書いてくる
自分だって書くけれど
ほんとは傷ついている
なんのために生きているの

外に出たい
こんなところにいたくない
閉じ込められたスマホの中
もがいていたら扉をみつけた
もう少し、あと少しで扉が開く

扉を開けたら
どっと押し寄せてきた現実
映し出された醜い自分の姿
思わず目をそむけて
扉の陰にすわりこむ

こちらにおいで
そのままのあなたでいいから
扉の向こうから差し出された手
夢中でしがみついたら
光の中に躍り出ていた





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見えるものにではなく

2013-10-21 20:30:01 | 聖書から
先週の木曜日から昨日まで、忙しくしていました。今日は疲れて一日中頭がぼおっとしています。
色々なことがあり、そのときそのときで神様に助けられ、たくさんの恵みをいただきました。


17日(木)は我が家での家庭集会でした。
学びの内容をブログに書いてほしいと友人から言われたので、テキストを読み返し、思い出しながら書いてみますね。

創世記13章1~13節からの学びです。

神様に示された約束の地を目指して旅をしているアブラハムは、エジプトからネゲブに上り、その後、以前祭壇を築いた場所、べテルとアイの間に行きました。甥のロトも一緒でした。

そのときアブラハムは「非常に富んでいた」と書かれています。財産がたくさんあったということです。財産というのは金や銀、そして家畜も含まれます。

アブラハムとロトは持ち物が多かったため、アブラハムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者との間に争いが起きるようになりました。
そのとき、アブラハムはロトに別れようと提案します。
そしてロトに肥沃なヨルダンの低地と、荒地、どちらがよいか選ばせるのです。
ロトは、肥沃な土地を選びました。

教会学校でこの箇所のお話をするときは、年若いロトに良い地を譲ったアブラハムのことをほめ、謙遜の美徳を教えたりするのですが、聖書はそういう教えを書いているのではないと教えていただきました。
謙遜の美徳を語るのであれば、なにも聖書から学ばなくてもいいわけです。

アブラハムがロトに別れ話をしたのは、べテルとアイの間に行って、礼拝したあとでした。アブラハムは、本当はロトのことをとても愛しているので、別れたくなかったのです。でも、ロトとの価値観の違いなどがあって、別れることが最善だと示されたので決断したそうです。

ロトは見た目で豊かな土地の方を選びましたが、アブラハムはロトがそちらを選ぶことは最初からわかっていたというのです。ロトは、神様からの約束を大切にするのではなく、自分の生活の豊かさを求める生き方をしていました。

一方アブラハムは、神様の約束を大切にしていました。ロトが選ばなかった方の荒れた土地が神様からの約束の地、カナンだったのです。

アブラハムは、恐れからエジプトでは自分の妻サラを妹と偽ってしまう過ちを犯しましたが、まず礼拝し神様に立ち返っています。

わたしは何度も何度も失敗しますが、そのたびに神様の前に行って立ち返ることが大切なのですね。
大切なことは、失敗をしないことではなく、神様に立ち返ることだと教えられました。

右を選ぶか左を選ぶかと常に選択を迫られているわたしたちです。
物質的な豊かさ、生活の安定、家族や自分の健康などを目的にして生きるのか、神様を喜ぶことを人生の目的にするのか問いかけられている気がしました。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Ⅱコリント4:18)」


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やなせたかしさんのこと

2013-10-16 20:42:26 | 日記
10年に一度という大型台風が通り過ぎて行きました。こちら(茨城県土浦市)は風は強かったですが、雨はそれほどではありませんでした。


アンパンマンの作者、やなせたかしさんが亡くなられたニュースを聞いて、ショックを受けています。
わたしは、アンパンマンが大好きで、まだアニメ化される前から絵本を読み、レコード(CDではなく)を聞いていました。結婚前、幼稚園に勤めているころはアンパンマンの絵本を子ども達に読み聞かせていました。

そのときのアンパンマンは、顔を食べさせると、半分もなくなってしまう絵でした。それが残酷だという人もいたそうですが、わたしはそのようには感じませんでした。

結婚して子どもが生まれたころはアニメ化されていたので、子どもたちと一緒にアンパンマンのTVを見ていました。

やなせさんは、あまり表には出していませんでしたが、クリスチャンです。「人を助けるのには自己犠牲が伴う。」と言っておられましたが、自分の顔を食べさせてしまうアンパンマンは、キリストをあらわしているのだと思います。

