生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

賢治とパウロ

2016-06-27 15:43:23 | 教会
昨日は、N先生のメッセージを聞きました。

先生は、生きがいを求めて本を読みあさっているうちに、宮沢賢治に惹かれたそうです。
「雨にも負けず……」の詩が好きで、そのような人になりたいと思われ、そうなるには宗教が必要だと思われたそうです。
そんなとき、「人は神に向けて創られたのだから、神に帰らなければ安らぎがない」というようなことが書かれている一枚のトラクトを手にされました。        
このトラクトがきっかけで教会へいくようになり、16歳で洗礼を受けられました。

宮沢賢治の「雨にも負けず」を紹介します。

雨ニモマケズ  宮沢賢治 作

雨にも負けず、風にも負けず、
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、
決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり、そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、
東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、
苦にもされず そういう者に私はなりたい


この詩は農学校で賢治と親しい交流があった斉藤宗次郎氏がモデルではないかと言われています。斉藤宗次郎氏はクリスチャンです。岩手で教師をしていましたが、キリスト教の洗礼を受けてから迫害を受け、教師の職も失ってしまいました。
不思議に「雨ニモマケズ」の詩は、斉藤宗次郎氏の生き方と合致しているのです。それはまた、イエスキリストの生き方と合致しています。

賢治は、教会にも数回足を運んだことがあるようですが、クリスチャンにはなりませんでした。浄土真宗を信じて、のちに法華経を信じるに至ったようですが、つくづく残念だと思います。賢治は最愛の妹を亡くして悲しみますが、もし彼がクリスチャンだったら、悲しみの向こうにある希望を見出していたのに……。などと、賢治びいきのわたしは考えています。


話はメッセージから大きくそれてしまいました。

聖書のピリピ人への手紙は、パウロが獄中で書いた書簡です。
ピリピ人への手紙には「喜ぶ」という言葉が16回も出てきます。
パウロは、異邦人にイエス様のことを伝えようと旅をしていたとき、無実の罪で囚われてしまいました。面会に来た人とは会って話ができたようですが、牢から出てどこかへいくことができませんでした。
そのような状況で書いた手紙に『喜び』という言葉がたくさん出てくるのは、パウロが心から喜んでいたことを意味しています。
もし、パウロが牢屋の壁しか見ていなければ、不満と愚痴しか出てこなかったでしょう。でも、パウロは壁を通してイエス様を見ていたのです。イエス様はいちばん良いことをしてくださると確信していたのでしょう。


「神様は、マイナスと思えるところから用いてくださる」
と牧師先生がいわれました。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です(ピリピ1:21)」
と書いたパウロの言葉に圧倒されています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


わたしのトリセツ

2016-06-24 16:39:52 | その他
音楽番組を見ないわたしは、今どんな歌がはやっているのか、どんな歌手がいるのかさっぱりわかりません。
CS教師研修会で西野カナがうたう「トリセツ」のように、自分のトリセツを作って書いてきてくださいという宿題が出ました。
さっそくパソコンで調べると、ユーチューブでその歌を聞くことができました


この歌詞を読んだとき、ずいぶん身勝手なことを書いているなあと思いました。
でも、2回目に読んだときは、彼氏あるいは婚約者にあてて書いたラブレターだと気づき、可愛いなあと思いました。
3回目は、自分のことをよくわかっているなあ。どうすれば、機嫌がよくなるのかなど自分を客観的に分析しているなあと、感心しました。

どんなに愛し合っていても、言葉で伝えないと思いが相手に届かないことがあります。どんなことをしてもらえば嬉しいのか具体的に書かれていますね(だからトリセツなのですが)
欲をいえば、自分のトリセツだけでなく、相手側からのトリセツがあればいいと思いました。

研修会で、

「自分のトリセツを作成する目的は、自己理解です。自らの特徴、短所、弱さ等と向き合い、正直に書いてください。きれいごとにはならないように注意してください。」

と言われて、わたしの書いたトリセツを紹介します。
(ちょっと恥ずかしいのですが、本当のことです)
研修会で発表したものに少し書き加えています。
また、これは主人に向けて書きました。でもまだ見せていません。


