生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

ゆだねるとは……

2019-09-25 15:17:57 | 教会
22日の日曜日は3人の方が洗礼を受けました。その中の一人はTEENSのメンバーで中学3年生のSちゃんです。Sちゃんのことは赤ちゃんの時から知っています。中学一年生のころから素直な信仰をもって、受洗に至りました。なんと嬉しいことでしょう。

メッセージはTEENS担当のK先生でした。一部紹介させていただきます。(青字はメッセージ、緑字は聖書の言葉、茶色字はわたしの感想)

詩篇37章5~6節には
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」

と書かれています。

道とはわたしたち自身のことです。
ゆだねるとは、ヘブル語では『ころがす』という意味です。手に持っているものを手放すということです。ゆだねたら、もう何も持っていないということです。


わたしは、祈りの最後によく「主にすべてをおゆだねします」と祈ります。でも、そのあとで色々不安になることが多いです。ということは、ゆだねていない、ゆだねきれてないということです。なんと不信仰なのだろうと落ち込んでいると、「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」という聖書の言葉が迫ってきました。


この詩篇を書いたのはダビデです。ダビデはサウルに命をねらわれて10年以上逃亡生活をおくっていました。
アドラムの洞穴に隠れていたとき、サウルはダビデたちがいるとは知らずに用を足しに洞穴に入ってきました。ダビデの部下は、サウルを殺す絶好のチャンスだと言いますが、ダビデはサウルの着物の裾の切れ端を取っただけでした。(Ⅰサムエル24:1-4より)

なぜダビデはサウルを殺さなかったのでしょう。それは、神様が事をなしてくださるので今後のことは、神様にゆだねると祈っていたからでした。神様のみこころが必ずあるので、自分の思いのすべてを神にゆだねたのです。

神様はゆだねられたことを必ず成し遂げてくださいます。
また、神様は誰よりも私たちの心と思いの正しさを知っておられます。神によってのみ光輝くのです。


ダビデはサウル王に対して何も悪いことをしていないのにサウルに追われる身となりました。逃亡生活は理不尽であり、精神的にも辛いものだったでしょう。その中にあってすべてを神にゆだねられたのは、ダビデが神様を信頼していたからなのですね。



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宮嶋裕子さん再び

2019-09-10 18:26:06 | 教会
8日の午後、ナオミ会(教会の婦人会の一つ)で宮嶋裕子さんの講演会がありました。宮嶋裕子さんは、三浦綾子さんの初代秘書です。6月に婦人集会で宮嶋さんのお話を聞いて大変励まされたので、今回もぜひお聞きしたいと思いました。

でも、参加できるかどうかはぎりぎりまでわかりませんでした。
土日は孫たちがくる可能性が高いので、もし来たら講演会には行けません。

また、台風が近づいているので、午後までいたら自転車で帰れなくなってしまうかもしれません。
それでも希望を持って祈りつつ、当日は朝8時に家を出て第一と第三礼拝に出ました。

午後になって講演会が始まるとき、空は晴れていました。『きっと大丈夫』と、思い切って参加しました。大丈夫でした。

ふだん、ナオミ会に出ていない者ですが、皆さんが温かく迎えてくださいました。
講演が始まるころには疲れでふらふらしていました。手元にあるメモ書きを見ながら一部を紹介させていただきます。

