生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

親鸞とパウロ

2010-03-30 21:28:55 | 日記

実家の法事でお坊さんの講和を聞いたとき、教会で牧師先生のメッセージを聞いているような気がしました。

実家は浄土真宗。親鸞の教えなので、キリスト教と共通点があるのでしょう。親鸞は、キリスト教に近い考え方をしています。

親鸞は「私はいろいろやってみたが、自分の力では、どうしても悪い心から完全には離れられないとわかった。だから、ナムアミダブツと唱えることでしか、私は救われないと悟った。人は、善行では救われないとわかった。」と書いています。

それは聖書のローマ人への手紙(パウロの書簡)と類似しています。「なぜなら、律法を行うことによっては、誰ひとり神の前に義と認められないからです。(ローマ3:20)」「義人は信仰によって生きる(ローマ1:17)」

親鸞は阿弥陀による救いを解き、パウロはキリストによる救いを語ります。

阿弥陀如来は四十八願をかけて厳しい修行をされた末、悟りを開いて如来になられた仏だそうです。

一方、キリストは神のひとり子で、わたしたちの罪を赦すため、わたしたちの身代わりになって十字架の上で死んでくださったのです。

人類を愛するあまり、命まで差し出してくださった方がキリストのほかにいるでしょうか?

キリストのない救いには罪の解決がありません。

親鸞がもしキリストを知っていたら、クリスチャンになったのではないかと言う人がいるほど求道的でした。

親鸞がここまで到達していてキリストに出会わなかったのは、残念です。

仏教を信じる人たちがキリストの圧倒的な愛を知ることができますように。

選択

2010-03-28 21:11:23 | 日記

昨日は、体が3つあったらいいのに……と、欲張りなことを考えていました。
教会の結婚式と日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会。そして主人の実家の法事が重なったのです。

結婚式は、CSで受け持ったこともあり、一緒にCS奉仕をしたこともあるMさんと、やはり一緒にCS奉仕したNくんとの結婚式でした。
JCPの例会は、欠かさず出席したいという思いがありました。
主人の実家では、法事が行われました。

実家の法事は、主人の祖母の33回忌です。33年前はまだ結婚していませんから、わたしは主人の祖母と会ったことがありません。関東に住む親戚10人集まりますが、皆主人の祖母と血のつながった者たちで、従兄妹や義弟の伴侶は誰も出席しません。

主人だけ出席してもよいのです。義父母もわたしには必ず来てくださいとは言いませんでした。主人も強制はしませんでした。でも、義母はわたしに来てほしいと思っているようで、その思いが電話を通して伝わってきました。

わたしは、法事に出ることに決めました。
以前は、仏事に出席することを喜べなかったのですが、義父母が仏教を信じていることを尊重したいという気持ちと、少しでもお手伝いができれば・・・という思いが強まってきたので、今回は前向きな気持ちで出席できました。

義父が歩くのが大変なので、お坊さんに来てもらい、料理は仕出しをとることになりました。仕出し料理店が実家の近くになかったので、インターネットで調べてわたしが注文しました。

親戚の方々とスムーズに会話ができるかしら・・・仕出し弁当は時間どおりに届くかしら・・・電車が遅れて11時までに着かなかったらどうしよう(主人の実家へは我が家から3時間かかります)・・・と色々心配があったので、朝早く起きて祈ってから出かけました。

主に守られてすべてが順調にいき、食事しながら会話もはずみ、和やかなひとときを過ごしました。
主人の叔父叔母や従兄妹たちに会うのは10年ぶりぐらいでしたが、温かい言葉をかけていただいたのですぐに打ち解けて話に花が咲きました。

帰るときに、義母が言ってくれた言葉にわたしはびっくりしました。
「文香さん、今日は来てくれてありがとう。今度土浦に行った時は、教会へ行ってお参りするからね」

わたしは耳を疑いました。 今までわたしが義母を教会へ誘うようなことを言うと、「仏教を離れちゃだめだとご先祖さまから言われているからね」と拒否していたのに・・・・・・。

