生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

外なる人は衰えても

2011-01-30 16:21:30 | 日記
27日から昨日まで出かけていました。
27日は義母が遺族年金手続きをするために一緒に年金事務所へ行きました。義父が1月2日に召されたので、色々な手続きがたくさんあります。義母一人ではとても大変なのでお手伝いさせていただきました。
年金事務所は実家から電車とモノレールを乗り継いでいきます。やっと着いたと思ったら混んでいて一時間半ぐらい待たされました。

書類がそろっているか何度も確認したのに、一枚足りなくて手続きは完了しませんでした。足りない分は郵送でもかまわないと言われたのでほっとしました。
義母は、「こんなこともひとりでできないなんて、申し訳ない。申し訳ない」と繰り返し言っていました。

申し訳ないなんて思う必要はないんです。むしろ高齢者がこのようなややこしい手続きをしなければならないことに問題があるのではないかと思います。

お役所の手続きは、とても大変です。どんな書類が必要なのか、説明を読んでもなかなかわかりません。本籍が今住んでいる市にないので、取り寄せなければなりませんでしたし、取り寄せるために必要な物を問い合わせたり・・・とても84歳の義母一人でできることではありません。

高齢者の身になって考えてみると、大変なことがたくさんあることに気づきました。
年をとると目はかすみ、耳は遠くなります。(すでにわたしにもその兆候が表れています)早口で聞き取りにくい声で話されると何を言っているのかわかりません。

何度も聞き返したりすると、面倒くさそうに答える人、バカにしたように接する人もいます。ひどいときは、「息子さんか娘さんと一緒にあらためて来て下さい」と言われてしまうこともあるそうです。
子どものいない高齢者はどうしたらいいのでしょう。

「市役所に行ったとき、名前や住所、本籍地など、次々と質問されたの……認知症と疑われたみたい・・・」と、義母は嘆いていました。


28日は三鷹の実家に行き、母に頼まれて買い物につきあいました。電器店でテレビを購入したのですが、店員さんが早口でエコポイントの申請のことや、カードの申し込み方法など説明するので、母は聞き取れませんでした。

カードの申し込みはパソコン画面で行うので、母にはできないことでした。
「あんたが一緒について行ってくれてよかったわ。」
と言ってくれました。


29日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会でした。
久しぶりにみなさんと再会し、書くことに対する熱い思いを伺うことができて感謝しました。
「喜怒哀楽」の「喜」をテーマにした400字エッセイの合評も実りある時間でした。80歳の方が毎週礼拝をするたびに新しくなる喜びについて書かれている文章を読んで、はっと心打たれました。


聖書の言葉
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4-16)


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受け取るだけでいい

2011-01-25 17:21:01 | 教会
今週は木曜日から主人の実家へ行き、引き続いて自分の実家に行くので、今週中にしなければならないことを昨日、今日の2日間でしようとしていました。

今日は分刻みに計画を立てて、朝の片づけが終わるとすぐにとりかかりましたが、妹から電話が入って時間がずれ、疲れて休憩もしたので大幅にずれたまま夕方になってしまいました。
計画そのものが無理だったことに気づき、計画変更です。

いままで計画を立ててその通りできたことは、ほとんどありませんが……。
CS(教会学校)の準備とJCPの課題文だけはできたので、ブログを書くことにしました。

この前の日曜日は聖餐礼拝でした。
イエス様の『贖(あがな)い』という役割についてメッセージをいただきました。

旧約聖書には、いけにえをささげることによってその人の罪が赦されることが繰り返し書かれています。動物のいけにえによる贖いの儀式を忠実に行えば、罪が赦されるということで、レビ記などには細かな規定が書かれています。

これは旧約聖書における古い契約であり、型であります。新約の時代に入って、イエス・キリストにより実現されます。

イザヤ書53章6~8には 
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」


と書かれています。

イザヤ書はキリスト誕生の700年も前に書かれたものですが、イエス・キリストのことが預言されています。
神様は、羊のようにさまよい、自分勝手な道を歩んだわたしたちの罪を赦すために、傷のない子羊としてイエス・キリストを用意して下さいました。
キリストのなさったことは、ただ一度で永遠の贖いです。


