生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

7年目の卒業式

2013-09-26 16:13:26 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
日本クリスチャン・ペンクラブ関東では、1年おきに本を出版しています。同じテーマで会員の書いたあかし文章を掲載するのです。字数も決まっていて400字のものと1200字のものがあります。
1200字はそれほど苦労しないで書けますが、短編より長編が向いているわたしにとって400字を書くのは大変なことです。書いては消し、書いては消して、しまいには肝心なことまで消し、何を書いているのかわからなくなってしまうこともあります。

来年出版される本に掲載する400字のテーマは春・夏・秋・冬です。
今、秋のエッセイに取り組んでいて、明後日の例会に持っていくために先ほどまで最後の推敲をしていました。
今日は春のエッセイを紹介させていただきます。


          7年目の卒業式                   
                                土筆文香

 黒いガウンを身にまとい、角帽をかぶった私は、卒業証書を受け取っていた。
 乳癌を患ったとき、生かされている時間は限られていると、当たり前のことを自覚した。

 それまで神様から与えられた時間をなんと無駄にしていたのだろうと思った。
 自由に使える時間を神様に捧げたいと思い、お茶の水聖書学院に入学した。通信の学びは神様の恵みを受ける祝福の場となった。  
 
 難しいと思っていた旧約聖書にはイエス様を示す言葉や出来事がたくさん書かれていた。反逆の民イスラエルは、神様から心が離れていた自分のことだと思った。神様に背を向けて歩んでいた私をじっと忍耐して待って下さった神様。
ホセアが裏切った妻ゴメルを赦したように神様は私のことも赦し、戻って来るのをじっと待っていて下さったのだ。

 夢中で学んでいるうちに単位が満たされ、2013年の春、7年目にして卒業式の日を迎えた。神様が成し遂げさせて下さったのだ。



明後日のJCP例会では「最近の私とあかし文章道」という題でお証をすることになっています。



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釣りごっこ

2013-09-24 16:06:25 | 日記
連休にヒックンがやってきました。21日は、久しぶりに霞ヶ浦の近くにある水郷公園へ連れて行きました。

青森旅行以来、魚に興味を持ったヒックンは霞ヶ浦を見て「釣りがしたい」と言いました。魚に近づけないほどこわがっていたのに……。
釣り道具を持ってきてなかったので、ネイチャーセンターで展示されている魚を見ました。

日の当たる場所はまだ暑いのですが、日陰は涼しくて心地よい風がふいてきます。
シートを敷いておにぎりを食べました。

食後、総合遊具のある場所に行くと、ひとりでどんどん上までのぼっていきました。前回来たときは、おじいちゃんと一緒でなければのぼれなかったのに。

帰ってからWeb図鑑で魚をみて、好きな魚の画像を印刷し、それを見て魚の絵を描きました。
描いた魚を切ってクリップをつけ、磁石の釣り竿で釣りごっこをしました。
楽しくて、楽しくてたまらないようすです。

「夜も遊んでね」というので、「後片付けがあるからだめと」と言うと、キッチンにきて洗い物をはじめました。
水道の蛇口までは届かないのですが、シンクに手を伸ばして一生懸命洗っています。

「ぼくが洗えば、早く片付けが終わるでしょ」
と、洗剤の泡を鼻の頭につけて言います。
「ありがとう。助かるわ。家でもお手伝いしているの?」
「やってない。食器洗うの、ぼく初めてだよ」
「初めてなのにこんなに上手に洗えて、すごいね」
ほめられてヒックンは得意げです。

後片付けが終わると、魚釣りごっこをして、夜はたっぷり(40分ぐらい)お話をしましたが、なかなか寝なくて……。いつまでもしゃべっていましたが、わたしは疲れて先に眠ってしまいました。

