生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

虐待の連鎖

2011-08-30 16:26:35 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
24日に「心の闇」の世代連鎖について書きましたが、児童虐待も世代連鎖すると言われています。

わたしは5.6年前、小説を書くために虐待の問題についていろいろ調べました。(その小説は完成しないまま現在に至っていますが……)

子どもを虐待してしまう親の抱えている問題がどれだけ大きいか知らされました。簡単には解決できる問題ではありませんが、親がまず癒される必要があるのです。そして、イエス・キリストによらなければ完全に癒されないとわたしは思っています。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で「喜・怒・哀・楽」それぞれのテーマで400字エッセイを書く課題が出たとき、「哀」は虐待のことを書こうと決めていました。
今日は「哀」のエッセイを紹介します。



     
虐待の連鎖

今日も虐待のニュースが流れている。年間の児童虐待相談件数は四万件を超えた。

作家の柳美里さんは子どもを8時間たたき続けたが、それが虐待であると人に指摘されるまで気づかなかったそうだ。気づいてもやめられないので、カウンセリングを受けた。

柳美里さんは幼少期に両親から虐待を受けていた。父親も幼少期に虐待を受けていたことを知る。虐待は世代連鎖するのだろうか。

わたしは彼女を責められない。長男が小学生の時、丈夫になってほしいと願ってスイミング教室に入れた。だが、本人は苦痛だったようで、さぼってばかりいた。わたしは腹をたて、具合が悪い日に無理やり行かせたことがあった。それは虐待ではなかったのか……。

虐待は、親自身の心の傷の顕れである。わたしは神の愛を知り、心の傷をキリストに触れていただいて少しずつ癒されていった。

親自身が神様に愛されていることを知ったとき、虐待の連鎖はストップすると思う。


「喜」のエッセイは8/12、「怒」のエッセイは5/6に掲載しています。(日本クリスチャン・ペンクラブのカテゴリーをご覧ください。)



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必要なものが与えられて

2011-08-28 16:59:51 | お茶の水聖書学院

8月も末になり、暑さの中にあっても風に秋の涼しさが感じられるようになりました。

先週の木曜日、三鷹の実家に行く前にルーテル学院大学図書館を訪れました。お茶の水聖書学院(OBI)の研究論文を書くために必要な本を閲覧させていただくためでした。

あらかじめ電話でお願いしていましたが、当日は本人と分かる証明書を持参してくださいと言われました。
わたしは運転免許証も、現在有効のパスポートも持っていません。OBIの学生証もないため、保険証とOBIで作成していただいた紹介状だけが頼りでした。

もし、信用していただけなければ、図書館を使わせてもらえないでしょう。
知っている人が誰もいない場所、初めて訪れる場所へたったひとりで行くのは不安です。

でも「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ41:10)」という聖書の言葉を携えて、勇気を出して訪れました。

図書館に電話したとき、閲覧したい本の題名と番号を伝えていたら、本を取り置いてくださっていました。紹介状と保険証だけで信用していただけ、夏休みで閑散とした閲覧室を自由に使わせていただきました。

蒸し暑い日でしたが、クーラーが入っていないのに涼風が通り抜け、快適でした。
分厚い7冊もの本から、必要と思われる箇所に付箋をはさみ、コピーをとるという作業を限られた時間でできるのか心配でした。
なにせさびついた頭で、いつもは午後になると眠くてモウロウとしてくるのです。

図書館に着いたのは12時半。4時までには来てほしいと実家で待つ母に言われているので3時半には終わらせなければなりません。(実家はルーテルからバスで30分以内です)

最初に「神さま、わたしの能力は少ないのですが、必要な能力と集中力を与えて下さい」と祈りました。
神様は祈り求める者には、求めた以上のものを下さるのですね。途中で閲覧室に何人か入ってきたようですが、ほとんど気にならないほど集中でき、コピーもとることができました。終わったのは3時35分でした。

学生時代にもどったような気持ちでした。集中して学べることの喜びを感じました。
親切に取り計らってくださった図書館の方、ありがとうございました。

翌日、26日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の童話・エッセイの会で御茶ノ水に出かけました。「旅」のテーマでエッセイを書き、合評していただきました。5枚にまとめたので、詳しく書けなかったことが自分でも物足りなく、改めて書き直そうと思っています。

帰りは雷雨にあいました。御茶ノ水駅に行くとき、ほんのわずかな距離なのにびしょぬれになってしまいました。それでも、電車(常磐線)の遅れは10分ほどだったので助かりました。

その夜にヒックンが来ました。ママが土曜日に用事があるので預かる約束をしていたのです。一晩ひとりで泊まって昨日の夜帰って行きました。

今日は教会学校奏楽奉仕、分級担当で午前中はめいっぱいでした。わたしにとっては驚異的な忙しさでしたが、ぎりぎり守られました。神様から必要な体力も与えていただいたことを感謝します。




