生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

死んでも生きる

2016-02-25 20:28:13 | 聖書から
先日の記事、PペーパーはA5でなくてB4でした(訂正しました)。一枚で人物なら8人分描けます。たくさん書いた割には、ちっとも上達しませんが……。それでも子どもたちはプロジェクターで画像を映すより興味を示してくれます。

暗唱聖句パート2を覚えています。この前はエペソ書の長い箇所でしたが、次は20の聖書の言葉を箇所まで覚えるのです。もう少しなのに、ところどころ間違えます。期日は28日です。間に合うでしょうか。

ラザロのよみがえりのお話しを準備して心に留まったみことばは「イエスは涙を流された」
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのもの」です。

「イエスは涙を流された」については、2013年4月12日のブログに書いていますので、省略しますが、もうひとつのみことばについて考えたことを記します。

イエス様はラザロが重い病気にかかっていることを知ってもすぐにベタニヤに行かず、あえて2日間もそこに留まられました。
なぜでしょう……。ベタニヤに行ったら危険だからでしょうか。(実際、ユダヤの人たちがイエス様を石打ちにして殺そうとしていたので、弟子たちはイエス様がベタニヤに行くことを止めています)

そうではありません。イエス様がベタニヤに行くのを遅らせたのは、ラザロのよみがえりを確かなものにしようとされたからでしょう。
なぜラザロが死んでから4日もたってよみがえらせたのかというと、3日までなら仮死状態で葬られた人が、意識を取り戻して墓から出てくる可能性があったからです。

でも、4日もたっていたら腐敗が始まっているので、仮死状態とは考えられません。
不可能と思われる時期によみがえらせたのは、神様の栄光があらわされるためだったのです。

ラザロはひとことも発せず、どんな気持ちだったかも書かれていませんが、ラザロ自身は何を思っていたのでしょう。
死の病気にかかり、辛かったと思います。まだ若いのにこのまま死んでしまうのかと絶望していたことでしょう。
イエス様に呼ばれたとき、息を吹き返し、墓から出てきました。生きていることの尊さを知って喜びに溢れたことでしょう。
ラザロは、イエス様の愛といのちの尊さを知って、これまでとは違う歩みを始めたかもしれません。

「あなたが愛しておられる者が病気です」マルタとマリヤがイエス様に伝えた言葉です。
イエス様に愛されていても病気になるのです。でも、イエス様はその病気が神様の栄光をあらわすものとしてくださいます。

ラザロのよみがえりは、そのあとイエス様が十字架に架かって死に、3日後に墓からよみがえることの予表です。
でも、イエス様とラザロの決定的に違うことは、よみがえったラザロは、やがて年をとって死ぬ体でした。でも、イエス様は朽ちることのない、死のない体としてよみがえられたのです。

マルタは、イエス様の言葉をしっかり理解できませんでした。的外れともいえる言葉を発していますが、マルタの話したことに対してイエス様はすばらしい言葉を語ってくださいます。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」

イエス様とかかわるとき、失敗や的外れを通しても、それらが神様の栄光をあらわすものとなるのだと思うと嬉しくなりました。


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なくなったPペーパー

2016-02-22 20:17:43 | CS(子供伝道)
昨日は朝8時に家を出て教会へ行き、帰ってきたのは5時過ぎでした。教会学校のイースター礼拝で教師たちがスライド劇をするので、その練習が始まったのです。そして、午後から教師会もあったので忙しくも充実した一日でした。

また、その日は教会学校のメッセージ担当でした。ラザロのよみがえりのお話です。パネルシアターを使ってしようと思ったのですが、Pペーパーがもうありません。
パネルシアターとは、パネル布を貼った舞台に絵をつけたり外したりして見せながらお話をするもので、舞台は段ボールにネルを貼って作りました。
Pペーパーは不折布で、ポスターカラーや絵具でよく染まります。クーピーでも色が付きます。パネル布にくっつくので、絵を動かしながらお話しできます。

以前10枚一組で売っていたのを間違えて10組(B4サイズ)買ってしまい、返品するのが面倒なので、100枚全部を教会学校のお話のために使おうと決心しました。描ききれるまでCS教師を続けられますようにと祈りました。
それから20数年たってPペーパーがとうとうなくなりました。