「こんどは、糸電話作って遊ぼうね」
と言って帰って行きました。

一緒に遊ぶのが楽しいと言ってくれるのはあと何年かな……と思いながら見送りました。



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失敗しても

2013-09-20 21:11:51 | 聖書から
ときどき過去の失敗を思い出して心がチクチク痛むことがあります。どんなに後悔してもやり直すことはできず、なかったことにすることはできないとわかっていても、心の疼きは消えません。

『失敗は誰にでもある』『失敗にとらわれてなはいけない』と思っても忘れ去ることはできません。

今日はOさん宅での家庭集会で創世記12:10-20からアブラハムの失敗について学びました。

「すべて信じる者の父」と呼ばれるアブラハムは、同じような失敗を2回もしてしまいます。信仰のお手本になるような人の失敗があえて聖書に書かれていることは驚きです。
アブラハムは神様によって約束されたカナンにやってきますが、その地が激しい飢饉に見舞われました。それで思い悩んだ末、エジプトに行きます。

エジプト人が妻のサラが美しいのを見て、夫の自分は殺されるかもしれないと思い、サラを妹だと偽りました。
サラはエジプトの王パロの目に留まり、妻として召し入れられてしまいました。でも、パロはサラがアブラハムの妻だと知って返してくれました。神様が守ってくださったのです。
アブラハムはそのあと祭壇を築いて神様に祈りました。

アブラハムがサラを妹と偽ったことは、確かに罪深い行為でした。でも、それが失敗だったかどうかが大事なポイントではないと聞きました。
失敗をしてしまったアブラハムが神様に顔を向けて祈ったことが重要なのです。その後、アブラハムがまた同じような失敗をしてしまいますが、再び神の御手が働いて守られます。
そしてまたアブラハムは神に顔を向けて祈るのです。

信仰を持っていてもいなくても人間としての本性は同じです。すばらしい信仰者と呼ばれる人でも失敗します。でも、信仰者は帰る場所を持っています。
「失敗しても失敗しても神様に顔を上げることをやめないことが信仰者としての原点です」と聞いて、失敗ばかりしているわたしは大いに慰められました。


この次の家庭集会は10月17日(木)です。いつもは金曜日ですが、次は木曜日になります。今日来ることができなかったかたにこの場を借りてお伝えします。


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こんなすばらしいことを……

2013-09-17 17:05:23 | 教会
台風が大きな爪痕を遺して過ぎ去って行きました。近隣を流れている桜川が氾濫か?というニュースが入ったときは驚きました。10月に行われる花火大会の桟敷席(作りかけのもの)が流されてしまったのでは……と心配しましたが、だいじょうぶでした。
今日は台風一過のいいお天気。風もさわやかです。


一昨日は教会の創立記念礼拝でした。創立59周年。新会堂建築から27年たちました。
わたしは新会堂ができてからめぐみ教会へ通い始めたので、旧会堂のことは知りません。
最初は天幕で、次に洋裁学校を借りて礼拝が行われていたことを聞き、今のような大きな会堂で礼拝できることは神様の恵みなのだなあと思いました。


Ⅰテモテへの手紙1章からメッセージが語られました。
パウロはテモテを励ますために手紙を書きました。

まずパウロはイエス様に大きな感謝を捧げていることを書き、次に自分自身のあかしを書いています。
かつてパウロはクリスチャンに暴力をふるう者でしたが、キリストからあわれみを受け、人生を根本から作り変えてくださったことをテモテに伝えています。

「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠の命を得ようとしている人々の見本としようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(Ⅰテモテ1:16)」

キリストはパウロを信頼し、大切な福音をゆだねました。パウロはテモテにもゆだねてくださったと言っています。
「テモテだけでなく、わたしたちにもゆだねられているのです」「キリストがあなたを忠実な者と認めているのです」と牧師先生が言われました。


福音とは、天と地を造られた神が、私たち罪深い人間をキリスト・イエスの十字架によってよって救い、私たちを永遠ご自分の子どもとして愛し、祝福してくださるということです。
こんなすばらしいことがあるでしょうか! 主の恵みとあわれみによって、かつては魂が死んでいたようなわたしが生き生きとした人生を歩んでいます。

この福音をまだ知らない人にいのちをかけて伝えていきたいです。


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子どものネット依存

2013-09-14 11:50:42 | 社会
自分はほかの人からどう見られているんだろう。どういうふうに思われているんだろうと思うことがありませんか?

