生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

失うことにより、わかることがある

2018-10-05 14:58:55 | 聖書から
水曜礼拝で士師記16章を学びました。5月に学んだときは、サムソンの全盛期でしたが、今回は晩年のサムソンンです。

サムソンは、神様によって特別な力を与えられていました。素手でライオンを倒したり、門柱と扉を引き抜いて肩にかついで山に持って行ったり……。
イスラエルがペリシテ人に支配されていた時代にあって、怪力サムソンの登場は同胞イスラエル人にとって、頼もしい存在だったことでしょう。ペリシテ人は、サムソンを恐れて何もできずにいましたが、サムソンを倒す機会を狙っていました。

サムソンの弱点は女性でした。サムソンはデリラを愛しました。そのことを利用してペリシテ人たちはデリラにサムソンの力の秘密を聞き出すように頼みました。

デリラはサムソンに尋ねます。が、サムソンは嘘をつきます。何回か繰り返されたのち、サムソンは本当のこと(髪の毛をそり落とされたら力が弱くなる)をついに明かしてしまいます。

サムソンの力の秘密をペリシテ人に告げたら、サムソンがペリシテ人に殺されるかもしれないとデリラは承知していたはずなのになぜ?と思いますが……。サムソンとデリラの愛は不完全でした。

サムソンは髪の毛をそられて力がなくなったとき、初めて自分の弱さに気づきました。特別な力は、神様から頂いたものだと気づき、神に立ち返ったのです。

「サムソンは20年の間イスラエルをさばいた。」書かれているところから、そのときのサムソンは最初のころと違って、晩年であったことがうかがえます。

人は晩年になると、力、健康、大切な物、積み上げてきたものを失いますが、失うことで見えなかったものが見えるようになります。失ったことにより、わかることがあります。神様はサムソンが立ち返るのを待っておられました。
神様はあなたを待っておられます。


わたしは若いころ、年をとれば達観の心境になったり、穏やかで平安に包まれたりするのかなと思っていました。体力的な衰えはあっても、もともと体の弱い者なので、それほどの変化は起きないだろうと思っていました。
けれども60歳を超えたときから色々な故障が起きて、日常生活の中でも身体の衰えをはっきり知らされて、内心「このままの速度で老化していったらどうしよう」とあせっている自分がいます。


「失うことにより、わかることがある」と牧師先生が言われました。そうです。確かにあります。
年をとって、できないことがひとつひとつ増えていって、最後は横になるしかできなくなるかもしれません。でも、そのときが神様にいちばん近いときなのでしょう。

明日は土浦の全国花火競技大会です。台風が通過するので強風が予想され、中止か延期になるのかなと思いましたが、予定通り行うそうです。我が家からよく見えるので今年も息子一家が来ます。
事故のないように祈ります。


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なぜ災害が起きるのでしょう

2018-09-21 16:38:55 | 聖書から
ごぶさたしています。
昨日の家庭集会で感じたことを書かせていただきます。

この夏は災害が続いて、まだ苦しみの中にある人たちが大勢おられます。なぜこのような災害が起きるのかと、問いただしたい気持ちになることでしょう。

旧約聖書の出エジプト記にはモーセがイスラエルの民を率いて荒野を旅するようすが書かれています。エジプトを出発してカナンの地に行くのです。まっすぐ行けば2-3か月で行けるそうですが、回り道をしたため40年もかかって到着しました。

回り道をさせられた理由はわからないのですが、イスラエルの民は、神様に導かれて苦難のある荒野を旅したのです。神様の側からみると、あえて民に苦難の旅をさせたということです。なぜでしょう。

水野源三さんの詩に「苦しまなかったら」という詩があります。

「苦しまなかったら」 水野源三

もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった。


水野源三さんは子どものころ赤痢に罹って、命は助かりましたが、体が動かせなくなってしまいました。
まばたきで意思を伝えることしかできませんでしたが、たくさんの詩を作って、多くの人に感動と生きる力を与えました。

源三さんは、自分の病気を嘆くのではなく、苦しみにあったので神の愛を知ることができたと書いています。

詩篇には「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」と書かれています。

わたしの場合は、苦難の真っ最中にいるときは、神様がなぜわたしを苦しい目にあわせるのかわかりませんでした。でも、過ぎ去ってみると、心から「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言うことができます。真っ最中にいるときにもそのように言えれば本物の信仰者です。水野源三さんのように。

また、出エジプト記19:5には「わたしの宝となる」と書かれています。
その言葉に感激しました。神様は何のとりえもないわたしを宝と言ってくださるのです。神様はわたしのことを造り、苦しみも与えてくださいましたが、多くの喜び、恵みを与えてくださいました。そして『お前はわたしの宝だよ』と言ってくださっています。なんとうれしいことでしょう!

