生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

から揚げで熱中症?

2017-06-28 15:48:39 | 日記
25日の日曜日は教会へ行けませんでした。朝5時半に目覚めてトイレに行こうとしたら、今まで経験したことのないめまいに襲われて、倒れてしまいました。とっさにドアノブをつかんだので怪我はしませんでしたが、吐き気や頭痛もします。いったいこれは何? なぜ急にめまいがするの? と不安になりました。

そのうちすぐおさまると思っていたのですが、なかなかおさまりません。まっすぐ歩くことができません。教会へはとてもいけないと思い、TEENS奉仕をお休みすることをメール連絡しようとしますが、文字が打てません。

ちょうど娘が起きてきたので、メールは打ってもらいました。
ベッドに倒れこんで、めまいの原因は何か考えていました。
考えられることは、ガンの脳転移です。乳がんの手術から13年もたっているとはいえ、再発転移の可能性はあります。いつも具合が悪くなると、そのことを思い、恐れます。

「熱中症じゃないの?」

主人と娘が同時に言いました。
えっ、熱中症? 土曜日から1歩も外へ出ていないのに……。そんなはずはないと思ったのですが、前日を振り返ると心当たりのことがありました。

土曜日、娘婿や息子一家が来るので、から揚げをしていました。1キロ近くの鶏肉を何回にも分け揚げていました。一時間半ぐらいガス台のところに立っていました。

半袖Tシャツの上に長袖ブラウスを着て、その上にエプロンをつけていました。暑くてブラウスを脱ごうとするのですが、エプロンをしているので簡単には脱げず、着たまま揚げ続けました。1時間半ぐらいかかりました。その間水分をとった覚えはありません。

夜、から揚げをみんなで食べて寝る時間になるまで体調は普段どおりでした。
寝るとき少し体がだるかったのですが、夜はよく眠れました。
そして朝を迎え……。

熱中症だとしたら、よかったと思ったのですが、熱中症で死に至ることもあるのですからあなどれません。

それにしても何ということでしょう。日曜日に教会へ行けなくなるなんて……。乳がん手術の前後2か月は別として、土浦に引っ越してから26年の間で具合が悪くて日曜日に教会へ行けなくなったのは過去に2~3回です。具合が悪くなることはよくあるのですが、土曜日まで具合悪くても、日曜になると元気になっていたのです。

幸いなことに日曜午後にはめまいがおさまり、月曜日一日寝ていたら、体調も回復しました。病院にも行かなかったので熱中症だったかどうかはわかりませんが、守られました。

教会へ行けるということは、色々な条件がそろっていなければだめなのだと気づかされました。めまいがしたり、体のどこかが痛んでも、けがやぎっくり腰で歩けなくても行けません。
地震や大雪、竜巻などのひどい悪天候のときも行けないでしょう。

当たり前のように思っていたのですが、当たり前ではなかったのです。

神様に何と言いましょう。文句を言うのでしょうか。なぜ日曜日に具合が悪くなったのですか?と問いかけましょうか……。

いいえ、感謝します。今まで毎週何の支障もなく教会へ行けていたことを。そして、癒し、元気を回復させてくれたことを。
わたしのことを造ってくださった神様は、わたしの細胞ひとつひとつをご存じです。癒すことも病気にすることも出来るお方です。たといがんの再発転移だったとしても、わたしにいちばん良いことをしてくださる神様のなさることをアーメン(その通りです)と言うだけです。



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キャンプの下見

2017-06-21 16:32:55 | ティーンズ
娘が出産のため家に来ています。予定日は7月半ばです。塩分、糖分控えめ献立を一緒に考え、スーパーに買い物に出かけています。

とても不思議な気持ちです。娘が結婚前は、一緒に食料品売り場に行って買い物をするということがほとんどありませんでした。少しでも安くて質の良い物を選ぼうとしている娘を見て、変わったなと思いました。
週末には婿さんが来ます。長男の子どもたち、ヒックンとナルクンも来るので賑やかになりそうです。

昨日は、教会のA先生の運転でTEENSの夏のキャンプの下見と説明会に行ってきました。一時間ぐらいで行けるのかと思ったら、途中でちょっと迷ったので一時間半かかりました。

