生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

いのちの輝き・・・夏期キャンプ(その2)

2012-07-31 16:36:01 | CS(子供伝道)
夕食は、参加した子どものお母さん方が作って下さったカレーでした。夜は、馬のメリーちゃんが怖がるといけないので(メリーちゃんは教会グラウンドにお泊りしました)キャンプファイヤーと花火は行わず、その代り小礼拝堂でキャンドルを囲んで元気よく賛美し、牧師先生からお話しを聞きました。


今回、わたしは体調が万全でなかったので教会へは泊まらず、いったん家に帰って翌朝早くまた教会へ行きました。たくさんの奉仕者がいてくださったので、できたことでした。そのおかげで体力が保たれました。 

翌日は早目に朝食を済ませました。朝の涼しいうちに(といっても、8時ですでに30℃ぐらいありましたが)乗馬体験をするためです。
2人組になった子どもたちが、ひとりはメリーちゃんの背中に乗り、ひとりは手綱を持って馬の前を歩きます。

乗馬は初めてという子どもが多かったので、みんな緊張していました。怖がってなかなか乗ろうとしない子どももいましたが、最後には乗れて、喜んでいました。

手綱を持って先導する子どもには、Sさんがついていてくださり、「右に曲がって」「次は左に」「もっと早く歩いて」など言って下さいます。

わたしも先導をさせてもらいましたが、緊張して右、左を間違えそうでした。急いで歩いたつもりなのですが、背中にメリーちゃんの鼻息を感じて、もう少しで追い越されるところでした。


それにしても子どもが46人もいたのですから、メリーちゃんは46回もグラウンドを回ってくれたことになります。暑いところ、本当に御苦労さまでした。ありがとうメリーちゃん。

乗馬体験の後、2回目のお話しを聞きました。

わたしたちは、得意なこと、苦手なこと、性格など、ひとりひとり違っています。他の人と比べて落ち込んだりする必要はありません。
わたしたちには、ひとりひとり違ったいのちの輝きがあります。
『神様から見ると、あなたはとてもすてきです。だから、あなたを大切にします』ということが聖書に書かれています。
メリーちゃんも輝いています。あなたも、あなたのお友達も輝いています。それは神様から与えられた輝きです。


「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)」

かつてわたしは人と比べて自分がダメな人間だと思っていました。自分に輝きがあるなんて思ってもみませんでした。自分自身が輝くのでなく、神様の輝きを受けて輝いていることを知って嬉しくなりました。神様によって造られたいのちは、みんな輝きを放っているのですね。
 
キャンプの2日間、怪我や事故もなく、熱中症からも守られたことを心から感謝しました。
 
                     おわり



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

自然の中で・・・夏期キャンプ(その1)

2012-07-29 21:08:05 | CS(子供伝道)
27日、28日はCS(教会学校)の夏期キャンプでした。今回のキャンプのテーマは「いのちの喜び」です。自然の中で遊び、動物と触れ合い、神さまから与えられたいのちを喜ぶという目的で行われました。
 
馬の写真家のSさんが、ホースパークから馬を借りてきて教会に連れて来て下さるというので、みんなワクワクドキドキしていました。

キャンプの一日目は県立中央青年の家に行って遊びました。『動物かくれんぼ』といって、グループごとに時間内に動物の絵が書いてあるカードを探して歩くゲームです。山の中なので涼しいかと期待していたのですが、ものすごい暑さで、少し歩いただけで汗が滝のように流れます。

「暑いからやりたくない」と言っていた子どもたちも、ゲームが始まるとおもしろくて夢中で駆けまわっていました。幸いほとんど日陰だったので助かりました。こまめに水分補給をしたり、休憩を入れながらの活動です。



午前中1時間ほど子どもたちのあとについて歩きまわると、もう体力の限界です。午後の活動は、若い先生たちにまかせて休んでいました。

3時過ぎに教会へ戻ると、グラウンドに白い馬の姿が見えました。子どもたちは歓声をあげました。
各自家から持ってきた馬の餌(野菜)をあげにグラウンドに行きました。馬の名前はメリーちゃん。人間の歳でいうと60歳ぐらいだそうです。

