生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

ひろくん、よかったね!

2017-05-30 17:07:32 | 日記
今年の1月14日のブログで紹介したひろくんのことを書かせていただきます。

2歳のひろくんは生まれつき拡張型心筋症で、補助人工心臓をつけて病院で過ごしていました。ひろくんが生きていくためには心臓移植しかないとのことで、「ひろくんを救う会」が立ち上がり、募金活動が始まりました。

日本での幼児の心臓移植は6年間で4件だけだそうです。それで、米国で手術を受けることにしたのですが、なんと3億1千万もの費用がかかるそうです。その額を聞いたとき、そんな大金が集まるのだろうか……と思いました。教会では、熱い祈りがささげられました。

わたしも毎日ひろくんが移植手術を受けられるように祈りました。
12月に募金活動を始めて半年足らずで2億8千万近く集まりました。そのことも奇跡といえるのですが、もっとすごいことが起こりました。

渡米の準備を始めていたとき、国内でドナーが現れて、5月11日に移植手術が行われたのです。それを聞いたとき、神様のみ手が働いたのだと驚き、震えました。神様のなせる奇跡です。移植を待っていた子どもたちはひろくん以外にも何人もいたでしょう。でも血液型や色々な診断結果でひろくんが選ばれたのです。

ドナーが現れたということは、ひとりの子どもが天に召されたということです。
子どもを亡くした家族がいるということです。愛する子どもの臓器提供を決意したご家族の方の気持ちを思うと悲しい気持ちになりますが、今、順調に回復しているひろくんの体の中で、召された子どもの心臓は力強く動いています。

ひろくんが、国内で手術が受けられるとは誰も思っていませんでした。渡米するとなると、たくさんのリスクがあり、現地でどのぐらい滞在しなければならないかも不明で、大変なことだったでしょう。ところが、神様はわたしたちが想像する以上のすばらしいことをなさってくださいました。

まだ合併症や感染症のリスクがあるそうです。一日も早く退院できるように祈っています。
「ひろくんを救う会」のHPに術後のひろくんの様子が掲載されています。



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しらがになってもわたしは背負う

2017-05-26 16:39:16 | 教会
昨日、友人のお義母さま、F子さんのの葬儀に参列してきました。教会のチャペルピスガで行われたので、母の葬儀を思い出しました。

式次第に略歴が書かれています。1分ほどで読めますが、88年の長い人生があったのですね。
おしゃれで人付き合いがよく、いつも身だしなみをきちんと整えておられたというところは母とそっくりです。

母は召される5か月前、具合が悪くなってから洗礼を受けたので教会生活はできませんでしたが、F子さんは、召される10年前に洗礼を受けておられたので、教会生活ができました。喜楽希楽会(きらきらかい)という高齢者の会のメンバーで旅行にいったり、楽しい行事に参加している写真がパワーポイントで映し出されました。
 
一同で喜楽希楽会のテーマソングを賛美しました。
歌詞を紹介します。

1、神よあなたは 若いころから私の力        
年老いて白髪なるとも 私の望み

2、神よ私は年老いてなお実を実らせて
いきいきと主の大庭で生い茂ります

3、神よ私は次の世代に告げ知らせます
主の力 主のみ救いと主の麗しさ

4、神よあなたは私の力尽き果てるとき
  振り向いて呼びかけられる
「あなたを背負う」

5、神よ私は 命の限り力を尽くし
  きらきらと ただあなただけ
  ほめたたえます


この歌は、聖書の言葉に基づいて作られています。

詩編71:5「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
71:18「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおもあなたの力を次の世代に、あなたを大能
のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます」
71:20「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げて
くださいます。」
71:21「あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。」

イザヤ46:4「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」


最近、私自身が老いを実感しています。病院へ行くとあちこち異常がみつかり、原因を尋ねると、「加齢のせいでしょう」と言われます。
年はとりたくないというのが本音です。でも、誰でも年をとります。年をとると、以前できていたことができなくなり、髪は白くなり、体も衰えます。でも、生きている限り使命があります。次の世代に神を伝えるという使命です。
疲れ果て、倒れてしまっても、神様は背負ってくださいます。年をとっても背負ってくださる神様に信頼して歩んでいきたいです。

