生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

人間の価値は何で決まるの?

2009-07-31 16:51:15 | 聖書から
 
文通している方から「人間の価値は何で決まるのですか?」という質問をいただいたので、どのように答えたらよいか思いめぐらしていました。

夏期キャンプで聞いたメッセージと、先日の水曜礼拝のメッセージはテーマが一致していました。はからずもそれは、その質問の答えを示すものでした。

 
人間の価値は、地位や学歴やお金で決まるわけでは決してありません。
成績が良いか悪いか、身体が丈夫か弱いか、意志が強いか弱いか等で決まるわけでもありません。

人間は神様のかたちに似せて造られたと聖書(創世記1:27)に書かれています。かたちというのは、目に見える形ではなく、性質のことです。神様の性質は聖(きよ)さと、義(正しさ)です。

本来の人間は、聖(きよ)さと、義(正しさ)を持っていました。ところが、罪を犯すようになって、それが失われてしまいました。

わたしたちは、教えられなくても生まれながらにして悪いことをしてしまいます。嘘をついたり、ごまかしたり・・・神様に背いて生きようとする傾向があります。

どうしてそうなってしまったのか・・・聖書にはその原因が書かれています。原因とはアダムとエバが神様から禁じられた木の実を食べたことです。

最初の人間が犯した罪のおかげで、人類全部が悪い性質を持つようになったなんて腑に落ちませんね。

それなら、罪を犯してしまうのは、わたしたちの責任ではないし、仕方ないことなのでしょうか。

自分の内面を見つめると、罪を犯さずに正しく生きたいと願っても、心の中で人をうらやんだり、憎んだりする気持ちが沸いてくることに気づきます。

アダムとエバが木の実を食べなかったとしても、わたしが食べたかもしれない……と思います。絶対にやってはいけないと言われると、かえってしたくなる気持ちが起きてくるのです。

わたしはそのような惨めで情けない者ですが、造られたときの本来の自分にもどることができると神様はおっしゃっています。

 「立って父の所に帰ろう」と言った放蕩息子や、ザアカイのように神様のもとに帰るとき、罪をぬぐっていただき、造られたときのような本来の自分になれるのですから、なんて幸いなことでしょう。

 人間の価値はその人の中にあります。どんな人でも、神様によって、神様に似せて造られたのですから、尊いのです。

どんな人であっても、その人自身に絶大なる価値があるのです。たとえその人が何もできなくても、何も持ってなくても、また犯罪者でも、 その人の存在そのものに価値があるのです。

どれぐらい価値があるかというと、 神様がひとり子イエス様の命をその人のために与えるほど価値があるのです。

嫌いだと思うあの人も、意地悪をするこの人も、みんな価値ある人です。
ひどいことされて人を憎みたくなる時、あの人のためにもイエス様が死んでくださったと思うと憎しみが薄れていきます。

殺傷事件を起こした犯人は、人を殺すことは「蚊を殺すのと同じ」と言ったそうです。

一匹の蚊と同じ価値の人間がいるでしょうか? そのような人はいません。
生きる価値のない人間がいるでしょうか? そのような人はいません。

 
どんな人でも神様が「高価で尊い」といって、愛して下さっているからです。


 
わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)


悪をなす人が立ち返って、本来の良い性質に戻ることができるようにお祈りします。


*写真は、先日友人と訪れたかすみがうら市の雪入ネイチャーセンター。
コメント (2)

夏期キャンプの恵み(その3)

2009-07-29 13:30:41 | CS(子供伝道)
 
わたしの担当したグループは、ザアカイの劇をすることになりました。
ザアカイの話(ルカ19:1~10)を紹介します。

 
ザアカイは、イエス・キリストの時代、イスラエルの取税人でした。当時イスラエルはローマ帝国に支配されていて、ローマに税金を納めなければなりませんでした。それを取り立てるのが取税人ですが、多くの取税人は不正なことをして多く取りたてていました。当然人々は取税人を嫌っていました。ザアカイもそうでした。

イエス様がザアカイの住むエリコの町にやってくるといううわさが流れました。イエス様のことは、人々の間で評判になっていましたから、ザアカイも聞いて知っていました。

どんなお方なのか一目見たいと町に出て行くと、通りは人垣ができています。ザアカイは背が低かったので、イエス様が来ても見ることができません。人々はザアカイのためにすき間をあけてはくれませんでした。それで、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。

イエス様がこられた時、信じられないことが起こりました。
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしてあるから」と、イエス様がザアカイを見上げて話しかけられたのです。

ザアカイは大急ぎで木から降りると大喜びでイエス様を家に迎えました。ザアカイの冷たかった心はイエス様の暖かい眼差しでとけていきました。
それを見ていた人たちは「なぜ、イエス様はあんな罪人の家になんか行くんだろう」と口々につぶやきました。

イエス様をお迎えしたザアカイはいいました。
「イエス様、今までわたしは悪いことをしてきました。これから、財産の半分を貧しい人にあげ、だまし取ったお金は4倍にして返します。」
イエス様に会ってザアカイはすっかり心が変えられたのです。


お話のあと、子どもたちと話し合いました。Tがわたし。Cが子どもの言葉です。
 
T:ずるいことをして人のお金を余分にとっていたザアカイだったけど、ザアカイって、もともと悪い人だったのかな?
 
