生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

一年を振り返って

2012-12-28 11:51:20 | 日記
おもちゃと着替え、こどもチャレンジなど、たくさんの荷物をかかえてヒックンがやってきました。今、主人と仮面ライダーの映画を観に出かけています。一年を振り返ってのブログを書くのは限られた時間です。


今年は大きな変化のあった年でした。主人が完全に仕事を退き、毎日家にいるようになりました。生涯学習センターで行われている講座に週3回通い始めましたが、2~3時間で帰ってきます。

今までは時間を自由に使い、昼食はひとりのことが多かったので、2時ごろ食べたり、好き勝手にしていました。主人がいるとそういうわけにはいきません。昼食のメニューを考えるのも一苦労だし、自分の時間が少なくなって、ストレスがたまるのではないかな……と思っていました。

ところが、全くと言っていいほどストレスはなく、掃除など家事を半分もやってくれるので大助かりです。わたしは洗濯と3度の食事を作り、後片付けをしていればいいのです。

暮れの大掃除は、8割ぐらいやってくれたので、わたしはお菓子作りばかりしていました。
主人は全く干渉せず、自分のやりたいことをやっているので、わたしが1日パソコンにかじりついていても何も言いません。

結婚した当初は、主人が無口でわたしのしていることに全く無関心なことを嘆いていましたが、今は無口、無関心、大歓迎です。
ただし、信仰のことには関心を持ってほしいなあと思いますが……。

一年間の出来事としては、キリスト教の月刊誌「百万人の福音」のペンライト賞に佳作入選したことが挙げられます。あかし文章を書き続ける励みになりました。

また、今年は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の60周年の年で、記念感謝会の実行委員のひとりとして準備に関わらせていただきました。2月末からその準備が始められ、何度も御茶ノ水に足を運びました。そして、10月6日に行われた感謝会は、祝福あふれるものとなりました。

昨年から引き続いてお茶の水聖書学院(OBI)の卒業論文に取り組み、7月には埼玉の嵐山で行われたサマースクーリングに出席し、指導を受けました。そして、12月に卒業論文を仕上げ、無事提出することができました。来春は卒業です。

そうそう、主人が論文の下書きに目を通してくれました。今までわたしの書いたものはほとんど読んでくれなかったのに……。論文と言ったので珍しかったからでしょうか……まさに奇跡的なことでした。

2か月に一度、土浦で行われる児童文学者協会茨城支部の例会では、長編を書くかたわら、毎回短編を提出していました。そして10月には200枚の長編を書きあげました。

ネット読書会「カラマの会」ではドストエフスキーの「白痴」と「悪霊」を読みました。
ひとりでなら100%途中で放り出してしまうであろう本です。内容が十分に消化されませんでしたが、とにもかくにも読み終えたことでほっとしています。

教会では、一年間教会学校(CS)奉仕が守られました。クリスマス会前の2か月間は、朝8時半からの礼拝に出て、10時から12時半までのCS奉仕でした。朝早く起きて主人の朝食、昼食を作って出かけるのは大変でした。

素敵な出会いもありました。このブログを見てくださった方とお目にかかって友達になりました。神様が与えてくださった出会いです。

書き出してみると、たくさんのことをした一年間だったと思います。体調良好というわけでもなかったのですが……。病院通いをしつつ、3か月ごとの子宮癌検診も受けつつです。

今年を漢字一文字で書くと何でしょうか?と質問されて、わたしは「力」と答えました。

これだけのことができたのは、わたしの力ではありません。体も頭も弱いわたしが、できるはずがないことを成し得のたは、神様の力によると思ったからです。神様に「力を与えてください」と、必死に祈りながら行いました。

このことは、めぐみ教会の今年の年間聖句とリンクしていました。

年間聖句は「神の力は私の弱さの中に完全に現れる。私が弱い時こそ私は強いのです。(Ⅱコリント12:9-10より)」です。
神さまの力が完全に現れてくださった一年でした。心から感謝します!!



