生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

ジョン・ニュートンの母を想う

2015-02-26 21:11:56 | その他
昨日から実家に泊まっています。実家ではインターネットがつながらないのですが、妹にルーターを借りてつなげています。
昨日ジャガイモの煮つけを作ると、母がおいしいと言ってくれました。
母は料理上手で、いつも味付けは絶品です。一方わたしは、味音痴でいつも何かが足りないのです。同じ料理を作っても作るたびに味が違っています。舌がおかしいのでしょうか……。特に煮物の味付けは苦手で、母に褒められたことがなかったのです。今回は偶然うまくいって、初めて褒められました。母は食欲もあって元気です。明日は病院へ付き添って行きます。


アメイジング・グレイスの作者、ジョン・ニュートンについて調べていました。
母親は敬虔なクリスチャンだったそうですが、肺病を病み、ジョンが7歳のとき天に召されてしまいます。ジョンの母親のことが心に留まりました。
ジョンの母は、ジョンに聖書を読み、神様について語り聞かせ、祈ったことでしょう。

病に侵され、自分の死が近づいていることを知ったとき、どんな気持ちだったかと想像すると胸が締め付けられる思いです。
ジョンはまだ7歳。まだまだ母親が必要な年齢です。もう少しそばにいてあげたい。抱きしめていたい。守ってあげたいと思い、せめてジョンが成人するまで生きられるように祈ったと思います。でも、ジョンのことを心配しつつ30歳の若さで召されてしまいました。
ジョンは、大人になって商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなりましたが、さまざまな船を渡り歩くうちに、黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に手を染めるようになったそうです。

ジョンは、黒人に対してひどい扱いをし、荒んだ生活をしていました。
ある日、ジョンの乗った船が大きな嵐に遭い、死に直面しました。そのとき初めて神に祈ったそうです。奇跡的に助かったとき、神の存在を確信し、今までの自分の行動を心から悔い改めました。
命の危険を感じたとき、誰でも祈る気持ちになります。天地を造られた神さまのことを知らない人でも大いなるものに向かって祈るのではないでしょうか。

しかし、ジョンは子どものころ、母親から創造者である神、イエス・キリストのことを聞いていました。ジョンが祈ったのはイエス・キリストに向かってであることは間違いないでしょう。

祈りが聞き届けられたとき、ひどいことをしていた自分でさえも救ってくださった驚くばかりの神様の恵みに心震える思いだったことでしょう。ジョンはそのとき生まれ変わったのです。その感動を書き表したのが『アメイジング・グレイス』です。

ジョンの母親は、幼いジョンを遺して死を迎えたとき、神様がジョンのことを責任を持って守ってくださると信じて、平安のうちに召されたのではないかなと想像しました。


アメイジング・グレイスの英語の歌詞と日本語訳を紹介します。

Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.

アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか

Through many dangers, toils and snares
I have already come.
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった

The Lord has promised good to me,
His Word my hope secures;
He will my shield and portion be
As long as life endures.
主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり 私の一部となった
命の続く限り
Yes,when this heart and flesh shall fail,
And mortal life shall cease,
I shall possess within the vail,
A life of joy and peace.
そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの時を手に入れるのだ


The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, Who called me here below,
Will be forever mine.
やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ
When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.
何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう



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自由になって

2015-02-19 16:22:32 | 教会
昨日久しぶりに水曜礼拝に出ました。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、また奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)」


上記の聖書の言葉からメッセージをいただきました。

「くびき」とは、二頭一組の牛などの家畜の首にかける横木で、その二頭が一緒に畑を耕したりする時に使う農作業の道具です。
くびきを負うとは支配され、しばられることです。人間が負っているくびきは2つあります。

ひとつは、自分自身の罪です。罪とは、自分中心の生活をすることで、自分が王座にすわっています。自由に生きているつもりでも、いつも何か足りないという思いがあり、不安、恐れ、不満が心を支配しています。


かつて友人に自己中心というのは罪だと話したときのことです。
「自己中心で何が悪いの? わたしは何にもとらわれず、自由が好きなの。人に迷惑かけなければどんなふうに生きたってかまわないでしょ」
と、友人は反論しました。
人に迷惑をかけなければどのような生き方をしてもよいと思う気持ちはよくわかります。人に迷惑をかけないように生きることを徹底して教育されていた世代の人は、ほとんどがそう思っているでしょう。
でも、そう思い続けていると、やがて辛い気持ちになるでしょう。年を重ねて誰かに世話にならなければ生きられなくなったとき、申し訳ないという思いを持ち、何もできなくなったことを嘆き、みじめな気持ちになってしまうからです。