F子さんは今頃天国で先に召された友人たちと再会していることでしょう。ご遺族の方々に慰めがありますようにお祈りします。


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彼の決断で6000人が救われる

2017-05-23 20:13:16 | その他
先日の礼拝で6千人のユダヤ人を救った杉原千畝のことが語られました。
ネットで調べたことを紹介します。

1939年、杉原氏はリトアニアの日本領事館代理として働いていました。
1940年7月27日、大勢の人が領事館の周りを埋め尽くしていました。事情を聴くと、それはナチスの迫害の手をのがれてリトアニアに着いた大勢のユダヤ人たちでした。

ユダヤ人達は、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとしており、通過ビザを求めていました。
ナチスから逃れる道は、シベリア-日本経由の道しか残されていませんでした。

人々は日本を通過するビザが欲しいと訴えていました。
これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできませんでした。外務省に暗号電報で許可を求めましたが、回答は「否」です。日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかったからです。

でも、もしビザを出さなければ、外のユダヤ人達は皆殺されてしまいます。杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打ちましたが答えは同じでした。

ビザ交付の決断に迷い、眠れぬ夜を過ごした杉原はついに意を決して、夫人に言いました。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」
幸子夫人も同じ考えでした。

杉原氏は、外務省を辞めさせられることも覚悟して決断しました。

以下は幸子夫人の書かれた文章です。

「夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。」

それから約1か月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原氏は朝から晩まで1日300枚を目標にビザを書き続けました。すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書かなくてはなりません。

一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込みました。

ソ連から退去命令が何度も来て、杉原氏はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移りました。ホテルにもユダヤ人がやってきました。杉原氏はありあわせの紙でビザを書き続けたそうです。

9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込むと、ここにもビザを求めて何人かの人が来ていました。窓から身を乗り出して杉原氏はビザを書き続けました。

   走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは

杉原氏のおかげで6千人ものユダヤ人の命が救われました。

杉原氏は、ビザを発行してはいけないという日本政府と、ユダヤ人を助けたいという思いとの板挟みになりました。しかし、神を信じていた杉原氏は、「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言ってビザを発行する決断しました。

1947年に日本に帰国した杉原氏は、外務省を依願退職させられることになりましたが、1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞しました。
6千人のユダヤ人の子孫は、今や25万人にもなったそうです。。

杉原氏がもし自分の立場を守りたいと思ったら、日本政府の命令に従って発行しないという決断をしたでしょう。でも、彼はたとえ命を失っても神のみこころにかなったことをしたいと思い、発行する決断をしたのです。
ご夫妻の信仰に心打たれました。

上の写真は日曜日に礼拝後、TEENSの子どもたちと行った茨城県北部の阿字ヶ浦海岸


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誤解していたこと

2017-05-17 16:38:32 | 聖書から
*最後に追記あり

わたしは、22歳で洗礼を受けたとき、意味が十分わかっていませんでした。
教会へ通って半年ほどたったとき、「来週クリスマス礼拝で洗礼式があるので、受けませんか?」
と牧師先生から言われました。

わたしの今通っている教会では、洗礼の前に学び会があり、準備の時期があります。また、「救いのあかし」といって、どのように信じるに至ったか書いて提出し、面接を受けてから洗礼を受けます。でも、当時わたしが通っていた教会にはそのようなものはありませんでした。

三浦綾子の小説を読んで、罪に気づいていました。洗礼を受けて罪が赦されるなら受けたいと考え、その当日「受けさせてください」と願い出て、受洗に至ったのです。

洗礼を受けたら、罪を犯さない人間になれると思っていたわたしは、受洗後も相変わらず罪を犯してしまう自分に気づき悩みが深まりました。これは誤解でした。

わたしは癇癪持ちだったので、ときどき自分の感情をコントロールできなくなって、家の中で暴れました。気に入らないことがあると、階段を上って行って、二階でドンドン足を踏み鳴らしました。嫌だと思っていた父と同じようなことをしていました。そのことが罪だと気づいていましたが、受洗後もやっていました。

