生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

レビ記の体験記

2012-11-30 20:25:15 | 日記
始めてから15年ぐらいになるでしょうか、教会の小グループで聖書輪読会を行っています。数人が集まって、最初は毎週水曜日に行っていました。(いまは月に1度)1回で聖書1章を1節ずつ順番に読み、感想を言い合っています。小さな集まりですが、継続していることが不思議なぐらいです。これまでに新約聖書2回通読しました。旧約聖書に入ってもうじき3年になろうとしています。

いま、レビ記を読み始めたところです。レビ記は規則ばかり書かれているので、果たしてどういう意味があるのか……と考えてしまう箇所です。でも、一見無味乾燥な文章のなかに神様の愛が隠されていることに気づかされます。

1章には、動物のいけにえをささげる方法が書かれ、2章には穀物のささげものをささげるやり方が書かれています。
「これを、実践してみない?」メンバーのひとりが言いました。
(えっ、動物の皮を剥いで切り分けるの?)と一瞬思いましたが、そうではなくて、穀物のささげものを聖書に書いてある通りにやってみようということでした。

レビ記2:2には、
「人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え」と書かれています。小麦粉はひとつまみです。その他は量が書かれていないので適当にするしかありません。

乳香はネットでも販売されていますが、友人が持っていたので、それを使わせていただくことにしました。乳香とは、樹木に傷をつけて分泌された樹脂が空気に触れて乳白色に固まったものです。


一昨日、水曜礼拝の後、お弁当を持ってメンバーのひとりの家に向かいました。
まずは5人で昼食を共にして楽しく語らい、聖書を読んでから外に出て実験開始です。




ひとつまみの小麦粉をアルミホイルの上に載せ、乳香を入れ、オリーブオイルを数滴たらしました。



アルコールランプで熱すると……しばらくは何の変化もありませんでしたが、やがてブクブク泡立ってきて、煙が出てきました。
においをかぐと、何と表現したらよいか……・博物館のにおいのような……防腐剤のにおいのような……うっとりするようなにおいではないけれど、神聖なにおいでした。





子どものころギリシャ正教会に通っていた友人が「ギリシャ正教会で礼拝のときにたく香のにおいと同じ」と言っていました。
「これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」と聖書に書かれています。

「神様は、このにおいがお好きなんだろうか?」
「もしかしたら、動物を捧げるときにたくさんの血が流れ、血の匂いがしているので、それを消す意味もあるのかもしれないね」
と話しました。


乳香だけガスコンロで熱すると、火がつきました。小麦粉と油と一緒に熱した方がたくさん香りが出た気がします。

旧約聖書の時代は、人が罪を犯した時、その人の罪が赦されるためにその人の代わりに動物を身代わりに殺していました。その動物は傷のない雄でなければならないと書かれています。のちにイエス・キリストが来られて、イエス様ご自身がいけにえとなって殺されます。レビ記に書かれていることは、このことを示しているのです。

神様は罪に対して厳しいお方です。旧約の神様が厳しい神様で、新約の神様がやさしい神様なのではありません。神様は新約においても厳しさには変わりありません。

新約において、神様は人類の犯した(これから犯す)罪の罰をすべてイエス様に下したのです。だから、わたしたちは罪を犯しても罰せられないですむようになったのです。
罪を犯したとき、キリストの十字架以前は、神様にいけにえをささげ、なだめのかおりのささげ物をささげなければなりませんでした。十字架以降はささげものは必要なくなりました。ただキリストを見上げて悔い改めるだけでいいのです。

「新約の時代に生まれてよかったね」
と皆で言いました。

小麦粉はイエス・キリストを表すと聞きましたが、だんだん焦げていく小麦粉を見ていたら、十字架上のイエス様の姿がオーバーラップして涙が出そうになりました。



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罪のためとはどういうこと?(その5)

2012-11-28 21:01:11 | 聖書から
なぜイエス様が十字架につけられて死んだのかわかったけれど……、それは2千年も前の話。しかもイスラエルという国での出来事。自分とどういう関わりがあるの? と思われた方もあるでしょう。