             文香のトリセツ

もうとっくに気づいていると思うけど、わたしはまだ大人になりきれていない部分があります。こころの年齢は3歳~5歳ぐらいです。
だから、ときどき左右がわからなくなります。運転しながら右か左かと聞かれても、すぐには答えられません。

カタカナが正しく発音できません。ちゃんと発音できなくても笑わないでくださいね。
吠える犬と風船の割れるのがこわいです。
よく寝言を言います。叫ぶこともあるそうで、迷惑かけています。なかなか止まらなかったら、起こしていいからね。

よく独り言をいったり、急に笑い出したりします。認知症になったのではありません。
そのときはあっち(ファンタジー)の世界に行っているときなので、声をかけないでください。創作活動の延長なのです。

わたしは、教会へ行くことが嬉しくて、聖書のお話を聞くことが大きな喜びです。
教会学校で子どもたちと一緒にいると、元気になります。賛美すると機嫌がよくなります。
具合が悪くて教会へ行けないと、悲しくなります。日曜日の午前中に用事が入ってしまうとつらいです。

自由に毎週教会へ行かせてくれてありがとう。こんどは一緒に教会へ行ってくれると嬉しいな。行けばきっと、すばらしいところだとわかるよ。

忘れ物が多く、失敗ばかりしているわたしだけど、これからもよろしくね。

         


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

医療ミスをした医師にお礼を言った人

2016-06-20 20:35:47 | CS(子供伝道)
先日、子ども家庭集会で盲目の詩人、ファニー・クロスビーについてお話ししました。(高学年向き)
紹介します。

ファニー・クロスビーは 1820年、アメリカのニューヨーク州で生まれました。お父さんは、彼女が生まれて間もなく亡くなり、母親と信仰深いおばあさんに育てられました。
ファニーは、生後6週間で医療ミスにより目が見えなくなってしまいました。

でも大人になったファニーは、失明したことを感謝しました。非難のため町に住めず行方がわからなくなっていた医師を探し出して感謝の気持ちを伝えたそうです。

ファニーの母親はファニーが失明してしまったことを深く悲しみましたが、ファニーが少し大きくなると、有名な詩人ホーマーやミルトンも失明していたことを話し、ミルトンの「失明について」という詩を読んで聞かせました。
ミルトンの詩「失明について」は、ファニーに失明を乗り越える力を与えました。

おばあさんはファニーに自然の美しさと精神の世界のすばらしさを、詩人の心で受け止めることを教えました。眼のみえない孫のためにおばあさんは、日の出や日没の美しさ、虹のすばらしさ、小鳥や花々の愛らしさを語って聞かせました。

おばあさんは、それにも増して聖書の話を感情を込めて話して聞かせました。後年ファニーは「世界のどのような音楽も、祖母の(聖書を読む)声の美しさにはかなわなかった」と、言っています。ファニーは祖母が読む聖書の文章を暗唱していました。
この聖書の言葉の中からファニーの讃美歌が生まれたのでした。

ファ二―は27歳で盲学校の教師として働き始めました。3年後の30歳の時のことです。日曜日いつものように教会に出席していた時、聖歌隊が讃美歌旧138番「ああ主は誰がため世にくだりて」を歌いました。
「ここに、主よ、私自身を捧げます。」という言葉を聞いた時、ファニー自身もイエス様に生涯を捧げる決心をしました。

38歳の時結婚したファニーは、2年後に赤ん坊を生みましたが、赤ん坊は生後間もなく死んでしまいました。彼女はこの悲しみを深く心に留めました。

ファニーは、一生の間に6千以上の讃美歌を作詞したそうです。その多くは、ファニーに新しい曲を聴かせて、歌詞をつけてもらったそうです。
彼女の歌の多くに曲をつけたウイリアム・H・ドーンが、あるときファニーの家を訪れました。

「汽車の出発までに40分しかありませんが、この曲に歌詞をつけてください」とメロデイーを口ずさみました。これを聞いたファニーは「ああそれは、イエスの御腕に、という歌になりますよ」と答えて部屋に入り祈りをささげると、30分で書き上げてウイリアムに渡したそうです。彼女の多くの歌がそうであるように、世界中の人々に愛され歌われる賛美歌の一つになりました。
ファニー・クロスビーが書いた詩のひとつを紹介します。


