生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

その次は?

2012-02-29 20:03:00 | 教会
今日は朝からみぞれが降っていました。こごえそうに寒かったのですが、ようやく風邪が治ったので、水曜礼拝に行ってきました。帰りは雪がうっすらと積もって銀世界でした。

雪は、どんなものでもきれいに見せて下さいます。真っ黒でドロドロに汚れたものでも、その上に雪が積もれば白くなります。罪に汚れた心をきよくしてくださるイエス様のことを想いながら歩いていました。

今日は先日の日曜礼拝のメッセージで印象に残ったことから書かせていただきます。

詩篇139編1-4には次のように書かれています


主よ。あなたは私を探り、
私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、
立つのも知っておられ、
私の思いを遠くから読みとられます。
あまたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、
なんと主よ、
あなたはそれをことごとく知っておられます。

詩篇139篇の作者であるダビデは、私のすべてをご存じな神がおられるから、私の存在理由があると告白しています。私のために計画を持たれ、私の人生を見守り続ける神がおられるということ、そこに私の存在理由があるとダビデは告白します。ダビデが告白した神、この方こそイエス・キリストです。キリストにすべての宝が隠されています。

ある青年に将来の夢を聞いたそうです。
「○○大学に合格すること。」と答えたので「その次は?」と尋ねると、「一流企業に勤めたい。」という答えが返ってきます。「その次は?」と尋ねると「素敵な女性と結婚したい」
「その次は?」「子どもがほしい」「その次は?」「社会で認められて、地位と財産を得たい」「その次は?」「退職して悠々自適な生活をおくりたい」「その次は?」「孫が生まれて、孫たちと幸せに過ごしたい」「その次は?」
どこまでも「その次は?」と聞かれるので、青年は怒り、「その次は死ぬ!」と言ったそうです。
すると、「その次は?」とさらに聞かれました。若者が答えられないでいると、質問した人は「神の前に立つ」と言いました。

地上で良い暮らしをすることを人生の目的としている人がどれだけ多くいるでしょうか……。ほとんどの人が幸せを求めて生きています。でも、幸せではなく、きよさを求めて生きることが大切だ
と牧師先生が言われました。

幸せ(happiness)は偶然起こる(happen)から出た言葉だそうです。偶然に幸せになることを求めるというのは変ですね。

イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」と言われましたが、このときの幸いは(happiness)ではなく、祝福(bless)という意味です。(bless)は血を流す(bleed)からきた言葉で、イエス・キリストの十字架を通した幸いという意味だと聞いてはっとしました。

本当の幸せとは、イエス・キリストの血潮によってきよさに染められて生きることです。
Happinessになることを求めるのでなく、blessを求める人生でありたいと思いました。



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悲しみの人で病を知っていた

2012-02-26 21:00:01 | 教会
今日は教会学校の暗唱聖句大会でした。今年は1-2年生と3-6年生に分けて行いました。ゲーム形式でグループごとに競いました。虫食いゲームや上の句下の句合わせをして大いに盛り上がりました。

個人賞としてイザヤ書53章全部を覚えるというのがありました。53章は約850字にもなります。70名ほどの小学生の中で6人の子どもたちと3人の教師が達成できました。わたしも3週間ぐらいかけて覚えたので、K先生に聞いてもらいました。途中で何度かつっかえましたが、合格したので嬉しかったです。

覚えるために何度も読んだので、53章の言葉が体の中にしみこんでいくようでした。
イザヤ書53章には、イエス・キリストの苦難が書かれています。

キリストが十字架につけられる700年も前に書かれたのですから、とても不思議です。
12節までありますが、ここでは1-6節まで紹介します。


1私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
  主の御腕は、だれに現われたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽生え、
  砂漠の地から出る根のように育った。
  彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
  輝きもなく、
  私たちが慕うような見ばえもない。

3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
  悲しみの人で病を知っていた。
  人が顔をそむけるほどさげすまれ、
  私たちも彼を尊ばなかった。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5 しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。
  彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

6 私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。


3節を読むと涙が出ます。(彼というのはイエス・キリストのことです)
人からいじめられ、バカにされている人、のけものにされている人、病に苦しんでいる人、悲しんでいる人は慰められますね。
キリストは私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました

わたしは、神さまを無視して自分のいいと思うことをし、いいと思う自分勝手な道にすすんでいきました。それは、そむきの罪です。それなのに、キリストはわたしのそのそむきの罪のために十字架に刺し通されたのです。そして、そむいたわたしのためにとりなしをしてくださっているのです。
 
イザヤ書53章を味わうと、イエス様のして下さったことへの感謝がじわじわとわいてきます。


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ことばは人を変える

2012-02-23 12:32:43 | 読書
4歳のヒックンは実によく「ありがとう」と言います。
物をもらったときだけでなく、人から何かしてもらったときも、一日に何回も言います。ママがよく「ありがとう」と言っているからなのかもしれません。

先日ヒックンに絵本を読み聞かせしました。宮西達也のティラノサウルスシリーズ「であえてほんとうによかった」(ポプラ社)です。

凶暴なティラノサウルスが、スピノサウルスを食べようとしていたのですが、スピノサウルスに「ありがとう」「すごい」「おもしろい」「かっこいい」「やさしい」と言われるたびに心があたたかくなり、やさしくなってきます。

最後には、スピノサウルスに赤い実のなる木を届けて海に落ちて沈んでしまうという悲しい結末です。

聖書のヨハネの福音書の冒頭に書かれている「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは、神であった」という文章を思い出します。

また、ティラノサウルスの犠牲の死はキリストの十字架を思い起こさせます。
作者の宮西達也さんはクリスチャンだそうです。

ヒックンは「海に落ちたティラノサウルスがどうなっちゃったの?」としきりに尋ねました。せつなくなって、死んでしまったとは言えませんでした。「誰かに助けられて陸に上がったかもしれないね」と答えました。

感謝することばや褒めることばの力ってすごいなあと思います。ことばは人を変えることができるのです。

この間テレビで、ダウン症の書家、金澤翔子さんとお母様が出演しているのを見ました。
翔子さんの障がいのことで悩まれたお母様は、ある本の中に「神は無意味な存在をこの世につくらない」という言葉を見つけてはっとされたそうです。

そして翔子さんに書道を教えるようになりました。
翔子さんは、他の人とコミュニケーションをとることができなかったのに、書道で認められ、ほめられることがきっかけとなってインタビューにも答えられるようになったそうです。

NHK大河ドラマの「平清盛」の題字を頼まれたとき、何十枚も書いてその中から選んだと聞いて驚きました。
お母様に褒められて、素直でのびやかな心で書かれた字だからこそ、多くの人が感動するのですね。




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他者のために

2012-02-21 17:00:03 | 教会
来週の日曜日は、教会学校の暗唱聖句大会です。暗唱聖句大会は毎年2月に行われます。聖句を覚えて暗唱するのですが、今年も60ほどの聖句とイザヤ書53章全部を覚えることが課題になっています。

わたしも子どもたちに負けずに覚えようとするのですが、記憶力の衰えた頭ではなかなか覚えられません。
ようやくイザヤ書53章が覚えられたので、これから聖句を暗唱します。

唱聖句大会当日は、5、6人のチームに分かれ、ゲームのようなかたちで行います。昨日から色画用紙を切ったり貼ったり……その準備に追われていました。


先日の聖餐礼拝では「あなたはわたしが与える杯を飲むことができますか?」というイエス様の問いかけが迫ってきました。


聖礼典では、パンを食べ、ぶどう酒をいただきます。それは、『どんな困難が起きても、神に信頼し続けます』と神と誓約することであり、また仲間との誓約でもあると聞きました。

最初は自分のために聖書を読み、教会へ行きます。そして、信じる者となったとき、それは自分のためだけではなく他者のためでもあったと気づかされます。それは予想外のことです。


自分が信仰をもつことが他者のためになるとは……。確かに、イエス様を信じて生きているわたしの姿を見て、教会へ足を向けた人もいます。その人のために信じたわけではなかったのですが、結果的にそうなったのです。

逆に、わたしがイエス様から離れそうになったとき、固く信仰に立って活き活きと歩んでいる人の姿をみて、引き戻されたことがありました。その人の生き方がわたしに大きな影響を与えてくれました。


