生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

明日はめぐみ祭り

2006-08-26 16:24:34 | 日記

昨夜、妹(姪のママ)が来て泊まり、今日はパパも来て皆で大洗に向かいました。わたしも行きたかったのですが、体調不良でお弁当を作っただけで疲れてしまいました。
主人とふたりで留守番です。久しぶりにゆっくり昼寝して充電できました。姪は磯遊びするといって水着を持って出かけましたが、涼しいので風邪をひかないかと心配です。
きょうはMママではなく、おばあちゃんの心境です。


明日は午前中は礼拝、夕方からは教会のお祭りに参加します。お祭りというと神社の祭りを想像しますが、わたしの通っている教会で数年前から毎年夏の終わりにめぐみ祭りを行っています。
盆踊りの代わりにめぐみ音頭を踊り、野外礼拝で神さまを賛美します。模擬店が出て、子供達にはヨーヨー釣りやボーリング、ダーツなどのお楽しみがあります。ふだん教会に来ていない人たちも家族連れで来るので6~700人くらい集まり、にぎやかです。明日は晴れますように。


明後日、妹の車で実家に行き、1泊してきます。しばらく更新できませんが、ご心配なく。

Mママ日記

2006-08-25 09:21:52 | 日記

小学生の姪は、わたしのことをおばさんとは言わず「M(娘の名)ママ」と呼んでいます。
勉強しているときも、ビデオを見ているときも「Mママ、Mママ」と一日に何回呼ばれることか……。
娘は自分のやりたいことがあって、この3.4日部屋に入ったきりで、たまにしか相手をしません。
姪とわたしは、お風呂も寝るのも一緒です。姪は寝る前に聖書のお話を聞くのを楽しみにしてくれています。
5年生なので、家では何でもひとりでやりますが、我が家に来ると甘えてしまうようです。Mママは、バテ気味です。今晩ホントのママが来るので首を長くして待っています。


姪はよく手伝ってくれます。わたしが台所に立つと、洗い物をしたり野菜を切ってくれます。食事のとき、わたしが何度も台所へ足を運び、ようやく食卓に着くと、「やっとすわれたね。疲れたでしょう」と言いました。幼い頃から姪は、人を思いやる心を持っていました。また、姪はとても素直です。自己主張もしますが、それはだめだというと。「わかった」
と素直に従います。相手がわたしだからではなく、親に対してもいつも素直です。

姪は毎日わたしのケイタイからママへメールを送っています。先日のメールには、思わず笑みがこぼれました。


今、スイカを食べ終えたところ。Mママがすいかを買ってくれたんだ。とても甘くておいしかった!
ママは、最近スイカ食べた?梨も買ってくれたんだ。それも、おいしかった!
今日の夕ご飯の手伝いをしてたとき、ポテトサラダだったのね。それでマヨネーズが最後にななっちゃたのね。そしたらMママが、キャップをしっかりしめて口のところを持って30回ぐらいふると、またマヨネーズが出てくるよ!って教えてくれたの。だからマヨネーズが、最後の時それやった方がいいよっ!やってね。ばいばい~


実は、スイカは甘かったのですが、梨は安いのを買ったせいか、甘みがなく、まずかったのです。姪も「甘くないね」なんて言いながら食べていたのに母親には、こんなふうに書き送っています。
疲れるけれど、姪が帰ってしまったら、寂しくて涙が出そうです。

自分史(その5)

2006-08-24 16:34:41 | エッセイ
5: 40代……アダルトチルドレンからの回復 


主人の転勤で埼玉から茨城県土浦市に越してきたころは、自転車の前と後ろに子供達を乗せて教会に通っていました。母にその話しをすると、危ないからやめなさい。子供達を教会に連れて行かなくてもいいのにと言いました。でも、わたしは子供達をどうしても教会学校に通わせたかったので、教会の人に車で送ってもらうようになったからと母に嘘をつきました。


CS奉仕を頼まれたとき、このわたしにできるだろうかと迷いました。このときは、母に電話をしませんでした。やめなさいと言われることはわかっています。体の弱い私が、ふたりの子育てだけで精一杯なのに、奉仕なんかしたら体をこわしてしまうと言うでしょう。
          

いつも選択に迷うときは母に意見をきいていました(もちろん意見をきいてそのとおりにしなかったこともあります)が、母の意見が神様のみこころにかなったものであるとは限らないとようやく気付いたのです。