わたしが大好きなアンパンマンの歌、『勇気の花が開くとき』の歌詞を紹介します。この歌で力を与えられました。
「ぼく」を神と入れ替えて読んでみるとジーンときます。


勇気の花が開くとき  作詞:やなせたかし 作曲:いずみたく

どこか知らない 遠いところで
だれかが泣いている 声がきこえる
泣かないで くじけないで
ぼくがここにいるよ
勇気の花がひらくとき
ぼくが空をとんでいくから
きっと君を助けるから

風がうずまく 深い谷間で
ぼくを呼んでいる 声がきこえる
おそれるな がんばるんだ
夜はすぐにあける
勇気の花がひらくとき
ぼくが空をとんでいくから
きっと君を助けるから

赤く乾いた 砂漠の中で
助けを呼んでいる 声がきこえる
たちあがあれ 元気をだせ
オアシスはちかいぞ
勇気の花がひらくとき
ぼくが空をとんでいくから
きっと君を助けるから



やなせたかしさんのことは、過去のブログにも書いていました。ここをクリックしてごらんください。

日本クリスチャンペンクラブのHP更新しました。ぜひごらんください。


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幼子のように

2013-10-14 16:00:36 | CS(子供伝道)
教会学校小学科の2年生クラスで「お祈りしてほしいこと」を書かせました。
「スポーツ選手になれるように」「サッカーの試合に勝てるように」など自分の願いを書いている子どもが多かったです。

その中で「罪をおかさないように」と書いている子どもがいて、驚きました。
罪がどういうことか知っていて、罪を犯さないように祈って欲しいというのです。なんとすばらしい信仰なのでしょう。
罪という字はちゃんと漢字で書かれていました。

「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」という詩編119:11の言葉を思い出しました。


礼拝メッセージは、マルコ10:13-16より語られました。イエス様のもとに行こうとしている幼子(おさなご)を弟子たちが止めたとき、イエス様が憤ったという箇所です。

聖書には「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。(マルコ10:13)」と書かれています。

イエス様が子どもたちの頭の上に手を置いて、祝福を祈ってもらおうとしているのだと思っていますから、そこに『さわっていただこうとして』と書かれていることを読み落としていました。

メッセージを聞いて、さわるという行為に注目しました。すべての動物はさわってもらうのが好きなのだそうです。
確かにそうですね。人慣れしない獣でも、親に舐めてもらうことを喜びます。

親が子どもの頭をなで、抱きしめるだけで、子どもは、言葉がなくても愛されていることを知ります。

子どもたちは、イエス様が大好きです。せっかくやってきたのに弟子たちはなぜ止めたのでしょう。

イエス様が休む暇がないほど多忙なので、子どもになどかまっている暇はないんだと思ったのかもしれません。
当時、子どもは今の時代よりずっと軽く扱われていました。


子どもたちを追い返してしまおうとする弟子たちに向かってイエス様は憤って言われます。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです(マルコ10:14)」

わたしのもとに来させなさいとは、『いつも近くにおらせなさい』という意味だそうです。

「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(10:16)」

この箇所を読むと胸が熱くなります。
自然にわたしは幼子になっています。


飼い犬が、24時間主人の一挙一動を見ているように、神様も24時間私たちを見ていてくださると聞いて、嬉しくなりました。

神様はうっかり目を離したり、まどろんだりすることがないのです。
「(主は)寝ずの番をされた(出エジプト12:42)」


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「助けてください」と言ったら……

2013-10-10 16:00:59 | 聖書から
教会学校小学科のクリスマス会でわたしの童話を劇にして子どもたちが演じることになりました。クリスマス向けに書いた童話ではないのですが、夏休みの特別プログラムのとき、ジョイクラブ(教会学校が終わってからお昼までの時間に行われている小学生の活動)に参加しない子どもたちに向けて創作童話の紙芝居をしました。

それを見た低学年主任の先生が、クリスマス会にぜひと思われたそうです。
クリスマス会のミーティングでそのことを聞き、嬉しいと同時に大変なことになったと思いました。

脚本化するのはわたしです。童話を書くよりずっと大変な作業です。
低学年の40人の子どもたちが、ひとりひとこと以上セリフを言うように作ろうとしています。
演出も考えながら何度も何度も書き直しています。

