生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

老いを受け入れる(その2)

2018-01-26 16:19:55 | 教会
健康志向の今、テレビを見ていると健康についての情報が大量に流れてきます。

健康にこだわるあまり情報におぼれ、それがすべてだと思ってしまう人がいます。
わたしも時々テレビで見ると、野菜食べなくちゃ、もっと運動しなくちゃと、その時だけ思いますが、次々と新しい情報が入ってきて、一週間もたつと忘れてしまいます。

以前、ブロッコリーを毎日食べていれば健康になれ、アンチエイジング、ダイエット効果もあると放送されるとスーパーのブロッコリーがあっという間に売り切れになったということがありましたね。

ブロッコリーを食べていると安心し、ブロッコリーを食べない日があると不安になる人がいたそうです。
それは、ブロッコリーに限らず、あらゆる食べ物がメディアで取り上げられると買いに走る人がいて、スーパーではテレビでとり上げられた食べ物をあらかじめ店頭に出して置くという現象も起きています。

それは『健康という病にかかっている』のだそうです。
健康に気をつかいすぎても、全く気をつかわなくてもだめですね。バランス良くありたいです。

人に誇れるぐらい健康な人でも、老いを止めることはできません。個人差はあっても、人は年齢と共にだんだん衰えていきます。

では、どうしたら老いと向き合うことができるのでしょう……。老いと向き合うには、人生の最盛期に考えるべきだと日野原氏は言われました。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(伝道者の書12:1)」

自分はもう若くないから手遅れだと思わないでください。
今日があなたにとっていちばん若いのです。明日より今日が若いのです。

ポール・トゥルニエは人生を四季にたとえています。春夏秋冬それぞれの季節に生きるのは、それぞれの季節に人間としての必要があるからだそうです。
人生の冬を迎えたとき、その人が生涯やってきたことが問われます。衰えていく自分と向き合うことは、人生の宿題だと聞きました。

わたしは気持ち的には夏なのですが、冬の入口に立っていることを認めなければなりません。でも、体は衰えても心は生き生きとしていたいです。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント人への手紙4:16)」わたしの好きな聖書の言葉です。

前回と今日のブログには、先週と今週の水曜礼拝のメッセージを受けて考えたことを記しました。
おわり


 
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老いを受け入れる(その1)

2018-01-24 20:08:42 | 教会
昨日、数年ぶりに雪が積もりました。

雪が積もって心をときめかせていたのは、いつまでだったのでしょう……。
最近は雪が降ると、どうか積もらないでほしい。道路が凍ると車で生活している息子たちはどんなに大変だろうと、
現実的なことを考え案じているわたしです。

土浦は数センチの雪だったので、車の走る道路は、ほとんど雪が消えていました。今日教会へ行ったのですが、自転車では危ないので歩いて行きました。
写真は今日撮ったものです。桜川の土手にはまだ雪が残っていました。
 
水曜礼拝では、「老い」についてのメッセージでした。
わたしは、ちょうど60歳になったとき、老いを身に沁みて感じました。
病院の待合室にいると、高齢者の方が「足が痛い」「腰が痛い」「肩が痛い」と嘆いている声が聞こえてきます。
以前わたしはそれを聞いて、嘆く言葉を言わない老人になりたいなと思いました。でも、実際に年をとって、体のあちこちが痛くなると、「痛い」と口には出さなくても、頭の中は『痛みを早く直したい、直すにはどうすればいいのか』と、そればかり考えています。

そもそも老化はいつから始まるのでしょう。医学的にみると20歳前から老化は始まっているそうです。
日野原重明氏が著書「老いを創める」の中で、マルティン・ブーバーの言葉『老いることはまた楽しからずや。ただし創めることを忘れさえしなければ。』を紹介しています。

老いを『始める』ではなく『創める』のです。創めることは、誰でもいつからでもできます。その人の年齢と生き方をどのようにとらえるか姿勢が問われるのだと聞いて、はっとさせられました。
               
