生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

義母を迎えに

2011-09-30 14:07:53 | 日記
これから千葉県に住む84歳の義母が来て泊まります。今、主人と娘が車で迎えに行っています。(片道2時間半くらいかかります)

義母は長い間、義父の介護をしていました。
義父が脳梗塞で倒れたのは長男がわたしのお腹にいたころなので、約30年前です。
義父はリハビリで、身の回りのことは自分でできるようにまで回復しました。
その間、(10年ぐらいの間)毎年春に義母と母と子どもたちとわたしで一泊旅行に出かけていました。

また、子どもたちの誕生日には、義母と母は駅で待ち合わせして土浦まできてくれました。
再び義父が倒れてから、義母は短い時間しか外出できなくなりました。義父がショートステイやヘルパーさんを極端に嫌い、介護するのは義母でなければだめだと言うので、仕方なかったのです。義母は見ていて涙が出るほど献身的に仕えていました。(わたしはとてもできないです)

義父はだんだん歩くのが大変になってきて、お風呂から上がれなくなって救急車を呼んだんだのは1度や2度のことではありませんでした。義母は腰を痛め、このまま2人とも倒れてしまったら……と心配でなりませんでした。

今年初めに義父が召されて、義母はようやく自由になりました。ひとり暮らしをしていますが、春になったら土浦に来てゆっくりしてもらおうと思っていました。そんな矢先、大震災があって延びてしまいました。

明日の土浦花火大会に間に合うよう、今日迎えに行きました。明日は息子一家も来るので4世代一緒に集まることになります。

義母にとってくつろげる楽しい日々になりますように。

上の写真はおばあちゃんにご馳走したいと言って娘が作ったかぼちゃプリン。
作り方はくっくぱっとを参考にしました。


わたしは、大量に出たかぼちゃの種を無駄にしたくなかったので、食べられるように炒りました。皿に広げレンジで3~4分温めてからオリーブオイルで炒り、塩をまぶしました。外側がカリッとしていてなかなかおいしいです。

これから燻製作りに挑戦です。サーモンとソーセージをフライパンで燻します。



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復興と再生

2011-09-28 21:03:06 | 教会
先日も書いたように教会では25日に13人もの方が洗礼を受けました。第Ⅱ礼拝のとき7名が、第Ⅲ礼拝のとき6名が礼拝の中で受洗されました。
洗礼式は1階ホールで行われ、そのようすが同時中継で2階の礼拝堂のスクリーンに映し出されます。(音声も聞こえます)1階にいる人たちと2階にいる人たちが同時に祈り、拍手し、賛美します。

以前、洗礼式はⅢ礼拝の後行われ、2階にいた人たちが1階ホールに移動して洗礼式を見ていました。
大勢の人がいるので移動するだけで時間がかかります。また、ホールの椅子には一部の人しか座れませんでした。

数年前から放送技術を駆使して礼拝の中で洗礼式が同時中継で行われるようになりました。場所が離れていても感動が伝わってきて、すぐそばで見ているのと同じ気持ちになります。

メッセージは旧約聖書エゼキエル書のテーマ『復興』と『再生』についてでした。
一部を紹介させていただきます。


イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれていましたが、どちらも滅ぼされてしまいます。エゼキエルは捕囚の民と一緒にバビロンへ連れて行かれます。その中で祭司としてたてられました。

イスラエルの国が滅びたのは、イスラエルの民が神の言葉に聞き従わず、罪を犯したのに悔い改めなかったためです。
エゼキエルは復興の幻を見ました。それは政治的、社会的復興ではありません。

「この川が流れていく所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。(エゼキエル47:9)」と聖書に書かれています。
神様は、死んだも同然のものが活き活きしてくることを示されたのです。

「神様はご自分の啓示を人類にわかりやすくするために水を造られたのではないかと思う」とH先生は言われました。

また、エゼキエルは水が神殿から流れている幻を見ましたが、これは神殿の回復を意味します。神殿は礼拝する所であり、その回復は、礼拝、つまり神と人との関係の回復を意味しています。

イエス様は「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)」と言われました。キリストを信じることによってのみ人は潤されるのです。

世の中では経済復興が最大の関心事です。しかし、生けるまことの水であるイエス・キリストを信じて歩むことがもっとも大切なことであり、そのことが復興の礎になります。


復興、再生と聞いて東日本大震災のことを思いました。地震と津波で壊滅的になった町も少しずつ復興しています。でも、原発近くの町は、復興しようにも放射能汚染のため住むことができません。