説明会にはぎりぎり間に合いました。
同じ日に6団体が泊るので、講座室や体育館、食堂、お風呂、キャンプファイヤー場など、重ならないように話し合いながら使用する場所と時間を決めました。

昨日は7月末からお盆前までのスケジュールを決めるということでした。48団体の代表者が集まったので、会場は満員でした。
わたしはA先生の後ろに控えていただけですが、説明と合わせて3時間もかかり、ふらふらになってしまいました。

施設は北浦の湖畔にあり、緑豊かで広々としています。(写真)
北浦の向こうは太平洋です。車で30分ほどで海岸へ行けるので、2日目は早朝、海岸へ行ってデボーションをするというプログラムが予定されています。

わたしはキャンプには参加できませんが、準備の段階で手伝うことができてうれしく思いました。
車中では、たくさんおしゃべりして楽しかったです。天気もよかったことを感謝しました。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。
ここをクリックしてごらんください。


                                       

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存在価値がわからなくて(その3)最終回

2017-06-14 16:14:24 | ティーンズ
存在価値がわからなくて③

卒業後は幼稚園に勤めました。キリスト教の幼稚園が多かった中、わたしはクリスチャンでないのに子どもたちの前でお祈りできないと思い、キリスト教でない幼稚園に勤めました。 

保育の現場では、毎日予想もつかないことが起こり、あたふたしていました。また、先生の中でいじめがあったり、心傷つくことがあって心身ともに疲れていました。

また、母とも折り合いが悪く、家に帰ると母が今日あったことを根掘り葉掘り聞くので、それが煩わしくてたまりませんでした。それで帰りに本屋さんで時間をつぶしたり、ひとりで外食をして、なるたけ遅く帰るようにしていました。

本屋で時間をつぶしていたとき、クリスチャン作家、三浦綾子の「あさっての風」という本が目に留まりました。坪井栄の童話で「明日の風」というのがあったので、童話だと思って買ったのです。幼稚園では毎日子どもたちにお話をしていました。
「あさっての風」は童話ではありませんでした。若い人向けのエッセイでした。惹かれて読んでいくうちにキリスト教のことが出てきましたが、違和感はありませんでした。むしろ、文章が自分の心に寄り添ってくれるので、親しみを感じました。

次に三浦綾子の小説を読んだとき、はっとして自分の間違えに気づきました。いままで、いつも自分は正しいと思っていました。
同僚と園長や先輩の悪口を言っていたのですが、もしかして自分の方が悪いのではないかと思えてきました。また、母を避けていましたが、もしかして母は寂しかったのかもしれない。わたしと話すのを楽しみに待っていたのかもしれないと思いました。

自分の罪に気づいて日毎に苦しくなり、このままではいけない。教会にいかなくてはという思いがつのってきました。
 それで電話帳を調べて近くの教会へひとりで行きました。その日から約半年後のクリスマスに洗礼を受けました。二十二歳のときでした。

洗礼を受ける前に何の学びもなく、面接もありませんでした。クリスマスの前の週に牧師先生から「来週洗礼式があるから受けませんか」と言われて受けたのですが、実は意味がよくわかっていなかったのです。洗礼を受ければ聖(きよ)い心になって、罪を犯さない人になると誤解していました。ところが、洗礼を受けた後でも相変わらず罪を犯してしまう自分に失望しました。クリスチャンの先輩や牧師先生に相談すればよかったのですが、その勇気がなくて相談できず、受洗二年後に教会を離れてしまいました。

その後、結婚して子どもが与えられてから、埼玉の教会へ通うようになり、はじめて神様の愛、十字架の意味がわかりました。
神さまが自分のことをどんなに愛しておられるか、そのことがわかったとき、とび上がりたいほどうれしくなりました。ずっと抱いていたむなしさも、イエス様によって埋められました。

お話の中でこれまで「存在」という言葉を何度か出てきたと思いますが、わたしは劣等感が強く、存在価値のない人間だと思っていました。でも、それは間違えでした。
聖書には次のように書かれています。

イザヤ43:4
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」


「わたし」というのは天地万物を作られた神様です。あなたというのはひとりひとりの人間です。ほかの人が何と言おうと、神様はあなたを高価で尊いと言ってくださり、愛していると言ってくださっています。

その愛は、ひとり子のイエス様を十字架につけていのちを差し出すほどの愛です。
どんな人間でも神様により造られました。だから、はかり知れないほどの価値があるのです。そして愛されているのです。そのことを忘れないで下さい。

                      おわり

礼拝の後、各グループで次の3つのことについて話し合いました。

・感想や質問はありますか?

