生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

「ノボさん」を読んで

2016-07-28 16:21:53 | 読書
先月11日に、正岡子規が召されるまで住んでいた「子規庵」を訪れてから、子規のことをもっと知りたいと思うようになりました。

子規庵に行った時の記事は、ここをクリックしてごらんください。

知人に勧められて正岡子規の生涯を書いた小説、「ノボさん 正岡子規と夏目漱石」(伊集院 静著・講談社)を読みました。
「ノボさん」とは、子規の本名「正岡升(のぼる)」から取られた子規の愛称です。
「ノボさん、ノボさん」
「なんぞなもし」 
「まっことじゃ、ほな、あしは急ぐけん」
ノボさんと呼ばれていた子規は、上京しても伊予弁で話し、親しみやすい人柄だったようです。
短い生涯の間に、ベースボールをひろめ、俳句と短歌の革新を成し遂げ、日本の文芸に大きな影響を及ぼす存在となりました。
子規は常に人々に囲まれていました。友人、師、家族から愛され、子規もまた彼らを慕いました。
明治20年に同じ東京大学で学ぶ夏目漱石こと夏目金之助と出会い、友情を深めていきます。志をともにする子規と漱石は、人生を語り、夢を語り、恋を語ります。

子規は結核を患っており、結核から脊椎カリエスを発症し、35歳という短い生涯をまっとうします。
子規を看病するため、故郷の松山から母親の八重と妹の律がやってきて、同居します。

お母さんと妹の献身的な看病に心打たれます。母が息子の看病のために上京するのはわかりますが、妹まで行くとは……結婚はしていなかったのだろうか? と思いました。
律は2度結婚して、2度離縁されています。実家に戻っていたときに子規に呼ばれたそうです。
わたしは、子規よりもこの律に興味を抱きました。

律は、とても気が強かったので2度も離縁されたと思われているようですが、兄の介護に20代後半から30代前半の7年間を捧げました。愛の深い人でなければ、できることではありません。律はおもに排泄の世話と背中の膿の包帯取り換えをしていたようです。母の八重を助けるためだったともいえるでしょう。

そこまで献身的に世話をしていても、子規は当たり前のように思い、律の介護のしかたをなじるようなことを書物に書いています。肉親に対する甘えかもしれませんが……。

最後のころは、病状が悪化し、壮絶だったようです。背中から膿が出て、ものすごい痛みに襲われて、八重も律もほとんど夜は眠れず、昼間は次から次へ人が訪れて、2人は倒れる寸前だったようです。

日本経済新聞朝刊女性面2015年2月7日付の記事に、子規の妹、律のことが次のように書かれていました。

「介護にはさまざまなケースがあり、ひと言で片付けることはできない。ただ、他に代わることのできない仕事を偉業というのなら、律の介護はまさにそれである。そして今現在も律と同じように、誰かのかけがえのない支えとなって働いている方が数多くいらっしゃるのだ。表には出なくとも、それは確かに偉大な仕事なのである。」木内 昇著

子規は確かに偉大な仕事をなしました。でも、八重や律の看病なしにはできない仕事でした。陰で献身的に子規を支えた八重と律はさらに偉大な仕事をなした人だったと思えてなりません。

夏目漱石の意外な一面がうかがえるところもこの本の魅力です。また、内藤鳴雪、高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、寺田寅彦、中村不折のことも書かれています。ぜひお読みください。

明日から教会学校低学年キャンプです。教会に一泊します。
体力の限界に挑戦という感じです。奏楽もすることになって、緊張です。でも、必ず守られると信じて行ってきます。



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なぜ? と思う出来事

2016-07-22 16:29:27 | その他
いま、2016年。世界のあちこちで起きているテロ、日本で起きている理由のわからない殺人事件。地震、異常気象など……恐ろしくてブログにも書けません。
多くの人は疑問に思います。「何の悪いこともしていない人がなぜ死ななければならなかったのでしょう」
因果応報ともいわれるように、原因があって結果があると考えている人たちは、何故?と問いかけます。
しかし、答えは出てきません。この世界は因果応報ではないのです。

昨日は家庭集会でした。
「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったと思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:4-5)」約2000年前にイエス様が言われた言葉です。

シロアムの塔とは、どのような塔だったかわかりませんが、建設中か修繕中に倒れ、下敷きになった18人が死んでしまったという事故があったようです。
その18人が特別悪いことをしたわけではないとイエス様が言われました。

「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と書かれているのは、誰でも悔い改める必要があるという意味です。
では、悔い改めとはどういうことでしょう。自分には、悔い改めなければならないことなどないと胸を張って言う人もいるでしょう。
あるいは、自分は悔い改めができていないと胸を痛めている人もいるでしょう。