何と私は幸せなのでしょうか! 私は眼は見えないのですが、ひとつの決意に支えられています。この運命に満足して生きようという決意に。
何と多くの祝福を受けていることでしょうか! 他の人々が知らない 失明という恵みを嘆き悲しんで生きることは、私にはできませんし、したくもありません。


目が見えないというハンディを持っているにもかかわらず、それがマイナスにはなっていないことに驚きをおぼえます。マイナスどころかプラスになり、「失明という恵み」として受け入れているのです。

医療ミスを犯した医師をわざわざさがして感謝の言葉を伝えるとは……このような人がいるなんて、びっくりですよね。心から感謝していたのでそのような行動をとったのでしょうね。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


仕えるとは

2016-06-17 17:52:25 | 教会
今日は教会で家庭集会がありました。8人が和室に集まりました。たくさんの内容で、まだ消化しきれていないので詳しくは書けませんが、再臨を待ち望むことと、仕えることの大切さを教えてえ頂きました。

イエス様のたとえ話で、忠実な賢い管理人の話があります。(ルカ12:35~48)
婚礼に出かけた主人をしもべが待っていました。主人がいつ帰ってくるかわからないので、しもべは下男や下女を打ちたたき、食べり飲んだり酒に酔ったりしていました。すると、主人が突然帰ってきました。そのようすを見られて、しもべは主人に罰せられてしまいました。

一方、いつ主人が帰ってきてもいいように準備を整えているしもべは幸いです。主人が帰ってくると、帯をしめ、しもべたちを食卓に着かせ、給仕をしてくれました。

婚礼に出かけた主人とは、イエス様のことで、帰ってくるというのは、イエス様の再臨をあらわしています。

聖書にはイエス様が終わりのときにきてくださるという約束が書かれています。
「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります(使徒の働き1:11)」

「再臨を待ち望みますか?」と聞かれて、再臨について普段はほとんど意識していなかったことに気づきました。
イエス様にお会いしたいです。いつ来てくださるのかわかりません。でも、このたとえ話の賢いしもべのように備えることが大切なのですね。


主人がしもべに給仕をしてくださると書かれていますが、イエス様は弟子たちの足を洗って、仕えることの大切さを教えてくださっています。

仕えるとは、『高慢にならない(謙遜である)こと』『愛すること』『みことばを知ること』など、たくさんの意味が含まれています。
それを実践するのは難しいですが、あきらめないで実践してけるよう祈りたいです。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


みこころにかなった祈りとは

2016-06-14 16:36:28 | 教会
先日の礼拝のメッセージは、「祈りを聞かれる神」と題して語られました。

Ⅰヨハネ5:14には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対するわたしたちの確信です。」と書かれています。神様のみこころに沿った祈りをすれば、かなえてくださるのです。

でも、みこころにかなう祈りとは、どういう祈りなのでしょう。また、みこころにかなわない祈りとはどのような祈りなのでしょうか?
このことは、わたしがずっと前から疑問に思っていたことでした。

S先生は聖書の言葉に励まされて牧師になる決心をした後、大学の教育学部に入ったので、教師になりたいと思われたそうです。教師になって教え子にキリストを伝えることもできる。牧師より教師になった方がいいのではないかと思われ、神様に祈ったのですが、平安がなかったそうです。
Ⅰサムエル記15:22には「聞き従うことは、いけにえにまさり・・・・・・」と書かれています。祈りは神との対話であって値切りの交渉ではないのです。

後にインドネシアの宣教師として召されたときも、自分ではなく他の人の方がふさわしいのではないかと思われたそうです。そのとき、神様の迫りを聞いて、みこころならば従いますと祈られました。

「神様の迫りを受けたことがありますか?」と聞かれ、はっとしました。
過去を振り返ると、節目、節目で迫りを感じました。
みこころにかなう祈りかどうか……すぐにはわかりませんが、祈り続けていると祈りが変化してきます。

何が何でもという自分の願いが薄れていきます。それは、あきらめとは違います。神様のみこころを求めて祈り続けていると、神様の示される道が見えてくることがあります。


『祈りとは、自分の願いが神のみ心と一致していくプロセスなのです』と牧師先生が言われました。
だから祈り続けるのです。苦しみの中から神が良きものを生み出してくださいます。神が導いてくださいます。祈りを聞いてくださいます。
神様は祈りを聞いてくださる方だと確信し、信頼し続けなさい。
祈りとは、全能の神への信頼の告白です。
祈りとは神へのダイナミックな対話です。

