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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

退院後 (その3)

2005-11-30 13:13:39 | 乳癌
ちょうどそのころ礼拝でメッセージを聞いて、自分の内面を見つめるきっかけが与えられました。

自分の本当の姿を見つめると、愛に欠けた、自己中心な者であることに気づかされます。人のためにと言いながら何かをしても、結局は自分のためなのです。自分が人から認められたり、評判が良くなることを無意識のうちに望んでいるのです。
人を愛すると言いながら実は自分が大事で、まず自分を愛しています。
人を愛するということは、その人のために損をすること、犠牲を払うことです。究極の愛は、その人のために命を捨てることです。
でも、わたしは自分が損をしない範囲で人に親切にしてきたような気がします。

愛する友のために命を捨ててもいいと思っていましたが、実際に死と隣り合わせになったとき、死ぬのがいやで、友だけでなく夫や子供のためにも命を捨てることなど出来ない自分にきづきました。


イエスさまは、
「自分と同じように自分の隣人を愛しなさい」
といわれました。
それなのにわたしは、自分と同じように人を愛することができない者だということがわかって悲しくなりました。
そんなとき、星野富弘さんの詩を読みました。


「いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった」



わたしも自分の命を失いたくないと思っていたとき、苦しくてたまりませんでした。
富弘さんは、命より大切なものがあると知って生きているのが嬉しかったと言っています。

命より大切なもの……それはイエスさまのことだと思ったとき、はっとしました。

ひとつしかない命を人のために捧げることのできない自分に気づいた今、イエスさまのして下さったことがどれだけ大きいことかと思い、心が震えました。

ひとり子の命をこんなに愚かで卑怯なわたしのために差し出して下さった神さまの愛が迫ってきました。
これほどまでにわたしを愛してくれる神さまが、悪いようにするはずがない。たとい転移したとしても、それがわたしにとって最善なのだと思いました。


「あなたは、わたしを信頼しますか?」
イエスさまは、ゆだねきれないわたしに問いかけます。
「はい、信頼します主よ」
「あなたは、わたしを信頼しますか?」
 再びイエスさまが問いかけます。
「はい、信頼しますとさっき言ったではありませんか」
「あなたは、わたしを信頼しますか?」
 イエスさまは三度同じ事をいわれます。
「ごめんなさい。いままで、信頼しきっていませんでした。だからゆだねられなかったのです。ゆだねますいっさいをゆだねます」


わたしは、泣きながら祈りました。
「自分にこれから起こること、病気のこと、いっさいを主にゆだねられるようにして下さい」

ゆだねきれたかどうかわかりませんが、その日からふいに涙が出たり嘆いたりすることがほとんどなくなりました。夜もぐっすり眠れます。
いま、生きているということは、自分の意志で生きているのではなく、大いなる方によって生かされているのだなあと実感しています。

退院後 (その2)

2005-11-29 08:41:58 | 乳癌
放射線治療が終わると、後は1か月に1度の外科の診察と、3か月に1度の検査だけです。緊張が解けたのと同時に不安が襲ってきました。(放射線を当てている間は少なくとも再発はしないだろう。でも、これから再発の可能性が出てきた。転移もすでに始まっているかもしれない)と考えて落ち着かなくなりました。

それから、リンパ転移についてインターネットで調べると、3個以上転移のある人は10年生存確率4%と書いてあるではありませんか!(2005年11月現在にはその記事はなくなっており、確かなところはわかりません)
命がいちばん大切。まだ死にたくない。やりたいこともある。親より早く死ぬのは親不孝だ。なにより主人がひとりになってしまう……。

色々考えて夜も眠れなくなってしまいました。そして「乳がんになって」に書いたように神さまにゆだねようと決心していったん落ち着いたのですが……。
昼間は明るくふるまっていても、夜、床につくと涙があふれてきます。人前では涙を見せまいとしていますが、ひとりになると急に悲しみが襲ってきます。情緒不安定な日々が続いていました。

そのころからホルモン剤の副作用が出て、更年期症状(めまい、のぼせ)も日々ひどくなっていきました。フラッシュといって突然汗が噴き出してくる現象もしばしば起こります。夜は寝汗をかいて何度も着替えなければなりません。生理が止まったのはよかったです。子宮筋腫で毎月大変だったので……。
手術後、医師に「転移の可能性が大きい」と言われていたので、外科の診察を受けたとき、「転移してないか心配でならない」と言うと、「心配しても何のいいこともない。転移しているかどうか調べるために3か月に1度検査するんだから」と、言われてしまいました。

