生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

新しいいのちの誕生

2014-03-28 20:52:23 | 日記
今日の18時48分、2人目の孫が生まれました。予定日5日過ぎても何の連絡もないので、心配していました。予定日より2週間前後するのは正常の範囲だと聞いてはいても、赤ちゃんが大きく育ちすぎてしまうのではないか……難産になるのではないかと思ってしまいます。

今日は教会で家庭集会が行われ、出席しましたが、携帯を手元に置いてそわそわしていました。
帰宅して夕方になったとき、なんとなく予感がして息子の携帯に電話すると、いきなり「7時ごろ生まれるよ」と言います。
息子は消費税増税前で仕事が忙しく、職場と病院を行ったり来たりしているそうです。

「生まれたらすぐ知らせてと」言って電話を切ってから、出産の無事を祈りました。それから約2時間後に生まれたと連絡がありました。
あらかじめわかっていましたが、男の子です。

陣痛がいつ始まったのかわかりませんが、夜中にならなくてよかったです。息子とヒックンは立ち会えたそうです。

ヒックンはどう感じたのでしょうか。ショックを受けたでしょうか。それとも感激したでしょうか。
明日からヒックンが来て、しばらく泊まります。

桜川の桜が今日開花しました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

疲れた人、重荷を負っている人

2014-03-23 17:11:03 | 教会
今日は息子夫婦の第2子の予定日です。まだ連絡はありません。予定日より早く生まれるのだろうと思って、今日か明日かと待っていると、期待と不安でいっぱいになってドキドキしてきます。(わたしが産むわけではないのですが……)

立ち合い出産で、パパとヒックンに見てもらうと言っていましたが、タイミングよく見ることができるのでしょうか……。
産まれたら我が家でヒックンを預かることになっているので、主人は先週から仕事を休んで待機しています。
わたしにできることは出産の無事を祈るだけです。生まれる日は神様が定めてくださいます。


今日の礼拝メッセージは、2年間韓国で宣教師として働いて帰国されたA先生がお話ししてくださいました。聖書箇所はマタイ11:28~30でした。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」

わたしというのはイエス様です。イエス様のところへ行けば疲れが癒され、重荷をおろすことができるといっているのです。


わたしは努力することが一番大切だと教えられて育ちました。かつては努力して何かを勝ち取っていくことが奨励される社会でした。今もその傾向はありますね。
わたしが子どものころはそれが顕著で、漫画でも根性ものが流行っていました。

わたしは体が弱かったので、頑張りがききませんでした。高校生の時、いつもは10時に寝ているのに試験前に12時近くまで起きて勉強したら、試験の当日熱を出して欠席する羽目になり、その日の試験は0点にされてしまいました。(診断書を出してもだめでした)

まとめて勉強するのが無理なら、日ごろから努力すればいいんだと思って、単語カードにびっしりと覚えることを書きこみ、常に持ち歩いてトイレの中ででも覚えていました。そのかいあって高校ではいい成績をとることができました。
 
幼稚園教諭を目指して、保育科の短大でも一生懸命努力していい成績をとったのですが、幼稚園に勤めたら、学校の勉強がほとんど役に立たないことを知り、愕然としました。自分の無力さをいやというほど知らされました。

勤めて2年ほどたったとき、重荷で押しつぶされそうになっていました。疲れ果て、よろよろと教会の門をくぐったのでした。
聖書の言葉通り、イエス様は休ませてくださいました。それまで何でも自分の力で解決しなくてはと緊張していましたが、イエス様に頼ることにっよって緊張を緩めることができました。すると、心からほっとできました。


「休ませる」という言葉は、竪琴の弦をゆるめるところからきているそうです。「はりつめ、切れそうになっていた弦をゆるめると、重荷をおろすことができ、緊張がほどけるのです。
そして魂の深いところに休息が与えられます」
とA先生が言われました。

イエス様はわたしたちを休ませてくださるだけではありません。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです(マタイ11:29-30)」

休息を与えた後、イエス様はわたしたちを成長へと導いてくださいます。
くびきとは、牛や馬を制するのに使われた物です。体に合ったくびきをつけられると、重荷が軽くなります。

イエス様は張りつめた弦のようになった魂を休ませ、美しい音を奏でられるようにしてくださいます。くびきを負ってイエス様から学ぶことによって、わたしたちは成長させていただける
ことを教えていただき、心から感謝しました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

