昨日は癌が再発転移しなくて感謝しますと書きましたが、ふと来年の今頃もそのように書けるのだろうか?と不安になりました。また、再発転移しても感謝できるのだろうか?とも思いました。
神さまがわたしにいつも最善をして下さることは信じていますが、もし再発転移した場合、感謝しますと心から言えるのでしょうか? 自分でもわかりませんが、そう言えたらいいなあと思います。
今、旧約聖書のヨブ記を読んでいます。ヨブは正しい人だったのに財産も子供たちもいっぺんに失い、自分は不治の病にかかってしまいました。
そんなヨブが、
「私は裸で母の胎から出て来た。
また裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名(みな)はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」
と言って、素晴らしい信仰告白をしています。でも、その後で3人の友人が慰めるために来て論争になったとたん、ヨブの信仰はくずれていきます。ヨブは自分の生まれた日をのろうまでになってしまいます。
友人たちはヨブを愛し、哀れみ、最初の7日間はヨブと一緒に地に座り、誰も一言も話しかけなかったそうです。それはすごいことだと思います。わたしは、7日間も口を開かないでいることなどできないので……たぶんすぐ気休めにしかならない言葉を口にしてしまうでしょう。
友人たちはしゃべらずにそのまま帰れば良かったものの、ひとりが口を開くと論争になり、ある者は因果応報説を語って、ヨブに悔い改めを迫ります。ヨブは対抗して、自分は潔白だと言い張ります。(友人の正義感がヨブを怒らせたと解説があります)そんな友人たちとヨブのやりとりが延々と続くわけです。
数年前、ヨブ記を読んだときはヨブの気持ちが理解できませんでした。すばらしい信仰告白していたのになぜ? という気持ちでした。でも、苦しみを通った後に読むと、ヨブの気持ちが手に取るようにわかります。
「ヨブの心の葛藤は癌を宣告された癌患者の葛藤と同じだ」と書いてある記事を読んでなるほどと思いました。
ヨブ記はカウンセリングの失敗例として読むと文脈が理解できると書かれていましたが、その通りだと思います。ヨブ記を読んでいると、ヨブの友人のように冷たい自分の姿も映し出されてきます。
昨日、一昨日と今年1年で感謝する出来事をあえて10個書きましたが、思い起こせばもっとたくさんの感謝があります。
反省することもたくさんあります。子供の頃は非常に無口で、言いたいことの1割くらいしか口に出せませんでした。若い頃は5割くらい。だんだん積極的になって、2年前までは7割くらい。そして今は9割も思ったことを口に出してしまいます。
2年前に乳癌になってから、死を意識するようになり、「今言わなければ次の機会はないかもしれない」と思って、言いにくいことでも思い切って話していました。
でも、あとになって、あのことは言わない方がよかったのかもしれないと思うことがありました。(8割くらいでとどめておいた方がいいのかもしれませんね)
わたしの言葉で人を傷つけてしまったのではないか? 教会学校では、わたしが積極的に動きすぎて、他の人の才能を発揮する機会を奪ってしまったのではないか? ご主人を亡くした友を励ますつもりで傷ついた心を逆撫でするようなことを言ってしまったのでは?……などと思い、心が痛んでいます。
ヨブの友人のようにではなく、悲しむ者の傍らにいて共に涙を流す者になれますように。