生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

ちょっとだけ信じる気持ちに

2014-09-25 16:54:51 | 日記
母のことを多くの方々に心配していただき、祈っていただいて感謝します。
母は胃癌でした。30日に手術を受けることになりました。
10日以上何も食べていない割には元気にしています。
 
わたしは気持ちが張りつめているせいか不思議なほど元気で、駅に行くのもバスを待つのがもどかしく、30分の道のりを苦も無く歩いています。
でも、昨日あたりから、疲れていたことに気づきました。肩と背中が凝っていて体が重く、水曜礼拝へ行くつもりだったのに休んでしまいました。

先日病院へ行ったとき、嬉しいことがありました。母が「イエス様をちょっとだけ信じる気持ちになった」と言ったのです。「祈ったら、その通りになっていくから」とのことです。母がイエス様に祈ったことが驚きです。

今まで、実家では食事のたびごとにわたしが祈っていました。母は手を合わせて聞いていました。でも、母が祈ったことはありませんでした。母は、「神様は信じるけど、イエス様が神様だと思わない。神様はたくさんいるから」と言っていました。
でも、イエス様は母の心の戸をたたいてくださっているのです。信仰の第一歩になればいいなあと思いました。

この前紹介した花子とアンのセリフはロバート・ブラウニングの詩の一節だそうで、友人が教えてくださいました。紹介します


春 の 朝
                
  ロバートブラウニング作
           上 田  敏訳

春の朝(あした)


時は春、
日は朝(あした)
朝(あした)は7時、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす、
すべて世は事も無し


すべての事の背後に神様の御手があるのですから、どんな状況に置かれてもそれが最善だと信じます。渦中にあって大変という気持ちはなく、自分のまわりで起こっていることが、テレビドラマをみているように感じるのはなぜでしょう。そして頭の中には主を賛美する曲が流れており、みる夢は突飛なものばかりです。

ゆうべはノアの箱舟の夢を見ました。わたしは箱舟に乗っていて肉食獣と草食獣はしっかり仕切られたところに乗っているとノアから教えてもらっているのです。
箱舟の外に母と妹がいたので、降りて行って中に入れようとすると、大水が来て、溺れると思ったところで水が二つに分かれ、箱舟まで一本の道ができていました。そこで目が覚めましたが、その道を歩いて3人で舟に乗ったのだと思います。

母に書いて渡した聖書の言葉
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ43:2-3)


また明日は病院です。ひとりで実家に泊まるのですが、母のいない実家に泊まるのは寂しいです。
あっ、ひとりではないですね。イエス様がいてくださいます。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


入院の日

2014-09-18 16:24:24 | 日記
母の具合が悪くなり、一昨日入院して検査を受けることになりました。
わたしは、土浦と三鷹の実家の往復(片道2時間半かかります)で、めまぐるしい日々を過ごしています。
そのような中で、「花子とアン」の中で語られる言葉に励まされています。

どんなに暗い朝でも、必ず朝がやってくる。
アンも言ってるわ、「朝はどんな朝でも美しい」って


曲がり角をまがった先に、何があるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。

思いもかけないことが起こると、悪い方、悪い方へと考えて不安になってくるのですが、神様に目を向けると、良い方に向かっているにちがいないと思えてきます。

なぜなら、神様はいちばんよいものを用意してくださるからです。最善をなしてくださるからです。
目の前で起きていることばかり見つめていると、絶望的になることもありますが、視点を変えると、苦しみが美しい絵をひきたてる重要なものとして描かれているのだろうと思えてきます。

入院の日の朝、母と一緒に「花子とアン」を見ていました。

「神は天にあり,世はすべてよし」
テレビから流れてきた言葉をメモして、バッグの中に入れました。

85歳の母は、(お産の時以外)初めての入院です。父や妹やわたしは何度も入院しましたが、母はいつも元気でした。

入院にはやはり不安があるようです。入院前日(15日)の夜は落ち着かず、家の中を歩き回っていました。そんな母を座らせて短い時間でしたが、共に聖書を読み、イエス様のことを話し、母の手を握って祈ることができました。

その聖書箇所は創世記28:15です。
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

「神様はお母さんがどこへ行っても一緒にいてくださり、守ってくださるよ。
神様はお母さんを必ず元気にして、連れ戻してくださる。この地はこの家のことだね。」
と言うと、母は黙って頷きました。