・劣等感、または優越感を抱いている人はいますか?

・存在価値について考えたことがありますか? 自分の存在価値はどれくらいだと思いますか?




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存在価値がわからなくて(その2)

2017-06-13 20:29:43 | ティーンズ
「存在価値がわからなくて②」

そのころ喘息が悪化して、よく学校を休んでいました。当時はいい薬や予防薬がなかったので、発作が起きると、苦しくて横になることもできなくなります。発作は昼ではなく夜中に起きることが多く、夜中に病院の救急外来で注射をしてもらっていました。病院は坂の下にあって、歩いて五分のところでしたが、行くのに三十分以上かかっていました。

ある夜、ひどい発作が起きたとき、父親が会社の人に車に乗せてもらって帰ってきました。家に車がなかったので、母が会社の人に病院まで乗せていってほしいと言うと、会社の人は快く承知してくれました。わたしは、発作が起きているところを人に見られるのがいやで、行かないと言って柱にしがみついていましたが、父親によって無理やり車に乗せられてしまいました。

病院では時間がかかるからと、会社の人には帰ってもらいました。注射を打ってもらうと、息が楽になったので母に抱えられて歩いて家に帰ることにしました。

ところが、坂道を登っていると、また発作が起き、道で倒れてしまいました。
母はわたしを背負うことができないので、「お父さん呼んでくるから待っていて」と言うと走って坂を上って行ってしまいました。家は
坂の上にありました。

坂道には街灯もなく、真っ暗でした。道の脇には堰(せき)があって、水が音をたてて流れていました。堰の向こうに茂みがあり、そこから猛獣が飛び出してくるように思えました。

恐ろしくて、坂道をはっていくのですが、なかなか進みません。涙が道にしみこんでいきました。

「こんな苦しい目にあって、なぜ生きていなくてはならないの?」とつぶやいたとき、ふと誰かに見られている気がして空を見上げました。星がキラキラ光っているだけで、誰もいませんでしたが、このとき、天におられる神様を感じたのです。
その日は、父に背負われて無事家にもどりました。

喘息で一週間欠席して久しぶりに学校へ行っても、誰も声をかけてくません。先生もです。自分は、いてもいなくてもいい存在なんだ。自分には価値がないんだと思いました。朝、学校へ行ってから誰とも一言も話さず帰ることの多かった日々。このような日が永遠に続くように思いました。

あるとき、自分のお墓に家族や従兄弟たちが来ていて笑っている絵を描きました。それを祖母にみつかってしまいました。「なしてそんな絵を描く?」(祖母は秋田弁)と聞かれ、「わたしがいなくなれば、みんなせいせいしたって喜ぶでしょ」と言うと、「そんなごと、あるわけねえべ!」と強く言って祖母は泣きました

わたしははっと胸を突かれました。祖母の涙を見て、少なくともおばあちゃんだけは悲しんでくれる。年老いたおばあちゃんを悲しませてはいけないと思い、自殺を思いとどまりました。不思議に両親が悲しむことは想定していませんでした。

自分の存在価値がわからず、何のために生まれてきたかわからず、自分はダメな人間だという大きな劣等感を抱きながら悶々としていた中二の一年間は、十年にも感じられる長い時間でした。

そのころ家で毎日中学生新聞をとっていました。中学生新聞のコラムを読んだとき、心打たれたので、その記事を書いたA先生に手紙を出してみました。別の中学の先生だったのでお返事はこないと思っていたのですが、一週間後にお返事が届きました。それは、温かく励ましてくださるような内容の手紙で、手紙を読んで声を上げて泣いてしまいました。

何を書いたか忘れましたが、会ったこともない人に手紙を書かなければならないほど、心に切羽詰まった思いがあったのです。その後も悩みや考えていることを手紙に書くと、丁寧にお返事をいただき、A先生とは高校三年の終わりまで文通が続きました。
今から思うと、A先生は、担任のクラスの生徒たちでとても忙しい日々を過ごされていたのに、自分の学校ではないひとりの中学生に手紙を書き続けてくださいました。このことは、すごいことです。