「この水が入ると、そこの水が良くなるからである。」
という聖書の言葉のように、放射能で汚染された場所に特殊の水を注いだら、放射能がなくなるということが可能になるかもしれない……ふと、そんな気がしました。

どんなに絶望的状況に陥っても、目の前が真っ暗で先が見えなくても、魂が死んだような状態になっても、神様から生ける水をいただければ再生、復興させていただけるのですね。



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つながっているだけで

2011-09-26 20:53:48 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
昨日は洗礼式があり、13名もの方が洗礼を受けました。13人中7人が中高生だったことは驚きです。そのうちの何人かは教会学校の小学科で受け持った子どもたちです。彼らの新しい歩みの祝福をお祈りしました。

一昨日はJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の例会で御茶ノ水に行ってきました。
礼拝ではM姉がヨハネ15:1~5から『つながって実を結ぶ』という題で奨励して下さいました。紹介させていただきます。

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 今年の初めに「わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。(Ⅱ列王記20:6)新共同訳」という御言葉を与えられました。

ペンクラブは理事長の池田先生が病に倒れて危機的状況になり、他にも関わっているところで大きな危機がありましたが、この御言葉からそれぞれのところで必ず守られるという確信が与えられました。

震災の時、「絆」「つながる」「つなげよう」という言葉が流れましたが、これらは一緒に立ち上がろうという心意気を表す言葉で、古くから日常的に使われている言葉です。

今日読んだ聖書箇所は新共同訳聖書では「わたしにつながっていなさい」と書かれ、新改訳では「わたしにとどまっていなさい」と書かれています。

ひとつひとつはバラバラでも、つなげると全く違う働きができます。

イエス様はぶどうの幹であなたがたは枝です。幹と枝は対等ではなく、主従の関係です。幹は枝に実を結ばせる役割をします。枝は幹につながっているだけでいいのです。

幹と枝のつながりは有機的です。イエス様の幹には呼吸のように、いのちと愛が流れています。つながっていると、時が来て実がなります。
つながるとはとどまることです。せっかくつながっていても幹から断ち切って離れてしまえば枯れます。とどまり続けることが大切です。

わたしたちは、あかしの文章でJCPにつながっています。1タラントには1タラントの働きがあります。1タラントでもあかし文章を書くという使命があります。JCPにとどまり続けて叱咤激励し、祈りながら書き続けていきましょう。JCPにもいのちと愛があふれています。
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ヨハネ15章はイエス様がイエス様と私たちの関係をぶどうの幹と枝にたとえて語られた箇所です。イエス様につながって、とどまり続けることの大切さを再確認しました。

ときどき、わたしにはどんな実がみのっているのかな? と考えることがあります。まだ全然みのっていないかもしれないと暗い気持ちになるときもあります。でも、立派な実をみのらせようと願っても自分の力ではみのらせることができないのです。

でも、『枝は幹につながっているだけでいいのです。』と聞いて、そのとおりだ!と思いました。実をみのらせてくださるのはイエス様ですから、みのらせようと努力する必要はないのです。イエス様につながり続けることだけを考えていればいいのです。

『1タラントには1タラントの働きがあります』という言葉にも励まされました。
あの人はタラント(才能)がたくさんあるけれど、わたしは少ししかないから何もできない……。と、人と比較して落ち込むことがあります。

でも1タラントは当時の6000日分の賃金だそうで、そんなにたくさんのものを預けられているのに何もできないなんて言ってたらいけないなあと思ったのでした。

礼拝のあと、800字エッセイ「私と東日本大震災」の合評をして実りある時間を過ごしました。


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「こころ」を読んで(その2)

2011-09-22 16:57:45 | 読書
昨日、こちらは夕方から夜にかけて暴風雨でした。
今まで台風の予報ニュースを聞いてもそれほど警戒していませんでした。上陸の恐れありと言っても、それてしまうことが多かったからです。

今回はまともに通り過ぎたので、いままでにない雨風にびっくりしました。マンションでかなり密閉性のある窓なのですが、そのの隙間から雨水が入り込むほどでした。
こちらは被害はありませんでしたが、被害にあわれた方々のためにお祈りします。


夏目漱石の「こころ」の感想文の続きです。
第2部「両親と私」では、父親が病気で田舎に帰った『私』のことが書かれています。

『私』が先生のことを両親に話すと、就職の世話をしてもらうように先生に頼んだらいいと言われます。
『私』は先生が就職口を探してくれることなどあり得ない(本文には『有り得べかざる事』と書かれています)と思いつつ手紙を出します。