最後になぜ災害が起きるのかについて。
なぜ災害が起きるのかわかりませんが、確かなことがあります。それはイエス様が災害にあわれた方のそばにおられるこということです。災害にあわなくても悲しみの中にいる人の傍らにイエス様がおられるのです。


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弱いときにこそ強い

2018-05-10 17:03:07 | 聖書から
昨日、約一か月ぶりに水曜礼拝に行ってきました。水曜礼拝の後、2か月ぶりに聖書輪読会にも参加しました。
水曜礼拝は、旧約聖書の士師記(ししき)14章15から20節で、『サムソンの妻』というタイトルでした。

聖書物語では、サムソンのことを『今 まで に 生ま れ て き た 人 の 中 でいちばん 力持ち だっ た 人』と紹介しています。
確かにサムソンは怪力で、素手でライオンを倒すほどの力を持つ強い人でした。でも、サムソンは弱い人でもありました。

サムソンの時代、イスラエルとペリシテ人とは反目しあっていました。
イスラエル人のサムソンは、ペリシテ人の娘を気に入って結婚することになり、祝宴が催されました。
祝宴に30人を招待しましたが、招待した人には晴れ着を用意して与えるという習慣があったので、ペリシテ人は、策略をめぐらしてサムソンにそれを求めました。

サムソンは謎かけをして、謎解きに勝ったほうが30人分の晴れ着を用意することにしようと提案しました。
その謎は「食らうものから食べ物が出、強いものから甘いものが出た」です。この意味を解き明かせというのです。これは、サムソンが素手で獅子を倒したのち、獅子の体の中にミツバチの群れと蜜があるのを見つけ、食べたという経験をもとにして作ったなぞなぞでした。

ペリシテ人たちは4日たっても謎が解けないので、サムソンの妻にサムソンをくどいて謎を明かし、知らせるように促します。

サムソンの妻は泣きすがって謎を教えてくださいとサムソンに迫ります。
サムソンは抵抗しましたが、耐えられなくなって7日目に打ち明けてしまいました。

そのことによって、晴れ着も妻もペリシテ人に奪われてしまいました。

サムソンは、強い人だったはずなのにどうしたことでしょう。
絶対に解けない謎を考え出したことは、サムソンの勝利でした。
一方、妻に泣きつかれて、謎を明かしてしまったことは敗北で、サムソンの弱さの表れでした。
こののち、サムソンはまた同じような過ちを犯してしまいます。

サムソンの勝利の秘訣は、自分の力が主によるものだと自覚することです。なぞなぞも主の力が働いたからこそ得られました。アシュケロンでの戦いも自分一人なら勝てなくても、主が共にいてくださったから勝てたのです。
サムソンはティムナの町では敗北しました。妻も取られてしまいました。

人生の中で勝利することもありますが、敗北することもあります。
『敗北で自分の弱さを知り、勝利で主を知る』

イエス様は試練や苦しみを味わってくださいました。イエス様はわたしたちに生きる模範を示してくださいました。
わたしたちは、弱さを覚えますが、神の力のゆえに強くされ、キリストによって勝利を得るのです。


「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです(Ⅱコリント13:4)」
と聖書に書かれています。

『弱いときにこそ強い』とは神様を抜かして考えると、どういうことなのか分からなくなってしまいます。
わたしはよく病気をします。というか、常に病との戦いがあります。病が優勢になると、じっとして寝ていることしかできなくなります。自分の無力をとことん感じます。

かつては、具合が悪くなると、自分がみじめになっていました。そして、早く癒されたいとあせりました。
でも、最近は、具合が悪くてもあせらなくなりました。この弱くて何もできない時間を与えられたのには意味があるのだと思うからです。

先月の病のときは、末期がんの友にメールを出すという使命を与えられ、背中が痛んでたまらなかったときには、童話の構想が与えられました。収穫は大きかったです。



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荒野の旅

2018-04-21 11:22:26 | 聖書から
19日は教会での家庭集会でした。一週間前に家庭集会お知らせメールを出したときは、不安でした。その日、まだ具合が悪くて、皆さんに中止のメールを送ることになるかもしれないという恐れがありました。でも、神様はその日までに癒してくださり、祝福をくださいました。参加者11名は家庭集会始まって以来の大人数です。

学びの一部を紹介します
イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しめられていました。神様から選ばれたモーセは、イスラエルの民を引き連れて40年間も荒野の旅をしました。

何もない荒野で60万人の人が養われました。マナが空から降ってきて、人々はそれを集めて調理して食べました。水がないとき、モーセが岩を打つと水が出ました。

教会学校で子どもたちによく話しました。お話の準備をするときは聖書を読みますが、出エジプトの箇所を物語のようにして読んでいました。
けれども実際はどうだったのでしょう。水のないことでもめていますが、水は毎日欠かせないものです。泉や池や川のほとりにばかり天幕を張ったわけではなかったでしょう。移動しているときも、水がないと大変なことになります。