洗礼を受けると、神様の光に照らされて今まで気づかずに犯していた罪にも気づくようになるので、よけい罪深くなったと感じ、悩みました。そのことを牧師先生や先輩クリスチャンに相談すればよかったのに、引っ込み思案だったわたしはそれができず、誤解したまま教会を離れてしまいました。

神様は、わたしたち人間が罪のために滅びてしまうことがしのびなくて、わたしたちの罪を赦そうとされました。罪が赦されるためには死ななければなりません。それで神様はわたしたちの代わりにご自分の愛するひとり子、イエス様を十字架につけました。イエス様は死にましたが、三日目によみがえられました。
それでイエス様を信じるだけで、わたしたちの罪は赦されるようになったのです。

罪の赦しは一度限りではありません。洗礼を受けても心の中で悪い思いを抱くことがあります。そのときは、神様の前に罪を告白して祈れば、赦してくださいます。何度でもです。

聖書には次のように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」
あのときのわたしは、聖書をよく読んでいなかったのでこの言葉を知りませんでした。

教会を離れてしまったことは残念なことでしたが、洗礼を受けていたからこそまた教会へ行くようになったのでした。

水曜礼拝で、主の祈りにある「わたしたちの負いめをお赦しください(マタイ6:12)」(負いめとは罪)は、日々祈るものだと聞いて、考えたことを書きました。

追記:日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私のエッセーも掲載しています。ここをクリックしてご覧ください。


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どんな些細なことでも

2017-05-13 15:49:17 | 日記
三宅島の感動がまだ続いています。上の写真は帰りの船中から写した夕焼け。

旅行記にも書きましたが、今回の旅行は旅行社を通してではなかったので、色々な心配がありました。民宿も東海汽船も観光タクシーも電話一本で予約したので、間違えはないか不安でした。天気が悪ければ船が出ないというのも心配でした。コンビニはなく、店や食堂もたくさんはないということで、あらかじめ地図を見て確認していました。

旅行中は、ひとつひとつのことについて祈っていました。船があまり揺れないようにとか、腰が痛まないようにとか、カツオドリと出会えるようにとか……どんな些細なことでも祈りました。そうしたら、すべてかなえられたのです。そして、不思議なことにかなえられる前から平安が与えられました。

このように書くと、不思議に思う方もいるでしょう。
そもそも祈りというのはどういうものなのか? 祈る対象はどんな方なのか?と疑問に思われるでしょう。

クリスチャンが祈るときは、最初に「天におられる父なる神様」と呼びかけます。
天の父なる神様とは、天地万物を作られた全能の神様です。なんでもご存じで、どんなことでもできる方です。だから、祈らなくてもすべての必要はわかっておられ、備えてくださり、守ってくださるのです。それでも祈るのは、子どもが大好きなお父さんに願いを聞いてもらうのと同じような感じです。

天地万物を作られた偉大な方が、ちっぽけなわたしの願いを聞いてくださるというのでしょうか? 
「願っても、求めても与えられないこともあるのに……。願ったことと反対のことが起きることもあるのに……。」
と思うかもしれません。確かに「明日晴れにしてください」と祈ったのに雨になることはありますよね。
でも、それは神様が祈りを聞いてくださらなかったわけではないのです。もちろん聞こえているのですが、小さな子どもがナイフなど危険なものを求めたとき、親は与えませんね。それと同じで、求めた物とは違っていてもその子にとって、最も良い物を与えてくださるのです。

先日の水曜礼拝で主の祈りについて学びました。
主の祈りとは、イエス・キリストの弟子たちがどのように祈ったらよいかイエス様に尋ねたとき、イエス様が教えてくれた祈りです。

主の祈り
天にいます私たちの父よ。
御名(みな)があがめられますように。
御国(みくに)が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。


5行目に「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」とありますが、毎日食べるものを与えてくださいという、日常生活のことを祈っています。それは、どんな些細なことでも祈るように神様がすすめておられるという意味だと聞きました。