常識的に考えると、確かに母の意見は正しいといえるのですが、クリスチャンとしてこれでいいのか?と考えるようになりました。神さまのみこころにかなった生き方をするためには、母に意見を求めてはいけないのだと気付きました。迷ったときはまず祈り、祈ったうえで決断することにしました。40近くになってようやく母の支配から解放され、大人なったような気がします。


最近「アダルトチルドレン」についての本を読みました。トラウマをかかえた子供の物語を書きたいと思っているのですが、なぜそういうテーマで書きたいのか自分でもはっきりとわかりませんでした。
でも、今回自分史を書いていて気付いたことがあります。アダルトチルドレンを親から何らかのトラウマを受けた子供と定義するなら、わたし自身アダルトチルドレンであったということです。



いままで書いてきたようにわたしは特別問題のある家庭で育ったわけではありません。ごく普通の両親と祖母に愛され、大事にされて育ってきました。
母親の影響がいちばん大きく、母親の言葉や態度で傷つき、自信を失ったため、決断力のない者になってしまいました。
でも、イエスキリストを信じる信仰によって、徐々に回復していきました。数年前まで痛みを覚えていた心の傷もいまはすっかり癒されていることを感じます。母のことを書いていても、母があのときとった言動は仕方のなかったことだと思え、心身共に弱いわたしをよく育ててくれたと感謝の思いでいっぱいになります。


ついこの間自分の娘に、母親に昔こんなこと言われて傷ついたという話しをすると、「お母さん、同じ事わたしにしていたよ」と言われ、はっとしました。
わたしも子供の心を深く傷つけていたのでした。



                  おわり

*40代と書きましたが、土浦に越してきたのは36歳のことですので、正確には30代後半からのことになります。



自分史(その4)

2006-08-23 13:17:00 | エッセイ
4: 30代……母に依存していたわたし
 


洗礼を受けてから、母に反抗することは少なくなりましたが精神的に母から離れられないでいました。24歳で結婚して実家から2時間ほど離れた埼玉県に住みましたが、1週間に1度は編み物を習うという理由をつけて帰っていました。
近所づきあいのこと、主人の実家とのこと何でも母に尋ね、母に尋ねないと不安でたまりませんでした。母はいつも適切な意見を言ってくれるので安心でした。子供が産まれるとなおさら不安なことが多く毎日母に電話していました。
けれども母は信仰をもっていないので、信仰に関しては意見が食い違っていました。



2人目の子供を出産したとき、喘息がひどくなり、生まれたばかりの赤ん坊を実家に預けて入院しなければならなくなりました。
わたしが祈っていると母が言いました。「あなたの信じている神さまは意地悪ね。せっかく元気な赤ちゃんが産まれたのに母親を病気にするなんて」
わたしは何も言えませんでした。こんなとき、母親がクリスチャンで祈ってくれたらどんなにいいだろうかと思いました。
入院して1週間点滴を受け続けましたが、病状が良くならず退院のめどがつきませんでした。息苦しくて歩くのもままならない状態でしたが、必死の思いで電話機のところまで行って教会に電話しました。教会には無事に出産したことは伝えていましたが、その後わたしが入院していることを伝えていなかったのでびっくりしたようです。ちょうど祈祷会の日だったので大勢の方が祈って下さいました。


翌日、病院からステロイド剤を飲む許可がおりて、プレドニンを飲みました。すると発作がおさまってきたのです。わたしは、「昨日教会に電話して祈祷会で祈ってもらったの」と母に言うと、「祈ったから治ったなんて言わないでね。プレドニンを飲んだから治ったんでしょ。神さまのおかげなんかじゃないんだから」と母は怒りをこめて言いました。


母は、わたしの見舞いと赤ん坊の世話で疲れていたのだと思います。神さまを恨みたいような気持ちになっていたのでしょう。
確かに薬で治ったのですが、病院が薬を出してくれたことの背後に神さまの働きがあったことを母に気付いてほしかったです。


10日間の入院で、わたしは退院できました。赤ん坊もミルクですくすくと育っていました。父がおむつを代えてくれていました。すっかり良くなるまでいたので、産前産後3か月くらい実家にお世話になりました。
家に帰ってからも困ったことが起こると、すぐ母に電話していました。30代は相変わらず決断力がなく、母に依存していました。