空っぽ

2014-03-20 20:53:11 | その他
友人から「小説を書くときに大切にしている事はなんですか? 教えて下さい」と問いかけがありました。

「小説でも童話でもエッセイでも同じですが、作品が神様の栄光を顕すことができるようにとひたすら祈って書いています。」と答えました。
大切にしていることはこのように祈ることです。自分が認められたいために書くのではないことをはっきりさせなければなりません。

書く前は空っぽなんです。乏しい想像力、拙い文章表現力。持っているものは何もないのです。
空っぽの手を開いて書く力を与えてくださいと祈るのです。

そうしたら、神様は満たしてくださいます。
空っぽのほうが神様からたくさんいただけることを、マザーテレサの本から教えられました。

                                             
マザーテレサの言葉

与える物が何もないときは
神に、その「無そのもの」を差し出しましょう。
できるかぎり自分が空っぽでいられるように。
そうすれば、神がわたしたちを満たしてくださいます。
たとえ神さまでも、
もうすでにいっぱいになっているものを、
満たすことはできません。
神は決してご自分を、
わたしたちに押し付けたりなさいません。
あなたがたは、神が与えてくださった愛で、
この世界を満たしているのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

つらいとき。不安でたまらないとき

2014-03-17 20:44:58 | 教会
昨日の礼拝では使徒の働きからメッセージを聞きました。使徒の働きの中で神様がパウロに語りかけたことが4回書かれています。

1回目は、パウロがクリスチャンを迫害しているとき、イエス様の声を聞いたのです。その声を聞いてパウロは回心しました。

2回目は、エルサレムで途方に暮れ『主よ、私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、「行きなさい」という神様の声を聞きました。
神様はパウロを異邦人伝道に遣わすと言われました。

どうしたらよいかわからないとき、生きる意味がわからないとき、神様に問いかけることが大切なのだと思いました。

3回目はコリントの町で説教をしたときです。パウロは妨害を受けました。困難の中で意気消沈している夜、神様の語りかけを聞きました
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。……(使徒18:9-10)」


4回目はエルサレムに帰ってきたとき、母国のユダヤ人に理解されず、誤解され仲間の裏切りにもあい、苦しみました。絶体絶命のとき「勇気を出しなさい(使徒23:11)」と語りかけられました。

パウロに何回も語りかけてくださった神様は、今も生きておられ、わたしたちに語りかけてくださいます。

わたしはつらいとき、神様にそのつらさを訴えます。もちろん神様は、わたしのつらさをわかっておられるのですが……。それでも泣きながら、思いのすべてをぶつけることがあります。
不安でたまらないときも、「神様、不信仰なわたしを赦して下さい。けれども心が騒ぎ、心配でならないのです。どうしたらいいのですか?」と祈ります。

そんなとき必ず神様が応えてくださいます。
「だいじょうぶだよ。わたしはあなたと共にいるから」という語りかけが聞こえてきます。音声として聞こえるのではなく、心に直接届くのです。すると、今まで不安と恐れでどうしようもなかったことが嘘のように、平安が訪れます。

それは、寒さに震えているとき温かな飲み物を飲んで、最初は口の中、次に喉、胃、そして全身がじんわりと温まるように気持ちがリラックスして、これ以上の安らぎはないと思えるほどになるのです。この平安は、神様の下さる嬉しい贈り物です。


「わたし(キリスト)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)」

「もし、眠れない夜があるなら、神が祈れと招いておられるのです。」

牧師先生が紹介してくださった三浦綾子さんの言葉です。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

「殺人者の涙」を読んで

2014-03-13 16:57:31 | 読書
明日は児童文学者協会の茨城支部3月例会です。今回の課題本は「殺人者の涙」アン=ロール・ボンドゥ作 伏見操訳 小峰書店です。

チリの最南端、さいはての地に建つ一軒の家にアンヘルという名の殺人者がやってきて、そこで暮らしている夫婦を殺してしまいます。子どものパオロは殺さずに、一緒に暮らし始めます。

最初の殺人のシーンがショッキングすぎて、なかなか感情移入できませんでした。
寒々とした気持ちで読んでいましたが、しだいに物語に引き込まれました。

アンヘルはパオロと暮らすうちに変わっていきます。パオロに愛情を抱くようになるのです。
一方パオロは両親を殺したアンヘルのことを憎みもせず、その事実をしっかり受け止めています。