悔い改めについてひとりずつ考えていることを話しました。
反省するという内容が多かったです。

イエス様はシロアムの塔のことを話してから、たとえ話をされました。次のような内容です。
ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えました。その人は、毎年実のなるのを楽しみに待っていました。でも、3年たっても実がならないので「切り倒してしまいなさい」とぶどう園の番人に言いました。
番人は、木のまわりを掘って肥しをやるので、来年まで待ってくださいと頼みました。

このたとえは、イスラエル人が神様に特別扱いを受けてきたのですが、悔い改めの実を結ばなかったことを示しています。
と同時に、このたとえは、私たちのことも指しているそうです。

レジメには次のように書かれていました。

(あなたがいちじくの木で、神様がその持ち主、イエス様は木の世話をする番人を示しています。)

番人であるイエス様は、実をつけないいちじくの木が切られてしまわないようにとりなしているのです。

悔い改めるとは、反省すること、悔やむことではありません。
悔い改めるとは、神様と自分の関係を本来の正しい関係に戻すことを意味します。

人間は誰でも罪を持っていますから、そのままでは滅びてしまいます。実をみのらせないいちじくの木のように切り倒されてしまいます。

罪に気づいても、自分の力ではその罪を取り除くことができません。


マタイ21:18~19には
イエス様が空腹を覚えられたとき、いちじくの木を見て葉のほか何もないのに気づかれました。イエス様は実らないいちじくに向かって「お前の実は、もういつまでもならないように。」と言われました。すると、たちまちいちじくの木は枯れてしまいました。
ということが書かれています。

わたしは、初めてこの箇所を読んだとき、驚きました。実がなっていないからと、腹を立てて木を枯らしてしまうとは……。

でも、いちじくを枯らしたのはそういう意味ではなかったのです。イエス様は、腹を立てたわけでなく、大切なことを伝えようとしたのです。

イエス様はこんなふうに言っておられるのではないでしょうか。

「あなたが、悔い改めないでいると、このいちじくのように枯れて(滅びて)しまうのだよ。このことを覚えて、わたしのところに来なさい。
わたしは、あなたの代わりにのろわれた木になったのだよ。あなたが引き受けなければならない滅びの道をわたしが引き受けたから、あなたは滅びることがないのだよ。あなたの罪はとっくに赦されているのだから」


のろわれた木、実のならないいちじくの木は、イエス様の十字架を意味していたのですね。

シャワーのようにイエス様の愛が注がれていることに気づきました。

「悔い改めるとは、罪を持つわたしに代わって死んでくださったイエス様のことを思うことです」と牧師先生が言われました。



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そばにいるだけでいい

2016-07-19 15:45:59 | 教会
パソコンの不具合について教えてもらい、システムの復元というのを恐る恐る試みたのですが、失敗に終わりました。
HP更新のために必要なFFFTPは、もう一台のPCで使えるようになったので、このまま少しようすをみることにします。(FFFTPは、ダウンロードできたものの設定の仕方がわからなくて使えるようにするまで4時間もかかってしまいましたが……)
PCトラブルが起きたとき、家に若い人がいないので困っています。

一昨日は、かつて教会でご一緒したことのあるAさんが礼拝に来られて、証しをしてくださいました。Aさんはノルウェーの方ですが、流暢な日本語を話します。日本人の奥様とふたりのお子さんがいました。明るくてバイタリテイーのある奥様でしたが、2004年に事故で突然召されてしまいました。
Aさんは、その5年後再婚したそうです。ところが、2度目の奥様は癌で召されてしまったそうです。

「いつくしみ深き」を作詞したジョゼフ・スクラィヴェンを思い出しました。
彼は結婚を前にして婚約者が事故で召され、その数年後やっと立ち直って結婚しようとしていたら、その人が病で召されてしまったのです。
悲しみの中にあって、お母さんを慰めようとして書いた詩が、数えきれないほど多くの人を慰め続けています。(ジョゼフ・スクラィヴェンについては、2016-4-4のブログに書いています)

Aさんは、いちばん悲しい時は、神様が遠くに感じられた。けれどもそんなとき、友達が来てくれ、慰められたと言われました。
「悲しみの中にいる友を慰めるのは難しいことではありません。そばにいるだけでいい。耳を貸して、友だちの話を聞くだけでいいのです」という言葉に、深く頷きました


礼拝では
Ⅰヨハネ5:20から、メッセージが語られました。
聖書には「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています」と書かれています。
「真実な方を知る」の『知る』は「知っています」の『知る』とは別のギリシア語が使われています。『知る』は体験的に知るという意味で、『真実な方を体験的に知る』ということです。真実な方とはイエス・キリストのことです。