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『心の闇』の世代連鎖を断ち切るには

2011-08-24 21:17:03 | 教会
わたしは一男一女の母です。ふたりとも成人し、子育ての時期は終わったといえます。

昨日も書いたように子育ての時期を振り返ってみると、世間の価値観で育てた部分があったので、決してよい母親とは言えませんでした。

また、わたし自身が親子関係で心に傷があって、それを自分の子どもに反映させてしまったことを認めます。娘は、過去のわたしの態度に怒りを抱いています。
わたしはこの歳になって、いまだに母親にしかられる夢を見ることがあります。

20日に教会で行われた教育講演会では、この心の傷のことを『心の闇』と表現されたそうです。わたしは教育講演会に行けなかったので、詳しいことはわからないのですが、今日の水曜礼拝でその内容に触れて話をしてくださいました。


『心の闇』は世代連鎖するのだそうです。
誰もが親の影響を受けて生きています。親の影響は、わたしたちが考えている以上に大きなものです。何歳になっても、親が亡くなった後でも、その影響は残るのです。

子育てをするうえで強制によって何かをさせるのは、真の教育ではありません。

確かにそうです。親がどういう態度で子どもをみているかが子どもに影響します。
学歴崇拝主義に洗脳されている親は、子どもを勉強に追いたてます。
子どもというやわらかいゴムを引っ張った状態で大学に送り出すことになります。その結果、子どもは大学生になって、のびきったゴムのように無気力になってしまうことが多いのです。

親にとって大切なことは、子どもを受容することです。でも、親自身が受容された経験がないとできません。

親に受容されずに育ち、自ら親になった人はどうしたらよいのでしょう……。

親に受容されなかったとしても、わたしたちは神様に愛され、受け入れられています。
「神の愛そのものが受容です」と牧師先生が言われました。

「神様は、わたしが何もできなくても、わたしの存在そのものを受け入れ、愛して下さっています。」

親には受け入れてもらえない部分があったけれど、神様には100%受け入れてもらっていることを覚えると、人を受け入れることができるようになります。(神様の愛によって世代連鎖が断ち切られるのですね)

「神様は、無理やりわたしたちの行動や考え方を変えようとはなさいません。神様は徹底的に愛し、罪を赦し、受け入れ、神の子として扱うことにより、その人の中に変化を促します。」
と聞いて、両親に受け入れてもらえなかった傷が癒されていくのを感じました。


明日から実家に行き、1泊してきます。帰宅する日の夜からヒックンを預かることになっているので、しばらく更新できないかもしれません。



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異なる価値観

2011-08-23 13:43:40 | 聖書から
涼しくなってほっとしていたら、また暑さが戻ってきました。


15年ぐらい前まで、わたしはキリストを信じていながら、世間の価値観に影響されていました。

結果がすべてである。社会的地位や学歴、仕事の能力が人間の価値を決める。夢は自分の力で努力して勝ち取っていく……。という価値観は、聖書の価値観と全く異なります。

聖書の神様は、どんな人間であっても、その人の存在そのものが尊いと言われます。無条件で人を愛し、その人の努力によらず、恵みを与えてくださる神様です。

わたしは、どちらかといえば前者のような価値観に縛られていました。

わたしには大きな悲しみがありました。それは体が弱いということです。
当時は、今と比べればまだ専業主婦が多い時代でしたが、子どもが小学生になると働く主婦が増えてきました。

わたしは喘息という持病もあり、非常に疲れやすい体質なので働けませんでした。専業主婦だと言うと、「それじゃ、暇で暇でしょうがないでしょう」と馬鹿にされたように言われました。
健康な人は、家事をこなし、子育てもし、外に出て働いてお金も稼いでいる。

働きもせず、家事すら十分にできないわたしは何なんだろう……。

体が丈夫だということは一つの能力であって、それが欠けているわたしは、人間としての価値が低いのだと思っていました。

体の弱いことは悪いこと、マイナスのことと考えていたのですが、その考えは間違っていました。
また、世の価値観を子育てにも適用して、よりレベルの高い学校へ行くように願ったため、子どものよいところをつぶしてしまった気がします。

神様は、ある人には丈夫な体、すばらしい体力を与え、ある人には病弱を与え、ある人には障がいを与えられました。
それは不公平でしょうか……いいえ、神様は何らかの目的があってそのように人を造られたのです。

病気も神様から与えられた能力であり、贈り物(ギフト)です。
病弱だからこそ感じられること、理解できることがあり、横になっているしかない時間が与えられていることが、色々思い巡らすことのできる貴重な時間になったりします。
それがわかったのは40代になってからでしょうか。


