生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

人生の最後までできること

2018-10-30 16:03:09 | 教会
先日の礼拝メッセージは、ピリピ人への手紙最後の節から語られました。

最後の節には、たった一言「どうか、主イエスキリストの恵みが、あなた方の霊とともにありますように」です。
ピリピ人への手紙は獄中書簡といわれ、パウロが牢の中で書いた手紙です。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)」とあるのは、死を自覚し、最後の手紙になるかもしれないと思って書いたのでしょう。

「ピリピ人への手紙の最後は祈りの言葉です。遠く離れたところにいる同胞のことを祈る言葉です」と聞いて、祈ることの大切さを教えられました。

日野原重明さんは、「生きるということは、いのちを使うことです。このいのちを他の人のために使うことです。それが使命です」と、言われたそうです。
わたしたちの使命は何でしょう? 最後までできる使命は祈りです。


確かに年を取り、何もできなくなって、寝たきり状態になってもできることはあります。それは、祈ることです。手を組むことさえできなくても、言葉が出てこなくても、心の中で祈れるのです。


ヘルマン・ホイヴェルスの詩が紹介されました

最上の業

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。



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これで十分

2018-10-23 15:56:56 | 教会
新約聖書の神様はやさしくて、旧約聖書の神様は厳しいと思っている人はおられませんか? かつて、わたしもそう思っていました。

もっと前は、新約聖書は新しい訳で旧約聖書は古い訳だと思っていました。それにしては旧約聖書はぶ厚くて、新約聖書の何倍ものページ数があります。

ひとりで読むと、何のことが書かれているのか理解できません。旧約と新約がどうつながっているかもわかりません。
新約と旧約の『約』は約束の『約』、契約の『約』で、訳ではないこと。旧約はイエス・キリスト誕生以前のこと、新約聖書はイエス・キリストの誕生後の事が書かれていると教えていただいたとき、目が開かれたようでした。

先日の礼拝メッセージでは、へブル人への手紙から語られました。へブル人への手紙は新約聖書の中で難関といわれる書簡だそうです。

書いた人が誰なのかわかりません。パウロが書いた手紙には挨拶文がありますが、へブル人への手紙には挨拶も自己紹介もありません。自己紹介しなくても宛先のへブル人と周知の仲だったからか、それとも切迫感があって、まず伝えたいことをいきなり書いたのか、どちらかわかりません。

へブル人とはユダヤ系クリスチャンのことで、旧約聖書は認めるのですが、イエス・キリストが救い主とは認めない人たちです。
その人たちにへブル人への手紙の筆者は何を伝えたかったのでしょうか。

聖書には次のように書かれています。

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(へブル人への手紙1:3)」

旧約聖書では、海が二つに分かれたり、岩を杖でたたいたら水が出たり、天から火が降ったり、ライオンの穴に投げ入れられていたダニエルが助かったり……と数多くの可視的な奇跡が書かれています。

これらの奇跡はなぜ今は起こらないのかと思われる人もあるでしょうが、イエス様のしてくださったことに比べれば完全ではなく、キリストのひな型でしかないのです。

旧約に書かれているどの出来事よりはるかに卓越しているのが、イエス・キリストのしてくださったことです。「イエス・キリストのしてくださったことで十分だ」と牧師先生が言われました。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」

神様は、罪にために滅びてしまう私たちを救うためにイエス・キリストを惜しまずに死に渡されました。そこまでして私たちを愛してくださる神がすべてのものを恵んでくださらないわけがないでしょう。

神様のしてくださったことを思うと、胸が熱くなります。聖歌593番を歌いたくなりました。
1番を紹介します。


罪に満てる世界 そこに住む世人に
「いのち得よ」とイエスは 血潮流しませり
ああ 恵み はかりしれぬ恵み
ああ 恵み 我にさえ及べり



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ブログ13年

2018-10-15 16:53:00 | 日記

ブログ開設13年になりました。こんなに続くとは思っていませんでした。やめようと思ったことは数えきれないほどあります。

最近久しぶりに会う人に近況を話そうとすると、「わかっているから」と言われます。えっ、なぜ……と、思い巡らしていると、「ブログ『生かされて』を読んでいるから」と言うのです。

最近たて続けに何人もの方から言われたので、恥ずかしいようなうれしいような・・・・・・。

不特定多数の人に一方的に発信するということは、考えてみると恐ろしいことです。一昔前だったら考えられないことですね。
先日は、3年前に北海道に引っ越されたIさんにお目にかかりました。教会のYさんの絵画の個展がつくばで開かれるので、北海道から訪れたと言われました。

水曜礼拝に行くとき、ピスガの前で出会ったのですが、やはりIさんもブログを読んでくださっていて、「お礼が言いたかった」とおっしゃってくださいました。もっとIさんとお話ししたいと思いましたが、礼拝の後は聖書輪読会が予定されていたので、話はできませんでした。

ところが、輪読会でご一緒していたSさんが午後からYさんの個展に行くのでご一緒しませんかと声をかけてくださいました。それでSさんの車に乗せてもらって個展に行きました。(感謝)

神様を指し示す作品に心打たれました。とくに神様の天地創造が描かれている絵は迫力があり、圧倒されました。

その会場で再びIさんにお会いでき、ゆっくりお話しできました。神様の計らいだと思いました。Iさんのことを祈りのカードに書いて祈っていたと言うと、Iさんも私のことを祈っていたとおっしゃいました。私は、私の想像よりはるかにたくさんの人から祈られているのかもしれません。なんとうれしいことでしょう!!