つづく

奇跡の星

2006-08-22 21:09:59 | 日記

今日は、姪と娘の3人でつくばエキスポセンターへ行って来ました。自宅近くのバス停からバスで約25分(土浦駅からは約30分)で、つくばセンターに着きます。エキスポセンターはそこから歩いて7.8分です。TXができてから、つくばセンター付近には新しい店ができ、随分にぎやかになりました。

姪が来ると毎回エキスポセンターに連れていきます。姪が特別に行きたいと言っているわけではありません。実は、わたしが行くのを楽しみにしているのです。
とくにプラネタリウムが好きで、宮沢賢治の銀河鉄道のショーをやっていたときは、ひとりで行ったほどです。プラネタリウムにいくと宇宙旅行の気分が味わえます。(いつか宇宙旅行したいと、とほうもない夢をみているわたしです。2千万ドルかかるそうですが……)


今日は「奇跡の星」というタイトルだったので、不思議な星の物語なのだろうか?と思っていました。白鳥座の白鳥が案内役で、天の川の中を旅したのですが、奇跡の星というのは、地球のことでした。宇宙には数え切れないほどの星がありますが、水や大気など、生物に必要なものが揃っている星は、地球以外には発見されていないので、地球の存在そのものが奇跡だといっていました。


奇跡は、神さまの手によるものです。神さまは、言葉だけで何もないところから宇宙を造られました。神さまは、生物が住めるように地球を造られたのですから、綿密に計算され、予定されていたものなのですね。そして、神さまのご計画の中でその地球にわたしたち人間が生かされている。わたしたちの存在も奇跡ですね。


自分史(その4)は明日更新します。

自分史(その3)

2006-08-21 15:58:00 | エッセイ
3: 20代……キリストに導かれて


わたしは、中学生のころから22歳までずうっと母に反抗していました。
喘息は、過保護に育てられるとひどくなるということを何かの本で読み、母のせいで喘息がひどくなったのだと恨みました。また、こんな性格なのも、自分に自信が持てないのも全部母のせいにしました。

当時「肝っ玉母さん」というドラマがはやっていましたが、わたしは「母に肝っ玉母さん」のようにおおらかな人になってほしいと理想像を描いていました。でも母は理想とはかけ離れていました。過干渉で語気が強く、わたしのことを支配しようとしていました。
母は結婚してからずうっと姑と暮らし、色々気苦労もあったのでしょうが、当時のわたしにはそのことを思いやる心のゆとりがありませんでした。


短大を卒業して20歳で幼稚園に就職したとき、一人暮らしがしたいと心から思いました。でも、それは許されないことでした。
母は友人関係のこと、仕事のことなど根ほり葉ほり聞いてくるので疎ましくてなりませんでした。母となるたけ顔をあわせないようにしようと、勤め帰りに毎日外で夕飯を食べて帰っていた時期がありました。家に帰るとすぐ自分の部屋に入り、朝は母と口もきかずに出かけていく毎日。ひとりで外食していると急にむなしくなって「わたしは何をやっているんだろう?」と思いました。


それでもなかなか家に帰りたくなくて、本屋でよく時間をつぶしました。そんなとき、ふと目に留まった本が三浦綾子
「あさっての風」
というエッセイでした。当時三浦綾子がクリスチャンの作家とは知りませんでした。

「あさっての風」
は同感することが多く、三浦綾子の本をもっと読んでみたいと思いました。次に
「積み木の箱」
を読んだとき、ハンマーで頭をたたかれた気持ちになりました。教師である主人公の悠二は、正しいと思って一郎を指導してきました。でも、それは一郎の心を傷つけるものでした。それを読んで、わたしは間違っていたと思ったのです。


いままで、母親や友達とよく議論をしましたが、口では負かされても(自分は正しい)といつも思っていました。同僚と園長や先輩の悪口をいっていたけれど、もしかして自分の方が悪いのではないかと思えてきました。そして日毎に苦しくなり、このままではいけない。教会にいかなくてはという思いがつのり、電話帳で調べてプロテスタント教会の礼拝に出席しました。


その年の12月、22歳で受洗の決心をしました。今の自分が嫌でたまらなかったので、洗礼を受けて新しく生まれ変わりたいと心から願いました。
 母に告げると結婚できなくなると言って反対しました。でも、わたしの意志の固いのを知ると「お父さんには内緒でなら受けてもいい」と許してくれました。わたしは、父親に内緒で洗礼を受けました。
                 