確かに心配していいことなどありません。でも、不安な気持ちが沸き上がります。心配するのはやめようと思えば思うほど心配になります。転移の可能性が大きいと言われて心配しない人などいないのでは……? 
3か月に1度検査するから安心というわけにもいきません。検査して、もし転移がわかったら……転移の場所にもより、また癌細胞の増殖の速度にもよるでしょうが、最悪の場合は「余命〇か月」ということにもなりかねません。
術後初めての検査(血液検査、腹部エコー、レントゲン)の結果を聞きにいったとき、待合室で胃の痛くなる思いでした。

「大丈夫です」といわれてほっとしましたが「まだ術後、日が浅いからね」という医師の言葉を聞いて(それなら、日にちがたてば転移するということなのかしらと)勘ぐってしまいました。

それにしても、なぜこんなに不安なのでしょう。神さまの善意を信じているのになぜ心が騒ぐのでしょう。それは、神さまにゆだねきれてないからです。ゆだねるというのは、ひなが親鳥の翼の下にいるとき、嵐が来ても何の不安もなく眠っていられるように神さまにすっかりおまかせすることです。
自分の体であっても、体の中でどのようなことが起こっているのか全くわからない者です。医師でさえ、検査をしなければわからないのです。検査をしても癌細胞のひとつひとつの行方や、先の予想もできません。
でも、神さまはすべてご存じです。神さまにゆだねきれたらどんなにいいだろうと思いました。

退院後  (その1)

2005-11-28 11:10:57 | 乳癌
乳癌の温存手術を受けて、退院後放射線治療が始まりました。
放射線治療は約5週間、土日をのぞいて毎日通わなくてはなりません。病院まで歩くと50分。自転車で20分。バスもありますが、乗り継がないといけないのでバスを使うと1時間以上かかります。

運転のできないわたしは、自転車で通うことにしました。主人はタクシーを使うように言いましたが、「もったいない病」のわたしは、治療費もかかるのに『タクシーなんてとんでもない』という考えです。

1年でいちばん寒い時期です。でも、「毎日通わなくては」という緊張感で寒さなどあまり感じませんでした。
25回のうち2回ほどみぞれが降って主人に車で送ってもらいましたが帰りは歩いて帰ってきました。

放射線に通っている間は、不思議なほど元気でした。病院の帰りに友人と会って昼食を共にしたり……。

教会の礼拝にも(この時も自転車で)退院して3週間後から出席しました。

 

放射線には副作用がほとんどないそうです。
はじめはこわいと思いました。でも、全く体に害のないものだから大丈夫という医師の説明を受けて安心しました。
放射線科の先生も技師の方々もやさしくて、冗談を言って緊張をほぐしてくれました。


でも、部屋に入ってベッドに横になり、ドアが閉じられると恐ろしくなります。
自動ドアが閉まるとき、ギーィッとすごい音がします。この音を聞くとぞっとします。
誰か一緒にいてくださればいいのにと思います。照射の時間はたったの1分です。でも、その間、左手を上げたままじっとしていなくてはなりません。
少しでも動くと放射線の当たるところがズレてしまいます。動いてはいけないと思うと緊張して体がこわばります。


1分ってけっこう長いです。最初のうちは数をかぞえていました。でも、その1分間に主の祈りをとなえることにしました。
心の中でゆっくりとなえてちょうど1分です。

主の祈りとは、イエスさまが弟子たちに教えて下さった祈りのことで、教会では礼拝のとき毎週祈っています。
主の祈りをとなえると、ひとりじゃないんだと思えて安心しました。

照射が終わるとドアが開いて技師の方がきてくれます。着替えの時間を入れて5.6分で終わりです。

3週間目くらいになると、放射線を当てているところが、少し赤くなり、ひりひりしてきました。
それは日焼けと同じ作用なので誰でもそうなるのだそうです。
しばらくすると、こんがりと小麦色に色づいてきました。それは、あとから皮がむけてきれいになりました。



「25回って長いなあ」
とはじめは思っていました。でも、だんだん残り回数が少なくなってきて、あと2回だと思っていくと、いきなり「今日で終わりです」といわれました。
数え間違えをしていたのです。早く終わって欲しいと思っていたのに「ええっ、もう終わってしまうの!」という気持ちでした。

