生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

みんな恐怖症

2012-10-31 16:58:15 | 教会
大切な友人からプレゼントを頂きました。心の込められた手作りのものです。

あまり素敵なので、了承を得てその写真を公開させていただきました。御霊の実というのは、キリストを信じて歩んでいく時に実っていく品性です。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とガラテヤ人への手紙5:22-23に書かれています。いつかこのような実を結ぶことができるように……と思いながら眺めています。


「みんながあなたを悪く言ってるよ」
と誰かに言われたら心が騒ぎませんか?

娘が3歳のとき、皮膚が弱かったので、口のまわりが真っ赤にただれて、皮膚科に通っていてもなかなか治らなかったことがありました。
近所の人から「〇〇ちゃんの口のまわり真っ赤でおかしいね。あれじゃお嫁にもいけないよってみんな言ってるよ」と言われ、ショックを受けたことがありました。
一人の人が言っているのではなく、みんなと言われるとなぜか恐怖を感じてしまうのです。



昨日読んだ榎本保郎の「旧約聖書一日一生」p586に
『これは現代人が神を失うことによって「みんな」という神を恐れるようになった、いわゆる「みんな恐怖症」とでも呼ぶべきものだと思う。』と書かれていました。

ふたり以上であれば『みんな』と言うのです。それでも、聞いた人は近隣の人全部が、地域の人全員が、自分のことを知っている人全部が……と思ってしまいます。
そんなことは決してないのです。
(『みんな』については7/18のブログにも書いています。)

それでも、人の言葉やちょっとした出来事で、心の中が嵐のように騒ぐことがあります。
クリスチャンになってもそのようなことがあります。そういうときは、イエス様から目を離しているときです。


先日の礼拝メッセージでは、ユダヤ人から塵(ちり)やかすのように思われてきたパウロについて語られました。

「また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(Ⅱコリント6:8)」とパウロが書いています。

パウロは、どんなに悪評を受けても、また、好評を受けても、それらからまったく自由になっているのです。

どうしたらパウロのようにゆるがない生き方ができるのでしょう?

使徒17:7に「イエスという別の王がいる」と書かれています。地上の権力を持つ王と違う、別の王がいるからゆるがないとパウロが言っています。
別の王とは誰でしょう……。

それは、イエス・キリストです。その王は人生に意味を与え、どんなにつらいことがあっても励ましと力を与えてくれます。
どんなにひどいことを言われても、存在価値を否定されても、「あなたは高価で尊い」と言ってくれるイエスという別の王がいるから気にすることはないのです。

「このイエスを王とすることが信仰です。」
と牧師先生が言われました。

イエスを王としたとき、『みんな』が怖くなくなります。人の目が気にならなくなります。
生きる目的がみつかり、生きる力が与えられます。


『みんな』が怖くて、人の目が気になって仕方なくてビクビクしながら生きていたわたしでした。でも、今はそれらのものから解放されて自由になりました。イエス様というわたしの王がいてくださるからです。


明日から実家に行って母の手伝いをしてきます。


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心の宝を携えて

2012-10-28 20:31:08 | 日記
義母は一昨日帰って行きました。義母と共に過ごした1週間は、楽しいときでした。

義母はいつも自分のことより他の人のことを考えて気遣ってくれるので、一緒にいると嬉しいなと感じられる温かい人です。

つくば山温泉へ行く日はあいにく天気が悪く、天気予報では雷、豪雨、竜巻の恐れがあるとくり返し言っているので、だんだん不安になってきました。

つくばで竜巻が発生したのは、この春のことです。車でも倒されてしまう程の竜巻に出会ったら、大変なことになります。豪雨も怖いです。つくば山温泉は山の中にあるので、曲がりくねった山道を走るのです。強い雨が降るとスリップして危険です。

午前中は雨が降っていなかったのですが、チエックインが3時以降なのであまり早く出かけても行く所もありません。つくば山温泉までは車で50分ほどです。
予定通り午後2時に出発することにしました。小雨でしたが風は弱く、なんとか大丈夫そうです。

旅館の近くまできて、カーナビの案内通りに走って行ったら、細い路地に入り込んでしまいました。そこには旅館はなく、戻るのが大変でした。でも、雨はずっと小雨のままで、無事着いてほっとしました。