「四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。(ネヘミヤ記 9章21節)」

と書かれていますが、40年同じ服を着ていて擦り切れなかったとしたら、現代の服より長持ちする服を着ていたことになりますね。

神様は、水や食べ物を毎日豊かに与えてくださいました。
民が「肉が食べたい」とつぶやいたときは、神様はうずらの大軍を降らせてくださいました。

アマレク人との戦いもありました。神様は民を守り、勝利に導いてくださいました。

イスラエルの民が行く先を知らなかったとき、神様は雲の柱と火の柱で道を示してくださいました。

『神様が厳しい荒野での生活を素晴らしい祝福の場所に変えられたのです。』とレジュメに書かれていました。
神様はなぜイスラエルの民を荒野に導いたのでしょう。まっすぐ進めば一年もたたないうちにカナンの地に到着できたのに……。
その答えは聖書にありました。

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩まされた全行程を覚えていなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。(申命記8:2)」

このことにより、荒野が祝福に変えられます。荒野の道を歩ませておられる方は神様ですから、民を荒野でいたずらに苦しめようとしているわけではないことがわかります。

痛み、苦しみの中に神様はおられます。
苦しい目にあって、不平不満を言うときは、神様が見えなくなっているときだと聞いて、その通りだなあと思いました。

わたしは今回予想もしなかった病気で二週間寝込みました。神様はなぜわたしをこのような苦しい目に合わせるのだろう……と思いました。そのときは神様が共におられることを忘れていました。

末期がんの友人にメールを送るという使命を与えられてからは(前回の記事に書いています)慰めの言葉が書けるようにひたすら祈って、必死な思いで書きました。そのときは自分の身体がつらいことを忘れていました。むしろ、こんな状態だからこそ、書ける言葉があったのだと思って、病を感謝しました。
なぜこのときに友人にメールを送ることになったのか……説明がつきません。神の配剤でしょう。




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心はうちに燃え

2018-03-23 13:30:22 | 聖書から
4月1日はイースターです。
イースターとは、キリストの復活を記念して設けられた祭りです。

キリストの復活とは、キリストが十字架につけられて死に、3日目によみがえられたことを意味します。

イエス・キリストは何も悪いことをしてないのに十字架につけられました。どういうことでしょう。

わたしたち人間は、生まれながらに罪を持っています。罪のために神様から罰を受けなくてはならない者たちです。でも、神様はわたしたちに罰を与えるのがしのびなくて、わたしたちの身代わりとしてひとり子のイエスを十字架につけてくださいました。
神様はそれほどわたしたちを愛してくださっているのです。

イエス・キリストは、十字架につけられて死にました。でも、3日目によみがえられたのです。弟子たちの前に何度も姿を現してくださいました。
家庭集会でも礼拝でもエマオ途上の箇所(ルカの福音書24:13~35)が取り上げられたので、エマオ途上のシーンを物語ふうに書いてみました。

二人の弟子がエルサレムからエマオという町に向かって歩いていました。二人はうつむいて、何度もため息をついていました。師と仰いでいたイエス様がむごい死に方をしたのです。
「あの方が王様になって同胞の者たちを救ってくれると思っていたのに……」
「どうしてこんなことになったんだ。あの方にすべてを賭けていたのに、これから誰を頼りに生きて行けばいいんだ……」
そのとき、ひとりの人が近づいてきて「何を話しているのですか?」尋ねました。弟子たちは、「近ごろ起こった出来事を知らないのですか?」と逆に質問しました。

その人は旧約聖書の中に救い主の預言が書かれている箇所から、二人の弟子たちと語り合いました。語っているうちに二人の心はうちに燃えました。
夕方になってもその人はまだ先へ行こうとしたので、弟子たちは自分たちの宿に誘いました。

夕飯の時、パンを裂いたその人を見て、弟子たちはあっと驚きました。その人はイエス様だったのです。これまでは二人の目が遮られていて、気づかなかったのでした。
それからイエス様の姿は見えなくなりました。

弟子たちは、すっかり暗くなった夜道を走り出しました。エルサレムにっもどって仲間たちに知らせるためです。
「イエス様はまことの救い主です!」
「イエス様はよみがえられました!」
ふたりは夜道の危険も暗さも全く気にすることがなく、走り続けました。心がうちに燃えていたからです。



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生活費ぜんぶを捧げた女

2018-01-19 20:39:55 | 聖書から
今日は教会での家庭集会でした。新しい方も来られ、祝福あふれた集会になりました。

新約聖書ルカの福音書21:1~4には献金をする女の人のことが書かれています。

やもめ(未亡人)であるこの人は、生活費全部を捧げるのです。イエス様はじっと見ておられました。

イエス様は「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(ルカ21:4)」と言って女の人をほめています。
そのあと、生活費がなくてその人はどうなったのか……と思いましたが、その後について聖書には何も書かれていません。

それより、生活費全部を捧げた女の人に注目したいと思います。当時のユダヤには福祉制度もなく、女性が働くことは許されなかったそうです。彼女は子育て中だったかもしれません。どうして生活費全部を捧げられたのでしょう……。