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我が家のクリスマス

2012-12-25 20:53:16 | 日記
昨日はヒックンとヒックンママも招いて、家族でクリスマスのお祝いをしました。相変わらず仕事の忙しい息子は来ることができませんでしたが……。

息子夫婦から思いもかけずクリスマスプレゼントをいただきました。
マッサージクッションです。マッサージチェアーは知っていますが、クッションがあるとは知りませんでした。首や腰に当ててスイッチを押すと、心地よいもみ具合です。10分も当てていると肩こりがすっと楽になりました。寝ころびながらでもマッサージできるところが気に入りました。

クリスマスカードには「おとうさん、おかあさんへ。いつも とても 感謝しています。心をこめて」と書かれていたので、ジーンときました。

ヒックンは1日早くサンタさんが来てくれたとのことで、ごきげんでした。どんなおもちゃをもらったか一生懸命説明してくれました。

子どもの成長は早いです。好みも変わります。いままで、ママの好きなピンクが大好きで、タオルも歯磨きコップもピンクのものを使っていました。でも、最近は「ピンクは女の子が好きな色だよ」と言って青いものを使っています。

時計がよめるようになって、パソコンでゲームするときも何時までと約束できるようになりました。

野菜は何でも食べますが、少し前までほとんど肉を食べませんでした。でも、最近はよく食べるようになって、ローストチキンを焼いたら、大喜びでかぶりついていました。


来春は1年生です。

28日からヒックン泊まりがけでくるので、その間は時間のかかる内容のブログ記事は書けないと思います。
「奇跡について」の続きはまだあるのですが、来年になってから書きますね。



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奇跡について(3)

2012-12-24 12:13:57 | お茶の水聖書学院
クリスマスのことは、今回の論文には書きませんでしたが、クリスマスの出来事ほど奇跡といえることはないでしょう。

処女懐胎がどうしても信じられないという方もおられるでしょう。今までそのようなことはなく、これからもないであろう出来事が約2000年前に起きたのです。
でも、今まで起きたことがないからという理由で処女懐胎が嘘の出来事であると決めつけることはできませんね。

マリヤもヨセフも戸惑ったと思います。結婚前に妊娠したことがわかると、ユダヤの社会では石打ちの刑になるのです。ヨセフはマリヤを守るため公にせず、ひそかに別れようとしていました。

ところが、ヨセフの夢にみつかいが現れて、マリヤの子は神の子で、救い主であることを知らされます。ヨセフはみつかいの言葉を信じました。
救い主が生まれるためにはマリヤとヨセフがこの奇跡を信じ、受け入れることが必要でした。   

昨日の礼拝でバッハの「クリスマスオラトリオ」の素晴らしい賛美を聴きました。ドイツ語で歌うのですが、歌詞の意味がスクリーンに映し出され、クリスマスオラトリオからのメッセージが語られました。

クリスマスオラトリオの訳詩の一部を紹介します。

63
地獄の恐怖も、もはやなんだというのでしょう?
私たちに世や罪が 何ができるでしょう?
私たちはイエスの手の中で安らいでいるのに。
64
いまや あなたたちは十分に復讐しました、
自分たちの敵の群れに。
なぜなら キリストが打ち砕いたのですから、
あなたたちに敵対する者を。
死、悪魔、罪、そして地獄は
完全に力をそがれました。
神の下に自分の居場所を持ったのです、
私たち人類は。



「ヨセフやマリヤは、不安と恐れの中を生きとおしてくれました。暗闇があっても大丈夫。暗闇の中に光が存在するのです。」と牧師先生が言われました。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)

イエス様、この地上に生まれて来てくれてありがとう。
イエス様、闇を打ち砕いてくれてありがとう。
わたしに居場所を与えてくださってありがとう。
わたしの居場所はあなたのもとにあります。
イエス様のご降誕を心からお祝いします。

メリークリスマス!

久々にわたしのHP「生かされて・・・土筆文香」更新しました。



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奇跡について(2)

2012-12-22 21:15:44 | お茶の水聖書学院
病気の人は、病気が治って元気になりたいと心から願います。不治の病にかかると、どんな宗教でもいいから癒しの奇跡を行ってくれる宗教に入りたいと思う人がいるかもしれません。

わたしは、ひどい喘息の発作にしばしば襲われたとき、病が癒されることばかり願っていました。ある宗教の信者である友人に喘息のことを話すと、「キリスト教なんか信じているから喘息が治らないのよ。〇〇教に入信しなければ、あなたは喘息で野垂れ死にするよ」と友人が言いました。そう言われたとき、不覚にも心が揺らいでしまったのです。

わたしは、そのとき教会を離れていましたが、自分がクリスチャンであること友人に話していました。
喘息が治るなら、キリスト信仰を捨ててしまうかもしれないという自分の弱さに気づき、恐ろしくなりました。そのことがきっかけで再び教会へ通うようになりました。教会に通えば喘息が癒されると思っていたわけではありません。でも、心のどこかで癒しの奇跡を望んでいたのかもしれません。
病の癒しの奇跡を求めるのは、いけないことなのでしょうか?