すると先生から一通の電報が届きます。『洋服を着た人を見ると犬がほえるような所では、1通の電報ですら大事件であった』と書かれています。100年前の日本はこのような時代だったのですね。

電報には「会いたいから来てほしい」という旨のことが書かれていました。『私』は気になりながらも父親が危篤なため行くことができません。そのうち先生から長い手紙が届きます。それは遺書でした。第3部は先生の遺書の全文です。

若くして両親を亡くした「私」(これ以降の「私」は先生のこと)は、信頼する親族に裏切られて人間不信になります。その後上京して軍人の未亡人の家に下宿することになりました。そこにはひとりのお嬢さんがいて、いつの間にか「私」はお嬢さんに惹かれていきました。

同郷の親友Kも同じ下宿に住むことになりました。Kは次第にお嬢さんと打ち解けていき、「私」はKに嫉妬を感じるようになります。

友人Kにお嬢さんに対する恋心を打ち明けられたとき、「私」は自分の気持ちは隠して「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放ちます。

一言自分の気持ちを話せばKは自殺しなかったかもしれないのに……と、「私」の言動にイライラするのですが……でも、心情が痛いほどわかるのです。

「私」はKを出し抜くようなかたちで奥さんにお嬢さんと結婚させてほしいと言い、すんなり受け入れられてしまいます。自分の卑怯さに苦しみ、そのことで悩む「私」。Kが自殺したことで、これから一生自分の罪と向きあって行かなければならなくなり、結局「私」も死を選んでしまいます。

「罪からくる報酬は死です(ローマ6:23)」と聖書にあります。
しかし、罪の問題は自殺して解決することではありません。

「私」の死は奥さんのこれからの人生に暗い影をもたらすでしょう。奥さんが真相を知らなかったとしても……いえ、知らないだけに苦しむことになるでしょう。

「私」は奥さんの白い心にしみをつけたくないと思って打ち明けなかったのですが、わたしが奥さんなら打ち明けてほしいです。たとい夫がひどいことをしたとしても、苦しんでいるのなら打ち明けて一緒に苦しませてほしかったと思います。何かを隠していることは結婚当初から気づいていたのですから……。

さて、漱石はこの小説を書いて何を訴えたかったのでしょうか……。人間が生まれながらに持っている原罪について書いたのかもしれません。

漱石自身、自分の罪に気づいていたのでしょう。罪を明らかにすること……そこまででは問題が解決されません。
イエス・キリストを信じればどんな罪でも赦されることを漱石に知ってもらいたかったです。
              
                        おわり


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「こころ」を読んで(その1)

2011-09-21 16:51:56 | 読書
台風の影響でこちらはひどい雨風です。今日の輪読会と水曜礼拝はやむなくお休みしました。

朝、出かけようかどうしようか迷っていました。
朝はまだそれほど雨が強くなかったのですが、昼ごろからひどくなるとの予報でした。かつてならどんな雨風でもびしょぬれになっても出かけていたのですが、最近根性がありません。無理をするとすぐ体調が崩れてしまうからです。

輪読会の仲間から「今日はどうしよう……」とメールがありました。彼女も車の運転をしないので、バスと歩きで教会へ行かなくてはなりません。

「台風というのは(欠席の)立派な理由になるよね」ということで意見が一致して、お休みしすることにしました。
日曜なら台風の最中でも(着替えやくつを持って)出かけていくのですが………。


ネット読書会で夏目漱石の「こころ」を読んだので、今日はその感想を書いてみました。
最初に読んだのは中学生のとき、大人になってからもういちど読み、今回は3回目です。
ストーリーはわかっているのに途中からぐいぐい引き込まれて読みました。

「こころ」は、3部構成になっています。
第1部は「先生と私」第2部は「両親と私」第3部は「先生と遺書」です。

鎌倉の海岸で出会った先生にひかれた書生の『私』は、東京へ帰ってからも、頻繁に先生の家をたずねるようになります。
なぜ『私』が先生にひかれたのか……その部分が不明ですが、現実にありそうです。

先生は奥さんと二人暮らしで、仕事もせず、ゆうゆうと過ごしています。戦前は、先祖の財産を上手に管理して、安楽な一生を送る人がいたそうです。そう言う人を「高等遊民」というと読書会のお仲間に教えていただきました。

ときどき『私』に素っ気ないそぶりをする先生。ほとんど人づきあいもせず、毎月決まった日に雑司ヶ谷の墓地に墓参りに行く先生の行動の裏に深い謎が隠されていると感じさせられます。先生の過去に何かあると匂わせています。