わたしも最初、十字架の話を聞いたとき、遠い昔の遠い国の出来事で自分と関わりがあるなんてとても思えませんでした。

だいいち、わたしは自分が罪びとと呼ばれるような悪い事をした覚えはないと思っていました。自分は人一倍繊細で傷つきやすい性格だから、色々な人から傷つけられてきた。意地悪もされた。……と被害者意識を抱き、わたし自身が人を傷つけることがあるとは思いもしませんでした。

また、自分の考えはいつも正しいと思っていました。友人や両親と議論して、口では言い負かされても、『でも、わたしは正しい』と心の中では思っていました。

そんなわたしが、『自分は間違っているかもしれない』と思ったのは、三浦綾子の小説「積木の箱」を読んだ時でした。HP「生かされて…土筆文香」のエッセイの部屋「心のすき間が埋められて1」に書いていますので、ここでは詳しく書きませんが、小説を読んだとき、このままではいけない、わたしは教会に行かないとダメになると思って教会の門をくぐりました。
三浦綾子さんが祈りをこめて書いた小説のうえに神様が働いて、読者のわたしの目を開かせ、罪の自覚をするようにしてくださったのです。

罪に気づきはじめると、思い当たることはいくらでも出てきます。
アダムとエバが罪を犯して以来、人間は罪を犯すようになったことを最初に書きましたが、たとえアダムとエバが罪を犯さなくても、エデンの園にわたしがいたら、やはり実を食べてしまったような気がします。禁止されるとやってみたくなるという、どうしようもない思いを持っていることに気づかされます。

友人が悲しんでいるときは同情するけれど、何もかもうまくいって喜んでいるときは一緒に喜ぶことができなくて、羨ましいと嫉妬してしまう……。

自分のことを棚に上げて、人の悪口を言ってしまう……。人の成功を喜ばずに失敗を喜んでしまう。
そんな自分を顧みると、生まれてから今までの間、どれだけ多くの罪を犯してきたことかと思います。気づかずに犯した罪もあるのですから、それらを目の前に並べられたら恐ろしくなります。

罪のために苦しんでいたわたしは、洗礼を受ければこれまでの罪が赦されると知って、教会へ通って半年ほどしたクリスマスに洗礼を受けました。
信仰の学びもせず、聖書もろくに読まず、クリスマス礼拝の当日の朝、受けると決めて受洗したのでした。

わたしは洗礼を受けたらもう罪を犯さない者になると誤解していたので、洗礼を受けてからも罪を犯し続けることに苦しみました。
十字架の赦しとは、洗礼を受ける前の罪も後の罪も、これから犯す未来の罪に対しても有効なのですが、そのことが理解できていなかったわたしは、教会を離れてしまいます。

でも、神様は、また戻ってくるようにしてくださいました。そして、新しく通い始めた教会で真理を教えていただいたのです。人は洗礼を受けてからでも罪を犯すのです。罪の自覚ができているので、洗礼を受けた後のほうがかえってたくさん罪を犯しているように感じるようになります。でも、そのつど心から悔い改めて祈れば、その罪をイエス様は赦して下さいます。自分の罪がわかればわかるほど、赦されたことの喜びも大きくなります。

罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)

本当はわたしが罪のために死ななければならなかったのです。でも、イエス様が代わってくださったのだと心から思いました。
なぜそこまでしてくださったのでしょう?

