昨日は、N先生のメッセージを聞きました。
先生は、生きがいを求めて本を読みあさっているうちに、宮沢賢治に惹かれたそうです。
「雨にも負けず……」の詩が好きで、そのような人になりたいと思われ、そうなるには宗教が必要だと思われたそうです。
そんなとき、「人は神に向けて創られたのだから、神に帰らなければ安らぎがない」というようなことが書かれている一枚のトラクトを手にされました。
このトラクトがきっかけで教会へいくようになり、16歳で洗礼を受けられました。
宮沢賢治の「雨にも負けず」を紹介します。
雨ニモマケズ 宮沢賢治 作
雨にも負けず、風にも負けず、
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、
決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり、そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、
東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、
苦にもされず そういう者に私はなりたい
この詩は農学校で賢治と親しい交流があった斉藤宗次郎氏がモデルではないかと言われています。斉藤宗次郎氏はクリスチャンです。岩手で教師をしていましたが、キリスト教の洗礼を受けてから迫害を受け、教師の職も失ってしまいました。
不思議に「雨ニモマケズ」の詩は、斉藤宗次郎氏の生き方と合致しているのです。それはまた、イエスキリストの生き方と合致しています。
賢治は、教会にも数回足を運んだことがあるようですが、クリスチャンにはなりませんでした。浄土真宗を信じて、のちに法華経を信じるに至ったようですが、つくづく残念だと思います。賢治は最愛の妹を亡くして悲しみますが、もし彼がクリスチャンだったら、悲しみの向こうにある希望を見出していたのに……。などと、賢治びいきのわたしは考えています。
話はメッセージから大きくそれてしまいました。
聖書のピリピ人への手紙は、パウロが獄中で書いた書簡です。
ピリピ人への手紙には「喜ぶ」という言葉が16回も出てきます。
パウロは、異邦人にイエス様のことを伝えようと旅をしていたとき、無実の罪で囚われてしまいました。面会に来た人とは会って話ができたようですが、牢から出てどこかへいくことができませんでした。
そのような状況で書いた手紙に『喜び』という言葉がたくさん出てくるのは、パウロが心から喜んでいたことを意味しています。
もし、パウロが牢屋の壁しか見ていなければ、不満と愚痴しか出てこなかったでしょう。でも、パウロは壁を通してイエス様を見ていたのです。イエス様はいちばん良いことをしてくださると確信していたのでしょう。
「神様は、マイナスと思えるところから用いてくださる」と牧師先生がいわれました。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です(ピリピ1:21)」
と書いたパウロの言葉に圧倒されています。
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先生は、生きがいを求めて本を読みあさっているうちに、宮沢賢治に惹かれたそうです。
「雨にも負けず……」の詩が好きで、そのような人になりたいと思われ、そうなるには宗教が必要だと思われたそうです。
そんなとき、「人は神に向けて創られたのだから、神に帰らなければ安らぎがない」というようなことが書かれている一枚のトラクトを手にされました。
このトラクトがきっかけで教会へいくようになり、16歳で洗礼を受けられました。
宮沢賢治の「雨にも負けず」を紹介します。
雨ニモマケズ 宮沢賢治 作
雨にも負けず、風にも負けず、
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、
決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり、そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、
東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、
苦にもされず そういう者に私はなりたい
この詩は農学校で賢治と親しい交流があった斉藤宗次郎氏がモデルではないかと言われています。斉藤宗次郎氏はクリスチャンです。岩手で教師をしていましたが、キリスト教の洗礼を受けてから迫害を受け、教師の職も失ってしまいました。
不思議に「雨ニモマケズ」の詩は、斉藤宗次郎氏の生き方と合致しているのです。それはまた、イエスキリストの生き方と合致しています。
賢治は、教会にも数回足を運んだことがあるようですが、クリスチャンにはなりませんでした。浄土真宗を信じて、のちに法華経を信じるに至ったようですが、つくづく残念だと思います。賢治は最愛の妹を亡くして悲しみますが、もし彼がクリスチャンだったら、悲しみの向こうにある希望を見出していたのに……。などと、賢治びいきのわたしは考えています。
話はメッセージから大きくそれてしまいました。
聖書のピリピ人への手紙は、パウロが獄中で書いた書簡です。
ピリピ人への手紙には「喜ぶ」という言葉が16回も出てきます。
パウロは、異邦人にイエス様のことを伝えようと旅をしていたとき、無実の罪で囚われてしまいました。面会に来た人とは会って話ができたようですが、牢から出てどこかへいくことができませんでした。
そのような状況で書いた手紙に『喜び』という言葉がたくさん出てくるのは、パウロが心から喜んでいたことを意味しています。
もし、パウロが牢屋の壁しか見ていなければ、不満と愚痴しか出てこなかったでしょう。でも、パウロは壁を通してイエス様を見ていたのです。イエス様はいちばん良いことをしてくださると確信していたのでしょう。
「神様は、マイナスと思えるところから用いてくださる」と牧師先生がいわれました。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です(ピリピ1:21)」
と書いたパウロの言葉に圧倒されています。
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