生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

むだではなかった

2010-06-28 07:16:21 | 聖書から


エミー・カー・マイケルの「むだではなかった」という詩をみつけ、次回はこれをブログに書こうと思っていました。

昨日の礼拝の説教題が「主にあって無駄はない」だったのでびっくりしました。
聖書には次のように書かれています。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあってむだでないことを知っているのですから。(Ⅰコリント15:58)」


婦人宣教師のエミー・カー・マイケルが「むだではなかった」という詩を書いたのは、おそらく聖書のこの箇所からでしょう。

なぜわたしがこの詩を心に留めたかというと、童話や小説を書いているとき「もしかして無駄なことをしているのではないか?」という疑念がしばしば沸き上がってくるからです。

どんなに努力しても、どんなにたくさん書いても、実際に子どもたちに読まれることはほとんどないと思うと、このまま書き続けていていいのだろうか?という思いにとらわれます。

作品集が出たばかりなのですが……たった150冊作っただけです。
知りあいの方に差しあげても、果たして読んでいただけるかどうか……かえって迷惑かもしれないという思いも出てきて……。


「神さまにやれと言われたことをやりなさい。主にあって労苦は無駄ではありません。わたしたちの祈りと努力はみ手の中にあって、何一つ無駄にはなりません」

と牧師先生が言われました。

神さまに童話を書きなさいと言われたかどうか? 書くことがみ心にかなっているかどうか?…… それは、これまでに何度も問いかけてきたことです。

そして、神様の答えは「書き続けなさい」でした。あるとき、はっきり示されたのです。
それなのに「無駄だ。無駄だ」と内なる声が聞こえてきて、それと闘いながら書いています。

しかし、「堅く立って、動かされることなく」と神様は言っておられます。
書くことは決して無駄ではないと信じて書き続けたいです。

エミー・カー・マイケルの詩を紹介します。


むだではなかった

人目につかない土の上で
苦しみ流した汗はむだではなかった
さまざまの望みも失せたかに見え
ひそかに涙に泣きぬれて
気落ちしたあなたの心は言った
「すべてはむだであった」と

しかし 主は答えて言われるのだ
「むだではない
どんな大きなことでもよい 信じなさい
信じたことが実現に至るのだ」

あなたの労苦はちりに帰したのか
苦しみは あのさびのようになり
鋭いやいばの上に住みついて
あなたの切れ味を鈍らせたのか
あなたの報いは ちりとさびなのか
そんな考えを捨てなさい
そして主を信じなさい
あなたのたましいが悩みにあるとき
主のご忠実さを思いみなさい

KiKiさんを迎えてのティータイム

2010-06-27 16:08:08 | 教会

KiKiさんを迎えてのティータイム、無事終了しました。
KiKiさんは先月、体調をくずしておられると聞いていたので、祈りに祈っていました。
一昨日の夕方、会場準備をしていると、KiKiさんが元気そうな姿で教会に来られました。

ティータイムは、教会で年に一度行われる婦人のための集会です。教会の婦人たちはそれぞれ役割分担をし、準備をします。

各自持ち寄った手作りお菓子を盛り付け、フィンガーゼリーと飲み物を用意してテーブルセッティングをします。小さいお子さんを連れてくる方もおられるので託児の準備も整え、駐車場には誘導係がスタンバイします。

1テーブル8人座れるように席を整え、テーブルリーダーがホストの役目をします。昨日はほぼ満席で、120人ぐらいの人たちが訪れました。

いのちの大切さを語るKiKiさんの歌声は、深く魂に届きました。

KiKiさんは、先月北海道で行われたZepp liveの3日前から声が出なくなり、病院で点滴を受けられたそうです。
点滴室には誰もいなかったのに、抗がん剤治療のため点滴を打っている3人の女性が見えたそうです。
脱毛のためにかつらをかぶっている人や、爪があれている人、涙をぽろぽろ流している人……。はっと気がつくと、そこには誰もいなかったのですが……ライブコンサートが始まってもその3人の人のイメージが消えなかったそうです。そして3人の人の背後にイエスさまがおられたと言われました。

そのとき「誰に対して何のために歌うのか」を問いかけられたようだったと……。
声が出ないからと土下座する覚悟でコンサートにのぞむと、口をあけたとたんに声が出て、一曲、一曲、これで最後と思いながら賛美し、予定していた曲すべてを歌うことができたそうです。
神様がKiKiさんに力を与えて下さったのだと思いました。