なんと嬉しいことでしょう! 法事に出席してよかったと思いました。


真実とは

2010-03-25 11:15:24 | 聖書から

わたしは昔から「真実」という言葉が好きです。高校1年の時、山本有三の「真実一路」を読んで感想文を書き、賞をいただいたことがありました。何と書いたか覚えていませんが、本を選んだ理由は、好きな言葉の「真実」がタイトルに入っていたからでしょう。

そのころのわたしは、自分は真実に生きていると思っていました。自分は真実に生きているのに真実でないまわりの人たちからひどい目にあわされてきたという被害妄想を抱いていました。

しかし、自分はどうなのかというと、嘘はつく、いい子に見せようとふるまう。卑怯なこともすれば、人を裏切ったこともあるのです。

そんな自分を棚に上げて、真実でない人が、正しく生きているわたしを傷つけている。デリケートで傷つきやすいわたしなのに……と、自分ほど可哀そうな人間はいないのだと、だれかに訴えたい気持ちでした。

自分は真実でない人間だと気づいたのは、三浦綾子の小説を読んだ時(22歳)でしたが、それまでは自分の非に全く気付かなかったのです。
自分が真実ではない者だと自覚した時、人を責めることができなくなりました。

それでは、「真実」とはどういうことなのでしょう?

聖書には真実ということばが新約聖書だけで68回も出てきます。
その中で1コリント10:13に書かれている言葉がわたしは一番好きです。

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」


わたしは、この言葉が本当であったことを何度も体験しています。まさに、神は真実なお方なのです。

「主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である(申命記32:4)」とあるように、真実というのは、正しくて、決して裏切らない、嘘をつかない、そして悪意がないことです。

わたしは真実に生きたいと願っています。でも、できないのです。ですから、真実に生きられるようにしてくださいと祈っています。

土浦に植えられて

2010-03-23 16:54:31 | 日記

昨日はヒックンが来て、イチゴ狩りとフラワーパークに行ってきました。
あらかじめインターネットでイチゴ狩りのできるところを調べていました。
ところが、予約を入れてなかったので、調べていた2か所とも満員で入れませんでした。

「フラワーパークの近くにイチゴ狩りできるところがあったんじゃないか」
主人に言われて、子どもたちが小さかった時、イチゴ狩りに行ったときのことを思い出しました。
「でも、あれから20年もたっているのよ。まだあるのかしら?」
「とにかく行って見よう」

行くと、ビニールハウスが見えてきました。土浦に越してきたばかりのころ訪れた場所です。息子7歳、娘は4歳でした。

そのとき娘はイチゴを食べすぎて気持ち悪くなり、それからイチゴが嫌いになってしまったのです。(いまだにイチゴ嫌いです)
店で尋ねるとイチゴ狩りできるというので、大喜びでハウスに入りました。HPで紹介されてないせいか、すいていてよかったです。

ところがヒックンはイチゴをなめるだけで食べません。
「イチゴ、きらいなんです」とヒックンママ。イチゴ嫌いは叔母さんからの遺伝?

ヒックンはひとつも口に入れないで、イチゴを眺めながらハウスの中を楽しそうに歩きまわっていました。

それにしてもあのとき、20年後に孫を連れてくることになると誰が想像したでしょうか?
不思議な気持ちがしました。


土浦に越してきて20年になりますが、あのころはとてもつらい時期でした。新しい土地に慣れなくて、教会にもなじめなくて、以前住んでいた久喜(埼玉県)がなつかしく、振り返ってばかりいました。
久喜の友人に久喜に戻りたいというようなことを手紙に書いて出すと、「置かれたところで咲く」という詩を紹介して下さいました。
 

「置かれたところで咲く」

 神が置いてくださったところで咲きなさい。
 しかたがないと諦めてでなく
 「咲く」のです。
 「咲く」ということは
 自分が幸せに生き
 他人も幸せにするということです。

 「咲く」ということは
 周囲の人々に あなたの笑顔が
 私は幸せなのだということを
 示して生きるということなのです。
  “神が私をここに置いてくださった
   それはすばらしいことであり
   ありがたいことだ”
 あなたのすべてが
 語っていることなのです。

