生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

杯の中身

2012-04-29 20:53:06 | 教会
今日は聖餐礼拝でした。聖餐式とはイエス・キリストが最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与え「パンは私のからだであり、杯は私の血による契約である」と言ったことを記念して、パンとぶどう液を会衆に分けるキリスト教の儀式です。キリストの十字架を思ってパンとぶどう液を戴きます。
礼拝メッセージの一部を紹介させていただきます。


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イエス様は十字架にかかる前日、「わが父よ、できますならば、この杯をわたしかから過ぎ去らせてください(マタイ26:39)」と苦しみもだえて祈りました。

杯には何が入っているでしょう?
杯の中には、全人間の罪、汚れ、いやらしさ、冷酷さ、利己心……などのあらゆる悪がドロドロにとけて入っており、悪臭漂っています。それをイエス様は飲み干してくださいました。

わたしたちが飲むべき杯もあります。杯の中身はわたしの過去です。過去を受け入れることができるでしょうか。

人生は縦糸と横糸で織りなされています。縦糸は、決定していることで、選択できないことです。生まれた時代、民族、国、両親、兄弟などは選べません。両親の不和や壊れた家庭環境、障がい、病気、突然の事故などは選択のしようがありません。でも、人生は縦糸だけでは決定しません。

横糸とは、わたしたちの選択と努力です。ヘレンケラーは障がいを持って生まれながら、見事な錦を織りました。小児麻痺の水野源三さんは、まばたきで詩を書き、神を信じることがどんなに命を輝かせるかみせてくれました。

正直に自分の過去を振り返ることが大切です。「振り返ることのできない人生は、価値のないものです」と、ヘンリー・ナーウェンは言っています。

主イエスの杯を飲むことは、今までの人生を受け止めると告白すること。苦しみも、のろうべき出来事も、許せない怒りもすべて神のみ手の中にあったと受け入れ、告白することです。

人生の過去すべてをわたしだけに与えられたユニークなものとして受け入れることです。自分をかけがえのない存在とすることです。
過去を振り返って許せない怒りや憎しみがあるのなら、その目をイエスに向けましょう。

イエスはその杯を飲み干してくれるからです。神は縦糸ののろいから解放してくれ、横糸の後悔や憎しみから自由にしてくれます。

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43:25)」
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わたしは、自分の目の前に杯が置かれているのを見たような気がしました。中味はわたしのねじれた心、わがまま、どうしようもない自我が混ざり合い、見るのも恐ろしいほどドロドロとしたものでした。ひどい臭いで、とても飲めるものではありません。少しでも口に入れたらすぐに吐き出してしまうでしょう。

「これを飲むのですか? とても飲めません」と言うと、「杯をよくみてごらん」と声がしました。見るといつの間にか杯はからっぽになっていて、一滴も残っていませんでした。イエス様が飲み干して下さったのです。

「お前の飲むのは、こちらだよ」と言って、甘い香りのする液体の入った杯が差し出されました。わたしがそれを飲んだとき、過去の憎しみ、心の傷、後悔などが忘却の彼方に去ってしまいました。
ありがとう、イエス様!



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聖書の世界が3D映像で

2012-04-27 15:28:36 | 聖書から
水曜礼拝の前(10:00~10:30)に、聖書輪読会をしていました。小グループのメンバーが集まって、1回に1章を輪読し、感想や受けた恵みなどを話します。輪読会は10年以上続いていて、これまでに新約聖書2回通読し、旧約聖書は出エジプト記32章まで読み進みました。月に2回ほどしかできないこともあり、実にゆっくりとした進みです。

この10年の間にメンバーも変わり、今は3人だけです。わたしは発起人ではありませんが、第2回目からずっと参加しています。

3人のメンバーの1人が朝の時間参加できなくなり、もうひとりは奉仕が入って月に2回しか参加できなくなったので、思い切って月に1度ですが、午後にすることにしました。(回数は増える可能性あり)
水曜礼拝の後、楽しく語らいながらお弁当を食べ、そのあと輪読会です。