一昨日の礼拝メッセージでは『二種類の種』について語られました。
聖書には「ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。(申命記22:9)」と書かれています。

たくさん収穫したいと思って2種類のぶどうの種を混ぜて蒔くと、実がならず、殆ど収穫できないそうです。

2種類の種に続いて、「牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。」と書かれています。これは律法として神様から与えられたものです。

2種類の異物を混ぜると、お互いの良いところをつぶしてしまうので良い結果が得られないことを意味していますが、生活上の注意事項にとどまらず、深い意味があることを教えていただきました。


『神様と自分との関係で混ぜ物をしてはいけない』ことを示しているそうです。世の価値観と聖書の価値観を混ぜてしまったたら、よい実を結ぶことはできません。


「神様が望まれる実を人が結ぶためには、主なる神に結びついていなくてはなりません」

と牧師先生が言われました。

「わたしにとどまりまさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハネ15:4)」とイエス様は言われました。イエス様にとどまっていれば、実を結ぶことができるのです。

かつてのわたしは、混ぜ物をしていました。あるときは聖書の価値観で、あるときは世の価値観で考え、迷ったり悩んだりしていました。イエス・キリストにしっかりとどまっていませんでした。その結果、真実を見失ってしまいました。

「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」と言って下さるイエス様にとどまり続けたいです。


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手足がなくても(その2)

2011-08-20 16:22:27 | あかしの紹介
前回は生まれつき手足のないニック・ブイチチさんのことを書きました。そのニック・ブイチチさんが、サーファーのベサニー・ハミルトンさんにインタビューをしている動画を見ました。
ベサニー・ハミルトンさんは13歳のとき、利き腕であった左腕をサメに食べられて失っています。

彼女は、小さいときから人生を神様にお任せしていたと言います。ただ、神のご意志によって、自分がサーファーの才能を通して用いられることを望み、お母さんと祈っていたそうです。
そのようなとき、事故が起きました。事故が起きたとき、すぐに神が計画した私の人生だと気づいたと言うから驚きです。

日々の生き方、祈りによって、どんなアクシデントが起きてもあわてない信仰の姿勢が表れていますね。

事故が起きたとき、友人が聖書のエレミヤ29:11を示してくれたといいます。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。ーそれは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ(エレミヤ29:11)」

片腕を失ったら、普通ならショックを受け、不幸な事故にあったと思うでしょう。でも、彼女は決して不幸だと思っていません。神様からの計画であると確信したからですね。

彼女は、神様が忍耐力と、サーフィンに対する新しい情熱を与えてくれたと言いました。

「もし、サーファーじゃなかったら、どうやって難局を乗り越えられましたか?」
とニックさんが質問すると、
「サーファーがわたしにとっていちばん大切なものではない。いちばん大切なのはイエス・キリスト。イエス・キリストがサメからの恐怖を取り除き、前向きに生きる力を与えてくれた」とあかししました。

「もし、可能なら腕を取り戻したいですか?」と尋ねられると、Noとはっきり言いました。
片腕のない状況によって、健全な人に希望を与えられるから、腕はいらないと。

ベサニー・ハミルトンさんは事故にあったことが神様の計画だと知り、片腕がないことを受け入れています。

片腕がないことを嘆くのではなく、むしろこのことによって、イエス・キリストを伝えられ、人々に希望が与えられると喜んでいるのです。

ニック・ブイチチさんも同じです。彼は障害を受け入れるまでは苦しみを通りましたが、受け入れてからは、手足のないことをむしろ喜んでいます。

現在体が健康で、障害のない人でも将来はどうなるかわかりません。病気になったり、事故にあったり、また年を重ねれば、体が思うように動かせなくなります。

でも、そのことを受け入れられれば、嘆きは喜びに変わります。
癌になっても、神様の計画として受け入れられれば、精神的苦痛は取り除かれます。

人間、どんな状態になっても、イエス・キリストによって希望を持ち続けることができるということを2人のあかしを通して教えられました。
おわり



Nick interview with Bethany (英語、日本語字幕)




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手足がなくても(その1)

2011-08-18 12:22:22 | あかしの紹介
水曜礼拝でニック・ブイチチさんとベサニー・ハミルトンさんのことが紹介され、You Tube を見せていただきました。

ニック・ブイチチさんのことは、4月にテレビでも放映されたのでご存じの方は多いと思います。
生まれつき手足のないオーストラリアの青年です。

父親は牧師でした。両親はこのような障害を持って生まれた息子を見て、神様のみ心がどこにあるのか疑い、息子の将来を思って絶望的になったそうです。

ニック自身もつらくて8歳の時から3回も自殺未遂をしたそうです。でも、両親の愛と助けのもとに育ち、一般の中高校に通い、大学では会計と経営を専攻し、前向きに生きておられます。