イエス・キリストを体験的に知るとはどういうことでしょう。

Aさんは、奥様を亡くして絶望的になっていたとき、友を通してイエス様の慰めを体験的に知ったのですね。
わたしは、つらくて祈ることさえできなかったとき、夢で多くの人の祈る手をみました。
そして、イエス様の祈る手もみえたのです。こんなに多くの人が、そしてイエス様が、わたしのために祈ってくださっている。そう思って慰められたのでした。

特別賛美としてAさんはヴァイオリニストのOさんと共にピアノ演奏をしてくださいました。その悲しくも希望の感じられるメロディに涙があふれました。


「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(Ⅱコリント1:4)」


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山本周五郎と藤沢周平と母

2016-07-12 16:22:34 | 日記
PCの調子が悪いです。使っているとRuntime Error! が出ます。教会でPCに詳しい人に尋ねても、ネットで調べても解決法がわかりません。PCショップに持って行くと、修理でメーカー送りになるかもしれないので、持って行けません。
もうひとつのPCでメールのやりとりはできますが、そのPCではHPの更新ができません。PCの調子がよくなるようにお祈りください。

先日TVドラマ『ふつうが一番 ・藤沢周平 父の一言』を見ました
藤沢周平の娘さんが家族のことを書いたエッセーをドラマ化したものです。ドラマは、東山紀之演じる藤沢周平が小説家になることを夢見ながら、「食品加工新聞」の記者として勤めていたころの物語です。
ひとり娘の展子が生後8か月のとき妻に先立たれ、仕事、家事、育児と大変な中で交際をしていた和子と再婚します。夫婦愛、家族愛に触れて心が温かくなりました。


藤沢周平は、母が山本周五郎の次に好きだった作家です。母はホームの図書室で藤沢周平の本を借り、召される数日前まで読んでいました。
藤沢周平は山本周五郎を尊敬しており、ペンネームに周五郎の周をつけています。
山本周五郎は聖書を読み、教会に通っていたそうです。聖書のスピリットが作品にも表れています。
その山本周五郎を尊敬していた藤沢周平の作品をわたしは数冊しか読んでいませんでした。
母の好きだった作家の作品をこれから読もうと思います。

そんなことを考えていたら、一年前のことを思い出しました。6月末に土浦の病院を退院した母が、老人ホームで小康を得ていたときでした。
土日ごとに妹が都内から車を走らせて来て、母とわたしを車に乗せ、あちこち出かけました。
母は歩くのが困難になっていたので、車椅子に乗せ、イオンで買い物をしたり、レストランでランチしたりしました……。
夜は我が家に来て、夕食を共にし、我が家のお風呂に入ってからホームに戻りました。そのときは、浴槽に入るときと出るときにちょっと補助すればいいくらいでした。

つくばに住む息子の家にも連れて行けました。娘の婚約者も来てくれ、皆で歓談したのでした。
そんな母のようすを見ていると、「年は越せないでしょう」と言う医師の言葉を疑いたくなりました。
末期がんの痛みが出てきて、ホームで過ごせなくなることもあると聞いて、わたしひとりでつくば市のホスピスに話を聞きに行ったのも、去年の今頃でした。
 
9月のはじめには旅行に出かけました。9月中ごろまで母は元気だったのです。11月に予定している娘の結婚式に出るのを楽しみにしていました。でも、それはかないませんでした。

そして、不思議なことに末期がんの痛みが出なかったのです。最後まで自分で食事ができていました。ホスピスに行く必要がなく、ホームで苦痛なく召されたことは、母にとってもわたしにとっても幸いでした。

母が召されて、この秋(10月1日)で一年になります。



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引退はまだでした

2016-07-05 16:07:19 | 教会
ピアノ奏楽引退と書いた翌日に、奏楽者のひとりが就活のためできなくなったので、お願いできますか……というメールが届きました。

神様はもう十分だと思っているわたしに弾き続けなさいとなぜ言われるのでしょうか……。

50歳近くになるわたしのピアノ(結婚するときも数回の引っ越しのときも、運びました)は、数年間調律もしていないので、音が低くなり、少し狂ってきています。主人は捨ててしまえ言うのですが、わたしはこのおばあさんのピアノに愛着があります。

奏楽をやめてしまったら、全く弾かなくなってしまうでしょう。少し迷ったのですが、また引き受けさせていただくことにしました。
大変だというより、なんだか嬉しく思えるのが不思議です。

今週も教会にヒックンを連れていくことができました。上の写真は教会へ行く土手の道。道は草が生い茂り、歩きにくくなっていました。下には細い道路があるのですが、車が来るとよける場所がなくて危ないのです。土手の道はあまりにも暑くて、何度も休憩して水分補給しながら歩いていきました。