一昨日、初めて午後の輪読会を開きました。いつもは1章だけですが、時間があったので3章も読みました。

いつも不思議に思うことは、聖書をひとりで読んでいるときには気づかないことや、感じられないことが、ふたり以上で読むと何倍にも感じられることです。

神様がシナイ山に降りてこられたとき、「山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震えあがった。(出エジプト19:16)」と書かれ、そのとき全山が激しく震えたというのを読んで、山の轟と角笛の響きが聞こえ、煙の立ち上るシナイ山が見えたような気がしました。しかも3D映像で。すごい迫力でしたよ。

こんな体験をすると、どんな困難があっても輪読会を続けたいという気持ちになります。

今読んでいる箇所は、シナイ山でモーセが神様から石の板に書かれた十戒を受けるところです。
シナイ山で神様から十戒を受けたモーセが山を下りていくと、人々はアロンに金の子牛を作らせ、それを神として拝んでいました。
神様がいちばん忌み嫌われる偶像礼拝をしていたのです。

32章を読んだ感想を3人で語り合いました。

「どうしてイスラエルの民は待てなかったんだろうね」
「モーセは40日間も山へ登ったままだったのよ。」
「40日って長いよね。モーセが40日後にもどってくるとわかれば、待つことができたんじゃないかな」
「でも、わからなかった。神様は《いつ》ということを教えてくださらないことが多いね」
「このままモーセがいなくなってしまったらという思い、見えない神様の存在すら不安になったので、目に見えるものを拝みたいと思ったのでしょう」
「イスラエルの民を笑えないね」
「それにしても、それを見たモーセは怒って神様からせっかくいただいた大切な十戒の書かれた石の板を砕いてしまうとは……。」
「モーセは激情型だったの?」

 ここまでで時間が来てしまいました。

わたしは、モーセは決して激情型だったのではないと思います。
モーセは、民が金の子牛を拝んで罪を犯していることは、神様から聞いて知っていました。そして神様の怒りを知り、どうか滅ぼさないで下さいととりなしています。

だから、激情にかられてやった行為とは思えません。神様がどれだけ民の行為を嘆いているか知らせるためだったのかもしれません。
そして神様は、板を砕いたことを責めず、再び同じものを授けてくださいます。

次回は5月16日(水)輪読会参加者を募集中です。



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喜びの根源

2012-04-24 15:47:23 | 教会
運動不足が続いているので、毎朝散歩に出かけるようにしました。
桜はほとんど散って、緑の葉が力強く芽生えていました。田んぼには早くも水が張られ、カエルの鳴き声が聞こえていました。歩いているうちに汗ばんできて、春というより初夏という感じがしました。


日曜日、教会学校の小学2年生の分級(学年ごとに分かれたクラス)でわたしの書いた童話「でんでんむしのよろこび」を紙芝居にして見せました。(生かされて・・土筆文香のHP童話の部屋に掲載しています)

でんでんむしのぼんやりくんは、背中のカラに悲しみが入っていると嘆いていました。
でも、ジョイジョイさんと出会って悲しみを取り除いてもらい、喜びをいただききました。ジョイジョイさんが、でんでんむしたちの悲しみの詰まったカラを背負ってくれたのでした。

「ジョイジョイさんはだれのことだと思う?」と質問すると、「イエス様」と子どもたちが答えました。
「ぼく、わかったよ。ジョイジョイさんが背負ったのはみんなの罪で、苦しんでいるのは十字架のことでしょ。最後にカラが白くなったのは、復活でしょ」
と言った子どもがいて、驚きました。小学2年生の子どもが、わたしの意図したことをわかってくれたのです。感動で胸がいっぱいになりました。