かなえられなかった祈り

2005-11-26 13:02:32 | 日記
以前わたしは毎年クリスマス童話を投稿していて、送るときには「入選させてください」と祈ってから送っていました。最初はだめでも、3.4回目くらいには、きっと……。と思いながら投稿を続けました。でも、佳作にも入りません。
何がなんでも入選したいという自分の思いをかかげて、一方的に神様にお願いしていました。それがかなえられないと、自分はだめな人間なのだと落ち込むわけです。12月のはじめにその結果がわかるので、落ち込みがひどい年はクリスマスまで落ち込んで、クリスマスを心から祝えないこともありました。
 
それでも、あきらめきれずに毎年新しく書いてしつこく投稿し続けました。七転び八起きだと思って投稿したので、8回目に落選したときがいちばんこたえました。落選のたびに書くのをやめようと思うのですが、気を取り直して翌年9回目に投稿しましたが、やはりだめでした。募集はその年で終わりになってしまいました。

そのとき、祈りがかなえられないからといって落ち込むのは、神さまを全面的に信頼してないことだと気づきました。神さまに結果をすべておまかせして待とうと思い、別のところに小説を応募すると、思いもかけず入選したのでした。

イエスさまは、十字架にかかる前に

「わが父よ。できますならばこの杯をわたしから過ぎさらせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。(マタイ26:39)」


と祈っています。父というのは神様のことで、杯というのは十字架にかかって死ぬことを意味します。イエス様は、できれば十字架の苦しみを避けたい。でも、神様のみこころのようになさってくださいとおっしゃっています。

祈りとは、自分の願いを押しつけることではなく、神様のお考えの通りなさってくださいと願うことなのだとようやくわかりました。それは、9年間祈りがかなえられなかったから、わかったことでした。
神様は別の方法でわたしの創作作品を用いるようにして下さいました。かなえられない祈りで、「待つ」ということも教えられたのでした。

悲しい知らせ(続き)

2005-11-24 12:41:43 | 日記
2年前、乳癌で入院していたとき同室で親しくさせていただいていた方が今年の1月に亡くなったという知らせをいただきました。
入院中はご高齢の両親が毎日彼女を見舞っていました。ご両親にとても大事にされてきた方だなあという感じがしました。

年末には彼女も退院しました。翌年の春になり、ふたりとも元気になってきたのでランチの約束をしました。住まいは近くでしたので待ち合わせして行く予定にしていました。ところが、その日の朝「急用ができて行けなくなった」と電話がかかってきました。

また、いつでも機会はあるからと思っていたのですが、その後彼女の体調がおもわしくなくなって、それきり会うことはなかったのです。それでも、手紙のやりとりはしていました。(彼女はメールはしないので)いつもピンクのチューリップの柄のかわいい便せんに手紙を下さいました。

 去年のクリスマスにカードと聖書の言葉入り卓上カレンダーを送ると、お母様から電話をいただきました。「いま、入院しているのでお手紙の返事が書けなくて」と言われたので、わたしは「返事はいりませんよ。お見舞いに伺います」と言いました。
ところが、翌日またお母様から電話があり「お見舞いに来て欲しくないと言っているので……」と申し訳なさそうに言われました。自分の病んでいる姿を知人に見られたくないという気持ちなのかもしれません。かんたんに「お見舞い」などと言ってしまって、そのことでお母様にも彼女にも思い煩わせてしまい申し訳なかったと思っています。

それから何の連絡もとりあわないまま1近くたちました。彼女は1月に亡くなっていますから、あれからひとつきもしないうちに亡くなっていたのですね。わたしのあげたカレンダーをめくることもなかったのです。
何も知らないわたしは、毎日欠かさず彼女と彼女のご両親のことを祈っていました。なので、そんなに長い間、コンタクトをとってないという気はしていませんでした。

わたしは毎朝、40人くらいの友人知人のことを祈っていますが、その中には何十年も会ってない人もいます。でも、祈っているとその人が親しく感じられます。これは全く一方的な思いですが……。

1年近くも前に亡くなっていた人のために祈っていたとは……。
でも、このことは無駄だったのでしょうか?彼女の回復を祈っていたのですが、その祈りはかなわなかったわけです。でも、祈り続けてきたことは無駄ではないと確信します。これからは、大事な娘さんを亡くされ、心を痛めているご両親が少しでも慰められるようにお祈りします。
 
