生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

人の心に働きかけて下さる神さま

2006-04-30 17:17:44 | 社会
 
 横田早紀江さんが米大統領と面会したというニュースに心打たれました。早紀江さんは、米下院外交委員会の公聴会で証言するために渡米していましたが、ブッシュ大統領と直接面会できることが決まったのは26日だそうです。大統領が早紀江さんと直接会って下さったことは、奇跡のような出来事です。
ブッシュ大統領は、早紀江さんの訴えを聞いて、「これまでに最も心動かされた対談だった」といわれたことを知り、神さまが働いて下さって大統領の心を動かして下さったのだと思いました。
 
 横田早紀江さんは、去年わたしの通っている教会に来てあかしをして下さいました。早紀江さんはクリスチャンです。新潟でめぐみさんが行方不明になり、苦しくつらい日々を過ごしていたとき、キリスト教の家庭集会に招かれ、信仰を持ったそうです。信仰をもったからといって悲しみがなくなるわけではありません。でも、祈りを聴いて下さる確かなお方に祈ることができるようになりました。

早紀江さんの友人たちによって、ブルーリボンの祈り会が結成され、各地に支部があります。わたしも「土浦ブルーリボンの祈り会」の会員です。毎月、祈りの課題が出されるので、祈っています。6月には土浦で写真展が開かれる予定です。
13歳の少女が学校帰りに突然拉致され、北朝鮮に連れて行かれました。親子が引き裂かれて、めぐみさんも、滋さん、早紀江さんも、どれだけ苦しい日々を過ごしてきたことでしょう。

早紀江さんから、ブルーリボンの祈りの課題に「神さまから金正日の心に直接働きかけがなされ、拉致被害者全員の早期帰国許可の思いが与えられるように。」という直々の依頼あります。

神さまは、人の心に働きかけて下さるおかたです。どうか一日も早く、めぐみさんをはじめ、拉致被害者の方々全員が帰国できるようにお祈りします。

美しい新緑

2006-04-28 17:24:42 | 日記

心に悲しみがあると、明るい青空がまぶしすぎ、素晴らしい景色もフィルターがかかったように見えます。でも、今日はなんと新緑が美しく見えるのでしょう。神さまの造られた自然の美しさに感動しています。

今日は、家庭集会リーダー会で教会へいきました。昨日の検査結果が悪ければ、お休みするつもりでした。もし、再発転移していたら、家庭集会も続けられなくなると思いました。

最初に賛美していて、また涙が出そうになりました。今度は嬉しくてです。元気で奉仕できることは当たり前のことではないのだとしみじみ思いました。

「家庭集会の奉仕をさせていただいて14年になりますが、今回再発転移の疑いがあったので、奉仕はもうできないかもしれないと思っていました。でも、検査の結果、大丈夫だったので、また続けさせていただきます。」と、わたしがいうと、みなさんが拍手して下さいました。とても嬉しかったです。

聖書の詩編91編が心の中に深くしみこんできました。

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。
「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、
あなたを救い出されるからである。

主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。
主の真実は、大盾であり、とりでである。
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、
それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
それはあなたが私の避け所である主を、
いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

バンザーイ!!

2006-04-27 18:45:35 | 乳癌
 
今日病院へ行って来ました。前回の血液検査の結果が出ました。前回、腫瘍マーカーの値が上がっており、再発転移の可能性が高いといわれていました。値か下がっていなければ精密検査といわれていたので、覚悟を決めて食事抜きでいきました。午後1時に予約なので12時半に診察券を出したのですが、呼ばれたのは3時前。
びくびくして診察室に入ると、「腫瘍マーカー値が下がっているので検査はしなくていいです」と言われ、心の中で「バンザーイ!!」と叫びました。
 
 この2週間、つらかったです。結果が出るまでは思い煩うまいと決心していたのにもろくも崩れ去り、自分の弱さを改めて知らされました。転移のことが頭から離れず、ネットや本で調べました。そして、知れば知るほど益々不安になっていきました。調べなくてもいいのにとことん調べたくなるのは、わたしの性格からきています。知らない方が気が楽だったのに……。
 