劇として成功させることが目的ではありません。それを演じる子どもたちが、イエス様のことを感謝して、心が喜びでいっぱいになって輝くこと。子どもたちの演技を見た人たちがイエス様を心から喜ぶようになることが目的です。

けれども脚本を書くのは、わたしの能力の超えたことです。
「神様、助けてください。力を与えてください。」と必死に祈っています。


ちょうどそのような折、詩編91篇からの礼拝メッセージを聞いて励まされました。
「助けてください」と神様に祈るとき、必ず神様は助けてくださるという確信を与えられたのです。
目に見えた変化が起こらなくても神様はすでに助けのみ手を差し伸べてくださっていることを感じました。

詩編91編の一部を抜粋します。


(91:1-2)
いと高き方の隠れ場に住む者は、
全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。
「わが避けどころ、わがとりで、
私の信頼するわが神」と。

(91:4)
主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。
主の真実は、大盾であり、とりでである

(91:14)
彼が私を愛しているから、
わたしは彼を助け出そう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。


この詩編の筆者は、最初は自分のことを「私」と書いていますが、3節以降「あなた」になり、14節では「彼」になります。
「神を呼び求めていると視点が変化する」と牧師先生が言われましたが、どういう意味なのかなあと思いました。

以下は、自分の考えなので、間違っているかもしれません。

私→あなた→彼

となっているのは、自分がだんだん小さくなってきているようです。
神に祈っているうち信頼が深まり、「私」という自我が砕かれていったのでは……と思います。最初は自分の視点から書いていたのですが、二人称の視点、三人称の視点から書くように変化しています。
14節以降は「わたし」すなわち神さまが主語になっています。

*新改訳聖書では、ひらかなの『わたし』は、旧約では、神様に対して。新約では、イエスに対して用いられています。漢字の『私』は人に用いられています。

書いているうちに神様のみ心が示され、神に導かれて書いたのではないかなと想像しました。



(91:15)
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは、彼に答えよう。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
彼を救い彼に誉を与えよう。
わたしは、彼を長いのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう。


呼び求めれば答えてくださる神様に感謝!


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風のない日の花火大会

2013-10-07 20:38:23 | その他
5日は土浦での全国花火競技大会でした。天気予報では土曜日は雨のとのことだったので、延期になるかもしれないと思っていました。でも、行われることが前日に決まり、料理を準備する者としては、まずほっとしました。

花火は歩いて20分ほどの土浦めぐみ教会近くから打ち上げられます。
延期されて日曜になると、教会への出入りが13時までになってしまうし、夜の礼拝がなくなるので、できれば土曜日にやってほしいと願っていました。

花火は我が家からよく見えます。土浦の中で最も花火が良く見える場所にあるマンションではないかと思われます。夕方になると大勢の人のざわめきが聞こえてきます。

マンションの周囲は大変な混雑なので毎年外には出ず、家の中、あるいはバルコニーに出て見物です。

ヒックンとママがやってきて(息子は仕事)、料理も早めに作って期待して待っていました。

雨がやまないまま花火大会が始まりました。

最初のころはきれいに見えたのですが、半分ぐらいしか見えない花火があったりして、きれいとは言えません。(写真は最初のころ写したもの)
雨雲のせいかと思ったら、風がないので前の花火の煙が残っていて、煙の陰に隠れてしまっているとTVで説明していました。
風が吹かないと花火はきれいに見えないことを初めて知りました。

ドーンと花火が上がると「ワー」という歓声が上がるのに、今回は「あーあ」という声が外から聞こえてきます。この日のために準備をしてこられた花火師さんが気の毒になってきました。

ところが、ヒックンは少しでも見えると「ワーイ」といって、手をたたいています。花火に感動しているのです。その姿を見てはっとさせられました。

煙に隠れていても花火はたしかに上がっていて、煙の向こうでは美しい花を咲かせているのです。
目に見えるものだけがたしかな物ではないことを教えてくれているようでした。

3歳ぐらいまではドーンという音が怖くて泣きべそをかいていたヒックン。去年までは途中であきておもちゃで遊び始めていたのに。今年は、がっかりしている大人を励ますように花火を喜んでいました。