 彼女と出会えたことを感謝しています。

悲しい知らせ

2005-11-23 15:47:52 | 日記
喪中の葉書が届きました。2年前、乳癌で3週間入院しましたが、そのとき同室で親しくさせていただいた方が亡くなったとの訃報でした。
ショックです。

「一緒に頑張って元気になろうね。元気になったら、おいしいものを食べにいきましょう」と約束していたのに……約束は果たされぬままでした。短い期間であっても入院生活を共に送った人は、戦友のようなものです。わたしより10歳くらい年上ですが、少女のような心を持っておられる人で、女性らしい魅力も備えていました。

 彼女は、わたしが入院した1週間後に入院されて、わたしの退院の後4.5日後に退院されました。わたしとはちょうど2週間、向かい側のベッドで共に過ごしました。彼女はそのときは手術を受けませんでした。彼女の病気がどのようなものであったのか、何も語らないのでわかりませんでしたが、癌病棟に入院していたのだから、癌なのでしょう。でも、少なくともそのときは、わたしよりずっとお元気でした。
 
 わたしが自分の病気のことを(術後リンパ転移があったことも)あっけらかんと大きな声でぺらぺらしゃべると、「そんなこと、人に聞かれては大変だわ」と注意してくれました。わたしが退院する日は、再会を約束して別れ、忘れ物を取りに病室に戻ると、彼女は泣いていたのです。泣きながら、「寂しい」とぽつりと言ったことが忘れられません。

祈り  (その2)

2005-11-22 11:44:26 | 聖書から
 祈りたいけれど、言葉が出てこない。何と祈ったらいいのかわからないときがありました。神さまは心の中すべてを知っておられるのだから、わざわざ祈らなくてもいいのでは……とさえ思いったこともありました。そんなとき、祈りは子どもが親に話すのと同じようなものだと教えられました。
「お母さん、今日こんなことがあったよ」と、幼子が片言で母親に一生懸命話している姿をみました。母親がすでに知っていることを言っているのかもしれません。それでも、母親は子供が話しかけてくれるのを喜びます。どんなに言葉が足りなくてもです。
 
 それと同じで、父なる神さまもわたしたちが祈るとき、それを喜んで下さるのですね。
 嘆きのつぶやきや、うめき声でさえ、神さまに向けて発するとき、祈りとなり、それは確実に神さまに届きます。

聖書の言葉
「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると主は私の声を聞いてくださる。詩編55-17」

祈り  (その1)

2005-11-19 12:59:24 | 聖書から
友人になぜ祈るのかと聞かれました。それは確かに聴いて下さるお方がいると信じているからです。
もちろん、熱心に祈ったからといって天から声が聞こえてきたりするわけではありません。でも、祈りは神さまとの会話ともいいますから、祈りは聴かれていると信じています。

神の存在を信じられない人にとっては、祈りなどは非科学的なもの、あてにならないものと考えるのではないでしょうか。でも、死ぬか生きるかの危急なときには、「神さま、助けて!」
と叫び祈る人が多いですね。

クリスチャンホームで育った子供は、親が祈るのを小さいときから見ているので、祈ることを自然に覚えます。しかしながら、わたしはクリスチャンホームで育ったわけではないので祈ることに対して抵抗がありました。祈って何でもかなえられるなら、悩みなんかなくなる。いくら祈ってもどうにもならないなら、祈っても意味がないと思っていました。

でも、祈りが「聴かれる」ということと、「かなえられる」ということは別だと知ったとき、はっとしました。神さまはどんな小さな祈りでも聴いて下さっています。正確にいえば、祈る前にわたしたちの思い、願い、悩み、心のうちすべてをご存じです。そして、祈ったときすぐにかなえられることもありますが、かなえられないこともあります。何年祈ってもかなえられないことがあります。
希望校に入りたい。結婚したい。子供を授かりたい。お金持ちになりたい。病気が癒されたい……等。

かなえられないのは、神さまに祈りが届いていないのではありません。小さな子供がナイフがほしいと親に願っても、親は今この子に持たせるのは危ないと判断したら与えません。子供にいちばんふさわしい物を与えますよね。それと同じで、神さまはその人にいちばんふさわしい時期にいちばんよいものを与えて下さいます。