綾子さんは、自分が罪赦されたことを本当に感謝していました。

自分の罪に気づいて自殺しようとオホーツク海に足を入れたとき、前川正さんに助けられました。
その後、綾子さんはキリストに導かれ、病床洗礼を受けました。

西村久蔵さんは、「クリスチャンは神さまの愛を伝える者なのだ」と言いました。それで綾子さんは受洗の翌日から祈り、キリストを伝えたそうです。

脊椎カリエスになって体が固定されるとき、牧師先生は「必ず治ります」と言いました。綾子さんはその言葉に助けられたそうです。

「人を励まし、慰める言葉を心に蓄えておかなければならない」と綾子さんは言っていました。

綾子さんは、自分がサマリアの女のようだとも言いました。

サマリアの女とは、ヨハネの福音書4章(新約聖書)に書かれていますが、イエス様と弟子たちがサマリアの町を通った時、井戸があったので、その傍らで休まれました。

お昼ごろひとりのサマリアの女が、井戸に水くみにやってきました。女は、後ろ指をさされるようなことをしていたので、町の人が水を汲みに来ない時間にやってきたのです。

イエス様は「水を飲ませてください」と女に声をかけられました。

当時、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く、顔を合わせても言葉を交わすことがなかったそうです。

彼女は驚きましたが、イエス様と話をするうちにイエス様が預言者だと信じるようになります。
イエス様は、女の過去を言い当てました。

彼女は町へ行って、イエス様のことを伝えました。サマリアの人たちはイエス様に滞在してくれるように頼み、イエス様は2日間留まり、福音を伝えます。それでサマリアの人々はイエス様が救い主だと信じました。

綾子さんがこの女の人と自分を重ね合わせたのでしょう。相手が何と言おうと、イエス様のことを伝えずにはいられないという気持ちで、書いて伝えたのだと思います。
最後に綾子さんの聖書に赤線が引かれていた箇所を紹介します。


「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。(ピリピ2;13、14)」



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本当の喜び

2019-08-22 11:04:39 | 教会
今月初めから毎日誰かが泊りに来ていて、3度の食事に追われ、大忙しでした。
長男の子どもたち、ヒックンとナルクンは夏休みなので、行ったり来たりしていました。娘の子どもたちソークンとズーちゃんは、パパの実家の行きと帰りに寄ってくれました。

2日空きましたが、その間に妹が来ました。
嬉しかったのは、妹と教会へ行けたことです。
お盆の一週間、教会の納骨堂が開放されていました。妹の来る日はちょうどチャペルピスガで召天者追悼礼拝が行われました。
妹にはそれに間に合うように来てもらいました。都内に住んでいるので、こちらまで電車で2時間はかかります。
妹は、「何とか間に合うようにいくわ」と言って8時前に家を出てくれました。

礼拝メッセージは、慰めについて語られました。
ヘンリー・ナウエンは、「本当の喜びとは、私たちが無条件の愛をもって神様に愛されているということです。
そして、その愛を何ものも取り去ることができない。たとえ病気であっても、挫折するような大きな失敗があっても、悩みや争いごと、悲しい別れがあったとしても、私たちは神様の愛に満たされているのです。」


病気、失敗、悩み、争いごと、悲しい別れがあっても神の愛に満たされているとはどういうことでしょう……。

聖書マタイの福音書6:26には
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉におさめることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」と書かれています。

また、1コリント3:23には「そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」とあります。

つらいことがあっても、すべてをご存じである神様が、必要なものを与えてわたしを養ってくださているではありませんか。
わたしは生きるにも死ぬにもキリストのものです。キリストは、尊い血をもってわたしの罪を完全に赦してくださいました。

そのイエス様が前から後ろからわたしを取り囲み、守ってくださるのだと気づきました。
ですから、どんなことがあっても神の愛に満たされているので、平安があるのです。

妹が帰ったあと、孫たちが入れ代わり立ち代わり来て、またまた体調を崩してしまいました。
キャンプ奉仕はできませんでしたが、平安をいただいて感謝の日々です。



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苦痛総量一定の法則

2019-07-23 18:02:22 | 教会
先日の日曜日の礼拝メッセージはダニエル書2:1-18からでした。メッセージの中で「苦痛総量一定の法則」という言葉が心にとまりました。