A先生とは直接お会いしたことはないのですが、文通のおかげで生きる意欲が与えられました。また、国語の先生だったので、中学生向きの本をたくさん紹介していただき、本をよく読むようになりました。A先生は、この本をぜひ読んでみてください。あなたの感想が聞きたいのですと手紙に書いてくださいました。

小説を書き始めたのはそのころです。作文は苦手だったのですが、空想したことを文章にすると、書いているうちに勝手に物語が動きだし、どんどん書けるのです。原稿用紙136枚の小説を書いたとき、少し自信がつきました。わたしは何をやってもだめな人間だけど、136枚もの小説を書けるのはこのクラスで自分だけだと思い、劣等感から解放され、代わりに優越感を抱くようになりました。

長い中二がやっと終わり、中学三年になったとき、クラスに(芋ちゃんと米ちゃんという)二人の友達ができました。こちらから声をかけたのか、声をかけられたのか覚えていませんが、学校生活が一変しました。
中三のクラスはみんなニックネームで呼び合っていて、わたしにも名前が付きました。グリムです。グリム童話の魔法使いのおばあさんに似ているということで、グリムばあさんとも呼ばれました。十五歳でおばあさんです。それでもニックネームがついたのがうれしくて、このクラスでは受け入れられているんだなあと思いました。

高校生になるころには喘息の発作を起こすことがほとんどなくなっていました。
子どもが好きだったので幼稚園教諭の資格が取れる学校を受験しました。ところが結果は補欠の十番。ぎりぎり繰り上げ合格になりました。

入学してからその学校がキリスト教の学校だと知りました。教科書と共に聖書を買うようにいわれました。そのときが聖書を手にした最初でした。
学校では毎日礼拝がありました。夏休みに教会へ行って週報をもらってくることという宿題が出て、しぶしぶ行きました。


                      つづく


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存在価値がわからなくて(その1)

2017-06-12 17:19:19 | ティーンズ
昨日はTEENS礼拝で中高生たちにメッセージをさせていただきました。
『わたしの人生劇場』と題して語ってくださいと依頼されたとき、ちょっと驚きました。
ちょうど日本クリスチャン・ペンクラブで「自分史」を書く課題に取り組んでいた時だったからです。

これまでエッセイを書いてHPにも掲載しているので、それとも重複するところがありますが、今回は中高生向けに語るということで新たに書きました。全文を数回に分けて紹介します。題は「存在価値がわからなくて」です。
                  
       「存在価値がわからなくて①」

わたしは東京で生まれ、中学一年の一学期まで東京都武蔵野市に住んでいました。家族は両親と祖母と妹の五人です。家族にも親戚にもクリスチャンはいませんでした。
 子どものころはとても体が弱かったです。よく熱を出したり、喘息の発作を起こしていました。
また臆病で、いつもびくびくしていました。風船が割れること、犬に吠えられること、蜘蛛とダンゴ虫、雷など、この世界は怖いものだらけなので、誰かに守ってもらいたいと思っていました。
 家族以外の人はもっと怖かったので、外に出ると必要なこともいえない無口な子どもでした。
中学一年の時、父親が関西に転勤することになり、家族で神戸に引っ越しました。新しい家は高台にあり、わたしの2階の部屋の窓から海が見えました。「なんて素敵な部屋!」と喜んだのですが、どこへ行くにも坂道を降りなくてはならず、帰りは坂道を登るのに苦労しました。
9月の新学期に神戸市の中学に転校しました。
「新しい学校では誰もあなたが無口で消極的だと知らないんだから、自分を変えるいいチャンスよ。積極的のふるまってみたら」と、母から言われ、新しい学校では明るく積極的にふるまおうと張り切っていました。
ところが、担任の先生から紹介されると、いきなり「東京から来たんやて。生意気やな」という声が聞こえてきました。  
わたしが話すと関西弁とイントネーションが違うので笑われ、積極的になどとてもなれませんでした。
新しいクラスではいじめられました。「それ、東京で買(こ)うたんやろ」と言って筆箱を捨てられたり、座ろうとしたら椅子を後ろにひかれ、口を開けば、「話し方があかん」と言われました。それで、もともと無口だった私がなおさら無口になりました。中には親切にしてくれる生徒もいて、英語クラブにさそってくれたので、入部しました。
中学二年でクラス替えがあり(当時9クラスもありました)、女子の中で知っている顔がひとりもいないことに気づきました。自分から話しかけることができないでいると、誰からも声をかけられず、一年間友達ができませんでした。