ラザロのお話を、今まで書いてきた絵を使ってできるか調べると、布が巻かれたラザロを作るだけで足りることがわかりました。捜してみるとPペーパーの切れ端が出てきて、ちょうど人物をひとりぶん描けるだけのスペースがありました。すべて使い切って、感慨深いものがありました。
ラザロのお話はこれまでに何度もしてきましたが、今回準備していて、新しく気づかされたことがありました。
お話を紹介します。聖書はヨハネ11:1-46です。

エルサレムの近くのベタニヤという村にマルタ、マリヤ、ラザロの3人きょうだいがいました。3人の家にはよくイエス様が立ち寄られ、食事を共にし、お話をしました。

イエス様がベタニヤから離れた町におられるとき、ラザロが重い病気になりました。マルタとマリヤは一生懸命看病しましたが、治るどころか、だんだん重くなって今にも死にそうになってしまいました。

「姉さん、このままじゃ、ラザロが死んでしまうわ」
「イエス様がおられたら治していただけるのに……」
「イエス様を呼びに行ってもらいましょうよ」

マリヤとマルタは相談して、使いいを送ってイエス様にラザロの病気のことを伝えてもらいました。
使いの者は2日かかってイエス様のところにたどりつき、「あなたの愛する者が病気です」と言いました。
イエス様は「ラザロの病気は、神様の栄光をあらわすためだ」と言って、すぐにはベタニヤに行こうとされませんでした。

2日たって、イエス様は弟子たちに「ラザロの眠りを覚ましに行く」と言われました。弟子たちは、ラザロは眠っているだけなのか。それなら大丈夫だろうと思いました。
ところが、イエス様は「ラザロは死んだのです」と言われました。

イエス様がベタニヤの村についたとき、マルタが駆け寄ってきて言いました。「主よ。もしここにいてくださったら、ラザロは死ななくてすんだのに・・・・・・」

それに対してイエス様は、「ラザロはよみがえります」と言われました。
マルタは「世の終わりの日に死者がよみがえることを知っています」というと、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われました。

マルタはイエス様の言われることの意味がよくわかりませんでした。イエス様はどんな病気でも癒すことができると思っていましたが、死んでしまった人はどうしようもないのだとマルタは思っていたのです。

それから、マルタは家もどって、イエス様が来ておられることをマリヤに教えると、マリヤは家から出てきてマルタと同じことをイエス様に言って泣きました。「主よ。もしここにいてくださったら、ラザロは死ななくてすんだのに・・・・・」

町の人たちもラザロの死を悲しんで泣いています。それを見て、イエス様は、激しく心を動かされて涙を流されました。
イエス様はラザロのお墓にいらっしゃいました。岩をくりぬいて作った墓の入り口には大きな石が置かれていました。

「その石をとりのけなさい」とイエス様がおっしゃいました。マルタはびっくりして、「ラザロが死んで4日もたっています」と言うと「わたしを信じるなら、神の栄光を見ると言ったでしょう」とイエス様が言って、お祈りしました。

「父よ。私の願いをきいて下さってありがとうございました」
ラザロがすでによみがえったかのような感謝のお祈りでした。
そして墓に向かって大声で叫びました。「ラザロよ、でてきなさい」
すると、ラザロはお墓に入れられた時の布を巻きつけたまま出てきました。イエス様は、「ラザロの布をほどいってやって家に帰らせなさい」と言われました。

お話の後で……
イエス様は、ラザロの死は「神の〇〇をあらわすため」と言われましたが、〇〇とは何でしょうと尋ねると「栄光」と1年生、2年生の子どもたちが答えました。
栄光をあらわすとは、ここではイエス様によってラザロがよみがえったことをさしています。
この出来事によって、イエス様はご自分が死に勝つものだということを示されました。




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明日も元気に生きられるという保障は?