 ノルバテックスの副作用で3つの子宮筋腫が大きくなり、子宮内膜も厚くなっているので、それを押さえるために腹部にリュープリンというホルモン注射をすることになりました。おなかに注射なんて、痛いだろうなあと目を閉じて耐えられるようにと祈っていたら、チクッとしただけであっという間に終わりました。これで子宮筋腫の手術を受けなくてすみそうです。
この注射を打つと、更年期症状がさらに進む、やる気がなくなり、鬱状態になる、肥満などの副作用があるそうです。でも、わたしは心の中で言いました。
「リュープリンよ、やりたいことがいっぱいあって、やる気に満ちているわたしから、やる気を奪うことはできないからね!」

 定期的に注射を受けながらノルバテックスを飲んでいれば、抗ガン剤は飲まなくてもいいということで嬉しくなりました。もう、白血球値が低いことで感染症におびえなくてよくなるのです。

 乳癌手術後の治療法は日々変わってきているそうです。わたしのような症状の人は、2年前までは抗ガン剤とノルバテックスを飲むことがベストだったけれど、今は抗ガン剤を飲まない方向になっていると聞きました。現在の医学では完全に癌をやっつけることができないので、試行錯誤の段階なのでしょう。リンパ転移4つ以上の人は10年生存確率2%というネットの記事を見てぞっとしましたが、この間は30%と書かれている記事を見つけました。そのうちに生存確率90%以上になるかもしれません。
 
 今回転移していなかったからといえ、これからも治療は続き、検査結果を聞くたびにびくびくし、薬の副作用と闘っていかなければなりません。経済的にも大変です。乳癌は5年再発しなくても安心できないというので、先は長いです。
でも、わたしは信じます。神さまが最善をなして下さることを。

 今日の結果をハレルヤ!と喜びましょう。大勢の方に心配かけてしまい、申し訳なく思います。あつきお祈りを心から感謝します。ありがとうございました。


苦しみの意味

2006-04-26 17:14:59 | 教会

今日の祈祷会は先週に引き続いて苦しみの意味についてでした。いまのわたしにぴったりの学びでした。(ぴったり過ぎて、困ってしまいました)
神戸ひよどり台教会の大嶋博道牧師が5つの苦しみの意味について書かれています。

1)苦しみは私たちが人生の目的や意味を問う絶好の機会となります。
2)苦しみは私たちの生きたか、あり方を見つめ直す機会になります。
3)苦しみは人間存在の本質を教えてくれる機会になります。
4)苦しみは私たちが本当の幸いや喜びが何であるかに気づく機会になります。
5)そして、苦しみは私たちが神に向かい、神に近づく機会になります。


本当にそうだなあと思います。苦しみには何らかの意味があります。神さまは人を無意味に苦しめたりしませんし、罪に対して罰を与えたりすることはなさいません。苦しみの真っ最中にあるときにはわからなくても、いつかその意味がわかるときがくると信じています。
 
かつて、わたしは喘息で苦しんだとき、人間存在の本質について考えさせられました。
対人関係で苦しんだときには、自分の生き方を問い直し、自分を見つめ直しました。そして乳癌になってからは、人生の目的や意味を考えるようになり、与えられている時間の尊さ、命の尊さに気づきました。苦しみがあるおかげで、心はまっすぐに神さまに向けられています。

苦しみにあったことは良かったと思えますし、神さまから深く愛されていることも感じます。また、苦しみは訓練だということもよくわかります。

 でも、頭で理解していても、感情がついていかないときがあります。かつて、友人から苦しみを打ち明けられたとき、何とか励まそうとして「後になったら、このことも良かったと感じるものとなるわよ。神さまはすべてのことを働かせて益として下さるからね」と言ってかえって友人の心を傷つけてしまったことがありました。
そのようなことは、とっくに友人もわかっていたのです。わかっていても、つらい、苦しいという感情をどうすることもできなくて、ただ聞いてもらいたくて訴えていたのに……わたしは励ましの言葉がけをしなければならないと思ってしまったのです。

現在の苦しみについては、他者の助けが必要
とレジメに書いてありましたが、わたし自身、助けが必要だったのです。(過去形で書いたところに注目してください。もう、いまは大丈夫です)それは、自分でも気づかなかったことです。
この前の日曜にY姉の前で泣いたとき、たががはずれてしまったのでしょう。学びを終えてI先生から感想を尋ねられたとき、「今日はコメントしたくありません」と答えた後、不覚にもまた泣いてしまいました。隣の席にY姉がすわっていたこともあって……。