義母は温泉につかって、孫に背中を流してもらって喜んでいました。

翌日は、秋晴れの良い天気。筑波山のロープウェイは去年乗ったので、今年はフラワーパークの方へ行きました。







秋バラとダリア祭りをやっていて、何十種類もの花が植えられていました。その美しさにみとれました。神様はわたしたちを楽しませるためにこのような花々を造って下さったのだなあと感謝しました。

義母は歩くのが大変なので、車椅子を借りようかと尋ねると、「車椅子に乗るほどの年寄りではない」と言って拒みました。シルバーカーを持ってきていたので、それを押しながら休み休みゆっくり歩いてまわることができました。

「こんなおばあさんの使うようなものを使いたくないんだけど……」と言いながらシルバーカーを押す義母でした。

でも、わかるような気がします。歳を重ねて老人になっても、心の中まで老いてしまう必要はありません。
大人になっても子どもの心を持っている人は、80歳になっても心は若いままでいるような気がします。
ふと、心の年が外見に現れたらおもしろいなと思いました。

「来年も行きましょうね」と言った時、ふと、2年後、3年後……5年後も行けるのかなと思いました。5年後、義母は90歳です。
寂しいと思いました。素晴らしい時があっても、時はとどまることなく流れていくからです。

いえ、それでいいのです。素晴らしいと思える瞬間を心の宝としてたくさん蓄えておきましょう。やがてわたしも年をとって天国に行くときが来るでしょう。そのときはたくさんの宝を携えて行きたいです。


インターネットが一日半つながりませんでした。その間に大事なメールがきているのではないかと心配になりました。つながるのが当たり前と思っていたので、つながらないとこんなにも落ち着かなくなるものか…と自分ながらに驚いています。(娘に言うと、ネット中毒になっているからだと言われてしまいました)なんとか回復したのでほっとしました。



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神様を信じているのにどうして辛いことがあるの?

2012-10-24 17:08:20 | 教会
昨日から義母と4人で筑波山温泉に行って一泊してきました。昨日はあいにくの雨でしたが、今日は快晴。フラワーパークで秋バラとダリアを見てきました。

「クリスチャンになると災害にあうことはありません。辛いことがなくなります。苦しみにあうことがありません」
と言ったら、多くの人がクリスチャンになりたいと思うでしょう。
でも、実際はクリスチャンでもそうでない人でも同じように災害にあいますし、辛いこと、苦しいことが起きます。
むしろ信仰篤い人の方が大きな試練にあうような気さえします。なぜ?と思ったことがありました。先日の日曜日は、聖書のⅠサムエル記21:1-9からそのことについてメッセージをいただきました。

ダビデは神様をよく信じていました。でも、仕えていたサウル王に憎まれ、命を狙われたため逃亡生活を余儀なくさせられます。
しかし、ダビデは追われる生活を通して神様の恵みをいただいたというのです。
どういうことでしょうか……。

ダビデは、まずノブに逃げました。ノブとは聖所(神が臨在されているところ)です。誰でも行くことができる場所で、隠れるところはありません。ダビデは追われる身となったのに、まず神のところに走って行きました。そこにいた祭司アヒメレクとドエグは、サウル王の側近で、ダビデが来たことをサウル王に知らせる可能性がありました。つまり危険なところでした。
でも、「ダビデがノブの地に行ったのは、霊的本能からでした。」と牧師先生が言われました。

クリスチャンなのにこんなひどい目にあって……と考えることは肉的本能で、それに従って神から離れてしまってはいけないのです。
どんなに苦しくても霊的本能にしたがって神のもとにいったとき、神様の憐れみと祝福をいただくことができます。
ダビデは、ノブで2つの祝福をいただきました。
ひとつはパンです。

ダビデは聖別されたパンをいただきました。聖別されたパンとは、祭司だけしか食べることができないパンで、それをいただくことは、ありえないことでした。ダビデはこのパンをいただくとき、神が共にいてくださることを感じて涙ながらにいただいたでしょう。

もうひとつはゴリヤテの剣をいただきました。かつてダビデが倒したペリシテ人ゴリヤテが持っていた剣で、それがノブの神殿に納められていたのです。


わたしは、ゴリヤテの剣をもらって喜んでいたときのダビデは、信仰心が薄れているのだと勝手に思っていました。かつては剣も鎧もいらない、主の力によって勝利できると信じ、石投げでゴリアテを倒したダビデが、ゴリヤテの剣を求めるなんておかしいとさえ思っていたのです。