彼女は、そのあとの生活の心配はしないで喜んで捧げたようです。すべてのお金は神様から与えられたものだから、感謝して捧げたのだと聞いて、女の人の信仰に驚きました。

お金だけでなく、自分に与えられたものすべてが神から与えられたものとして受け止め、喜びを持って生きることの大切さを教えていただきました。


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見えるようになれ

2017-11-21 16:46:44 | 聖書から
このところ忙しくて毎日が矢のように過ぎ去っていきます。感動したことがあっても、書き留めていないと忘却のかなたに流れ去ってしまいます。
すべてを書き記すことはできませんが、今日は少しさかのぼって16日の家庭集会の学びを思い起こしてみます。

聖書には同じ章の中にいくつものエピソードやイエス様の語られたことが書かれています。

ひとつずつ切り離して考えがちですが、全く違うと思われたふたつのことが、実はつながっていたことを教えられました。

ルカの福音書18:31~33に書かれていることは、イエス様が12弟子に言った言葉です。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は3日目によみがえります。」
人の子とはイエス様ご自身のことで、これから起こることをおっしゃっているのですが、
弟子たちには、これらのことがさっぱりわからなかったようです。

18章35節からは、イエス様がエリコの町で盲人の目を癒されたことが書かれています。
物ごいをしていた盲人は、イエス様が自分のいる町に来られたことを人々の話し声から察し、このかたこそ神の子だと思ったのでしょう。

「ダビデの子のイエスさま、わたしをあわれんでください」と叫び続けました。
ダビデの子とは、神の子という意味です。人々にうるさいと言われようが、迷惑がられようが盲人は叫ぶのをやめませんでした。
イエスさまこそ癒し主、救い主だから今を逃したら一生お会いできないかもしれない。でも、お会いできれば見えるようになると信じたのです。

イエス様は彼を連れてくるように言われました。そして盲人に「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられました。イエス様は、盲人の考えていることをすべてご存知でしたが、あえて尋ねられました。
「主よ。目が見えるようになることです」

何と明快な答えでしょう。この人は少しもひねくれていません。
わたしだったら、「目が見えないことを知っているくせに、なぜわざわざ聞くのですか?」
と言ったかもしれません。


イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言って直してくださいました。
弟子たちは今、目の前で起きている出来事しか見えていなかったので、イエス様の語られたことを理解することができませんでした。

盲人は、目は見えなくても心の目が開かれていたので、イエス様が癒す力を持っていることを信じていました。
「あなたの信仰があなたを直した」と言われて、嬉しかったことでしょう。その後、彼は神をあがめながらイエス様についていきました。
一方、弟子たちはその後、イエス様についていけなくなります。

レジュメには「イエス様についていくためには何が必要でしょうか?」
「何が分かるとイエス様についていくことができますか?」
と書かれていました。



日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。


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何をして待つ?

2017-09-23 16:18:45 | 聖書から
一昨日は久々の家庭集会でした。教会の和室に8人の方が集まりました。
久しぶりだったので、まずは近況報告。そのあとで聖書から学びました。

わたしたちは、待たされることが多いと思います。病気が治るのを待つ。苦難が過ぎ去るのを待つ。誰かが来てくれるのを待つ。助けを待つ。主を待つ。

待つことの意味と、待っている時にすべきことを教えていただきました。

旧約聖書のイザヤ書40:30-31には次のように書かれています。
「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」


*『たゆむ』とは勢いが弱まるという意味です。

人生の中でいちばん力のある若者。しかし、若者でも倒れることがあります。若者が疲れてしまっても、「主を待ち望む者は力を得」と書かれています。

神様が疲れ果てた者に上から力を与えてくださるので、もういちど新しく力を得ることができます。

それでは、どうすれば神様から力をいただけるでしょうか? 唯一の条件は主を待ち望むことです。
聖書には何か所にも「待ち望め」と書かれています。

待ち望めとは、具体的にどういうことでしょうか。神を信じていても、時として失望することがあります。
自分の祈りは届いているのか? 神様が生きて働いているというのは本当か? など、不安になることがあります。信仰の偉人は、『待つことによってクリスチャンの信仰が成熟していく』と言っています。

パプアニューギニアの牧師先生から聞いた「待つ」(wait)ことの4つのポイントを教えてくださいました。

①W:WORK(働く)
すわって待つのではなく働きながら待つ。自分は何ができるのか考えて、今できることをしながら待つ。奉仕を忠実に行いながら待つことができる。

②A:CARE(世話をする)
周りの人を助けながら待つ。周囲を見回すとCareを必要としている人に出会う。Careしながら待つとき、神様は驚くことをしてくださる。

③I:LISTEN(聞く)聞きながら待つ。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
(へブル4:12)」