そして、先生が亡くなってしまうことが小説の最初の方に書かれています。
さすが夏目漱石です。読者は、先生がなぜ亡くなったのかと思い、物語にひきこまれていきます。

第1部で印象に残った箇所は、遺産の問題について助言する先生の言葉です。


『平生はみな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それがいざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいです。だから油断が出来ないのです。』


罪ある人間の本質に迫った言葉だと思いました。

                 つづく


追記:わたしのHP「生かされて・・・土筆文香」久々に更新しました。エッセイ喜怒哀楽をまとめたものと、「南吉への想い」です。ブログに書けなかったことも追加しています。ご覧ください。




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情熱

2011-09-19 16:37:12 | 教会
昨日の礼拝メッセージは、使徒の働き14:20-27でパウロの第一回伝道旅行の最後のところでした。8/7のメッセージの続きで、前回のメッセージについては8/8のブログに書いています。一部を紹介させていただきます。(青字がメッセージ。緑字が聖書の言葉、茶色字がわたしの感想です)


パウロとバルナバはテルベという町に行き、そのあとルステラとイコニオムとピシデヤのアンテオケに引き返したことが14:21に書かれています。
それらの町は、以前迫害にあい殺されそうになった町です。そこへ引き返したのは、その町のクリスチャンたちを励ましたいという情熱からでした。

それらの町は、新しいクリスチャンが生まれた町です。パウロはマイノリティーの人たちに信仰にしっかりとどまるようにすすめ、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」と言いました。

信仰にしっかりとどまるとは、クリスチャンであり続けることです。

パウロとバルナバはアタリヤの港からアンテオケに戻り、2つの報告をしました。
ひとつは、
「神が彼らとともにいて行われたすべてのこと」と聖書(使徒14:27)に書かれています。パウロとバルナバがしたことと思ってしまいますが、彼らは自分たちの働きではなく『神の業』であると報告しています。
もうひとつは「異邦人に信仰の門を開いて下さったこと」です。

キリスト教はユダヤ教から生まれました。ユダヤ教は民族の宗教なので、キリスト教がどんな民族にも信仰を提供するとは思われていませんでした。
しかし、キリスト教は、どんな文化圏の人間にも提供される宗教です。インドネシアで日本人の宣教師から福音を聞いてキリストを信じた少年は、インドネシアで牧師になりました。

どんな文化圏の人でも福音を聞いてクリスチャンになるのは当たり前のことです。キリスト教は普遍的な力があります。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)」


命の危険を顧みず引き返したパウロたちの情熱には圧倒されます。
わたしはキリストを多くの人に伝えたいと思っていますが、困難があると自己保身の体制になってしまいます。自分が傷つくことを恐れ、疲れて具合が悪くなるのを恐れ、他者のために犠牲を払うことを厭っている自分にはっと気づくことがあります。

そんな自分が情けなくなります。どこまでも自己中心である自分が悲しくなります。
パウロはなぜ自分が傷つくことを恐れなかったのでしょう……。十字架のキリストをいつも思い、感謝にあふれていたからでしょう。

パウロとバルナバが自分たちのしたことを誇りとせず、謙遜な思いを持って「神の業である」と言ったことに心打たれました。

また、人間はみな神様によって造られたのですから、国や文化が違っても魂の深いところに共通した部分あるのだと思います。誰でも創造主キリストを求める思いを持っているのです。絶対に信じないと言っている人も、教会に行くことを拒否し続けている主人も・・・・・・。

信じる者の人生は祝福で満たされることをあかししていきたいです。



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きみのこと待っていたんだよ

2011-09-17 17:16:05 | 日記
15日、16日は息子一家と出かけました。
写真を見てどこへ行ったかおわかりの方もおられるでしょう。アラブ諸国へ行ったのではありません。東京ディズニーシーです。

毎年8月に息子一家と旅行をしています。3年前は那須へ。一昨年は伊豆高原。そして昨年は北海道へ行ってきました。今年はヒックンママがお盆に休みがとれなかったので、旅行が9月になりしました。
ヒックンを自然の中で思いきり遊ばせてやりたいと思ったのですが、関東内ではどこへ行っても原発事故による放射能の影響が心配です。

ヒックンに「今まで出かけて楽しかったところはどこ?」と聞くと「ディズニーランド」と答えたので、ディズニーリゾートに行くことにしました。

平日なのでツーディパスポート付きのオフィシャルホテルは意外と安く、窓からランドの見える部屋を予約できました。
ディズニーランドに行くのは何年ぶりでしょうか……。子どもたちが小学生のころまでは日帰りで何回か訪れました。