祈ればその通りになるから信じるのでなく、信じているから祈る。祈った通りにならなくても、神様はいつも最良のものを与え、最善をなしてくださいます。


写真は息子夫婦からと娘夫婦からの母の日のプレゼントです。


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小旅行で大きな収穫(その5)

2017-05-09 17:06:07 | 日記
翌日はアカコッコ館でバードウオッチングを予約していますが、アカコッコ館の周囲では、海鳥のカツオドリを見ることができません。

漁師さんに頼んで釣り船で三本岳に行くという方法があります。夫に言うと反対されてしまいました。
カツオドリに会えないまま帰ることになるかもしれないと思ったのですが、きっと会えるという気がして、予定通りアカコッコ館に行くことにしました。


アカコッコとは国の天然記念物に指定されている鳥です。アカコッコの名をとってアカコッコ館が大路池の近くに建てられています。             

写真はアカコッコ館に展示されているパネルを写したものです。

雨が降ったりやんだりしていましたが、日本野鳥の会のレンジャーの方が野鳥観察を導いてくださいました。双眼鏡を貸していただいて、いざ出発です。 

           
しきりに鳥の声はするのですが、なかなか姿を見せてくれません。雨が上がると出てくるらしいですが……。
アカコッコには会えました。スズメのように地面をとび跳ねてあるくので見つけやすいです。林に続く道で、モーモーと牛のような鳴き声がしました。



声の方を見ると、黒い鳥が木の枝から飛び立つのがみえました。「カラスバト」だそうです。  
写真は八丈ビジターセンターのHPから拝借しました。

カラスバトはあまり人前に姿を現さないので、この鳥を見ただけでもすごいことだと言われました。カラスのように黒いのですが、首回りに虹色の輪が見えます。
小さな鳥、ウチヤマセンチュウも見ました。素早くて、見つけたと思ったら、もう姿が見えなくなりました。
鳥の写真は撮れませんでした。

バードウオッチングが終わって、アカコッコ館で帰りの船がどの港から出るのか教えていただきました。着いた港と同じ、錆ヶ浜です。ただし、条件付きだと言われてドキッとしました。
条件付きとは船を出航させるものの、接岸できるかわからないという意味です。船が接近した時点で風や波の高さなどを計測し、安全なら接岸。ダメな場合は通過か引き返しになるそうです。帰りの船は一日一本だけなので、乗れなければ島にもう一泊しなければなりません。

とにかく港へ行かなくては……と、島を一周しているバスに乗って、港に向かいました。
ターミナルにいる人たちは、みんなのんびりしている感じだったので、きっと船は出ると思い、民宿で作っていただいたお弁当をいただきました。


2階の展望スペースに行くと、海鳥が飛んできました。なんと、カツオドリです。何羽も何羽も飛交っています。
あまり驚いて、「カッ、カッ、カッ、カッ……」と言ったまま言葉が出なくなってしまいました。カツオドリたちが見送りに来てくれたように感じました。写真は失敗です。空ばかりの写真が8枚。ようやく一枚だけ写っていました。


船は無事接岸し、出航しました。


帰りは1等客室です。すいていたので12人部屋を夫と二人で貸切り状態でした。

今回の三宅島への旅行は色々なことが初めての経験だったので不安がありました。数日前に腰を痛めていたのでコルセットをしての旅でした。体調がくずれることも、船酔いも不安でした。でもすべて良好でした。船酔いは、帰りにちょっと気分が悪くなった程度です。腰は全く痛くなくなったので帰りはコルセットを外しました。

カツオドリとなかなか出会えませんでしたが、常に平安がありました。主が共にいてくださったことを実感しました。すばらしい自然と、島で出会った方々の温かさに触れ、また行きたくなりました。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。                   おわり



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小旅行で大きな収穫(その4)

2017-05-06 16:46:02 | 日記
連休に息子一家と娘夫婦が泊りがけで来ていたので、更新が遅くなりました。
三宅島旅行記の続きです。

観光タクシーで伊豆岬灯台を見学しました。



明治42年に建造されたランプ式無人灯台です。角柱形の灯台は珍しいです。
天気の良い日は新島、神津島や遠く富士山を望むこともできるそうですが、曇っていたので残念ながらみえませんでした。