聖書のことばは生きています。生きているみことばを聞くことが大切です。みことばは動機の裏に何があるか教えてくれます。

④T:TRUST(信頼する)
信頼とは、より頼むこと。

実現が遅れていても、拒絶にあっても変わることのない神様が、人生に最も良いことをしてくださると信じてより頼むことです。

スポルジョンの言葉
「神は今も、なお必ずあなたを助ける。あなたを助ける神は、すでにあなたのために買って置いたものを与えている。あなたが千倍もの欠乏を感じているとしても、神はそれを与える。しかし、あなたは神が与えようとしているものを遥かに少なく要求している。自分では多く求めているように思っても、与える神にすればなんでもない」


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言葉の力

2017-09-15 16:44:16 | 聖書から
わたしが語った言葉に励まされたと言ってくれる人もいれば、わたしの言葉に腹が立ったとか傷ついたと言ってくる人がいます。
言葉を放った本人は、相手がどう受け取ったのかも気づかずに、何を語ったかさえ忘れていることがあります。


先日は、言葉について考えさせられました。
水曜礼拝では、十戒の学びをしています。
十戒とはイスラエルの民に授かった神様からの律法で、十の戒めです。

9番目に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と書かれています
それは、言葉によるものを戒めています。
聖書における偽りの証言とは、人が言葉によって犯す、すべての罪を示しているのだそうです。

言葉によって犯す罪と聞いてドキッとしました。わたしは今までどれだけ言葉で罪を犯してきたでしょうか。
もしかしたら、何十年も前に放ったわたしの言葉に、今でも苦しんでいる人がいるかもしれません。

20年近く前ですが、「あなたの言葉に傷ついた」と言われたときは、ひどく落ち込み、もう人を傷つけることがないように、ずっと沈黙していようと思ったほどでした。

でも、そのように言ってくる人はまれで、わたしに傷つけられても黙っている人が多いのだと思います。逆にわたしも人の言葉に傷つけられました。でも、それはほとんど忘れてしまいました。

人を傷つけないためになるたけ言葉を発しないというのは、極端な思いですね。それは神様を喜ばせることではありません。


人は本来、神様を賛美し、祝福となるように言葉が与えられたのです。

箴言には「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌は魂の破滅。(箴言15:4)」と書かれています。この聖書箇所では、言葉と舌は同義語とみなします。

舌はいのちにもなり、魂を破滅させるものにもなります。
『舌は剣より多くの人を殺す』とも言われています。

わたしは、いまだに恐れています。わたしの言葉が誰かを傷つけないかと。

『言葉による罪を犯さないようにするには、言葉の本来の目的の通りに言葉を使うことです』と牧師先生が言われました。

言葉は本来、神様を賛美し、祝福するものです。神様をほめたたえ、神様を証しするために言葉を使えば、人を傷つけることがないでしょう。

「ですからあなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ4:25)」

教会で一緒に長い間奉仕していた方が入院しています。脳梗塞のため言葉が出なくなってしまったと聞きました。声は出るのに言葉にならないそうです。言葉で伝えたいと思っても伝えられないもどかしさを感じておられるでしょう。言葉が戻るように祈ります。

言葉が与えられていることを感謝して、語れるうちに語り、書けるうちに書いていきたいです。
『ペンは剣よりも強し』ですから。



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誤解していたこと

2017-05-17 16:38:32 | 聖書から
*最後に追記あり

わたしは、22歳で洗礼を受けたとき、意味が十分わかっていませんでした。
教会へ通って半年ほどたったとき、「来週クリスマス礼拝で洗礼式があるので、受けませんか?」
と牧師先生から言われました。

わたしの今通っている教会では、洗礼の前に学び会があり、準備の時期があります。また、「救いのあかし」といって、どのように信じるに至ったか書いて提出し、面接を受けてから洗礼を受けます。でも、当時わたしが通っていた教会にはそのようなものはありませんでした。

三浦綾子の小説を読んで、罪に気づいていました。洗礼を受けて罪が赦されるなら受けたいと考え、その当日「受けさせてください」と願い出て、受洗に至ったのです。

洗礼を受けたら、罪を犯さない人間になれると思っていたわたしは、受洗後も相変わらず罪を犯してしまう自分に気づき悩みが深まりました。これは誤解でした。

わたしは癇癪持ちだったので、ときどき自分の感情をコントロールできなくなって、家の中で暴れました。気に入らないことがあると、階段を上って行って、二階でドンドン足を踏み鳴らしました。嫌だと思っていた父と同じようなことをしていました。そのことが罪だと気づいていましたが、受洗後もやっていました。

洗礼を受けると、神様の光に照らされて今まで気づかずに犯していた罪にも気づくようになるので、よけい罪深くなったと感じ、悩みました。そのことを牧師先生や先輩クリスチャンに相談すればよかったのに、引っ込み思案だったわたしはそれができず、誤解したまま教会を離れてしまいました。

神様は、わたしたち人間が罪のために滅びてしまうことがしのびなくて、わたしたちの罪を赦そうとされました。罪が赦されるためには死ななければなりません。それで神様はわたしたちの代わりにご自分の愛するひとり子、イエス様を十字架につけました。イエス様は死にましたが、三日目によみがえられました。
それでイエス様を信じるだけで、わたしたちの罪は赦されるようになったのです。