礼拝メッセージでは人のために祈ること(とりなしの祈り)の大切さを教えていただきました。

聖書の第一Ⅰヨハネ5:16には次のように書かれています。
「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々にいのちをお与えになります。」

『神様が「祈りなさい」と言っておられるのは、神様が祈りを聞いてくださるということです。とりなしの祈りをすれば、神様はいのちを与えてくださるというのです。
祈り求めれば、神からいのちを引き出すことになるのです』
と聞いて、毎朝の祈りを続けていく力をいただきました。

わたしは朝起きると洗面を済ませてからまず聖書を読みます。
そのあとで、祈りのカードをみながら祈ります。祈りのカードには友人知人、親戚の人、かつて住んでいた場所で知り合った人などたくさんの人の名が書いています。

ひとりひとり顔を思い浮かべながら祈っています。20分から30分はかかります。旅行へ行く日でも旅行中でも毎日祈ります。
娘が3歳のころ、友人から電話がかかってきました。娘が出ると「〇〇です。お母さんとかわってください」と言ったようです。

「お母さんがいつも祈っている〇〇さんから電話だよ」と娘が言いました
それを聞いて、〇〇さんはすごく喜んでくれました。キリスト教ではなく、別の宗教を信じている方でしたが、喜んでくださったことが驚きで、嬉しかったです。

それにしても娘はどうして知っていたのでしょう。娘の前で祈った覚えはないのに……。
とりなしの祈りは多くの罪を覆うのです。わたしも誰かに祈られていることを覚え、感謝しています。

ヘルマン・ホイヴェルスの詩「最上のわざ」が紹介されました。(2年前にもブログで紹介させていただきましたが……)年をとって何もできなくなっても、祈ることができるのですね。

最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で歳をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に、平静に、己の十字架を担う!
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で、柔和であること!
老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことの故郷へ行くために!
己をこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後に一番よい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために!
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ。われ汝を見捨てじ」と。



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奏楽引退

2016-07-01 20:33:05 | CS(子供伝道)
教会学校で奏楽の奉仕を20年させてもらいました。

わたしはピアノを4歳から小学2年生まで習っていましたが、練習がいやでやめてしまいました。
大人になって保育科の短大にすすむため、18歳から20歳までピアノを習いました。そのときは、すっかり弾けなくなっていたのでバイエルから始めました。

幼稚園ではピアノの伴奏をしていましたが退職後は15年間全く弾かず、ピアノの上は物置になっていました。

教会学校で奏楽できる人がひとりしかいないときがあったので、わたしもさせてもらおうと名乗りを上げました。15年の間にリズムが変わっているとは夢にも思わず……。

音楽主事の先生に聴いてもらうと、わたしの弾く曲のほとんどがリズムが間違っているといわれました。

それから闘いが始まりました。凝り性の私は録音した曲を聴きながら必死に練習しました。あっているのかどうかわからないので、娘に聴いてもらっていました。2時間弾き続けてもリズムが違うと言われたときは、ショックでした。

「伴奏やめた方が身のためだよ」「近所迷惑だし、子どもたちのためにもやめた方がいい」と、息子と娘に言われたのに必死に頑張っていました。そのころは主人が勤めていたので、何時間も弾くことは可能だったのです。

主人が退職してからはリビングにいてずっとテレビを見ているので、ピアノの練習は、夕方お風呂に入る10分の間だけです。
それで、今年4月に奏楽を引退しました。

ところが、奏楽者がいないときやキャンプのときは奏楽しなくてはならず、弾けなくならないように週に2~3回は(10分ずつですが)弾いています。全く弾かないでいると、指が固くなって一か月ぐらいで弾けなくなってしまうのです。

キャンプの食事のとき歌う「おいしい食事」のリズムがどうしてもわからなかったのですが、今回初めてわかって、この年になっても成長できる!と喜んでいます。

明日も子ども家庭集会で弾きます。うまく弾けるようにとは思いません。神様に向かって賛美する喜びを感じて弾けばいいのだなと思っています。
 

持ち運び用にと昨年買ったPC(ウインドウズ8)が勝手にウインドウズ10になってしまいました。起動してしばらく別のことをしているうちにそうなってしまったのです。そのとき作業していたものは、消えてしまいました。(ショック!!)

そのパソコンはワードで創作するときだけ使っているので、10になっても支障がないので、あえて元にもどすのはやめました。

今は、このPC(ウインドウズ7)が更新されないように見張っています。苦情が出たので、中止することが前より簡単になったようですが……。



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