生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

タッタとタンタ

2016-11-25 16:39:40 | 童話
地震が起きたり、11月なのに雪が降ったり、予測しないことが起こると落ち着かなくなってしまうわたしです。

聖書には「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と書かれていますが、この言葉を心にとめて日々過ごしたいと思います。

日本クリスチャン・ペンクラブ関東で発行している「文は信なり」ニュースレター35号にわたしの書いたクリスマス童話が掲載されました。原稿用紙4枚の短編です。

わたしは、短編が苦手で、原稿用紙10枚以下の童話が書けませんでした。ストーリーを思いついた瞬間、長い作品になっているのです。そのわけは、ドキドキハラハラするようなおもしろい作品にしたい。複雑で謎解きも入っているようなストーリーにしたい。読者に伝えたいことをふんだんに盛り込みたい……などと思っているからです。

児童文学の仲間に、「あなたは長編型なんだから、長編を書いていけばいいのよ」と言われました。長編型と短編型があるのですね。長編だと書き上げるのに何年もかかってしまいます。レターに掲載したり、合評会に持っていったりするには短編の方がいいのです。
 
去年ぐらいからやっと原稿用紙5枚作品が書けるようになりました。今年は3枚の作品をと思ったのですが、オーバーして4枚作品になってしまいました。複雑なことは考えない。素直な気持ちでまっすぐにイエス様の方を向いて書いたら短い作品が書けました。紹介させていただきます。


             タンタとタッタ     土筆文香




タッタとタンタはようくんのくつしたです。

タッタ、タンタ、タラッタラッタ、タンタ 

ようくんの足にはかれるとタッタとタンタはうれしくてうたいます。
ようくんがねむっていると、なきごえが聞こえてきました。ふとんの上にくつしたのかたほうがピクピク動いています。

「どうしたの?」
「ぼく、タッタ。弟のタンタがつれていかれちゃったんだよう」
ようくんはくつしたをぬいだとき、かたほうずつほうり投げたことを思い出しました。
「ネズミがタンタをくわえて走るのをみたんだ」
「えっ、ネズミが?」
ようくんはびっくりしました。
「このへやは、ネズミの通り道になっているんだ。ベッドの下をみてごらん」
 ようくんがベッドの下をのぞくと、緑色のラインがみえました。ラインはつくえの下を通り、かべのところで消えています。
「ラインをたどっていくと、かべを通りぬけられるんだ。かべの向こうに別の世界がある」
「別の世界?」
「ぼくをポケットに入れて、ラインの上を歩いて」
ようくんは、つくえの下にもぐってラインの上を進み、かべにつきあたりました。すると、いつの間にかかべを通りぬけていました。

そこはまぶしいほど明るくて、青空の下に雪の原っぱがどこまでも広がっています。はだしの足が冷たくて、ようくんは足を上げたりおろしたりしました。
向こうに小屋がみえます。
「ネズミはきっとあの小屋にいる」
タッタがポケットでモコモコ動きました。
ようくんは足が冷たいのをがまんして雪の上を歩きました。

小屋の戸を開けると、ネズミたちが輪になっていて、その真ん中にタンタがいました。
「ぼくのくつした、返して」
ようくんが持ち上げると、キーキーと声がしました。タンタの中にネズミの赤ちゃんが三びき入っていたのです。

「今年はとくべつ寒い冬で、子どもが何ひきも死んだんだ」
「でも、これがあると子どものいのちが助かるの。かしてもらえないかしら」
父さんと母さんネズミが前足をすり合わせました。

「ぼくはかまわないけど、タッタは?」
ようくんがタッタをポケットから出すと、タッタはピクピクうなずきました。
父さんネズミがタッタをみつけました。

「もうひとつのくつしたさんも、かしてくれないか」
みると、ふるえているネズミの赤ちゃんがもう三びきいました。
タッタまでかしたら、ひとりぼっちになってしまいます。ようくんが迷っていると、

「ぼくもネズミさんをあたためてあげたい」
タッタがいいました。
ようくんは、タッタをネズミにさし出しました。なみだがほおを伝わり、しょっぱい味が口に広がりました。
 
小屋を出ると外は雪がふっていました。ようくんは、急に心細くなりました。家に帰るにも雪の原ばかりで帰り道がわかりません。
風がふいて、ふぶきになりました。体がこおりそうです。一歩も歩けなくなって、雪の上に倒れてしまいました。