罪の赦しは一度限りではありません。洗礼を受けても心の中で悪い思いを抱くことがあります。そのときは、神様の前に罪を告白して祈れば、赦してくださいます。何度でもです。

聖書には次のように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」
あのときのわたしは、聖書をよく読んでいなかったのでこの言葉を知りませんでした。

教会を離れてしまったことは残念なことでしたが、洗礼を受けていたからこそまた教会へ行くようになったのでした。

水曜礼拝で、主の祈りにある「わたしたちの負いめをお赦しください(マタイ6:12)」(負いめとは罪)は、日々祈るものだと聞いて、考えたことを書きました。

追記:日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。私のエッセーも掲載しています。ここをクリックしてご覧ください。


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関心、無関心

2017-04-18 16:12:02 | 聖書から
先週の木曜日の家庭集会では、ルカ16:19~30からイエス様のたとえ話で「金持ちとラザロ」の学びをしました。遅くなりましたが、紹介させていただきます。

毎日贅沢な暮らしをしている金持ちがいました。彼の家の門前には貧乏で全身におできができているラザロという人がいて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。聖書には書かれていませんが、金持ちは、ラザロに対しては無関心だったようです。
金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
生きている間は対照的なふたりでした。

ラザロはやがて死に、みつかいたちによってアブラハムのふところへ連れていかれました。
後に金持ちも死んで葬られましたが、ハデスで苦しみを受け、見上げるとラザロがアブラハムのふところにいるのが見えました。

(アブラハムとは、ユダヤ人の先祖であると同時に『信仰の父』と呼ばれる人物です。「アブラハムのふところ」という表現は、聖書でこの箇所しかでてきませんが、明確な意味は分からないそうです)

死を味わうことにおいては、ふたりとも平等でしたが、連れていかれたところが違っていました。
金持ちが死んだ時、彼を葬った人たちがいました。葬式に出席した者は多く、彼に関心を寄せていた人たちがたくさんいたと思われます。
一方、ラザロに関心を寄せていた人はいなかったと思われます。「葬られた」とは書かれず「みつかいたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」と書かれているところに注目したいです。

ラザロという名前は「神に助けられる人」という意味があるそうです。

ルカ16:15には「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする人です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です」
と書かれています。

人からよ良い評価を受けても、神様の評価は違うということを示しています。

金持ちは、ハデスで苦しみ、アブラハムに助けを求めます。でも、アブラハムから死後の状態は変えられないと言われます。金持ちは、せめて自分の兄弟が同じような目に合わないようにラザロを自分の父の家に送ってほしいと頼みます。

アブラハムは「モーセと預言者との教え」があるので、その言うことに聞くべきだ」と言いました。

「モーセと預言者との教え」とは旧約聖書のことを指しています。

「聖書の教えに耳を傾けないのなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れやしない」
というアブラハムの言葉でこのたとえ話は終わっています。

レジュメには「信仰を持つためには奇跡や驚くべき出来事が必要でしょうか?」
「救われるために必要なのは何ですか?」
と書かれています。

実際、奇跡や驚くべき出来事が起きることがあります。でも、信仰を持つためにそれらが必要とは限りません。
救われるためには、自分の罪に気づき、悔い改めることが必要です。

このたとえ話はパリサイ人に向けてイエス様が語られました。パリサイ人とは、イエス様の時代のユダヤ人で、ユダヤの律法のすべての部分に、非常に熱心に従おうとした人々です。彼らはイエスを救い主であると認めていませんでした。

そんな彼らになぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。

パリサイ人たちは、いつもイエスのあげ足を取ろうとしていました。イエス様を見下してあざ笑っていました


イエス様は、そんなパリサイ人たちにも関心を寄せ、救いに与るように願っておられたからだと教えていただき、はっとしました。
神様は、わたしたちひとりひとりに関心を寄せ、愛してくださっているのです。たとえ話に出てくるラザロのような人にも、金持ちのような人にも、救われてほしいと思っておられるのです。神様の深い愛に心打たれました。

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理不尽な出来事、残虐な事件が起きたとき・・・・・・

2017-03-16 15:56:50 | 聖書から
殺人事件、戦争、テロなど、残虐な事件の報道を見聞きすると、神様はどうしてこんなにひどいことが起きるのを許されるのだろう……と思うことがあります。
何年か前ですが、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんが、飢えて死んでいく子どもたちを見て「こんな理不尽なことがあるから、神様はいないと思う」と言っていました。
果たして理不尽なこと、暴虐な事件が起きることが、神様がいないという証拠になるのでしょうか?