スケートボードをし、サーフィンをし、ドラムをたたき、ゴルフボールを打ち、パソコンも使いこなしています。

15歳でイエス・キリストを信じ、19歳の時から講演活動をしているそうです。

「人はだれでも十字架を背負っている。だれでも悲しみを背負っている。けれど、苦しみは人と比べるものではない。」

「あなたがどんな状況にあっても、神様はあなたと共にいる。神はあなたを導いて下さる。ぼくは空っぽの容器でしかない。」というメッセージに胸が篤くなりました。

「100回転んでも、起き上がろう意志がないと起き上がれなくなる。」

「自分が手足がないことを通して、人々がイエス・キリストを信じるようになるために生きている。手足がなくてもぼくの人生は希望でいっぱい。」

「神様はひと時もぼくを見放されたことはない。だからぼくも、ぼく自身をあきらめることはない。ぼくは、本当に祝福された人生だ。今、ぼくはだれも想像だにしなかった人生を楽しんでいる。ぼくはぼくの人生を愛している。」

と言うニックさんの目は輝いていました。

聖書の言葉
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)


You Tubeにニック・ブイチチさんの映像がありましたので、よろしければご覧ください。

Nick Vujicic 1(日本語字幕)


ベサニー・ハミルトンさんのことは、次回書きます。

                  つづく


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ぶどう酒がなくなりました

2011-08-15 16:09:16 | 教会
昨日の礼拝では、F教会からK先生が来てくださり、ヨハネの福音書2:1-11よりイエス様のカナの婚宴の奇蹟についてメッセージして下さいました。


カナの婚宴の奇蹟はイエス様が行った最初の奇蹟です。
イエス様は母マリヤと弟子達と共に結婚式に出席しました。結婚式の最中にぶどう酒がなくなってしまいました。これは客人に対して大変失礼なことです。

マリヤはイエス様に向かって「ぶどう酒がありません」と言います。
イエス様は、手伝いの人たちにそこに置いてあった6つの水がめに水を満たすように言われます。そして水がぶどう酒に変わるという奇蹟が起るのです。

このような奇蹟を起こさなくても、ぶどう酒をどこからか買い求めてくれば解決するのに、なぜこのときイエス様は奇蹟を起こされたのでしょう……。

水がめにぶどう酒を入れればいいのになぜ水を入れさせ、水がぶどう酒に変わるようにされたのでしょう……。と問いかけがありました。

この奇蹟には3つの意味があるそうです。

①神様がすべてを益と変えて下さいます。


婚宴の最中にぶどう酒がなくなるという出来事は、マイナスの出来事でした。でも、その出来事があったからこそ、素晴らしい奇蹟を目撃したのですね。


ぶどう酒がなくなっていることに気づくことが大切です。

②わたしたちが豊かなキリストの実を結ぶことができるように。

ぶどう酒は契約の血、キリストの血を意味します。キリストの血によって、わたしたちはイエス・キリストという幹に結び付けられています。それで豊かなキリストの実を結ぶことができます。

③質的変化が起こる。

水がめは、清めの水を入れるためのものでした。清めの水とは、ユダヤ人のしきたりに従って手や足を清めるために用意するものです。
その水がめは6個でした。7は完全数と言われていますので、6は不完全な数を表します。


ユダヤ人の清めの儀式は不完全であるという意味を持つそうです。


『6つの水がめに満たされた水がぶどう酒に変えられたということは、古いしきたりの喜びのない水が、新しい喜びのぶどう酒に質的変化したという意味があります』
と聞いて、目が開かれたように思いました。


質的変化は関係の変化であります。このとき、イエスの母マリヤとイエスの関係も、母と息子からひとりの人と救い主の関係に変化しました。

マリヤは「あの方が言われることを、何でもしてあげて下さい。(ヨハネ2:5)」
と言いました。


『イエス様が言われることを何でもする者になることが質的変化です』
と牧師先生が言われました。

イエス様の言われることに何でも従うことにより、多くの実を結び、豊かな勝利の人生を歩むようになる。新しい喜びのある人生に変えられていくと聞いて、喜んで従う者になりたいと思いました。


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喜びの灯(ともしび)

2011-08-12 16:52:02 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
体調はだいぶ回復してきました。お祈りして下さった方、ありがとうございました。

明日は主人の実家に行く日です。行けるかどうか心配だったのですが、息子の運転する車に乗せてもらえることになったので行けそうです。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)では400字のエッセイを書いています。昨年のテーマは花*鳥*風*月でした。今年は喜*怒*哀*楽です。喜怒哀楽の方が難しいです。2か月に1作品書いて例会に持っていき、合評会をしています。

「怒」は今年5月6日のブログで紹介しましたが、「喜」はまだのようでしたので、紹介させていただきます。


   
喜びの灯(ともしび)