2016-02-19 16:44:30 | 日記
今日は教会でTさんのお葬儀がありました。わたしはお手伝いの奉仕を申し出て、朝早くから教会に行きました。

教会では今年に入ってから葬儀が続き、一月から今回で5回目(6回目だったかも)です。それまでは高齢の方で、入院して危ないといわれていた方だったので、驚きは少なかったのですが、今回は突然でした。

しかも、よく知っている方です。まだ57歳で元気な方でした。去年の12月に桜川の土手ですれ違いました。「健康のためにウオーキングを始めたの」と笑顔でおっしゃっていました。1月末にはTさんの家で家庭集会が開かれています。

Tさんはお風呂掃除をしていて倒れ、病院に運ばれたのですが、意識を取り戻すこともなく召されたそうです。

3人のお子さんがいて、成人はされているけれど、長女は臨月で、初孫が生まれるのを楽しみにされていたそうです。
仲の良いご家族で家族旅行の写真が何枚も飾られていて、写真の彼女は幸せそうな笑顔をみせていました。

ご主人がいちばんショックを受けておられたようすで、泣きながら挨拶をする姿に涙が止まらなくなりました。
牧師先生の「Tさんは、いなくなったのではありません。天国に移っただけです。必ず再会できます」
という言葉が大きな慰めになりました。

クリスチャンのTさん本人にとっては、何の苦しみもなく突然天国に迎えられて、幸せな人生だったといえるのかもしれないと思いました。でも、遺された家族は突然引き離されて、悲しみのどん底に突き落とされたような思いでしょう。
どうか、ご遺族の方々に神様からの慰めがありますように。

誰だって、明日も元気で生きられるという保障はありません。いつ死が訪れても大丈夫なように備えなければと思いました。



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自己認識

2016-02-16 20:48:30 | その他
14日の午後、ヒックンとナルクンがママと一緒にやってきました。
ナルクンが昼寝しているとき、ヒックンとウノで遊びました。

ヒックンは勝つためにカードの使い方を考えて、ここぞというときに切り札を出してきます。とてもかないません。わたしも真剣に考えるのですが、何回勝負しても負けてしまいます。
帰るとき、ヒックンが「今日は、たくさん遊んでくれてありがとう。本当に楽しかったよ」と言いました。胸がキュンとしました。

ヒックンとナルクンは大勢の人に愛されています。愛されていることを知っている子どもは、心と体が健全に成長していきます。神様にも愛されていることを知ってほしいなあと願っています。


学生時代、乳児院に実習にいったことがありました。「できるだけたくさん抱いてやってください」と乳児院の保育士さんに言われました。
人手が足りなくて、ひとりの子どもを抱いたり、かまったりする時間が少ないのだそうです。それで乳児院の子どもたちは身体的発達が遅れているというのを聞いて驚きました。

乳児院にいる子どもが皆、親に捨てられたわけではありませんが、親に捨てられた子どもは自己価値が低いのだそうです。(このことは一昨日礼拝で聞いたことです)


わたしは、両親と祖母に愛されて育ったのになぜか自己価値が低く、自分なんかいないほうがいいんだと思っていた時期がありました。
けれども聖書には「わたしたちは神の子どもです」と書かれています。
これは自己認識の根底なのだそうです。

聖書のエペソ2:10には、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と書かれています。
私たちというのは、一部の人ではなく、すべての人のことです。神様がひとりひとりに崇高な使命を与えてくださっているのです。
自分なんか何の才能もないし、何もできないと思っている人がいるかもしれませんが、そんなことは決してありません。どんな人でも使命が与えられており、生きる価値があるのです。

わたしたちは、『神の子ども』『神によって生かされている者』『生きる価値のある者』なのです。



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夢にまで見た棚田

2016-02-12 20:40:10 | 日記
前回書いた聖書の言葉は、クリスチャンの生き方を示しています。
成長すること、ひとりひとりがそれぞれの賜物に応じた働きをして、愛を持って互いに一致することが繰り返し書かれています。
一日に何度も暗唱したらほとんど覚えられました。


10日に一泊で都内から妹が来ました。
一昨日は風がとても冷たかったのですが、昨日は小春日和でした。

妹が車で来たので、つくば市の小田城跡に連れて行ってと頼みました。家から10キロほどの場所です。

何もないところだとは知っていました。でも、ずっと前から訪れたかったのです。それは、5年越しに書いている小説(児童文学)の舞台をつくば山が見え、棚田のある村にしていて、村から半日ほど歩いた場所に城があるという設定にしたからです。時代は戦国時代です。
ただし歴史小説ではないので、こだわらなくていいのですが、やはり作品の舞台となる所を実際に見て、歩いて、触って、風の音を聞いて、匂いを嗅いで感じたいと思いました。