Sさんが馬の特徴などを話してくださいました。視野が広く、真後ろと真正面以外の350度もあること、耳は自在に回転して常に周囲の気配を感じ取っていること。

また、馬の体の構造が、人が乗るのに適していることを教えていただきました。
馬の歯は臼歯と犬歯の間にすき間があいていて、ハミ(馬の口に含ませる金具)を噛ませるのにちょうどよくなっていること。また、背骨やお腹の構造は、走るとき背中が大きく動かないつくりになっていることを教えていただいて、神さまが馬をそのように造って下さったのだなあと心打たれました。

お話しを聞いた後、キャベツの葉やにんじんなどのえさをあげました。怖くて野菜を持った手をなかなか前に差し出せないでいる子どもがいると、メリーちゃんは前足で地面を蹴って催促していました。
わたしもキャベツをあげました。てのひらで感じたメリーちゃんの口はあたたかくて、やわらかでした。

                      つづく



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

変えることのできないものは……

2012-07-26 16:12:05 | 童話
猛暑がもどってきました。明日からのCS夏期キャンプ、熱中症が心配です。

昨日は、児童文学者協会茨城支部の例会でした。1年ぐらいかけて書いている長編を合評していただきました。この作品は最初20枚でした。書き直して50枚になり、現在101枚。3回目の提出です。
読んでもらうだけでも大変だと思うのですが、みなさんていねいに読んできてくださり、意見を言って下さったので感謝しました。

「主人公が努力して勝ちとっていく成長物語でなくてはならないのに、受け入れて従って行く。導かれていくというのは、主体性がない。」
と言われました。
そのことは、わたしの作品に対してよく言われることです。

確かにそうでしょう。でも、本当の主人公は少年ではなくて、その父親なのです。
「テーマは父の無償の愛なんです」と言うと、「それがよくわかるように書いてほしい」と言われました。うーん。書いたつもりなのですが……。伝わっていないのですね。
そのほか、後半を書き急いだことも指摘され、またまた書き直しです。完成までの道は遠いです。

クリスチャンは、神様のみ心を第一に求めて、それに従っていきたいと願っています。自分の思いではなく、神様の思いを優先させたいのです。
そのような生き方は『主体性のない生き方』と捉えられることがあります。

世間では、一生懸命努力して自分の力で勝ち取って行く生き方がよしとされる傾向があります。童話を書いている仲間で『がんばって努力すれば報われる』ことをテーマとして書いている人は多いです。

けれども、自分の力ではどうしようもないことにぶつかったときはどうするのでしょう。現実には、努力しても報われないこともたくさんあり、自分の意志に反する状況に置かれ、その状況を変えることが不可能だとしたら、どうしたらいいのでしょう。

今回のわたしの作品は、戦国時代の小説です。少年が父親に反抗して家を飛び出します。どんなに働いても貧しさから抜け出すことのできない暮らしに別れを告げ、成功して城主になろうという夢を抱いて出発するのですが、人買いに売り渡されて見世物小屋で働くことになり、自分の無力さを思い知らされます。
どうしてもその状況から抜け出せないとわかったとき、受容していきます。のちに父親と再会し、父親が身代わりとなって助け出してくれます。

自分の力でどうしようもないところに置かれたときは受け入れられるように。努力によって変えることができることに対しては努力を惜しまないという生き方をしたいと思っているので、それが作品にも現れます。

ラインホルト・ニーバーの書いた詩を紹介します。(2006年にもこのブログで紹介しています)



                 祈り

変えることのできないものに対しては、

それを受け入れるだけの冷静さを、

変えることのできるものに対しては、

それを変えるだけの勇気を、

そして、変えることのできないものと、

変えることのできるものとを見分ける知恵をわたしに与えて下さい



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。




子羊の血(その2)

2012-07-25 20:39:45 | CS(子供伝道)

前回の続きです

真夜中ごろ、エジプトで悲しい叫び声や泣き声が響きわたりました。最初に生まれた子どもがみんな死んでしまったからです。でも、イスラエル人の子どもは守られました。神様が血を見て、過ぎ越して下さったからです。