そのころ中学では、昼休みは教室にいてはいけないという決まりがありました。健康のため、休み時間は外に出て体を動かすようにという理由です。  
二十分の昼休みが苦痛でした。ひとりでいるところを誰にもみられたくなかったのですが、それは無理なことでした。図書室に行って本を読んでいても落ち着かず、校舎のまわりをうろうろ歩き回っていました。すると、三人組といわれた同じクラスの女子が、三人で仲良く肩を組みながら歩き回っていて、何度かすれ違いました。「わたしも仲間に入れて」とひとこと言えればよかったのですが、断られるのが怖くて言えませんでした。
あるとき担任の先生に呼び出されて、関西弁でこんなふうに言われました。
「なあ、みなと。(みなととはわたしの旧姓です)お前はひとりで校舎のまわりを歩き回っているんやて? 友達作らなあかんでぇ」
きっと三人組から聞いたのでしょう。
わたしは叱られたと思って、「はい。すみません」としか言えませんでした。『友達作らなあかんと言われても、どうやったら作れるのですか。わたしは友達が欲しいのです』と、本当はそう言いたかったのです。
それから、休み時間歩き回ることができなくなってトイレに籠ることにしました。
トイレしか安心していられる居場所がなかったのです。今のようなきれいなトイレではなく、和式で汲み取り式のトイレです。くさいのを我慢してチャイムのなるのを待ちました。
あるとき、トイレに籠っていたら外から声が聞こえてきました。
「誰か入っているみたいやけど、出てけーへんねん。」
「だれやろ。だれが出てくるんやろ。待っとこ」
(えっ、入っていること知られてたんだ、どうしよう。)
わたしは真っ青になりました。そうしたらチャイムが鳴って、バタバタ駆け出す足音が聞こえました。人の気配がなくなると、そっと出てきて大急ぎで教室へ走りました。先生はまだ来ていなくて後ろの席にすべりこんで、誰にも気づかれないですみました。ほっとしました。

そのあとは、三人組が喧嘩して解体し、校舎のまわりを歩かなくなったので、わたしはまた歩き始めました。
孤独になったせいか色々なことを考えました。家には仏壇と神棚があったのですが、神様と仏様どっちが偉いの? 罰が当たるって本当? 人の運命って決まっているの?
たくさんの疑問を両親にぶつけましたが、「そんなこと考える暇があったら勉強しなさい」と叱られてしまいました。

また、むなしさも感じていました。時間をかけ一生懸命描いた絵を壁に貼っていたら日に当たって変色し、ボロボロになっていました。それを見て、人間が作ったものはどんな物でも古くなって使えなくなってしまうのだ。人間も、どんなに長生きしたっていずれは死んでしまうんだ。一生懸命努力しても何も残らない。勉強がなんの役に立つのだろう……と考え、死を願うようになりました。

                         つづく


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どうすることもできる今日

2017-06-06 16:09:13 | ティーンズ
4月から一週間に3回の礼拝メッセージを聴いています。第一礼拝(日曜8:30~)、ティーンズ礼拝(日曜10:00~)、水曜礼拝(水曜10:30~)の3回です。
何と恵まれているのでしょう!