同じ主を信じる者たちは、教団、教派が違ってもイエスキリストの信仰において運命共同体であると牧師先生が言われました。

犬養道子さんは「本当の国際人とは、外国語がしゃべれる人ではなく、行ったことのない国の人、会ったことのない人の苦しみを理解できる人」と言ったそうです。


会ったことのない他者のために心から祈れる人になりたいです。



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見捨てられた者

2012-02-18 16:56:49 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。家庭集会では十字架の箇所を学んでいます。

イエス様が十字架につけられたとき「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)という叫び声をあげています。これは詩篇22編1節の言葉です。イエス様はこれまでもよく聖書(旧約聖書)の言葉を引用して語られていました。

しかし、なぜこのようなことを言われたのかと問われると、わからなくなってしまいました。
イエス様はご自分が十字架にかかって命を捨てることをあらかじめ知っておられました。父なる神から見捨てられることもわかっておられました。なのに、なぜ「どうして」と言われたのか不思議です。

それにしても、神様から見捨てられるとは、どんなに恐ろしいことでしょう。
そのとき全地が暗くなったと書かれています。日食が起きたと考えられますが、12時~3時までの間ですから、日食にしては時間が長すぎます。地上から光がなくなるというのは、絶望的な状況だったことを意味するのでしょう。

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ(マタイ3:17)」という神の声がしました。

それなのに、十字架上で「わが神、わが神」と叫ぶイエス様の声に対して、神さまの答えはありませんでした。
なぜイエス様が父なる神様から見捨てられなければならなかったのでしょう……。

Ⅱコリント5:21には次のように書かれています。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました、それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」

神様は、正しいお方ですから、罪をそのままにしておくことはできません。罪ある者は罰しなければなりません。でも、罪あるわたしたちを罰することをせず、代わりに罪のない方(イエス・キリスト)を十字架上で罰したのです。
神様は愛するひとり子をお見捨てになりました。本当は、わたしが見捨てられるはずだったのに……。

「『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。』という叫びは、本当はわたしたちが叫ぶはずの言葉だったのです」と聞いて、はっとしました。

イエス様が代わりに見捨てられてくださったから、わたしはどんな暗闇の中を通ることがあっても神様から見捨てられることはないんだ。ひとりぼっちになることはないんだと思って、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

聖書は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(ヘブル13:5)」と約束して下さっています。



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私を愛してください

2012-02-15 16:09:04 | 聖書から
この冬はよく風邪をひきます。暖房をつけるときは必ず加湿機をつけるのに、すぐのどが赤くなります。扁桃腺肥大症とアレルギー性鼻炎が関係しているのだと思います。

のどに炎症が起きると、咳が出るか熱が出るかどちらかなので、すぐ薬を飲んでいました。ところが、薬ばかり飲んでいたので、最近薬が効かなくなってきました。
咳が出始めると、発作のように止まらなくなります。咳喘息なのかもしれません。

ヒックンを預かったときも、のどが腫れていました。熱や咳が出ませんようにと必死に祈りました。
ヒックンと一緒に昼寝をし、夜も早く寝たのがよかったのか、のどの炎症がおさまってきたのでほっとしています。


今日の水曜礼拝では、先日の日曜にティーンズ礼拝で語られたメッセージを聞きました。ティーンズ礼拝というのは中高生の礼拝のことで、毎週30名ぐらいの中高生が出席しています。
その中で興味深く感じたことは、「人が話すことのほとんどは、『私を愛してください』という意味です」という一文でした。


自慢話をする人は、「私を認めて下さい」と言っています。
苦労話をする人は、「私の苦しみをわかってください」と言っています。
人をけなす人は、「私はあの人とは違います。私を受け入れて下さい」と言っています。
つきつめると、この人たちは皆「私を愛して下さい」と言っているのです。


と聞いて、なるほどと思いました。確かに自分のことを話すときは、相手に理解されたい、受け入れられたい、そして愛されたいと思っているのです。


「人は誰でも愛を求めて生きている。」「愛がなければ生きていけない。」
というのは本当のことだと思います。

でも、親から愛されなかったり、まわりに自分のことを理解してくれる人がいなかったりすると、屈折した気持ちになって、素直に「理解されたい、愛されたい」と表現することができなくなってしまうのではないでしょうか。
どうせ自分なんか……と投げやりな気持ちになったり、自分を傷つけたり……。