弱さを実感し、自分の力ではどうしようもないと思ったとき、神様が働かれるのですね。

今晩は教会でKiKiコンサートが行われます。わたしのこれからの奉仕は、家で祈ることです。

KiKiさんのティータイムとゴスペルコンサートのお知らせ

2010-06-25 12:31:18 | 教会


わたしの通っている土浦めぐみ教会に明日、ゴスペルシンガーのKiKiさんが北海道から来てくださいます。

KiKiさんが土浦めぐみ教会に来て下さるのは2回目です。去年8月にコンサートが行われました。そのときのことはブログ に書いています。

KiKiさんは2005年に乳がんの手術をされ、3年後に再発。がんと闘いながら全国でコンサートをされています。
魂の叫びを歌にして、人々にいやし、希望、力を与えたいという思いを胸に、全生命をかけて活動を続けておられます。

詳しくは土浦めぐみ教会のHPのお知らせをごらんください。
ティータイムでは手作りのお菓子とお茶をいただきながら、KiKiさんのお証しと弾き語りを聴きます。
(わたしもクッキーを焼きました)

 

   ティータイム(女性対象)
日時 6月26日(土)10:00~11:30
場所 土浦めぐみ教会ホール
参加費 無料
    
    ゴスペル教室
日時 6月26日(土)19:00~21:00
場所 土浦めぐみ教会礼拝堂
参加費 1000円
    
     ゴスペルコンサート
日時 6月27日(日)17:30開場 18:00 開演 
場所 土浦めぐみ教会礼拝堂
参加費 無料  

ようやくできた作品集

2010-06-24 20:08:28 | 日記

今日、病院で乳がんの再発を調べる検査の結果を聞きました。異状なしと聞いてほっとしました。感謝!


昨日は、児童文学者協会茨城支部の集まりに出かけました。
かつて同人誌「青い星」を発行してきた茨城児童文学の会は、8年前に解散しましたが、2年後に再結成して土浦で年に数回の例会を行ってきました。メンバーは「青い星」からの者たちがほとんどですが、人数は減って9名ほどです。

このたび、児童文学者協会茨城支部として再結成して初めての作品集を出すことができました。
「作品集を作りましょう」という支部長の発案から4年もたっています。4年の間に夏に2回の合宿をし、合評を重ねてきました。
ついに、昨日出来あがってきたものを手に取りました。
体裁は学校の文集という感じですが、中味は読みごたえのある作品ばかり……と自画自賛。

実は自分の作品を読み返して恥ずかしくなり、また書き直したい衝動に駆られています。
ともかく、商業出版で本を出してもらうことが難しい今の時代、このような形ででも長編を発表できたことが嬉しいです。

作品集の名前は「エフラテール」わたしの作品名からとられている訳は、単にわたしの作品のページ数がいちばん多いからです。
エフラテールの意味は作品を読むうちに解き明かされます。

作品の内容を簡単に紹介すると・・・

交通事故で右手が動かなくなった4年生の宏人(ひろと)は、ドッジボールができないことを悲しみ、動かない手を憎み、劣等感を抱いています。宏人はマントヒヒと竜の住む星にいき、マントヒヒの子ども、チムリンと友達になります。チムリンも片耳が聞こえないというハンディを抱えていますが、全く気にしていません。チムリンと冒険の旅をするうちに宏人が自分の障がいを受け入れるようになるというストーリーです

この小説を書くのに実は16年もかかっています。もちろん16年ずっと書き続けていたわけではありませんが、最初は短編として書き、3回合評にかけています。
どうしても完成できなかったのは、わたし自身が喘息のある弱い体を受け入れられなかったからです。受け入れられるようになって初めて書き上げられたというわけです。



くびき

2010-06-22 12:13:03 | 聖書から

今日は1時間近く探し物をしていたので時間のロスをしてしまいました。でも、見つかったので感謝です。
だんだん探し物が多くなってきます。大切なものは置き場所をメモに書いて机の上に置いておくことにしているのですが、そのメモもなくなるのです。


一昨日は聖餐式でした。今年の聖餐式は、イエスさまが最後の晩餐でなさった4つの行為からメッセージをいただいています。今回はパンを裂くという行為からのメッセージでした。