このようなことがあると、ブログをまだ書き続けたほうがいいのかなぁ?と思わされます。

昨日の礼拝では、ピリピ人への手紙4:21-22からメッセージが語られました。ピリピ人への手紙の最後で、あいさつ文です。
「聖徒たちへ」と書かれていますが、クリスチャンは、みな聖徒なのだそうです。
聖徒といわれると、身が縮む思いですが、聖徒とは「その人の性格や能力に関係なく、神の一方的な恵みによって聖徒とされた者」だと聞いて、ほっとしました。

聖徒とはどういうことか教えていただきました。
①罪があるのに赦されたという立場にある。
②それにふさわしく変えられていくという状況にある。
③神に聖別された者である。(聖別とは他の者から分離された、きよくされたということ)

聖別には、必ず目的があります。神の目的を遂行させるため、聖別されたのです。聖別されたからと言って、高慢になってはいけません。むしろへりくだる者になるようにと奨めがありました。


わたしにとって神様の目的とは何でしょう。自分は目的に従って歩んでいるのだろうか……と考えています。



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笑い飛ばして

2018-10-11 16:29:36 | 家族
土曜日は土浦市花火大会が予定されていました。台風25号が縦断するということでしたが、24号に比べて離れた場所を通るので、風は24号ほどではないという天気予報でした。
それでも開催されるかどうか不安でした。日曜日に延期になると、花火の打ち上げ場にもなっている教会への出入りが難しくなってしまうからです。

当日、予定通り花火大会が開催されることを知りました。
息子一家が来てバルコニーから花火を眺めました。花火がいつもより西に上がるので、打ち上げ場所が移動したのかと思って見ていました。(風で流されていたようです)花火を満喫していると、三分の一ほど打ち上げられた後、止まってしまいました。

同時中継しているテレビは「強風のため中断しています」というばかりで、一向に再開されません。

「花火が観客席に飛んできて、怪我人が出たんだって」ヒックンが言いました。
「どうしてそんなことわかるの」ママが驚いて尋ねると、「ツイッター見たからだよ」と言ってママのスマホを見せてくれました。ママでさえツイッターの見方を知らないのに小6でできてしまうとは……。

それにしても何ということでしょう……花火が飛んできたなんて……。やはり、風が強かったのですね。けが人(軽症で、救急搬送された人はいなかったようです)が出たのなら、もう花火は中止になるだろうと思っていたら、まもなく中止が知らされました。外で見ている人たちには伝わったのでしょうか……。皆、スマホがあるからツイッターで知るのでしょうね。
花火が中止になったので、ヒックンはパパとママと一緒にトランプを始めました。学校の先生にトランプの大富豪を教えてもらって、最近トランプにはまっているそうです。

「今日は楽しかった。花火も十分見れたし、中止になったおかげで、家族でトランプができたから」ヒックンが言いました。
パパとママはなかなか仕事の休みが合わなくて、家族一緒に過ごす時間が少なかったので、貴重なひとときだったのですね。

ヒックンとナルクンは三連休ずっとこちらにいました。月曜日、ヒックンはおじいちゃんと一緒に公衆電話のあるところまで行って、電話をかける練習をしました。先に受話器を取ることがまだできていなかったので、よかったです。

そのあと、桜川の土手で待ち合わせをしていました。わたしはナルクンを連れて出かけたのですが、外に出たとたん、雨が降ってきました。「雨だからお散歩はやめようね」と言うと「いやだー」とナルクンが納得しません。

仕方がないので傘をさして出かけました。ナルクンと手をつないで歩きながら、いろんなことを話しました。ナルクンの話のほとんどが、お兄ちゃんのことでした。「お兄ちゃんにたたかれて痛かった。意地悪されてくやしかった」など、たくさんの不満がたまっているようです。

実際はお兄ちゃんがそんなに意地悪をするわけではありません。ちょっとからかっただけで、ナルクンがひどいことをされたと感じてしまうようです。

ヒックンはヒックンで、「ナルクンが泣くと、いつもぼくがしかられる」と、ストレスをためているようです。

ナルクンの話を聞いて、「つらいね。そんなことされたら怒りたくなるでしょう」と言うと「ううん。笑いたくなる」と答えたので驚きました。
「それじゃ、笑おっか」「うん、笑おう。ハハハハハ」「イヒヒヒヒ」「ゲラゲラゲラ」「わっはっはっはー」笑いながら土手を歩いていきました。
いやなことを笑いとばすエネルギーってすごいですね。

聖書の言葉

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。(Ⅰテサロニケ15:16)」
 
日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。


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失うことにより、わかることがある

2018-10-05 14:58:55 | 聖書から
水曜礼拝で士師記16章を学びました。5月に学んだときは、サムソンの全盛期でしたが、今回は晩年のサムソンンです。