聖書は「神は君のことを愛している。」といっています。
君というのはすべての人のことで、例外はありません。でも、神さまの存在を信じていない人や、信じていても、愛されていることがわからない人がいるでしょう。

愛されていることがわからずに寂しい思いをしている人に寄り添って、愛を与えることができたらいいのにと思いました。
「神は君たちが愛し合うために造って下さった。」と聖書がいっているように……。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)」



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ヒックンと過ごした3日間

2012-02-13 20:37:02 | 日記
3日間、4歳の孫、ヒックンと共に過ごしました。ヒックンママが友達の結婚式に出席するため、泊まりがけで出かけたからです。
ヒックンは月に2回ぐらいの割合で遊びに来ているので、しばらくぶりに会ったわけでもないのですが、心の成長に驚いています。

2歳のころから車ひとすじだったのですが、最近はレンジャーものに夢中です。変身する格好をまねてヒーローになりきって遊んでいます。「大きくなったらゴーカイ・レッドになるんだ」と言っています。

金曜日は保育園を休ませておじいちゃんが映画に連れて行きました。インフルエンザがはやっているので、すいている平日の朝をねらっていきました。その時間は他に2人しか観客がいなくて、貸し切り状態だったそうです。

ゴーカイジャーすごろくを買ってくると、「ありがとう!」と言って大喜びしました。ところがこのすごろく、ゴールするのが難しく、一時間ぐらいかかります。

途中であきてしなうのでは? と思いましたが、あきるどころかますます熱く燃えてきます。負けそうになると泣き出してしまいます。それでも泣きながら、サイコロを振っています。厚紙でできたサイコロを力いっぱい天井近くまで放り投げるので、終わるころにはサイコロが半分つぶれていました。

やっとヒックンがゴールして終わったのでほっとしました。片づけるとき、ビニル袋に盤を入れるのですが、なかなか入れられません。ぴったりした袋なので難しいのです。手伝おうとすると「自分でやる」と怒るので黙って見ていました。

ヒックンは汗びっしょりかきながら、必死に入れようとしています。そっと袋を押さえようとすると「ダメ!」と言って、ひとりでやろうとします。
「落ち着いて。角と角を合わせて」
と励ましますが、どうしてもできません。途中でトイレに駆け込んで大声で泣いていました。しばらくして涙をふきながらもどってくると、また挑戦します。もう少しのところでビニル袋がやぶれてしまいました。
それで、また大泣き……。

やぶれたところにセロテープを貼って、「だいじょうぶだから。きっと入れられるから」と励ましました。……20分ぐらいかかって、とうとうひとりでやりとげました。「偉いねえ。ひとりでよくできたね」と褒めると、嬉しそうな顔……。けろっとして今まで泣いていたことをすっかり忘れているようです。

その顔をみて、かつて子どもたちがこのような場面にあったとき、わたしはどうしていただろうかと思い返しました。こんなに忍耐強くなかったのです。
「早くして。できないならお母さんがするから」
と言って取り上げてしまっていたような気がします。

そして褒めることより、けなすことが多く、しかってばかりいました。心に余裕がなかったのです。
子どもは、褒められて成長すると聞きました。動作の遅い子に「いつも遅いんだから、だめな子」と言うのではなく、「ゆっくりだけど、ていねいにするから偉いね」など肯定的な言葉で褒めることが大切だと……。

ヒックンは優しい子に育っています。
わたしが疲れて横になっていると、「だいじょうぶ? 何でもひとりでやるからだよ。ゆっくり休みな」と言って毛布をかけてくれました。
ホロリとさせられました。

日曜日の午前中は、わたしだけ教会へいきました。おじいちゃんとヒックンは留守番。みんなで教会へいけたらどんなにいいでしょう……。願いはまだかないませんがきっといつか……と思っています。

教会から帰ってきて3人で散歩に行くと、ピンクの花びらが落ちていました。ヒックンはそれを拾って大事そうにズボンのポケットに入れました。
「どうするの?」と聞くと「ママにあげるの。ママ、ピンク大好きだから」