わたしたちの心は苦しみ、悲しみによって裂かれ、傷を負っています。自分の過失を悔いたり、罪に嘆いたり・・・。

ヘンリーナーゥエンは「大事なことは、悲しみや苦しみから逃げずに正面から向き合うこと」と言ったそうです。

「傷ついた心を正直に見つめると、主イエスさまの招きの声を聞くことができます」と牧師先生が言われました。


ついこの間、わたしは“傷を見つめる”ということをしました(それで6/17のブログに「ディープ」と言う詩を書いたのです。)
見つめることは辛いことです。ますます傷が深くなるような気がします。でも、それは一時的で、見つめたときから癒しが始まるのです。


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11-28)」


この聖書箇所が読まれたとき、涙があふれました。疲れ果てたとき、重荷にあえいでいるとき、行くところがある。(そこで休ませていただける。疲れを癒していただける。重荷を軽くしていただける。)
そう思うと、どんなに辛いことがあっても大丈夫という平安が与えられます。

さらにイエスさまはいわれました。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11-29)」


くびきというのは、2頭の牛の首をつなぐもので、2頭に荷物を分担して運ばせるためのものです。

イエスさまはこんなふうに言っておられるのですね。
あなたとわたしはくびきでつながれています。
わたしの十字架の苦しみ、痛みを思ってください。わたしは、あなたの傷ついた心を思い、いっしょにあなたの重荷を負ってあげましょう。わたしのくびきは負いやすく軽いですよ。


イエスさまが一緒にわたしの重荷を担って下さる! なんと嬉しいことでしょう!

2段階の癒し

2010-06-19 11:36:45 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。
聖書にはイエスさまの癒しの奇跡について書かれているところが何箇所もあります。
盲人の目を開いた奇跡だけでもいくつか書かれています。

大声でイエスさまの名を呼び求めた盲人が癒される場面は感動的です。今日読んだ聖書箇所(マルコ8:22-26)に書かれている盲人は、自分からイエスさまのところにやってきたわけではありませんでした。聖書には『人々が盲人を連れてきて、さわってやってくださるようにイエスに願った』と書かれています。
イエスさまはその盲人の手を取って村の外に連れ出されました。

「なぜ連れ出されたのだと思いますか?」と質問がありました。イエスさまはその盲人と一対一で向き合う必要があると思われたのでしょう。

このとき、イエスさまが盲人を癒す方法が他の場合と異なっていることに初めて気づきました。2段階で癒しているのです。
聖書には次のように書かれています

そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何が見えるか」と聞かれた。すると彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。(マルコ8:23-25)


癒しの途中でイエス様はこの人に「何が見えるか」と聞かれました。この聞かれたという言葉の原語には「しきりに聞き続ける」という継続をあらわす動詞が使われているそうです。
福音書の他の箇所で、癒しの途中でイエスさまがこのように聞かれるところはないと教えていただいて、これも新しい発見でした。

それまで盲人は、本当に癒してもらえるのかどうか半信半疑でうつむいていたと想像されます。そして、イエス様のうながしによって目を上げたようです。(「見えるようになって」という言葉は「見上げる」という意味でもあります)

ぼんやりとでも見えるようになったことは、盲人にとって大きな喜びと驚きだったでしょう。盲人の心にはっきり見えるようになるかもしれないという希望の光が差し込んできたことでしょう。

2度目の癒しの時の彼の態度は、前回の時と違っていました。「彼が見つめていると」と書かれているように、うつむいていた彼は、頭を上げまっすぐイエスさまを見つめ、期待していました。そして、期待通り癒されたのです。

わたしは、小児ぜんそくがなかなか治らなくて悩んでいたときのことを思い出しました。父の知り合いの紹介で漢方薬屋さんに連れて行ってもらったとき、店の人が「必ず治ります」と言いました。でも、その言葉が信じられなくて「そんなに簡単に治るもんか!」と思ったのです。治りたくてたまらなかったのに、すっかりいじけてしまっていたのでした。

この盲人も、もしかしたらいじけていたのかもしれません。自分からではなく、人に連れられてイエス様のもとにきたのですから。
だからこそ、2段階の癒しが必要だったのかもしれません。
「イエスさまは、イエスさまに期待し、依存することを求めておられます」と牧師先生が言われました。

最初は気が進まず、半信半疑でイエス様のもとに連れてこられた人にも、イエスさまはすばらしいことをしてくださることをおぼえて感謝しました。


人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたが満たされますように。(エペソ3:19)



ディープ

2010-06-17 21:41:44 | 

「ナイーブで傷つきやすいのに…ひどいこと言われて……わたしは傷ついています!」

これまで何度神さまに訴えてきたでしょうか。そのたびに傷を癒していただきました。

少しも無理できない体。忙しい日がちょっと続いただけで寝込んでしまいます。病に伏した時は、もう起き上がれないかと思いました。そんなわたしに神様は力を与え、再び元気にしてくださいました。