「神は共におり,入院はすべてよし」です。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

老いの重荷は神の賜物

2014-09-09 21:01:52 | 
高齢者顕彰礼拝で読まれた詩を紹介します。

「最上のわざ」 作者:ヘルマン・ホイヴェルス

この世の最上のわざは何か

楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで
神の道を歩むのを見てねたまず
人のために働くよりも
謙遜に人の世話になり
弱ってもはや人の為に役にたたずとも
親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物
古びた心で最後の磨きをかける
真のふるさとへ行くために
おのれをこの世につなぐくさりを
すこしずつはずしていくのは
まことにえらい仕事
こうして何も出来なくなれば
それを謙遜に承諾するのだ

神は最後に一番良い仕事を
残してくださる
それは祈りだ
手は何も出来ないけれど
最後まで合掌できる
愛の恵みを求めるために
すべてをなし終えたら
臨終の床に神の声を聞くだろう
来よ わが友よ 汝を見捨てじと



詩を読んで、年老いて何もできなくなったとき、それを受け入れることが大切なのだなあと思いました。
人のために何かできることは嬉しいことですが、何もできなくなる日が来るのです。それを嘆くのではなく、受け止め、親切で柔和でいられたらいいですね。
「老いの重荷は神の賜物」として受け取ることができれば、平安な気持ちで過ごせるでしょう。
そして、神さまが最後に残してくださった手で、天国に行くそのときまで祈ることができるとは、何と幸いなことでしょう。



日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。
わたしの「救いの証」掲載しています。ここをクリックしてごらんください。(9/10記)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


赦すとは・・・・・・

2014-09-05 12:50:47 | 聖書から
先日の水曜礼拝では「ヤコブの神」というテーマでメッセージを聞きました。
一時間以上に及ぶメッセージでした。ヤコブの生涯について語られたのですが、ヤコブの息子ヨセフのことにも触れ、『赦す』ということについて新たに教えられました。


ヨセフには11人の兄弟がいたのですが、父ヤコブに特別扱いされ、ヨセフだけそでつきの長服を着ていました。そのことで兄たちはヨセフを憎みました。

ヨセフは11の麦の束が自分におじぎをした夢、太陽と月、11の星が自分を伏し拝んだという夢をみます。それを兄たちに話をしたことで、兄たちはヨセフに殺意を抱くようになります。

ヨセフは兄たちの計らいによって、エジプトに売られてしまいます。父ヤコブには、動物の血をつけたヨセフの長服をみせて、獣に殺されたと話します。

ヨセフはエジプトで奴隷として働かされ、あらぬ嫌疑をかけられて牢屋に入れられますが、何年もたったあとで牢屋から出されます。

ヨセフはエジプトの王、パロの夢の意味を解いたため、エジプトの大臣になります。その後、パロのみた夢の通りエジプトの付近はひどいききんにおそわれますが、ヨセフのおかげでエジプトはききんのときにも食料が十分蓄えられていました。

そのうわさをきいて、ヨセフの兄弟たちが食料を買いにエジプトにやってきます。兄弟たちとひさしぶりに再会するのですが、兄たちは大臣がまさかヨセフだと思いません。ヨセフは涙をこらえて最初は知らないふりをしていました。

そして、とうとうこらえられなくなって、自分がヨセフであることをあかし、兄たちと涙の再会を果たすのです。
ヨセフは父ヤコブと兄たちとその家族をエジプトに招いて住まわせます。ヤコブが死んだとき、兄弟たちはヨセフが復讐するのではないかと恐れます。(創世記37章~50章に書かれています)

そのときに言ったヨセフの言葉を紹介します。
「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計らいましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50:19-20)」

ヨセフ物語を読むと、ヨセフが兄たちを赦したことに心打たれます。なぜ赦せたのでしょう……。その理由を何年も探っていました。
父親に愛されて何不自由なく暮らしていたのに兄によってエジプトに売られてしまったこと。エジプトの地で辛い目に遭ったことなど思うと兄たちをすんなりと赦すことはできないと思ったのです。

ヨセフは、自分の心に留めておけばいいのに兄たちに夢の話をして憎しみを買うようなことをしてしまいました。その罪に気づき、兄たちのしたことは仕方のないことだと思ったから赦せたのかなと思っていました。でも、そうではなかったのです。


ヨセフは「あなたがたは、私に悪を計らいました」と言っているので、兄たちのやったことは悪いとみなしています。
赦すというのは、過去が悪くないというのではなく、過去の事実に神が新しい意味をくださったことを知ることなのだと教えていただきました。