最初、パオロがなぜ両親を殺したアンヘルを恨まなかったのか不思議に思いましたが、そこは誰一人やってこないような土地です。アンヘルがいないと生きていけなかったから、パオロには選択枝がなかったのだと気づいて納得しました。

しばらくして、ルイスという旅人がやってきて隣で暮らし始めます。ルイスはパオロとアンヘルに文字をもたらします。
その後旅に出て、アンヘルがかつて殺した家族の生き残り、きこりのイカルドと出会います。イカルドは音楽をもたらすのです。

アンヘルはパオロという愛する存在を得、文化や芸術に触れて、すっかり変えられました。でも、犯した罪は消えず、結局死刑になってしまいます。
死刑制度廃止のことが作者プロフィールに書かれていましたが、どんなに重い罪を犯した人でも人は変わると訴えたかったのでしょう。

確かに人は変わりうるものです。
しかし、他者への愛と文化、芸術だけでは足りない気がします。
アンヘルに心からの罪の悔い改めがあったでしょうか。

けれども、イエス・キリストを信じたら、人は根底から変えられます。キリストにあって、とりかえしのつかない罪はないからです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



がっぴょうけん

2014-03-11 16:20:04 | 日記

東日本大震災から3年。あの日のことを思い出すと、胸が締め付けられるようです。日常生活がおくれるのは、当たり前の事ではないと改めて思いました。

8日、日本児童文学者協会主催の第1回『がっぴょうけん』が代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開かれたので参加してきました。

『がっぴょうけん』とは日本全国の会員が原稿を持ち寄り、互いに合評して書く力を鍛える「合評創作研究会」です。
昨年、「がっぴょうけん」のお知らせを見たとき、迷いました。プロの作家や編集者、出版社の方たちも参加されると聞いて恐ろしかったからです。それでも、2年前から書いている長編をみていただきたいという思いはありました。祈っているうちに原稿を提出しようという思いが募り、エントリーしました。

長編の部は2グループあって、1グループ5作までしか受け付けられません。申し込み順に受け付けということなので、申込日の午前中に郵便局へ行きました。早く申し込んだかいがあって、原稿提出者のひとりになりました。
あらかじめ原稿を送りあってって、ほかの方の作品を読んでおきます。力作ばかりで、圧倒されました。その日を待つのは緊張の日々でした。

人の評価が絶対ではありませんが、箸にも棒にもかからない作品という評価を受けたら、童話や小説を書くのはもうやめにして、エッセイだけ書くことにしようと、作家生命を賭けての参加でした。

長編の部Aは、参加者16名でした。時間は13時から17時まで。1作品45分ぐらいかけてじっくり話し合います。厳しい評価もありますが、納得できることばかりです。

わたしの作品は意外にも高く評価されました。時代小説なので、言葉遣いの注意や歴史的裏付けをとらなくてはいけないことなどを教えていていただきました。
出版社の方は、120枚という長さが中途半端なので、半分の長さにして絵本のようなかたちにするなら出版できると言ってくださいました。

でも半分にすると作品の持ち味がなくなってしまうのでだめという意見が出ました。確かに半分にはできない作品です。

いつか用いられる時がくるかもしれないので、細かいところを直して完成させたいです。

ほかの方の作品の合評もすごく勉強になりました。充実した時間でした。長い作品を読んでいただけただけでもありがたいのに、丁寧に読んでもらい、貴重なアドヴァイスをいただけて感謝しました。

がっぴょうけんが終わった後、上野駅で待ち合わせして姪を土浦に連れてきました。
姪は高校3年生です。受験も卒業式も終わったので泊りがけで来ました。9日は一緒に教会へ行くことができました。

昨日は娘とふたりでクッキー作りをしていました。今日はふたりで買い物に出かけています。写真は出来上がったクッキーです。春の花が一斉に咲いたみたいです。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。わたしのエッセイも掲載中です。ぜひごらんください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

神様は厳しい?それとも優しい?