わたしは、22歳で洗礼を受けたとき、このことがわかっていませんでした。
キリストを信じれば罪赦されることはわかりました。洗礼を受けた時、それ以前に犯した罪は赦されたけれど、その後に犯した罪はどうなるんだろう・・・と悶々としていたのです。

洗礼を受けるときは、受けたら新しく生まれ変わるのだから、もう罪を犯さない者になるのだと誤解していました。けれども受洗後、かえって罪深くなったような気がしました。それは罪に対して敏感になっていたからそう感じただけだったのですが……。

それで苦しくてたまらなくなり、教会へ行くのを止めてしまいました。
わたしは旧約の世界にとどまっていたのです。まるで、罪の赦しのため、いけにえの動物をささげたけれど、そのあとお金が無くなってささげられず、その後の罪が赦されないまま落ち込んでいる者のようです。わたしの考えによれば、何度も洗礼を受けなくてはならなくなります。

でも、イエスキリストの贖いは完了しています。贖いは、過去、現在、未来において有効で、一度限りのものです。このことがわかったとき、わたしは大きな喜びに包まれました。

正しく生きたいと思ってもそれができない者です。きよらかな心になりたいと思っても、腹をたてたり、人をうらんだりしてしまう醜い心の自分です。
そんな罪深い者に対して罪の赦しが約束されています。


「キリスト信仰は、心の貧しい者に対する神の素晴らしいメッセージです」と牧師先生が言われました。

キリスト教は、教えではないんです。神様のしてくださった素晴らしいことを受け取るだけでいいんですね。



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コミュニケーション

2011-01-22 16:55:49 | 聖書から
昨日は我が家での家庭集会でした。10人の方が来て下さいました。娘も仕事が午後からだったので久しぶりに参加しました。新しい方が来て下さって、感謝でした。
牧師先生はいつものような質問形式の学びではなく、聖書からお話をして下さいました。
人と人とのコミュニケーションについて考えさせるお話でした。


現代は、コミュニケーション不足で断絶が多いと聞きました。
先生と生徒、政治家と国民、夫婦、親子関係の断絶です。同じ家に住んでいても何を考えているかお互いに知らないこともあります。

マタイ20:29~34には、ふたりの盲人が、イエス様が通られると聞いて「主よ。私たちをあわれんでください」叫んだことが書かれています。群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめます。
二人の盲人と群衆との間に断絶があります。「あわれんでください」と言う盲人の言葉を聞いて、群衆はお金を恵んでくださいという意味にとらえ、止めようとしました。

盲人は何を求めていたのでしょう。イエス様の噂を聞いて、希望を見出したから叫んでいたのです。
でも、「あわれんでください」だけでは言葉が不明瞭です。

コミュニケーションには3段階あります。
①事実の伝達
②思考の伝達
③感情の伝達
群衆と盲人の間にはコミュニケーションが欠けていました。

関係の回復のためには、
①立ち止まって余裕を見つけることが大切です。
②相手の気持ちを聞くことが大切です。

イエス様は立ち止まって、盲人たちに尋ねました。「わたしに何をしてほしいのか」
盲人は答えます。「主よ。この目をあけていただきたいのです」
イエス様と盲人たちのコミュニケーションは成立しました。
群衆は余裕を失っていたので、盲人たちに対して「黙れ」としか言えなかったのです。


わたしも自分のことで精一杯で心の余裕を失っているときがあります。相手の気持ちを聞く余裕がなくて、こちらの考えを押し付けたり、黙らせようとしたりしたことがあったと反省しました。

声にならない叫び声をあげている人がまわりにいるかもしれないのに、こちらに余裕がないとその声を聞くことができませんね。

毎日一緒に暮らしている夫婦でも、お互いに思考回路や感じ方が違うのだから、
言葉で伝えていかないとわかってもらえないことがありますね。結婚して30年近くたって、ようやくそのことに気づき始めたところです。

旧約聖書伝道者の書に「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(4:12)」と書かれています。
この意味は単にふたりで力を合わせなさいと言っているのではなく、
二人の関係がイエス様と三人の関係になったとき、より糸が切れることはないという意味なのだそうです。