         
中学生のころの夢は「普通の人になりたい」だった。それなら、わたしは普通ではなかったのか? そもそも普通って何だろう……。
 
わたしは非常に劣等感が強く、人間失格のように思っていた。運動は苦手だったが、成績は悪くない。なぜそんなに人より劣っていると思ったのか、いま考えると不思議だ。
とにかく自己価値観が低かった。自分なんかいないほうがよいのでは……とさえ思った。
「どうせわたしなんか」というのが口癖で、心は暗闇に包まれていた。

 大人になってから、わたしのためにひとり子、イエス・キリストの命を差し出して下さったお方の存在を知った。

そのお方は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言ってくださった。

そのときからわたしの心に喜びの灯がともった。灯は暗闇を追い出し、どんなことがあっても消えることなく心を照らし続けている。



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がんの短歌

2011-08-11 17:14:44 | 乳癌
乳がんの治療で飲んでいた薬の影響(今は飲んでいないのですが)といえる症状が出て、昨日から体調不良でした。珍しく気持ちまで落ち込み、水曜礼拝も休んで寝ていました。今日も一歩も外へ出たくなく、……誕生日なのに憂鬱……とつぶやいていました。

PCを開くと、友人から嬉しいメールとメッセージが届いていました。紹介させていただきます。


お誕生日をさらに重ねることができためぐみを、主に感謝いたします。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」
という心境を土台に、前向きで、やさしさとユーモアに満ちた作品を書き続けておられること、感謝です。
ごんたくんは、今や、文香さんにとどまらず、世界中で、主の素晴らしさをあらわす働きをするように、替えられていくと思います。


別の友人からは「幸せで愉快な1日!」を願う言葉がありました。

ユーモア、愉快 ……
なぜ今のわたしの状況とはかけ離れた言葉が贈られたのだろう……今のわたしに必要だからかな? と、思い巡らしました。

ごんたくんというのは、ブログにも書き、「生かされて・・・土筆文香」の病気のこと→癌患者としての心境3にも掲載していますが、わたしが勝手につけた癌の別名です。

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がんという言葉は、どうしても暗いイメージがあるので、別の言葉に置き換えてみました。
親の言うことをきかず、いたずらばかりする子どもを《ごんた》というのをご存知でしょうか? 方言かどうかわかりませんが、関西ではその言葉をよく耳にしました。

がんを《ごんた》に置き換えると・・・大腸がん、胃がん、肺がん、子宮がん、乳がんは……大腸ごんた、胃ごんた、肺ごんた、子宮ごんた、乳ごんたになります。

医師に「あなたは、胃ごんたです」と言われたら、「なーんだ、胃にごんたの細胞ができただけか」と深刻にならないですみますね。

「わたし、乳ごんたなんです」と言ったら、「ニュー(新しい)ごんたになったなんて、カッコイイ!」ってうらやましがられたりして・・・。


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それで今日は短歌を作ってみました。短歌はいままでほとんど書いたことがないので、短歌と呼べるものかどうかわかりませんが……。


がんのこと ごんたくんって 呼んでみて
いとしくなるよ わたしのごんた


神様が つくられたから いいごんた
わるいごんたは ひとつもないよ


乳ごんた 大腸ごんた 皮膚ごんた
名づけてみれば かわいくなるよ


へんちくりんな短歌を作ったら、愉快な一日になりました。

JCPのHP更新しました。ぜひご覧ください。



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なぜたくさんの神様がいるの?

2011-08-08 20:19:48 | 教会
子どものときから「なぜたくさんの神様がいるの?」という疑問を持っていました。たくさんいる神様の中で、だれが一番偉いのか? 神様と仏様、どっちにお願いした方が効き目があるのか?……など、色々な人に尋ねたのですが、納得する答えは得られませんでした。

また、気の弱かったわたしは、何かに守ってもらいたいと思っていました。何をするにつけてドキドキ、ビクビクしていたわたしは、守って下さるものを求めていました。

求めるものがみつからないので仕方なく、「神様、仏様、助けて下さい」と唱えていました。いるかいないかわからない方に助けを求めているのですから、頼りないことでした。


昨日教会で4歳の男の子、K君に出会いました。孫のヒックンと同じ年です。
K君はお父さんと一緒に教会に来ていました。

お父さんが「この子が神様のことについて色々質問するので、誰に聞いたら教えてもらえるでしょう」と言われました。わたしは、ぜひ教会学校の幼稚科に出席するようにすすめました。「そこでは、毎週神さまのお話しが聞けますよ」と答えました。

4歳にして神様のことを知りたいと思うとは……。感動を覚えます。本当の神様のことを教えてもらえる教会にK君がすでに来ていることは、何と幸いなことでしょう。K君が教会学校で神様のことを知ることができますように。