でも、それは間違えでした。10年もの間逃亡生活を送るダビデにとって、命を守るためにゴリヤテの剣は必要だったのです。
ゴリヤテの剣がどうしてノブにあったのか……「それは神様がダビデのために備えてくださったからです。神様のハプニングです。」と聞いて、納得しました。
ゴリヤテの剣をもらったとき、ダビデは使命を悟りました。

敵への復讐のために生きるのではなく、神の御旨に従って生きることだとダビデは悟ったのです。だから、その後、サウル王を殺すチャンスが3回も訪れたのに殺しませんでした。

「どんなに苦しくても、使命がはっきりしていれば、困難の中で生きることができる。わたしたちには神の栄光をあらわすための使命があるのだから、人生をあきらめてはいけない。」という言葉に深く頷きました。


PCの調子が悪く、ネット接続が不安定です。しばらくつながらないこともありますのでコメントをいただいても公開するのが遅れることがありますが、ご了承ください。


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四世代共に

2012-10-21 16:43:09 | 日記
一昨日から85歳の義母と共に過ごしています。
昨日は孫のヒックン(5歳)がきて、義母を喜ばせてくれました。ヒックンは、大おばあちゃんからラジコンカーを買ってもらったので大喜びです。
ハンドルを回して充電できるようになっていて、電池がいらないラジコンカーとして新しく売り出されたおもちゃです。
ヒックンは、ハンドルを回すのがおもしろくて、充電ばかりしていました。

「こんなおもちゃがあるのね。知らなかった」とわたしが言うと、「ぼくは知ってたよ。パソコンで見てたから」と言うので、びっくりしました。(おもちゃ屋さんのサイトの新製品情報をチエックしているようです。)

ヒックンの声は(耳が痛くなるほど)大きいので、耳の遠い義母にもよく聞こえるようです。ヒックンは、大おばあちゃんに遊んでもらって大喜びです。

わたしが「買い物に行ってくる」と言うと、「いいよ。ぼくはおばあちゃんと遊んで待ってるから」と言いました。いつもなら、「一緒に行く」と言うのに……。
夕方からパパとママも来て、7人で夕食。笑い声が満ち溢れていました。

そして、夜。妹から無事帰国したとの電話がかかってきました。明日にでも母のところへ行ってくれるというので感謝しました。母の希望で、骨折のことは義母には知らせていません。



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予期せぬ出来事

2012-10-18 12:56:41 | 日記
一週間に一度は実家に電話していますが、先日夜、実家に電話をかけるといつになく母の声が沈んでいました。「何かあったの?」 と聞くと、左腕を骨折したとのこと。それも3日も前にです。

ころんでしりもちをつきそうになったので、思わず左手をついたら、みるみるうちに腫れてきたそうです。すぐに病院へ行ってレントゲンを撮ると骨折していて、全治一か月と言われたそうです。ギブスをつけて、手をつっているので不自由だけど、足じゃないので歩けるから大丈夫と言います。
実家から車で30分のところに住んでいる妹は海外出張中です。翌日実家に向かいました。


83歳になる母は、想像していたよりずっと元気だったのでほっとしました。
「わたしって偉いのよ。手が腫れてきたとき、とっさに指輪をはずしたの。もしはずさないでいたら、大変なことになっていたわ」
と言います。ギブスをしている手を見ると、どの指も腫れて紫色になっています。

「うん、偉かったね。わたしだったら動転してそこまで気がまわらなかったかも……。それでも痛かったでしょう」
と言うと、最初の2,3日は痛んで眠れなかったそうです。
どうしてすぐ知らせてくれなかったのかと思いましたが……。以前足を捻挫した時は治ってから知らせてくれたのでした。

痛みが治まると買い物に出かけたり、簡単なおかずを作ったりしていたそうで、わたしが行くと大根の煮つけを食べさせてくれました。
「どうやって大根の皮をむいたの?」驚いて尋ねると、
「まな板に載せて輪切りにしてからまわりをトントンと切るようにして皮をむいたの」
と答えました。
「不自由になると、いろんな工夫して何とかやっていけるものよ」
茶筒を開けるのに足で押さえたとか、雑巾絞りはできないので、古布を濡らしてまとめて脱水機に入れ、雑巾として使ったとか。
せんべいの袋を器用に口でくわえて開けているのを見て、たくましいなあと思いました。

近所の方や友達が買い物をしたり、お弁当を持ってきたりしてくれたそうです。
洗髪と入浴は友達に頼めないから、お願いねと言われ、手伝ってきました。
それからロールキャベツをたくさん作って、数回分に分け冷凍しました。