厳しい現実の中で神様を見いだしていくのは難しいことです。暴虐な事件が起きている時、神は沈黙しているようで、祈っても、祈っても事態が改善せず、悪くなっていく一方の場合があります。
そんなとき、どのように考えたらいいのでしょう。神様はなぜ助けてくださらないのでしょう……。

水曜礼拝の旧約聖書士師記9:42~49の学びで、その疑問に対する解決の糸口を示していただきました。
ギデオンの息子、アビメレクは、自分が王になるため70人の兄弟を虐殺しました。その後シェケムの町から裏切られると、復讐だと言って、神殿の地下に逃げ込んだ千人の人たちを火で焼いてしまいました。

聖書は虐殺があったことだけを記し、それが良いとか悪いとかは書いていません。
なぜこのようなおぞましいことが聖書に記されたのか……それは、自己欲のため自分に不都合な者を抹殺したいという人間の罪について考えてほしいということではないでしょうか。


残虐な事件が起きると、事件を起こした人だけが悪いと考えがちです。そして、事件を起こした人と自分には何の関係もない、何の共通点もないと思ってしまいます。

でも、人間は優しい面と残虐な面と、どちらも持っているのではないでしょうか。
いじめをテーマにした映画を観て涙を流した人が、映画館から一歩外に出たとき、一緒に行った友達をいじめたという話しがあります。

殺人犯を見て、自分は人を殺したわけじゃないからあの人より罪が軽いなどと言えるでしょうか。

理不尽な出来事、残虐な事件が起きたとき、それを神様のせいにするのではなく、人間の罪が事件を起こしていることを思い、自分自身の中にもある冷たい心を考えるようにと教えていただきました。

写真は暗唱聖句大会の賞品クッキーです。細かいところまでプリントされています。

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よい正しい道

2017-02-14 16:16:46 | 聖書から
教会学校で行う暗唱聖句大会の日が迫ってきました。
大会の約1か月前に聖句の書いた冊子を配り、子どもたちに覚えるようにすすめまています。暗唱聖句大会の日は、冊子に書かれた聖句を用いてゲームをします。小学生が70人ぐらいいるので、高学年、低学年分かれて行います。

今年は暗唱聖句大会委員になったので、み言葉を選ぶことから始まって、冊子作りをし、当日のゲームの準備をしてきました。
今年は、なるたけ覚える聖句の意味が子どもたちにわかるようにと工夫しました。昨年からテキストに従って小学科礼拝でお話ししてきた旧約聖書のサムエル記から聖句を選びました。新約では、イエス様の受難と十字架、よみがえりの箇所の聖句を選びました。

それプラス主の祈り、チャレンジ聖句(以前このブログで紹介した詩編139:1-18)と5曲のこひつじソング(聖句を歌にしたもの)です。
子どもたちに負けないようにとわたしも覚えました。チャレンジ聖句は10日ほど前に全部覚えられ、友人に聞いてもらって合格をいただきました。

次は20の聖句です。家事をしながら、お風呂でも一生懸命覚えています。聖書箇所も覚えるのですから大変です。
20の聖句の中でわたしがいちばん心にとまったのは、次の聖句です。

「私はあなたがたによい正しい道を教えよう。ただ主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。
(Ⅰサムエル12:23-24)」


この言葉は、預言者サムエルがイスラエルの民に言った言葉です。そのころイスラエルには王がありませんでした。神を王としていたので、人間による王は必要なかったのですが、民は戦(いくさ)のときなど、実際に指揮をとる王が欲しいと願い、王を求めました。それでサウルが最初の王としてたてられます。

イスラエルの民が王求めたとき、民はそれが罪であったと示され、恐れます。
そのような民に対してサムエルが言ったのが、この言葉です。

神様は、よい正しい道を教えてくださるというのです。『正しい』の前に『よい』がついているのはなぜでしょう。『正しい』だけでも『よい』だけでもいいのに同じような言葉を繰り返したのは、強調しているのだと思います。『最善の道であって、これ以外に道はない。』という意味も含まれているでしょう。

ただ主を恐れ、心を尽くし……

恐れるというのは、怖がるという意味ではなく畏敬の思いを持つということです。
心を尽くすというのは、イエス様が言われた言葉「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12:30)」の中にもあり、旧約聖書の何か所にも書かれています。

最後の一節、「主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。」を読んだとき、なぜ「偉大な」ことなのだろう、なぜ「見分けなさい」なのだろうと、思いめぐらしました。

サムエル記はモーセの時代から450年たっています。でも、出エジプトの奇跡を子孫に確実に伝えていったので、当時のイスラエルの民は、神様がしてくださった大きなことといえば、出エジプトの奇跡を思うでしょう。それはただ大きいのでなく、偉大なのです。

これまでのわたしの生涯で神様がしてくださったことを思い起こしてみると、なんと、偉大なことがたくさんあったのです。
何度も死の危機に陥り、精神的危機にも陥ったわたしですが、神様によって助けられました。思い起こしてみると、感謝の思いに溢れます。神様のしてくださった、たくさんの偉大なことを見分けて自分史を書こうと思っています。



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いのちの言葉

2017-01-05 20:09:28 | 聖書から
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
年が明けたのでブログを書きたいと思いつつ、なかなか書けませんでした。お正月は息子たち一家と娘夫婦が来て泊りました。