C:わからない。
C:いい人だったかもしれない

T:K先生のお話で、人間は神様のかたちに似せて造られたって聞いたよね。かたちってどういうこと? 顔とか体つきのこと? 
C:そうだったらみんなおんなじ顔になっちゃうよ
C:目に見えないかたちだよ

T:そうだね。性質のことだね

T:神様の性質ってどういう性質かな・・・神様はどういうお方? 
C:やさしい。いつも一緒にいてくれる。守ってくれる。助けてくれる。愛してくれる。

 
たくさんの答えが返ってきてびっくりしました。


T:それじゃあ、ザアカイも神様に似せて造られたんだよね。それなのになぜ悪いことをしていたのかな?
 
C:さびしかったんだよ
C:友達がいなかったからお金だけが命だったんだ


T:町の人みんなに嫌われていたザアカイだったけど、イエス様が泊まりに来てくれて、どんな気持ちだった?
 
C:嬉しかった。
C:やったー! って思った

T:イエス様と食事をしてお話ししているうちに、ザアカイは今までしてきたことが悪いと気づいて、お金を4倍にして返すと言ったけど、どうしてかな?
 
C:イエス様にしかられたからだよ
C:違うよ。きっとイエス様が家に来てくれて嬉しくてたまらなかったからだよ。


T:そうね。ザアカイは今までは友達もいなくて、お金がたくさんあってもさみしかったんだよね。でも、イエス様と出会って、神様が自分のことを大切にしてくださっていることがわかって、さみしくなくなったのね。だからお金を返すと言ったんだと思うよ
  

そんな会話をしてから、配役をきめました。最初町の人ばかりでザアカイになる子がいなかったのですが、色紙で作った金貨を袋に入れたものを出すと、(あらかじめ用意しておいたものはこれだけでした)ザアカイ希望者が3人も出てきて、ひとりの男の子に決定しました。イエス様役は希望者がなかったので先生にお願いしました。

町の人たちやザアカイのセリフは、子どもたちが自発的に考え、楽しい劇ができました。練習時間は正味20分ほどでしたがすばらしい出来栄えでした。

最後は 「人の子は失われた人を探して救うために来たのです(ルカ19:10)」という暗唱聖句の歌(こひつじソング)をみんなでうたいました。


わたしも失われた人でした。神様に見出されて初めて生きているという実感が与えられたのでした。

子どもたちの輝く瞳をみて嬉しくなりました。夏期キャンプを通して子どもたちは神様の愛をたくさん感じたことでしょう。心から感謝します。

おわり
コメント (6)

夏期キャンプの恵み(その2)

2009-07-28 11:22:11 | CS(子供伝道)
 
教会学校小学科低学年の夏期キャンプが7/24.25に行われました。夏期キャンプ2日目は、朝食後、すいか割り、わらべ唄遊び、朝の礼拝+分級、昼食、閉会礼拝と盛りだくさんのプログラムでした。

今回の夏期キャンプは、聖書から「わたしたちを愛して下さる神様」というテーマでK先生がお話しをしてくださいました。

わたしが、いちばん印象に残ったメッセージは、なくした銀貨がみつかって喜んだ女の人の話(ルカ15:8-9)でした。

おおよその話を紹介します
 
10枚の銀貨を持っていた女の人が1枚なくしてしまいました。女の人は家の中を隅々まで一生懸命さがしました。女の人はほこりまみれになっていた銀貨を見つけました。見つかったことが嬉しくて、友達や近所の人を呼び集めて一緒に喜びました。

銀貨がほこりにまみれて部屋の隅に落ちているときは、何の役にも立ちません。人にみつけられて、汚れをぬぐいとってもらい、使われてこそ価値があるのです。

(エリザベス2世女王の横顔が刻まれているオーストラリアのコインを見せて)コインに女王の横顔が刻まれているように、神様はあなたを造るとき、神様のかたちを刻まれました。かたちというのは性質のことです。だから、あなたには神様の性質が与えられているのです。

でも、なくなった銀貨のようにほこりまみれになっている人がいます。神様はそういう人を探しておられます。神様のところに帰ってくるのを待っておられます。神様にみつけられて、汚れをふきとってもらった(罪がゆるされた)とき、本来のあなたにもどって神様に喜ばれることができるのです。


このメッセージに関連して、
「迷子の羊」(マタイ18)、「放蕩息子の話」(ルカ15)、「ザアカイ」(ルカ19)の3つのお話をしてくださいました。どれも子どもたちがよく知っているお話です。

今回のキャンプのメイン活動は、グループごとにこのお話の寸劇を発表するというものでした。

27人の子どもを9人ずつ3つのグループに分け、グループごとにどのメッセージを担当するかあらかじめ決めておきました。朝の礼拝後、1時間で寸劇の準備をし、昼食後の閉会礼拝で発表するという計画です。

たった1時間で、1~3年生の子供たちが劇を作れるのでしょうか・・・指導するわたし自身、皆目見当がつきませんでした。
できるだけ子どもから引き出して、セリフも動作も子どもたちの意見を優先しようと思いました。