ヒルティは「幸福とは、享楽することにあるのではなく、奉仕することにある」
と言っています。

奉仕の喜びを感じつつ、私の願いが神のみこころと一致するように祈り続けたいです。

遅ればせながら、9日に日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

子規庵に行ってきました

2016-06-11 19:47:10 | 日記
昨日、日本クリスチャン・ペンクラブの有志で正岡子規が晩年過ごした家、子規庵に行ってきました。

上野の隣の駅、鶯谷から歩いて5分の場所に子規庵がありました。


子規は明治27年にこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。

子規が亡くなった後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけたそうです。老朽化と大正12年の関東大震災の影響により昭和元年に解体され、旧材による重修工事が行われました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建されたそうです。
間取りは当時のままで、八畳間に座っていると、文豪たちが訪れ子規を囲んで文学談義をしている様子が見えるようでした。


子規は結核を患い7年の闘病生活の後、脊椎カリエスで34歳の若さで亡くなっています。
『脊椎カリエス』という難病は、病原菌により脊椎が破壊されて湾曲し痛み、半身不随や寝たきりになることもあるそうです。
また、破壊された骨が膿になり、その溜まった膿が出口を求めて皮膚に穴をあけ、体外に流れ出るという、想像を絶する悲惨さ、そして激痛を伴う病気です。

病と闘う日々を、子規はその独特な客観性で、文字にしていきます。
病の中にあって、子規の書いた原稿はずいぶんな量だったそうです。布団の脇に山積になっていたようで、親友の夏目漱石に「考えてから書きなさい」と言われたそうな……。


中は撮影禁止でしたが、庭から写真を撮ってもよいと言われました。これは、庭から写した写真です。
子規が病症の身を横たえた6畳間です。子規の使った机がは中程に切り込みが作られています。これは足を伸ばすことができず、ひざを立てたまま仕事をする為のものでしたが、病気が重くなって、間もなくこの机も使えなくなったそうです。             






庭は日当たりがよく、植物が勢いよく育っていましたが、当時の植物とはちょっと違ってしまっていると説明がありました。
庭からは上野の山を望むことができたそうです。


子規の歌
四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり



「 糸瓜の咲て痰のつまりし仏かな 」「 をとゝひのへちまも水も取らざりき 」「 痰一斗糸瓜の水も間にあはず 」という三篇の辞世の句を遺して34歳の若さで亡くなりました。

病のなかにあっても文学の意欲を失わず、書くことに命を懸けた子規の情熱が伝わってきました。






お昼は笹乃雪で豆腐料理をいただきました。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



ダイナマイトの爆発する力

2016-06-07 15:13:10 | 教会
一昨日も4年生になったヒックンを連れて教会へ行けました。
ヒックンが教会学校へ参加するのは、4月から3回目です。ヒックンを連れていくには、前の日から家に来て泊まっていること。主人の許しが出ること。ヒックンが行きたいと言うこと。わたしが元気であること。悪天候でないことの条件が満たされないと連れていけません。
これまで主人は、わたしがヒックンを教会に連れて行ってしまうと寂しいのか、行かせないようにしていました。でも今回は「連れて行っていいよ」と言ってくれました。
ヒックンは、行くつもりでリュックに入っているおもちゃを出し、聖書を入れ準備しています。
雨かもしれないと思っていたのに、朝からいい天気でした。ヒックンと桜川の土手を歩いて(ときどき走って)いきました。
20年以上前は、自転車の前後ろに子どもたちを乗せて教会に通っていました。ふと、そのときのことを思い出しました。


 礼拝ではケニアの宣教師、I先生がメッセージをしてくださいました。
先生は「誰のために生きるのか?」「誰と共に生きるのか?」と問われ、ケニアで生きていくことを決心されたそうです。

イザヤ書には次のように書かれています。

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声を上げず、
ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、そのおしえを待ち望む。
(イザヤ42:1-4)