                  つづく

自分史(その2)

2006-08-19 09:27:11 | 日記
2:10代……死を願う日々

わたしは、自分が母の望むのとは全く違う子供であることを自覚していました。母に悪いと思っても、性格を変えることはできません。学校で言いたいことを言えないストレスから自分でもいらいらして、家に帰ると母や祖母、妹に当たり散らしました。

そんなわたしを母はしかりませんでした。あとで聞くと、「学校で辛い目にあっているからストレスを発散しているのだと思っていた」と母は言いました。
母はわかっていたのです。


中学1年の夏休み、父の転勤で東京から神戸に引っ越すことになりました。向こうではわたしのことを知っている人は誰もいない。積極的になろう。家では素直な子供になろうと心機一転、張りきっていました。
しかし、神戸の中学でいきなり「東京弁をしゃべる生意気な子」といわれ、転校一日目にして気持ちが萎えてしまいました。方言の違いでこんなに差別されるとは思ってもいませんでした。なかなかクラスになじめませんでしたが、一生懸命関西弁をまねて話すようにしたら、友達もできました。


ところが中学2年でクラス替えがあると、クラスに知っている女子がひとりもいませんでした。相変わらず自分から話しかけることのできないわたしは、友達ができず孤立してしまいました。学校へいっても誰ともひとことも話さずに帰ってくるという毎日。教室にいてはいけないと決まりのある休み時間が苦痛でした。どこへいくあてもなく、校舎のまわりを何周も歩いたり、図書室に行ったりして時間をつぶすのです。まわりではたくさんの生徒が友達と語り合ったり遊んだりしているのに……。わたしは孤独でした。


そのころ喘息がいちばんひどかった時期で、薬が効かなくてステロイドを飲まなければ発作がおさまらなくなっていました。喘息が出ると、苦しくても学校を休めるのでほっとする面もあったのですが、夜中に発作が起きると大変でした。救急病棟で注射を受けて帰るとき、坂道で歩けなくなってしまったことがありました。母は中学生のわたしを背負うことができません。母が父を呼びにいっている間、たったひとりで真っ暗な坂道にはいつくばっていたときの恐怖と悲しみは忘れられません。自分は世界で一番不幸な人間だと思いました。


何日も学校を休んで久しぶりにいっても誰も声をかけてくれません。わたしは、この世の中でいなくてもいい人間なんだと思うようになりました。こんなつらい思いをしてまでなぜ生きなくてはならないんだろう。どうして生まれてきたんだろう。肺炎になったとき死んでしまえばよかったのに……。と、死を願う毎日でした。


             つづく

今、読み返してみると、「自分が嫌いだったわたし」と重なる部分があります。
でも、この部分は自分史に欠かせないところなので掲載しました。

夏休みの宿題

2006-08-18 18:04:34 | 日記

昨日から都内に住む小学5年生の姪(妹の子)が泊まりにきています。妹がフラワーコーディネーターとして働いていて忙しいので、毎年夏休みと春休みには泊まりにきています。

中学受験をするので、塾の宿題をどっさり持ってきました。
「難しくて勉強は教えられないよ」と言うと、
「大丈夫、ひとりでやれるから。ドリルに答えもついているし……。1日、3.4時間は勉強させてね」
と妹が答えたので、安心していたら、算数1問ごとに「わからない」の連発。
正解を見ても、どうしてそのような式になるのか納得するまで次の問題に進まないので、四苦八苦して教えています。

こんな問題がありました。

「1個120円のガムと1個70円のキャラメルを合わせて30個買って5000円札をだしたところ、おつりを2050円もらいました。ガムを何個買いましたか?」


5000-2050まではすぐわかりますが、XやYを使わないで考えなければならないので、家事の片手間に教えるというわけにはいきません。すっかりさびついた頭なので解けないでいると、娘が見てくれました。

「全部キャラメルを買ったとしたらいくらになる?」と娘がヒントを出して姪は問題を解くことができました。

このような文章問題と少数と分数の計算問題などがやまのようにあります。ドリルは算数だけではありません。去年の夏休みはこんなに宿題はなかったのに……それに急に難しくなって……と驚いています。

姪は、ため息をつきながらも、一生懸命やっています。
「ママが迎えに来る日までに終わらせるんだ」
と頑張る姿を見て、成長したなあと思いました。

学校の自由課題でぬいぐるみを作ることにしたと、作りかけの物を持ってきたので、今日は姪といっしょにぬいぐるみ作り。この写真は、姪と4時間かかって作り上げたぬいぐるみです。