人が一生の間に受ける苦痛の総量は同じだという人がいます。本当でしょうか?わたしは苦痛が人一倍多いと思っているので、一定の法則に対して反発したくなります。

健康で何の苦痛もなく、裕福で悩みもなく、望むものすべてを手に入れ、幸せに暮らしている人をうらやましいと思ったことがあります。

でも、幸せそうに見える人が実は大変な悩みを抱えていて、人にも言えずに苦難に耐えていることがあります。あるいは今は幸せな生活をおくっていても、子どものころ苦痛を受けながら過ごした人もいるでしょう。
あるいは若いうちは何の不自由もなく過ごしていたのに老年になってから苦痛の日々を過ごしている人もいるでしょう。

苦痛総量一定の法則が正しいかどうかはわかりません。ひとりの人が一生の間に受けた苦痛を客観的に調べることができないからです。それに苦痛の度合いが人によって違いますね。

他人の痛みはたいしたものではなく、自分自身の苦痛は100倍にも感じられる。と聞きますが、それは本当だと思います。

旧約聖書ダニエル書に出てくるネブカデネザル王は、間違ったことを言っても、気に入らない人を抹殺しても、誰にもとがめられないほどの権力を持っていました。 そのネブカデネザル王が夢を見ただけで恐れ、平安がなくなると、知者たちに夢の解き明かしをさせようとし、それが出来ない知者たちを抹殺しようとします。

一方ダニエルは殺されるかもしれないと知っていて王にしばらく時間をくださいと申し出ています。それは、祈るため必要な時間です。3人の信仰の友と共に神に祈り、神から夢の内容と意味を示していただき、ダニエルと3人の友、知者たちのいのちが助かるのです。



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三浦綾子の生き方

2019-06-17 16:22:20 | 教会
15日土曜日は教会でのティータイムでした。

講師は三浦綾子の初代秘書、宮嶋裕子さんです。宮嶋裕子さんは土浦めぐみ教会に転入されて毎週礼拝に出ておられます。

わたしは三浦綾子さんの本を読んだことがきっかけでキリストを信じるようになったので、三浦綾子さんの近くにいて生活を共にされた宮嶋さんの話をどうしても聞きたいと思いました。

ところが15日~16日はTEENSのお泊り会になっていました。場所は同じ教会内です。担当の牧師先生に相談すると、ティータイムの間、抜けてもいいと言われたので、そうさせていただきました。その代わり、16日は朝6時に教会に行って朝ごはんの準備をすることにしました。

15日は横殴りの雨が降っていました。家の中から見ると、たいしたことないような気がして、昼過ぎに出かけました。お泊り会朝食の荷物が重かったので、キャリーカートに積んで右手で引き、左手には傘をさして出かけました。風に何度も傘を持っていかれそうになって必死につかんで橋を渡りました。ウインドブレーカーは着ていましたが、スカートと靴下はびしょ濡れです。

ちょっとみじめな気持ちになってティータイム会場に行くと、土砂降りの雨などなんのその……大勢の方が宮嶋氏のお話を期待して待っていました。


宮嶋さんのお話の一部を紹介させていただきます。

三浦綾子さんは、西村久蔵さんに「出会った人は皆あなたの責任範囲なのですよ」と言われ、ひとりひとりを大切にして生きる決心をされたそうです。

脊椎カリエスで寝たきりの状態になっていても、出会った人にハガキを書き、神の愛を伝えました。ハガキを書くと疲れて3日間は何もできなくなってしまうのに……。いのちがけで神の愛を伝えていました。

突然、自殺願望のある人が家を訪ねてきたとき、綾子さんは、足袋履きで玄関から出てきて抱きしめたそうです。ひとりひとりを愛することを実行されていました。

綾子さんも夫の光世さんも身体が弱かったのですが、綾子さんは「病気になって治るだけなら意味がない。神様から与えられた病を喜べるようにしてください」と言い、光世さんは「弱い体にしてくれてありがとう」と神様に感謝しています。