わたしの様子は、かなり変だと周りの人は思ったでしょう。でも、どう思われてもいいのです。みんな神の家族ですから。

感じたことがたくさんありすぎて何も言えず、一言でも話すと涙が出てしまうので答えられなかったのです。
 今日祈祷会へいって良かったと思いました。そして、いまこのときに苦しみの意味について考える機会が与えられたことを神様に感謝しています。

 レジメの最後に書かれていた聖書の言葉は、わたしがいちばん好きな聖書箇所です。

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-4)


やがて神さまがこの者の涙をすっかりぬぐい去って下さるとわかっているので、平安です。


パウロでも……

2006-04-25 15:39:09 | 聖書から
4月18日にCRCメディアミニストリーのラジオ放送「ほほえみトーク」でわたしの書いた本「「リピート・シンドローム」が紹介されましたが、「ふくいんのなみ」のインターネット放送は、5月からしばらく聴けなくなるそうです。もしまだお聴きになっていない方は、今月中にお聴き下さい。
 リンク貼っています。下記の紫色の字をクリックして下さい。
「ふくいんのなみ」のホームページ
 

 この前の日曜日のメッセージはパウロが書いたⅠコリント人への手紙2章1-5節からでした。メッセージの内容を紹介する前に、パウロという人物について簡単に紹介します。

 新約聖書の中にあるローマ人への手紙など13もの手紙の著者として有名なパウロという人は、イエスさまの12弟子ではありませんでした。最初はサウロと呼ばれていて、クリスチャンを迫害していました。ところがダマスコという町へ行く道で突然天からの光で倒れ、イエスさまの声を聞きました。そのとき目が見えなくなったのですが、アナニヤというイエスさまの弟子によってサウロの目からうろこのようなものが落ち、再び見えるようになり、イエスさまを信じたのです。「目からうろこ」というのはこのところから言われるようになったそうです。サウロはパウロと改名し、イエスさまを伝える人になりました。
数々の迫害にも耐え、投獄されても牢屋の中で手紙を書いて、信徒たちを励ましています。

 メッセージはここからです。(牧師先生の言われたことを青字、わたしの感想を紫、聖書の言葉を緑で書きます)

 パウロは大胆にキリストをあかしし、力強いことを書いているのですが、Ⅰコリント人への手紙2章3節に「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く恐れおののいていました」と書いています。リビングバイブルでは「私は弱々しく震えおののきながら……」と書かれています。


「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です(エペソ1:21)」とまで言ったパウロ。力強くキリストを宣べ伝えていたパウロでも不安を感じ震えることがあるということは驚きです。
 
 パウロは同胞のユダヤ人にも迫害され、疲れ、自信喪失していたのでしょう。恐れだけではなく、畏敬の念での畏れもあったのです。
 意気消沈していたパウロに神さまは語りかけます。「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)」
 パウロは「十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」と言い、十字架のキリスト以外については語るまいと心に決めたのでした。
 パウロは小柄で体が弱く(持病があったといわれています)体裁が良くなかったそうですが、神さまは、パウロを用いて不思議な業(わざ)、素晴らしい働きをされました。
現代においても、神さまは同じ業をされます。十字架につけられたキリストを伝えるときに……。

 
パウロでも弱く恐れおののくことがあったのだと聞いて、わたしはもっと自分の弱さをさらけ出してもいいんじゃないかなと思ったのです。パウロはⅡコリント人への手紙で「自分の弱さを誇ります」と言っているのですから。


こどものように

2006-04-24 12:34:17 | 乳癌

        こどものように

   泣きたいときは 泣けばいい
   わたしも一緒に泣くから
   流した涙は どこへいくの?
   それは、神さまの皮袋の中へ
   
   苦しいときは 叫べばいい
   わたしも一緒に叫ぶから
   叫んだ声は どこへいくの?
   それは、神さまの耳の中へ



 礼拝のとき、よく涙を流すと書きました。悲しくてではなく、主の臨在に触れ、感動して泣くのです。最近とくに涙もろいわたしですが、人前で自分の抱えている問題のことで泣いたことは、ほとんどありませんでした。神さまに向かって訴え、ひとりで泣くことはありましたが、両親にはもちろん、牧師先生の前でも、夫の前でも、友人の前でも悲しみの涙を見せたことがなかったのです。