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

この聖書の言葉の「世」という字の代わりに自分の名前を入れて読むと神様の愛がわかります。
神様の熱心、神様の圧倒的な愛を感じます。

ご自分のひとり子を差し出すまでしてわたしのことを愛して下さった神様。わたしはこの神様の愛に感動し続けているので、心は喜びでいっぱいです。だから、辛いことや悲しいことがあっても、この喜びに呑み込まれてしまうのです。

新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。(詩編98:1)

最後まで読んでくださってありがとうございました。まだ書き足りない気がしますが、いちおう終わります。     


                        おわり

罪のためとはどういうこと?(その4)

2012-11-26 12:30:54 | 聖書から

前回の続きです。

イエス様は、イエスを陥れて死刑にしようとたくらんでいる人たちによって捕えられ、神への冒涜罪として十字架刑が言い渡されました。
十字架刑とは、最も残酷な死刑のやりかたで、極悪な犯罪人がつけられるものでした。

イエス様は何の悪いこともしていないのに……。こんな理不尽なことがあるでしょうか。
イエス様は全能の神様ですから、十字架につけようとしている人たちをいっぺんに滅ぼしてしまうこともできました。十字架から降りて助かることもできました。でも、そうなさらなかったのです。

黙って十字架の苦しみに耐えました。それは、わたしたちひとりひとりをものすごく愛しておられるからです。

わたしたちを造られた神様は、わたしたちの魂が罪のために滅びてしまうことが辛くてたまらないのです。それなら罰を与えるのをやめて、罪を犯しても「いいよ。いいよ」と赦したらいいのに……と思う方がおられるかもしれませんね。

でも、神様はきよいお方です。罪の問題をそのままにすることはできないのです。それで、罪を犯した人間に罰を与える代わりにご自分のひとり子イエス様に罰を与えました。その罰というのが、十字架の苦しみを受けて死ぬということでした。

親が子どものために犠牲になる話はよく聞きますが、親が子どものいのちを差し出すなんてこと、あるのでしょうか……。あったのです。

神様は、わが子に対して痛みや悲しみを感じないのでしょうか? いいえ、感じすぎるほど感じておられたと思います。愛するわが子が十字架につけられているとき、神様はどれだけ悲しかったでしょう……胸が引き裂かれる思いだったでしょう。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マルコ15:34)」とイエス様が言ったときも、助けの手を差し伸べず沈黙していなければならなかった神様の思いを想像してみてください。

神様に見捨てられることほどつらいことはありません。十字架上でイエス様は神様に見捨てられるという経験をしました。
そのおかげでわたしたちは決して神様から見捨てられることがなくなりました。

イエス様は死にましたが、死んで終わりではありませんでした。3日後に墓からよみがえられたのです。多くの人たちが復活のイエス様に出会っています。
そのあと、イエス様は天に昇って行かれました。

イエス様のしてくださったことによって、わたしたちはイエス様を信じるだけで、罪が赦され、永遠のいのちをいただけるようになりました。

                  つづく



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罪のためとはどういうこと?(その3)

2012-11-22 17:11:27 | 聖書から
待ちに待った救い主が誕生するのですから、全世界が光に包まれるとか、大音響が鳴り響くとか……世界中の人がびっくりするほどのことが起きてもいいと思います。

でも、誕生の知らせを告げる天使の歌声を聞いたのは、ベツレヘムの野原で羊の番をしていた羊飼いたちだけでした。

羊飼いの仕事は、卑しい仕事であるとみなされ、社会から疎外されていました。神様はそのような人たちにまず救い主誕生を知らせたのです。

マリヤが臨月を迎えたとき、マリヤとヨセフは住民登録のため、ナザレの町からベツレヘムへ旅をしなければならなくなりました。ベツレヘムで宿に泊まろうとしたのですが、宿はどこもいっぱいで泊まるところがありませんでした。それで家畜小屋に泊まったのです。その夜、救い主が誕生しました。

もし、彼らが救い主の両親になる人たちとわかっていたら、宿屋の主人はほかの客を追い出しても部屋を開けたでしょうね。

イエス様が家畜小屋という最低なところで生まれたのはなぜでしょう……。それは、イエス様がいちばんに貧しい人たち、しいたげられた人たちに救いの手をさしのべることを意味するのだそうです。

さて、イエス様は大工の息子として育ちますが、30歳を少し過ぎたころ、人々に神様のことを伝え始めます。神の国のことを話し、多くの人を癒し、奇跡を起こされます。
奇跡は、イエス様が全知全能であり、まことの神様だということを示すために起こされたのです。

