昨日は約3週間ぶりに息子一家が来ました。毎週息子の休みの火曜日に来るのですが、今月はわたしが忙しくて招くことができませんでした。久しぶりに来て、ヒックンは不思議そうに家の中をきょろきょろ眺めていました。
先週一緒に主人の実家に行ったので、ヒックンはわたしの顔を見たとき、すぐ笑顔をみせてくれました。でも、主人が帰宅すると知らない人に会ったようなこわばった顔をしています。はっきりと顔の認識ができるようになったのですね。
でも、泣かずにお風呂に入れてもらいました。お風呂から上がって抱かれると、声を立てて笑っていました。よかったね、おじいちゃん。
よきサマリヤ人の話は、先日HPに子供の劇として脚本を掲載しました。聖書をもとにして作りましたが、聖書には書かれてない町の人を登場させたり、レビ人やサマリヤ人を2人ずつにしたり、変化させています。
聖書に書かれている内容を紹介します。
旅人(ユダヤ人)が、エリコの町へ行く途中強盗に襲われ、半殺しにされ道ばたに倒れていました。そこへ、祭司が通りかかりましたが、彼を見ると道の反対側を通り過ぎて行ってしまいました。次に通りかかったレビ人も同様に道の反対側を通り過ぎて行ってしまいました。
次にサマリヤ人が通りかかりました。サマリヤ人は、旅人が敵対する国の人であるにもかかわらず、近寄って傷の手当をし、宿屋に連れていき宿屋の主人にお金を渡して介抱を頼みました。
イエスさまは律法専門家に尋ねます。
「この3人の中でだれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」
祭司とは、神に仕える人で、同朋が困っていたらまっさきに救いの手を差しのべなければならない人です。
レビ人とは、エルサレムの神殿で門番と聖歌隊を兼ねているような役職の人で、祭司と同様に神に仕える人です。
サマリヤ人とは、パレスチナのサマリヤ地方に住む人々のことです。その昔この地方は外国によって占領され、ユダヤ人はそのときに移住してきた外国人と結婚させられました。その混血の子孫がサマリヤ人なのです。排他的で選民思想の強いユダヤ人は、サマリヤ人を「混血児」として忌み嫌い、軽蔑してつき合いませんでした。
イエスさまが、「だれが隣人ですか?」ではなく、「だれが隣人になったと思いますか?」と聞いているのは、隣人になることが大切だと律法専門家に教えているのです。
イエスさまは、律法を守り通すことができると思っている律法専門家に、それができない者であると気づいてほしいと願ってこのたとえ話をされたのです。
律法専門家は同胞のユダヤ人しか隣人だと思っていませんでした。同じユダヤ人でも罪深い女と呼ばれる人や、外国人、サマリヤ人を隣人の範囲に入れてなかったのです。イエスさまは、その過ちに自分で気づいてほしいと願われたのです。
三浦綾子の小説「塩狩峠」はこのところをテーマに書かれています。
つづく