ふとふりかえると、自分自身に問題があることに気づきました。『傷ついた』と被害者意識でいたわたしでしたが、実は人の心を傷つけていたのでした。

わたしの魂はほころびだらけでした。まずこの魂こそ繕(つくろ)っていただかなければならなかったのです。

ほころびを繕ってくださったのは、十字架の釘がさされたあとのある傷ついた手でした。
十字架によらなければ繕うことのできないほど大きなほころびだったのです。

久々に詩が生まれました。


ディープ 

傷を受けた心 
いつまでたっても治らずに
眠れぬ夜がつづいてる
神さまどうか この傷包み いやしてください

ディープ ディープ 深い あなたの愛で
わたしの心 包まれて そして いやされていく

疲れはてた体 
すべての力を失って
このまま もう起き上がれない
神さまどうか わたしを抱(いだ)き 力をください

ディープ ディープ 深い あなたの愛で
わたしの体 抱かれて 力注がれていく

気がつくと わたしは 
ほころびだらけで
言葉と 
態度で人を傷つけていた
神さまどうか このほころびを つくろってください

ディープ ディープ 深い あなたの愛で
わたしのたましい つくろわれた 傷ついた御手で



この詩のキーワードは「包む」と「抱く」と「繕う」です。どれも聖書の中に出てくる言葉で癒しを意味します。

聖書の言葉


「主は心のうち砕かれた者をいやし、彼らの傷をむ。(詩篇146:3)」

「また、荒野では、あなたがこの所に来るまでの全道中、人がその子を
抱く
ように、あなたの神、主があなたを抱かれたのを見ているのだ。(申命記1:31)」


「彼らも舟の中で網を繕っていた。(マルコ1:19)」

変えられたぺテロ

2010-06-14 21:50:21 | 教会
新約聖書の登場人物の中で最も親しみを感じるのはペテロです。ペテロは12使徒のひとりですが、使徒の中で聖書の記述が最も多いのがペテロです。ペテロは立派な人物というより、情熱的で、あわて者で、失敗の多い人物です。

わたしは、昨日のCS小学科低学年のメッセージ担当でした。
CS礼拝の前に第一礼拝に出たのですが、はからずもペテロについてのメッセージでした。
聖書箇所はルカ5:1~11
CSでの聖書箇所は使徒5:14-42 でしたが、関連した内容だったので嬉しく思いました。


ペテロはシモンという名で、ガリラヤ湖の漁師でした。イエス様はシモンの舟に乗りこんで群衆に話しをされました。そのあとで、シモンに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい(ルカ5:4)」と言われます。一晩中漁をしていたのに魚が一匹もとれなかったのです。(漁師でもないくせに……網をおろしたって魚が捕れるわけがない)と思ったことでしょう。

「でも、おことばどおり網をおろしてみましょう(5:5)」と言って網をおろすと、大漁で網が破れそうになりました。
予想外の大漁にペテロは驚きました。そして、それまで「先生」と読んでいたイエス様のことを「主よ」と言っています。

ペテロは自分の罪深さにはっとして、神の前に立っている自分に気づき、恐れます。
そんなペテロをイエス様は「こわがらなくてもよい」と言って罪深い者を受け入れてくださいます。ペテロは何もかも捨ててイエス様に従うのです。
「イエス様に従うには高慢なプライドを捨てなければならない」と牧師先生が言われました。

その後イエス様はシモンに「ペテロ」と名付けます。ペテロは岩という意味で、日本語だと「岩男くん」、とか「がんちゃん」と親しみやすい名で呼ばれたようです。

「岩」というと不動の信仰を持っている人のように思いますが、ペテロは何度も失敗してとても岩のような存在とは思えません。でも、そのたびにイエス様は「ペテロ」と呼んで育てて下さっています。

CSでお話ししたペテロは、イエス様の復活後のペテロでした。ペテロはまさに「岩」と呼べるしっかりとした信仰をもつ者となっていました。

投獄され、「イエスさまのことを語るな」とユダヤ人のリーダーたちに言われてもおじけずに「人に従うより神に従うべきです(使徒5:29)」と言ったのですから。
まるで別人のようです。復活のイエス様に出会って、力をいただいてペテロは変えられたのです。

失敗だらけのわたしも神さまから力をいただいて子どもたちの前に立たせてもらっています。

自分を見つめると・・・

2010-06-11 12:34:24 | 日記

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP管理人をさせていただいています。毎月10日前後に更新をしています。

作成したのは娘で、わたしはいまだに仕組みがよくわかっていないのですが、更新はスムーズにできるようになってきました。
ところが、9日にレンタルサーバーから次のようなメールが届きました。


新構成サーバーへの移設により、一部の設定が変更となっております。これに伴い、お客様による設定の変更が必要となります。
大変お手数ですが、変更点をご確認の上、お客様にて変更作業を行っていただきますよう、よろしくお願いいたします。


(えーっ、どうして移設したの? 設定変更ってどうやったらいいの?) 