                          つづく


上の写真は凍った水たまりです。不思議な絵が浮かび上がっています。



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生活費ぜんぶを捧げた女

2018-01-19 20:39:55 | 聖書から
今日は教会での家庭集会でした。新しい方も来られ、祝福あふれた集会になりました。

新約聖書ルカの福音書21:1~4には献金をする女の人のことが書かれています。

やもめ(未亡人)であるこの人は、生活費全部を捧げるのです。イエス様はじっと見ておられました。

イエス様は「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(ルカ21:4)」と言って女の人をほめています。
そのあと、生活費がなくてその人はどうなったのか……と思いましたが、その後について聖書には何も書かれていません。

それより、生活費全部を捧げた女の人に注目したいと思います。当時のユダヤには福祉制度もなく、女性が働くことは許されなかったそうです。彼女は子育て中だったかもしれません。どうして生活費全部を捧げられたのでしょう……。

彼女は、そのあとの生活の心配はしないで喜んで捧げたようです。すべてのお金は神様から与えられたものだから、感謝して捧げたのだと聞いて、女の人の信仰に驚きました。

お金だけでなく、自分に与えられたものすべてが神から与えられたものとして受け止め、喜びを持って生きることの大切さを教えていただきました。


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人の評価は塵あくた

2018-01-17 16:06:25 | 教会
先日の日曜日は、年間聖句についてのメッセージを聞きました。

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)」

人は、何のために一生懸命努力するのでしょう……。
多くの人は自分のためと言います。家族や愛する人のためと言う人もいるでしょう。栄誉を得ると、自分が努力したからだと思って高慢になります。

パウロは神の栄冠を得るために、目標目ざして一心に走っていると言っています。人の栄冠は朽ちるものですが、神の栄冠は朽ちません。

パウロは人の評価でなく、神の評価を大切にしました。

パウロは家柄もよく、学歴もあり、ガマリエルの門下生であり、旧約聖書を学び、律法を守っていました。これらは人から高い評価を受けることでした。でも、キリストにあってそのようなことは、損と思うようになり、塵、あくた(ごみ、値打ちのないもの、汚いもの)のようだと言っています。

「塵、あくた」は、聖書の別訳ではガラクタ同然、廃物同然と記されています。
どんなに人から高い評価を得ていても、何の価値もありません。

「大切なのは神からの評価です。神の栄冠を得るためにへりくだって歩んでいきましょう。」と牧師先生が言われました。



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つながりました!

2018-01-16 20:27:10 | 日記
先週の土曜日は伯母の葬儀で東京まで出かけていました。朝早かったので、前日に都内の妹の家に泊まらせてもらいました。伯母は母のすぐ上の姉です。子どものころお世話になり、可愛がってもらいました。ご遺族の方々に平安と慰めがあるように祈っています。

昨年の暮れからネットのつながりが悪く、突然切れてしまうことが多くて不自由していました。原因はルーターだとわかって、今日家電量販店へ行きました。
買ってきたのはいいのですが、設定できるかどうか不安でした。
今までは息子か娘に頼んでいましたが、息子は仕事で忙しく、娘は遠方に住んでいて、とても頼める状態ではありません。

夫もネットがつながらないと困るからと、熱心にマニュアルを読んで設定しようとしています。でも、夫も私もパソコンの知識が少なく、「ああでもない」「こうでもない」と言いながら試行錯誤しています。マニュアル通りに画面が出てこないので、どうしようもありません。

何回やり直しても同じところでストップして、いっこうにつながりません。
行き詰ってしまいました。サポートセンターに依頼すると、メーカーの人が来てつなげてくれるそうですが、有料です。ただ祈るだけでした。