聖書には病の癒しの奇跡について何箇所も書かれています。ヨハネの福音書では、ベテスダの池のほとりにいた病人について書かれています。 
その病人は38年間も病んでおり、癒される可能性がほとんどない状態でした。その人は希望が見いだせないので、気持ちがすさんでいました。わたしは、この人がかつての自分のように思われてなりません。
イエス様はこの病人に近づき、癒してくださいました。ベテスダの池のほとりには何人もの病人がいたのに、イエス様はなぜこの人だけを癒されたのでしょう……。

「もっとも癒される可能性が低い人だったから」とカルヴァンは書いています。
イエス様が神様であることを示すためには、癒される可能性が最も低い人を癒した方が効果的です。でも、それだけではなく、イエス様の愛と憐れみによって、その病人は癒されたのです。

その日が安息日だった(当時のユダヤ社会では、安息日に働いてはいけない。病人を癒してはいけないという決まりがありました)ので、イエス様はユダヤ人たちに責められることになりますが、あえてそうしたのにも理由がありました。古い律法に縛られているかたくななユダヤ人たちに救いを知らせるためもあったのでした。
                        つづく


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奇跡について(1)

2012-12-21 20:16:39 | お茶の水聖書学院
お茶の水聖書学院(OBI)の卒業論文がようやく完成しました。書き上げるのに1年半かかりました。何度も書き直しになり、先生と添付ファイルでやりとりし、ようやくOKが出ました。昨日、御茶ノ水まで行ってファイリングし、提出してきました。大きな仕事をやり遂げたという気持ちでほっと安堵しています。もちろん、やり遂げる力を与えてくださったのは神様です。
論文のテーマは「聖書における奇跡の意味と意義について」です。

聖書を読んで「奇跡の記事さえなければ信じられるのに……」と言う人がいます。
わたし自身、クリスチャンになる前は聖書に書かれている全ての奇跡が信じられませんでした。
奇跡の記事につまずいてキリスト教を受け入れることができない人をみると、残念だなあと思います。聖書にはなぜ奇跡の記事がたくさん書かれているのだろうか……。聖書はどのような目的で奇跡を記しているのだろうか……と思い、このテーマを選びました。

聖書に書かれているすべての奇跡について調べたら、膨大になり、収拾がつかなくなってしまったかもしれません。ヨハネの福音書に記されているイエス様が行った7つの奇跡について調べてみてはどうかとOBIの先生から助言をいただき、その7つの奇跡に絞って調べることにしました。


まず初めに資料集めをしました。インターネットで「奇跡」というキーワードで検索して東京基督教大学の図書室から本を借りました。東京基督教大学まで行くのが大変だったので、OBIに送っていただき、OBIで読ませていただきました。

借りた3冊のうち2冊は、的外れの内容(聖書における主の奇跡ではなく、いわゆる世界中にある不思議な出来事の書かれた本)でしたので、がっかりしました。
でも、一冊はとても役に立つ内容でした。自宅への持ち帰りとコピー禁止というので必死に書き写しました。

去年の夏と秋にはルーテル学院大学の図書室の使用許可をいただいて、貴重な資料を集めることができました。(膨大な資料をコピーさせていただきました)

おかげでカルヴァン、メリル・テニイ、CLアレン、CSルイス、BFバックストン、RVGタスカーなどの聖書学者たちと親しくなりました。

「やっぱりそうよね、カルちゃん。テニイさんはそう考えるの。アレンさん、ルイスさんの考え方素敵! バックストンさん、ちょっと違うんじゃないの? タスカーさんはどう思う?」などと語りかけながら調べていました。

(偉い先生方で、親しくさせていただけるような方々ではないのに勝手に言っています。カルヴァンのことをカルちゃんなんて言ったら叱られそうですが……)

ルターさんとも親しくなりたかったのですが、ルター著作集の中にヨハネの福音書がなかったので残念でした。
内村鑑三が奇跡について書かれているのを読んだときは、はっとさせられました。

「キリスト教の重点はその奇跡である。」「キリスト教よりその奇跡を除いて余すところは零である。」「キリスト教は奇跡である。超自然的事実また勢力である。神が人として生まれ、罪を取り除き、死を滅ぼし、永生を賜えりとの事である。奇跡ならざるキリスト教は、これをキリスト教として認むることはできない」(『内村鑑三信仰著作集14』(教文館、2005年)、p131)