夜は母と一緒にいいことを数え上げました。

夏の暑い時期じゃなくてよかった。
足や腰の骨折じゃなくてよかった。
複雑骨折じゃなくてよかった。
利き手じゃなくてよかった。
もうすぐY子(妹)が海外から帰ってくる時期でよかった。

どんなときでも神様が一緒にいてくださることを話して、祈りました。

明日は家庭集会。そして夕方から義母が来て1週間共に過ごします。


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輝いて生きる

2012-10-15 20:31:06 | 教会
わたしが通っている教会に『森の学園』という名のチャーチスクールが今春開校しました。
昨日は森の学園の13人の子どもたちが賛美をしました。
谷川俊太郎の「生きる」詩にメロディーをつけたものです。

この詩は2005年に金八先生が覚醒剤で錯乱状態に陥った生徒に対して、朗読した詩です。


           生きる
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木(こ)もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声(うぶごえ)があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりは はうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ


子どもたちはこの詩の意味を考えながら、自分なりに理解を深めて暗唱したのだそうです。

この詩は、生きるということを論理的に説明しているのではありません。色々なものに触れてはっとしたり、ドキドキ、わくわくしたりすることが生きるということなのだといっています。詩の中にミニスカートがなぜ出てくるのか、わたしはピンときませんでしたが、男性ならではの感覚で、ドキッとするという気持ちだと聞いて、思わず微笑みました。

「思想ではなく、ドキドキわくわく感を、信仰生活として味わっていってほしい」と牧師先生が言われました。
「親の心に余裕がないと、子どもがドキドキわくわくする気持ちを摘み取ってしまうことがあります」と聞いて、わたしは子どもたちの心のときめきを摘みとってしまったことがたくさんあったような気がして胸が痛みました。

わたしが、わくわくドキドキすることはたくさんあります。わたしがこの詩を書くとしたら、

それは、洞窟。それは、古代遺跡。それは、星。それは、虹。それはペルシャ。となります。なぜペルシャなのか……小学6年生の時、東京交響楽団の演奏を聞いて、「ペルシャの市場にて」の曲に感動し、何日も頭の中に流れていたことを思い出すからです。

聖書には「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。(詩篇34:5)」と書かれています。
「神様を仰ぎ見るとき、人は輝くのです」と牧師先生が言われました。

本当の意味で生きていたい。いつも輝いていたいです。


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性善説と性悪説

2012-10-10 16:31:12 | 聖書から
わたしの足である自転車の調子が悪くてメンテナンスしてもらいました。すると、すこぶる調子がよくなって、郵便局から教会まで(約2キロメートル)を7分で走りました。

秋晴れのいい季節、桜川の土手を走るのは爽快です。着いたら汗びっしょりでしたが……。
日曜に家に戻ってきたときは、とても疲れていたのですが、2日間で疲れが癒されるとは……。わたしにとっては驚異的なことです。主に感謝しました。

水曜礼拝で、宗教は性善説か性悪説、どちらかで人間を見ようとします。聖書は何と言っているでしょうか? と質問がありました。

聖書には、「すべての人は罪を犯したので……」と書かれているから性悪説かな?……。いや、創世記には神様は人をお造りになり、「それは非常に良かった」とおっしゃったから、性善説かな?
と首をかしげていると、「聖書はその両方を同時に教えています」と聞いて納得しました。

神様は人を良きものとして造られました。でも、ロボットのように良いことしかできないようにされたのではありません。神様は人に自由意思を与えてくださったのです。

最初の人間、アダムとエバはエデンの園で何不自由なく暮らしていましたが、神様が唯一食べることを禁じていた木の実を食べてしまいました。アダムとエバが罪を犯したことにより、人間は生まれつき罪の性質をもつようになったのです。

人間は神によって造られたので、神に仕え、礼拝し、奉仕します。人間は神様に従って生きる存在です。

また、人間は神のかたちに造られたと聖書に書かれていますが、『かたち』というのは見た目ではなくて、性質のことです。知・情・意をいただき、判断力、創造力をいただきました。
つまり、人は自分で考え、選択して生きることができるように造られたのです。

ですから、人間は100%神に従うと同時に100%自由なのです。
自由を乱用するのではなく、正しく用いることが大切です。自分が与えられている賜物を知っている人は、もっともふさわしいかたちで用いることができます。