わたしは、車の運転ができないし、主人は行ったことのない道を行くのはいやだと言うので、妹に頼んだのです。
妹は快く車を出してくれました。ナビに従ってその近くまでは行けたのですが、公園になっているという城跡が見つからなくて、何人もの方に尋ねてやっと行きつくことができました。


歴史資料館の建物だけは出来上がっていますが、資料がまだそろわないそうです。





小田城跡から見たつくば山(遠くの青っぽく見える二つ峰の山)

城があったところは整備されて公園になっています。

小田城よりもっと見たかったのは棚田です。棚田は土浦市の小町の館の近くにあることをあらかじめ調べていたので、次に小町の里を目指して出かけました。


小町の里は、小野小町が晩年住んだ場所だと聞いていましたが、京都の方にも小町が晩年住んだ館があるそうで、どちらが本当なのかわかりませんが、小町ゆかりの地と聞いてロマンを感じました。



小町の館で有名な手打ち蕎麦を食べました。

それから資料館など見に行ったら、なんと建物の左手に小さな棚田があったのです。感激でした!



人のように見えるのは、案山子です。

ちょうど2週間前に棚田へ行った夢を見ていたのです。夢では棚田は田植えが済んだばかりで、青々とした苗が見えました。実際は、規模も小さく、とっくに稲刈りが終わっていて刈られたあとが残っているだけでしたが、十分でした。

車中では妹と母の話ばかりしていました。とくに母が土浦に越してきてから召されるまでの5か月間のことは、まだ思い出というより、生々しく現実のようにそこにあるのです。

妹の車に乗って母と旅行へいったり、買い物やレストランに行ったりしたのがついこの間のことなのですから、話はつきませんでした。
共通の体験をし、共通の思いを抱く妹がいることを嬉しく思いました。

母のことを思いきり話して、心の傷が癒されていくのを感じました。


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暗唱の力

2016-02-09 20:47:58 | CS(子供伝道)
年に一度の暗唱聖句大会が近づいてきました。
教会学校の子どもたちには、20の聖句と課題聖句を覚えるようにすすめています。

今年の課題聖句は、エペソ4:1~16で、字数にすると819字です。毎日家事をしながら少しずつ覚えていきました。一字一句違えずに覚えるのです。3/4ほどは順調でした。最後の2節を覚え始めたら、前に覚えたところと混ざり合い混乱してしまいました。
文章的に考えて、主語述語がはっきりしないとか、接続詞がおかしいなどと考えてしまうともうだめです。
この前の日曜日には5,6年生の男子が全部覚えてすらすら言ったというのを聞いて感心しています。学年ごとに覚える量が違っていて、1,2年生は少ないのですが、5,6年生は大人と同じです。
低学年の子どもにとっては難しい言葉が多いのですが、一生懸命覚えている姿を見ると、負けてはいられないと思います。それでも、覚えられません。
年のせいで記憶力が落ちているとは思いたくないです。
覚えることができる力を与えてくださいと、神様に祈っています。

その課題聖句を紹介します。


エペソ11:4-16
さて、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、御霊(みたま)の一致を熱心に保ちなさい。
からだはひとつ、御霊(みたま)はひとつです。
あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みがひとつであったのと同じです。
主はひとつ、信仰は一つ、バプテスマはひとつです。
すべてのものの上にあり、すべての物を貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はひとつです。
しかし、わたしたちはひとりひとりキリストの賜物の量りにしたがって、恵みを与えられました。
そこで、こう言われています。
高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。
この上られたということばは、彼がまず地の低いところに下られたということでなくて何でしょう。
この下られた方ご自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天より高く上られた方なのです。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師または教師としてお立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、満ち満ちたキリストの身たけにまで達するためなのです。
それは、私達がもはや子どもではなくて、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによって、体全体は、ひとつひとつの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して愛のうちに建てられるのです。


日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。私の作品「春」を掲載しています。ここをクリックしてから、メニュー作品をクリックしてください。



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コンフィチュール作りました

2016-02-05 16:29:50 | 日記
りんごのコンフィチュール作りました。コンフィチュールとはジャムのことですが、フランス語で言うほうが、おしゃれな感じがしますね。