考えてみれば聖書は奇跡に始まり、奇跡で終わっています。はじめに神が天と地を創造したということ自体奇跡です。福音書においてもイエス様の誕生の奇跡から始まって、復活の奇跡で終わっています。
聖書には道徳的な教えだけが書かれていると思っている人がおられますが、そうではありません。キリスト教は、教えではなく神様がなさったことを信じる宗教です。              つづく

OBIの帰りに実家に寄って泊まり、母を手伝って大掃除をしてきました。我が家の大掃除はまだ途中なのですが……。
帰りの電車では熟睡してしまいました。



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4人目の博士(後編)

2012-12-17 16:38:58 | その他

朗読劇の続きです。


ナレーション:アルタバンは、たったひとりで砂漠を旅し、ベツレヘムの町に着きました。小さな家の戸が開いていて、子守唄が聞こえていたので、その家に入りました。そこには若い母親と赤ん坊がいました。

アルタバン :ちょっとお尋ねしますが、わたしと同じような服装の外国人がこの町に来ませんでしたか?
母親    :おやまあ。ちょうど3日めえさきて、ヨセフどんの家さ行って、赤ん坊に贈り物をやったっつう話を聞いたがぁ。
アルタバン :そうですか。ヨセフの家はどこでしょう。
母親    :それが……昨日、急に旅に出たみてえで……。3人の外国人もあ    
っという間にいねくなってしまったんだぁ。
アルタバン ど、どこへ旅立たれたんでしょう。 
母親    :あいさつにも来ねえんだ、知るわけねえべ。

ナレ    :そのとき、路地から女の人の悲鳴が聞こえて来ました。ドタドタと足音も聞こえます。

女     :ローマの兵隊が赤ん坊を殺しに来たぞ! はやぐ逃げれ 

ナレ    :アルタバンが戸口に立つと、槍を持つローマの兵隊がぞろぞろやってくるのが見えました。母親は赤ん坊を抱いて部屋の隅で震えています。アルタバンは、ルビーを出しててのひらに乗せました。

兵士    :この家に赤ん坊はいないか! 
アルタバン :ここには誰もいない。わしを見逃してくれるような賢い隊長がいたら、この宝石をやろうと思っているんだが……。

ナレ    :兵士はキラキラ光るルビーを見ると、いきなり手を伸ばして取りました。

兵士    :ここには子どもはおらん。家はからっぽだ。先へ進め!

ナレ    :兵隊たちは武器をガチャガチャいわせながら去って行きました。

母親    :ありがとうござんす。何てお礼ゆったらええが……。神様がおめえさまを祝福して下せえますように。

ナレ    :アルタバンは、救い主を捜して旅を続けていました。エジプトに行ったといううわさを聞いてエジプトにも行ってみました。でも、見つけられず、またユダヤの国に戻って捜しました。いつの間にか三十三年の月日がたっていました。黒かったアルタバンの頭は真っ白になっていました。
      エルサレムの町に来たとき、ちょうど過ぎ越しの祭りの最中でした。ひとりのユダヤ人の言葉が耳にとびこんできました。

男     :ユダヤ人の王とゆった男は、とうとう十字架につけられちまったべ。
アルタバン :えっ、誰が十字架につけられたのですか?
男     :おめえ、知んねえのけ? ナザレのイエスつう男だっぺ。
      :自分が「神の子」なんてゆったから十字架刑になったんだべな。       
アルタバン :(まさか。まさかその人は、わしが捜している救い主?)

ナレ    :そのとき、マケドニアの軍隊がこちらに向かってきました。兵士はひとりの娘の髪をつかんで引きずっていました。娘はアルタバンの姿を見ると、すがりつくような目でみつめました。

娘     :助けて! 奴隷に売られちゃうよ。奴隷になるぐれえなら、死んじまったほうが楽だっぺに。

ナレ    :娘の必死な叫びにアルタバンの心は揺れました。

アルタバン :(この真珠で助けることができる。でも、真珠を使ってしまったら、救い主に差し上げるものが何もなくなってしまう……。
       でも、神様はこの娘を救うことを喜んでくださるだろう。)
ナレ    :アルタバンは、真珠を取り出して、娘の手に握らせました。