ところが、昨日礼拝の後で、親しくさせていただいているY姉(教会では、同じ主を信じる者を兄弟姉妹といいます)とお話ししました。Y姉は信仰の先輩で、祈りの友でもあります。色々な話しをしたあと、この前病院で言われたことを話して祈っていただこうと思い、「お祈りして欲しいことがあるんです」というと、Y姉が泣きそうな顔をして、わたしの手を握って肩を抱き、「どうしたの?」と暖かい言葉をかけて下さいました。

そのとき、突然堰がくずれたように涙があふれ出し、何も言えなくなってしまいました。自分でも予想もしなかったことでした。わたしがしゃべれるようになるまでY姉は黙って待っていて下さいました。

しばらくしてやっとのことで、「まだ、わからないことなんです。だから心配しても仕方のないことなんですが……」と再発転移の不安を泣きながら話すと、Y姉は涙を流し、心から祈って下さいました。なんだか、心にたまっていたものが流れ落ちてすっきりした気持ちになりました。共に泣いて下さる友人がいるということは、何と素晴らしいことでしょう。

いままで人前で泣きたいときに泣かず、つらいときにつらいと言わなかったのは、心に鎧いを着ていたからでしょうか? 片意地張っていたのでしょうか?……とても弱い者です。 

いままでこのブログでも、癌になってからのあかしをたくさん書いてきました。そのあかし文章と今日の文章が矛盾していると思われる方もおられるかもしれません。でも、どちらも真実なのです。決して見栄を張って思ってもいないことを書いてきたわけではありません。心の中をそのまま書いてきました。

神さまの力によって強められ、不安がなくなるようなときもあります。でも、突然不安の波に襲われ、足をすくわれるようなときもあります。

なぜY姉の前で素直に泣けたかというと、きっとその日の礼拝のメッセージを聴いたからだと思います。どういうメッセージだったかは、後日書きます。

人はなぜ苦しむのか?

2006-04-19 17:34:14 | 日記

今日の祈祷会で「人はなぜ苦しむのか?」ということについて学びました。
ヨブ記(5:7)には「人は生まれると苦しみに合う。火花が上に飛ぶように」と書かれています。

創世記に「神様の造られた物は非常に良かった」と書かれているのに何故この世に苦しみがあるのでしょうか? それは、アダムとエバが罪を犯してしまったことに起因し、この世界は苦しみはあって当然のものとなったのだそうです。

 まわりを見回せば、この世界は苦しみに満ちています。わたしも苦しみの中にいます。この学びを始める前にレジメに目を通したとき、家に帰りたくなりました。現在の自分の苦しみをみつめることになり、つらくなると思ったからです。父が末期癌で自分自身も癌で再発転移の疑いがかかっている事実は、今は肉体的苦痛はないけれど、やはり苦しいのです。

 でも、学びをしていく中で、苦しみとはどういうものかと考えているうちに、わたしの抱えているものはたいしたことない。苦しみといえるほどのものではないことに気づきました。

 厳しい人間関係の中で精神的に追いつめられる苦難、とりかえしのつかない過失を犯した者の苦難、借金の苦しみ、愛する夫や子供を失った苦しみ、虐待を受ける苦しみ……。

 わたしがもし再発転移して余命がいくらもないとわかったとしても、これらに比べればたいした苦しみではありません。むしろ事故で即死するより、癌で死ぬ方が死への準備期間が備えられていて幸いです。

 苦しみがあって当然であるこの世界に生きているのですから、順調と思われる日が続いていても、長い人生の中で苦難の日は必ず訪れます。でも、どんな苦難が訪れても、そこに神様が働かれ、守り、耐えられるようにし、また期間を定めて下さるので大丈夫なのだと思いました。