パロはモーセとアロンを呼びつけて言いました。
「出て行ってくれ。もうごめんだ。これ以上お前たちがここにいたら何が起こるかわかったもんじゃない。早く、出ていけ!」

さすがのパロも自分の子どもを失ってショックを受けたのでしょう。とうとうイスラエル人がエジプトを出るのを許してくれました。

神様は、エジプト人にイスラエル人のことを良く思う心を与えてくださったので、エジプト人は金や銀、着物などをイスラエル人にくれました。これから荒野を旅するのに金銀が何の役に立つかと思うかもしれません。でも、これらは後になって、旅の間に神様を礼拝する幕屋を作るのに役立ちました。

イスラエルの人たちは荷物をまとめると、モーセを先頭に神様が約束して下さった土地、カナンを目指してエジプトを出発しました。

このときのイスラエル人の人数は男だけで60万人いたといわれます。全部で200万人以上いたでしょう。神様は最後の一人がエジプトを出るまで寝ずの番をされました。

神様が過ぎ越されたと言いましたが、このことを記念してイスラエルの人たちは毎年、過ぎ越しの祭りを行っています。およそ1550年後のイエス様の時代でも行われていましたね。そして約3550年後の今でも行われているそうです。

門につけた血は、イエス様が十字架で流された血を意味しています。血のついた家の子どものいのちが守らました。

わたしたちは、イエス様を信じただけで罪が赦され、永遠のいのちをいただけます。神様は、イエス様が来られるずっと前からこのようにイエス様のしてくださることを示してくださっていたのですね。 


このお話しを準備していて教えられたことがあります。

なぜ神様がたくさんの災いをエジプトに下されたのか……パロが頑なな心を持っていたから、それを懲らしめるためと思っていたのですが、実はパロを含めエジプト人が悔い改めてイスラエル人の信じている神様が本物だと認め、信じるようになるためだと教えられました。

エジプト人も神様によって造られた人間です。神様はエジプト人のことも愛しておられたのです。だからこそ、どんな災いを起こされてもすべてのエジプト人を滅ぼしたりはなさいませんでした。

出エジプト記を読むと、奇跡の大きさや目を見張るような出来事に心を奪われてしまいますが、そうではなく、出来事の背後にある神様の意図を知ることが大切だと思いました。

また、門につけられた血がイエス様の十字架で流された血を表すとは気づきませんでした。
このように旧約聖書には、イエス様のなさったことのひな型がたくさん書かれています。
書いていたモーセ自身も知らないことだったのではないでしょうか。聖書は人類の救済史と言われる訳がわかったような気がしました。

聖書の言葉 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)」

CS成長教案誌を参考にお話しの原稿を書きました。エジプト人が金、銀、着物をイスラエル人に渡すことは教案誌に書かれていないことです。視覚教材として手作りのパネルシアターを使いました。                  
                       おわり



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

子羊の血(その1)

2012-07-23 20:42:32 | CS(子供伝道)
20日は、我が家での家庭集会でした。牧師先生を含めて12名の方が来て下さいました。
ちょうど涼しくなって助かりました。それでも準備をしていたら、汗びっしょりになりました。
新しい方や2名の神学生が来て下さって、たくさんの恵みをいただきました。

今週の金曜、土曜は教会学校低学年の夏期キャンプです。家庭集会が終わったら、その準備で大忙しになり、ブログを書く時間もありませんでした。子ども46名、大人23名参加するので、名札を作るだけで何時間もかかってしまいました。

昨日の午後はスケジュールの最終確認をしました。最後にはゆっくり祈る時間が与えられてよかったです。


昨日は教会学校のお話しの担当でした。今月は出エジプト記に書かれているモーセのお話しを連続でしています。
先週は9つの災いが起こったお話しでした。(出エジプト記11:1~12-42)昨日お話ししたことの一部を紹介させていただきます。


【これまでのお話し】

エジプトに住んでいるイスラエル人は、奴隷としてこき使われていました。奴隷というのは、人間を牛や馬に対するように扱うことです。重いレンガを運ばされ、少しでも休むとムチがとんできます。イスラエル人は神様に向かって叫び、助けを求めました。
神様はイスラエルの人たちの叫びを聞き、救い出そうと計画されました。そのリーダーとしてモーセが選ばれました。