それを聞いてわたしは衝撃を受けました。以前三浦綾子の本で読んでいたのですが忘れていました。

体調が悪かったとき、そのことを感謝していませんでした。喜ぶどころか早く治してくださいと祈っていました。具合が悪くなったのも意味があることだったのですね。

健康であることがプラスで病気がマイナスだと考えがちですが、マイナスとマイナスをかけるとプラスになることを思えば、明るい気持ちになれますね。

綾子さんはたくさんの病を得ましたが、癌になったときは次のように言ったのです。
「神様にとって、風邪を治すことと癌を治すことは同じです」

綾子さんは「氷点」入選で一躍有名な作家になりましたが、最後までブレませんでした。それは、毎朝欠かさずに光世氏と共にデボーション(聖書を読み、祈る)をしていたからです。
大切なことを教えていただいて心から感謝しました


そして、16日は早朝に起きて教会へ行き、25人分の朝食のしたくができたのでした。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。わたしの書いた作品が掲載されています。ここをクリックしてご覧ください。


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手をつないで

2019-04-15 11:55:38 | 教会
上の写真は14日(日曜日)の写真です。
雨と風で散ってしまったと思っていたのに、まだこんなに咲いていました。

桜は咲いても必ず散ります。当たり前のことです。散らない桜があったら、それは造り物でしょう。
人間も必ず死を迎えます。死なない人はいません。でも、なぜか死について話す人は少ないです。避けているようにも思えます。

どんなに成功したって、ノーベル賞をとったって、大富豪になったって、人生の最後は死です。
むなしいとは思いませんか? テレビでは、どうしたら若く見えるか、死ぬ前まで健康でいるにはどうしたらよいか? などと、そのようなことばかり言っています。
肝心の死の問題についてまともに語る人は少ないです。それは死を克服していないと語れないことだからです

わたしは中学生のころ、なにもかも空しくなり、最後はどうせ死ぬのだからどうでもいい。と投げやりな気持ちで生きていました。

昨日の教会礼拝でのメッセージでは、まさに死の問題解決について明確に語られました。

旧約聖書創世記を読むと、ノアの洪水以前の人達は、寿命が長く、一番長い人で986歳です。でも、寿命が長いからと言って死なないわけではありません。
寿命が短い人でも聖書には「生んで、生きて、死んだ」と書かれています。人生が「生んで、生きて、死んだ」だけのものだったら、なんとはかないのでしょう。
例外もあります。エノクとエリヤです。

創世記5:24には「エノクは神とともに歩んだ。神は彼を取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。ともに歩んだとは、神と手をつないで歩んだということだそうです。

エノクはなんてすばらしい人生をおくったのでしょう。なんの経歴がなくても、エリヤのようにすごい力を持たなくても、エノクは神様の心と全くひとつになっていたのでしょう。
エノクが神様に近づけたのは、罪の問題が解決していたからです。
もし、解決していなければ神に近づくことができません。

イエス様が、十字架にかかって死んでくださったのは、わたしたち人間のため、あなたのためなのです。神様は、ご自分が造って愛しているあなたが罪のために滅びてしまうことが辛くて助ける方法を示しました。それは神のひとり子であるイエス・キリストを十字架につけて死にわたすことでした。
自分の子どもの身代わりに自分の命を差し出す人はいるでしょう。でも、人のために自分の愛する子を苦しめて死に至らせることのできる方は神様だけです。
イエス様は神の子なので、罪はありません。罪ある人間の身代わりになって罰を受けてくださいました。

イエス様は、神様に従われました。けれども、死んで終わりではありませんでした。
3日目によみがえられたのです。(教会ではこの日をイースターとしてお祝いしています)

そのおかげで誰でもイエス様を信じるだけで罪赦され、永遠のいのちをいただけるようになりました。肉体の死はあっても、イエス・キリストにある者は、決して死ぬことがないのです。

わたしは、このことを信じてから、むなしさがなくなりました。いつまでも残るもののために生かされたいと思います。エノクのように神様と手をつないで。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13:13)」



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新たな任務

2019-03-18 15:34:15 | 教会
体調を崩している間に、季節は冬から春へと移り変わっていきました。

孫たちも大きくなり、ヒックンは今日小学校の卒業式を迎えました。ナルクンは、我が家で着ていたパジャマがつんつるてんになり、ソークンは、はちきれそうなほっぺたで笑顔を見せてくれます。