大路(たいろ)池です。
およそ2000年前の噴火でできた火口湖と言われています。


大路池の入口にある迷子椎と呼ばれる樹齢数百年の木です。幹周り7.5メートル、樹高15メートルのスダジイです。大路池周辺の密林に迷い込んでも、この大木を目標にすれば助かるので迷子椎と呼ばれているそうです。
枝が支柱でささえられています。

島を一周して、阿古地区にもどってきました。

ところでカツオドリにはまだ出会っていません。明日の天気は雨の予報です。
民宿で一休みしてから、ひとり海岸に出てすわっていました。



写真は小さくてわかりにくいですが、遠くに三本岳が見えます。
三本岳は三宅島から西南西、約9km沖に切り立っている島で、正しくは『大野原島』と言い 三宅島から見ると3つの突岩が切り立って見えることから『三本岳』と呼ばれているそうです。



カツオドリは三本岳にいるらしいので、こちらの方へ飛んでくるのではないか期待して待ちました。いつまで待っても飛んできません。
カツオドリを見ることができなくても、時間は無駄になりません。海の色、磯のにおい、波しぶき、波の音などしっかり記憶しました。
海岸にはだれひとりいませんが、右側に誰かがいるように感じ、何度も首を横に向けました。


カツオドリの代わりにスズメぐらいの鳥が飛んできて消波ブロックにとまりました。
わたしを慰めてくれているのでしょうか。いつまでも飛び立たず、じっとしていました。


民宿に戻ると、夕食の用意が出来ていました。


夕食は海の幸満載のおかずでした。とれたての魚のさしみ。ノドグロの煮つけなど……おいしくいただきました。

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小旅行で大きな収穫(その3)

2017-05-01 16:14:35 | 日記
今回の旅行で初めて知ったことがあります。三宅島への定期船は1日1便しか就航していません。波が高いと着岸できずに戻ることもあるそうです。

また、三宅島にある3つの港のどこに着くか、またどこから出るのか数時間前にならないとわからないというので、驚きました。
旅に出るときは、綿密な計画を立てて用意周到に準備している夫は、落ち着かない様子です。わたしも台風でなければ船は毎日出ているのだろうと思っていたので、三宅島に行くことができても、何日も帰れなかったらどうしようと思いました。



民宿の庭に溶岩がオブジェのように並べられていました。

民宿で朝食をいただいたのち、観光タクシーで島をまわりました。
三宅島は一周30.9キロメートルです。自転車で一周する人もいるようですが、道はかなり起伏があるので、わたしたちにはとうてい無理です。
                            
三宅島は太古の昔から、何度も噴火を繰り返してきたそうです。
20世紀以降では、1940年(昭和15年)、1962年(昭和37年)、1983年(昭和58年)、2000年(平成12年)と4回の噴火が発生しています。
また、現在も年に数回程度、ごく小規模な噴火が起きているそうです。

ひょうたん山は昭和15年に雄山北東山腹の標高200m付近から噴火。大量の溶岩・火山弾・スコリア・火山砂が放出され、たった約22時間のうちに「ひょうたん山」が形成されました。   


昭和58年10月3日、山の中腹にから噴火しました。高さ100m以上に吹き出た溶岩は、阿古地区の一部を飲み込みました。幸いにも人的な被害はなかったそうです。


2007年、この溶岩流の上に、火山道体験遊歩道が完成しました。 




阿古小中学校跡が当時のままの状態で残っていました。流れ出た溶岩が小中学校の校舎で止まったそうです。学校は運動会の代休で休みだったそうで、もしここに子どもたちがいたら……と思うとぞっとしました。


溶岩の隙間から葉が茂り、自然の再生力を目の当たりにしました。


降ってきた直径一メートルぐらいの石を使って石垣が作られています。   

何度噴火を経験しても立ち上がる島民の、島への熱い思いを感じました。 

*小中学校の写真、一部変更しました(5/6)



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