さっそくリンクしているHPをみて説明を読んだのですが全く解りません。

FFFTPを開いて更新しようとしてもできません。娘は仕事に出かけて留守です。
2時間も悪戦苦闘して「わからない、わからない。どうしよう」と、パソコンの前で叫んでいました。

幸い翌日は娘の仕事が休みでした。さっそく頼むと「それぐらい自分でできなくちゃ」と言いながら5分もかからずに設定を変更してくれました。

やり方をみていて、そういえば半年ぐらい前も同じようなことがあって、やはり娘に設定変更してもらったということを思い出しました。そのとき、やり方を覚えたはずだったのに・・・すっかり忘れているとは・・・・。

とにかく更新できて感謝しましたが、自分が情けなくなりました。

OBIで「自分を見つめると絶望し、人を見つめると失望し、神様を見つめると希望がわく。」
と聞きました。

本当にそうだと思います。自分を見つめると無能さ、愛のなさ、罪深さに絶望します。
人を見つめると、あの人はなんて素晴らしい才能があるんだろう・・・・それに比べてわたしは・・・と失望します。
でも、神様を見上げると、神様はこんな欠けだらけのわたしを愛し、用いて下さるのだと希望がわいてきます。

自分ではなく、人でもなく、天を見上げて生きていきたいです。

クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHPごらんください。

写真は自然博物館の野外施設

偶然?それともご計画?

2010-06-08 19:57:29 | 日記

今日はCSの夏期学校で行く茨城県立自然博物館の下見に行ってきました。
マンモスや恐竜の骨が展示され、宇宙の不思議、地球の生い立ち、自然の仕組みなどについて説明されていて興味深い内容でした。

残念だったのは、ヒトがサルから進化していく模型が展示されていたことでした。
聖書にはこの世界(宇宙、地球、生物すべて)は神様によって創造されたと書かれています。
でも多くの人は、宇宙の起源は偶然によるものであると考え、進化論を主張しています。
息子が5歳の時、知り合いの方から図鑑をいただきました。その方が「人間は、昔魚だったんだよ」と言うと、息子は「ちがうよ。人間は最初から人間だよ」と答えました。
教会の幼児クラスで創世記のお話を聞いていたからです。

創世記の最初に「初めに、神が天と地を創造した」と書かれていますが、息子はその言葉を暗唱していました。神様によって造られたことを知っているのと知らないのとでは大きな違いがあります。
水族館に行ってさまざまな魚がいるのを見た時、娘が感激して言いました。
「神様ってすごいね! こんなたくさんの種類の魚のかたちを考えたなんて!」
神さまの創造のことを知らなければ、この発想は出て来ません。

神さまはわたしたち人間も造ってくださいました。しかも他の動物と同等にではなく、人間を特別な存在として造ってくださったのです。「人をご自身のかたちに創造された」と書かれています。この“かたち”というのは見た目ではなくて性質のことです。

自分が生まれてきたのは偶然によると考えるか、神さまの御計画によると考えるか・・・・その違いは大きいです。それは存在理由になります。

なぜ生まれてきたかわからず、存在理由がわからないために死を選ぶ人たちがいると思うと悲しいです。

人の誕生は偶然なんかじゃありません。そして魚が進化したものでもありません。
神さまは、あなたが生まれるずっと前からあなたのことを計画し、目的を持って造ってくださいました。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちでわたしを組み立てられたからです。(詩篇139:13)」



願いがかなえられて

2010-06-05 15:01:20 | お茶の水聖書学院

わたしは3年前からお茶の水聖書学院(OBI)の聖書科通信コースで学んでいます。
最初は不安でした。レポートもあるので、ついていけるのかな・・・自宅で学べるのはありがたいけれど、意志薄弱なので途中で挫折してしまわないかな・・・と。
それは全くの杞憂でした。学べば学ぶほど「もっと聖書を知りたい」という気持ちが募って、意欲が沸いてきます。