お互いにイエス様を見上げる関係こそ、コミュニケーションのとれた関係なのですね。
主人との関係も、いつかそうなれることを祈りつつ……。


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抱っこ

2011-01-20 16:32:14 | 聖書から
3歳の孫、ヒックンが来ると、お昼寝させる係はわたしです。寝かしつけると言って、わたしが先に寝たりするのですが・・・。

ヒックンは保育園ではすぐ昼寝するそうですが、家に来るとなかなか寝ません。2冊絵本読んでも寝ないでふとんの上をごろごろころがったり、ふすまを少し開けておじいちゃんの様子をうかがったりしています。

わたしは寝たふりをしています。しばらくして眠くなると必ず「抱っこ」と言ってわたしのふとんに入ってきます。抱っこすると安心してすぐ眠ってしまいます。


「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国でいちばん偉い人です。(マタイ18:4)」
とイエス様は言われました。

2000年前のイスラエル社会では、子どもは価値のない者として扱われていました。
子どものようにというのは、『自分を価値のない者とする』という意味だと聞いていましたが、もうひとつ意味があることを水曜礼拝で教えていただきました。

イエス様は幼子を抱き寄せて言われました。

「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名ゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。(マルコ9:37)」


「幼子は愛されることを良しとし、抱かれることを素直に喜びます。このようにイエス様の腕の中にいることを良しとする人を、神様は受け入れてくださいます。」と牧師先生が言われました。
                      


自分のことを顧みると、受け入れられるのにふさわしくない者であり、不信仰な者です。
でも、イエス様は「そのままでいい」と言って抱き上げて下さいました。
わたしは、幼子のようにイエス様の中にあることを喜びます。イエス様がわたしの居場所です。



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何も持たないようでも

2011-01-17 21:15:08 | 教会
日曜日の朝、起きたら雪が降っていたので「大変!」と思わず声に出してしまいました。

わたしは歩いても教会に行けるのでいいのですが、教会に集ってくる人たちのほとんどは車です。うっすらと白くなった道路を見て、だいじょうぶだろうかと思って、事故に遭わないように祈りました。

8時ごろになると雪はやみ、空が晴れてきたのでほっとしました。
わたしは、用心しながら自転車で行きましたが、友人に「自転車で来た」と言ったら、びっくりされてしまいました。ちょっと無謀だったでしょうか・・・。


礼拝では、今年の主題聖句となった箇所からのメッセージをいただきました。
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべての物を持っています(Ⅱコリント6:10)」
この聖句の前半は、柳生直行訳では「悲しみの中にあっても常に喜んでおり」と書かれています。

悲しみの中にあっても喜ぶことができる理由は、「キリストの身代わりの死の事実とそれに基づく神の約束です」と聞いて、その通りだなあと思いました。


キリストが、わたしの罪を赦すためにわたしの代わりに罰を受けて下さいました。そのおかげで、イエス・キリストを信じるだけで罪赦され、永遠の命をいただけるようになりました。その喜びは、どんな悲しみをものみこんでしまうほど大きなものです。

それでも、悲しみに沈んで希望が見出せなくなるほど落ち込んでしまうことがあります。
そんなときは、十字架の事実を忘れているときなんだなあと思います。いつも十字架の事実を想っていたいです。



「貧しいようでも多くの人を富ませる」は、尾山令仁訳では「キリストの豊かな霊的祝福を与えて他者を富ませることができる」と書かれています。

キリストの豊かな霊的祝福とは何でしょう?
使徒3章に「美しの門」のところで歩けない人が、ペテロとヨハネに施しを求めてきたときのことが書かれています。
男はお金を恵んでもらいたいとふたりに期待していましたが、彼らはもっとすばらしいことをしてくれました。

「するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどりあがってまっすぐに立ち、歩きだした。(使徒3:6-8)」
何とすばらしい奇跡でしょう。ペテロに力があったのではなく、キリストの力によって奇跡が起きたのですね。

現代において、同じようなことが起こるとは限りませんが、「神を本気で信じるとき、不思議なことが起こる」と牧師先生が言われました。

キリストを信じてわたし自身の内面が変わったことを思うと、それはまさに神様の奇跡だと思います。

「何も持たないようでも、すべての物を持っています」というのは、「「神様が無限に引き出せるカードを下さり、使っていいと言われたようなことです」と聞いて、ピッタリのたとえだと思いました。