1か月もブログを更新しないでいたら、多くの問い合わせがありました。Gooブログのアクセス数をみると、しばらく更新していないのに訪問者数がほとんど変わらないので不思議に思っていました。体調が悪いという記事で終わっていたので、多くの方が心配してくださったようです。お目にかかったことのない方まで……。

わたしはなんと幸いなのでしょう! 感謝します。おかげさまで元気になりました。以前に比べるとさらに体力が落ちましたが、その分神様が補ってくださいます。

日曜日は、主任牧師の離任式が行われました。メッセージは使徒の働き20:22-27からです。

パウロは神様から命じられて異邦人への伝道を命がけでしてきました。最後には義援金を運ぶという任務が与えられました。任務を果たしたとき、責められることのない良心の平安が与えられました。
パウロは「けれども、私が走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)」と言っています。

わたしも晩年には、「走るべき行程を走り尽くしたと、堂々と言える人になりたいですが、そのためには、どうしたらよいのでししょうか?

「主よ、わたしはどうしたらよいのですか?」と問いかけ、新しい任務をいただくように勧められました。
果たして今までわたしは神様に、「わたしはどうしたらよいのですか?」と真剣に問いかけたことがあったでしょうか……。
わたしの残された任務は何なのか、祈り求めています。


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3万5千回の選択

2019-01-14 16:21:06 | 教会
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは神の国とイエスが生きていることの証人となります。(使徒の働き1:3,8より)」
これは、2019年の土浦めぐみ教会の年間聖句です。

最初の文字をみると、精霊を想い浮かべる方が多いでしょう。山や木や石、動物などに宿る霊のことを精霊といいますが、聖霊は、天地万物を創造した神の霊のことです。
「それでは神の霊とは何でしょう?」と問いかけられたら、じゅうぶんに説明することができません。
聖霊の働きは聖書の世界でのことであって、今を生きる人たちには関係ないと思う方もいるでしょう。でも、目には見えなくても聖霊は確かにおられ、今も働いておられるのです。

わたしは確かに聖霊によらなければ、こんなことは起こらなかったという出来事を目の当たりにしてきました。

頑固で人の話を聞くよりお説教をすることが大切と思って生きていた父が、聖書の言葉を読んで、涙を流しました。
「神様なんかいません」と自信を持って宣言していた母が、イエス様を求めるようになりました。
ありえないことでした。聖霊が働いて父と母の心に触れてくださったからこそ、ふたりとも神様を信じるようになったのです。


「人は一日に3万5千回の選択をし、決断している。」と牧師先生が言われました。

「人はさまざまなことを選び取って行動しています。その中のほとんどが、自分の安全と利益のために決定しています。祈りさえもそうです」

と聞いてドキッとしました。神様のため、人のためにと思って選択しても実は自分のためだったりするのです。

このような者がキリストの証人として生きることができるのでしょうか?
神様の答えは「生きることができます」でした。

神様はあえて愚かな人間を用いて宣教の業を進められるということを励みに、福音(イエス様のしてくださったこと)を伝えていきたいです。



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星をめあてに

2018-12-11 15:52:43 | 教会
先月29日から始めた里芋ポテトサラダ、なんとか続いています。血圧はほとんど変化なしですが、夫はとにかく3週間続けると言っているので、協力しています。

一昨日の日曜日は6人の方の洗礼式がありました。
その中で高校三年生のHくんの証しに心打たれました。Hくんは自閉症です。最初に出会ったときは、Hくんが小学一年生のときでした。

教会学校のキャンプで急に泣き出したので「どうしたの?」 と聞くと、「アンパンマンの始まる時間なのにテレビがない」と言って泣き続けました。なだめるのに時間がかかったことを思い出しました。