9歳と2歳の男の子たちが元気で、狭い家を走り回っていました。
おせち料理はなんとか作りました。煮しめの残ったものをてんぷらにするとおいしいと聞いて、やってみたら、ヒットでした。煮物の里芋やれんこんを食べない子どもたちも、揚げたものならどんどんおかわりして食べてくれました。

1日はおせちとお雑煮をいただいてから、わたしひとりで教会へ行ってきました。


今年の年間聖句はピリピ2:15-16から「いのちの言葉をしっかり握って、暗い世に、星のように輝きなさい」です。

いのちの言葉とは何でしょう。それは、神様の言葉です。神様の言葉は、聖書に書かれています。なぜ、神様の言葉をいのちの言葉というのでしょう。神の言葉の中にいのちがあるからです。
ひからびた種でも、その中にいのちがあります。種を受け取ったとき、神の言葉のいのちが芽を出し、花を咲かせます。

昨年の11月に学生時代の友人9人で旅行に行きました。病気で参加できなかった友に
メールを出すと、『前にもらった手紙を繰り返し読んでいます。聖書の言葉が慈悲深く感じられます。』
と返信をいただき驚きました。前に出した手紙というのは、6年も前にわたしが神戸に行って、学生時代の友人たちと会ったとき書いた便りのことです。それを何度も繰り返し読んでくれたとは・・・・・・・そして、手紙の中にいくつか聖書の言葉を書いたのですが、それが友人の心をとらえていたのです。

また何年か前のことですが、別の友人から「年賀状にいつも聖書の言葉を書いているのに、今年はなかったね」と言われました。なかったねということは、いつも読んで心に留めてくれていたということではありませんか。

神さまの言葉に力があることの証拠です。
それで旅行記を(ブログに書いてあることをまとめて)書いて、その中に聖書の言葉も書いて、昨年のクリスマスに友人全員に送りました。
花を咲かせてくれることを期待しつつ……。


また、フランスの写真アップしていきます。

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「みんな言ってる」に恐怖を感じるとき

2016-11-19 11:08:47 | 聖書から

「こうしないといけないのよ」「みんな言ってるよ」
と言われると、深く考えないで人の言うことに従ってしまうようなことありませんか?

わたしは中学生まではそのようにしていました。意志を持たない者のようで、人が赤が好きと言えば、「わたしも」と答え、白が好きと言えば「わたしも」と答えていました。

もちろん意志はあるのですが、自分を押し殺して本音を誰にも言えないでいました。
中学に入学したとき、部活を選ぶのに友達のすすめたところにしか入れませんでした。体が弱いのにバスケに入り、喘息の発作を起こして大変でした。

その中学は一学期だけ通って、神戸に引っ越すことになったのでバスケからは解放されましたが……。
いやだといえば、嫌われるのではないかという恐れがあったからです。

なぜこんなに優柔不断だったのでしょうか……。『みんな言ってる』という言葉と『恐れ』を心の中に入れてしまったからです。


昨日の家庭集会では「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)」という聖書の言葉からお話を聞きました。

心を見張るとはどういうことでしょう……。心の入口を守ることです。

『怒りや嫉妬など悪い思いを心の中に入れないように。』と言われましたが、悪い思いが心の中から次々湧いてくるようなときがあります。
悪い思いを作り出しているのではなく、入ってきているのですね。

イエス様は心に見張りを立てておられました。人々がイエス様を王としてエルサレムに連れて行こうとしたとき、イエス様はそのことを知ってひとり山に退かれます。傲慢にならないため、十字架の使命を果たすためです。

また、イエス様が弟子たちにこれから起こる十字架の苦しみのことを話したとき、ペテロがいさめて「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と言いました。
そのときイエス様はペテロに向かって「下がれ。サタン」と言っています。
弟子をサタンと呼ぶとはずいぶんですが、きっぱりと拒否するためには、そのぐらい強く言わなければならなかったのです。

イエス様も十字架は恐ろしかったと聞いて、ゲッセマネの丘で苦しみ悶えて祈っているイエス様の姿を思い浮かべました。
十字架の道を避けることはいくらでも可能でした。でも、避けて通ってしまえば、人類を救うという神様のみこころを実行することができません。それで、恐ろしいという思いを心に入れないよう、心を守られたのです。


今のわたしはどうでしょう。悪い思い、誘惑、嫉妬や怒り……そのようなものが心の入口まで来ています。うっかりすると中に入って、あっと言う間に増大するでしょう。

祈るしかありません。
イエス様、どうか心の入口に来てください。そしてわたしの心のドアを守ってください。
「心を守ると、いのちの泉がこれからわく」のですね。いのちの泉をあふれさせてください。

追記
2012年10月31日に書いた「みんな恐怖症」という関連記事あります。ここをクリックして下までスクロールしてご覧ください。

写真はパリの凱旋門。


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