かつてわたしは人の目ばかり気にしていました。裏を返せば、人に少しでも良くみられたい、少しでも良く思われたいと思っていたのです。
小学校高学年のころ、友人の輪から離れたとき、自分の悪口を言われているのではないかといつも不安でした。それは、数人が集まるといつもそのときにいない人の悪口を言っていたからです。
でも、まだわたしの子どものころは、悪口を言ったことがそれほど深刻な事態を引き起こすことはありませんでした。
でも、今の時代は違います。LINEで悪口の言い合いをして、殺人にまで発展してしまった事件がありましたね。

「誰にも教えないでね」と友人に秘密を打ち明けると、その友人がほかの友人にLINEで流し、翌日学校中の人がその秘密を知っていたということがあり得る時代です。

こうなったら人間不信に陥りますよね。人間関係が築かれていないうちにネット上の言葉だけが先走りしてしまうために起こったともいえるでしょう。
顔と顔を合わせて話すと、そのときの相手の表情、声の調子、しぐさなど知ることができます。その人にとって触れられたくない話題を口にしたとき、その人が嫌な顔をしたら、話すのをやめるでしょう。でも、文字だけのつきあいだと、それがわからないのです。そして言葉で互いに傷つけあうのです。

一昨日から3回シリーズで朝日新聞にネット依存症のことが取り上げられていました。

LINEでのやり取りがやめられなくて、お風呂にも入らず、睡眠時間も削っている人たちがいるそうです。やめたら仲間外れにされる、悪口を書かれるかもしれないとそんな恐怖があってやめられないのです。
オンラインゲームについてはよくわかりませんが、連日20時間もゲームをし続けた中学生がいるそうです。学校で居場所がなくて、ゲームの世界で居場所を見つけてしまったのかもしれません。ゲームが現実を忘れてしまうほどおもしろく、魅力的なのでしょうね。自分がどれだけの時間をネットに費やしているか自覚していないのでしょう。

ネット依存専門のクリニックへ行き、ネットをつなげていた時間の記録をつけさせて、こんなに長い間ネットにはまっていたことを自覚させることが大切なのだそうです。
しかし、親がクリニックへ連れて行こうとしても中高生が素直に従うでしょうか。

親子で話し合う。ルールを作る。などの解決策があげられていましたが、すっかりはまってしまった子どもに対しては難しいかもしれません。

膨大な時間をネットに費やしている子どもたちのことを思うと、健全な魂が何かに吸い取られていってしまっているような気がします。現実の世界での素朴な時間の中に楽しみを見つけさせたい。人間本来の造られた目的を知らせ、生きる喜びを味わってもらいたいと思わずにはいられません。


今日はこれから子ども家庭集会に出かけます。小学生と素朴なゲーム(ネットではありません)をして楽しんできます。

報告が遅れましたが10日に日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。



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だれを恐れて生きる?

2013-09-11 20:21:07 | 教会
今日は、久しぶりの聖書輪読会でした。今日は我が家で行うことになり、水曜礼拝の後、メンバーの方々がお弁当を持って集まりました。
今月から12月までの水曜日、主人が仕事に出かけるようになったので、久しぶりに友人を招くことができて嬉しかったです。旧約聖書のレビ記がようやく終わり、民数記に入りました。ひとりで読むのには大変な箇所ですが、5人で輪読したのでしっかり頭に入りました。

日曜日のメッセージのことを書こうとして、忙しくてなかなか書けないでいました。ようやく時間が与えられました。


メッセージは出エジプト記1:15-22からでした。

イスラエルの民は、エジプトで奴隷とされて苦しんでいました。奴隷状態になった理由はいくつかありますが、ひとつはエジプトの王が、人数がどんどん増えていくイスラエル人に抱いた恐れでした。