ザックザックと足音がして、だれかが近づいてきました。その人は、赤いふくを着て赤いぼうしをかぶり、白いひげの……サンタさんです。
 サンタさんは大きな手を広げてようくんをだき上げ、ふところに入れました。サンタさんの上着の中はふわふわであたたかです。

「今日はクリスマスなの?」
ようくんがたずねると、サンタさんはうなずきました。
「ようくんはクリスマスにいいことをしたね」「いいこと?」
「タッタとタンタをネズミにかしてあげたじゃないか」
「サンタさん、みてたの?」
サンタさんはにっこり笑いました。

「クリスマスはプレゼントをもらうより、あげる人の方が幸せになるんだよ」
ようくんはほっとしてサンタさんにだかれてねむりました。
目がさめると自分のベッドにいました。まくらもとに二つのくつしたがおいてあります。タッタとタンタです。くつしたの中にたくさんのおかしがつめられていました。
「ネズミさんたちはどうしたの?」
「元気で大きくなったよ。春になったから、サンタさんに連れられて帰ってきたんだ」
タッタとタンタが口をそろえました。かべの向こうでは時間のたつのが早いのです。

ようくんは、おかしを分けて家族のみんなにプレゼントしました。ネズミのためにラインの上にもおきました。
タッタとタンタは、ひさしぶりにようくんにはかれて、うれしそうにうたいます。


タッタ、タンタ、タラッタラッタ、タンタ



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「みんな言ってる」に恐怖を感じるとき

2016-11-19 11:08:47 | 聖書から

「こうしないといけないのよ」「みんな言ってるよ」
と言われると、深く考えないで人の言うことに従ってしまうようなことありませんか?

わたしは中学生まではそのようにしていました。意志を持たない者のようで、人が赤が好きと言えば、「わたしも」と答え、白が好きと言えば「わたしも」と答えていました。

もちろん意志はあるのですが、自分を押し殺して本音を誰にも言えないでいました。
中学に入学したとき、部活を選ぶのに友達のすすめたところにしか入れませんでした。体が弱いのにバスケに入り、喘息の発作を起こして大変でした。

その中学は一学期だけ通って、神戸に引っ越すことになったのでバスケからは解放されましたが……。
いやだといえば、嫌われるのではないかという恐れがあったからです。

なぜこんなに優柔不断だったのでしょうか……。『みんな言ってる』という言葉と『恐れ』を心の中に入れてしまったからです。


昨日の家庭集会では「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)」という聖書の言葉からお話を聞きました。

心を見張るとはどういうことでしょう……。心の入口を守ることです。

『怒りや嫉妬など悪い思いを心の中に入れないように。』と言われましたが、悪い思いが心の中から次々湧いてくるようなときがあります。
悪い思いを作り出しているのではなく、入ってきているのですね。

イエス様は心に見張りを立てておられました。人々がイエス様を王としてエルサレムに連れて行こうとしたとき、イエス様はそのことを知ってひとり山に退かれます。傲慢にならないため、十字架の使命を果たすためです。

また、イエス様が弟子たちにこれから起こる十字架の苦しみのことを話したとき、ペテロがいさめて「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と言いました。
そのときイエス様はペテロに向かって「下がれ。サタン」と言っています。
弟子をサタンと呼ぶとはずいぶんですが、きっぱりと拒否するためには、そのぐらい強く言わなければならなかったのです。

イエス様も十字架は恐ろしかったと聞いて、ゲッセマネの丘で苦しみ悶えて祈っているイエス様の姿を思い浮かべました。
十字架の道を避けることはいくらでも可能でした。でも、避けて通ってしまえば、人類を救うという神様のみこころを実行することができません。それで、恐ろしいという思いを心に入れないよう、心を守られたのです。


今のわたしはどうでしょう。悪い思い、誘惑、嫉妬や怒り……そのようなものが心の入口まで来ています。うっかりすると中に入って、あっと言う間に増大するでしょう。

祈るしかありません。
イエス様、どうか心の入口に来てください。そしてわたしの心のドアを守ってください。
「心を守ると、いのちの泉がこれからわく」のですね。いのちの泉をあふれさせてください。