その日、大人の礼拝でも喜びについて語られました。
今月13日のブログに「理由なき喜び」を書きましたが、そのこととも共通しています。
メッセージの一部を紹介します。


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悪霊につかれたゲラサの男は、墓場に住んでいました。墓場は死を意味しますから、死に束縛されていたのです。
民主国家に住んでいるわたしたちは、自由だと思っていますが、実は多くの人がいろいろなものに束縛されています。ゲラサの男は現代の私たちの姿です。

パウロとシラスは、足かせをつけられて牢に入れられていました。肉体的に束縛されていましたが、霊的には束縛されていませんでした。牢屋の中で彼らは神様に賛美の歌をうたっていたのです。

それをみた看守はイエス・キリストを信じ、看守の家族も信じたと聖書に書かれています。
イエス・キリストは、人間を真に自由にする権限があります。

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがを自由にします。(ヨハネ8:32)」

死からの解放がない限り、真の自由を得ることはできません。
キリストを信じる者は真の解放と自由を体験しています。
パウロとシラスが肉体的に束縛されているのにもかかわらず喜べた理由は、解放と自由を持っていたからです。

イエス・キリストが十字架にかかってくださり、復活したことにより、キリストを信じる者は、神のみ国で永遠に住まうという約束を与えられています。そのことが喜びの根源です。
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でんでんむしのかなしみがよろこびに代えられた理由もここにあります。



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弱さがあっても

2012-04-21 15:41:06 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。T.S.先生による聖書の学びで印象に残ったことを書かせていただきます。


小学生のころ、道徳の時間で習ったことは、深くしみこんでいます。いい人の例が挙げられて、このような人を見習いましょうと勧められ、悪い事をしてしまった人の例が挙げられ、このようなことをしてはいけませんと教えられました。

聖書を読むときも、無意識にこの人はいい人か悪い人かと振り分けてしまうことがあります。でも、聖書は決してそういうことを言っているのではないと教えていただきました。

信仰の父と呼ばれているアブラハムは、過ちを犯しています。エジプトに行ったとき、自分の奥さん(サラ)があまりにも美しいので、夫婦だと言うと殺されてしまうかもしれないと恐れ、妹だと偽っています。そんなことが2回もありました。

神様の介入によって事なきを得ますが、信仰の父と呼ばれた人が、恐れを抱いて嘘をついてしまったことが聖書に書かれているのは興味深いことです。

このように弱いところのある人、罪を犯してしまう人であっても、神様はその人を選び、その人の生涯を導いてくださることがわかり、感謝しました。

アブラハムは親族とともにウルという町に住んでいました。ウルという町は、月神礼拝の盛んなところで、父親のテラや兄弟も月神礼拝をしていたそうです。

そのような中でアブラハムは神様からウルの町を出て、約束の地へ旅立つように示されました。兄弟ナホルは同行しませんでした。月神礼拝で商売をしていたのでそれを捨てることができなかったのかもしれません。
アブラハムの家族内で、もめたかもしれません。もうひとりの兄弟ハランは、父親のテラより早く、ウルの地で召されています。

テラはアブラハムと一緒に出発します。でも、約束の地よりずっと手前のハランの地に留まることを希望し、そこで召されてしまいます。

神様はなぜアブラハムを選んだのか……。その理由は分かりません。アブラハムがいい人だったからでも特別信仰深かったからではないことは確かです。でも、アブラハムは葛藤しながらも生涯神様と共に歩みました。

「信仰生活は神様とのつきあいです。神様から卒業してしまわないように」と牧師先生が言われました。


肉体的にもそうですが、精神的な弱さを抱えているわたしです。恐れや不安にとりつかれて自ら行動を起こし、何度も失敗しています。

信頼して待つことの苦手なわたしです。でも、神様は「恐れるな」と言ってくださっています。恐れを抱いたとき、立ち返る場所があるとうのは何と幸いなことでしょう。

「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1)」


2007年6月1日に「アブラハムに思いを寄せて」を書いています。こちらも読んでくださると嬉しいです。



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ペン仲間と共に

2012-04-18 16:39:09 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
体調を崩してから2週間になり、だいぶ快復してきましたが、今度は胃の調子が悪くて力が入りません。眠くてたまらないのは陽気のせいでしょうか……。このところずっと早寝しています。