祈っても、なかなかかなえられないとき、待たなけれなりません。待つということは、忍耐が必要ですが、それは神さまからの訓練のときです。

これを読んでいる方で、いま患難の中にあって、身が切られるようにつらい思いをしている人がいましたら、あなたの苦しみ、涙をすべて知っておられる方がおられるということを覚えて下さい。あきらめずに希望を持って祈って下さい。あなたの涙がすっかりぬぐい去られる日がきます。わたしも祈ります。

聖書のことば

「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。(ローマ5:3-5)」

「また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(黙示録7:17)」



主の祈り

2005-11-17 16:43:34 | 聖書から
わたしは毎朝起きるとすぐ聖書を読み、その後で祈っています。以前は自分と家族のことばかり祈っていました。~して下さいという祈りばかりでした。

教会で、願いをかなえてほしいという祈りばかりではいけないと教えられてはっとしました。何と自己中心な祈りだったのだろうと……。願いをかなえてもらうことが信仰の目的となってしまったら、それは御利益宗教です。キリスト教は決して御利益宗教ではありません。家内安全、無病息災は誰でも願うことです。もちろんそれを祈ってもいいと思います。

イエスさまは祈りの手本「主の祈り」を示して下さいましたが、まず最初に「主のみ名があがめられますように」と祈ることを教えて下さいました。

主の祈りを紹介します。(この主の祈りは、わたしの通っている土浦めぐみ教会で祈っているものです。多くの教会で祈られているものは(文語体で)少し言葉が違うかもしれませんが、意味は同じです)

天にいます私たちの父よ。
御名(みな)があがめられますように。
御国(みくに)が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧(かて)を、きょうもお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。
国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン


主の祈りは、教会の礼拝の中で毎週祈っています。
小学生のとき、教会学校へ通っていた従妹から主の祈りを教えてもらいました。当時わたしは、教会へは行っておらず、神さまのこともイエス・キリストのことも知りませんでした。けれども、「天にましますわれらの父よ」という祈りを意味もわからなかったのですが不思議な気持ちで聞いたのをはっきりと覚えています。

16歳の犯罪……どうして人を殺してはいけないのか(3)

2005-11-15 18:11:11 | CS(子供伝道)
「どうして人を殺してはいけないか?」ということを聖書を用いずに話そうとすると、子供たちが納得する答えを出すのは難しいです。
人殺しは殺人罪だからダメだと言うだけでは納得しないでしょう。法で裁かれなけば悪いことではないと考えると、(極端な例ですが)殺人を犯しても誰にも知られなければ悪くないということになってしまいます。
殺人犯に対して、「あの人は人間じゃない」と言う人がいます。少なくとも自分と同じ人間だとは思えないからそう言うのでしょう。
でも、殺人犯の心理を書いた物を読むと、その人が特別冷酷な人なのではなく、追いつめられて人を殺してしまった。ほんの小さな憎しみ、ほんのささいなきっかけから殺人という行為に至ったという例が多いことに気づきます。
もちろん例外はありますが……。

自分が殺人罪を犯していないのは、環境が整えられ、守られているからだけで、心理的には殺人犯に近いときがあると思うことがあります。

「あの人なんかいなくなればいいのに」と心の中で思うことは、心の中で人を抹殺していることで、実際に殺さなくても殺人と同じ罪なのだと聖書はいっています。

小さな憎しみの芽がいつの間にかぐんぐん育って、心の中は憎しみでいっぱいになることがあります。憎しみを抱くと、その人自身の心も蝕まれていきます。

「自分の敵を愛し迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」
と聖書に書いてあります。ひとりひとりが憎しみの代わりに愛を持つことができたら、戦争もなくなり、殺人事件もなくなるでしょうね。そうなってほしいと心から願います。

16歳の犯罪……どうして人を殺してはいけないのか(2)

2005-11-13 17:18:24 | CS(子供伝道)
神さまなんてウザイ、ばかじゃないのとのコメントをいただきましたが、わたしも以前は神さまという言葉を聞いたり、宗教の話しを持ち出されると鳥肌がたつほどいやでした。だから、書いた人の気持ちがわかります。

「あなたのために神さまに祈っていますよ」と言われたときは、祈って下さいなんて頼んでないのに……神さまなんかわたしには関係ないと腹をたてていました。
目に見えない神さまを本気に信じている人などいないと思っていました。もし本気で信じている人がいれば、その人は狂っているか、大バカだと……。
 