追記
2012年10月31日に書いた「みんな恐怖症」という関連記事あります。ここをクリックして下までスクロールしてご覧ください。

写真はパリの凱旋門。


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臆病な戦士(その3)

2016-11-16 16:37:23 | 聖書から
先日放映された大河ドラマ、『真田丸』は、圧巻でした。(NHK朝ドラと大河ドラマは毎回観ています)手勢が少ないのに戦略で徳川軍に勝利した真田幸村は英雄のようにみえました。
戦いが終わって幸村は「実はかような大戦私も初めてなのだ」「心の臓が口から飛び出そうであった」と木村重成にそっとあかします。

ギデオンと似ているところです。でも、ギデオンと違うのは、幸村は戦略を亡き父のやり方から考えましたが、ギデオンは神様のやり方で戦いました。
13万5千人という諸民族の連合軍が攻めてこようとしていました。こちらの兵士は5千です。どう考えても勝てるとは思えません。
戦いの前にギデオンはためらいます。リーダーとして神様から召されています。でも、自分がリーダーでよいのかと不安になり、神様にしるしをもとめます。

イスラエルの気候は昼と夜の温度差が大きく、夜の間に露が下りることが多かったようです。
それでギデオンは神様に「羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったよう に、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」と言いました。すると、そのようになりました。土だけ乾いて羊の毛が露にぬれているなんていうことはありえないことでした。しかし、羊の毛を絞ると鉢いっぱいになったそうです。

これで納得したと思うのですが、ギデオンはさらに神様に願います。
「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、 土には一面露が置かれているようにしてください。」
逆のことを言ったのですが、それもその通りになりました。

1度ならず2度までも神様を試すようなことをして……と思う方がいるかもしれません。でも、神様はこたえてくださいました。

『人が神様にしるしを求めるのは不信仰、罪だといわれていますが、ギデオンの行為は主なる神への信頼から出た行為です。ギデオンは神の霊に満たされていました。神に確信を求めるための行為だったので、神に受け入れられたのです』と牧師先生が言われました。

神様は戦いに備えてアクセルを与え、ギデオンはブレーキをかけました。
その後、ギデオンは戦いのリーダーとして活躍します。

『自分の力ではどうすることもできず、立つことも進むこともできないとき、神様と真剣に向き合うことが大切です。神様はアクセルを与えてくださいます。いえ、すでに与えてくださっています。』
と聞いて少し前に進んだ気がしました。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。
わたしのエッセーも掲載していますここをクリックして、メニューの作品「私とクリスマス」からご覧ください。



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臆病な戦士(その2)

2016-11-10 16:18:02 | 聖書から
ギデオンは、神さまから「勇士よ」と声をかけられ、ミデヤン人と戦うリーダーとして選ばれました。けれども、ギデオンはオフラという小さな町に住む、弱い存在でした。

オフラの町の人たちは、バアルという偶像を拝んでいました。
まずはそれをやめさせるため「バアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ。(士師記6:25)」と神様が言われました。

ギデオンは神様に言われた通りにするのですが、父親や家族、町の人たちを恐れて、昼にではなく、夜に行いました。

翌朝、町の人たちはバアル祭壇が壊され、アシュラ像が切り倒されているのに気づきました。ギデオンがやったことを知り、ギデオンを殺せとギデオンの父に訴えました。

ギデオンの父、ヨアシュが「自分の祭壇が壊されたのだからバアルが自分で争えばいい」
と答えたので、人々はギデオンのことを「エルバアル」と呼びました。エルバアルとは、バアルは神であるという意味です。

ヨアシュはなぜギデオンを罰しなかったのでしょう……。「エルバアル」という名から、悔い改めたそうです。

もし、バアルが本当の神さまなら、祭壇を壊したギデオンを罰するはずです。しかし、バアルには何の力もありませんでした。ヨアシュは、神様がバアルを拝むことを嫌っておられると知っていて拝んでいたのですが、それが間違えだとはっきり気づいたのではないでしょうか。

ギデオンの勇気ある行動がヨアシュの心を変えたのです。

それで指導的立場にあったヨアシュは、オフラの町の人たちが偶像礼拝をすることを責めました。

ギデオンには、ミデヤン人という外なる敵と、神以外のものにより頼んで偶像礼拝する町の人たちという内なる敵がいました。
ミデヤン人と戦う前に、内なる敵を取り除いたことは、意味深いことだと思いました。