今回は「ママはまだ?」と一度も言わず、夜もぐずらなかったのですが、いつもママのことを想っているんだなあと微笑ましくなりました。

夕方、ママがようやく帰ってきました。チャイムが鳴ったとき、「隠れてママを驚かせるんだ」と言っていましたが、ママの声を聞くとたまらなくなってとび出して行きました。

久しぶりにママに抱かれて、幸せいっぱいの顔をしていました。

「お世話になりまった」(さしすせそがまだうまく発音できません)と言って帰っていきました。ほっとしたと同時にどっと疲れが出ましたが……。3日間守られたことを感謝しました。




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選択に迷うとき

2012-02-09 17:02:25 | 日記
追記あり。(20時45分記)

先日郵便局で定期預金をしたら、「プレゼントがあります。どれかひとつ選んでください」
と言われました。

差し出された物はマジッククロス、プラスチックまな板、ごみ袋でした。どれも100円で買えるものですが、まな板がいちばん高価に見えました。でもまな板は2つあるし、使わない物をもらっても仕方ないので、マジッククロスにしました。選んでからごみ袋にすればよかった……と後悔しました。

でも、後日やっぱりマジッククロスでよかったと思ったのです。マジッククロスは吸水性がよく、結露ふきに重宝しています。


これぐらいの選択では、もし誤ったとしても、たいして困りませんね。
でも、人生の中では、進学か就職か、A校に行くかB校か、家族で引っ越しか単身赴任かなど……重大な決断を迫られることがあります。

わたしは決断力が鈍い方なので、すごく迷います。もちろん、祈って決めるわけですが、決めた後、別の道に進んだ方がよかったのではないか……と思い悩んだりします。
はじめにもどって選び直せる場合はいいのですが、選んで一歩を歩み出したらもう後戻りできないことが多いです。後戻りできないとわかっていて「別の方を選んでいれば今ごろ……」と考えてしまうことがありました。
また、誤った選択をするのを恐れるあまり、決断ができないこともありました。

以前教会で、『これが導きなのだと信じて進んでも、間違った選択をしてしまうことがあります。でも、そのとき神さまは、間違えに気づいたその時点から良い方向へと導いて下さいます。間違えてやってしまったことを消すことはできませんが、間違えたらそれで終わりなのではなく、そのことも用いて神さまは良い方へ導いて下さるのです』と聞きました。神さまは、人の間違った選択をも良きことと変えて下さるのですね。

この話を聞いて、たとえ間違ってもだいじょうぶなんだと思えるようになり、気が楽になりました。選択は一回限りではないのです。誤った道は行き止まりではなく、また選択肢が示されるのです。
人生は選択の連続であると言われていますが、本当ですね。み心にかなった正しい選択ができるようにと祈りつつ……。


明日からヒックンママが友達の結婚式に出席するため泊まりがけで出かけるので、ヒックンを3日間預かります。明日は、ゴーカイジャーの映画に連れて行く予定です。
 

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。


追記
ブックマークに入れてある友人のブログ、メメントドミニ9日の記事(神のナビゲーター)に共通の思いが書かれていました。

『進むべき道が判らない時や、心に小さなざわめきを感じる時はじっと待つようにしている。そして、神は私に何を求めておられるのかを考えながら動かずに待つのである。』の一文に教えられました。
ぜひご覧ください。



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人はなぜ病気になるの?

2012-02-06 16:25:06 | 教会
今日はメッセージの紹介ではなく、メッセージを聞いて考えたことを書きます。

アメリカの公立小学校4年生の宿題で、中世ヨーロッパの女の子が書いた日記を読んでどう思うかという質問が出たそうです。

その日記には、「神様はなぜ一度に病気を治してくださらなかったのか。神様はなぜひとりひとりに手を置いて病を癒すという効率の悪い事をされたのか。一度に治る薬や、食べればどんな病気でも治る草を与えて下さらなかったのか。それより、どうして人が病気にならないように造って下さらなかったのか?」
というようなことが書かれていたそうです。

さすがキリスト教国だけあって、公立小学校で子どもにこのような文章を読ませ、考えさせるとはすごい!と思いました。

日記に書かれている神様というのはイエス・キリストのことで、聖書にはイエス・キリストが病を癒された記事がたくさん書かれています。ただ病を癒すだけでなく、ひとりひとり、その人に応じた対応をされ、言葉がけをされています。