モーセとアロン(モーセの兄)は、エジプトの王パロにイスラエル人をエジプトから去らせて下さいと頼みました。パロはイスラエル人がいなくなると困るので、去らせたくありません。
神様はナイル川の水が血になったり、大量のカエルが出てきたり、ブヨやアブが出てきたり……と、9つもの災いを起こしました。そのたびにパロは出て行くことを認めるのですが、災いが去ると「行ってはならない」とことばを翻していました。

【きょうのお話し】

「今度は最後の災いだ」と神様がモーセに言われました。モーセは神様から聞いたことをパロに伝えました。

「今夜、神様ご自身がエジプトに来られます。そして、最初に生まれた子どもはみんな死ぬでしょう。貧しい人の家の子も、お金持ちの家の子も、家畜の子も、そして、王様あなたの子どもも……。でも、イスラエル人の家の子どもは誰も死にません。」

パロ王様は心の中で少し不安になりました。でも、それを打ち消して言いました。
「おどしているんだろう。そんなことが起こるはずはない。お前たちを出て行かせはしないぞ」
モーセはパロが心を変えないので、がっかりしてイスラエル人のところへもどりました。
今度はイスラエルの人たちに伝えなくてはなりません。

「みんな、よく聞くんだよ。今夜、神様がエジプトに来られる。そして最初に生まれた子どもがみんな死ぬ。でも、このことをすれば、わたしたちの家では誰も死なないと神様がおっしゃっている」
「子どもが死ぬだって!」
「なんと恐ろしいこと」
「このことって、何をすればいいのですか?」
人々は不安になって口々に言いました。

「家ごとに子羊を殺してその血を門とかもいに塗りなさい。神様は、その血をみて、血のついている家を過ぎ越される。それから、その羊を焼いて種をいれないパンを野菜といっしょに食べなさい。そして出発の支度をしなさい」

人々は、モーセの言う通りに子羊の血を器に入れ、ヒソプの葉に浸して門とかもいに塗りました。

つづく


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

いじめられているあなたへ

2012-07-18 17:05:25 | 社会
朝日新聞の一面に「いじめられている君へ」と題して書かれた記事が連日掲載されています。わたしは「いじめられているあなたへ」手紙を書きました。


世界中で自分だけがこんなにひどい目にあっている。だれも自分のことを理解してくれない。毎日がつらくて、生きるのが苦しいと思っていませんか。

40年以上も前ことですが、わたしも小学校、中学校のときいじめられました。小学校6年生のとき、体育の授業で幅跳びをしました。運動の苦手だったわたしは、必死に走って跳びました。それをみていたクラスの子が、「ガニウマ!」と言って笑いました。

ガニマタで馬のような走り方をしたからだそうです。「ガニウマ」は、それ以来わたしのあだ名になってしまいました。

一か月ぐらいたったとき、学級会で「最近いやなあだ名をつけられて傷ついている人がいるので、そう言う人は訴えて下さい。いやがっている人にはあだ名で呼ぶのはやめましょう。」という意見が出ました。数人が手を上げて「こんなあだ名で呼ばれるのはいやなのでやめてください」と発言すると、そのあだ名で呼んではいけないということになりました。

引っ込み思案のわたしはそれまで手を挙げて発言したことがなかったのですが、勇気を振り絞って「ガニウマと呼ぶのはやめてください」と言いました。

すると、「ガニウマって呼ばれてるんだ。おもしろいな」とひとりの男子に言われ、それからますますガニウマと呼ばれるようになってしまいました。何のための学級会だったのでしょう。
先生も教室にいて聞いていたはずなのに何のフォローもありませんでした。

中学1年のときは、東京から神戸の学校に転校したので、関東弁をしゃべっているということでいじめられました。「東京で買った筆箱なんやろ!」と言われ、筆箱をごみ箱に捨てられたりしました。中2のときは、クラスで友達がひとりもいませんでした。