わたしが最後に行ったときは、まだディズニーシーができてなかったので、10年以上前であることは確かです。そのとき、次に訪れるときは、孫を連れてくることになるなんて想像すらしませんでした。

4歳のヒックンは、暗いところとスピードのある乗り物は大嫌いなので、パパ、ママと別行動することにしました。主人とわたしはヒックンと同じぐらいの体力なのでちょうどよかったのです。
ただ、暑かったのでとても疲れました。

9月半ばにもなればきっと涼しくなると思っていたのですが、誤算でした。じりじりとした真夏の暑さで、熱中症になったら大変と思い、水分補給しながらひたすら日陰を求めて歩いていました。
それでもアトラクションの中は涼しく、割合すいていて待ち時間が短かくてすんだことは幸いでした。

ヒックンは、午前中ははりきっているのですが、午後になるとだんだん眠くなってきて、「ママに会いたくなっちゃった」とぐずりだします。一日目は早朝から出かけたので、ディズニーシーの船の中で眠ってしまい、主人がそのまま抱っこして涼しいところで休ませました。

2日目のランドでは眠くなって機嫌が悪くなったとき、ちょうどパレードが始まり、目の前で見ることができたので大喜び。休む間がなかったので夕方には疲れてベンチで寝転んでいました。

ヒックンはディズニーシーでミッキーのマジカルワンド(光る魔法の杖)を買ってもらって大喜びでした。マジカルワンドをモニュメントの印に向けてスイッチを押すと光って音が鳴ります。「きみのこと待っていたんだよ」とミッキーの声が聞こえてきて、驚いていました。

「ミッキーがヒックンのこと待ってたんだって、どうして?」と聞くので、
「ミッキーはヒックンのことが大好きなんだよ」と言うとニコニコしていました。

ランドで魅惑のチキルームでショーを観ていると、スティッチが出てきて「ぼく、歌わせてもらってもいいかな・・・」と観客に尋ねました。ヒックンは「いいよ」と大きな声で答え、主人やわたしにも「いいよって言わなきゃ、スティッチがかわいそうだよ」と言っていました。

夕方息子たちと合流した時、「ヒックンが『ママに会いたい』って何回も言ってたよ」と伝えると、息子が少しムッとして「パパには会いたくなかったのか?」と言いました。
すかさず「パパとママに会いたかったんだよ」とヒックン。しっかり顔色をみて答えていました。

息子たちは夜のパレードまでいるつもりだったらしいのですが、ヒックンのようすをみて6時ごろ帰途につきました。車に乗った途端、ヒックンは満足しきった様子で眠ってしまいました。9時前に無事帰宅。すべて守られたことを主に感謝しました。



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この日を楽しみ喜ぼう

2011-09-14 15:52:19 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
 日本人は、真面目な人ほど楽しむことが苦手だといわれています。楽しむことが罪悪と思っているような人もいます。

国民性なのかもしれませんが、アメリカではハリケーンが近づいてきたとき、洪水のときにしかできないことをして楽しんだ人たちがいたそうです。
灌水した道路でスケートボードをしたり、大きな浮輪を浮かべてその上に寝転んだり。傘を逆さにして踊ったり、すごい波でサーフィンをしたり……。

危険と隣り合わせなのでお薦めはできませんが……日本でそのようなことをしたら白い目で見られそうですね。


「喜ぶ」という言葉は聖書にたくさん出て来ますが、「楽しい」という言葉は意外と少ないです。あっても、よい意味に使われていないものが多いと思います。

たとえばルカ12:19にあるように倉にたくさんの穀物や財産を蓄えた金持ちが自分の魂に「さあ、安心して、食べて、飲んで楽しめ」と言った後で「お前の命は取り去られる」と神様に言われています。

しかし、聖書は楽しんではいけないとは言っていません。

神様の存在そのものが「楽しみ」だと詩篇16篇8~に書かれています。


私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、
私はゆるぐことはない。
それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。
(略)

あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


わたしは、キリストを信じる前までは、悲しみと苦しみ、そして怒りで心はいっぱいでした。
でも、信じてからは喜びと楽しみに満ちあふれました。

キリストがわたしの罪を赦すために命を捨てて下さったことの感動で胸がいっぱいだからです。
今日は「喜怒哀楽」の最後、楽をテーマにした400字エッセイを紹介します。
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南吉に伝えたいこと            
新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」は、美智子皇后が推薦されて有名になった童話だ。
童話には自分の殻だけでなく、友達の殻にも悲しみが詰まっていることに気づくでんでんむしのことが書かれている。
わたしは十代のころ、この童話を読んで号泣した。南吉も自分と同じ悲しみを抱えていたのだと思った。