ためしにLenovoの小さなノートパソコンで設定してみると、つながりました。これはウインドウズ10です。(8だったのが勝手に10になったのです)いつものパソコン(ウインドウズ7)にもつながってバンザーイ!
3時間もかかりましたが、つながってくれて本当によかったです。



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今年の一字

2018-01-11 12:37:36 | ティーンズ
ネットのつながりが悪いので、原因を調べています。
今やっとつながったので、何とか更新したいと思います。

この前の日曜日、ティーンズでは書初めをしました。筆と墨で今年の抱負を漢字一字で書くのです。筆を持つのは何年ぶりでしょう。習字道具もどこへしまっているか見当たらないので、持っていけませんでしたが、借りて書きました。

「学」「新」「変」「挑」など色々な字が並びました。書いた人にひとことずつ書いた理由を話してもらいました。

わたしは「仕」。仕(つかえ)るの仕です。

なぜこの字にしたかというと、昨年の9月に横浜から来られたK牧師のメッセージが強く残っていたからです。

イエス様がもうすぐ十字架につけられるときのことです。イエス様は弟子たちひとりひとりの足を洗いました。当時足を洗うのは奴隷の仕事でした。それなのにイエス様は黙々と弟子たちの足を洗いました。

イエス様は人に仕えることが大切だと、行動を持って弟子たちに教えたのです。
イエス様はしもべとしての生涯、謙遜の生涯を歩まれました。

『イエス様のようになる』というのがわたしの人生の目標です。もちろんあまりにもかけ離れているので、口に出すのもはばかられますが……。

わたしに与えられている友、家族、孫たち、仲間たちに愛をもって仕えていけたらなあと思い、この字が浮かび上がりました。

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マルコ10:43)」


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新年早々失敗・・・・・・

2018-01-04 11:45:56 | 家族
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

昨年29日から娘一家が、30日から息子一家が泊りがけで来て、1月2日には義母のところに行ってきました。
昨日は疲れて、いちにち寝ていました。今日の午後からまたヒックンがきます。

31日が日曜日だったので、日曜礼拝の翌日に元旦礼拝が行われました。何とかどちらも行きたいと思いましたが、難しいことでした。
家族全員で教会へ行くということがないので、時間的に難しいのです。

1日は、皆ゆっくり起きてきてお正月のあいさつをし、おせち料理とお雑煮を食べるというのが恒例になっています。

31日は娘が「お母さん、教会へ行くんでしょ。朝ご飯の用意はわたしがするから行ってきて」と言ってくれました。
31日の昼過ぎに娘たちは婿の実家に行ってしまったので、1日はどうなるかわからない状況です。あきらめるしかないかな。と思ったとき『なぜ元旦礼拝に行けるように祈らないのか』という心の中に語りかける声を感じ、はっとして祈りました。

すると10時ごろ皆起きてきて、皆が食べ終わって片付けが済んだのは11時でした。2回目の元旦礼拝は11時半からなので、なんとか間に合いそうです。

行く前にナルクンにかばんの中に新しいノートがあるのを見つかってしまいました。ナルクンが『ぼくお勉強するから、ちょうだい』とノートを指さして言いました。最近、お兄ちゃんが勉強するのを見て、ノートに絵を描くのをお勉強と言っているのです。

『ナルクンのノートはこっちね』と、別のノートを渡し、はっと時計を見ると11:19分。教会へは自転車で15分ぐらいかかります。

急いで出かけましたが、なんと、新年早々遅刻してしまいました。
普段は、8時半から始まる第一礼拝に出ているのですが、ほとんど遅刻したことがありません。それなのに元旦に遅刻とは……。こっそり礼拝堂に入りましたが、ほかに遅れてきた人がいなかったので、おそらく目立ったことでしょう。

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み(ピリピ3:13)」
元旦礼拝で語られた聖書の言葉に『遅刻したことを悔やんでばかりいないで、一歩を踏み出しなさい』と言われたような気がしました。
31日も1日も礼拝に出られたことを感謝します。


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