でも、当時のいじめは、それ以上エスカレートすることはありませんでした。
今はメールで悪口を流したり、掲示板に書き込んだり、集団で暴行をしたり、脅したり、お金をまきあげたり……どんどん悪質になっていきます。自殺者が出て初めて問題が明るみに出るのでは遅いですね。

覚えていてほしいことがあります。
どんなひどい悪口を言われたり、暴行を受けたりしても、あなたの人格が損なわれることはありません。

たとえば「バカ」と言われたとしても、言われた人が「バカ」になるわけではないですね。
「お前なんか死んでしまえ」と言われたとしても、その通り受け止めないでください。その人が無責任に言っているだけです。もし、本当に死んでほしいと思っているのだとしたら、その人に大きな問題があるのです。

世の中には死んだ方がよい人間なんてひとりもいないのです。ひとりひとり使命があってこの世界に生まれてきたのですから、どんな人でも大きな価値があるのです。

また、「みんな言っている」という言葉に注意してください。
「あの人はうそつきだって『みんな』言ってるよ」と言われたことがありました。『みんな』と言われると、学校中、町中の人がそう言っているように感じ、恐ろしくなりました。

そんなことは決してありません。悪口を言う人は、後ろめたい気持ちがありますから、同意する人がみつかると嬉しいのです。同じように悪口を言う人がひとりでもみつかると、「『みんな』言ってる」と言います。『みんな』はすべての人ではありません。

今はどんなにつらくても、トンネルには必ず出口があるように必ず希望の光が見えてきます。あなたは知らなくても、あなたのことを心配し、大切に思っていてくれる方がいますから決して絶望しないでください。

あなたの存在は尊いです。どうか、かけがえのないいのちをたいせつにしてください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。




心から和解するには・・・(2012年サマー・スクーリングその4)

2012-07-17 15:13:08 | お茶の水聖書学院
7月3日~5日、お茶の水聖書学院のサマー・スクーリングに参加しました。
そこで聞いたお話しから得られたことを紹介しています。14日の続きで、今日が最終回です。

上の写真はスクーリングで泊まったヌエックの日本庭園。

イサクに与えられた子どもはエサウとヤコブの双子です。イサクは長男エサウを祝福しようとしたのですが、ヤコブに騙されてヤコブを祝福してしまいます。

でも、それは神様が最初から決めていたことです。イサクの思いを越えた神の恵みの介入でもあります。
ヤコブは祝福をだまし取ったことでエサウの憎しみを買い、伯父ラバンのもとへ旅立ちます。ベテルにきたとき、天の門が開けた夢を見て、神が共におられることを知ります。

創世記28章16節には「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と書かれています。


「聖なるお方の前で、『私は知らない』という自己認識なくして自己変革は望めない。ヤコブの認罪は、彼の自己変革と和解の基礎」
とK先生が言われました。

ヤコブはその後、伯父ラバンのもとで20年働きます。ラバンに騙されて自分のしたことを追体験させられます。一族を連れて故郷に帰ることになったとき、兄エサウを恐れて『兄の手から救ってください』と祈ります。

ヤボクの渡しで神様と格闘したとき、腿の関節がはずれてヤコブは神様に敗れました。でも、聖書には「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。(創世記32:28)」と書かれています。
神の前に敗れる者に、神は勝利を賜います。

ヤコブの自己認識が「私は知らなかった」から「私は足りない者です」に変えられたことが大切で、これが和解の基礎となったと教えていただきました。

イサクは穏やかで平和の人ですが、ヤコブは兄を出し抜いたずるい人、でも神と格闘するすごい人というイメージを抱いていました。

でも、父と母の家からひとり旅立ったとき、心細く感じたヤコブ。故郷に帰る時、エサウを恐れて一行の後ろをビクビクしながら歩いているヤコブの姿を思うと、自分の姿を見ているようです。
最も心細いとき、不安なときに神様がヤコブに現れていることに心動かされます。


神との格闘を通して、ヤコブは自分が足りない者だと気づきます。そして、まず祭壇を築き礼拝を捧げます。ヤコブは、兄エサウとの和解を神様に委ねたのです。

神様抜きの和解は本当の和解にならないと思います。
「ごめんなさい」とあやまって相手に赦してもらえても、それは表面上の和解でしかありません。心の中で「でも、悪いのは相手だ」とお互い思っていることがありますね。