それまでは、聖書のほんの一部しか知らなかったのにそれで満足していました。でも、聖書には神様の愛が満ち溢れています。聖書を学ぶことによって、神様がどれだけわたしを愛してくださっているかわかって、心が熱くなっていきます。

【御言葉(聖書の言葉)の中に生きることの大切さ】
教えていただいて、眼が開かれたようです。

いつもDVDを通して教室の外側から授業を受けているのですが、中に入ってみたいという気持ちが強くなってきたとき、サマースクーリングの案内が届きました。
サマースクーリングは、軽井沢で毎年7月に行われています。今までも案内が届いていたのですが、いつか参加できればいいなあと思うだけでした。
内気な性格なので、初めてのところにとびこんでいく勇気もなかったのです。

今年は、OBI創立20周年記念の年です。
わたしの心は動きました。というより、動かされたと言った方が正確でしょう。なんとか参加したいと願うのですが・・・8月にはJCPで関西に行く予定があるので、とても無理だと思いました。

でも、参加できるように祈りました。主人の許しが得られるように。費用も与えられますようにと。
そうしたら、そのふたつの祈りはすぐにかなえられました。こんなに速やかに、かなえられるとは・・・・・・・自分でも驚いています。

そして、今日申し込み手続きをしました。来月が待ち遠しいです。

OBIサマースクーリングは一般にも公開されているそうです。OBIのHPをご覧ください。

写真はハナキリン

嫌いだった花火

2010-06-04 12:06:43 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

今年、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)では400字のエッセイを書いています。テーマは花*鳥*風*月。2か月に1作品書いて例会に持っていき、合評会をしています。
「花」と「鳥」は書けたのですが、次の「風」はまだです。

わたしは、小説も短編より長編が書きやすく、エッセイは短くまとめたつもりでも原稿用紙10枚くらいになってしまうので、1枚にまとめるのに大変な苦労をしています。
悪戦苦闘しながら書いた文章を紹介します。
テーマ「花」ですが、花は花でも花火です。


嫌いだった花火

「花火はきれいだけど、あっという間に終わってむなしいから嫌いだ」従兄弟が言った。
当時中学生のわたしは、従兄弟の言葉に深くうなずいた。命のはかなさを思い、むなしさを感じていたからだ。
それまでは、煙が喘息の引き金になるという別の理由で花火を嫌っていたのだが……。
 
それから数十年後、全国花火競技大会を部屋から見ることができるマンションに住んだ。
煙は届かないのに花火を喜べず、大会が始まっても台所に立っていた。
 
「はじまったぞ」主人に呼ばれて振り向くと、夜空に大輪の花がいくつも咲いていた。花火は一瞬で消えてしまったが、目の奥には残像がくっきりと焼きついていた。

『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ 四十:8)』

地上の人生がはかなくてもいいではないか。永遠なるものがあるのだから。永遠の命を下さるお方を指し示す文章を紡いでいきたい。 

朽ちない体

2010-06-01 17:31:30 | 聖書から
娘が高校生の時「朽ちていくのがこわい」と、詩に書いていました。
事実、動物も植物も人も日々朽ちていきます。生まれたら、必ず命の終わりがきます。
不思議にこのことで悩む人は、年配の人より若い人が多いように思います。


先日の礼拝メッセージは、『神の奥義』について語られました。『神の奥義』について聖書に次のように書かれています。

「私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(Ⅰコリント15:51-52)」

わたしたちの肉体は弱いです。疲れやすく、傷みやすく、朽ちていきます。でも、終わりのラッパが鳴るときに、神様が朽ちないものを着せて下さいます。そのとき、私たちの体は強くて、傷もつかず、疲れず、朽ちない体に変えられるという約束が聖書に書かれています。
聖書に書かれている約束は真実で、必ず成就します。


終わりのラッパとはどんなラッパなのでしょう……。礼拝ではトランペットとトロンボーン、ヴァイオリンの演奏がありました。目を閉じて聴いていると、天国の門が開いて光の中からイエス様が両手を広げて迎えてくださる様子が目に浮かびました。

【朽ちない体になる】 なんとすばらしい約束でしょう!
肉体的苦痛から一切解放されて、病気や老いの心配をしなくてよくなると思うと、嬉しいです。


写真はミリオンベル

拍手ボタンはページごとに貼り付けるのが大変なので右側に置きました。よろしくお願いします。

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