アルタバン :これはお前の身代金だ。これでお前は自由になれるんだよ。

ナレ    :そのとき、ゴーっと地鳴りがしたかと思うと、大地が激しく揺れました。壁が崩れ、アルタバンの頭に重いれんがが落ちてきま
した。アルタバンの額が割れ、血が流れました。娘はアルタバンを支えましたが、一目で命が助からないことがわかりました。
アルタバンは、静かに口を開きました。誰かと話しているようです。その相手の姿は娘には見えませんでした。

アルタバン :主よ。わたしがいつあなたが空腹であるときに食物をめぐみ、かわいているとき飲ませましたか? いつあなたが旅人であるとき宿を貸し、裸なのを見て着せましたか? わたしはただあなたを捜していただけで、何のお役にもたてませんでした。

イエスさま :おめえによーぐゆっておぐ。おれの兄弟(きょうでえ)であり、いちばんちっちぇーものにしたのは、おれにしたのどおんなじだぁ。

ナレ    :アルタバンの旅は終わりました。宝はすべて主が受け取ってくれたのです。
「もう一人の博士」はとうとう救い主に巡り会えたのでした。             
             
 *讃美歌121番「まぶねのなかに」を賛美する。

                         おわり

アルタバンの生き方がイエス様の生涯と重なったので、讃美歌「まぶねのなかに」を賛美しました。この脚本は、「もう一人の博士」V.ダイク著 岡田 尚訳 佐藤 努画(新教出版社)を参考に書きました。

昨日は教会学校小学科のクリスマス会でした。子どもたちが一生懸命演じている姿に心打たれ、救い主誕生の喜びにあふれました。


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4人目の博士(前篇)

2012-12-15 16:40:03 | その他

一昨日は家庭集会のクリスマス会でした。7つの家庭集会のメンバーが教会に集まって、それぞれ出し物を披露しました。今年のテーマは星です。
すばらしい賛美(中国語での賛美もありました)や劇、将来のゆめを語ってくれたグループもありました。

わたしたちは昨年と同様、朗読劇(もちろん、中身は新しい作品です)をしました。当日朝に早く集まってリハーサルをしましたが、それ以外は 11月の家庭集会で一度練習したきりです。

ほとんどぶっつけ本番でしたが、みなさん迫真の演技(?)でした。この作品については11/16のブログに書いています。(クリックすると、なぜかこの記事の下に11/16の記事が出てきます)

朗読劇の台本(前半)を紹介しますね

       
      
 朗読劇  4人目の博士(その1)


ナレーション:いまから2000年以上もむかし、ペルシャの国で四人の博士が星の道筋を調べるため、夜空を見上げていました。

博士1  :おお、あれは何だ? 今まで見たこともない星が出てるぞ。
博士2  :何だって? あ、ほんとだ。なんて美しい輝きなんだろう。
博士3  :この星は、何かのしるしかもしれない。
アルタバン:そうとも。この星は、メシヤ誕生のしるしだ。
博士1  :ほんとうかい、アルタバン。そういえば、あの古い巻物に救い主のことが書いてあったような……。

ナレ   :博士たちは、以前ペルシャに住んでいた捕囚の民、ユダヤ人が持っていた巻き物を読んでいました。

アルタバン:巻物のダニエルに書かれていることから計算したら、メシヤ誕生はちょうど今年になっているんだ。

ナレ   :アルタバンは仲間の誰よりも巻物を一生懸命読んでいました。
博士2  :とうとう救い主がお生まれになったんだ!
博士3  :みんなでユダヤの国に救い主を拝みに行こう。
博士1  :救い主に差し上げる贈り物を用意しなくては。
博士2  :長い旅になるから、ラクダも必要だな。      
博士3  :では、四日後の夕方に七星の宮の前で会おう。

ナレ   :博士たちは、旅支度をするため、それぞれ家に帰って行きました。財産を売り払ってメシヤに差し上げる贈り物やラクダを用意しました。アルタバンは贈り物としてサファイヤとルビーと真珠を求めました。

アルタバン:ああ、もすぐ約束の時間だ。急がなければ……。
ナレ   :約束の日の夕暮れが迫ってきころ、アルタバンはラクダに乗って、七星の宮に向かっていました。そのとき、道端に誰かが倒れているのを見つけました。
旅人   :(苦しそうに)う、うっ……。助けてくれ。