かつて友人との間でトラブルがあっりました。表面上は和解したのですが、わたしはなかなかその人のことを赦せませんでした。赦せないことで苦しみました。

でも、あるとき、神様はその人のためにも大切なひとり子(イエスさま)のいのちを捧げて下さったことに気づきました。

神様がそれほどまでに愛している人をわたしは憎んでいていいのだろうか……。私の方がよほど罪深いではないか……と思い、友人を赦し、愛することができるように祈りました。

何年か経って、その友人と出会ったとき、(会えて嬉しい!)と思いました。不思議です。

憎しみやこだわりがいつの間にか消えていたのです。消して下さったのは神様です。努力ではなしえないことを神様がして下さったのです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。








偶然? それとも必然?

2012-07-14 09:24:58 | 教会
数年前、主人が交通事故にあいました。対向車が反対車線にはみだしてきて右側面をぶつけられ、車はスピンして道路脇の畑で止まりました。主人は救急車で病院に運ばれましたが、打ち身だけでどこも異常がありませんでした。

そのことを聞いた時、震えがきました。そして、何度も感謝の祈りを捧げました。車は廃車になってしまいましたが、体が無事だったことは奇跡といえるでしょう。

「守られたね」と言うと、神様を信じていない主人は「偶然だよ。運がよかったんだ」と言いました。
果たして、偶然ということはあるのでしょうか?


7/8の礼拝では『神の時の中で』と題してメッセージが語られました。
マルコ3:7-12の記事は、イエス様の行動で理解に苦しむところです。まず、パリサイ人たちがイエス様の暗殺計画をたてているとき、イエス様は湖の方へ退かれました。

イエス様は正しい目的のためにはどんな危険も顧みないで働かれるお方なのになぜ逃げたのでしょうか。

また、群衆が押し寄せてこないように小舟を用意させ、群衆と距離を置いたのはなぜでしょうか。

人々に癒しの奇跡を行ったことを話さないようにといましめられたのはなぜでしょうか。

それは十字架の時がまだきていなかったからです。このときのイエス様にとって、パリサイ人と対抗することより、また、奇跡をたくさん行うことより、福音を伝えることが一番大切でした。イエス様は父なる神の計画に忠実に歩まれたのです。

「なぜですか?」と思わず問いたくなるできごとが起こると、偶然起こったことだと思ったりします。でも、神さまにとって偶然ということはなく、すべてのことが必然なのです。

人間は時間と空間に制約されているので、過去に起きたことや未来のことが見えませんが、神様は時間空間に支配されないお方です。

人間の目線で物事を見ると、Good timing かBad timing になります。
神の視点で物事を見ると、God timing になります。

わたしたちは、納得できないことを素直に受け止めるのは難しいです。でも、わたしたちは神の行われる業を最初から最後まで見ることができません。神様が最もふさわしい時に導いて下さると信じて受け止めることが大切ですね。

「キリストは私たちを神の時に生きるように招いていて下さいます。」とI先生が言われました。


主人の交通事故の場合も、神さまの必然なのですね。でも、どんな意味があるのでしょう。いつか主人があのときは偶然だと思ったけれど、実は神様に守られていたんだと気づく日があるのではないかなと期待しています。

God timingはbeautiful timing ですね。


「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3:11)」



『2012年サマー・スクーリング』はあと1回あるのですが、来週書きます。

わたしのHP「生かされて・・・土筆文香」一昨日久々に更新しました。先月書いた「心の傷・・・回復への道」をアップしました。ブログに書いてないことも書き足しましたのでぜひごらんください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

あきらめないで(2012年サマー・スクーリングその3)

2012-07-11 17:04:02 | お茶の水聖書学院
昨日は病院の帰りに亀城(きじょう)公園内にある土浦博物館と東櫓を訪れました。亀城とは土浦城のことで、たびたび水害に遭っているけれど、水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城と呼ばれているそうです。

いま書いている児童小説は戦国時代の土浦、鎌倉を主な舞台としているので、土浦城の歴史を知りたくて行きました。(5月には鎌倉古道を歩きました)