わたし自身は何も持っていませんが、無尽蔵の富を引き出せるカードをいただいています。
信仰によって引き出して、周りの人を富ませることができたら嬉しいです。



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15年ぶりの再会

2011-01-15 19:53:44 | 日記

昨日は茨城児童文学の会でした。

作品集「エフラテール」の完成後、2人の方が都合で退会して、メンバーは全員で8名になってしまいました。(クリスチャンはわたしひとりです)
そんなとき新しい方が入会されて、大きな喜びに包まれました。

新しい方といっても、以前同人「青い星」でご一緒させていただいた方です。その方が15年ぶりに戻ってきてくださったのです。

15年間の空白を埋めるように皆でその方を囲んでお話しました。色々なことがあったと言われましたが、わたしもこの15年を振り返ると色々なことがありました。
乳がんという大きな病気もしましたが、守られて今ここにいられるのだなあと思いました。

これからの創作の方向性について語り合ったとき、ひとりの方が「わたしは宗教は信じないけれど、やはり作品には、文香さんのように筋の通った思想がないとダメだと思った」
と言われたので驚きました。

わたしは信仰をぬきにした作品は書けないので、ずっと神さまの愛を示す文章を書き続けていました。そのことが認められたようで嬉しく思いました。
ときには、あからさまに出しすぎて、ダメだと言われましたが……。

作品を通して読者に何を訴えたいか、そういうものがないと、書き続けるのが困難になるのかもしれません。

「元気になる力より、老化の方がまさっているから困る」
と言った方もいました。

確かに肉体は衰えていきます。でも、魂は毎日新しくなっています。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4-16)」


合評は、わたしの10枚の童話、一作品だけでした。20から30枚の作品にして、もっと丁寧に心理を書いていかないと読者は納得できないと言われました。自分だけはよくわかっているのですが、伝わっていなかったのです。少し時間をおいてから、書き直します。


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土下座するほどに・・・

2011-01-13 17:17:36 | 教会

9日の礼拝では先週に引き続き、Ⅱコリント人への手紙の主題聖句前後からメッセージが語られました。メッセージを聞いて示されたことを書かせていただきます。

クリスマス停戦というのがあります。戦争の最中、クリスマスに互いに攻撃的行為や敵対行為を一時停止することです。それは一時的ですが、本当の和解が成立すると、わたしたちの中にあるよきものをよい方へ向けることができます。

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。(Ⅱコリント5:18)」


最初の人間アダムが罪を犯してから、人間は神さまに逆らってきました。神さまが律法を下さり、それを守ればあなたを幸せにすると約束してくださったのに、人々は違反行為ばかりしてきました。
でも、神様はその違反行為を責めず、人類と和解をしようと計画され、用意されました。
それがキリストの贖罪です。イエス様のしてくださったこと(わたしたちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったこと)が和解をもたらしました。

大江健三郎氏の「新しい人の方へ」には次のように書かれています。

*******************************************************************************
私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅いのです。キリストが十字架にかかって死ぬことで、対立する二つを自分の肉体をつうじて「新しい人」に作り上げ、本当の和解をもたらしたということについて納得してもらえるように話すことはできません。

敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」になってください。「新しい人」をめざしてください。「新しい人」になるほかはないのです。十字架にかかって、生きかえった人は、この2千年でただひとりです。そして、これからの新しい世界のための「新しい人」は、できるだけ大勢でなくてはならないのです。
********************************************************************************


「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(Ⅱコリント5:20)」
神さまがひとり子の命を捨ててまで用意した和解をどうか受け入れてほしいと懇願しています。

懇願というのは、真心から必死にお願いするという意味です。
『神が土下座して人類にお願いしているようです』と牧師先生が言われました。
土下座するほどに懇願するって、すごいことですね。

神さまがクリスチャンに和解のニュースを伝えるという使命を与えて下さったのです。
大きな使命です。なぜなら、ほとんどの人がイエス様のして下さったすばらしいこと(福音)を知らないのです。あるいは知っていても信じないのです。

わたしは、このすばらしい知らせをひとりでも多くの人に伝えたいと思って文章を書いています。文章だけでなく、生き方そのものがキリストをあかしするものでありたいと願います。