「兄弟たち、あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛を持って互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)」


ウエストミンスターの教理問答に「人間の主な目的は何か」というのがあります。
答えは「人間の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」です。

とレジュメに書かれていたのを見て、30年ほど前、信仰入門の学びでこの答えを聞いたとき目が開かれた気がしたことを思い出しました。

神様の栄光をあらわすこと、神を喜ぶこと、このことのために生かされているのだと改めて肝に銘じました。



日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。

また、日本クリスチャン・ペンクラブから新しく本が出版されました。(上の写真がその本です)本の題名は『喜怒哀楽』です。
『喜』・『怒』・『哀』・『楽』のテーマで、書かれている400字のエッセイ。それに加えて、「私と東日本大震災』『私とJCP』『私と聖書の言葉』の800字エッセイが収められています。私は7作品書いています。JCPのホームページから購入できます。



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正夢? 逆夢?

2012-10-07 21:56:09 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
6日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の60周年記念感謝会でした。この日のために半年も前から準備を重ね、祈って備えてきました。

わたしは準備委員のひとりとして関わらせていただきましたが、この一週間に3回も記念会の夢を見ました。「こんなはずじゃなかったのに……」という夢が2回。前日に見た夢は、何もかもうまくいった夢でした。

さて、現実は……正夢? 逆夢? 

朝からハプニングがありました。
前日三鷹の実家に泊まって、当日は朝8時過ぎに出かけました。Suicaで改札を通り、満員電車に乗り御茶ノ水駅に着いたところまでは順調のようでした。ところが、改札を出ようとしたらSuicaがないのです。今まで、切符を落としたことはあっても、財布と鍵とSuicaは落としたことがなかったのですから、まさか……と思いました。Suicaには名前記入もしていなくて、6千円近く入っていたのです。また、父の形見の定期入れに入れていました。

改札で鞄をかきまわしながら、これは夢なのでは……と思ったほどでした。
でも、そんなことで立ち止まっている場合ではありません。早く会場に行かなければ……改札で電車賃を払って、そのあとはSuicaのことは考えないようにしました。

会場準備は順調でしたが、出版されたばかりの本が届いていないことがわかり、また夢ではないかと思うほど焦る気持ちでいっぱいでした。その本は、JCP関東の会員が書いたあかし文章の作品集です。出席されたひとりひとりにお渡しする予定でした。今日の日に間に合わせるために委員たちが一生懸命編集作業をして出来上がった本でした。

手違いがあって、同じOCCビルなのですが、別のところに届いていたことがわかり、その部屋をあけていただくのに大変な思いをし、ようやく本を手にすることができたときは、開会礼拝が始まっていました。

会場は46人の出席者でいっぱいでした。理事長I先生がメッセージされる姿に涙が出てきました。
(メッセージの前半が聞けなかったのは残念でしたが・・・・・・・)

闘病生活を送っておられたI先生がこの場所に来られ、お話をされていること自体が奇跡です。

講師の先生方による講演「遠藤周作の信仰と文学」、「夏目漱石の文学と聖書」
そして、素晴らしい賛美。文章作法の学び……どれも実りある内容でした。久しぶりにお会いした関西、中部の方々との語らいの時も祝福された時間でした。

神様はすべてを備え、最善を行い、祝福をあふれさせてくださいました。

そして、帰り。Suicaがもしかして届いているかもしれないと思い、三鷹駅の遺失物事務所に行くと……あったのです。父の形見の定期入れに入れてあったSuicaが。

届けてくれた親切な人がいたのです。「戻ってよかったですね」と駅の人が言ってくれました。神様の慰めとあわれみですね。

その夜、土浦では花火大会でした。三鷹はその時間大雨でしたが、土浦は、花火がはじまるころ雨が上がったそうです。ヒックンもきて花火を楽しんでくれたようです。

わたしは実家に2泊して、今日、実家近くの教会で聖餐礼拝を受けて土浦に帰ってきました。


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研ぎ澄まされた言葉

2012-10-04 16:26:25 | その他
昨日の朝日新聞に重い障がいをもつ少年、臼田輝君が、文字入力スイッチによって文章を綴ったことが紹介されていました。

少年は1歳の誕生直前に事故にあい、筋肉ひとつ自由に動かせなくなったそうです。中学一年までは、言葉を理解しているかどうか確かめることもできなかったのですが、文字入力ソフトを改良したものを持たせると、50音を読み上げる音声に反応したそうです。それから文字を選んで文章を綴るようになったと書かれていました。
その記事を読んで水野源三さんを思い出しました。