 苦難の日にも感謝することができるように祈りました。

ラジオで紹介された「リピート・シンドローム」

2006-04-18 13:46:43 | 日記

 今日、CRCメディアミニストリーのラジオ放送「ほほえみトーク」「「リピート・シンドローム」が紹介され、「はじめに」の部分が朗読されました。感激です。

 現在住んでいるマンションには有線放送が入らないのですが、2年前まで住んでいたマンションでは有線が聴け、キリスト教の番組フレンドシップラジオを聴いていました。この番組は一日に同じ番組を数回くりかえして放送され、24時間聴けます。その中に「ほほえみトーク」の放送があり、いちばん好きな番組でした。 熊田なみ子さんの明るい声を聞くと、心が沈んでいるときも、光が射してくるような感じがしました。短波の入るラジオもなく、引っ越してから聞けなくなったので少しがっかりしていました。
 
 ところが、インターネット放送もしていると知って、また聴けるようになったことは大きな喜びです。
なぜその番組で紹介していただいたかというと……神さまが働いて下さったとしか思えないような不思議ないきさつがありました。

 「リピート・シンドローム」が出版されて一年半たったとき、出版社から在庫分が返品されてきました。段ボール箱に入れられたまま家に置いていても仕方ないと思い、知り合いの方が勤めている少年院に寄付したり、あちこちの教会に送っていました。それでもまだたくさん残っているので、いちばんいい方法で用いられますようにと祈っていました。

 ちょうどそんなとき、教会の祈祷会で隣の席になったMさんが、わたしが何も言わないのに「リピート・シンドローム」の売れ行きはどうですか?と尋ねて下さいました。わたしが返品本があるので、どこかに献品したいと言うと、CRCメディアミニストリー「ふくいんのなみ」の番組を担当している牧師先生と知り合いだから、用いていただけるか電話して尋ねてみると言って下さいました。数日後、Mさんから、番組の方から本を送って下さいとおっしゃったという電話をいただいたので、さっそく送らせていただきました。

「ふくいんのなみ」には色々な番組があるのですが、わたしが以前好んで聞いていた番組「ほほえみトーク」の熊田なみ子さんから本が届いたとのメールをいただき、感激しました。いつどの番組で用いるかは会議ではかってからとのことで、それから音沙汰のないまま半年が過ぎました。もしかして、用いていただけないのかもしれないと不安になりながらも祈っていました。
 
先月始めに熊田さんからお便りをいただいて、熊田さんの番組で4月18日に放送して本をリスナーへのプレゼントとして用いて下さるとのことをお聞きしました。

 この小説は、桜ではじまって桜で終わっているので、この時期までとっておいて放送したとのことをお聴きして、「神のなさのことは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3-11)」のみ言葉を思いだし、祈りに応えて下さった神さまを心からほめたたえました。番組にも心から感謝いたします。

まだお聴きになっていない方は、ぜひお聴き下さい。インターネット放送は、
「ふくいんのなみ」のホームページから聴くことができます。本の紹介は15分間の番組の最後の方です。

ハレルヤ!!

2006-04-17 12:21:24 | 日記

昨日はイースター礼拝でした。賛美歌や聖歌とメッセージ、聖書朗読が交互に行われました。

はじめに子供達の弦楽器によってビバルディの「春」が演奏されました。春を造られた神さま、この美しい自然を造られた神さまを心からほめたたえました。

次に賛美したのは、イエスさまの生涯をあらわす歌、讃美歌121番です。イエスさまが人となって地上に来て下さいました。けれども、人々は受け入れず、イエスさまを十字架につけてしまいました。せっかく神さまの子、イエスさまが地上に来て下さったのに、十字架につけてしまったことは悲しい出来事です。でも、そのことは、イエスさまが地上で人となって生まれる前から決まっていたことなのです。イエスさまは、十字架におかかりになるために生まれて下さったのです。

十字架にかけられた命は、罪深いわたしたちの身代わりでした。人となった命は絶たれました。でも、そのままではなかったのです。三日目によみがえられたのです。

復活ということが信じられない人が大勢います。イエスさまが十字架につけられて 死んだということは、歴史的事実と認めざるをえないでしょう。でも、多くの人が復活でつまずきます。復活ということを言わなければキリスト教を信じてもいいのになあという人もいるほどです。

確かに死んでしまった人がよみがえるということは、常識的に考えると、あり得ないことです。でも、あり得ないことが起きたのです。先日も書きましたが、イエスさまがよみがえってくださったからこそ、わたしたちが死んだ後、イエスさまとともにいることができるようになったのです。復活されたイエスさまは、今も生きておられます。

復活されたことの証拠を目に見える形で示すことはできません。聖書に書いてあることを「アーメン」(その通りですという意味)と言って受け止めるとき、イエスさまの復活のいのちに預かることができます。

イエスさまはこう言われました。

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます(ヨハネ10:11)」

イエスさま、わたしのために十字架にかかって下さって有り難う。死に打ち勝ってよみがえられた勝利の主に栄光あれ。ハレルヤ!!