なかなかコミュニケーションがとりにくかったのですが、わたしがTEENSの教師になって中高生礼拝に出ていたとき、ちゃんと覚えていて声をかけてくれました。

Hくんの証は幼子のように正直でわかりやすいものでした。パパ、ママの言うことを聞かずに悪いことをした話しをし、ごめんなさいと謝りました。
それから、今まで出会った人の名前を挙げ、この人たちのおかげでイエス様を信じるようになったと、表明しました。
洗礼を受けたHくんの顔は輝いていました。涙があふれました。


洗礼礼拝で語られたメッセージの一部を紹介させていただきます。

今から約2千年前、イエス様がお生まれになったとき、今まで見たことのないような星が現れました。それを見た東方の博士たちは、救い主誕生の知らせに違いないと思い、星を目当てに旅に出ました。

博士たちとは誰のことか? 東方とはどこか? いろいろな説があるようですが、はっきりしていません。
東方の博士たちは、ユダヤ人ではなく、外の人です。どれぐらいの距離を旅したかわかりませんが、いのちがけの旅でした。

なぜこれほどまでして、救い主に会いたいと思ったのでしょうか。おそらく、ユダヤ人の知り合いがいて、聖書の内容を伝え聞いていたからではないでしょうか。

博士たちが救い主のところへ行ったのは、イエス・キリストがユダヤ人の救い主ではなく、全人類の救い主だということを表しています。
人間は、星を動かしたり、出現させたりできません。人知を超えたものです。人知を超えた神のメッセージを「啓示」と言います。
新しくクリスチャンになった人は、啓示(神の導き)にゆだねて未知の世界に旅立っていくようにとの奨めがありました。



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クリスマスというと何を思い浮かべますか?

2018-12-05 16:47:41 | 教会
クリスマスというと何を思い浮かべますか?

ツリー、リース、サンタクロース、トナカイ、七面鳥、プレゼント、イルミネーションなど・・・・・・。
どんなに豪華なクリスマスを過ごしても、心の中に空洞があって寂しくてたまらないと思っている人もいるでしょう。そのことを他の人には知られたくなくて、明るくふるまったり、騒いだりすることもあるでしょう。
あるいはゲームに没頭してむなしさを感じないようにしている人もいるでしょう。

でも、人は誰でもむなしさを感じています。人の心に空洞があるのは当たり前なのです。
では、どうしたら空洞を埋めることができるのでしょう。

「たったひとつの光が私たちに与えられている」
先日の日曜礼拝で牧師先生が言われました。

光とはイエス様のことです。イエス様は小さな赤ちゃんとなって地上に来てくださいました。
聖書には「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって広義をもたらす。(イザヤ42:3)」と書かれています。

茎の中に空洞があって、すぐに折れてしまいそうな葦を折らず、消えかかっている燈心を消すこともなく……というのは、わたしたち弱い人間に対するイエス様の愛が現れていると思います。
「広義をもたらす」とは、迷いやすいわたしたちが、神様の示す正しく進むべき道を歩めるようにしてくださるということです。

クリスマスは神の子イエス様の誕生日です。
わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」
と言ってくださるイエス様。そのままで愛してくださるイエス様。イエス様を心の中に迎え入れたとき、心の空洞が埋められ、むなしさの代わりに喜びが訪れます。



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成功の秘訣

2018-11-08 16:42:35 | 教会
昨日の水曜礼拝は、宣教師のP先生がメッセージをしてくださいました。
力強いメッセージを聞いて神様から背中をぽんとたたかれた気持になりました。

メモも十分取れず、ただ圧倒されて聞いていたので、うまくまとめられませんが、心に残ったことを書いていきます。

P先生の家族はクリスチャンホームではありませんでした。唯一おばあさんがクリスチャンで、祈り深い人でした。
P先生はおばあさんの祈りで教会に行くようになって、イエス様を信じました。洗礼を受けてから家族に福音(イエス様のしてくださったこと)を伝えると、一週間で家族の者が次々と救われたそうです。

聖書には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒の働き16:31)」と書かれていますが、その通りになったのです。