水野源三さんは脳性マヒで話すことも歩くこともできませんでした。お母さんが50音字表を使って文字を示し、源三さんがまばたきで文字を選び、たくさんの詩を書きました。


事故にあう前の輝君が言葉を発していたかどうかわかりませんが、一歳前ですから、発していたとしても片言だったでしょう。

それから輝君は長い間、傍らで話す家族や他の人たちの言葉を聞き続けて言葉を覚えていたのでしょう。たくさんの言葉を心に蓄えていたのでしょう。それがようやくソフトの開発によって、文字を綴ることができるようになったのですね。

ただ、意志の伝達という意味だけにとどまりません。発したくても発せなかった言葉が、何度も何度も頭の中を巡り、ようやく湧き出でてきた言葉は、研ぎ澄まされた言葉でした。
新聞に紹介されていた臼田輝君の言葉を紹介します。


くなん それは きぼうへのすいろです。
けっしてあきらめてはいけないということを
おしえてくれます


苦難が希望への水路とは……・なんとすばらしい発想なのでしょう。

せっかくのことばが ことばとして 
こうのうがきのように うけとめられてしまい ざんねんです(中略)
すばらしいのは つらくても ことばがあることです
ことばこそ ぼくたちにとって ひつようなものなのです


地球上の生物のなかで、言語をもつのは人間だけです。神様は、なぜ人間だけに言葉を与えて下さったのでしょう……。
良く考えもせずに出してしまった言葉。感情の赴くままに吐いてしまった汚い言葉。そのような言葉が人の心を傷つけます。自由にしゃべれるからといって、何と不用意に言葉を発してきたことだと……胸が痛みます。

神様が、与えて下さった、生きるのに必要な言葉です。心して、言葉を使っていきたいです。

水野源三さんの詩を紹介します。


感覚

脳性マヒで 自由を失った
私の体にも 感覚は残っている
春の暖かさも
夏の暑さも
秋の爽やかさも
冬の寒さも 感じる
神様の 限りない恵みを 強く強く感じる


まばたきでつづった詩

口も手足もきかなくなったわたしを
28年間も 世話をしてくれた母

良い詩をつくれるようにと
四季の花を咲かせてくれた母 

まばたきでつづった詩を一つ残らず
ノートに書いておいてくれた母

詩を書いてやれないのが悲しいと言って
天国に召されて行った母

今も夢の中で老眼鏡をかけ
書きつづけていてくれる母




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本当の幸せとは

2012-10-02 20:02:20 | 聖書から
幸せとは、満たされた状態をいうのだそうです。
やりたいことをやりたいときにして、欲しいものを手に入れ、おいしいものをたらふく食べられる状況のとき、幸せというのでしょうか?

物質的には満たされても、精神的に貧しくなっていないでしょうか……。
欲求したものがすぐに与えられたら、次々求め、そのうち求めることもなくなって、むなしくならないでしょうか……。

先日の礼拝で「わたしたちは、全世界より大切なものをすでにいただいているのに何かあると、揺るがされています。」と聞いて、その通りだと思いました。

不都合なことがあると、どうして自分は不幸せなんだろう……なんとかこの状況から脱出して幸せになりたいなどと思ってしまいます。
でも、すでに大切なものを神様からいただいているのです。

全世界より大切なもの、最良なものとは何でしょう……。

イエス・キリストによる救いです。罪のために滅びるしかなかったわたしたちですが、イエスさまは、わたしたちの代わりに罰を受けて下さいました。それが十字架です。イエスさまが十字架にかかって死んでくださったおかげで、わたしたちは神さまから罰を受けなくてすむようになりました。無条件で罪赦され、永遠の命をいただいたのです。

本当の幸せとは、最良なものが既に与えられていることを感謝して、神様の近くにいることを喜ぶことです。欲求が満たされなくても、物質的に乏しくても、神様が共にいて下さるなら、心から幸せといえます。

聖書の詩編73:28には
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」と書かれています。

わたしは身体的な弱さを抱えています。それは治りませんが、あなたは幸せですか?と聞かれたら「はい」と大きな声で答えます。神の近くにいるからです。

一昨日は教会で5人の方が洗礼を受けました。受洗した人たちは本当の幸せを味わっていることでしょう。



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