                  つづく

*写真は2日目に行ったスイカ割りのスイカです。十字架の形に割れ目ができました。
コメント (4)

夏期キャンプの恵み(その1)

2009-07-26 21:49:08 | CS(子供伝道)
 
夏期学校、無事終わりました。ひとつひとつのプログラムが祝されたことを感謝します。

弱さを抱えているわたしに神様が必要な力を与えて下さいました。

一日目は、開会礼拝の後、教会バスで霞ヶ浦ふれあいランドに行きました。ふれあいランドは5/5に息子一家と行ったところです。水の科学館を見学し、ホールでお弁当をいただきました。食後はザリガニ釣りコーナーでザリガニ釣りを楽しみました。


親水公園では水遊びをしたあと、グループ対抗で水鉄砲ゲームをしました。金魚すくいのポイ(和紙が貼ってあるもの)を頭につけて、相手チームのポイを水鉄砲でねらって打つ。破れたら失格で、残っている人数が多いチームが勝ちというゲームです。

わたしもゲームに参加しました。おもしろくて、服がぬれるのも、疲れることも気にせず夢中で興じてしまいました。
出発時は雲行きが怪しかったのですが、水遊びの時は晴れ間も見え、楽しめました。

ふれあいランドからもどって、教会でテント張りをしました。1年生は部屋で泊まりますが、2,3年生の希望者はテントで寝るのです。テントは初めてという子どもが多く、はりきっていました。
夕食は先生と奉仕者が用意した手巻き寿司をいただき、夜は待ちに待ったキャンプファイヤーです。途中で雨が少し落ちてきましたが、すぐにやんで最後まで守られました。

ファイヤーを囲んで聖書のお話しを聞き、賛美とゲームをし、子どもたちの目はきらきら輝いていました。
キャンプファイヤーの後、打ち上げ花火をしました。喘息の子がいるので、遠くから打ち上げ花火を見せたのですが、子どもたちは花火が上がるたびに拍手して歓声を上げていました。

8時過ぎに1年生が寝た後、2.3年生はお楽しみ会をしました。キャンプファイヤーの残りの火で割りばしに刺したマシュマロを焼いてS'more (スモア)を作りました。



S'more (スモア) とは、グラハムクラッカーで板チョコと焚火で焼いたマシュマロをサンドしたもので、アメリカではキャンプファイヤーを楽しむのに欠かせない人気デザートだそうです。
わたしは生まれて初めてスモアを食べました。おいしくて、家でも作ってみたいと思いました。

夜になると不安で泣き出してしまう子どももいました。でも、「イエス様が守って下さるから大丈夫」と言うと、「うん」とうなずいて泣きやみ、すぐに眠ってしまいました。
子どものまっすぐな心と信仰に心打たれました。

                つづく
コメント (3)

宇宙の神秘

2009-07-23 11:22:54 | 日記
 
昨日は日食が見られるかもしれないと楽しみにしていました。せっかく日食グラスを買って用意していたのですが、雨が降っていたのであきらめました。

水曜礼拝が終わって空を見ると明るくなっていたので、もしや・・・と思って太陽を探しました。でも、空は厚い雲に覆われていました。それでもこの雲の上には欠けた太陽があると思うとわくわくしました。

携帯をみると、主人からの着信がありました。主人から電話がかかってくるなんて、珍しいことです。礼拝の間サイレントにしていたので気づきませんでした。着信時間は11:09になっています。また交通事故にあったのではないかと心配で、こちらからからかけましたが、何度かけても出てきません。主人はメールはしないので連絡がとれません。

気をもみながら家に帰ると、娘が昼休みで仕事場から家に戻ってきていました。
「お父さんから携帯に電話あったんだけど、連絡がつかないから心配で・・」と言うと、
「きっと間違えてかけたんだよ。前にもそういうことあったじゃん」
と言われて納得し、それからは心配しませんでした。

夜、主人が帰って来てから尋ねると
「日食が見えたんだよ。だから知らせたのに・・・」
「えーっ!!」
「会社で、みんなで外に出てずっと空をながめていたら、雲の切れ目から三日月型の太陽が見えたんだ」
と言うのです。主人の会社はつくば市なので、土浦市からでは見えたかどうかわかりませんが・・・。

「日食グラスもないのに・・・」と言うと
「雲がかかっていたから、大丈夫なんだよ」との返事。(ホントに大丈夫だったのでしょうか?)
それにしても、仕事を中断して皆で見ていたなんて・・・。

主人は、わたしが日食グラスを買ったと言ったらバカにしていたのです・・・わざわざ教えてくれたことが嬉しかったです。

夜、テレビで日食の映像を堪能しました。

 
以前NHKで放送された「ガリレオもびっくり!ハイビジョン宇宙館」を見て心打たれました。

地球は生物が生きられるのに適していますが、そのことがいかに奇跡的なのか教えられました。太陽からほどよい距離で、水があり、空気の層があり、放射能や色々な悪いものから守られている星は地球以外見当たりません。
重力の大きい木星があるおかげで、隕石の墜落から守られていることも知って驚きました。神様が天地を創造されたことを信じていない人は、偶然と言うでしょう。でも、宇宙の神秘を思うと、偶然とはいえないのでは・・・?