「神様は宇宙を造られました。そして、私を造ってくださいました。神様はお父さんです。

神様は永遠です。世の中は変わっていきますが、神様の言葉は永遠に変わりません。

地上に生きているわたしたちの時間は限られています。年を取るほどに時間が加速していきます。地上で残されているいのちは短いのです。
たったひとつしかないのちです。何が永遠で、何が永遠でないのでしょう……。」
と、P先生が言われました。

そうです。時間は限られているのです。永遠でないことに時間を費やす暇はありません。

「あなたは、そこで何をやっているのか? 子どもたちに神の愛を伝えるために立ち上がったのではないのか?」と神様に言われた気がしました。


成功の秘訣は、「聖書の言葉に従順に従うこと。神と親密になること」だそうです。


ダビデは「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。(詩篇84:10)」と書くほどに、神様との交わりを喜んでいました。

思いがけない災難がやってきたとき、「神様、どうしてですか? わたしを愛しておられないのですか!!」と叫ぶほど神様と親密な関係になっていたいです。


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人生の最後までできること

2018-10-30 16:03:09 | 教会
先日の礼拝メッセージは、ピリピ人への手紙最後の節から語られました。

最後の節には、たった一言「どうか、主イエスキリストの恵みが、あなた方の霊とともにありますように」です。
ピリピ人への手紙は獄中書簡といわれ、パウロが牢の中で書いた手紙です。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)」とあるのは、死を自覚し、最後の手紙になるかもしれないと思って書いたのでしょう。

「ピリピ人への手紙の最後は祈りの言葉です。遠く離れたところにいる同胞のことを祈る言葉です」と聞いて、祈ることの大切さを教えられました。

日野原重明さんは、「生きるということは、いのちを使うことです。このいのちを他の人のために使うことです。それが使命です」と、言われたそうです。
わたしたちの使命は何でしょう? 最後までできる使命は祈りです。


確かに年を取り、何もできなくなって、寝たきり状態になってもできることはあります。それは、祈ることです。手を組むことさえできなくても、言葉が出てこなくても、心の中で祈れるのです。


ヘルマン・ホイヴェルスの詩が紹介されました

最上の業

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。



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これで十分

2018-10-23 15:56:56 | 教会
新約聖書の神様はやさしくて、旧約聖書の神様は厳しいと思っている人はおられませんか? かつて、わたしもそう思っていました。

もっと前は、新約聖書は新しい訳で旧約聖書は古い訳だと思っていました。それにしては旧約聖書はぶ厚くて、新約聖書の何倍ものページ数があります。

ひとりで読むと、何のことが書かれているのか理解できません。旧約と新約がどうつながっているかもわかりません。
新約と旧約の『約』は約束の『約』、契約の『約』で、訳ではないこと。旧約はイエス・キリスト誕生以前のこと、新約聖書はイエス・キリストの誕生後の事が書かれていると教えていただいたとき、目が開かれたようでした。

先日の礼拝メッセージでは、へブル人への手紙から語られました。へブル人への手紙は新約聖書の中で難関といわれる書簡だそうです。

書いた人が誰なのかわかりません。パウロが書いた手紙には挨拶文がありますが、へブル人への手紙には挨拶も自己紹介もありません。自己紹介しなくても宛先のへブル人と周知の仲だったからか、それとも切迫感があって、まず伝えたいことをいきなり書いたのか、どちらかわかりません。

へブル人とはユダヤ系クリスチャンのことで、旧約聖書は認めるのですが、イエス・キリストが救い主とは認めない人たちです。
その人たちにへブル人への手紙の筆者は何を伝えたかったのでしょうか。

聖書には次のように書かれています。

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(へブル人への手紙1:3)」

旧約聖書では、海が二つに分かれたり、岩を杖でたたいたら水が出たり、天から火が降ったり、ライオンの穴に投げ入れられていたダニエルが助かったり……と数多くの可視的な奇跡が書かれています。