わたしが所属している日本・クリスチャン・ペンクラブ(JCP)は、今年60周年を迎えます。10月にその記念会が行われますが、わたしはその実行委員のひとりとして奉仕させていただいています。

日本クリスチャン・ペンクラブに入会してからちょうど10年。わたしにとっても節目となります。
今日は「クリスチャン・ペンクラブとわたし」というテーマで書いた800字エッセイを紹介します。


                   ペン仲間と共に         

わたしが初めて日本クリスチャン・ペンクラブの集会に出席したのは、50周年記念会のときでした。
その10年ほど前から神様の愛を伝えたくて、ひとりで童話を書いていました。クリスチャンで童話やエッセイを書いている方とお会いしたいという思いはありました。JCPの存在も知っていたのですが、子どもが小さくてお茶の水までは行けませんでした。
 
JCP50周年記念としてあかし文章を募集していることを知り、救いのあかしを書いて送りました。それが入選して、表彰式があるというので、お茶の水クリスチャンセンターまで足を運びました。
 
そこには、信仰のあかし文章を書いている方たちがおられました。初めて出会った方ばかりなのになつかしく、長い間旅をしてようやく故郷にたどりついた気がして胸が篤くなりました。居場所が与えられたように思い、さっそく入会しました。
 
それから隔月の例会と童話エッセイの集いに出席するようになりました。夏期学校にも参加しました。
 
JCP例会では必ず礼拝があります。そのメッセージで信仰が強められました。文章の書き方も学びました。仲間たちの書く姿勢、スピリットに触れて、あかし文章を書く意欲が高められました。

「あかしする者は天にあるのですから、一字でも一句でも血の滴(したた)るようなペンであかしすればいいのです」と前理事長、満江先生の文を読んではっとさせられました。

血の滴るようなペンであかしするとは、自分の弱さも醜さもさらけ出して、痛みを伴いながら書くということではないでしょうか。そのとき、人の心に届く文章が書けるのだなあと思いました。

痛みを感じながら書くのは辛いことですが、ペン仲間がいれば耐えられます。何よりイエス様がわたしのために血を流してくださったことを想いながら、ペン仲間たちと共にあかし文章を書き続けていきたいです。




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理由なき喜び

2012-04-13 11:39:02 | お茶の水聖書学院
体調がもとに戻ってきました。外へ出かける体力もつきました。
先日の風雨で散ってしまったかと思われた桜でしたが、桜川の土手の桜は満開でした。


待っていてくれたのね、桜さん
今年も咲いてくれてありがとう
あなたの美しさが
ことさらまぶしく感じます。


OBIのDVDでの学びを再開しました。
学びの中で「理由なき喜び」というのが印象に残りました。
紹介させていただきます。

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わたしたちは何かを喜び、何かについて喜ぶ習慣がある。その何かとは、普通の生活からかけ離れた特別なものである。そうすると、当然普通の生活というのは、辛い、喜びのないものになる。

ところが、本当の喜びとは、何かから来るのではなく、神から来る。(略)キリストが私たちを苦労から離れさせ、バラ色の中に連れて行ってくれるわけではない。苦痛のある日常生活の中に喜びを送ってくださる。

本当の喜びとは理由なきものである。それは、キリストから来る喜びである。
それは事物に先立ってそこにある。

獄中で賛美したパウロは、嬉しいことがあったわけではない。体は拘束され、死の危険もある獄中であってもキリストと共にいる喜びに満たされて賛美したのだ。

生活のうちに理由なき喜びを見出すことができるように。
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具合が悪かった後なので、ことさら『理由なき喜び』を感じています。