王は苦役でイスラエルの民を苦しめましたが、苦しめれば苦しめるほどますます増え広がりました。
王はさらに恐ろしい命令を出しました。
それは助産婦に向けられた命令で、イスラエルの民の生んだ赤ん坊が男の子だったら殺せというものでした。

神を恐れたシフラとプアというふたりの助産婦は王の命令に従いませんでした。
シフラとは、美しいという意味で、プアとは香り豊かな花という意味があります。
王にとがめられたとき、シフラとプアは言いました。
「へブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです(出エジプト1:19)」

その言い訳が通ったところがすごいと思いました。
神様は助産婦たちに勇気を与え、言い訳をする知恵を与えてくださいました。
20、21節には「神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた」と書かれています。

祝福が家に届く。

「礼拝を捧げているのが家族でひとりだけでも、祝福が家族に及んでいきます」
と牧師先生が言われるのを聞いて涙が出ました。

ちょうどその日は息子一家が来ていましたが、教会へ行ったのはわたしひとりでした。
めぐみ教会ではクリスチャンホームが多く、その日わたしの席の周りは家族そろって礼拝を捧げている人たちばかりだったのです。
家族でわたしひとりだけ恵まれても……と思ってちょっと落ち込んでいたのです。タイムリーに慰めが与えられました。


エジプトの王はその後、イスラエルのすべての男の子を殺すように命じますが、モーセのいのちは神の守りによって助けられます。モーセは後にイスラエルをエジプトから救い出すリーダーとなるのです。


「人への恐れ」は滅びと死に至ります。
「神への恐れ」はいのちにつながります。

だれを恐れて生きるべきなのでしょうか。神を恐れて生きるとき、神様が働いてくださると思いました。


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きらい、きらい、だいきらい

2013-09-07 12:31:44 | 
自分を好きになれない人へのメッセージを詩に書きました。



きらい、きらい、だいきらい

きらい、きらい、だいきらい
自分を無視したあの子も
話を聞かない先生も
だい、だい、だい、だい、だいきらい
いちばんきらいなのは自分
外見もいや、ひねくれた性格もいや
どうして生まれてきたのかな

好きよ、好きよ、大好きよ
あなたの髪の毛一本も
そしてあなたの性格も
だい、だい、だい、だい、大好きよ
そのままのあなた
生まれてくれてありがとう 
生きててくれてありがとう



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前向きでなくても、がんばらなくてもいい

2013-09-05 16:09:13 | その他
昨日の夕方ふとテレビをつけるとNHKで「いのちの話をしよう~助産師・小林寿子さんのメッセージ~」という番組が放送されていました。(関西放送で放送された番組の再放送です)用事があって最後まで見られず、一部を見ただけでしたが、色々なことを考えさせられました。

9人の子どもの母親である助産師、小林寿子さんが、子育て中の母親の質問に答えておられました。
「子どもが幼い時に父親が死んでしまった。子どもは赤ちゃんのころにもどりたい。そうすればお父さんに会えるからと言っているけど、どう対応したらよいか」という質問でした。

小林さんは「夫を亡くした悲しみは体験していないので十分理解できないかもしれないけれど……」と前置きされて、子どもの発想を否定しないように。赤ちゃんにもどればお父さんに会えるという発想はすばらしいと受け止めるように。
何でも前向きでなくてはならない。がんばらなくてはならないと思わないようにというようなことを言っておられました。
なんと愛のあることば、的確なアドヴァイスなのだろうと心打たれました。

スポーツ選手へのインタビューを聞いていると、「これからも前向きにがんばります」と言っている選手が多いです。「前向き」という言葉。「がんばる」と言う言葉は日本人が好きな言葉ですね。自分の力でがんばって努力して何かを勝ち取ることが人生の目的のように思っている人も多いです。