昨日の礼拝メッセージは、パウロ伝の続きで、使徒の働き14:8~20からでした。

ルステラの人たちは、さまざまな神を拝み、神に供え物を捧げていました。そして奇蹟を起こしたパウロとバルナバを神としてあがめようとしました。

パウロは、供え物などしないでほしいと訴え、
「私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(使徒14:15)」と言いました。

パウロとバルナバは、神様がただひとりのお方であり、創造主であることを伝えました。
ルステラの人たちは、ユダヤ人と違って唯一まことの神様のことも律法も知りませんでした。

彼らは、何を信じたらよいのか分からなくて真実の神を求めていたわたしのようです。


パウロは神様が「恵みを持って、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たして下さったのです。」と、一般恩恵(神様を信じている者にも信じていない者にも与えられる恵みのこと)について語ります。


もし、子どものときのわたしがそのときルステラにいて、パウロの話を聞いたら、喜んで信じたと思います。


神様は、人間から供え物をしてもらわなければならない神ではなく、逆に人間に必要なものを与えて下さるお方です。

その後パウロは、ユダヤ人たちによって、石打ちにされてしまいました。彼らはパウロが死んだと思って町の外に引きずり出しました。弟子たちが取り囲んでいると、パウロは立ちあがって町に入り、翌日、福音を伝えるためにテルベに向かいました。


聖書にはさらっと書いていますが、石打ちの刑で死ぬ人は多く、パウロが助かったのは奇蹟ともいえるでしょう。相当の怪我をしたでしょうし、痛みに耐えなければならなかったでしょう。それなのに危険も顧みず、翌日次の町に行っています。


「福音は、血みどろになって運ばれてきたニュースです」と牧師先生が言われました。


こんな目にあっても伝えたいという思い。命をかけてでも伝えたい情熱はどこからくるのでしょう……。

K君や子どものころのわたしのように本当の神様について知りたいと切望している子どもがいます。わたしはそのような子どもたちに伝えたいと思って小説や童話を書いています。
   


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夏期キャンプ(その4)

2011-08-05 17:11:31 | CS(子供伝道)
礼拝が終わるころ、雨がやみ、青空が見えてきました。外で活動ができることになってよかったです。

今年はオリエンテーリングをしました。空き缶にクイズの問題を書いたカードをグループの数だけ入れ、それを教師がグランドや教会堂の周囲に隠します。

2か所のポイントを作って、そこにひとりずつ教師が立ちます。ひとりは、クイズを出します。箱の中に日常生活に使う色々な物を入れ、それを10秒見せます。箱のふたを閉じて、箱の中身を10個以上答えられたら空き缶ひとつ出してもらえます。

もうひとりは、金魚すくいのポイを額につけて子どもたちと水鉄砲対決をします。ポイに穴があいたら空き缶をゲットできます。

グループごとに行動すること。2つのポイントは必ずクリアすること。空き缶からカードを取ったら、缶をもとの場所にもどすこと。の約束を決めます。時間内にできるだけたくさんのカードを集めるように言って、スタートします。

時間になったら部屋に集まって、クイズの質問表に取ってきたカードを貼り付けます。質問表にはあらかじめ問題の前半が書かれています。カードは問題の後半なので、考えて貼り付け、次の欄に答えを書きます。

クイズは主に聖書クイズで「ダニエルさんは何の穴に入れられたでしょう」など簡単なものです。
たくさん正解できたグループが優勝。得点の高いグループから順にお昼の流しソーメンを食べるとき、好きな位置に立てるというご褒美が与えられます。

わたしのグループは女の子4人のグループでした。空き缶探しはなかなか難しかったのですが、子どもたちはめざとくタイヤの中や滑り台の下側に張り付いているのを探し出しました。水鉄砲対決では思わず本気になってしまいました。K先生ごめんなさい。

全部で15個空き缶があったのですが、11個みつけたところで時間切れになってしまいました。クイズは主に3年生が答えてくれました。8グループのうち4位でした。

楽しいオリエンテーリングが終わって、いよいよ流しソーメンです。竹は校長先生がわざわざ遠方の竹林まで切りに行って、作って下さいました。

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子どもたちは流れてくるソーメンを箸で上手につかまえていました。

終わりの会がはじまるとき、出たくないと言った子どもが2人いました。理由を聞くと「終わりたくないから」楽しくてもっともっと教会にいたいそうです。
そう思ってくれてよかったです。終わりの会での賛美は力強く、子どもたちの目は輝いていました。

子どもたちと寝食を共にして、普段の教会学校の時間では気づかない意外な面を発見しました。
「愛されている者として互いに愛し合う」というテーマ通り、子どもたちが助け合い、いたわりあっている姿をみて心打たれました。