満開の桜を見ることができたこと。食事がおいしくとれること。パソコン作業ができること。深呼吸ができること。
病後だけではありません、病中にも『理由なき喜び』がありました。

友人がわたしの病の癒しのために祈ってくれていること。熱が高くても、呼吸困難や激痛がなくて、うとうと眠れること。快適な自分の場所で横になっていられること。

天地を作られた創造主と直接お話しができること。わたしの体の細胞のひとつひとつを造り、体の中がどういう状態になっているかすべてご存じである方に信頼できること。
病床にいるのは私一人ではなく、イエス様が共にいて一緒に苦しんで下さっていること。

そういえば受難週のメッセージで以下のようなことが語られました。


苦しみの只中にあって、イエスと共にいることに気づいたとき、肉体の苦しみは同じでも充実感と喜びが与えられます。

神と共にいるとは、神に訴え応答を待つ関係を持つことです。




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病床でイースター

2012-04-11 11:59:36 | 日記
久々の更新です。

『気圧のせいか体調がよくありません。今日は強風の中なんとか歩いて水曜礼拝にいってきました。土手を歩いていると吹き飛ばされそうでした。でも、いまにも咲きそうな膨らんだつぼみを抱えている桜の木はつぼみをひとつも落とすまいと必死に風に耐えていました。
そんな姿をみると元気が出てきます。
満開の桜の木を想像しながら歩くのは楽しいものです。』


今月4日にブログの下書きをここまで書いていました。でも、アップできませんでした。

翌日の木曜に38℃台の熱が出ました。病院へ行くと風邪のようで、抗生剤を出してもらいました。金曜には37℃台に下がって安心していたら、土曜日には39℃近くになりました。

8日の日曜はイースター礼拝だったのですが、やむなく欠席。教会学校の子どもたちに渡すものを持ち帰っていたので、どうやって届けよう……と思いました。

娘に頼むと快い返事をしてくれ、ほっとしました。土曜日中に教会へ行って引き出しの中に入れておいてもいいと言ったのですが、8時半からのⅠ礼拝に出てから届けると、日曜に朝早く起きて出かけていきました。

実は娘は高校3年生のとき洗礼を受け、教会にずっと通っていたのですが、この1.2年、礼拝に出ていませんでした。
娘が2年ぶりぐらいに礼拝出席することになって、嬉しくてたまらず、神様からのプレゼントだと思いました。このときをきっかけとしてまた教会につながってくれるのなら、体がどんなに辛くてもいいと思いました。

娘が出かけた後、食卓の上に手紙がありました。
「おなべにスープがあります。食べられたら食べてください。鍋の横にしょうがをすっておいています。お好みで入れてね。もっと元気があったら、炊飯器にご飯があります。食べてね」

なべをみると、ネギと小松菜のスープがあり、炊飯器にはやわらかめに炊かれたごはんがありました。涙があふれてきました。
ずっと食欲がなかったのですが、お茶碗いっぱい食べられました。しょうがをたっぷり入れて飲んだスープは、体をあたためてくれました。

その日から熱が下がってきました。月曜には平熱になったのですが、そんなに簡単に治るものではありません。今度は全身が痛み、横になっているのもつらくなりました。

ただの風邪ではなかったんだ。乳がんの再発転移だったらどうしよう……。不安がよぎります。
「イエス様、助けてください。」と祈り、イザヤ書53章を暗唱していました。
その痛みも日ごとにやわらぎ、癒されていくのがわかりました。

この間、主人がそうじ、洗濯、買い物をし、2回も食事を作ってくれました。(主人が食事作りをしたのは、結婚以来初めてです)今までわたしが具合が悪いと、娘が料理をしていました。娘が夜に仕事がある時はお弁当でした。