暗唱聖句

2006-04-15 12:44:38 | 日記

 乳癌になってから、聖書を暗記しようと、紙に書き写したものを冷蔵庫にはって食事の支度や後かたづけをするときに少しずつ覚えています。

 めぐみ教会の教会学校では、毎年2月に暗唱聖句大会を行っています。1年生から6年生まで60人以上の子供達がチームに分かれてゲーム形式で競い合いをします。
歓声が上がり、盛り上がってとても楽しいひとときです。暗唱聖句大会の前には2.3週間かけて20くらいの聖句(聖書の言葉)を覚えます。もちろん教師も覚えます。記憶力の悪くなっているわたしは、覚えてもすぐ忘れ、子供達に負けてしまうこともありますが……。

 聖句を覚えていると、いざというときに役に立ちます。たとえば具合が悪くて伏せっているとき、夜眠れなくなってしまったとき、危機的状況にあるとき、人から責められて窮地に陥ったとき、手術台の上にいるとき……。聖書を開くことができないときに覚えていると強められます。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな、わたしがあなたの神だから(イザヤ41-10)」
には、今までどれだけ力づけられてきたことでしょう。


わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。
聖なる御名(みな)をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主はあなたのすべての咎(とが)を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたを命の穴から贖(あがな)い、
あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。(詩編103:1-5)


昨日少し落ち込んでいたとき、この聖書の詩編が頭に浮かびました。1節、2節の中に3回も「ほめたたえよ」と書かれています。つらいときにも神さまをほめたたえられるのでしょうか?

主の良くして下さったことをひとつひとつ思い浮かべてみました。今年になってからでも数え切れないほどあります。今までの人生の中では、なんとたくさんの恵みがあったことでしょう……。詩編34編1節には、私はあらゆるときに主をほめたたえると書かれています。あらゆるときというのは、順境のときだけでなく、逆境のときもという意味ですね。
 
もし、わたしが再発転移していて余命が短いとわかったとしても、そのときでも主をほめたたえられるでしょうか? 自信はありません。
でも、神さまが病を癒し、良いもので満たして下さるといっておられるのですから安心です。

昨日はたくさんの方々から励ましを頂き涙が出るほど嬉しかったです。有り難うございます。

血液検査の結果は2週間後に出ます、もし精密検査を受けることになっても、その結果は今から1か月後。1か月間は再発転移のことを考えないで過ごしましょう。明日はイースターです。

受難日

2006-04-14 13:45:48 | 乳癌
 今日はキリストの受難日です。受難日にふさわしいような気持ちでいます。 

 昨日病院へ行ってきました。今まで担当して下さっていた外科の先生が退職されたので、初めて乳腺外来の先生にみていただきました。薬の副作用のことなどお聞きしたいことがたくさんありました。乳癌の多くの症例をみてこられた医師だと聞いていたので期待していました。

 診察室に入った途端、腫瘍マーカーの数値が上がっているので血液検査をして下さいといわれて動揺し、聞きたいと思っていたことの半分も聞けずに中央検査室へ行きました。
 
 腫瘍マーカーというのは、悪性腫瘍の動態を把握するもので、癌が再発した場合、数値が上がります。でも、たまに再発転移しても数値が変わらないこともあり、また数値が上がっていても再発転移ではないこともあります。
 
 検査は今年の1月にやっており、結果を聞いたときは、何の異常もないと言われていたのに何故?と思って尋ねると「正常範囲内だから何も言われなかったのでしょう。でも、少しずつ上がっています。あなたの場合は4つもリンパ転移があり、年齢的にも危ないので念のために再度血液検査をして、下がっていないようなら、次回精密検査を受けて下さい」と言われました。