この中に「国」「地」「島々」という世界を表す3つの言葉が使われています。

全世界を救いの視野において、自分たちの働きを考えていくようにと牧師先生が言われました。

ここに出てくる「いたんだ葦」と「くすぶる燈心」は世界の現実をあらわすと聞いて、その通りだなあと思いました。

世界の現実は、内戦、虐殺、略奪、難民、テロ、人身売買、貧困、飢餓の問題で満ちています。
いたんだ葦、くすぶる燈心のように弱く、すぐにでも滅びてしまう人たちを、イエス様は労わり尽くし支え尽くしてくださいます。イエス様はこの人たちのためにいのちを差し出してくださいました。

モーセとイスラエルの民がエジプトから出て旅を続けている間に何度かアマレク人から戦いを仕掛けられました。
アマレクを迎え撃つとき、モーセは兄アロンとフルという者とともに、戦場を見下ろす丘に登りました。

このとき、モーセが手を上げているとイスラエルが優勢に、手を降ろしているとアマレクが優勢になった、と聖書に記されています。
戦いは日没まで続いたのでモーセは疲れてきたでしょう。アロンとフルはモーセを岩の上に座らせ、左右からモーセの腕を支え続けました。
そして神様は彼らの祈りに応え、イスラエルに勝利をもたらしました。

モーセの手を支え続けたアロンとフルのように、わたしたちは神様の手に支えられ、つかまれています。わたしたちは、もろい器ですが、その中に神様の力が与えられています。ダイナマイトの爆発する力が器の中に入れられています。滅んでいく人を支える力が与えられています。

ダイナマイトの爆発する力とは……すごい力ですね。それを入れる器がどんな器か問われないところがいいです。
両手を広げておんぼろな器を神様の前に差し出したら、わたしの器の中にもそのような力を入れていただけるのでしょうか。

宣教師にならなくても、置かれているこの場において小さな働きをする中で、まわりの人に希望を示していく者になりたいと思いました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



どんなにけなされても

2016-06-03 15:47:23 | 日記
先週、児童文学の集まりがありました。
わたしは、何度も書き直した長編を提出していました。書きはじめたころは原稿用紙20枚前後でした。そのとき合評していただき、そのあとで120枚になったので、児童文学者協会で行われた『がっぴょうけん』に提出し、日比谷まで行ってきました。

『がっぴょうけん』での評価は悪くはありませんでした。でも、長さが中途半端なのでもっと長くした方がいいと助言を受け、150枚の作品としてようやくできあがりました。

その作品を今回提出したのですが、ダメ押しされてしまいました。長くしたのは、カルピスを薄めたようなものだ。前の方がよかったと言われました。最初に提出してから5年の月日がたっています。なんとか形にならないかと思っていたところだったのに……。
ちょっとがっかりしましたが、ちっとも傷つかず、落ち込みもしないので我ながら不思議に思いました。

数日後、2人のお仲間から電話がかかってきて、「あんなに言われて傷ついたでしょう。落ち込んでいないかと心配で……」と労わりの言葉をかけてくださいました。鈍いわたしは、そのとき初めてきつい言葉を言われていたんだと気づきました。でも、言われたとおりにすべてを書き直す必要はないのです。それよりも時間を割いて長編を読んでくださり、色々考えてくださったことがありがたいと思いました。

もうひとりは、「あなたがものすごく努力して書いたのにあんなこと言われて辛かったでしょう」と言ってくださいました。でも、辛くなかったのです。以前は努力して何かを勝ち取るという思いで必死に書いていましたが、それが変化しました。
できる限りの努力はするけれど、それにしがみつくのはやめよう。いつでも手離せるようになろうと思うようになりました。

以前ならこのようなことがあると、ひどく傷つきしばらく書けなくなっていたのに、今回は別のグループでの課題があったので、合評会の3日後には新しい童話を書き始めています。

創作について、わたしはふたつのことを願いました。(創作に限らずにいえることかもしれませんが……)

どんなにけなされても傷ついたり落ち込んだりしないように。人の言葉をしっかり聴いて冷静に受け止め、正しい指摘があれば書き直し、不適切であればすぐに書き換えず、なぜそのように思われたのか静かに考え、正しい知恵が与えられるように求める。