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新しい人

2011-01-10 12:51:31 | 教会


「私たちは、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませています。(Ⅱコリント6:10から)」

これは、土浦めぐみ教会の今年の主題聖句です。

元旦礼拝、2日の礼拝に引き続き、今日も主題聖句の前後の聖書箇所からメッセージが語られました。
今日は、主に2日のメッセージから受けたことを書きます。

メッセージでは、大江健三郎氏の著書『「新しい人」の方へ』が取り上げられました。確か、去年のいまごろ読んだ覚えがありますが、詳しい内容は忘れていました。
以下青字は礼拝メッセージで語られたことです。


大江氏は、2001年9.11の事件を見たとき「十字架にかかったイエス・キリストをモデルにした、新しい人が敵意を滅ぼし、和解をもたらすと考えたパウロの時代から2000年もたっているのに、なお人類はそれを成し遂げてない。そのしるしを世界中の人がテレビ画面に見たのだ」と言ったそうです。

パウロは「わたしたちが新しい人になる根拠はキリストにある」と語ります。
キリストが全人類のため死んでくださったことの事実が、すべてを新しくする土台、根拠なのです。

身代わりの死を知ったとき、信じる者の人生は変わります。人間存在の最も深いところで変化が起こるのです。
人の評価に左右されない生き方をするようになります。また、自分のためにではなく、キリストに喜ばれるように生きるようになるのです。


イエス様を信じる前の自分自身の生き方を考えると、180度変えられていることに気づきます。それが「新しい人」なのですね。

わたしの場合は、洗礼を受けたときが「新しい人」になったときではありませんでした。
なぜなら、洗礼を受けたとき、十字架の意味がよくわかっていなかったからです。
なので、内側から変化がありませんでした。そして、間もなく教会を離れてしまいます。

3年程して再び教会へ行くようになって、だんだんとわかってきました。パウロのように倒れたり失明したりするような劇的なことはありませんでした。何月何日に何かが起きて変化したというわけではありませんでした。
でも、少しずつ内面が変化していきました。

わたしは、「人からどう思われているのか・・・」そんなことをすごく気にする者でした。
また、劣等感が強く、よく人と比較して落ち込んでいました。
高学歴の人、社会的地位の高い人、主婦業もこなしながら働いている婦人が偉いと思っていました。そして、体が弱く何もできない自分は価値のない者だと思っていました。

でも、今ではすっかり価値観が変わりました。
他者の目を気にすることもなく、何ができるかできないか、そんなことを気にする必要もなくなったのです。心が解放され、まったく自由になりました。そして喜びと平安をいただきました。

『神さまが愛するひとり子(イエス・キリスト)の命を差し出してまでわたしのことを愛してくださった』この事実を受け入れたことによって、わたしは「新しい人」にしていただけたのです。


日本クリスチャン・ペンクラブJCPのHP更新しました。
「あかし文章道への招待」は、霞が関キリスト教会のHPより許可を得て順に掲載していますが、今回は「リピート・シンドローム」の一部が紹介されていて驚きました。ご覧ください。


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義父への手紙

2011-01-07 17:49:24 | 日記
無事葬儀が終わりました。息子一家も参列しました。息子たちの車に乗せてもらって帰ったので早く戻れ、感謝でした。

義父は91歳で召されたので、葬儀には悲壮感はありませんでした。でもお別れは、やはりつらいです。お元気なときの義父の姿を思い出して涙が出ました。棺には、孫たちとひ孫の書いた絵や手紙。義父の愛用していた絵筆を入れました。

昨年の12月21日にわたしが義父に書いた手紙を紹介させていただきます。(義父はクリスチャンではありませんので、クリスチャン用語は使っていません。)

前回書いた「予期せぬ出来事」をまだお読みでない方は、その記事を先にお読みください。


お父さん。
やけどされて救急車で運ばれたことを聞いたときは、とても驚き、心配しました。大事に至らなくてよかったですね。

病院生活は心落ち着かないことと思います。お父さんを一日も早く家にお連れして今までの通りの生活をしていただければ……と望んでいますが、現実にはそれが難しいのです。

これまでずっとお母さんがお父さんのお世話をしてきましたが、それが限界にきているのです。お母さんはお元気そうに見えますが、持病があり、少しも無理できない体です。病院の先生からも疲れるようなことをしてはいけないと言われています。かなりひどい腰痛もあるようです。年齢も84歳になりました。