でも、悲しみは自分で克服するしかないというメッセージは、本当の慰めにはならなかった。悲しみが大きすぎて自分の力ではどうにもならなかったからだ。

後に聖書の言葉「悲しむ者は幸いです」と出会い、仰天した。悲しみの近くに神様がおられることを知って、悲しみのあることを嘆く必要はないと知らされた。

神様に悲しみのすべてを打ち明けたとき、神様はわたしの悲しみを喜びに変えて下さった。重荷が取り除かれ、スーッと楽になった。
「悲しみは取り除いてもらえる。生きるって楽しいことだよ」と南吉に伝えたい。


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南吉は29歳の若さで結核のため死んでしまいました。
わたしはクリスチャンになる前から新美南吉のファンで、愛知県にある南吉のお墓参り行きたいと思っていたほどでした。
新美南吉を見出し、世に送り出した巽聖歌(たつみせいか)(童謡「たきび」の作詞者)がクリスチャンであることを最近知って驚いています。巽聖歌という名を見てクリスチャンだと今まで気づかなかったことが不思議ですが……。

南吉は巽聖歌のことを親友と呼んでいました。南吉が死の床にあったとき、聖歌は泊まり込みで見舞っています。聖歌は南吉にキリストのことを伝えなかったのでしょうか? もしかしたら、南吉はキリストを信じて召されたのかもしれない。でんでんむしのかなしみは喜びに変えられたかもしれないと思っています。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。詩篇118:24


先日、日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひごらんください。



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よくしなう弓に

2011-09-12 16:54:08 | 教会
昨日の礼拝で福島県いわき市にあるT教会のM先生のメッセージを聞きました。

めぐみ教会からT教会へは何度か炊き出しに出かけ、そのときの映像を見せてもらっていました。その中でM先生がいのちをかけて被災者を支援している姿が印象的でした。余震の続く中で、津波警報が出たらすぐにでも逃げないといけないという緊迫したときでしたが、使命を感じて働いておられる姿をみて心打たれました。

震災後、T教会内に生活支援センターができたそうです。被災した人たちが物資を取りに来るようになって、一緒に働いたり、悩みを打ち明けたりする場になっているそうです。
今までに18か国の人がボランティアに訪れたと聞いて驚きました。

M先生は「震災でクリスチャンであることを一から問われている」と言われました、改めて神様が何を願っているか考えるようになられたそうです。
M先生のメッセージの一部を紹介します。


クリスチャンは天国に行くために生きているのではありません。「天の御国はあなたがたのものです」とイエス様が言われたように、キリストを信じる者は今天国にいて、すでに永遠のいのちが始まっています。神様は神の国をたちあげようとしておられるので、そこに向かって歩み始めています。

震災からの1か月は物資運びをして、とても疲れました。でも、「主は私の力、私の盾。(詩篇28-7)」の御言葉に力をいただきました。神様はイエス様を求める者に力を与えてくださいます。
そして、神様を愛し、隣人を愛することの大切さを実感しました。いちばんの隣人は妻です。

人はあなたを通してイエス様を見るようになります。イエス様はご自分を求める者を通してご自分をあらわして下さいます。
大切なことはイエス様が生きておられることを知っていること。どこへ行ってもイエス様がいつも一緒におられることを知っていることです。

若者は矢です。力はあるけれど、どこへ向かうかわかりません。わたしたち(中年・老年)はよくしなう弓です。柔軟性を持って、とりなしの祈りをし、方向性をみつけるお手伝いをするのです。



若者は矢でわたしたちは弓というたとえが心に留まりました。
老年近くなると体力はなくなりますが、若者より経験を積んでいます。

祈りによって進むべき方向がみえてきます。押し付けるのではなく、方向性を若者自身がみつけるお手伝いをするためには柔軟性がなくてはなりません。
わたし自身がよくしなう弓になれますようにと祈りました。



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気づいたところから始める

2011-09-09 15:15:28 | 教会
先月20日に行われた教育講演会のCDをようやく聴くことができました。お話ししてくださったのは、基督教独立学園高等学校校長の安積力也先生です。
わたしが持っている問題意識が取り上げられていたので、興味深く聴かせていただきました。

経済成長期にある時代には子どもたちは「どうしたら生きられるか」と尋ね、バブル崩壊後は「何で生きているのか」と尋ね、現代の子どもたちは「生きていていいのか」と尋ねると聞いて、今の子どもたちが不安を抱えて生きていること、自分の存在価値がわかっていないことを改めて感じました。


