実家の法事でお坊さんの講和を聞いたとき、教会で牧師先生のメッセージを聞いているような気がしました。
実家は浄土真宗。親鸞の教えなので、キリスト教と共通点があるのでしょう。親鸞は、キリスト教に近い考え方をしています。
親鸞は「私はいろいろやってみたが、自分の力では、どうしても悪い心から完全には離れられないとわかった。だから、ナムアミダブツと唱えることでしか、私は救われないと悟った。人は、善行では救われないとわかった。」と書いています。
それは聖書のローマ人への手紙(パウロの書簡)と類似しています。「なぜなら、律法を行うことによっては、誰ひとり神の前に義と認められないからです。(ローマ3:20)」「義人は信仰によって生きる(ローマ1:17)」
親鸞は阿弥陀による救いを解き、パウロはキリストによる救いを語ります。
阿弥陀如来は四十八願をかけて厳しい修行をされた末、悟りを開いて如来になられた仏だそうです。
一方、キリストは神のひとり子で、わたしたちの罪を赦すため、わたしたちの身代わりになって十字架の上で死んでくださったのです。
人類を愛するあまり、命まで差し出してくださった方がキリストのほかにいるでしょうか?
キリストのない救いには罪の解決がありません。
親鸞がもしキリストを知っていたら、クリスチャンになったのではないかと言う人がいるほど求道的でした。
親鸞がここまで到達していてキリストに出会わなかったのは、残念です。
仏教を信じる人たちがキリストの圧倒的な愛を知ることができますように。