ナレ   :倒れていたのはユダヤ人の旅人でした。アルタバンがラクダから降りて旅人を見ると、彼は熱病にかかっているらしく、手足がけいれんで震えていました。

アルタバン:(気の毒だけど、看病したとしても助かるまい。約束の時間がせまっているから、行かなくては……。)

ナレ   :アルタバンがラクダに乗りかけたとき、旅人の細い手がアルタバンの衣のすそをつかみました。

旅人   :み、水くんねえか。
アルタバン:えっ、水だって! (この人のために水を汲みに行っていたら間に合わなくなる。どうしよう)
ナレ   :アルタバンは迷いましたが、旅人を見捨てることができず、水を汲みに行き、飲ませてあげました。そして、薬草を飲ませて一晩中看病しました。
夜が明けるころ、旅人は回復しました。アルタバンは、持っていたずべての食料と薬草の残りを渡しました。

旅人   :ああ、ありがてえ……。おめえさまは誰だっぺ?
アルタバン:アルタバンです。救い主がお生まれになったので、これからユダヤの国のエルサレムに行くところです。
旅人   :そうけ! 救い主がとうとう生まれたのけ。何のお礼もできねえけど、おめえさまにひとつ聞かせてえことがある。
アルタバン:何でしょうか?
旅人   :救い主が生まれるのはエルサレムでねえべ。ベツレヘムだっぺ。まちげえるな。
アルタバン:ありがとう。ベツレヘムですね。

ナレ   :アルタバンは旅人と別れ、ラクダをすすめました。約束の日時はとっくに過ぎていましたが、仲間が待っているかもしれないと、七星の宮の前に来ましたが、そこには誰もいませんでした。
宮の屋上に「先に行く。砂漠を超えていくから追いつくように」と書かれたパピルス紙が置いてありました。
      
アルタバンはがっかりしました。でも、しかたがありません。食料も薬草もなくなってしまったので、贈り物として用意していたサファイヤを売って、それらを買い、仲間のあとを追いました。
                  つづく

 *ユダヤ人の言葉を茨城弁で書いています。
  ガリラヤなまりと茨城弁が似ているのではないかと勝手に想像しました。




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救われるってどういうこと?(その2)

2012-12-11 21:57:43 | 聖書から

昨日に続いて、イエス様を信じたわたしの心に起こった変化について書いています。


⑥自分の力で人生を切り開いていくという思いから、神様に力をいただいて何かをしようと思うようになる。

自分の力で勝ち取っていくこと。一生懸命頑張ることがすばらしいとする考えが世間にはあります。確かに努力して勝ち取ることができることもあります。
けれども自分の力ではどうしようもなくなるときがあります。たとえば病気をしたり、思わぬ事故にあったり……また、老いて体力に限界がきたり……やる気があっても、努力しようと思っても、どうしようもないことがあり、そのようなとき、自分の力だけでやってきた人は挫折してしまうかもしれません。

でも、神様にたよる人は、どんな困難なことが起きても絶望しません。困難をマイナスではなくプラスにしてしまうのです。
そして何かを成し遂げて人々から称賛されても、神様の力によってできたことなので誇ることがありません。

⑦心配しすぎて自分を見失うことがない。
心配がなくなるわけではありません。心配はします。でも、神様が助けてくださると信じているのできっと大丈夫と思えるのです。

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります(マタイ6:34)」

⑧神様が一緒にいてくださることを実感して平安が与えられる。
不安で胸がざわざわすることもあります。恐れに取りつかれて臆病になってしまうことがあります。そういうときは、神様が共におられることを忘れているときです。

聖書には恐れるなと何度も書かれています。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから(イザヤ41:10)」
この聖書の言葉を読むと、神様が一緒にいてくださるのだから、すべておまかせしていたらいいのだというところに落ち着いて、心が安らかになります。

「何事も思い煩らわないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(ピリピ4:6,7)」

人のすべての考えにまさる神の平安が与えられたとき、それは天国にいるような気持ちです。そのようなとき『天国の前味をあじわう』と言うのだそうです。

イエス様を信じてわたしのうえに起こった変化はまだまだありますが、書ききれないのでこのへんで終わります。

もともと臆病で神経質で、消極的で悲観主義だったわたしでした。それがすべて逆になってきたのですから、自分でも驚いています。

このことを『救い』とは言いませんが、別の意味で心が救われたと言ってもいいのではないでしょうか。もし、わたしが以前のままの心でいたら、乳がんになったとき、心配のあまり別な病気になっていたと思います。それ以前に、色々な心配事、思い煩いで押しつぶされて死んでしまっていたかもしれません。
わたしは、イエス様を信じて命を助けられたのです。