人々は、押し迫るようにしてイエス様のところへやってきました。イエス様がエルサレムに入城されるときは、人々はシュロの葉を振って「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。(ヨハネ12:13)」と叫びました。

ところが、そのとき叫んだ群衆が、後にイエス様を「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。人々はなぜ心変わりしたのでしょうか。

当時、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。王の王と預言されていたイエス様がイスラエルの王様となって、ローマの圧政から救い出してくれることを多くのユダヤ人たちは望んでいました。

でも、イエス様は、貧しくてしいたげられている人や、病に苦しむ人などに目を留めて語りかけ、癒しの奇跡を行っていました。

ローマ帝国を滅ぼしたり、人々の暮らしを良くしたり……そのようなことはなさいませんでした。人々は、いつまでたっても王となろうとしないイエス様にがっかりしました。

イエス様が地上に来られた目的は、地上で王になることではありませんでした。人々の罪を赦し、人々に永遠のいのちを与えるために十字架にかかって死ぬことでした。

イエス様はご自分がもうすぐ十字架で死を遂げることを弟子たちに話しますが、弟子達でさえ理解することができませんでした。
                    つづく


まだ続きますが、明日から実家に行きますのでしばらく更新ができません。この続きは来週になります。



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罪のためとはどういうこと?(その2)

2012-11-21 20:51:49 | 聖書から

昨日の続きです。

救済とは何のことでしょう?
それは、魂の救いです。人間の肉体が死を迎えたとき、神様は新しいからだを用意し、天国で永遠に生きられようにしてくださいます。このことが「救い」です。つまり、神様は、罪のために滅びようとしている人間に永遠のいのちを与えて下さろうとしているのです。

どういう方法で与えられるのでしょう。
旧約聖書の時代は、礼拝をするとき、神様にいけにえをささげていました。祭司が動物を殺して祭壇のうえで動物を焼くのです。

ローマ6章23節に「罪から来る報酬は死です。」と書かれています。
罪を犯したら、死ななければならないので、動物を身代わりにして殺していました。そうすれば、罪を犯しても死ななくて済むということです。でも、それは不完全でした。

旧約聖書のレビ記には、このいけにえをささげるやり方が、こと細かく書かれています。なぜこんなに同じようなことが詳しく繰り返し書かれているんだろう……と、読んでいてうんざりする人もいるでしょう。でも、それは大切なことでした。
後にイエス・キリストが人類の罪のために十字架に架けられて身代わりの死を遂げる意味の大きさ、深さをあらわしているのだと思います。
「罪から来る報酬は死です。」の次に「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト。イエスにある永遠のいのちです。」と書かれています。

さて、救い主、イエス様が生まれるのは、アダムとエバの時代から何千年もたってからでした。その間に神様は何度も救い主がイスラエル人の中から生まれることを知らせています。預言者といって神様の言葉を伝える人が時代時代で与えられ、聖書にしるしてています。
たとえば、旧約聖書イザヤ書9:6には「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」と書かれていますが、これはイエス様誕生の約700年前に書かれたものです。

そして、ついに救い主が誕生するのです。
クリスマスの物語は誰でも知っていると思っていたら、友人に「クリスマスって、イエスキリストが死んだ日? それとも生まれた日?」
と聞かれてびっくりしました。もちろん生まれた日です。12月25日となっていますが、実際の日にちは明らかではありません。

でも、寒い夜だったような気がします。ユダヤの人たちは、旧約聖書(当時は巻物)をよく読んでいました。父親が家族に読み聞かせたり、子どもたちに暗唱させたりしていたようです。

なので、ユダヤ人の多くは救い主が生まれるのを待ち望んでいました。でも、いつ生まれるかは誰も知りませんでした。
救い主がいつか誕生することを知っていても、神さまのひとり子がひとりの貧しい娘のお腹に与えられ、しかも家畜小屋で生まれるなんて、誰が想像したでしょうか。神様の子どもだから王宮で生まれ、ふかふかのベッドに寝かされるのだろうと思った人が多かったでしょう。