4日のティーンズ礼拝では、イエス様の弟子シリーズで、アンデレが取り上げられました。
アンデレはペテロの兄弟です。ペテロに比べてアンデレに関する記述は少ないです。

アンデレは最初バプテスマのヨハネの弟子でした。ヨハネはイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言いました。(ヨハネ1:36より)神の小羊というのは、救い主であるという意味です。

バプテスマのヨハネの言葉を聞くと、アンデレはもうひとりの弟子と共に、イエスについていきました。アンデレは、ヨハネの言葉を素直に受け止め、信じてついていったのです。

「見逃し三振より、空振り三振の人生を」という言葉があります。バットを振りもせず見逃して後悔する人生ではなく、たとい空振りになっても、行動するように勧めています。

アンデレは、本当に救い主だろうかと疑いの気持ちもあったかもしれませんが、一歩踏み出したのです。
アンデレはその日、イエス様と語らい、宿を共にしました。そのあと兄弟ペテロにイエス様のことを紹介したのです。
イエス様の弟子となったアンデレについてはもう一か所、(ヨハネ6:5-14)にも書かれています。

大ぜいの群衆がイエス様につき従っていたとのこと。食べ物がなく、群衆はおなかがすいていました。イエス様はピリポに「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」と言われました。

ピリポは計算して200デナリあっても足りないと言いました。そのとき、アンデレは少年が5つのパンと2匹の魚を持っていることを伝えました。伝えた後で「しかし、こんなに大ぜいの人々ではそれが何になりましょう。(ヨハネ6:9)」と言っています。

アンデレは少年が持っている物をイエス様に伝えても何にもならないことは分かっていました。それでも、あえて伝えました。

そのことによって、イエス様はすばらしい奇跡を起こされました。群衆は男だけで5千人いたといいます。女子どもを入れれば1万人近くになったかもしれません。その人たちが腹いっぱい食べても残るくらいにパンと魚を増やしてくださったのです。

アンデレは計算ではなく、信仰によって行動し、用いられました。アンデレは、5つのパンと2匹の魚ではどうしようもないと思っていましたが、それをイエス様に差出し、イエス様に頼りました。

自分の力だけで何とかしようとするのではなく、イエス様に頼ることが大切だと教えられました。


過去はどうすることもできません。でも、今日という日はどうすることもできるのです。


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自分は不幸だと思っている人へ

2017-06-01 14:54:44 | 教会
自分を不幸だと思っている人はいませんか?
わたしは中学生のころ、自分ほど不幸な人はいないと思っていました。喘息という重い持病があり、体が弱かったこと、生きるのが下手で、友達に恵まれなかったこと等がその理由です。

両親と祖母に愛されて育ったのに、その愛がわかりませんでした。劣等感が強く、自分は欠陥人間だと思っていました。
喘息がひどくなったのは、母親と祖母から過保護に育てられたせいで、強い劣等感があるのは、両親が自分の欠点ばかりを指摘するからだと思って恨んでいました。

今から約2千年前、生まれつき盲人の姿をみた人々が、盲目に生まれついたのは誰のせいか、本人の罪か両親の罪かと尋ねました。
結果には原因があると思っていたのです。現代においてもそのように詮索する人がいますね。(以下礼拝メッセージを聞いて書きました)

でも、イエス様は、罪の詮索をきっぱりと拒否されました。彼が生まれつき盲人であるのは「神の業(わざ)がこの人に現れるため」と言われました。(新約聖書ヨハネ9:1-5より)

どんなに大きな苦難があっても、神はあらゆる苦難より偉大で、神にとって不可能はないと言っています。このことは、自分を不幸だと思っているすべての人への希望の言葉です。
神様は、現在の自分の不幸を親や他人の責任だと思っている人、現在の自分の不幸は過去の恵まれない境遇のためだと恨んでいる人を通して神の業を成し遂げてくださいます。


イエス様が癒しの業を行うとき、それぞれ違った方法で行われます。その場で見えるようになった盲人もいますが、この人に対しては、泥を目に塗り「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言われました。
この人は、半信半疑だったかかもしれませんが、言葉通りシロアムの池で洗うと、そのときから見えるようになりました。(ヨハネ9:7より)

わたしは、不思議な導きで今年の4月から20年以上も続けていた教会学校の小学科教師を辞め、テイーンズ(中高科)の教師として遣わされました。

今月、自分がどん底の苦しみの中にいた中学時代のことを現代の中高生に語る機会が与えられました。あのときはなぜこんな苦しい目に合うのかわからずに死を願い、親や周囲の人を恨んでいました。何のために苦しんだのでしょうか? 苦しみの中で絶望の叫び声をあげてから46年たって苦しみの意味がわかった気がします。神様の栄光を顕すことができるように祈りつつ備えています。



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