2014-03-06 20:30:52 | 聖書から
今日自転車で出かけようとしたら後ろのタイヤがパンクしていました。タイヤを見るとひび割れて、滑り止めはすり減ってツルツルになっています。自転車であちこち出かけることが多いので相当な走行距離になったのでしょう。

近くのホームセンターではパンク修理をしてもらえなくなったので、教会の近くにあるイオンまで自転車を押して歩きました。冷たい風が、これでもかとふいていました。

前回パンクしたときは夏の暑い時期でした。熱中症を恐れながら自転車を押して歩いてフラフラになったことを思い出しました。暑いより、寒い方がずっと楽です。
タイヤを交換してもらって帰りはすいすいでした。


昨日は水曜礼拝の後、我が家で聖書輪読会をしました。メンバーの3人が来てくれました。
旧約聖書の民数記を読んでいます。

旧約聖書を読むと、神様の厳しさを知らされます。

神様は、モーセとアロンに逆らったコラたちを罰しました。地が割れて、逆らった者たちは生きたまま地に呑み込まれてしまったのです。
安息日にたきぎを集めていた人を、神様は石打ちの刑にするように告げ、その人は打ち殺されてしまいました。安息日には仕事をしてはいけないという決まりがあるからです。

逆らっただけで地に呑み込まれる? たきぎを集めただけで石打ちの刑? 神様は愛のお方なのにどうして? 旧約聖書の神様は厳しくて、新約聖書の神様は優しい? と思われる方もいるでしょう。

旧約聖書も新約聖書も同じ神様です。神様は義なるお方なので、罪をそのまま見過ごすことができません。神様は人を愛するがゆえに律法を与えてくださいました。その律法を守ることで人はしあわせに生きられるのです。守らなかった時には罰が与えられます。 
ところが、人は罪の性質を持っているので律法を守りきれません。

自分のことを顧みると、恥ずかしくなります。神様を賛美した直後に人を妬んだり、文句を言ったり、つぶやいたり……。たった一日でも一度も罪を犯さずに過ごした日があったでしょうか。

もし、旧約聖書の時代に生きていたら、罰せられていたでしょう。
聖書には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」と書かれています。

罪を犯し、滅びの道をまっしぐらに進んでいる人たちを見て、神様はなんとか救いたいと思われました。
それで、人間に罰を下す代わりに、ご自分のひとり子のイエス様に罰を与えることにしました。
それは、神様にとって非常に辛いことでした。でも、ひとりひとりの人間を深く愛している神様は、人々をなんとか救いたいと切望されたのです。
罪ある人の代わりに罪のないイエス様を罰することによって、罪ある人たちが救われるのです。

イエス様は、身代わりになるために地上に生まれてきてくださいました。イエス様は、人々の侮辱に耐え、十字架の肉体の痛みに耐え、最後は神様に見捨てられるという辛さを味わってくださいました。
本当は、わたしが受けなければならない苦しみだったのに……。

イエス様が十字架にかかってくださったおかげで、わたしは神様から罰を受けなくてよくなりました。イエス様を信じるだけで永遠の命をいただきました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:9~10)


旧約聖書を読むと、イエス様のしてくださったことの大きさに胸が篤くなり、感謝と喜びに満たされます。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

ずっとこのままがいい

2014-03-03 17:06:28 | 聖書から
先日6歳のヒックンが来たとき、「ぼく、100歳まで生きる。でも、ずっとずっとこのままがいい」と、おなかの大きいママにしがみついて言いました。

人間は年をとっていつかは死ぬこと、ずっと今のままでいたいけど、変化していくこと。6歳の子どもが、その空しさをすでに感じとっているのです。
そういえば長男も一年生のころ「ずっとこのままでいたい」と言っていました。長男は「家族4人でずっと暮らしていたいから、結婚しないんだ」と言ったのです。それでいて早々と結婚して家を出たのですが……。

「ずっとこのままがいい」と言えるのは、今が幸せだからだと思います。今、耐えられないような苦しみの中にいるなら、変化を求めるでしょう。

地上の歩みは長いようで短く、どんなに恵まれた人生を送っても、老、病、死からまのがれません。毎日目に見えないほどわずかかもしれませんが、人は変化していきます。

人だけでなく、動植物も地球も年をとり、建造物も朽ちていきます。この天地は滅びるのです。

聖書の伝道者の書3:11には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」と書かれています。永遠への思いを与えられたのです。

それだけでなく、神様はわたしたちに永遠のいのちを与えてくださいました。それは、地上で永遠に生られるという意味ではありません。

人間の死には、肉体の死と魂の死があるのです。神様は、わたしたち人間をとても愛してくださっていますから、魂が永遠に生きられるようにしてくださいました。苦しみも悲しみも死もない天国で永遠に生きられるとは、なんと幸いなことでしょうか。


「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:4)」


天国とはこのようなところです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

拍手ボタンです

web拍手