       つづく



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罪のためとはどういうこと?(その1)

2012-11-20 21:24:59 | 聖書から

「イエス様は何の罪のために死なれたのでしょう。」という質問がありましたので、今日は人類最初の罪について書きますね。


旧約聖書創世記1:1に「初めに、神が天と地を創造した」と書かれているように、神様は天と地とその中にあるすべてのものを造られました。

闇がおおっているだけの世界だったのに神様が「光よ。あれ。」と言ったら光ができたのです。何の材料もないのに言葉だけで造り出すことのできる神様って、すごいですね。

神様は天と地、植物、月、星、太陽を造り、海と空の生き物、動物を造って、最後に人間(アダムとエバ)を造られ、よしとされました。
 
神様は、エデンの園で人間が神様と一緒に永遠に生きられるようにしてくださったのです。神様は、アダムとエバに園のどの木の実でも食べてもいいけれど、善悪の知識の木の実だけは食べてはいけないと禁止されました。

ところがアダムとエバは禁止されている実を食べてしまいます。しかも、それがみつかるとアダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにしてしまいます。

このとき、ふたりが心からあやまれば、神様はきっと赦してくれたでしょう。でも、あやまらなかったのですね。

そのときから人類は罪を犯すようになったと言われています。(生まれながらの罪を原罪といいます。)

神様はなぜ禁止事項を作ったの? 禁止事項がなければ罪を犯すこともなかったのに……。と思う人や、神様は人間が悪いことをしないように造ったらよかったのに……。と思う方がいるでしょう。

神様はロボットのように人間の心を操作し、従うようにさせたいとは思われなかったのでしょう。人間に自由意思を与え、神様ご自身と人格的な交わりをしたいと思われたのでは……とわたしは考えています。してはいけないことをあえて作って、いいつけを守るか守らないかは人間の自由意思で選択するようにさせたのだと思います。

悪いのはアダムとエバだ! 自分と何の関係があるの? と思われた方もいると思います。
まず、それは置いておいて、続きを読んで下さい。

アダムとエバは罪を犯したため、エデンの園から追い出されてしまいます。そして人は誰でも死ぬことになってしまいました。
神様はエデンの園を出て行くふたりに皮の衣を作って着せて下さいます。この皮の衣は、イエス・キリストをあらわすのだそうです。

アダムとエバがエデンの園を出ていくとき、すでに神様は人類を救済する計画をたてておられたということになります。  

                            つづく



日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ニュースレターとクリスマス童話をアップしました。また、わたしのエッセイは作品(毎月更新)をクリックし、エッセイ(花鳥風月)をクリックすると出てきます。


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アルタバンのように

2012-11-16 20:02:10 | 日記

クリスマスに向けて3本の脚本を書いて、OBIの卒業研究レポートの仕上げをし、パネルシアターの色づけ、手紙書きなど短期間に夢中でやりました。こんなに無理したら、具合が悪くなるという心の声も無視してやっていたら、一昨日はとうとうダウン。2日間眠り病にかかったように(必要最低限の家事だけして)夜も昼も寝てばかりいました。
今日、ようやく元気を取り戻しましたが、冬眠から覚めたばかりのクマのように頭がぼんやりしています。


今日はレストランで部屋を貸し切っての家庭集会でした。年に一度、恒例のように11月にこのお店で家庭集会を開いていますが、今回は初めて離れの建物を貸していただきました。


軽井沢のようなロケーションの山小屋風のレストランはすてきで、ランチもおいしかったです。
学びの前に来月の家庭集会クリスマス会で行う朗読劇の練習をしました。今年のクリスマスは「星」がテーマです。星と聞いたとき、思い浮かんだのは3人の博士でした。