もうひとつの願いは、わたしの作品が、もしほめられたり、評価を得たら、そのときこそ謙遜に受け止めることができるように。決して自分の力で書いたのではなく、神様の力によって書けたことを忘れないように。

このふたつのうち、2番目の方が難しいと思います。褒められるとすぐに舞い上がってしまうわたしです。完全にへりくだることができたとき、作品が用いられるような気がします。
とにもかくにも今回の場合は、1番目の願いがかなえられました。そのことが嬉しかった合評会でした。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

規範なき社会にあって

2016-06-01 16:07:39 | CS(子供伝道)
日曜日の午後に教会で教育講演会が開かれました。講演を聞いての感想や考えさせられたことを書かせていただきますね。

教育講演会では、小児科医の田澤雄作氏とキリスト教愛真高等学校の先生、来栖達郎氏のお話を聞きました。田澤氏は9年前にも来てくださいました。

近頃テレビやビデオ、テレビゲーム漬けになっている子どもが多く、その子どもたちが体の不調を訴えてくるケースが増えているそうです。
1日4時間もゲームをして、慢性疲労になっている子がいましたが、ゲームを1週間やめただけで、すっかり良くなったそうです。

また、テレビやビデオをつけっぱなしにして子どもに見せていると、子どもは考えることをしなくなってしまいます。テレビを見たり、ゲームをしているときは、前頭葉がほとんど働いていないそうです。

また、母親がスマホに夢中になり、授乳しているときも赤ちゃんの顔を見ずにスマホを見ていると、赤ちゃんは情緒不安定になります。
赤ちゃんはお母さんと目を合わせて安心するのに、目が合わないのですから不安になるのは当たり前ですね。
言葉は、テレビやビデオで覚えるだろうと思う人がいます、テレビやビデオは一方的にしゃべっているだけで、子どもが何か言っても応答してくれません。

言葉は周りの人とのコミュニケーションによって、覚えていくのです。

日本は、自尊心の低い子どもが多いそうです。幼児期に母親と目を合わせなかったり、家族での会話が少なかったりすると、自尊心が低くなり、『生まれてこなければよかった』と思ってしまうことがあります。

行き過ぎた進学競争に巻き込まれて、自分を見失ってしまう子どもたち。いい大学に入れば幸せになると思っている小学生は79%もいると聞いて驚きました。これは親の価値観を子どもに植え付けた結果だと思います。

ちかごろ、スマホの普及率が高く、世の中は万人がスマホを持っていると想定して新しいことを始めてきます。
わたしはガラケーを持ち続けていますが、都内に出かけたときなど、電車が遅れたとき調べるのにスマホがあればいいなあと思うこともあります。
便利な世の中になってしまって、スマホや携帯、テレビやビデオのない時代に後戻りができません。メディアにさらされて育つ子どもたちが可愛そうです。

電車に乗っていると、ほとんどの人がスマホを見ているかノートパソコンを膝の上に乗せキーボードをたたいています。ペーパーの本を読んでいる人はひと車両にひとりぐらいしかいません。
スマホが悪いとは言いませんが、膨大な時間をスマホに費やすのはどうかと思います。依存症になっていて、やめたくてもやめられない人もいるそうです。

人の顔すら見ないで必死にスマホの画面をみている人たちを観察していると、異様な風景の中にいるようでぞっとします。

実際に人と会って目と目を合わせて会話しないと、人の心を想像することができないのではないでしょうか。
自分勝手な思い込みで好きな相手を殺してしまうような事件が起きたのは、メディアのもたらした害だと思います。

それでは、どうしたらいいのでしょう。依存症にまでなってしまった子どもたちからゲームやスマホを取り上げるだけで解決することではありません。

ゲームやスマホよりもっと魅力的なことを実生活で体験させたり、本を読むことの楽しさを教えられたらいいですね。

また、聖書を読み、神様がわたしたちにどのように生きていけばよいのか知ることも大切です。
聖書のテモテの手紙2には「そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(1:14)」と書かれています。

神様からゆだねられたというのは、神様がまかせてくださったという意味です。神様が喜ばれるような使い方をしたいですね。

規範なき時代にあって、良いことと悪いことの判断さえつかなくなっている社会の中に生きている子どもたちです。聖書から正しい規範を学んでほしいと思いました。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

拍手ボタンです

web拍手