なぜ病気というものが存在するのでしょうか……人類の歴史の中で多くの人が病に悩まされ、苦しめられてきました。科学は発達し、特効薬が作られましたが、恐ろしい病が根絶したかと思うと、新たに恐ろしい病気が発生して、それは不思議に思う程です。
どんな病気にでも効く草や薬があればいいのに……それより病気にかからない体にしてほしいと、病に苦しめられた人は誰でも思うことでしょう。

もし、どんな病にも効く草があって、誰でもそれを食べることができ、病気というものが世界からなくなってしまったらどうでしょう。この世界はパラダイスのように幸福に満ち溢れるでしょうか?
そうではないと思います。病気がなくなればすべての悩みが解決するわけではないですね。

病気にかからなければ、各々が自分の欲するままに行動し、何かなし得たときは、自分の力でできたのだと誇り、立ち止まって自分を顧みることがなくなるのではないでしょうか。
そして、病にかかることがなければ、人は神様を必要としなくなってしまうと思います。

「イエス様が、病人をいちどに治すのではなく、ひとりひとり癒したのは、ひとりひとりと関わることを大切にされたからです。羊飼いが羊に対してするように、神様はその人の悩みを見、叫び声を聞き、痛みを知ることを望んでおられます。」と牧師先生が言われました。

わたしは、神様が共におられることを知ったので、たとえ病気が治らなくても幸せです。
以前は何が何でも病気を治して下さいと訴えていたわたしですが、病気が治ることより神様が共におられるという実感を得ることの方が大切だと気づきました。

聖書の言葉
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません、あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)」



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心傷つけられた患者

2012-02-03 16:48:40 | 乳癌
一年以上も抗癌剤治療を続けて頑張っておられる方が「段々と強い薬になって、病院では打つ手なし……となる……」と医師から言われたと聞き、ショックを受けています。

患者を励ますことも医師の仕事だと思いますが、このような否定的な表現をされたら、がっくりと落ち込んでしまうのではないでしょうか。
医学的に治療が難しい病気でも、生きる意欲に満ち、病と闘っていく気力があれば、免疫細胞の働きが活発になって癒されることもあるのに……。

何よりも、癒し主であるイエス様が癒して下さることでしょう。
聖書には次のように書かれています。

「主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。(哀歌3:31-33)」


患者の意欲をなくし、心を傷つけるような言葉を語る医師の無神経さにガッカリします。
医師は癌患者の気持ちを知らないのです。多くの癌患者と接しているのに……。自分が癌にならないとわからないのだと思います。

「串刺しの心と書いて、患者です」という川柳がありますが、まさに心を串刺しにされた気持ちでしょう。

わたしも乳がんの手術を受けたとき、医師の言動にショックを受けました。術後、手術をしてくれた医師に「傷が痛むので化膿しているかみて下さい。」と言うと、「術後はだれでも痛むのです」と言って目をそむけられ、見てもらえませんでした。

「再発転移が心配です」と言うと、「心配しても仕方ない。再発する時はするのだから」と冷たい返事。
術後は元気な時よりナーバスになっているので、ぐさりと心を突き刺されました。


人の言葉や行為に傷つくと、いつまでも忘れないのですが、逆に自分が傷つけたときは、そのことをすぐ忘れてしまいます。

石井錦一さんの書かれた詩と文章が心に留まりました。

痛みを共にする心を

 神さま
 人の心の弱さをいま深く感じています
 友の語る言葉に
 かくされた刺をみることがあります
 愛する人のひと言が
 もう何も語ることのできないほどに
 傷つきいたむことがあります
 私自身の言葉もそうです
 何気なく冗談に語った言葉が
 どんなに深く友の心を傷つけたことか
 愛しているから、親しいから
 許されていると思って語った言葉が
 冷たく、きびしい言葉として
 愛する人の心に消えることのない
 傷となっていつまでも残っています
 自分も人も、暴力をふるい
 大声をあげてわめいていることよりも
 小さな言葉や、ひとつの行為に
 人の心は、もっと深く傷ついているのを
 知っておののいています
 人の心の傷つく痛みよりも
 はるかに多く、自分の心の傷つく
 痛みの大きさを感じている自分を悲しく
 いま、みつめています
 人の心の傷を
 友の苦しみの深さを
 だれよりも深く、真実にうけとめて
 共に苦しみ、傷つき、痛む心を
 私にあたえてください