 でも、今のわたしはたとえ人から「大バカ」と言われても、「神さまって本当にいるんですよ」と言います。「それなら証明して」といわれても、それはできません。風は目に見えませんが、風がふくと木の葉が揺れたりしてわかりますよね。神さまの存在も、目には見えないけれど感じられるのです。そして、どうして人を殺してはいけないのか?という問題を考えるとき、神さまの存在を否定しては、正しい答えが出せないのです。

【わたしたち人間を造られた神さまは、ひとりひとりをとても愛しておられます。でも、最初の人間アダムとエバが神さまの言いつけにそむいて木の実を食べてしまってから、人間は罪を犯すようになりました。罪というのは法に触れるものだけをさすのではありません。憎しみ、嘘、嫉妬等、心の中で抱く醜い思いも罪といいます。

神さまは、人間に永遠の命を与え、エデンの園のような天国に住まわせたいと思っておられます。でも、罪のある者は天国に入ることができません。人間は、自分の力では、自分の罪を消すことができないので神さまは、人間の罪を赦すためにご自分の一人息子であるイエス・キリストを地上におくりました。イエスはマリヤの胎をとおして人間の赤ちゃんとして生まれました。

イエス・キリストが生まれて約30年たったとき、十字架につけられて死にました。このことは、イエスが生まれる前から計画されていたことでした。イエスは神の子ですので罪がありません。罪のない者が、罪のある人間の身代わりになって死んで下さったのです。イエス・キリストは死んでから三日目によみがえりました。

イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったおかげで、罪のある者でもイエスを信じるだけで罪赦され、永遠の命をいただけるようになりました。】というのが下記の聖書の言葉の説明です。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためある。(ヨハネ3:16)」
神さまはひとり子のイエス・キリストを十字架につけるほど、わたしのことも、あなたのことも、あの人のことも愛して下さっています。
だから、このような(神さまに特別に造られ、特別に愛されている)人間を(自分も他人も)殺してはいけないのです。
イエス・キリストは、心の中でも人を殺してはいけないといわれました。それは、すべての殺人は、憎むこと、嫌いになること、腹をたてること、赦せないという感情から起こるからです。
人を殺したら神さまはとても悲しまれます。死んでしまった人の家族や多くの人が悲しみます。自分の一生を苦しめます。
殺してしまった人にどんなにあやまっても、その人は生き返りません。でも、殺人者を赦すことの出来るお方(神さま)がおられることを忘れないでください。
人を殺さない(心の中でも実際にも)ためにはどうしたらいいでしょう?
1)赦すこと、愛することをイエスさまから学ぶ。2)友達の悪いところばかり見るのではなく、いいところを見つける。3)暴力的なビデオや漫画、ゲームなど見ない、やらない。4)友達に対して思いやりの心、優しい心を持つ。etc……。
これらのことを心がけることが大切です。以上が昨年夏に教会学校で小学生に話された内容です。

16歳の犯罪……どうして人を殺してはいけないのか(1)

2005-11-12 17:35:11 | CS(子供伝道)
16歳の犯罪が続き、ショックを受けています。昨年、小学生が同級生を殺してしまうというショッキングな事件が起きたとき、わたしの通う教会の教会学校では「なぜ人を殺してはいけないのか」ということについて小学生に話をしました。その話の内容をかいつまんで紹介したいと思います。
(これは、「生かされて……土筆文香」のHPつれづれ日記3月にも掲載しました)

どうして殺してはいけないのかというと、十戒に「人を殺してはいけない(出エジプト記20:13)」とあるからです。十戒とは神様が人間に与えて下さった10の命令です。
また、すべての人は、神様によって造られたのです。だから、どんな人も殺してはいけません。人間は他の動物とは違う特別な存在として……神様と話したり、賛美したりできる存在として造られました。
「神はこのように、人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)」と聖書にあります。
神様は、すべての人を……ぼくも、わたしも、君も、あなたも、この人も、世界中すべての人をいちばん良くできた尊い存在として見て下さっています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43-4)」と神さまは言っておられます。


賢者の贈り物  (日記)