クリスマスにイエス様の誕生を祝って東方から3人の博士が来訪したことは、多くの人が知っていますね。
東方とはどこの国なのか。 なぜ救い主誕生のことを知っていたのか。なぜ救い主を拝むために危険を伴う旅までしたのか。東方から来た博士は3人だったのか?
色々な疑問がわいてきます。博士の人数については聖書に書かれていません。
ただ、乳香、黄金、没薬という3つの贈り物がささげられたので、3人と思われているようです。
博士たちは、星の道筋を調べる占星術師だったようです。ちょうど救い主、イエス・キリストが生まれたころ、新しい星が出現しました。けれども、新しい星の出現がなぜ救い主誕生と結びついたのでしょう。ユダヤ人ではない博士たちが、救い主のことをどうして知っていたのでしょう。

東方というのはペルシャだという説があります。かつてイスラエルがバビロンに滅ぼされ、捕囚としてバビロンの地に連れてこられました。ユダヤ人たちはそこに住みつきました。何年もたって、バビロンがペルシャに滅ぼされ、ユダヤ人は国に帰還したのですが、帰還せずにそのまま住み着いたユダヤ人もいたようです。

ユダヤ人たちは巻物の聖書持っていました。旧約聖書です。そこには救い主誕生の預言が書かれています。
帰還したユダヤ人が置いて行ったのか、書き写したものかはわかりませんが、博士たちはそれを読んでいたと考えられます。なぜなら、星を見ただけで、救い主が誕生したことを確信し、全財産をはたいて命の危険を顧みずに旅に出たのですから。

さて、救い主を拝みに行こうとした博士は、3人ではなくて4人だったと考えた人がいます。4人目の博士の名はアルタバンです。

初めてアルタバンの話を聞いたとき、わたしは心がズキンとしました。アルタバンは救い主への贈り物として3つの宝物を持って旅に出ますが、病気の旅人や、母親と赤ん坊、奴隷として売られていく娘を助けるため宝物をあげてしまいます。何もかも失ったと思ったアルタバンでしたが、イエスさまはアルタバンがしたことは皆、わたし自身にしたことと同じだ言って賞賛してくれます。

アルタバンのような生き方はできないけれど、そのように生きたいとあこがれています。
「まことにあなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)
このようなストーリーを朗読劇にしたいと思って脚本を書いたのでした。
来月13日の家庭集会クリスマス会が終わったら、ブログでも紹介させていただきますね。


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運命と宿命

2012-11-10 18:23:22 | 聖書から
10月はほとんど自分の時間がとれなかったので、しなければならないことが山積になり、ブログ更新が滞りがちです。

今日は、子ども家庭集会でOさん宅に行ってきました。5人の子どもが集まりました。
I先生とお話しとゲームを交代で担当しています。今日はI先生が放蕩息子のお話を現代版にして話してくださいました。
今日は特別にO長老が落語もしてくださいました。身振り手振りを交えて表情豊かに話されるので、ストーリーを理解することのできない小さい子どもたちにも大うけで、笑い転げていました。
来月はクリスマス会です。パネルシアターの準備をしなければ……。


先日「キリスト教では、運命とか宿命についてどう捉えているのですか?」 と尋ねられました。

『運命とか宿命は、定まっているので変えることはできませんよね。(献金をしておはらいを受ければ変わるという宗教もありますが……)
キリスト教には、運命、宿命という考え方はありません。将来起こることは、神様の御手の中にあるのですが、最初から決まっているわけではありません。
祈りによって神様とコミュニケーションをとっていく中で、神様がその人に最もよいことをしてくださると、私は信じています。』
と答えましたが、もう少し詳しく書いてみますね。

もし、人の運命が生まれた時から決まっていたらどうでしょう。たとえば、頭が良くて一流大学に入り、一流企業に就職するけれど、交通事故にあって若くして死んでしまうという運命だったらどうでしょう……。もしそれが子どもの時にわかってしまったら、意欲が失われてしまいますよね。