神様は、緻密に計算し、宇宙を、地球を、そして人間を造られたのだと、わたしは思います。なんてすばらしい創造の業なのでしょう。
宇宙の果てはどうなっているのか? 宇宙の外側には何があるのか? 昨日はそんなことを考えながら過ごしました。

 
明日から1泊2日で教会の夏期学校があります。低学年だけで子ども27人、教師20人の参加です。
体力のないわたしですから、神様に必要な力を与えてくださいと祈っています。
天地を造られた神様は、地球のようにわたしを守ってくださるでしょう。
コメント

すご坂

2009-07-21 12:35:41 | エッセイ
 
一昨日から息子一家が泊まりに来て、連休後半、我が家はヒックン旋風が吹き荒れました。

24日、25日はCS夏期学校があり、その準備で大忙しです。
8月初めまでに提出しなければならない長編小説の原稿がまだ仕上がらなくてあせっています。
ブログに色々書きたいことがあるのですが、今日は先月のJCPの小さな集いで発表したエッセイを掲載します。


すご坂

 
父の転勤で東京から神戸に引っ越したのは、中学一年の夏休みだった。山を切り開いて作られた住宅地に新しい家があった。二階の窓から瀬戸内海がみえた。私は、すいこまれるような青い海に感動し、「わーっ、海だ!」と妹とはしゃいだ。
家の横の坂道は急勾配だった。妹と私は、すごい坂なので『すご坂』と呼んだ。坂道には丸いタコの吸盤のような車の滑り止めがついていた。

すご坂の下に病院があった。「ずっと病院にいかなくてすめばいいね」と言ったのは母。転地療法ということもあるから、神戸で喘息が治るのではないかと家族のみんなが期待していた。だが、引っ越して一か月もたたないうちに病院通いすることになった。

喘息の発作時に坂を登るのがどれだけ大変か思い知らされた。私は何で坂の上の家を借りたのだろうと両親を恨んだ。

秋の夜、ひどい発作が起きて母に病院に連れていってもらった。注射で発作が鎮まり、帰りに坂を登るとまた発作が起きてしまった。とても登れない。母は中学生の私を背負うことができなかった。母は、父を呼びに街灯もない真っ暗な坂道をひとり駆け上って行った。

『どうしてこんなに苦しい目にあうの? このまま喘息が治らないのなら、死んだ方がまし!』私は道路にうずくまってつぶやいた。ポタポタと涙が坂道にしみこんだ。
道路脇には堰があり、山からの水が音を立てて流れていた。堰の向こうは熊笹が茂り、風がふくとザワザワと揺れた。恐ろしい獣が潜んでいるような気がして私は心底恐ろしくなった。空を見上げると星が光っていた。「神さま、助けて!」と心の中で叫んだ。

じっとしていられず、私は丸い滑り止めの上に手を乗せて四つん這いになって坂道を登ろうとした。苦しくてほとんど進めなかったが……。

間もなく両親が駆けつけ、私は父に背負われて無事家に戻った。その後、漢方薬で癒され、大きな発作は起こらなくなった。

それから30数年後、私は久しぶりに『すご坂』に行った。堰にはコンクリートのふたがかぶせられ、坂の脇にはしゃれた家が建ち並び、すっかり様子が変わっていた。
 
 坂道はコンクリートが重ねて塗られていた。道の端を見ると、数個の丸い滑り止めが残っていた。私は思わずかかんで滑り止めの上を指でなぞった。私の涙がしみこんだ場所だ。

 神様の存在を知らなかったが、あのときの叫び声は確かに神様に届いていたのだ。

 ずっと登ることしか考えていなかった。努力して人より上になろうと思っていたときは、苦しかった。でも、クリスチャンの成長は下っていくものだと聞いて価値観が変わった。

 もしあのとき、茂みの中から恐ろしい獣が出てきたとしたら、坂を下っていけば逃げることができたのだ。
 坂の一番下まで降りたとき、神様が背負って、てっぺんまで連れて行って下さるのだ。父に背負われて家に無事にたどり着いたように。
コメント (2)

孤独を感じている人へ

2009-07-18 08:02:24 | エッセイ
 
昨日はOさん宅での家庭集会に出かけ、午後からは病院でした。先月受けた腹部エコー、レントゲン等の検査結果が出ましたが、異常なしでした。術後5年半、守られています。感謝です。

 
「ひとりぼっちだなあ」「さみしいなあ」「孤独だなあ」と感じること、ありませんか?

わたしが人生の最初に孤独を味わったのは、幼稚園に入ったときでした。母親と離れるのが辛くて細い糸で自分の指と母の指を結んでいたいと思っていました。

とことん孤独を味わったのは中学2年の時でした。ひとりも友達がいなくて、朝学校へ行って帰るまで一言も言葉を発しないことがしばしばありました。休み時間、ひとりでいることを知られたくなくて、ただ校舎のまわりを歩いたり、図書室で本を探すふりをしたり、トイレにゆっくり入って時間を潰していました。

本当は、さびしくてたまらず、友達がほしい、声をかけてほしいと思っていたのですが、まわりからは、ひとりが好きなのだと誤解されていたようです。

そんな経験のない人でも、都会の雑踏の中でふと孤独を感じること、ありませんか?