しばらくは、小学生のママとして奮闘します。


自分史(その2)は、明日掲載します。

自分史(その1)

2006-08-17 13:00:42 | エッセイ
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で、ひとつの年代を原稿用紙3枚でまとめた小自分史を書くというすすめがありました。書きたいことは山ほどありますが、原稿用紙3枚にまとめなければなりません。それで、テーマを決め、内容を絞って書くことにしました。

わたしは、多分に母親の影響を受けて人格が形成されてきたように思うので、母との関係にスッポットをあてて書いてみました。これは、「光に向かって」という小冊子に掲載していただいたものです。小冊子については、ブックマークにあるJCPのHPをご覧ください。


1:幼年時代……病弱だったわたし
 
わたしの母は、わたしが生まれる1年ほど前に生後5日で第一子を亡くしています。子供を失っている母は、わたしを生んだとき当然の事ながら『丈夫で元気に育ってほしい』とことさら強く願ったそうです。
それなのにわたしは虚弱体質でした。2歳のときのことです。一晩中ぐずぐずと泣いて眠らないので、母は具合が悪いのかと心配しました。でも、熱がないので翌日になってから病院に連れていくと、医師にいきなり「無熱性の肺炎です。今晩がとうげです」といわれたそうです。

神さまによって、わたしは生かされました。でも、その肺炎が原因で気管支喘息になり、ひどい発作を起こすようになりました。また、風邪をひいて熱を出すこともしばしばでした。


母と祖母は、わたしが「コホン」と咳ひとつすると「大変!」と厚着をさせました。夜中、喘息の発作が起こると母はわたしの背中をさすり、それでも治らないと、わたしをおぶって病院に連れていってくれました。


幼稚園に入ると、人見知りをして貝のように口を閉ざしてしまいました。家ではわがままで大声でさわいでいるのに外に一歩出ると何もしゃべれなくなってしまいます。母はわたしが積極的になれるように幼稚園の友達を家に呼んでくれました。それでもわたしはほとんどしゃべらず、母が中に入ってわたしの代わりにしゃべっていました。わたしは母がしゃべってくれるからと安心してますます無口になっていきました。


小学生になると、授業参観のとき手を挙げるように母に言われました。手を挙げたらお小遣いあげると言われても、手を挙げられませんでした。家に帰ると母は怒りました。


先生や友達に必要なことも言えないでぐずぐずしているわたしを母はもどかしく思っていらいらしていました。そんな母をだんだん負担に感じるようになりました。でも、一方では母がいないと何もできません。わたしは自分で考えて行動したり、決断することのできない子供になっていました。


母は若い頃、3回もスカウトされたほど美人でしたが、わたしは母とちっとも似ていません。母は「あんたは、美人でもないし頭もたいして良くない。不器用だし何の取り柄もない。だからせめて素直になりなさい」と言いました。


母がわたしに素直になってほしくてわざとそう言っているのだと思い、反発しました。でも、何の取り柄もないという母の言葉に深く傷つきながらも肯定し、劣等感が増していったのです。


               つづく

50周年記念に(その2)

2006-08-16 17:17:40 | 日記
19歳の娘の目からみると、50歳というのは「すごい」年なのでしょう。誕生日に交わした娘との会話を再現します。

「おめでとう。50歳なんて、すごいね。誕生日、嬉しい?」

「嬉しいよ。だって半世紀も生かされているのだもの」

「お母さん、昔と比べてどう? 充実している?」

「昔っていうのはどれくらい前のこと? わたしの感覚だと昔といったら子供のころを思い浮かべるけれど……」

「10年くらい前のことだよ」

「というと、あなたが小4のころね。育成会のことや学校の役員の仕事で忙しかったし、あなたたちに手がかかって自分の時間は少なかったわ」

「いまは、自由な時間がいっぱいあっていいね。充実しているでしょう」

「そう。とても充実している。わかる?」

「わかるよ。生き生きしているもの」

「自由な時間の多少とは関係なく、10年前とはずいぶん心境が違っているの」

「どういうふうに?」

「40歳の誕生日のときは、すごく憂鬱だったの。30代ならまだ若いという感じだけど、40すぎるとオバサンっていう気がして……」

「1歳でも若く見せようと、無駄な努力してたもんね」

「アハハハ……たしかに無駄だったね。努力のかいなく、年より老けてみられることが多かったし……。年より若くみえる人はたくさんいるけれど、どんな人でもひとつずつ年を重ねていくのだから、神さまは公平よね」