 子宮筋腫のことも、ノルバテックスを飲み続けているとさらに大きくなるので、薬はやめる方向で、子宮と卵巣切除手術か2か月に一度の腹部注射を2年間することになると言われました。注射は一回2万円もするそうです。目の前が真っ暗になりました。
 
 それより、再発転移の可能性があるということがショックでした。精密検査を受けて、いくら早期に発見できても、転移癌を抑えられないことが多いと聞きます。絵門ゆうこさんのようにいくら前向きで、気力のある人でも癌には勝てず、亡くなってしまうのだと思うとつらいです。絵門ゆうこさんはわたしと同じ年でした。(49歳)
先日父のためにホスピス見学にいきましたが、先にわたしが入ることになるかもしれないのだと考えてしまいました。

 でも、死ぬ時期は、わたしが生まれる前から神さまが定めていてくださっているので、ジタバタしても仕方ないのです。昨日、キリストを信じて死んだ者は、キリストとともにいるという記事を書いたことは、わたしにとって大きな慰めになりました。

キリストを信じて死んだ者は……

2006-04-13 17:39:54 | 聖書から

「死んだらすぐイエスさまのもとにいける」というのがわかりづらいというコメントを頂きましたので、今日はそのことについて書きます。わたしは、牧師でも伝道師でもないので詳しいことはわかりませんが……。わたしのわかる範囲で書きます。

 イエスさまが十字架につけられたとき、共に十字架につけられていた犯罪人のひとりに「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(ルカ23:43)」と言われました。その数時間後にイエスさまも犯罪人も息をひきとるわけですから、犯罪人が死後キリストとともにいることは確かです。

ジョン・パイパーの『イエス・キリストの受難』の本の中では、以下のように書かれています。

パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ビリピ1・21)と述べています。死ぬこと、つまり一時的に体を脱ぎ捨ててしまうことは、益であると。それを益だと言えるのは、何にもまして、死はクリスチャンにとって帰郷であり、キリストのもとにいくことだからです。パウロは続けてこう言います。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」(同1・23)
(中略)
キリストを信じる人々は、死んだときに、その存在が消滅するのではありません。たましいの眠りにつくのでもありません。私たちはキリストとともにあるのです。主とともに神の家に住むのですから、「はるかにまさっている」ことであり、「益」です。
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」(Ⅰテサロニケ5-10)
眠っているかのように肉体は墓に横たわりますが、私たちはキリストとともに天国で生きるのです、最終的な希望は、それを越えて復活の体を授かるときが来ます。しかしそれに及ばなくても、キリストとともにいることは筆舌に尽くしがたく貴いことです。


「{キリストを信じて死んだ者は、キリストとともにいる}ということは、確かですね。
自殺した場合はどうなのかわかりません。自殺は、神さまの与えて下さった命をおろそかにすることで、神さまが最も悲しまれることですから。

 

花びらの絨毯

2006-04-12 16:09:13 | 教会

今日の雨で、桜が全部散ってしまいそうです。花びらの絨毯を敷き詰めたような桜川の土手を歩いて教会へいきました。散りゆく桜をみるとき、かつては空しさを感じ、暗い気持ちになっていたことを思い出します。

 今は花の散るのを見ても嬉しいのです。花は散っても木がなくなってしまうわけではありません。枝からつややかな緑の葉が出てきているのをみると、新しい命の息吹を感じます。
 
 ブログに桜川の桜の写真を3回も載せたのは、特別な想いがあるからです。わたしが書いた本「リピート・シンドローム」はこの桜川も舞台となっており、桜ではじまり、桜で終わっています。本が出版されて、まる2年になろうとしています。次々と新しい本が出版されている現在、2年前の本はもう古本で、すでに書店の棚には置かれておらず、ネット書店amazonではユーズド価格でも出品されています。 
 
数か月前、出版社から返品本が送られてきましたが、その一月後、半分を送り返して欲しいといわれました。再び、ネット書店からぼちぼちと売れ始めているそうなのです。不思議な売れ方をする本だといわれました。
そして、今月18日に「リピート・シンドローム」CRCメディアミニストリーのラジオ放送「ほほえみトーク」の中で紹介して下さることになりました。「はじめに」のところを熊田なみ子さんが朗読して下さるそうです。とても楽しみです。

