大切な友人からプレゼントを頂きました。心の込められた手作りのものです。
あまり素敵なので、了承を得てその写真を公開させていただきました。御霊の実というのは、キリストを信じて歩んでいく時に実っていく品性です。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とガラテヤ人への手紙5:22-23に書かれています。いつかこのような実を結ぶことができるように……と思いながら眺めています。
「みんながあなたを悪く言ってるよ」
と誰かに言われたら心が騒ぎませんか?
娘が3歳のとき、皮膚が弱かったので、口のまわりが真っ赤にただれて、皮膚科に通っていてもなかなか治らなかったことがありました。
近所の人から「〇〇ちゃんの口のまわり真っ赤でおかしいね。あれじゃお嫁にもいけないよってみんな言ってるよ」と言われ、ショックを受けたことがありました。
一人の人が言っているのではなく、みんなと言われるとなぜか恐怖を感じてしまうのです。
昨日読んだ榎本保郎の「旧約聖書一日一生」p586に
『これは現代人が神を失うことによって「みんな」という神を恐れるようになった、いわゆる「みんな恐怖症」とでも呼ぶべきものだと思う。』と書かれていました。
ふたり以上であれば『みんな』と言うのです。それでも、聞いた人は近隣の人全部が、地域の人全員が、自分のことを知っている人全部が……と思ってしまいます。
そんなことは決してないのです。
(『みんな』については7/18のブログにも書いています。)
それでも、人の言葉やちょっとした出来事で、心の中が嵐のように騒ぐことがあります。
クリスチャンになってもそのようなことがあります。そういうときは、イエス様から目を離しているときです。
先日の礼拝メッセージでは、ユダヤ人から塵(ちり)やかすのように思われてきたパウロについて語られました。
「また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(Ⅱコリント6:8)」とパウロが書いています。
パウロは、どんなに悪評を受けても、また、好評を受けても、それらからまったく自由になっているのです。
どうしたらパウロのようにゆるがない生き方ができるのでしょう?
使徒17:7に「イエスという別の王がいる」と書かれています。地上の権力を持つ王と違う、別の王がいるからゆるがないとパウロが言っています。
別の王とは誰でしょう……。
それは、イエス・キリストです。その王は人生に意味を与え、どんなにつらいことがあっても励ましと力を与えてくれます。
どんなにひどいことを言われても、存在価値を否定されても、「あなたは高価で尊い」と言ってくれるイエスという別の王がいるから気にすることはないのです。
「このイエスを王とすることが信仰です。」と牧師先生が言われました。
イエスを王としたとき、『みんな』が怖くなくなります。人の目が気にならなくなります。
生きる目的がみつかり、生きる力が与えられます。
『みんな』が怖くて、人の目が気になって仕方なくてビクビクしながら生きていたわたしでした。でも、今はそれらのものから解放されて自由になりました。イエス様というわたしの王がいてくださるからです。
明日から実家に行って母の手伝いをしてきます。
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あまり素敵なので、了承を得てその写真を公開させていただきました。御霊の実というのは、キリストを信じて歩んでいく時に実っていく品性です。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とガラテヤ人への手紙5:22-23に書かれています。いつかこのような実を結ぶことができるように……と思いながら眺めています。
「みんながあなたを悪く言ってるよ」
と誰かに言われたら心が騒ぎませんか?
娘が3歳のとき、皮膚が弱かったので、口のまわりが真っ赤にただれて、皮膚科に通っていてもなかなか治らなかったことがありました。
近所の人から「〇〇ちゃんの口のまわり真っ赤でおかしいね。あれじゃお嫁にもいけないよってみんな言ってるよ」と言われ、ショックを受けたことがありました。
一人の人が言っているのではなく、みんなと言われるとなぜか恐怖を感じてしまうのです。
昨日読んだ榎本保郎の「旧約聖書一日一生」p586に
『これは現代人が神を失うことによって「みんな」という神を恐れるようになった、いわゆる「みんな恐怖症」とでも呼ぶべきものだと思う。』と書かれていました。
ふたり以上であれば『みんな』と言うのです。それでも、聞いた人は近隣の人全部が、地域の人全員が、自分のことを知っている人全部が……と思ってしまいます。
そんなことは決してないのです。
(『みんな』については7/18のブログにも書いています。)
それでも、人の言葉やちょっとした出来事で、心の中が嵐のように騒ぐことがあります。
クリスチャンになってもそのようなことがあります。そういうときは、イエス様から目を離しているときです。
先日の礼拝メッセージでは、ユダヤ人から塵(ちり)やかすのように思われてきたパウロについて語られました。
「また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(Ⅱコリント6:8)」とパウロが書いています。
パウロは、どんなに悪評を受けても、また、好評を受けても、それらからまったく自由になっているのです。
どうしたらパウロのようにゆるがない生き方ができるのでしょう?
使徒17:7に「イエスという別の王がいる」と書かれています。地上の権力を持つ王と違う、別の王がいるからゆるがないとパウロが言っています。
別の王とは誰でしょう……。
それは、イエス・キリストです。その王は人生に意味を与え、どんなにつらいことがあっても励ましと力を与えてくれます。
どんなにひどいことを言われても、存在価値を否定されても、「あなたは高価で尊い」と言ってくれるイエスという別の王がいるから気にすることはないのです。
「このイエスを王とすることが信仰です。」と牧師先生が言われました。
イエスを王としたとき、『みんな』が怖くなくなります。人の目が気にならなくなります。
生きる目的がみつかり、生きる力が与えられます。
『みんな』が怖くて、人の目が気になって仕方なくてビクビクしながら生きていたわたしでした。でも、今はそれらのものから解放されて自由になりました。イエス様というわたしの王がいてくださるからです。
明日から実家に行って母の手伝いをしてきます。
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