 「咲く」ということは
 他の人の求めに喜んで応じ
 自分にとって ありがたくない人にも
 決していやな顔 退屈気な態度を
 見せないで生きるということなのです。


先日の礼拝では「植え替えられる」という言葉が語られました。キリストを信じたとき、神の国の国民として神様に植え替えられたのです。神様から選ばれて送り出されてこの場所にいるのです。
なぜ選ばれたか理由はわからなくても、神様の計画と考えの中に置かれていること覚えるように。新しい視点にたつことが大切です。というメッセージを聞きました。


わたしは、土浦に植えられて20年たちました。いつかはこの地を離れますが、今この地でせいいっぱい咲かせていただきたいです。               



つくし

2010-03-18 17:00:51 | 

毎年つくしを見かけるのは、教会へ行く道、桜川にかかる橋へ向かう坂道です。
3月に入ってから、つくしを探しながら自転車を押して坂を上っていました。

今年最初に見つけたのは、3/14の日曜日です。
つくしは、いっぺんに顔を出すのでしょうか。数日前は一本も見当たらなかったのに、たくさん出ていました。

乳癌になってから、術後の年数を数えるようになりました。ようやく5年の坂を越え、気が付いたら7年目になっていました。こんなに生きられるとは思わなかったので、今年もつくしに会えたことがとても嬉しいです。

つくし

教会へ行く土手の坂道
春になると いつもそこにお前がいた
ずっと待っていたんだ
やっと出てきてくれたんだね 
今年も会えてよかった
手術から7回目の春

美しい色の花びらや
人の目を惹くものは何もないけど
そんなこと気にせずに
天に向かってまっすぐと
ひたすら伸びていく
わたしはお前を見習いたい

究極の問題

2010-03-16 12:19:23 | CS(子供伝道)
教会学校の小学3年生クラスで今月末に引っ越すAくんのお別れ会をしました。
そのときのAくんとBちゃんと教師の会話を紹介します。


Aくん「今度土浦にくるときは、120歳まで生きられる薬を持ってきてみんなにプレゼントするよ」
Bちゃん「そんなのいらない。120歳まで生きたら、友達や知ってる人がみんな死んじゃってさみしいじゃないの。わたしは70歳まで生きられればじゅうぶんよ」
Aくん「でも、……ぼくは死ぬのがこわいんだ」
Bちゃん「こわくないでしょ。イエス様に会えるんだから」
教師「Bちゃんの言う通りよ。イエス様が天国でわたしたちの住むところを用意して下っているのだから」
Aくん「そうか。死ぬのはこわくないんだね!」


ふたりとも小学生とは思えないほど、しっかりとした考えを持っています。
Aくんは、科学的に人間は120歳まで生きることが可能であると知っているのです。120歳まで長生きできたら幸せだと考えています。9歳の子どもにとって120歳とは、とほうもない先のことに感じるのでしょうね。

Bちゃんの曾祖父と曾祖母は、100歳近くで召されています。Bちゃんは曾祖父母がイエス様を信じて安らかに天国へ旅立ったのを知っています。
だから、Bちゃんにとって死は決して怖いものではありません。


人間にとって、究極の問題は「死」ではないでしょうか。
「死」の問題を解決してくださるお方がいるのです。

はからずも礼拝ではⅠコリント15:23-28より「イエス・キリストが最終(いやはて)の敵、死を滅ぼした」というメッセージが語られました。


初めがあれば終わりがあります。歴史は必ず終末のときを迎えます。
終末のときには、キリストがいっさいのものを支配します。
詩篇8:6には「万物を彼の足の下に置かれました」と書かれています。
彼とはキリストのことです。
つまり死を含むすべての物は、キリストの支配下に置かれたということです。


見よ、その日が来る。
かまどのように燃えながら。
その日、すべて高ぶる者、
すべて悪を行う者は、わらとなる。
来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、
根も枝も残さない。
―万軍の主は仰せられるー
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、
義の太陽が上り、
その翼にはいやしがある。
あなたがたは外に出て、
牛舎の子牛のようにはね回る。
(マラキ4:1-2)


「キリストの復活は、キリストが死を滅ぼし、歴史が完成するときがくることを示しています。
キリストを信じる者は、その日は恐怖ではなく、希望のときとなります」
というメッセージに胸が熱くなりました。