戦国時代の資料は少なく、土浦城も今はほとんどが焼失して門と堀ぐらいしか残っていません。そしていつ築城されたのか定かではないそうです。でも、戦国時代には土浦城が建築されていたことは確かです。はるか昔を想いながら、石垣や堀にかけられた石の橋をさわってきました。

土浦博物館と東櫓は16日まで無料開放されています。
上の写真は東櫓です。かつてはこの上から霞ヶ浦が見えたそうです。


サマー・スクーリングでの講義の紹介の続きを書きます。

アブラハムの息子イサクは、「聖書の中で最も分かりにくい人物の一人(ラビアディン・シュタインザルツ)」と言われているそうです。

イサクは、飢饉に遭遇したとき黙々と種をまき、主の祝福を受け「百倍もの収穫」を得ました。
井戸を掘ると、異民族から妨害されたり奪われたりしますが、争わずに別の場所で井戸を掘り続けます。

しもべたちはイライラして井戸を奪ったゲラル人と戦うか、その土地を去るかにしてほしいとイサクに訴えたことでしょう。でも、イサクは井戸掘りをあきらめず、黙々と井戸を掘り続けます。その姿にしもべたちも思い直して井戸を掘ったのです。

そしてついに「水が出ました」というところに導かれました。

ブルックマンは「イサクは平和の人である。彼は平和に生きるだけでなく、彼の周囲の人々に平和をもたらす。彼は祝福を受けるだけでなく、それを担い、祝福をもたらす」と言っています。


イサクのあきらめない信仰に教えられました。

創作も井戸を掘る作業と似ています。いつ水が出るのかわからずに黙々と掘っているようなものです。ときどき投げ出したくなるのですが、「水が出ました」という声が聞こえるまで書き続けたいです。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひごらんください。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


「なぜ?」と問いたいとき(2012年サマー・スクーリングその2)

2012-07-09 16:51:12 | お茶の水聖書学院
K先生の講義は1時間半×5回ありました。すべてを紹介することはできませんが、印象に残ったこと、講義を聞いて心動かされたことを書いていきます。
聖書の創世記からアブラハム・イサク・ヤコブについて語られました。

アブラハムは、神様から子孫を星の数ほどにするという約束を受けながら、なかなか子どもが与えられませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳のときようやく子どもが与えられて、イサクと名付けました。
旧約聖書の時代は、礼拝するとき、罪の贖いとして動物を殺して祭壇の上で焼き、全焼のいけにえを捧げていました。

イサクが少年になったとき、神様はこともあろうにそのイサクをいけにえとして捧げなさいとアブラハムに命じます。アブラハムはどんなに動揺し、苦しんだことでしょう。
でも、聖書にはアブラハムの心理描写がまったく書かれていません。また、なぜ神様がこんな苛酷な命令をしたのか、その理由についても書かれていません。

ギブソンは「聖書には心理的観察が存在しない。神はその命令についての理由を与えたまえず、ただ命令されるだけである」と言っています。

アブラハムは神様から「試された」のです。アブラハムはそれに従いました。
「納得したから従ったのではなく、神が命じられたから従っただけ」とK先生が言われました。

アブラハムがイサクに手をかける前に「その子に手を下すな」と神様がストップをかけたので、イサクの命は守られたのですが、アブラハムにとって生涯最大の試練でした。

わたしだったら、わが子を連れて山を下りてしまうかもしれません。神様から逃げられないとわかっていても必死に逃げて隠れるか、「なぜこんなひどいことをさせるのですか?」と神様に食ってかかるでしょう。

「なぜですか、どうしてですか」と問う私たちの側に信仰の本質的な拠り所を置かないこと。「なぜですか、どうしてですか」と問いつつも不可解の中で、理不尽な中で、そのなぜに十字架で祈られたイエス御自身と向き合うことが大切と教えていただきました。

考えてみれば、「なぜ?」と問いたいのは何の罪もないのに十字架に架けられて苦しみ、死んでくださったイエス様の方です。

苦しい目にあうと理不尽だと思い、どうしてわたしだけがこんな目にあうの? と腹を立てるのですが、イエス様の十字架ほど理不尽なことはありません。でも、イエス様は黙って神様のみ心に最後まで従いました。