わたしたちが話し合った結果、これまでの生活を続けていたら、お母さんが倒れてしまう危険が大きいので、お父さんには退院したらホームへ入っていただくのが最善だということになりました。ここの病院の先生も、ケアーマネージャーさんも、皆同じ意見です。

わたしは、お父さんがお母さんに腹を立てておられるのを見るととても辛く、自分を責めてしまいます。
もし、わたしが乳がんにならなければ、同居していたでしょう。そうしたら、お父さんにこんな思いをさせなくてすんだのにと思います。
                 (中略)

もしかしてお父さんは老人ホームを姥捨て山のように思っていらっしゃいませんか?
ホームに入れることは親を捨てることではありません。大切なお父さんを決して見捨てるわけではないのですよ。

お父さんが幸せな気持ちで毎日を過ごして欲しいと心から願っているのです。
むしろホームのほうが介護の専門の方がおられますし、リハビリもでき、食事の心配もなく、お風呂にも入れてもらえ、快適だと思うのですが・・・。

でも、以前ショートステイでホームに入ったとき、いやだったとおっしゃっていましたね。やりたくもない折り紙や風船つきをさせられて子ども扱いされたような気になられたのですよね。
高齢者だからといって十把一絡げにされるのはひどいですね。人格を尊重していないことですよね。
ひとりひとり違うのですから、それぞれ、自分のやりたいことができる施設をと考えています。

お父さんは91歳ですね。わたしが初めてお会いした時は、退職されたばかりだったように思いますが、絵を描くのがお好きで、お母さんとよく旅行されて写真を撮っておられましたよね。

脳梗塞になられたけれどリハビリで回復され、絵筆をにぎって素晴らしい絵をたくさん描かれましたね。そんなお父さんを尊敬しています。ヒックン(ひ孫)の絵を描いてくださったときは、感激しました。
90歳近くになって油絵を描いておられる人は少ないと思いますよ。また、描いてほしいです。

実家の父が亡くなってからは、お父さんを実の父親のように思っています。
お父さんがお元気で心穏やかな日々を過ごせますようにお祈りしています。



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予期せぬ出来事

2011-01-04 20:42:34 | 日記
追記:このブログが見えにくい方は、もうひとつのブログ、「カリス」をご覧ください。昨年末から同じ記事をアップしています。


元旦礼拝で、「予期せぬ出来事が起こるものです。思いがけない事が起きても、神の善意を信じて歩んでいきましょう」と牧師先生が言われました。

わたしは昨年12月にテレビ出演という予期せぬ出来事がありましたが、年明け早々に別の予期せぬ出来事が起こりました。

2日夜、義父が突然召されました。
義父は義母の介護を受けながら自宅で暮らしていました。主人を含め三人の子どもがいますが、それぞれ実家まで3時間ぐらいかかる場所で暮らしています。

義父は30年近く前に脳梗塞で倒れ、それから介護の日が始まりました。リハビリでかなり回復して、身の回りのことはできていたのですが、80歳を過ぎるころからだんだん歩行が難しくなってきました。
施設の入所をすすめましたが、以前義母の具合が悪くなったときに入ったショートステイが気に入らず、「施設は絶対に嫌だ」と言い張っていました。
義母は義父より8歳若いとはいえ、老老介護です。同じような状態が長く続いているように見えましたが、実際はかなり大変になってきていました。

お風呂に入れるのも、風呂場に行くだけで30分かかります(健康な人は1分でいけます)浴槽から上がれなくなって、何度も近所の方や消防署のお世話になりました。
義母だけの介護が限界を超えているので、「お風呂だけでもディーサービスなどにお願いして」と言ったのですが、義父がいやがるため、そうすることもできませんでした。ヘルパーさんも義父がいやがるので週にたった2時間しか頼んでいませんでした。