「いまはどうして50歳になっても喜んでいるの?」

「乳癌になって、命の重さを実感したからかな。病気で、生きたくても生きられない人が大勢いる中で50歳まで生かしていただいていることに感謝の気持ちでいっぱいなの」

「50年って長いよね」

「あっという間だったよ。年を重ねるごとに日が経つのが早く感じられるの。あなたも50歳になったら実感するでしょう」

「50歳なんてずっと先だよ」

「あなたは若いからそう思えるでしょうけど、80歳まで生かされたとしても、あっという間と感じると思う。人生って案外短いものよ」

「そうかなあ……」

「限られた時間を生きているから、使命を果たしていかなければと思うの」

「使命?」

「神さまのこと、イエスさまのしてくださったことを伝えるという使命よ」

「それはクリスチャンになったときから思っていたことでしょう?」

「そうでもないの……。洗礼を受けたころは、神さまのことがよくわかっていなかったからね」

「じゃあ今は?」

「生活のすべての時間を捧げたい、キリストを証していきたいと思っているの」

「献身(伝道者としてすべてを捧げるという意味)するの?」

「そうじゃなくて、『あなたがたは、食べるのにも、飲むのにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい』というみ言葉があるでしょう。日常生活の中でそうしたいの。あと、何年生きられるかわからないけど、生かされている間はね」  



60歳の誕生日にも娘とこんな会話ができたらいいなあと思いました。


               おわり

50周年記念に(その1)

2006-08-15 13:32:24 | 日記

11日に50歳の誕生日を迎えました。誕生日は毎年ありますが、50歳の誕生日は、後にも先にもありません。わたしの50周年記念にふさわしく、神さまからたくさんの嬉しい贈り物をいただきました。メールを下さった方々にも感謝いたします。
敬愛するkibounokazeさんにいただいたグリーティングカードも嬉しい贈り物のひとつです。kibounokazeさんに許可を得てメッセージを掲載させていただきます。


ハッピー バースデー!花の50歳!
いいな、いいな、50歳。 若くていいな 50歳。 息子さんとデートなんて、ほんとにハッピーなバースデイー!
人生これからですね。いままではすべて練習時代、でもこれからは本番かな。
練習時代に実力つけたから、本番は地でいけば十分でしょう。まずは『カラマ…』で、世界文学ツアーですね。
ご健康でありますように!きっとすべて大丈夫!
『私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリピ4:13)』

その日、息子が珍しいことに食事に連れていってくれたのです。(だから、翌日昼間に雷が鳴ったでしょう?)でもデートではなく、息子の彼女と娘の4人で行ったのでした。息子の彼女と親しくなれて、よかったです。とても楽しいひとときでした。


「いままではすべて練習時代、でもこれからは本番」 という言葉に力づけられました。
そういわれると緊張もしますが、「本番は地でいけば十分」ということなのでほっとしました。

まずは『カラマ…』で、世界文学ツアーですねというのは、kibounokazeさんの募集した『カラマーゾフの兄弟』読破ツアーに参加したのです。(kibounokazeさんのブログはブックマークにありますので、是非ご覧ください)今日から出発なのですが、乗り遅れたひとりというのは、わたしです。


本屋に行けばすぐ買えると思ってのんびりしていました。昨日行った本屋には置いてなかったので、あわててアマゾンで取り寄せましたが、まだ届いていません。明日か明後日には届くはずですが、届いたとしても17日から姪が宿題を抱えてやってきて、月末までいるので8月はほとんど読めないでしょう。


読破までの期限はありますが(12月15日)、それより遅くても自由ということなので、あせらずにいようと思います。
なぜ参加したかというと、以前この本を読み始めて、カタカナの名前に辟易して途中で挫折してしまったからです。また、最近、パソコンに向かっている時間がだんだん伸びてきて、読書時間が少なくなっています。以前は夜9時にpcを閉じていました。今は10時に閉じてそれから本を読もうとすると、2.3行読んだだけで眠りの世界に引き込まれ、主人が帰ってきてドアを開ける音ではっと目覚める日が続いていました。
読書の時間を積極的に作らなければならないと思っていたところだったのです。ひとりではなく、何人かで読めば読破も可能と軽い気持ちで参加したのですが、最初から出遅れています。