人は、病気にならなくても年を重ねれば自分の思うように生きられなくなります。その現実を知っていても自分がそうなるまでには長い時間があると思って安心しているのです。

でも、神様を心の中心に据えずにいると、不安、恐れ、不満が心を支配するようになります。何か足りないという思いは、空しさにつながります。

人は、創造主である神様を信じて、初めて空しさから解放されるのです。


人間が負っているくびきの二つ目は罪悪感です。自分はダメなんだと思い込んだり、~しなければならないと強迫観念を持ったりすることです。

この罪悪感は、真面目な人が持つことが多いと思います。また、クリスチャンの陥る間違えでもあります。

わたしは、かつて罪悪感に苦しんだことがありました。
「具合悪くて今日は一日寝ていた。明日も寝るだろう。調子がよくなって起きていられるようになって何もできないだろう。」
と日記に書いていた時期がありました。それでいて、そんな自分を怠け者呼ばわりして、何でも賢くこなす人たちを羨ましく思ったりしたのでした。

聖書を毎日たくさん読まなければいけないとか、毎週礼拝を守らないといけないとか、何時間も祈らないといけないとか……それらのことは救われるためには必要ないのです。
自分で自分にくびきを負わせてがんじがらめになっていたときは、喜びがありませんでした。
でも、今は心に喜びがあふれています。なぜなら、キリストによってくびきを解かれ、自由になったからです。自由とは、自分の心の欲するままに何をしてもいいということではく、神を心の王座に据えた自由です。


ガラテヤの教会の中に偽(にせ)兄弟たちがいたそうです。彼らは、イエス様を信じること以外に律法を守らなければ救われないと言って教会の人たちを惑わしたようです。
「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(ガラテヤ5:4)」とパウロは警告しています。

キリストによってすべての罪が赦されたのですから、すでに救われているのです。救われるために信じること以外何も必要がないことを改めて心に銘記しておきたいです。

青字は牧師先生のメッセージ、緑字は聖書のことば、茶色字はわたし考えたことを書いています。



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洗濯バサミで遊ぼう

2015-02-14 20:28:50 | CS(子供伝道)
今日はOさん宅での子ども家庭集会でした。教会に集合して出かけるのですが、ちょうど出かけようとしたとき風が強くなったので、自転車は危ないと思い、歩いて行きました。
歩いて行って正解でした。どんどん風が強くなり、学園大橋を渡るときは、歩いていても風にあおられそうで怖かったです。

お話とゲームの担当を教会のI先生と交互にしています。今回はわたしがゲーム担当でした。
ゲームはインターネットでヒントを得ますが、オリジナルのものもあります。
6年生と4年生の子どもたちと一緒にして、大いに盛り上がりました。
そのゲームを紹介しますね。(6人参加して、かかった時間は①~③で30分ぐらいです。)

①洗濯バサミじゃんけん
ひとり5つずつ洗濯バサミを服につける。
歩き回って出会った人とじゃんけんし、勝ったら、ひとつ洗濯バサミを相手からもらえ、負けたら渡す。洗濯バサミがなくなってしまった人が出たら終了。

②洗濯バサミ追いかけじゃんけん
全員輪になってすわる。
向かい合うふたりが洗濯バサミを持つ。リーダーの合図で、洗濯バサミを持った人は、右となりの人とジャンケンをする。
ジャンケンに勝ったら、負けた人に洗濯バサミを渡す。もしジャンケンに負けたら、今度は、左となりの人とジャンケンする。そこで負けたら再び右となりの人とジャンケン。
こういうふうにしてジャンケンをしては、洗濯バサミを渡していく。洗濯バサミを2本持った人が負け。
このゲームで使う洗濯バサミは①で使うものと色を変えて、マイナス1とする。


③洗濯ばさみクレーン
洗濯バサミでえんぴつをはさんで箱に入れる。6本入れるのに何秒かかるか時間を測る。
自分で10秒~20秒の秒数を申告して、申告した時間内に全部箱に入れられたら、洗濯バサミ5つもらえる。(ちょっとしたコツがあるので、練習時間を設ける。あせるとうまくいかない)
①~③で洗濯バサミの数を合計して結果発表する。


今回は、家に洗濯バサミがたくさんあったので、それを使ってのゲームができたらいいのにと探っていました。これまで、空き缶、ペットボトル、ペットボトルのキャップ、新聞紙、軍手、ピンポン玉など身近にある物を使ってゲームをしてきました。

今日行った①と③は11日に孫のヒックンが来たので、洗濯バサミで遊んでいるうちに思いついたゲームです。ヒックンと遊びに興じていたら、なぜか10か月のナルクンに大うけして、キャッキャ、キャッキャとはしゃいでいました。

I先生のお話は、 エペソ2:10から「神の作品」という題でした。朝焼けの美しい写真を見て、この世界を造ってくださった神様のすばらしさを改めて思いました。そして、神様が私たち人間を良い行いをするために造ってくださったことの意味を深く考えさせられました。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」


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いのちのことばに触れるとき

2015-02-10 12:26:50 | 教会
教会学校では毎年2月に暗唱聖句大会があります。今年の暗唱聖句の一番長いものは、「ピリピ1:1~12」です。その他に20の聖句を覚えます。

わたしは聖句を書いた紙をクリアケースに入れ、台所や風呂場に持って行って覚えています。年齢と共に記憶力が低下して、なかなか覚えられませんが、子どもたちには負けられません。暗唱聖句大会の日(2/22)まで覚えられるように頑張ります!