火曜日 午前6:15 KTWR(11690KHz)[短波] 午後9:15 KTWR(9465KHz)[短波]
フレンドシップラジオ(ゆうせんK3) 午前6:45 午後 0:15 6:00

インターネットでも聴けますので、ぜひ
「ふくいんのなみ」のホームページをご覧下さい。(ブックマークにも加えました)

今日の祈祷会では、ジョン・パイパー著の『イエス・キリストの受難』からの学びでした。イエスさまが十字架にかかった目的について50項目あげられていました。50もの目的があるとは驚きでした。その中でとくに心が捕らえられたのは、40番目の「死んだあと、すぐに主とともにいられるため」と50番目の「最悪の出来事も善へと変えられることを示すため」でした。

わたしは、乳癌になってから、死を意識するようになりました。病に対する恐れはありますが、死そのものに対する恐怖は全くありません。それは、死んだらすぐイエスさまのもとに行けると信じているからです。また、最悪の出来事も善へと変えられるというのは、苦難の中にあるとき、大きな励ましになります。 
 イエスさまの十字架を深く感謝しました。


夜もまたあなたのもの

2006-04-11 12:00:16 | 聖書から

昼はあなたのもの。夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。詩編74:16



今朝、この聖書の言葉を読んではっとしました。わたしは、できれば苦しみを避けたい。つらい目にあいたくないと思っています。そして、物事が順調にすすむこと、健康が支えられることを祈り、願っています。もちろん、それは誰もが願うことで、願ってはいけないというわけではありません。

願っても、祈り求めても、かなえられず、物事がうまくいかないとき、体調が崩れてしまったとき、気持ちが深く落ち込んでしまうことがあります。また、突然の災難が起きると動揺し、自分を見失ってしまうことがあります。

順調なときが昼、苦しみのときが夜と考えると、昼も夜も神さまのものだと聖書に書かれているのですから、夜を恐れたり、嫌ってはいけないことに気づきました。
神さまは、暗い夜にでも月を備えて下さっているのですから、どんなことが起きても光は失われることがないのですね。どんなできごとも、神さまのみ手の内にあり、神さまが知らないことはひとつもないのです。

昼は、日があなたを打つことがなく、夜も月があなたを打つことはない。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのいのちを守られる。詩編121:6.7


と神さまは約束して下さっています。
わたしは、このところを読むといつも涙が溢れます。わたしのいのちもみ手の中です。



 昨日、このブログとリンクしている日本クリスチャン・ペンクラブのHPを更新しました。ぜひご覧下さい。

受難週の礼拝

2006-04-09 17:24:32 | 教会

桜川の桜が満開です。昨日の強い風にも耐えて咲いていました。

今日は受難週の礼拝でした。受難というのはイエス・キリストの十字架と埋葬のことです。受難週は、キリストの十字架の苦しみを覚えて過ごします。

わたしは、教会学校で子供達に十字架のお話をしました。
話しながら泣いてしまったらどうしよう。途中で語れなくなってしまったらどうしようと心配でしたが、神さまが支えていて下さったので大丈夫でした。

イエスさまは、何も悪いことをしていないのにローマの兵隊につかまって裁判にかけられ、正統な理由がないのに十字架につけられてしまいます。でも、それは最初から神さまが計画されていたことだったのです。

十字架につけられたとき、イエスさまは驚くべき事を言われました。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23-34)」


父というのは、父なる神さまのことです。神さまに自分を十字架につけた人たち、あざ笑う人たちを赦して下さいと祈っているのです。

 イエスさまが、何の罪もないのに十字架におかかりになったのは、罪あるわたしたちの代わりに罰を受けるためでした。イエスさまが十字架にかかってくださったので、わたしたちはイエス様を信じるだけで罪が赦され、永遠の命がいただけるようになりました。

 ひとり子が十字架で苦しむのを見ておられた父なる神さまの気持ちはどのようなものだったのか……と考えると胸が締めつけられるようです。
 
 イエス様が十字架につけられる場面を思い浮かべて、礼拝ではさめざめと泣きました。

拍手ボタンです

web拍手