「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない(Ⅰペテロ2:6)」というのは本当だと実感しています。

                        おわり


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救われるってどういうこと?(その1)

2012-12-10 16:42:57 | 聖書から
「イエス様を信じて救われるというのは、罪が赦されて、死んだら天国に行くという事だけなのでしょうか?」
という質問をいただきました。

死んでから天国で幸せに過ごせると言われてもピンときませんよね。それより、今の現実で救われたい、苦しみから解放されたいと思いますよね。

状況はともあれ、イエス様を信じると、信じた人の心が変化します。どのように変化するのでしょう……。
わたしの心に起こった変化を書きますね。わたしの場合、洗礼を受けてから急に変化したのではなく、徐々にですが……。

①まず、色々なことに囚われなくなります。
自分では気づかなくてもわたしたちは色々なことに囚われていますね。
たとえば大安とか仏滅。友引にお葬式をしてはいけないとか、仏滅には結婚式をしないとか……。方角が悪いとか、年回りが悪いとか……。
でもそれは根拠のないことですから、多くのクリスチャンは気にしません。かえってすいている仏滅に結婚式をしたりします。すべてのクリスチャンはと書かなかったのは、クリスチャンといっても色々な人がいて、囚われから解放されていない人もいるからです。

②人のうわさや世間体を気にしなくなります。
人のうわさや、人に自分がどう評価されているか気にならなくなります。
わたしはかつて人のうわさを気にしすぎて円形脱毛症や胃にポリープできたことがありました。

③心がイエス様がしてくださったこと(このことについてはこの前(11月26日)のブログで書いたのでここでは詳しく書きません)の喜びにあふれ、辛いことや悲しいことがあってもそれに押しつぶされてしまうことがなくなります。

④自分の価値がわかります。イザヤ書43:4には「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と書かれています。わたしとは神様のこと、あなたとは自分のことです。

自分は生きる価値のない者だと思っていたのですが、この聖書の言葉に出会って価値観が変わりました。高価で尊いと言ってくださる方がおられると知って、どれだけ救われたでしょうか。劣等感からも解放されたのです。

⑤憎しみから解放されます。嫌いな人、どうしても受け入れられない人、赦せない人がいました。どうしたら赦せるのかわかりませんでした。ところが、この人のためにもイエス様が十字架にかかって死んでくださったこと、神様はこの人のことをも愛しておられるのだと知ったとき、憎しみが少しずつ溶けてなくなっていきました。

人を憎むことはエネルギーがいります。そのエネルギーを憎しみに費やすのではなく、神様に喜ばれることのために使うことができたらいいですね。

                                  つづく


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検査のたびに死を想う

2012-12-07 21:22:56 | 日記
昨日子宮体癌の検査結果を聞きに婦人科に行ってきました。ずっと調子が悪く、痛みもあったので診察を受けると、子宮体癌の可能性があると言われました。また、ポリープができていたので切除してもらいました。

その後、体調は良くなったのですが、不安が影のように付きまとっていました。すべて神様に委ねているとはいえ、また癌で手術を受けるようになったら大変だなあと、いろいろ考えてしまいました。

検査結果は良好でした。ポリープも悪いものではありませんでした。医師の一言を聞くまで、よほど緊張していたのでしょう。医師の言葉を聞いたら、体の力が抜けたようになってしまいました。

でも、現在の状態は癌になるリスクが大きいので、しばらくは3か月に一度検査をしましょうと言われました。

中村勘三郎さんが亡くなられたというニュースが流れました。
初期の食道癌だから、手術を受ければすぐ元気になれると誰もが思っていたのに……。50代の若さであっという間に召されてしまうとは……同年代の者としてショックでした。

「神様も仏様もいないと思う」と弔問に訪れた大村崑さん言っていましたが、将来のある人が亡くなると、神も仏もいないことになるのでしょうか?