チャレンジを与えられ・・

2010-03-13 16:25:47 | 聖書から

昨日は我が家での家庭集会でした。
新しい方が来て下さり、仕事が休みだった娘も加わり、新しい風が吹きました。

聖書箇所はマルコ6:30~44。
五つのパンと二匹の魚から5千人もの人が養われた奇跡が書かれているところです。

イエス様と弟子たちは、人々の求めが多くて食事する時間もないほどでした。イエス様は弟子たちを休ませようと船で人気のない対岸へ行きました。ところが人々は、陸路イエス様たちより先にそこに着き、彼らの到着を待ち構えていました。

船より、陸路を歩いて行った人たちの方が早く着くということは、群衆が熱心に求めていることの証拠だと言った方がいて、本当にそうだなあと思いました。


当時、律法学者やパリサイ人たちは、きびしい決まり事を作って、それを守らなければならないと人々に教えていました。多くの人々はそれを守り通すことができなくて、心にむなしさをかかえていました。人々の心には空洞がありました。
空洞をイエス様に満たしていただきたいと思い、求めてやってきたのです。


その群衆を見たイエスさまはどうされたでしょう? イエスさまも弟子たちも疲れていたことでしょう。休みをとろうとして対岸に向かったのに・・・。わたしなら、いやな顔をしてしまうかもしれません。
でも、イエス様は違いました。
「そして、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。(マルコ6:34)」
と聖書に書かれています。

人々を深くあわれまれたイエス様。イエス様の人々を見る愛に満ちた眼差しを思い浮かべました。

「いろいろ教え始められた」と書かれています。いろいろの内容は具体的には書かれていませんが、人々の霊的な飢えや渇きを満たすものだったでしょう。


時が過ぎ、一同は空腹になりました。食べ物を持っている人が少なかったのは、そこに集まってきた人が貧しい人々だったことを意味するそうです。
当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていて重い税を課せられ、人々の生活は苦しかったそうです。そこに集まってきた人たちは社会的に最下層の人たちが多かったようです。
生活の必要さえ事欠いていた人々にイエス様はすばらしい奇跡を起こし、肉体の必要も満たしてくださいました。

イエス様は、実際的な必要をお与えになるお方であり、霊的な飢えを満たすことのできるお方です。

イエス様は弟子たちに「あなたがたであの人たちに何か食べる物をあげなさい」言われます。弟子たちは困ってしまいます。5千人もの人のパンを買ってくるのは大変なことだからです。
イエス様は弟子たちに「パンがどれぐらいありますか。行って見て来なさい」と言われました。

そこにあったのは5つのパンと2匹の魚だけでした。どう考えても5千人に分けることはできません。でも、分けてみたらみんなが満腹でき、さらに12かごのパンきれが残ったといいます。
どのようにパンが増えたかわかりませんが、イエス様はちゃんと必要を満たしてくださったのです。

イエス様はなぜ弟子たちに人々にパンを与えるよう頼んだのでしょう。それは、弟子たちにチャレンジを与えていることを意味するそうです。

イエス様は弟子たちにあるときは「休みなさい」あるときは「働きなさい」とその時々に必要な導きを与えて下さっています。


この学びをして、イエス様はわたしにもチャレンジを与えて下さっているのだと感じました。
わたしのまわりに心の空洞を満たしてもらいたいと思っている誰かがいて、キリストを紹介してほしいと待っているかもしれません。
いつでも誰にでも必要な時にあかしできるように備えていきたいと思いました。

16年かかって・・・

2010-03-11 21:49:47 | 日記

今日は家庭集会の準備やCSのこと、HPの更新など色々やることがあって、忙しい一日でした。

昨日は児童文学の集まりがありました。作品集の2回目の校正をしました。以前は会員が20名近くいて、毎年同人誌を出していました。7年前に解散して、再び集まって数年がたちました。半数以上のメンバーが去っていき、現在メンバーは9人です。