また、大勢の友達にかこまれ、楽しくおしゃべりしている最中にふと孤独を感じることはないでしょうか。

イルカの歌で「しあわせ」という曲があります。77年に出たアルバム「植物誌」の中に入っている曲です。(CDでなく、レコードです)20代のころ、わたしは毎日口ずさんでいました。


とっても楽しそうな 笑い声は悲しいね
なんだか 孤独にさせるよね
もし毎日が 楽しいだけの日々ならば
友だちなんて出来ないかもしれない 

という歌詞に共感していたのです。

愛する人がそばにいれば、孤独を感じないだろうと思っていました。確かに恋愛をしていて、好きな人と一緒にいる時は孤独を忘れています。
でもそれは、孤独でなくなったのではなく、一時的に孤独なことを忘れているだけなのです。

自分の思いを100%理解してくれる人はいなく、どんなに親しい人でも自分とは違うのだなあと感じたとき、孤独を感じます。
人間はもともと孤独な存在なのです。

わたしは、結婚してからの方が孤独を強く感じました。

 「孤独が怖ければ結婚するな」
というチェーホフの言葉がありますね。

孤独について三浦綾子さんは
 「孤独は単に淋しいなどというものではない。もっと深くすべてのものを拒絶する姿だ。人は孤独を凝視しつつ何かを求めねばならない」(「孤独のとなり」より)
と書いています。

孤独を凝視できずに、一時的に孤独を忘れさせるものを求めてさまよっている人が多くいます。本当の解決は、恐れずに孤独をみつめることから始まります。

人はみな神様によって造られました。神様はご自分の所へ帰ってきてほしいと思われて心に空洞を造られました。その空洞が埋まらない限り、人は孤独を感じるのです。

空洞を埋めるのは何でしょうか?それはイエス・キリストです。
孤独のとなりにはイエス様がおられるのです。

聖書の言葉
 
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。(イザヤ49:15)」
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。(ヨハネ14:18)」
コメント (6)

梅雨明けて・・・

2009-07-16 11:15:45 | 日記

梅雨が明けて急に暑くなりました。暑さにやられ、電車のクーラーで風邪をひいたこともあって、昨日は一日ダウンしていました。急に暑くなるとき、毎年体調を崩します。

13日、14日は娘と一緒に三鷹の実家に行って、草取りや掃除の手伝いをしてきました。草取りって、重労働ですね。
先月も実家に帰ったとき草取りをしたのですが、1か月もたたないうちにもう延びてきています。我が家はマンションなので草取りをする必要がないので助かっていますが・・・。

一昨日は朝早く起きて、母と娘と3人で2時間ほど草取りをしました。狭い庭なのですが、通路とあわせるとかなりの草が生えていました。
実家はわたしが生まれ育った家です。実家の庭にはなつかしい思い出が詰まっています。今はもうありませんが、大きないちじくの木があって、実がなると屋根に上ってとったこと。
いちじくの枝にロープをかけて父がブランコを作ってくれたこと。ゴザを敷いて近所の友達とままごとで遊んだことなど・・・。

あと2年ぐらいで母はこの家を売って老人ホームに入ると言っています。この庭も家もなくなってしまうのです。

いま、母と草取りしていることが懐かしく思える時がくるのだなあと、しんみりとした気持になりました。

それにしても、母の元気なのには驚きます。2時間草取りをしても疲れた様子がありません。わたしよりよほど体力があります。一か月に一度は友人と旅行に行き、毎週体操教室やコーラスなど楽しんでいます。

友人がたくさんいて、月に2.3回は妹が訪れるので、ひとり暮らしでもさみしいことはないと思っていました。

ところが、帰りがけに「毎月きてちょうだいね。さみしいから」とぽつんと言ったのではっとしました。母もさみしいのです。

次回は孤独について書きます。
コメント

真実の愛とは・・・(その2)

2009-07-12 16:50:19 | エッセイ
 
アガペーの愛は無償の愛です。

三浦綾子の小説「塩狩峠」をご存じでしょうか。これは実際にあった出来事をもとに書かれた小説です。

明治42年2月、列車が塩狩峠にさしかかったとき、列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめました。ブレーキはなく、このまま止まらないと脱線して大惨事になってしまいます。その列車に乗り合わせていた鉄道職員永野さんは、自らが列車を止めるために身を投げ出して命を捨てました。

永野さんは若く、婚約者もいて未来の希望に満ちていました。それなのに自分の人生を他者のために捨てたのです。それは、永野さんがキリストを信じ、心の中がイエス様がしてくださったことへの感謝でいっぱいだったからできたのでしょう。


イエス様がしてくださったことというのは、このブログで繰り返し書いていますが、わたしたちの身代わりになって死んで下さったことです。
罪のあるわたしたちです。その罪を持ったままでは、滅びの道をまっしぐらに歩むしかないのです。