今、主人は火曜日から木曜日までの3日間働いているだけなので、時間がじゅうぶんあります。ちょうど冷蔵庫に餃子の材料があったので、作り方を口頭で伝え、作ってもらいました。包むのには悪戦苦闘していましたが……。
翌日はカレーにも挑戦。わたしが作るよりおいしかったです。

体の弱い私は、こんなふうに寝込んでしまうことがときたまありますが、具合の悪いときには、イエス様が最も近くにいてくださることを実感しました。

土曜日にK姉からメールが届いたので、熱があることを伝えると、「床の中でイースターを迎えてください。主は、病床にはいっそう近くおられます。お大事に」と返信をくださいました。

「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(イザヤ53:4)」



日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。わたしの作品も載っています。ぜひご覧ください。


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できることから始めよう

2012-04-02 17:12:58 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
31日に行われる日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会に行くため、金曜日から都内の実家に行き、泊まっていました。金曜日はいいお天気でしたが、土曜日は春の嵐でした。駅に行くと電車が止まったり、遅れたりで混乱していました。

中央線や山手線はどんなに遅れてもたいしたことはありません、でも常磐線が遅れると帰り着くまでに何時間もかかってしまいます。常磐線は少しの風でも遅れたり、止まったりするので、TX(つくばエクスプレス)で帰ろうと決心してお茶の水に向かいました。

天候が悪いのでJCPの例会に参加する人は少ないのではないかと心配していたら、なんと新来者の方も含めて16人もの参加者がありました。

とても恵まれて帰ってきました。久しぶりに乗るTXは快適でした。
JCPの礼拝でのメッセージを紹介させていただきます。


遠藤周作の「神と私」(朝日文庫)の中にある「私のイエス」より。

フローベルという作家の短編にこういう話があります。


寒い日にひとりの聖人が歩いていると、ハンセン氏病患者が近づいてきて「マントを下さい」と言った。
聖人がマントを与えると、その病人は服をくださいと言う。服をあげると、今度は下着をくださいと言って、聖人はとうとう裸になってしまった。
ところが、病人は、それでも寒いと言って、抱いて温めてほしいと要求する。そこで、聖人が抱きしめると、もっと強く抱きしめて、もっと強くと言い出した。聖人が強く抱きしめていると、その病人がいつの間にかイエスに変わった。

私は、この短編を大学生の時に読んで、ありえないと思ったが、年をとるにしたがって感想が変わってきた。このハンセン氏病患者というのは人生だ、ということがわかった。人生というのは、膿が出たり汚らわしいことが多いが、それを捨てずに抱きしめていると、イエスにあって光に満ちてくると考えるようになった。

 
神の愛とは、汚れたものを捨てないで抱きしめていく愛だと遠藤周作は思ったのです。
イエスの愛はやさしいものではありません。むしろ難しいです。
ルカ6:27に「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。(新共同訳)」と書かれています。イエスは愛を実行されました。

汚れた世の中でも私と同じ人間が生活しています。嫌いな人を愛するのは大変なことですが、その人のために祈ることができます。
まず祈ることから始めましょう。一歩前に進んだとき、光が見えてきます。それが敵を愛することにつながります。


フローベルの短編にまず心打たれました。わたしだったらマント一枚あげることができなくて「ごめんなさいね。これをあげたらわたしが風邪をひいてしまうから。余分にあったらあなたにあげるわ」と言って逃げるようにして走り去ってしまうような気がします。

もし、マントや服を病人にあげられたとしても、抱きしめることはできないでしょう。病気がうつる恐怖。汚いと思う気持ち……。

ああ、何てわたしは自分本位なのでしょう……。これではイエス様に出会うことができません……。

いいえ。イエス様はこんな自己中心なわたしを見出して下さいました。寒さに震え、汚れているのはこのわたしで、イエス様は何のためらいもなくマントや上着、下着を下さり、抱きしめてくださいました。

今のわたしにできることは、イエス様に感謝すること、祈ること。できることから始めようと思いました。


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