2005-11-11 12:08:08 | 日記
読みたい本はたくさんあるのに、最近ゆっくり読書する暇がありません。特別忙しいというわけでもないのに……。パソコンのやりすぎですね(反省)
創作を続けていると、放出するばかりで頭がスカスカになってしまいます。文学作品をじっくり味わいたいと思って新しい試みを始めました。図書館でカセット文庫を借りてきて、家事をしているときに聴くことにしたのです。

朗読を聴くのは、読むのとは別の味わいがあります。ちなみに最近借りてきた物は、芥川龍之介の蜘蛛の糸、仙人、河童。アンデルセンの人魚姫、オー・ヘンリー短編集、宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュ……等どれも昔読んだものばかりで、よく知っている物語ですが、新しい発見があって感動しました。

オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」は高校生の頃読みました。ジムとデラという貧しい夫婦がクリスマスにお互いに贈り物をします。お金がないので、デラは長い髪の毛を切って売り、ジムの懐中時計につける鎖を買います。ジムは、懐中時計を売ってデラに髪飾りを買います。
この物語は、ふたりのプレゼントは役に立たない物となってしまったという笑い話のようなものだと今まで思っていました。

でも、題名は「賢者の贈り物」です。「愚者の……」ではありません。なぜ「賢者の」というのか、テープを聴いてよくわかりました。デラもジムもお互い自分の大事な物を犠牲にして、相手に喜ばれる物を買ったことは、イエス・キリストが
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ(マタイ22:39)」
といわれたことを実践しているのです。「ふたりはおろかだけど、最も賢明であった。最高の賢者である」と作者は書いています。

長い髪を切ることは現代で考えると、それほど大きな犠牲とは思えませんが、「髪は女の命」という時代に切ったことにデラのジムを想う気持ちの強さが伝わってきます。髪を切ったデラは、ジムの帰りを心配して待ちます。短い髪の自分は、女としての価値がなくなったのでは……と。

「デラは毎日のちょっとしたことでも、小さな祈りを唱える習慣がありましたが、『神様、どうかジムがわたしのことを今でもかわいいと想ってくれますように』と祈った」
というところに感動しました。デラはなんて女性らしいかわいい人なんでしょう。
互いを思いやるふたりは、すばらしいクリスマスを迎えられたと想います。


「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる(箴言17:1)」
の聖書の言葉を思い出しました。












大切な器官 (日記)

2005-11-05 16:45:41 | 日記
先日、つくば市の実験植物園でやっているラン展に行ってきました。その美しさと種類の多いことに驚きました。同じ品種のものでも、どれひとつとして同じ花はなく、それぞれが美しいのです。ランは、他の花と比較して、隣に咲いているランの方がわたしよりきれいだなんて思って落ち込んだりはしませんよね。
でも、人はついついまわりの人と比べて得意になったり、落ち込んだりしてしまいます。

今日の朝日新聞朝刊の「相談室」に「美人がうらやましい」という投書がありました。『一度しかない人生、美人か才能を持って生まれてきたかった。』美人がうらやましいと書かれていました。
わたしも、かつてはそう思っていました。そして美しい人、才能のある人に嫉妬し、憎しみさえ抱いていました。自分は何のとりえもないのだと思い、劣等感を抱いていました。
人間が神さまによって造られた者であることを知ったとき、神さまは不公平だと思っていました。でも、それぞれ目的があって造られたのだから、みんな違うということを知って考えが変わりました。

聖書には、「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12:5)」と書かれています。みんなが目だったら、大変なことになりますね。どんなに劣っていると思われるような者であっても、大切な器官だというのです。むしろ、神さまは劣っているところを尊んで下さるのですから嬉しいですね。
「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官がかえってなくてはならないものなのです。(コリントⅠ12-22)」


外なる人は衰えても  (日記)

2005-11-03 17:10:47 | 聖書から
死は忌み嫌うものとして口に出さない人が多いようです。縁起が悪いといって、北枕に寝ることや手を組んで寝てはいけないと聞きます。漠然と死を恐れるところからきているのでしょう。
でも、わたしはいっさいそういうことを気にしません。ちなみにほとんど毎晩手を組んで寝ています。(祈りながら寝てしまうので)仏滅や大安ということも気にしません。死は恐ろしいものではないからです。

人間、どんな人でも必ず死にます。健康な人でも肉体は日々死に向かって老いています。でも、聖書にすばらしいことが書いてあります。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4-16)


この言葉を読むと嬉しくなります。身体は老化していっても、心は日々新しくされ
ていると思うと元気が出てきます。

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