わたしは教会へ行くとき、教師用の寝具が足りないと聞いたので枕とバスタオルまで持って行きました。歩いて行くつもりでしたが、あまりにも荷物が重く、2.3歩歩いただけで疲れてしまいました。一時的に雨が上がったので帰りのことは考えずに自転車で行きました。

夏期学校が終わって反省会のとき、土砂降りの雨が降っていました。
さて、帰りはどうしよう……と思っていたら、反省会が終わると同時に雨がやんだのです。

神様は雨からも焼けつくような暑さからも守って下さいました。

体力の限界を感じながらも、奉仕できたことを感謝しました。また来年も奉仕できたらいいな……と思っています。
                   
                      おわり


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夏期キャンプ(その3)

2011-08-04 13:19:53 | CS(子供伝道)
夏期キャンプ2日目の朝も雨が降っていました。そのおかげで子どもたちはみな6時ごろまでは寝ていました。(例年は明るくて4時ごろから起きてしまう子どもが多いのです)

2日目の主な活動はオリエンテーリングと流しソーメンです。どちらも部屋の中より外で行うことを前提としていたので、その時間だけでも雨がやみますようにと祈りました。

6時半から1年生10名の部屋で聖書を読み、祈る時間をもちました。各自持ってきた聖書を開きます。1年生でも大人と同じ聖書を使います。これまでに何度か分級で聖書を開いていましたが、子どもたちは慣れていません。

聖書箇所はマタイ20:1-16です。「今日の礼拝でお話しを聞く箇所よ」と言うと一生懸命さがしていました。

マタイがどこにあるのかわからない子どもがほとんどです。全員が開くまで10分近くかかりました。ようやく全員が開いたので、ひとり1節ずつ順番に読むように言いました。

1年生にとって意味のわからない言葉が多かったと思います。つっかえ、つっかえ読んでいましたが、ほかの人が読んでいる時はちゃんと聞いていて、静かな集中したひとときでした。(分級ではこんなに静かになったことがありません。びっくりしました)

朝食のあと掃除を済ませると、礼拝が始まりました。1年生の子どもたちは「朝、聖書読んだから、今日のお話しのこと少し知っているんだ」「ぶどう園が出てくるんだよ」と得意げに話していました。前もって読ませていてよかったと思いました。

K先生がしてくださったお話しのあらましを紹介します(メモをとっていなかったので少し違う部分があるかもしれません)

ぶどう園の主人は、ぶどう園で働く人を探しに朝早く市場に出かけて行きました。そして、9時~6時まで6千円で働くように約束してひとりの人を連れてきました。

仕事が今日中に間に合いそうもないと思ったので、主人はもうひとり働く人を探しに12時ごろ市場へ出かけて行き、連れて来ました。
  
また、主人が5時ごろにも市場に行ってみると、人が立っていたので、ぶどう園に行って働くようにいいました。

6時になったので、ぶどう園の主人は、お金を払うことにしました。
このとき、お金をもらっていちばん嬉しい人は誰でしょう?

主人は、いちばん最後に来た人からお金を払うことにしました。この人は1時間しか働かなかったのですが、6千円渡しました。

12時に来た人にも6千円渡しました。最初に来た人は、たくさん働いたので、もっといっぱいお金をもらえると思っていましたが、やはり他の人と同じ6千円でした。
 
その人は文句を言いました。でも、最初に来た人は、1日6千円という約束をしていたので、ご主人がずるいことをしたわけではありません。働いた分の報酬としてお金をもらったのです。

最後に来た人は、そんなにたくさんのお金をもらえる資格のない人でした。でも、ご主人はその人にも6千円あげたかったのです。この人がもらったものは報酬ではなくて恵みといいます。

わたしたちは、最後に来た人のようにもらう資格のない者ですが、神様が恵みをくださいました。神様はそういうお方なのです。



(雇われた労務者の顔の絵を貼りながらお話しされました。聖書にはブドウ園の主人は早朝と9時、12時、3時、5時の5回市場に行っていますが、9時と3時は省略しています)


わたしは初めてこの聖書箇所を読んだとき、自分が最初に雇われた人だと思いました。そしてその人と同じように、神様(ぶどう園の主人)は不公平だと思ってしまいました。でも、自分が最後に来た人だと思って読んでみると、神様のしてくれたことがどれだけ愛に満ちていることかわかります。

最後に来た人は、主人に会うまで、仕事がなくて不安な時間を過ごしていたのですから。

体の隅々まで恵みが注がれた気持ちになりました。
                
       つづく


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夏期キャンプ(その2)

2011-08-02 17:01:59 | CS(子供伝道)
教会に戻ると5時でした。予定を1時間もオーバーしています。子どもたちとカレーを作る予定でしたが、カレーはお手伝いのお母さん方にお願いして、子どもたち(希望者)はフルーツポンチとサラダを作りました。
夕食を戴き、夜の集会ではA神学生から聖書のザアカイのお話を聞きました。