サムソンは、神様によって特別な力を与えられていました。素手でライオンを倒したり、門柱と扉を引き抜いて肩にかついで山に持って行ったり……。
イスラエルがペリシテ人に支配されていた時代にあって、怪力サムソンの登場は同胞イスラエル人にとって、頼もしい存在だったことでしょう。ペリシテ人は、サムソンを恐れて何もできずにいましたが、サムソンを倒す機会を狙っていました。

サムソンの弱点は女性でした。サムソンはデリラを愛しました。そのことを利用してペリシテ人たちはデリラにサムソンの力の秘密を聞き出すように頼みました。

デリラはサムソンに尋ねます。が、サムソンは嘘をつきます。何回か繰り返されたのち、サムソンは本当のこと(髪の毛をそり落とされたら力が弱くなる)をついに明かしてしまいます。

サムソンの力の秘密をペリシテ人に告げたら、サムソンがペリシテ人に殺されるかもしれないとデリラは承知していたはずなのになぜ?と思いますが……。サムソンとデリラの愛は不完全でした。

サムソンは髪の毛をそられて力がなくなったとき、初めて自分の弱さに気づきました。特別な力は、神様から頂いたものだと気づき、神に立ち返ったのです。

「サムソンは20年の間イスラエルをさばいた。」書かれているところから、そのときのサムソンは最初のころと違って、晩年であったことがうかがえます。

人は晩年になると、力、健康、大切な物、積み上げてきたものを失いますが、失うことで見えなかったものが見えるようになります。失ったことにより、わかることがあります。神様はサムソンが立ち返るのを待っておられました。
神様はあなたを待っておられます。


わたしは若いころ、年をとれば達観の心境になったり、穏やかで平安に包まれたりするのかなと思っていました。体力的な衰えはあっても、もともと体の弱い者なので、それほどの変化は起きないだろうと思っていました。
けれども60歳を超えたときから色々な故障が起きて、日常生活の中でも身体の衰えをはっきり知らされて、内心「このままの速度で老化していったらどうしよう」とあせっている自分がいます。


「失うことにより、わかることがある」と牧師先生が言われました。そうです。確かにあります。
年をとって、できないことがひとつひとつ増えていって、最後は横になるしかできなくなるかもしれません。でも、そのときが神様にいちばん近いときなのでしょう。

明日は土浦の全国花火競技大会です。台風が通過するので強風が予想され、中止か延期になるのかなと思いましたが、予定通り行うそうです。我が家からよく見えるので今年も息子一家が来ます。
事故のないように祈ります。


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やるならやる、やらないならやらない

2018-10-01 16:23:50 | 家族
台風24号が日本列島を縦断しました。今までにないほど強い風でした。昼間はたいしたことなかったので教会に行けました。

夜中に停電があり、4時間ぐらい水も止まっていました。東日本大震災を思い出しました。

今日は母の命日です。母が天に召されたのは3年前でした。

東日本大震災の時は、都内で一人暮らしをしていましたが、とても元気でした。

震災後、計画停電をすると言ってたのに中止になったとき、母が街頭でテレビ局のインタビューを受けました。83歳の時です。
「計画停電と聞いて何をしましたか?」と聞かれ、「朝5時に起きてご飯を炊き、おにぎりを作りました。」と答えたそうです。
「東京電力に何か言いたいことはありますか?」と聞かれ、「計画停電はやるならやる。やらないならやらないとはっきりしてください!」と大きな声できっぱりと言ったそうです。

母はテレビに出るかもしれないということを誰にも言いませんでした。ところが、姪が家で何気なくテレビを見ていたら、母(姪にとっては祖母)が出てきてそのように答えたので、とても驚いたそうです。

その日のうちに同じインタビューが3回も放送されたようで、遠くに住んでいる友人から電話がかかってきたと母が言っていました。見たかったです。

昨日は母の料理ノートを見て、里芋と大根と豚バラ肉の煮物を作りました。母は計量スプーンを使わない人だったのでレシピは大雑把に書かれています。砂糖少々とかひたひたの水。味を見て足りなければ醤油を足すなど……。なので母の味を再現することができません。昨日はかなり近づいた味になったと思いますが、母が食べたら、「まだまだ」と言いそうです。

母は料理が好きで、和食、洋食、中華どれも得意でした。もっと手伝って母の料理をマスターすればよかったと反省しています。

母は食べることが好きで、胃がんの末期でも意欲がありました。わたしが食べさせにホームへ行くと、少しずつですが、お粥、豆腐料理、白身魚など食べてから、「茶わん蒸しはないの?」と尋ねました。

施設の人が茶わん蒸しは食べられますねと言ったので、今日茶わん蒸しが出るのかと思ったようです。

「あとでプリン食べるの。3時のおやつで半分しか食べられなかったから、残りを冷蔵庫に入れてあるの」
と、嬉しそうに言っていましたが、食べることはありませんでした。その夜の10時前に天国に召されたからです。87歳でした。



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