「罪を犯した覚えはない」「キリスト教は、罪、罪というからいやだ」「心の欲するまま、あるがままに生きていて何が悪いんだ!」
と思う方もおられるでしょう。

心の欲するままに生きた結果どうなりましたか? わたしは心の欲するまま生きていたとき、人の心を傷つけ、自分を傷つけ、心の中はむなしさでいっぱいでした。ものすごく自己中心で、自分さえよければ・・・という考えで生きていました。
それが罪なのです。

ひとつひとつの罪が消えずにそのまま積まれていったら、やがてそれに押しつぶされてしまったでしょう。でも、神様はその罪を赦し、帳消しにしてくださいました。

 
「わたしは、彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さないからである。(へブル8:12)」


赦すためには、犠牲が必要でした。それで神様は罪のないご自分のひとり子イエスを十字架につけて全人類の罪に対する罰を与えたのです。
それなので、キリストを信じる者は、無条件で罪赦され、永遠の命をいただくことができるのです。

 
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)」


これこそ、真実の愛です。神様の愛は永遠に変わることがありません。決して裏切りません。
真実の愛は、あなたが生まれる前から、すでに備えられていたのです。


                おわり

コメント (4)

真実の愛とは・・・(その1)

2009-07-11 17:27:42 | エッセイ
 
何のドラマだったか忘れましたが、
 「真実の愛はないのか! 真実の愛はどこにあるんだ!」
と、愛に傷ついた男性が泣き叫んでいる場面を見て、涙が止まらなくなりました。

その人は、純粋に真実の愛を求めたのに得られなくて絶望しているのです。
そのドラマは、真実の愛などというのは、きれいごとにすぎない。人はみな自分が第一なのだから、真実の愛なんて存在しないのだという結論を示していました。

 
真実の愛とは何でしょう?
真実の愛は存在するのでしょうか?


愛というとほとんどの人が男女の愛を連想します。小学生に愛について尋ねると、「愛ってラブラブのことでしょ」と言います。
 
愛には4種類あることをご存じですか?
1つ目は エーロス(恋愛・夫婦愛)です。

今ちょうどユーゴーの「レ・ミゼラブル」(岩波文庫)を読んでいますが、マリユスがコゼットをに出会って恋に落ちる場面を読んで、心ときめかせています。恋をするとその人のことで頭がいっぱいになり、四六時中その人のことを考えるようになます。

ところが、その人に裏切られたとき、愛は憎しみに変わることがしばしばあります。

永遠に変わらぬ愛ではなく、簡単に憎しみに変わってしまうような愛は真実の愛とはいえませんね。

2つ目は ストルゲー(情愛、肉親愛)……これは親子、兄弟姉妹などの血縁の極めて近い者に対する愛です。

たいていの親は自分の子どもを愛します。生まれたばかりの赤ちゃんは、母親の愛に満ちた表情、言葉がけを受け取って成長します。何の愛情もなく赤ちゃんと目も合わせないでミルクだけ与えた場合、精神的だけでなく身体的発育が遅れてしまうそうです。

3つ目は フィリア(友愛、朋友愛)……これは自分の好みに合い、自分と共通な場を持つ者に対する愛です。 「走れメロス」は美しい友愛を描いていますね。

4つ目は アガペー(聖愛、神的愛)……これは神様の愛です。
アガペーの愛、これこそが真実の愛です。

エロースとストルゲーとフィリアという3つの愛は人間的な愛です。その相手が「自分にとって価値がある」と判断して愛するものです。

これに対してアガペーは、神様が 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)と言われ、また 「キリストが代わりに死んでくださったほど」(ローマ人への手紙14:15)と言われたように、 「相手に価値がある」と判断して愛するものです。

            つづく


*日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。

*先日までJCPのHPに掲載されていたわたしのエッセイは、「生かされて・・・土筆文香」エッセイの部屋に掲載しています。

コメント (2)

何のためにうまれたの?

2009-07-09 11:50:26 | エッセイ

一昨日「むなしさの中にいるあなたへ」と題して書いたら、ブログ村から220ものアクセスがあったので驚きました。むなしさを感じている方がそれだけ多いということでしょうか……。今日は、その続きを書かなければという迫りを感じて書きました。


♪何のためにうまれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのはいやだ!


アンパンマンのマーチにこのような歌詞があります。
「何のためにうまれて 何をして生きるのか?」
はっきりと答えられる人の方が少ないような気がします。クリスチャンである作者、やなせたかしさんは、その答えを知っておられるからこそ、このような歌詞を書かれたのだと思います。

人は神様によって造られた存在だということを前回書きました。
精子と卵子の結合によって生命が誕生するのですが、それはとても神秘的で、どんなに科学が発達しても人間の思い通りに人を創造することはできませんね。

自分は偶然生まれたんだと考える人がいるかもしれませんが、それは偶然ではなく必然なのです。なぜなら、生命の誕生の背後に神様がおられるからです。

神様はあなたが生まれる前からあなたの誕生を計画されていました。そして、目的を持ってあなたを形造られ、誕生させたのです。

聖書には「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ書43:7)」と書かれています。

人が物を作るとき、目的を持って作りますね。その物が目的通りに使われたとき、作った人も作られた物も喜びを味わいます。

それでは、自分の目的とは何なのでしょう?