乳がんで入院していたとき、癌病棟の人たちは物静かでした。きつい副作用のある抗がん剤治療を受けていても、じっと耐えていました。
「わたしは癌になる運命だったんでしょう。仕方ないってあきらめているの」と言っていました。

人の運命が決まっていて、それが過酷なものだったら、あきらめるしかないのでしょうか……。
まだイエス・キリストを知らないとき、「わたしは不幸な星のもとに生まれたんだ」と思っていました。

ところが、教会に通いはじめたころ、
「人の運命は決まっていません。悪いことが起きたとしても、それが実は悪いことではなかったと後から思えることがあります。また、将来予定されていることを神様が変えてくださることもあります」と聞いて驚きました。

昔、ユダヤにヒゼキヤという王様がいました。ヒゼキヤは病の床にあって、神様からもう助からないといわれました。もう少し生きられるようにしてくださいと祈ると、「あと15年寿命を延ばそう」と言ってくれ、病を癒してくれました。(旧約聖書Ⅱ列王記20章に書かれています)

死の時期は、神様が定めてくださいますが、神様はいったん決めた時期をも変更してくださることがあるのです。
もちろん、誰もが死の床でそのように祈ったら15年寿命が延びるわけではありません。
人によって神様のお取り扱いが違うからです。

わたしは、乳がんになったとき、10年生存確率があまりにも低いことを知って、死を覚悟しました。わたしと同じ時期に乳がんになり、同じような症状だった人が転移して最近亡くなったことを知り、ショックを受けました。もしかしたら、わたしはもっと早く死ぬ予定だったのかもしれません。でも、神様の計画の中で生かされています。



今日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のホームページを更新しました。わたしの作品も掲載されています。ぜひご覧ください。


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かけがえのない贈り物

2012-11-05 20:20:18 | 日記
3日の夜、実家から帰ってきました。
母が左腕を骨折してから3週間経ちました。最初、2週間でギブスが外れると言われていたのですが、2回目の診察の時、骨のつきが悪いので、手術しなければならないかもしれないと言われ、心配していました。

3回目の診察で、「手術は必要ありません。このまま順調にいけば8日にはギブスがはずれるでしょう」と言われたそうで、ほっとしました。
紫色になっていた指先も、もとの色に戻りつつあります。指先が使えるようになったので、家事もだいぶ楽になったと言っていました。
それでもお風呂掃除や布団干しなどはできませんし、洗濯物を干すのも一苦労です。

3日は、父の七回忌が行われました。命日は10月18日なのですが、妹の仕事の都合で11月3日に行うことを以前から決めていました。
父の遺骨は分骨して教会の納骨堂にもあるので、7回忌の代わりに教会で記念会をと願いましたが、母の希望でお寺で仏式ですることになりました。

一周忌、三回忌のときも、悲しくてたまらなかったのに、6年経った今は悲しいという気持ちより、なつかしいという気持ちに変えられているのが不思議です。

「出かける時はガス、電気、戸締りOKと口に出して言って、指さし確認するんだ」など日頃父の言っていたことを思い出します。

わたしは、ひとつでもいいから聖書の言葉をいつも口に出して言ってみようかなと思いました。そうすれば、主人や子どもたちの心に刷り込まれて、天国へ行った後、生かされるかもしれないですね。(主人より先に召されると決めこんでいるわたしです)


教会ではちょうど昨日、召天者記念礼拝が行われました。牧師先生のメッセージの中で印象に残ったことを記します。

愛する者との思い出は、神から与えられたかけがえのない贈り物です。
わたしたちは、死を迎えるその時までは健康でありたい、自由でいたい、尊厳を保っていたいと思います。でも、体力、気力、記憶、成し遂げた実績などを少しずつ失っていきます。
それは、神様からゆだねられたものをひとつづつお返ししていくことです。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」

天には神の家があります。愛する者は、神の家に住んでいます。わたしたちも明日そこへ行くかもしれません。
人生のエンディングは自分では選べません。今日という日、今というときを精一杯生きていくことが大切です。


今というときを大切にして、わたしも精一杯生きたいです。



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