1/26のNHKあさいちで紹介されていました。琥珀色のリンゴに魅せられ、作ってみたいと思いました。材料を買いそろえたものの、三食を作るのに追われて、なかなか作れませんでした。

アップルパイはよく作るので、アップルパイの中身を作るのと手間は変わらないと思いましたが、灰汁をとりながらかきまぜ続けるのがちょっと大変でした。

テレビで『魔法のリンゴ』と言っていましたが、本当に魔法のようです。
煮詰まってきて、煮汁があと少しとなったとき火を止めて、さめてから容器に入れると、
トロトロになっていて、これがさっき切ったリンゴ? と思うほど色つやが変化しています。

そして、カルダモンと八角とシナモンのいい香りがします。これらの香辛料は、シナモン以外は家になかったので、ひとつぐらいなくてもいいかな……と思ったりしたのですが、買ってきて正解でした。

もちろん、味は最高! ヨーグルトに入れてもおいしく、あっという間に半分ぐらい食べてしまいました。

ブログでは味を紹介することはできません。においも届けられません。視覚と文字によって伝えています。

テレビでは視覚と聴覚で伝えます。視覚と聴覚だけで、味、触感、においを伝えるのはけっこう大変だと思います。

わたしは、小説を書いていますが、『五感に訴えるように』書きなさいと教えられました。

小説は映像がなくて文字だけです。なので、テレビで伝えるより難しいです。
けれども映像は、かえって想像力の足を引っ張ります。映像がついてしまうと、それ以外の光景を想像することが難しくなってしまうからです。
文字を読むだけで笑ったり、泣いたり、においや味やさわり心地を感じたりするような文章が書けたらと願っています。


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人類究極の問い

2016-02-02 15:55:02 | 教会
理不尽なことが起きると、自分は何のために生きているのだろう。人間、最後はどうせ死んでしまうのだから、努力したってむなしいと感じる方がおられるでしょう。

わたしは中学生のころむなしさを感じ、何のために生きるのだろう?と思っていました。それは、人類究極の問いなのだそうです。

日曜礼拝のメッセージを聞いて、考えさせられました。

AD165年、ローマでペストが流行しました。その後、何度も疫病がはやり、多くの人が死に至りました。古代社会においては、予防薬も治療薬もなく、どのような経路で病気がうつるのかわからなかったので、人々は恐怖に陥りました。
身近な人が次々と死んでいく現実を見て、人々は、人が死んだらどうなるのだろうと疑問を抱きます。

助かりたい一心で病人を放り出し、町から逃げ出す人が続出しました。

そのような中でクリスチャンたちは、自分に病気がうつって死ぬかもしれないと思っても恐れずに、病人を看病したそうです。

キプリアヌス司教は古代の極限状態の中で『死を免れないことについて』を書きました。彼はこの教書の中で,地上では肉体上のあらゆる不都合なこと、(苦しみ、死など)は キリスト者も他の人々も皆同じであることを伝えます。
そして「死によって失われたのではなく、送り出されたのだ。離れていくが、一足先に行くのだ」と説きました。

死を免れる人は誰もいませんが、生きる意味があり、たとえ地上では短い命でも、一足先に行くだけで、やがてわたしたちもそこへ行けるという希望が書かれています。
何のために生きて、何のために死ぬのかという究極の問いに答えてくれるのはキリスト教だけです。


それにしても、古代のクリスチャンたちのとった行動は勇敢で素晴らしいですね。

以前テレビドラマの「大草原の小さな家」で、近所の一人暮らしの老人が疫病にかかったとき、ローラのお母さんがその人の家に泊まりこんで、献身的に看病しているシーンがありました。それを思い出しました。
病気がうつってしまうかもしれないのに……。小さな子どももいて、自分が死んだら家族が困るし、子どもにうつってしまうかもしれないのに……。わたしなら、とてもできないと思いました。

1ヨハネ3:6には「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」と書かれています。

病人を看病した人たちは、キリストがしてくださったことに心打たれ、隣人のために自分のいのちを捨てる覚悟でやったのですね。
この愛の好意によって、クリスチャン人口が急増したそうです。

いのちは闇の中に輝いています!



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