わたしは以前教会で「人は何のために生きるのですか?」と質問されたとき、答えられませんでした。

正解は、『神様の栄光を現わすため』でした。そのことを知ったとき、それまで自分や家族のためにだけ生きていたことに気づきました。でも、それは間違っていたと思ったのです。

神様の栄光を現わす生き方、神様の目的にかなった生き方とはどういう生き方なのでしょう? 

人それぞれ違うので、自分で答えを見つけなければなりませんが、わたしの場合、その答えはなかなかみつかりませんでした。

祈り求めていくうちに、童話や小説を書いて神様の愛を伝える者になりたいという思いが与えられました。でも、それが目的にかなった生き方だと確信したのは40歳過ぎてからでした。

K子さんは、電話相談員になって自殺願望のある人に『決して死んではいけない』というメッセージを伝えたいという志を抱かれました。K子さんは、以前辛いことがたくさんあって、自殺したいと思っていました。キリストに出会い救われてから、どんなことが起こっても死んではいけないというメッセージを人々に伝えたいと思うようになったのです。
K子さんは目的にかなった生き方を見つけたのですね。

よく、神社にお参りにいく人たちは、たいてい家内安全、商売繁盛、無病息災といって、自分の家庭の安全、自分の家の繁栄、健康を祈ります。自分と自分の家族が幸せになることを願います。
そのこと自体は悪いことではありませんが、自分の幸せを願うことが第一になると、人のことはどうでもよくなってしまいます。

生きる目的がお金や地位や名誉になってしまうと、結局はむなしくなります。人を蹴落としてまで自分の栄誉を求め、人の幸せをうらやみ、人の不幸を喜ぶような生き方になってしまいます。そのような生き方を神様は喜ばれません。

イエス様がわたしのために十字架にかかってくださったことを思うと、自分中心の生き方ではなく、神様中心の生き方がしたいという願いが沸き上がってきます。神様が喜ばれる生き方を真剣に祈り求めるなら、何をしたらよいか神様が示して下さいます。


人は自分の生きる意味を知って生きるために造られたのです。そして、これは神につながることによって、初めて可能になります。
コメント (4)

むなしさの中にいるあなたへ

2009-07-07 12:05:58 | エッセイ

日曜日にいのちと性の講演会がありました。思春期にある子どもたちの現状を聞いて驚きました。情報が氾濫している中で、子どもたちは混乱し、何が正しいのかわからなくなっています。快楽を追求した結果、性病に感染したり、妊娠し、産みたいと願うのに中絶を余儀なくされたりして、生きる気力を失っていきます。
真面目な気持で「人は何のために生きるのだろう?」と考えるのに、その答えを教えてくれる人がいないのです。

生まれてきてよかったと思う子どもは、小学生では75%もいるのに、中学生、高校生になるとぐっと減ってきます。
自己価値が低いのにも驚きました。自分のことが好きだと答えた子どもは30%しかいなかったそうです。

「どうせ」という言葉をよく耳にします。「どうせ、ぼくなんか」「どうせ、わたしなんか」と言い、「どうせ、がんばったってしょうがない」と無気力になっていくのは何故なのでしょう……。

わたしも中学生のころは「どうせ、わたしなんていなくてもいいんだ」と思っていました。何のために生まれてきたのか。何のために生きるのか。その答えを求めて魂はさまよっていました。

その答えがわかったのはずっと後でした。でも、答えはあるのです。

旧約聖書のイザヤ書 44:2には、「 あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主」と書かれています。


あなは、偶然生まれてきたのではなく、神様によって造られたこと。

神様は目的を持ってひとりひとりを違う個性をもった者として造られたこと。

神様は創造物であるあなたを測り知れないほど深く愛し、高価なものとして大切に思ってくださること。


 このことをむなしさの中にいる人たちに伝えたいです。
コメント (4)

ポンポコ子どもクラブ

2009-07-04 21:56:51 | CS(子供伝道)

今日は今年度新しく始まった子ども家庭集会に行ってきました。名前は『ポンポコ子どもクラブ』です今まで一年間行ってきた『きらりんクラブ』と並行して行われます。奉仕者が4人なので2人ずつに分かれて担当することになりました。

わたしは、親子ほど年の違う実習神学生と共にでかけました。
初めてなので緊張しましたが7人の子どもたちと母さん、おばあちゃんも集まって、賛美し、楽しくゲームをしました。

ブログでも紹介した創作童話「チャメとグレイ」を娘に頼んで絵を描いてもらい、紙芝居にしてお話ししました。
20分近くかかる長い話だったのですが、子どもたちは静かに聴いていました。一緒に聴いていたお母さんの一人が感激して泣きだしてしまったのには驚きました。

自分の書いた作品の反応をじかに感じることができて嬉しかったです。

紙芝居の後、聖書の言葉「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」を一年生にもわかる言葉で説明し、お祈りしました。

以前我が家で行っていた子ども家庭集会の時使っていたスケッチブックを持って行きました。それはM先生が賛美の歌詞を書いたものです。あれから12年もたったとは……。

不思議なことにそのとき来てくれた子どもの年の離れた妹が、今回参加してくれました。

次のポンポコ子どもクラブが楽しみです。
コメント (2)