今回、8年ぶりに作品集を出すことになりました。
わたしが出す作品は、「エフラテール」という題のファンタジー児童小説です。

「エフラテール」を最初に書いたのは16年も前になります。子どもたちに神様の愛を伝えようと童話を書き始めたころでした。

原稿用紙20枚ほどの短編でしたが、3回合評にかけ、書き直すこと約30回。書き直すたびに長くなり、200枚を超える長編になってしまいました。

なぜこの作品にこだわるのかというと、「エフラテール」がどんな国なのか考えているうちに楽しくてたまらなくなったのです。

登場人物(正確にいうと人物と動物)に「早く書きあげてよ!」「ぼくたちを発表してよ」とせかされてやっと書き終えました。

ところで、わたしの文章は16年前と比べてどうなのでしょう? 少しは成長しているといいのですが・・・。


*日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。ぜひご覧ください。


だいじょうぶ

2010-03-08 20:52:29 | 日記

土曜日、息子一家が泊まりにきました。
今日は疲れが出て、半日寝ていました。このところ寒暖の差が激しく、そのせいもあって体調が整いません。

数日前、妹のところから宅配便で何十冊もの絵本が送られてきました。姪が読んでいた絵本ですが、そのほとんどは息子や娘たちが小さいころ読んでいたものです。それが今度はヒックンにと戻ってきました。

「こどものとも」シリーズや、「ちいさいおうち」「ひとまねこざる」「ゆきのひのうさこちゃん」など、なつかしい本がたくさんありました。

ヒックンは絵本が大好きです。「はらぺこあおむし」を読むと大喜び。あおむしくんが食べたものに穴があいているので、そこに指をつっこんで「ムシャムシャムシャ」と自分も食べた気になっています。

あおむしくんが、食べ過ぎておなかが痛くなる場面で「いたいよー」と感情をこめて読むと、ヒックンは心配そうな顔をしてあおむしくんをさすり、「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」とたずねていました。

小雨が降っていたのですが、アウトレットまで買い物に出かけると、大喜びで走り回り、追いかけるのに一苦労でした。店頭でバッグのセールをしていると、バッグをみて「あら、かわいいじゃない」とヒックンが言ったので、大笑いしました。ママの口真似でしょう。

 車中でヒックンママとわたしがおしゃべりをしていると、「ふたりとも、うるさーい!」と怒り出しました。自分が話題の中心になっていないとダメみたいです。

昨日は、一緒に教会に行って、ヒックンはママと幼児クラスに出席し、シールを貼ってもらって喜んでいました。


わたしは、「だいじょうぶ」という言葉が大好きです。不安や恐怖が襲ってきたとき、「だいじょうぶ」と自分に言いきかせています。だいじょうぶと言うことによって、平安が与えられます。

だいじょうぶと言える確かさ、根拠があるから安心できるのです。どんなときにも神様が共にいて助けて下さるという確かさです。

聖書の言葉

「強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたのいく所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア記1:9)」


*2009年6月13日にも「だいじょうぶ!」という記事を書いていました。

占いについて

2010-03-05 16:58:29 | 日記

パソコンの調子が悪くてネットにつながりにくくなっています。昨日はネットをつなげようとして2回もフリーズしてしまい、ブログを書く意欲がなくなってしまいました。

今日はようやくつながったと思ったら、「PCの保護が万全ではありません」と警告が出て、修復をクリックしても治らず、途方に暮れました。

また、JCPのHPを更新しようとしたら、ガンブラー対策でとっていた設定のため、アップロードできず、冷汗をかきました。

あせらず、落ち着かなくては・・・と何度も何度も祈りました。祈っているうちにきっと大丈夫という確信が与えられました。

数時間後、どちらも解決してやっと一息です。原因もわからず、どのように解決できたのかもわかりません。主が働いて下さって助けて下さったとしか思えません。感謝!