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10年目の検査

2013-10-03 17:35:20 | 乳癌
昨日、病院へ行ってきました。1週間前、乳癌の術後検査を受け、その結果を聞きに行ったのです。

主治医が転任され、別の先生に診てもらうことになりました。3人目の医師です。

昨年の6月に検査を受けて以来の外科です。年に1度の検査でよくなったので、本当は今年の6月に受けなくてはならなかったのですが、延ばして秋に検査を受け、それで最終にしようと勝手に決めていました。

今年の12月で術後10年になるのです。

「あっという間でしょう」と人から言われますが、わたしとしては、ようやくという気持ちです。とにかくこれで結果が良ければ、もう検査は受けなくていいのだと、思っていました。

診察室に入って最初に先生が口を開くまでの時間(1分弱だと思います)がとほうもなく長く感じらます。そのときの緊張は何年たっても変わりません。

「異常なしですね」と言われてほっと胸をなでおろしました。

「それでは一年後にまた来てください」と言われたので、「12月で10年になるのですけれど……」と言うと、「胃癌などは5年たてばほとんど再発はありませんが、あなたの場合は10年たっても再発転移の可能性があるので、まだまだ検査を受けないとだめです」と言われました。

「いつまでですか?」と尋ねると、答えは「きりがない」でした。
つまり、わたしの乳癌のタイプは何年たっても再発転移することがあり、完治はないというのです。

10年目の検査の後に再発した方の話を聞いていますし、20年は気をつけないといけないことも知っていたのですが、「きりがない」と聞いてがっかりしました。

喘息も完治はないと言われていて3か月に1度内科に通っていますが、乳癌からも卒業できないと知って気が重くなりました。そのうえ、通院している病院がもうすぐ自転車では行けない遠方に移転してしまうのです。

完治しないということは、いつも死を意識しながら生きざるを得ないということです。それは神様の配剤だと思いました。
いま、置かれた場所は不安定で、決して心地よい場所とはいえません。だからこそ、神さまをしっかり見つめて生きるようになれる場所です。

もう再発転移することはないと言われたら、安心しきって神様から目をそらしてしまうかもしれません。

まず、いま異常がなかったことを感謝します。先のことはわかりません。先のことは神様にお任せして、心配しないことにします。
限られた時間を生かされていることを意識しながら使命を果たしていければと思っています。



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わたしはある

2013-10-01 11:17:26 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
27日から都内の実家に行って1泊してきました。今回は娘と一緒に行きました。娘は草取りの手伝い。わたしは料理と掃除の手伝いをしてきました。

母はこの夏の暑さで食欲が落ち、4㎏も体重が減ったと言っていました。わたしでもきつかったのですから、84歳の母にはさぞかし辛い暑さだったことでしょう。でもなんとか体を壊さず元気でいてくれることを感謝しました。


28日は日本クリスチャン・ペンクラブ9月例会でお茶の水までいってきました。
礼拝であかしをさせていただくことになっていたので、何日も前からずっと緊張していました。タイトルは「最近の私とあかし文章道」です。
原稿を書いて覚え始めてからも迷いがあって、内容はこれでいいのかなと不安に思っていました。

以前文章に書いて発表したことがある内容が含まれているので、覚えている人にとっては退屈なのではないかなどと思ったり……あかし文章を書くことにおいてベテランの先輩方の前で語る資格があるのだろうか……とまったく自信がなかったのです。

ちょうど当日の朝に読んだデボーション冊子、ディリ―ブレッド(RBC)に書かれている言葉に励まされました。
世界的に有名な伝道者ビリー・グラハム師がケンブリッチ大学で講演するとき、自分は洗練された思想家たちに語る資格はないと感じ、分不相応でいたらない者だと思ったというのです。

ビリー・グラハム先生でさえそのような恐れを抱かれたエピソードを読んで励まされました。
モーセも神様から命じられたことに対して「私はいったい何者なのでしょう」と言って躊躇しています。
冊子の文章を紹介します。

【「〇〇をしなさい」と神に示されたとき、自分の実力を疑問視するかもしれませんが、それでも、神は信頼できるお方です。私たちの欠点は、神の完全さと比べるなら取るに足りません。「私は何者……」と感じるとき、神の御名は「わたしはある」であることを思い出しましょう。】

神様はその日の朝、わたしに最もふさわしい文章を備えてくださったのです。目には見えないけれど確かに「ある」お方。その存在をはっきりと感じ、共にいてくださることを実感しながら語らせていただきました。


追記
HP「生かされて…土筆文香」詩の部屋 久々に更新しました。




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