ナホム書を読んで

2009-07-03 21:43:57 | 聖書から

先日も書きましたが、ナホムは「慰め」という意味だそうです。
それなのに冒頭にはいきなり「主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。(1:1)」と書かれていて、びっくりします。
北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤの首都ニネベに対する宣告です。

ヨナがニネベに宣教に出かけた結果、ニネベの人たちは悔い改めました。そのため、神様はニネベを滅ぼすことを思い直されました。そのことでヨナが不満に思い、神様に文句を言います。神様はとうごまの木を用いてヨナを諭しました。そのことがヨナ書に書かれています。

その後、ニネベの人たちは再び悪を行うようになり、ヨナのできごとから150年後にナホムによって滅亡の預言がされます。

そのことはイスラエルにとって慰めになりました。北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ。悪をなしている国がなぜいつまでも栄えているのだろうという疑問を人々は抱いていました。しかし、ついにアッシリヤが滅ぼされるときがきたのです。

復讐する神とはどういうことなのでしょう……。
神様は義なる(正しい)お方ですから、悪をそのままにしておくことができません。悪を罰しなければなりません。

でも、「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。(ナホム1:7)」と書かれているように、神様は厳しいお方であると同時に愛に満ちたいつくしみ深いお方です。

神様は人間の罪をそのままにしておくことができません。
「罪からくる報酬は死です(ローマ6:23)」と書かれているように罪を犯したら死をもって償わなければなりません。

でも、神様は愛する人間に罰を与えたくないと思われて、その怒りをご自身のひとり子イエス・キリストの上に置かれました。イエス様は、わたしたちの身代りに十字架にかかって罰を受けて下さったのです。だからこそ、わたしたちはキリストを信じるだけで罪赦され、神様の審判から免れるのです。

わたし自身を省みると、ニネベのように罪深い者です。滅ぼされて当然の者です。
わたしのしてきた様々な罪、意識しているもの、無意識のものもすべてを並べたら、どれだけたくさんになるでしょう。目を開けて見ることもできないでしょう。

その罪をキリストによって帳消しにされたのですから感謝です。
十字架の出来事以前の旧約聖書を読むと、キリストのしてくださったことのありがたさが益々大きく感じられます。


コメント

日付のメモ書きを見て

2009-07-01 17:05:39 | 聖書から

わたしの聖書には何箇所か日付のメモ書きが記されています。特別感銘を受けたみ言葉があると、そこに年月日を書いているのです。

旧約聖書のミカ書を読んでいたら「私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主がわたしの光であるからだ(ミカ7:8)」のところに03.11.30とメモ書きがしてありました。

その日付をみて、ジーンときました。その日は乳癌の手術を受けるため入院する前日だったからです。

病に倒れ、やみの中にただひとりすわっているような状況でこの箇所を読んだので心打たれたのです。くらやみの中に光りが差し込んでくるようでした。
イエス様から『光であるわたしがついているから大丈夫だよ』と言われたような気がして平安をいただきました。

続けてナホム書を読むと「わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。(ナホム1:12)」のところに03.12.24と書かれています。

その日は、退院した翌日です。
ミカ書7章の次はナホム書なので、病院に聖書を持っては行きましたが、入院中はいつものように順番に1章ずつ読んではいなかったようです。

「再びあなたを苦しめない」という言葉が、再発転移を恐れているわたしをどれだけ強めてくれたでしょうか。

ナホムは「慰め」という意味だそうです。

今、OBIでミカ書、ナホム書を学んでいて思わぬメモ書きを発見し、神様はそのときどきにかなったみ言葉を与えて下さるのだなあと改めて感謝しました。

コメント (8)

拍手ボタンです

web拍手

カレンダー

2009年7月
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

バックナンバー

ブックマーク

生かされて・・・土筆文香
土筆文香のHPです
土筆文香の本「リピート・シンドローム」
若者のリストカット、ドラッグ、摂食障害の問題を扱った小説
日本クリスチャン・ペンクラブ
「文は信なり」をモットーに古今のキリスト教文学やあかしの文章を読み、学び、書き、本にし、広げてゆく団体です。
カリス
「生かされて」から、神様の恵みが書かれている記事を転載していきます。
希望の風
kibounokazeさんのブログです
聖書の緑風
希望の風さんのもうひとつのブログです。聖書から教えられたこと、感じたことがわかりやすい文章で綴られています。
メメントドミニ
優子さんのすてきなブログです。
土の器(この土台の上に)
クリスチャンシンガーちゃきさんの新しいブログです
金子ゆか・花ブログ
花の写真が奇麗な知人のブログです
土浦めぐみ教会
わたしの通っている教会です
地球の番小屋
児童文学者本木洋子さんのHPです
お茶の水聖書学院
五つのパン
祈りと賛美の会社のブログです。
ふくいんのなみ
キリスト改革派教会によるテレビ・ラジオ番組
シニアタイム
介護情報誌です
PBA太平洋放送協会「ライフ・ライン」
キリスト教番組を制作・放送している超教派の伝道団体のHPです。
いのちのことば社オンラインショップ
キリスト教書店のオンラインショップです
  • RSS1.0 RSS2.0