兄たちがエジプトに売りとばしたことを、『神が遣わした』と捉えられたとき、赦すことができたのです。
ヨセフがこの心境になるまでには20年の年月が必要だったと聞いて、納得しました。

エジプトに売られた当初は、葛藤もあったでしょう。牢屋に入れられたときは、まじめに働いていたのになぜ?という思いもあったでしょう。でも、ヨセフはいつも神様を見上げていました。
牢屋にいるとき、ヨセフが献酌官の夢を解き明かし、献酌官が赦されて牢を出されたので、無実の罪で牢に入れられた自分のことを王に話すように頼みました。ヨセフはこれでようやく牢屋から出されると期待したことでしょう。

ところが献酌官は忘れてしまいました。いつまでたっても牢屋から出されないので、ヨセフは辛かったことでしょう。でも、神様の時を待っていました。

出されたのはパロが不思議な夢をみたときでした。パロの夢を解いたことで、ヨセフはエジプトの大臣になるのです。

牢から出される時が神の定めた時だと思わずにはいられなかったでしょう。そして、最初は憎んでいたかもしれない兄たちのことを赦せるようになったのは、ヨセフが兄たちがしたことすら神の計画の中にあったのだと気づいたからなのでしょう。
赦すには時間が必要なこと。意味の転換をして、「神様」を主語として考えることができたとき赦せるのだと気づかされました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

母の背中

2014-09-02 11:46:34 | 日記
早9月に入りました。
年を重ねるごとに月日のたつのが早く感じられ、それでいて何かをしようとすると今までの何倍もの時間がかかっています。本当に大切なことは何か考えて、選びながらやっていかないといけないなと思っています。

先週実家に行ってきました。8月は2回目です。30日にお茶の水で用事があったので、前日から行って泊まりました。日帰りでもよかったのですが、85歳の母がまた食欲がないというので心配で実家に寄りました。
母は涼しくなっても食欲が出ず、ひとまわり小さくなってしまった感じです。

夕食を作ると、おいしいと言ってよく食べていたのでほっとしました。でも、翌日「久しぶりにたくさん食べたから、胃がもたれて……」と朝食も昼食も食べずじまいでした。

おやつに煎餅を持って行くと、食べられないと言ったので驚きました。以前あんなに好きだったのに……。歯が悪いわけではありません。欲しくないのだと言って袋を開けもしませんでした。

カロリー補給の食品や飲料を買って行ったこともありましたが、味が気に入らないと言って口にしてくれません。胃が小さくなっているので、一日に何回かに分けてゆっくり食べるように言いました。

そんな母になんとかイエス様のことを伝えたいと祈っていました。これまでわたしが書いた証しの文章はほとんど読んでもらっています。他の人が書いた信仰の証し文。三浦綾子さんの本も読んでもらっています。
でも改めてイエス様がしてくださったことを話していなかったので、以前、癌で余命わずかと言われた父に話したようなことを話そうと決心していました。

でも、向き合うと話し出すのが難しく、『この次にしようかな。』『今はやめておこう。』という気持ちになってしまいます。

わたしが実家に泊まるときは、お風呂上りにいつも母の背中に軟膏を塗るのが習慣になっていました。3種類もの薬をカサカサになった背中に塗るのです

一人暮らしのため普段はできないことなので、母にとって、そのときが至福の時になっています。わたしは背中に薬を塗りながら、『今だ!』と思って伝えました。

神様が天と地を創造してくださったこと。わたしたち人間を造ってくださったこと。造っただけでなく、とても愛しておられること。
人は神様のいいつけを破ってしまったために、魂が滅びてしまうようになったこと。
神様は愛する人間が滅びてしまうのが忍びなくて、ひとり子のイエス・キリストを地上におくり、十字架につけて人間の代わりに罰を与えたこと。イエス様が身代わりになってくれたことで、人間はイエス様を信じるだけで永遠のいのちをいただけるようになったことを話しました。

「神様がいること、神様が人間を造ったことは信じるけれど、イエス・キリストが神の子とは思わないし、救ってくれたとも思わない」
母はきっぱりと言いました。

わたしはがっかりしませんでした。神様の存在を信じてくれただけで一歩進んだと思ったのです。かつては無神論者でしたから。
それよりわたしが母に伝えられたことが嬉しかったです。肉親に伝えるのは、友人に伝えるより難しいと思います。

とにかく伝えられたのだから、母の心の中に入ったのです。それがいつか熟して、信じ、受け入れられると確信しました。そうさせてくださるのは神様です。わたしはただ祈るだけです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


拍手ボタンです

web拍手