以前、姪が占い玩具を持っているのを見て、こんなものが売られているのかとびっくりしました。軽い気持ちで占いをする人が多いですね。

神様を信じている人は、占いをしないと思っていました。
ところが・・・水曜礼拝のイスラムの学びで、唯一神アッラーを信じているイスラム教の人たちがロザリオを占い的に使ったり、お守りを持ったりすると聞いて不思議に思いました。

唯一絶対の神様を信じるなら、お守りに頼るのはどう考えてもおかしいですし、占いをするということは、神様を信頼していないことになります。

また、邪視(イーヴィルアイ)(嫉妬心を抱いて相手を見ると、相手に悪いことが起こる)というという思想があり、それを恐れてファティマの手をお守りにしている人たちが少なからずいると聞きました。それは、イスラムの教理に矛盾する考えです。

偉そうに書いていますが、わたしは洗礼を受けたばかりのとき、聖書もろくに読んでいなかったので、神様がどのようなお方かわかっていませんでした。
次々と友人が結婚していく中で、不安にかられて占いに夢中になった時期がありました。

占いは罪であると知らなかったのです。ジンクスを信じたり、たたりを恐れたり・・・
アッラーの神を信じながら占いをしたり、邪視を恐れるイスラムの人たちと同じでした。

のちに占いが罪であると知った時、自分の行為を深くわび、悔い改めのお祈りをしました。それ以来、占いをやめました。おみくじもひきません。テレビで占いが流れているとチャンネルを切り替えています。

この世界を造られた神様は、わたしのことも造ってくださり、わたしの人生で起こるすべてのことを定めてくださいます。ご自分のひとり子の命を与えて下さったほどわたしを愛してくださる神様は、いつも最善のことをなしてくださいます。

そのような神様を心から信頼していれば、この先に起こることを知る必要がありません。また、何も恐れることはありません。神様はどんな悪の力にも勝利されるお方だからです。

イスラム教では、唯一絶対の神がいても、救い主がいません。そこがキリスト教との大きな違いです。

わたしたちのために救い主をおくってくださった神様の素晴らしさを知ってもらいたいです。 


「それゆえ主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。(イザヤ30:18)」


自我を捨てたとき

2010-03-02 12:10:14 | エッセイ

わたしは高校生のころから22歳まで、自分が正しいといつも思っていました。
劣等感にさいなまれていた中学時代が過ぎ、文章が認められたことで優越感を抱き始めた高校時代。

努力すれば自分の力でなんでもできると思い、おごり高ぶっていました。
受験に失敗したときはさすがに落ち込みましたが、補欠で繰り上げ合格になって、また舞い上がってしまいました。
短大では、入学試験の成績が一番悪いのだから、人一倍努力しなければならないと思い、一生懸命勉強し図書室の本を2年間でほとんど読んでしまうほどの勢いで読書もしました。
そのため、成績はほとんどA評価でした。
学校のテストは、努力すれば成績が上がるようになっていますからね。
ところが、幼稚園に就職して、その当たり前の法則が全く通用しないことを知り、愕然としました。

たったひとりの4歳児の心をつかむことすらできないのです。
親離れできなくて、「お母さんー!」と泣き叫ぶ子ども。教室を逃げ出して滑り台にのぼってしまう子ども。抱きかかえて無理やり教室の前まで連れてくると、マットを体に巻きつけて泥だらけになって泣き叫びます。いっときもじっとしてられずに、教室中歩き回って女の子の髪の毛を引っ張っている子。

初めて受け持ったクラスは、そのような子どもたちに振り回されてオロオロするばかり。そのころは学級崩壊という言葉は聞きませんでしたが、まさにその状態でした。
このようなことに対処する方法など学校では教えてもらえませんでした。

学校の成績が良かったことなど、何の役にも立たなかったのです。
わたしの中にあった、自分はいつも正しい。努力すればよい成果が得られる。という神話が崩れていきました。

三浦綾子さんの小説を読んで、自分が間違っていたと気づいて教会へ通い始めました。
自我を捨てたとき、イエスさまを心の中にお迎えすることができました。


詳しくはHP生かされて・・・土筆文香エッセイの部屋「心のすき間が埋められて(1)」に書いています。


OBIで教えていただいたことを紹介します。

SINがSONになった

【罪を英語でSINと書きます。SとNの間にIがあります。Iをゼロ(O)に置き換えると、SON
になりますね。
SONとは息子。神様の一人息子、イエスさまを指します。SONであるイエスさまがSIN(罪)を無くしてくださったのです。】


イエスさまを心にお迎えした後も、無意識のうちに自我がムクムクと頭を持ち上げてくることがあります。
わたしがすることは、I(アイ=わたし)を捨てること。しっかりとにぎっていた自我を捨てることだと改めて教えられました。

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