癌でなくても交通事故で一瞬のうちに命を落としてしまう人がいます。少し前までにこやかにおしゃべりしていた人が突然死んでしまったら、どれだけショックなことでしょう。それは誰も予想ができないことで、同じ事故にあっても、ひとりは助かってひとりは亡くなるのはどういうことなのか……その理由のわかる人はいません。

旧約聖書詩編121:7には
「主はすべてのわざわいから、あなたを守り、あなたの命を守られる。」と書かれています。
まだ死なないと思っていた人が死んでしまった場合、この言葉は嘘になるのでしょうか。

人は誰でも死がいつ訪れるかわかりません。突然の死、早すぎる死に遭遇すると驚き、恐れます。でも、神様の側からみるとそれは必然の事です。

もし今大地震が起きて天井が落ち、わたしが死んでしまったとしても、それは理不尽なことではありません。
「わざわいから守られなかったし、命も守られなかったじゃないか」と言う人がいるかもしれません。

死んだわたしが遺された人に語りかけることができたらこう言います。
「そのときは一瞬恐ろしかったけど、気が付いたらイエス様といっしょに天国へ来ていたの。聖書の言葉は本当だったわ。わたしは、わざわいから守られ、いのちも守られたの。このいのちは、イエス様が下さった新しいいのちなのよ!」

3か月に一度の検査のたびに死を想うことになるでしょう。それは、わたしにとって神様によって生かされていることを実感する貴重な機会です。

明日は、乳癌の手術記念日。9年たちました。


今日の夕方、この文章の下書きを書いてPCを閉じ、夕飯の支度をしようとしたとき、久々に大きな地震が起きました。パソコンからUSBを抜き取って、それを握って机の下にもぐりました。地震のことを書いた直後だったので、ほんとうに天井が落ちて来るのかとビクビクしていました。何も落ちてこなかったのでほっとしましたが……。
何が起きるかわかりませんね。



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消えた母との確執

2012-12-04 21:00:58 | 日記
昨日から母が来ていました。毎年、わたしのPCで年賀状を作るため12月初めに来ています。10月に左腕を骨折したので、今年は無理かもしれないかと思っていました。
でも、「行くからね」と言って三鷹から電車で3時間かけて来てくれました。腕はだいぶよくなっていました。今は週2回リハビリに通っています。

今年は1泊なので、着いてすぐ年賀状の図案選びをしてもらいました。
5分もしないうちに「これに決めた」と言うので、「もう少しほかも見てからにすれば」と言っても「これでいい」との一点張り。
母は昔から決断力があり、決めてから迷ったり後悔したりしないのです。

わたしは母と正反対の性格で、決断力が鈍く、迷いに迷った末決めても、あとから後悔するタイプです。
むかしは、人前ではっきりと意見を言って、リーダーシップを発揮している母を見ていると自分が情けなくなってしまうことがありました。自分と母を比較して劣等感を感じていたのです。

言葉で母に傷つけられたことをいつまでも覚えていて、母のせいで意気地なしになったのだと思っていました。
長い間、母との間で確執があったのですが、いつの間にかすっかり消えていることに気づきました。

ずっと母のことを嫌っていたのに、今は母をいとおしく思えるようになり、母のいいところを尊敬できるようになっているのです。なぜそうなったのでしょう……。祈っていたのです。神様が祈りをかなえてくださったとしか思えません。

母にはことあるごとにイエス様のことを伝えていますが、まだ受け入れていません。でも、少しずつ態度が変化しています。

この間、実家に帰ったとき、高校生の姪が来ていました。夕方、姪を迎えに義弟が来たので母と姪、義弟とわたしの4人で夕食を共にすることになりました。妹は大阪出張です。

母とわたしだけのときは、食事のたびにいつもわたしがお祈りをしていました。数年前までは、母はわたしが祈っている最中に「いただきます」と言って食べ始めたりしていました。

最近は、待っていてくれるようになったのですが、まだ「アーメン」とは言いません。
その日は姪と義弟が食べ始めたとき、「お祈りしないとだめなのよ」と、母が言ったのです。
わたしは一瞬耳を疑いました。

母を見ると、手を合わせてわたしが祈るのを待っています。わたしが祈り始めると義弟はちょっとびっくりしたようでしたが、姪は一緒に祈って「アーメン」と言ってくれました。(かつて姪が我が家に来たとき、よく教会に連れて行っていました)

昨日のうちに年賀状印刷ができたので、今日は主人の運転でイオンに行き、買い物をしました。昨年もイオンに行ったのですが、母が気に入った店の場所を覚えていたのには驚きです。(何度も行っているわたしは覚えてないのに……)買い物してお釣りを計算するのもわたしより速くて正確です。何事も母にはかないませんが……そんな母を誇らしく思います。

母が「アーメン」と言ってくれる日が早く来ますように。



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