去年はヨハネ1:1~14を覚えました。

新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書がありますが、前者の3つは共観福音書といって、共通する記述が多いのですが、ヨハネの福音書は書き方も違っています。
ヨハネの福音書の冒頭には次のように書かれています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」

最初読んだとき、謎のような文章だと思いました。一度読んだだけでは何のことかわからないですね。でも、何度も読むうちに神がことばであるという意味がわかってきます。

今年は礼拝でⅠヨハネの手紙からメッセージをされると聞いて、嬉しく思いました。

個人的には、イエス様の弟子の中でいちばん好きな人はヨハネです。このヨハネはイエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネとは別人物です。

わたしが使徒ヨハネについて知っていることはわずかです。

12弟子のひとりであること。もと漁師であること、「雷の子」とイエス様に呼ばれたほど短気な性格だったこと、自分のことをイエスの愛しておられた弟子と書いていること、ペテロより若く、足が速いこと。(復活の知らせを聞いてペテロと共に墓に駆けつけたとき、ヨハネが先に着いた)、十字架上のイエスからマリヤを託されたこと。晩年パトモス島に島流しになり、そこで黙示録を書いたことなど……。

ヨハネが福音書やヨハネの手紙を書いたとき、感動して書いたのだそうです。
「ヨハネは神が人の姿をとってきてくださった方に会い、3年間寝食を共にしたこと、その身体に触ったことに感動しているのです。」と牧師先生が言われました。

わたしは2000年前に生きていないので、ヨハネのようにイエス様の姿を目で見ることも声を聞くことも触ることもできません。
でも、ことばが聖書に記されています。それは「いのちのことば」です。

いのちのことばに触れるとき、わたしはヨハネと同じように感動します。そして、そのことを伝えたい、あかししたいと思います。

このあふれるような思いをどのようにして伝えたらいいのでしょう。
語る言葉、書く文章にこの思いを込められるように、読者に伝わるようにと願いつつ……。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。
「はじめて聖書を読むまで」の中にわたしの書いた文章が載っています。ぜひごらんください。



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残虐な人間をも

2015-02-05 16:58:41 | 社会

雪のニュースが流れていますが、土浦は雨です。

残虐な事件が起きて、そのことについて書きたいと思いました。ネットの恐ろしさを考えると、ブログに書くことをためらってしまうような気の小さな人間です。

2月1日の礼拝時に牧師先生は、後藤さんの殺害について触れられました。後藤さんがクリスチャンであることは知っていましたが、同じプロテスタント教会なので、ネットワークで祈りの要請がきていたそうです。
後藤さんが、弱い者の前の立ち、素晴らしい信仰者としての生き方をされたことが伝えられました。
ご遺族の方々のうえに神様からの慰めがありますように祈ります。

このような事件が起きると、なぜ神様は後藤さんのような素晴らしい人の命を守ってくださらなかったのか、なぜ、神様はこのような事件が起こるのをゆるされたのかと思う人も多いでしょう。
このような非道なことをした人たちに対して憤りを抱く人は多いことでしょう。

なぜ?の答えの代わりに
「神様は、後藤さんを殺した残虐な人間にも招きの言葉をかけておられます」と語られました。
 
わたしたちは、残虐な人間がいると、その人と自分はかけ離れていると思います。そして、罰を与えてほしいと言い、報復すべきだと言います。
でも、神様は報復を望んでおられません。なぜなら、神様は残虐な人間をも愛しておられるからです。その人を招いておられるのです。

わたしの中にも罪があります。置かれた環境によっては残虐なことをしてしまう可能性があることを認めます。
仕返しだからと言って、正義の戦いだと言って、人に刃を向けてしまうかもしれないのです。

そんな罪深い者を神さまは招いてくださいます。イエス様はわたしたちの罪を赦すために十字架にかかって死んでくださったのです。

今日、デボーションで読んだ聖書箇所は、後藤さんが訴えてこられたことと同じだと思います。今、ひとりでも多くの人に読んでいただきたいです。

詩編37編(1-8)

悪を行う者に対して腹を立てるな。
不正を行う者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、
青草のように枯れるのだ。

主に信頼して善を行え。
地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、
あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
おのれの道の栄える者に対して、
悪意を遂げようとする人に対して、
腹を立てるな。

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
悪を行う者は断ち切られる。
しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。




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