でも、辛いことがあって前向きになれないときがあり、がんばりたくてもがんばれないことがあります。むしろずっとがんばっているのにさらにがんばれと言われると身が持たなくなりますね。この母親は『がんばらなくてはならないと思わないように』と言ってもらえて、どんなに気が楽になったことでしょう。


その後、番組では通信制高校の生徒に向けた「命の授業」の様子が紹介されていました。
授業の前にあらかじめ高校生にアンケートを配っていました。「自分の好きなところはどこですか」「嫌いなところは」という質問には「好きなところはない」「自分の全部が嫌い」などと書いている子どもがいました。

「わたしのことを父親と母親が勝手に生んだ」
という女子高生は、その表情に『生まれたいと望んだわけじゃないのに……』という気持ちが現れていました。

「いのちってなんだろう?」
「いのちってなぜ大切なんだろう?」
の答えはまだ出ていませんと、小林さんは言われます。

それは、いのちが神様によって造られたことを語らない限り、答えが出ないのです。
生命がつくられるとき、精子と卵子が偶然のように結合してできたように思えるかもしれませんが、実は偶然ではなく必然なのです。そこに見えざる神の手があり、いのちは創造者である神の手によって造られたのです。

いのちがなぜ大切かは、造られた方が大切にしておられるからです。
ほかの人のいのちがなぜ大切なのかは、神様はその人のいのちも大切にしておられるからです。




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獄中で生んだわが子

2013-09-02 11:21:03 | 教会
「オネシモ物語(パトリシア・M・セントジョン著)」を読んだのは30年以上前のことです。中高生向けの本でしたが、夢中で一気に読み、涙が止まらなくなりました。読んだ後、それが聖書に基づく小説だとわかって、新約聖書「ピレモンへの手紙」初めて読むような気持で読みました。

それ以来、「ピレモンの手紙」はわたしにとって特別なものになりました。章がなく、2ページほどの長さの手紙文ですが、筆者パウロのオネシモを愛する思いが伝わってきます。

昨日の礼拝ではN教会のS先生が「ピレモンへの手紙」からメッセージしてくださいました。
オネシモとは、ピレモンの奴隷の名です。オネシモは盗みを働いてピレモンの家から逃亡し、ローマに隠れました。

オシモは行き詰って、当時ローマで獄中にいたパウロを訪ねました。オネシモはピレモンの家で働いていたとき、パウロの説教を聞いていたのでしょう。ご主人のピレモンはパウロの説教を聞いてクリスチャンになっていました。
オネシモはパウロのことを思い出して、獄を訪れました。オネシモはパウロにより、キリスト・イエスを信じました。パウロはオネシモのことを「獄中で生んだわが子」と書いています。

パウロはピレモンに、オネシモをピレモンのところに送り返すから、兄弟として迎え入れてくださいと頼んでいます。
当時、逃亡した奴隷がみつかったら死刑になるのが当たり前の時代でした。
そういう中にあって、奴隷としてではなく、愛する兄弟として自発的に受け入れてほしいというのです。そして、オネシモから損害を受けたなら、その請求はわたしにしてくださいとまで書いています。

パウロは手紙を書くとき、ほとんど口述でほかの人が書いていたそうですが、この手紙は自筆です。それだけ思いが深いということでしょう。

ピレモンはどう思ったでしょう。受け入れるのに葛藤はなかったのでしょうか……。
「ピレモンへの手紙」には書かれていませんが、その後、オネシモは教会の有力な人となったという記録が残っているそうなので、受け入れられたことがわかります。オネシモとは「有益」という意味なのだそうです。

人を無条件で愛することは難しいです。愛し難い人はたくさんいます。簡単に人を赦すことはできません。愛することもできません。


かつてわたしは神様から逃げて教会から離れていたことがありました。まるで逃亡するオネシモのようでした。もう赦されることはないと思って教会へ行ったら、すでに赦されていることを知ったのでした。

愛を受けたのだから、愛する者へ。赦されたのだから、赦す者へなれるのです。不可能を可能にするのは神様の愛です。



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