バアルとは、偶像とは、何でしょう。
たとえば、パソコンやスマホが何よりも大切になっていて、それに縛られていたら、それは偶像です。インターネットやゲームがやめられなくなり、気づかないうちに依存症になっていることがあります。それも偶像です。「神様を第一としないことが、偶像礼拝です」と聞いてドキッとしました。
ギデオンは「たたき切る」という意味だそうです。内なる敵をたたき切るのは外なる敵をたたき切るより大変なことかもしれません。


写真はセーヌ川。記事とは関係ありませんが、フランスの写真、これからも続けてアップしますね。


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今、生きている

2016-11-07 20:54:10 | その他
昨日は、召天者記念礼拝でした。
召天者記念礼拝では、亡くなられた方の写真をパワーポイントに映して故人を偲びます。
今年は教会で1月から毎週のように葬儀がありました。

わたしより若い友人も天に召されました。彼女の笑顔の写真が映し出されたとき、涙があふれました。彼女は今年自分の写真が召天者記念礼拝で映し出されるとは夢にも思っていなかったことでしょう。

父と母の写真が映されたときも、また泣いてしまいました。
わたしの心はまだ小さい子どもで、父や母が必要なのに、なぜいなくなってしまったのでしょう・・・・・・・とせつなくなったのです。母が召されて一年以上たちますが、毎日「おかあさん」と呼んでいるわたしです。

天国で再会できるとわかっていても、いま、会って話すことができないのは、寂しいです。

それでも、神様は「悲しみに沈むことがないように」と言われます。それは、希望があるからです。「あなたを贖い、あなたを母の胎内にいるときから形造った方」が、恐れることはないと言ってくださいます。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(ヨハネ14:1-2)」

神様は、わたしたちの天国での住まいを用意してくださっているのです。

『もっとも大切なことは、今、わたしたちは生きているということです。いつ召されてもいいように準備するように』と牧師先生が言われました。

臆病な戦士の続きはのちほど……。

写真はフランスのロワール地方の教会。

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臆病な戦士(その1)

2016-11-05 20:45:12 | 聖書から
旧約聖書士師記にギデオンという人物が出てきます。気が弱くて心配性のところは、自分とそっくりなので親しみを感じます。

水曜礼拝で士師記を学んでいるので、教えられたことと感想を書かせていただきます。


イスラエルの人たちは7年の間、ミデアン人に苦しめられていました。収穫の時期が近づくと、畑の作物を根こそぎ取られてしまいます。それでも立ち向かってくことができず、洞窟で隠れるようにして暮らしていました。

イスラエルの人たちは、神様に助けを求めました。
神さまは、みつかいを送って、酒ぶねの中で小麦を打っている青年に話しかけられました。
その青年こそ、ギデオンです。酒ぶねの中で小麦を打っていた訳は、ミデアン人にみつかったら恐ろしいので、酒ぶねに隠れていたのです。

みつかいがギデオンに言った言葉がすごいです。
「勇士よ、主があなたといっしょにおられる」
酒ぶねに隠れているような者に『勇士よ』と呼びかけてくださったのです。

みつかいはさらに言われました。
「あなたはイスラエルを、ミデアン人の手から救い出すことができる。わたし があなたを遣わすのではないか」

ギデオンはさぞかし驚いたことでしょう。

ギデオンは「どうすればイスラエルを救えるでしょうか」と尋ねます。
みつかいは「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミデアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」と言いました。
こわがり屋のギデオンは、そのあと何度も神さまに確かめながら、それでもミデアン人に勇敢に立ち向かっていきます。

ギデオンは①恐怖②心配③神に対する畏れという3つのおそれを抱いていました。
①や②は誰でも持っている恐れですね。③は恐れではなくて畏れです。

畏れとは、『神に対するつつしみ深さを伴った敬い』だと教えていただきました。これが大切なのだと聞きました。

神様に対して恐ろしいと感じるのは、たたりがあるかもしれない、ばちが当たるかもしれないと思うからでしょう。でも、天地万物を作られた神様は、たたりを起こしたり、ばちを当てたりしません。だから恐れるのではなく、畏敬の念を持つ意味で畏れるのです。

写真は知人からいただいたフランスのノートルダム寺院。


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