子どもたちは、親の前、教師の前でいい子にしているのです。いい子なら受け入れられる。いい子なら居場所があると思っているからです。
反抗期がなく、親の言いなりになっている子ども。それは素直でも従順でもないのです。

親に「お前さえいなければ……」とか「あんたなんか生まれてこなければよかったのに……」と言われた子どもは、それを無意識のうちに心に閉じ込めて忘れます。それは心の闇となります。
その子が親になったとき、我が子というスクリーンに心の闇が投影されます。心の闇は世代連鎖していきます。


わたしも親子関係において闇がありました。わたしにいつも不満を持っていた母親に対して、何とか受け入れてもらおうといい子を演じていました。でも、思春期になった時、いい子ではなくなりました。「ひどい反抗期だった」と母は言いますが、考えてみると反抗期があってよかったのです。


「親子関係が絶望的状況になることがありますが、絶望の中でこそ聖書の言葉が光る。普遍性の光はどん底の暗闇を見ないと見えてこない。
遅すぎることはない。気づいたところから始めることが大切です」
と安積先生が言われました。


また、待つことと聴くことの大切さも教えられました。
地中深く宿された種は、見えないところで成長しています。ひとりひとりの心に神様から種が宿されています。表面は変わらなくても変化しています。目に見える成果ばかり気にせず、信じて待つことが大切です。待つことによってしか育たない大切なことがあるのです。
親が子どもの言うことを徹底して聴き続けることが大切です。


待つことと聴くこと……わたしが子どもたちに対してできなかったことでした。子育ての最中は「早くしなさい」と毎日叫んでいました。悔やまれて心が痛みます。
時期遅しの感じがしますが、気がついた今から始めます。


聖書の言葉

主に信頼して善を行え。
地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇37:3-5



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震災…回復の道

2011-09-06 15:55:26 | 社会
東日本大震災からもう少しで半年になります。あまりにもひどい惨状に言葉もなく、震災について書くことをためらっていました。
震災後、一か月くらいの間は、津波の後の悲惨な姿と原発の危機的状況を伝えるテレビを見て、何もできない自分を責めました。

まだ震災による心の傷は深く、できればしばらくは書きたくないと思っていました。

ところが日本クリスチャン・ペンクラブで「私と東日本大震災」のエッセイを書く課題が出て、児童文学の会で東日本大震災のことを短歌か俳句、川柳で書くという宿題が出ました。そして、今月18日の教会学校では原発事故に触れて語らなくてはならず、避けて通ることができなくなりました。

日本で初めて原子力発電所が作られたとき、新聞には「人間の英知はなんとすばらしい!」という意味の言葉が書かれていたそうです。

人間が考え出した原子力発電によって、産業は発展し、生活は便利になりました。
危険性の指摘はされていたようですが、たとえ地震や津波が起きても危険なことはないと伝えられていたので人々は安心していました。

ところが人間が予想しているよりはるかに大きな地震が起き、はるかに大きな津波がきて、一部の原子力発電所が壊れてしまいました。「想定外」という言葉を何度も聞きました。

そして、神様が造られた世界にはなかった放射性ヨウ素やセシウムが出てきて、自然が壊れ、人間の体にまで悪い影響を及ぼすことになってしまいました。

なぜこのようなことが起きたのか? と最初は考えました。「神の裁きだ」と言った人もいたそうですが、それは違います。
なぜと問うことは、神様の主権を認めていないことになるので、問うのはやめました。それよりも残された者としてできることは何か考えています。

ただ五七五七七にしただけの拙い短歌を紹介します。
 

北国に避難し子どもらたずねおり 大きく息を吸っていいの


お母さん体に悪くないのはどれ 心配そうにたずねる子ども 


悪くない山、海、空も花や鳥 もどれよ時間あの日の前に


だいじょうぶ影響ないと言われても 募るは不安見えない恐怖


もどってこいあの日の前の水、空気 町、村、人よ じいちゃんの笑顔


なにゆえにと問うのはやめた 何のため生かされたのか問いかけてみる 


何をせん無力な自分責めるだけ 書いて伝えよ残されし者


一首目は北海道に避難してきた福島県の子どもたちがそう言ったとのニュースを聞いて心痛めて作りました。
二首目は近所のスーパーで買い物をしていたら、小学生4年生ぐらいの女の子が母親に尋ねていたことを書きました。

原発のことばかり書いているのは、神様が造られた調和のとれた自然が変わってしまったことを嘆いているからです。見た目は変わらない美しい景色。でも、目に見えぬ放射能が……。簡単にはもとにもどらない世界。