神が一匹の雄羊を備え、イサクを救い出してくださったように、試練を与える神様は、試練の答えを備えてくださっているのですね。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

2012年のサマー・スクーリング(その1)

2012-07-06 15:19:08 | お茶の水聖書学院
3日からお茶の水聖書学院(OBI)のサマー・スクーリングに参加して、昨日無事帰ってきました。体調を整えるため病院通いまでして備えていた効果があって、3日間元気で過ごせたことがいちばんの感謝です。

去年は軽井沢めぐみシャレーで行われましたが、今年は埼玉県嵐山の独立行政法人女性会館(ヌエック)です。
広い敷地で緑に囲まれた施設はロケーションもよく、快適でした。
上の写真は研修棟から宿泊棟へ行く道で撮りました。

2回目の参加だったので、昨年ほどではありませんでしたが、着くまではとても緊張していました。
去年ご一緒だった方たちとの再会を喜び、新しい方と知りあえることを楽しみました。

今年は2人部屋でしたが同室の方と打ち解けて、ずっと以前から知り合いだったような気がしました。
3日間で5回の講義があり、講師のK先生の篤い講義にわたしも篤くなりました。講義の内容は後日紹介させていただきますね。
講義の前に司会者のお証しが聞けることも喜びでした。

休み時間に卒業論文の指導を受けました。2年越しで書いている論文です。下書きを見ていただき、書き直すところを教えていただいたので、完成への道がようやく開かれました。


朝の散歩で不思議な木を見ました。一本の木から枝がもう一本の木に伸び、繋がっているのです。そして、継ぎ目がありません。『男女共同参画の木』と書かれていましたが、祈りによって、神様と繋がる、人と繋がるということを想っていました。

孤独を感じたとき、手を伸ばすとしっかり受け止めてくれて、その手が体に食い込んで痛くても、決して離しません。その手から喜びが流れてきたら一緒に喜び、苦しみが流れてきたら共に苦しむ。繋がるということは、そういうことなのではないでしょうか。

神様と人との繋がりが深められた3日間でした。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

心を動かすメッセージ

2012-07-02 21:08:03 | CS(子供伝道)
明日からスクーリングに出かけるので、その準備と日本・クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で秋に出版する本の校正で大忙しの一日でした。


土曜日のCS(教会学校)教師研修会は、実りある楽しい時間でした。親子クラスから幼稚科、小学科、ティーンズ(中高科)の教師50名以上が参加しました。牧師先生からレクチャーを受け、夕食を共にしました。また、夕食後は小学科の教師だけ小グループに分かれての語らいの時があって、充実した時間を過ごしました。

人の心を動かすようなメッセージを伝えるにはどうしたらよいか……を考えるために「男はつらいよ」47作からのDVDを見せていただきました。

鉛筆を買ってもらうために満男(寅さんの甥)は、「この鉛筆、買って下さい」と言いたいことを直接言葉にします。

一方、寅さんは、鉛筆を削ってくれたお母さんのことを語り、鉛筆と共に生きた暖かい幸せな生活を語りました。相手は、鉛筆を持ったら暖かい生活ができるかもしれないと思って、鉛筆を買いたくなります。
言いたいことを直接言わず、イメージを提示することが大切なのです。

「メッセージは神がいる生活・世界を描き、その世界が聞き手とどういう関係にあるか感じさせることが基本」だと教えていただきました。



このことは、子どもたちに聖書のお話しをするときだけでなく、人に伝えるとき、書いて伝えるときにも当てはまると思いました。

わたしは長い間創作をしていますが、初期のころは、あきらかにキリストをあらわす人物を登場させ、伝えたいことをダイレクトにセリフにしていました。
その作品は、読んだ人の心を動かすことがなく、メッセージは届きませんでした。

いまは言葉ではなく、作品のストーリーそのものが「神の愛」をあらわすものにしたいと願って書いていますが、そのように書けているのかどうかわかりません。書けるようになりたいと祈りつつ……。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

拍手ボタンです

web拍手