これらの奇跡はなぜ今は起こらないのかと思われる人もあるでしょうが、イエス様のしてくださったことに比べれば完全ではなく、キリストのひな型でしかないのです。

旧約に書かれているどの出来事よりはるかに卓越しているのが、イエス・キリストのしてくださったことです。「イエス・キリストのしてくださったことで十分だ」と牧師先生が言われました。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」

神様は、罪にために滅びてしまう私たちを救うためにイエス・キリストを惜しまずに死に渡されました。そこまでして私たちを愛してくださる神がすべてのものを恵んでくださらないわけがないでしょう。

神様のしてくださったことを思うと、胸が熱くなります。聖歌593番を歌いたくなりました。
1番を紹介します。


罪に満てる世界 そこに住む世人に
「いのち得よ」とイエスは 血潮流しませり
ああ 恵み はかりしれぬ恵み
ああ 恵み 我にさえ及べり



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祈っています

2018-07-20 16:23:23 | 教会
「祈っています。」「祈っているね。」「お祈りします。」

メールでよく書く言葉です。友人に悩み事や困ったことなどあると、「お祈りしています」と書きます。そして、メールを出した後すぐに祈ります。
何通もメールを出し、そのたびに携帯を持って祈っているので、クリスチャンでない人が見たら、携帯を拝んでいるように見えるかもしれません。

誤解のないように書きますが、携帯に向かって拝んでいるわけでも、友人を拝んでいるわけでもありません。天地を造られた神様に祈っているのです。
もちろんメールを受けたり出したりするときにだけ祈るのではありません。まずは朝のデボーション(聖書を読み、祈る時間)で祈ります。毎年祈る人が増えて50人ぐらいになりましたが、友人、知人、親戚の者などの名前を書いたカードを見て祈ります。祈られていることを知らない人も多いでしょう。

緊急の祈りが必要な人は、昼や夕方、寝る前に何度でも祈ります。ちょうど今、海外出張していた妹から無事帰国のメールが届きました。昨日から祈っていたので、無事着いたことを感謝しました。(妹は日本の暑さにびっくりしていました)

昨日家庭集会で「とりなしの祈りの祝福」と題して学びをしました。今回の家庭集会は、教会の和室で行ってから最高の人数(先生入れて12人)でした。

出エジプトをしたイスラエル人がアマレクと戦っているとき、モーセが手を挙げて祈っているときは優勢になり、疲れて手が下がると劣勢になりました。モーセの手が下がらないようにアロンとフルが支えて戦いに勝利しました。

手を支えるというのは、とりなしの祈りのことです。人のために祈るには、その人と話をし、その人のことをよく知り、その人に必要な祈りをするということを教えていただきました。祈りには力があります。

あまりにも抱えている問題が多すぎて、祈ることさえできないときは、友人に伝えて祈ってもらうのがいちばんです。


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あきらめないで

2018-06-14 17:02:42 | 教会
追記あり
今日は、教会での家庭集会でした。その学びも書きたいのですが、メモ書きが残っていたので、10日の日曜日の礼拝メッセージから書かせていただきます。

ピリピ人への手紙は、パウロが晩年に書いた手紙です。
ピリピ4:8に「最後に」と書かれていますが、多くは文章の最後に付け加えるような軽い意味でとらえられています。
ですが、ピリピ4:5の「主は近いのです」からつながっていて、世の終わりのことやパウロが自分の死期が近いことを思って書いているという解釈ができるそうです。

最後のすすめとは、「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8)」です。

心に留めるとは、⓵あきらめないで心を留めて追い続けなさい。
        ⓶そのことを実行している人に心を留めなさい。の2種類です。

それは理想で、実際にはできないという人たち・・・・・・わたしも含めてですが・・・・・・。

『でも、あきらめないで。わたしたちは聖化の途上にあるのです。』と牧師先生が言われました。


追記
日本クリスチャンペンクラブのHP更新しました。わたしの書いたエッセーが載っています。メニューの作品→春夏秋冬の「私とふるさと」をクリックしてお読みください。



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