ザアカイのお話しを紹介します。

取税人のザアカイは人々から余分にお金を集めて、一部をだまし取るという悪い事をしていたので町の人から嫌われていました。
お金を数えるときがいちばん楽しかったのですが、ザアカイの心の中はさみしさでいっぱいでした。

イエス様がザアカイの住んでいるエリコの町に来られると聞いて、ザアカイはイエス様を見てみたいと思いました。不思議な奇蹟を行う方だとうわさを聞いていたからです。

町の通りは人でいっぱいでした。ザアカイは背が低かったので見ることができません。どうしてもイエス様を見たかったザアカイは、イエス様より先回りして、いちじく桑の木に登りました。

イエス様がやってきました。ザアカイはイエス様を見ることしか考えていなかったのですが、イエス様は木の下で立ち止まると、ザアカイを見上げました。そして、思いもよらぬことを言われました。


「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。(ルカ19:5)」

ザアカイは大喜びでイエス様を迎えました。(こんな罪深い嫌われ者のわたしの家へイエス様が来て下さるなんて……)
とザアカイは嬉しくてたまりませんでした。もう悪い事はやめようと思い、言いました。

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は4倍にして返します(ルカ19:8)」

イエス様は言われました。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです(ルカ19:10)」



A神学生は子どものころ、ザアカイのようにお金が好きで、自分が得することばかり考えていたそうです。そんな彼女がパプアニューギニアで働いている宣教師のところへ行きました。

イエス様を伝えるため命がけで働いている宣教師の姿を見て心打たれ、神学校へ行く決心をしたそうです。自分が損することを厭わず主のために働く姿を目の当たりにして、生き方が変わったのでしょう。
力強い証しに子どもたちは圧倒されていました。



雨のため、花火はできませんでしたが、一年生は疲れて集会の終りの方では目をこすっていました。
夜中はトイレに起きたり、泣く子がいたりで教師はほとんど眠れませんでしたが、子どもたちは楽しい夢をみていたようです。
          
                   つづく



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夏期キャンプ(その1)

2011-08-01 17:05:18 | CS(子供伝道)

教会学校で7月29日、30日に低学年夏期キャンプを行いました。数日前までの天気予報では29日30日は晴れだったのに、どんどん変化していき、当日は雨が降っていました。

でも、今年は原発事故で放射能が地面や草に付着していることを考慮し、一日目は外での活動計画していませんでしたので、雨でも計画変更する必要はありませんでした。

開会礼拝のあと、1年生から3年生の子どもたち36人と20人の先生とヘルパーたちは、2台のバスに乗り込みました。

行き先は千葉県印西市にある東京キリスト教学園(神学校)です。

夏期キャンプ一日目の昼食は、例年はお弁当を持ってきていましたが、今年は違いました。
東京キリスト教学園へ行く途中でイオンに寄り、昼食をとりました。ひとり700円持ってきて、自分の好きな食べ物を選んで食べるという話をすると、子どもたちは大喜びでした。

教会から一時間半ぐらいかかって印西市のイオンに到着。昼食時だったのでフードコートは混んでいました。4-5人のグループごとに座って何を食べるか考えることからはじめました。

いつもは親御さんと一緒にこのような場所に行き、食べ物を買ってきてもらうのでしょうが、今回はお父さん、お母さんとではなく友達と一緒です。また、自分で値段を考えて選んで買うのです。もちろん注文したり、運ぶのは大人が手伝いますが、自分でできる子どもは自分でします。

500円のそばを買ってデザートに100円のアイス。残りの100円を震災に寄付した子どももいました。
食後、ごみを分別して捨てる方法を、3年生が1年生に教えている場面も見られました。
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東京キリスト教学園では、福祉棟を見学させていただきました。介護用品や介護用ベッドの説明を聞き、人形をお風呂に入れるところも見せていただきました。

人形がお風呂の方へ下がるのではなく、お風呂が上がって行くのをみて、子どもたちは感嘆の声を上げていました。(わたしもびっくりしました。寝たまま浴槽に向かって下がっていくのは怖いことでしょう。下がるのではなく浴槽が上がっていくのなら安心ですね)
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次にパイプオルガンを見せていただきました。高い天井に届くほどのパイプ。オルガンだけど管楽器なのだそうです。
オルガンにはバッハのサインSoli  Deo  Gloria(ただ神の栄光のために)と書かれていました。
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パイプオルガンでの演奏を聴き、希望する子どもたちにパイプオルガンを弾かせていただきました。空気の調節によって同じ音でも全く別の響きになることに驚きました。
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子どもたちにとって一生忘れないほどのよい経験をさせていただきました。

                      つづく


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