この地上での苦しみは多い。とくに子どもや、親、兄弟を亡くした者の苦しみは大きい。また、病んでいる人々の苦しみも、虐げられている人々の苦しみも大きい。悲惨な現状を目の前にして、この世には神などいるのかとおもわれることも体験することがある。

われわれは、この苦しむ人々の隣人となり、苦しむ人々と共に生き、互いに支えあう世の中が出来るよう祈りつつ生きなければいけないと思う。
現実には、安きに流されやすい我々である。また、不完全な我々である。しかし、それぞれの場で、最善を尽くすよう祈りつつ努力していかなければいけないと思う。

石井錦一 : 著 : 「祈れない日のために」 : 日本基督教団出版局



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安息の地

2012-02-01 16:34:45 | 教会
先日の日曜礼拝ではK先生がメッセージをして下さいました。
先生の言葉を青字、わたしの感想を茶色字、聖書の言葉を緑字で書いています。


民数記13,14章は、エジプトで奴隷としてこき使われていたイスラエルの民が2年間荒野をさまよった末、約束の地の手前、カデシ・バルネアに来た時のことが書かれています。
その地を偵察に行った人たちは、そこが乳と蜜の流れる地(豊かな作物のある地)であると報告します。
2人の人にかつがれて、たわわに実ったぶどうが運ばれてきます。


聖書物語の絵を思い出しました。一粒がサッカーボールぐらいの大きさのぶどうの実でした。

「これは、ふたりの男の間で木(十字架)につるされたイエス・キリストを示します。」
と聞いて驚きました。
イエスさまがわたしたちを安息の地に入れて下さるという意味なのだそうです。
旧約聖書の中にキリストの型をいくつも見ることができますが、このことは初めて聞きました。

約束の地は町も井戸も畑も用意されており、すでに完成された場所でした。ところが、イスラエルの民は、そこに住む巨人を見て恐れ、約束の地に入るよりエジプトや荒野にいる方がいいと思いました。

ところが……実は巨人の方がまことの神を信じるイスラエルの民を恐れていました。神様はすでにイスラエルに約束の地を与えていたのです。神に信頼して一歩を踏み出すことが必要だったのですが、それができずに荒野へ引き返してしまいました。その後、38年間も荒野をさまようことになります。


イスラエルの民がもし巨人を恐れずに一歩踏み出すことが出来たら、神様は巨人を倒し、巨人が備えてくれた良い物すべてをイスラエルの民に与え、憩わせて下さってでしょう。
ところが、恐れのためそれができなかったのです。そのために38年間も荒野をさまようことになるとは……。

でも、そのようなイスラエルの民を愚かだと言えません。わたし自身も恐れて神様を信頼できずに一歩を踏み出せないことがあるからです。



ベテスダの池のほとりにいた38年間病気だった人は、イスラエルの民をあらわします。「よくなりたいのか」とイエス様に問われて、「よくなりたい」と言う気力さえなくなっていましたが、イエス様の恵みによって癒されました。
この病人が歩きだすこところに本当の安息がありました。


ベテスダの池のほとりにいた病人も、イエス様に出会った時点ではイエス様を信頼していませんでした。それでもイエス様の「起きて床を取り上げて歩きなさい」という言葉に従ったとき、安息が訪れたのですね。


神さまが創造の業を終えて7日目に休まれたのは、私たちのために安息を備えて下さっているということです。

わたしたちもカデシ・バルネアに立ち、選択を迫られるときがあります。昔からの生活パターンを捨てられなかったり、相手に心を開くことを恐れて一歩を踏み出せないことがあるかもしれません。

でも、そこにイエス様が来て下さって同情して下さり、声をかけて下さいます。だから大胆に憐れみを受けて恵みを戴いて歩む決意をしたいものです。そこに安息があります。


「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」


「安息に入るためにすることは何もありません。ふさわしくならなくてはと努力することでありません。神のして下さったことを信頼するだけです。」
と牧師先生が言われました。



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