あわて者でせっかちだけど、のんびりというわたしの性格が現れていますね。でもそのことで自分を責めたりしません。こんなユニークわたしですが、神さまに用いられています。
50代になってはじめての挑戦がこの読破ツアーというのは嬉しいです。10代、20代の人には50歳が若いとはとても思えないでしょうが、わたしの内なる人は若いのです。

聖書の言葉

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)

3回目の注射

2006-08-14 17:55:14 | 乳癌

今日病院へ行ってきました。乳腺外来で3回目の腹部注射(リュープリン)を打ってもらいました。
お盆のためかとてもすいていて、いつもは2時間以上待たされるのに30分しか待たされませんでした。

前に打ったところの筋肉(ぜい肉と言うべきかも)が固くなっていて、注射を打つ場所を少しずつずらして打っていましたが、そのうち打つところがなくなってしまうのでは……と心配していました。すると、嬉しいことに固くなっていたところがほぐれていて、さらにこのまま順調ならあと2回でいいと言われました。
注射のあと、同じ病院で友人が5人目の子供を出産されたので、お祝いに行ってきました。生まれたばかりの赤ちゃんを見て、注射の痛みが癒されていくようでした。

注射のあと、2.3日は体がだるく、倦怠感におそわれますが、昨日の記事のコメントに力づけられて書きました。

心騒がせずに

2006-08-14 16:41:38 | 教会

昨日の礼拝で「自分を評価する3段階」について語られたので、紹介したいと思います。

聖書箇所は、コリント人への第一の手紙4:3「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。」
です。

自分を評価する3段階
1)他人の判断をあてにしない。
2)自分で自分を判断しない。
3)正しい判断を下すことができるのは神さまだけである。



1)については、人の評価に過剰反応しないようにとのことです。わたしはかつて人の評価を気にし、人の言うことに一喜一憂していました。ひとりの人からけなされただけで、食事ものどに通らなくなるほど落ち込み、ちょっと誉められると有頂天になりました。まさに過剰反応していたわけです。

2)については、自分はダメだと思いこんでしまうことがありますが、それは間違った判断です。
先々週のメッセージでは、『自分のしていることの動機を吟味すること』のすすめがありました。たとえば、何かを行ったとき、それが成功して、人からの賞賛を得たとしても、その動機がメンツや対抗意識からきているのだとしたら燃えてなくなってしまいます。でも、『神を愛する』『他者を愛する』
などの純粋な動機から行ったのならそれは残るそうです。自己判断をするときは、動機を考えればよいのですね。

3)しかしながら、自己判断は100パ-セント正しくありません。
「先走ったさばきをしてはなりません。」(Ⅰコリント4:5)とありますが、すべてが明るみに出される日がくると聖書にかかれています。ですから、いろんなことを言う人がいても、最終的な評価は神さまがしてくださることを信じて、心騒がせずにいたいと思います。


理不尽な苦しみがあっても、その日には、すべての忍耐に対して神さまから賞賛が届くのですから、流した涙は無駄にならないのだと思い、慰められました。

実家に帰って

2006-08-13 17:30:44 | 日記

昨日は主人の千葉県の実家にいってきました。成田の近くなので、土浦からは電車で3時間近くかかります。
2時ごろ、ものすごい雷雨があったときは家の中にいて、幸い行き帰りには雨にふられずにすみました。電車も止まったり遅れたりしたようですが、夜の7時過ぎに向こうを出たので大丈夫でした。

雨を避けてトンボが軒先に避難していました。

マザーテレサの言葉を紹介します。このような生き方ができたらいいなあと思います。

人々があなたのうちにイエスを見ることができるような
生き方をしなさい。
あなたの祈りのうちに
あなたの清い生き方のうちに
あなたの家族との接し方のうちに
あなたの家族にあふれる平和のうちに。
その時あなたは彼らの目を真っ直ぐに見て
言うことができます。
「これが生き方だ。」と
あなたは生活をとおして
体験をとおして
イエスを物語っているのです。


誕生日

2006-08-11 22:13:36 | 日記
今日はわたしの50歳の誕生日でした。息子がお祝いにとイタリアン料理の店に連れていって、ご馳走してくれました。デザートのケーキがおいしかったです。
50年も生かされたことを感謝しています。

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