そのような中にあっても神様の守りと恵みを感謝します。回復不可能ではありません。わたしたちが神様の御心に沿って歩むことが回復の道です。


聖書の言葉

地の深みは主の御手のうちにあり、
山々の頂も主のものである。
海は主のもの。主がそれを造られた。
陸地も主の御手が造られた。
来たれ。
私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
                      (詩篇95:4-6)


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心の声(その2)

2011-09-03 11:52:44 | 教会
昨日は児童文学の会でした。震災短歌を書いてくるのが宿題でした。児童文学の会で短歌を書くという試みは初めででした。短歌、俳句は書けないと思っていたわたしでしたが、この機会に少し足を踏み入れました。まだまだ未熟ですが……。
一作だけ紹介させていただきます。


あわれみも言葉もいらないただそばで黙って聞いてわたしのはなし



被災された友人と電話で話していて、何の慰めの言葉もかけられかったとき、気づかされたことです。カウンセリングの学びでも教えていただきました。
そのほかの短歌は後日ブログで紹介させていただきますね。


今日は前回の続きです。レジメから少し引用してみます。


〈カウンセリングとは相談者と共にいることだと言われます。無理やりに何かを押し付けるのでもなく、相手を説得するのでもなく、ひたすら相手の言葉に耳を傾け、悩む者のかたわらに寄り添うことです。(中略)
相手の心の声を聴くためにその人のそばに寄り添うこと。深い悩みや葛藤からくる孤独から守り、相手を支えるために共にいること。それが心の声を聴くことなのです。〉


最高のカウンセラーはイエス様だと思いました。なぜなら、イエス様は十字架上でいのちを捨てることにより、わたしたちに愛を与えて下さったからです。イエス様は死なれただけでなくよみがえり、天にのぼられました。そして、「世の終わりまであなたがたと共にいる」と約束して下さいました。イエス様は私たちの心に住んでいて下さいます。


創世記28章にはヤコブが父イサクと兄エサウを騙したため家にいられなくなり、叔父の家を目指して旅立ったときのことが書かれています。
たったひとりで荒野を旅するヤコブは心細かったことでしょう。石を枕にして荒野で横になりました。そのときはしごが天に向かってのびている夢を見ました。


「見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。(創世記28:12)」


下り上りではなく、上り下りということは、すでにヤコブのかたわらに神のつかいがいて、神に繋がっている証拠として上って、下ったのだという意味だそうです。



ひとりぼっちを感じたとき、かたわらに神さまがおられることを確認しながら歩んでいきたいです。



現在、台風の影響でものすごい雨が降っています。台風は四国あたりに上陸したらしいですが、関東の東側まで影響をもたらしています。どうか台風の被害が出ませんようにお祈りします。
わたしは午後から子ども家庭集会の奉仕で、教会までは歩いて行かなければなりません。着替えを持って行くつもりですが、できれば出かけるとき、雨がやんでくれますように。

おわり


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心の声(その1)

2011-09-01 20:47:33 | 教会
昨日の水曜礼拝はカウンセリングの学びシリーズの最後で「心の声を聴く」ことについて語られました。

現代は自分探しの時代だといいます。苦労して入った大学なのにここでよかったのだろうか? と迷い、会社に勤めると別の会社の方がよかったんじゃないかと迷う大人が増えているそうです。たくさんの選択肢が開放されているからかえって迷うのでしょうね。

クリスチャンも迷います。自分の信仰はこれでよいのか・・・と。


わたしもブログを書いていてときどき迷います。このような内容でいいんだろうか。書くのをやめた方がいいのではないか……と。


レジメには『心が病んだり、深い悩みにとらわれることは、ピンチであると同時にチャンスでもあります。それは、心の奥深くにある本音の自分と出会い、心の底からの叫び声に耳を傾ける時にもなるからです。』と書かれていました。

心病む時や深い悩みに陥った時、心の声を聴く機会でもあるのですが、そこにはカウンセラーなどの助けが必要になってきます。

他者の心の声を聴くことが求められるわけですが、他者のために聴くことは簡単なことではありません。それは自分探しと反対のことが求められるからだそうです。

聖書には
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」
と書かれています。

「他者の心の声を聴くことは、自分を捨てることなしにできません。自分を捨てることは相手を愛すること、相手が必要としていることに耳を傾け、寄り添って行くことです」と牧師先生が言われました。

「プロのカウンセラーでなくていい。むしろアマチュアのほうがいい。アマチュアであるからこそ良き相談者、良き援助者になることができる」と聞きました。

わたしも誰かのカウンセラーになれたらいいのに……と思いました。  

つづく



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