12月の初め、シャワーだけにするつもりで風呂場に行っていた義父が、義母が目を離したすきに浴槽に入り、お湯を高温で出してしまいました。皮膚感覚が鈍っていたため、熱いとも感じなかったようです。足を火傷して救急車で運ばれ、入院になりました。
火傷はたいしたことなく、2週間ぐらいで退院できると言われました。
老老介護の現実を知って、病院のケースワーカーさんが心配してホームに入ることをすすめてくれました。でも、本人が承諾しないと入所できないそうです。
誰が義父を説得できるのでしょう……。きょうだいは皆、首を横に振りました。義母はあきらめて、家に連れ帰って介護を続けると言います。

義母はかなり腰が痛んでいるようで、義母自身も申請すれば要介護になるほどの状態です。
病院から施設を紹介してくれましたが、どうしたらよいか途方に暮れていました。
見舞いに行くと、義父は義母に向かってものすごい怒りを表し、早く家に連れて帰ってほしいと訴えるのです。
とにかく、施設に入所してもらうしかないということで、主人が義母に付き添って施設に見学に行き、説明を受けました。

わたしは、義父に手紙を書きました。読んでくれるかどうかわかりませんでしたが、心をこめて書きました。怒りを抱いている義父が、施設で穏やかな心で過ごしてほしいという願いを込めて・・・。義母が手紙を持って行くと、そのときは読まなかったそうです。義母は手紙とメガネを置いて帰りました。

その数日後、義父を見舞うと顔つきが変わっていました。怒りが消え、穏やかな顔になっていたのです。とても不思議なことでした。それで入所を決めました。

退院してホームに移る日は、主人と私が迎えに行きました。母が行くと、怒り出してしまう可能性があったからです。これから施設に移るのだと主人が説明すると、「そうか」とひとこと言っただけで素直に車に乗りました。

義母が施設で待っていましたが、義母の顔を見ても怒らず共に施設での生活の説明を聞きました。義父は人が変わったように穏やかでした。

年が明けて孫たちが面会に行き、喜んでいた義父でした。亡くなるその日もいつもと変わらない様子だったのですが……夜11時ごろ、介護士さんが見回った時、異常に気づき救急車で病院へ運ばれました。心臓が停止し、マッサージをしたのですが、救急車の中で亡くなったそうです。

義父91歳。施設に入って6日目の夜のことでした。

義父は、なぜあんなに嫌がっていた施設への入所を受け入れたのかわかりません。入院しているうちに認知症になったかもしれないとも言われました。認知症なら手紙を読んだとしても理解できなかったでしょう。死期の近いことに気づき、怒りがおさまり、感謝の気持ちがわいたのかもしれません。今となってはわからないことですが、義父が怒りをかかえたまま地上での生涯を終えなくてよかったと、そのことが遺されたものたちの慰めとなっています。

こんなに早く召されるなら、家に帰らせたらよかったという思いもわいてきますが、いのちを握っておられる神さまがいちばんよいことをして下さったのだと信じます。
金曜日葬儀です。



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愛に迫られて

2011-01-01 21:40:36 | 教会
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
暮れから息子一家が泊まりに来ています。そして、明日はⅠ礼拝に出てから主人の実家へ、明後日は私の実家へ行きます。

あわただしい中にあっても、元旦礼拝に行けたことが感謝でした。

癌になってから、新しい年を迎えられることがしみじみと嬉しく感じられます。乳癌になって最初の2,3年は、来年の正月まで生きていられるのだろうかと思っていましたから……。

元旦礼拝では、一日一生と言った内村鑑三のことが紹介されました。「わたしたちは一日、一日生きられることが与えられています。」

本当にそうですね。一年も一生も一日の積み重ねですね。

Ⅱコリント5:14には『キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです』と書かれています。「取り囲む」とは「駆り立てる」とも訳されるそうです。それは、迫って来るという意味だと聞きました。


わたしの行動の原動力は、キリストの愛に迫られてです。
ときには行きたくないとこころへ行き、したくないことをすることもあります。選択を迫られたとき、楽な方を選びたくなります。でも、祈っているうちにキリストの愛が迫ってきて、たとえ苦痛を伴うことになっても神さまの望まれる方を選ぶようになります。
キリストがわたしのために命を捨てて下さったことを思うと、そうせざるを得ないのです。

神さまがわたしのために愛するひとり子の命を与えて下さったことを思って、今年も歩んでいきたいです。


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