生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

わたしの夢(世界中の子供たちへ)

2006-06-30 12:09:39 | 過去の記事より
今日は、以前書いたエッセイを掲載します。これは2003年11月にクリスチャン・ペンクラブ関東ブロックで発行した「わたしの夢」という冊子に掲載されたものです。わたしのHPにも掲載していたことがあります。
このエッセイを書いてから、小説「リピート・シンドローム」を書き、それが本となって出版されました。神さまのなせる業です。

世界中の子供たちへ

「祈っています。リストカットを繰り返しているKちゃんのために書いて下さい。多くの苦しむ子供たちのためにもよろしくお願いします」

先日、友人から一通のメールが届きました。友人の知り合いの子供がリストカットを繰り返し、精神病院に入院したそうです。青少年のかかえている問題について小説を書いているけれど、なかなかうまくいかないと話した数週間後のことでした。
メールを読んで、なぜか体が震えました。

わたしの夢は日本中、いや世界中の子供たちに神さまの愛を伝えることです。いじめや不登校、摂食障害……。さまざまな問題をかかえている子供。
自分の存在価値がわからなくて死を願う子供たちに「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われる神さまを伝えたいです。
神さまの愛を示す小説が書けたらいいのに。多くの悩める子どもたちに届けられたらいいのに。イエスさまを指し示す、すてきなファンタジー童話が作れたらいいのに……。

アニメーション映画になって、多くの子供たちの心に届けられたらいいのにと、夢はとてつもなく大きくふくらみます。

作者の名前も題名も忘れ去られても、物語の一節が、セリフのひとつが読む人の心に留まって、イエス様を知るきっかけになればいいのにと思います。
でも、わたしには書く力がありません。気持ちだけは高ぶっていますが、自分の能力の限界を感じています。壁にぶつかって、もがき苦しんであきらめかけたとき、子供たちの声が聞こえてきました。
「なぜ生まれてきたの?」「なぜぼくは、ここにいるの?」
「何のとりえもない自分なんか、いない方がいいんでしょう?」
まわりにクリスチャンの人がいなかったら、誰がその問いに答えてくれるのでしょう。

創世記1:1の「はじめに神が天と地を創造した」を読んで泣いたといったSちゃんのように、子供は、本当の神さまのことを知りたいと願っています。

そんな子供たちの心に届く物語を、主よ、どうか書かせて下さい。わたしの内に書く力がありませんが、主よ、どうかその力を与えて下さい。

検索サイト

2006-06-29 11:48:58 | 日記

昨夜遅く帰宅した息子に
「ブログの文字が小さくなって読みづらくなったから、もとにもどす方法を教えて」と言うと、
「お母さんは努力していないから、すぐには教えないよ」
と意地悪を言います。(いつもこんな感じです)
「努力したわよ。でも、あちこちいじって前みたいにパソコンが壊れてしまったら
困るから……」
パソコンを使い始めた頃、コントロールパネルを開いて設定を変えているうちに起動しなくなって、初期化する羽目になったことがありました。その後、何度もトラブルを起こしています。
「パソコンで困ったときはどうすればいいか、前に教えただろう」
と息子が言います。記憶力の悪いわたしは、
「ええっ? 覚えてない……」
「検索サイトで調べること。どんなことでも検索サイトを使えば調べられないことはないよ」
と言って息子は部屋に入ってしまいました。


翌朝、検索サイトで解決するのかなあと半信半疑で「文字 表示 大きく」と入力すると、ありました、ありました。IE(インターネットエクスプローラー)の場合、「上部のメニューバーの表示から文字サイズを選びお好みの大きさをクリック」と書かれていました。
 やってみると文字の大きさは最大から最小の5段階まであり、最小になっていたので中をクリックすると、もとの大きさで見えるようになりました。誤って何らかのキーを押してしまって最小になってしまったのですね。ちなみに最大にしてみるともっとよく見えます。すでに老眼になってきていますが、老眼がもっとすすんだらこのように文字を大きくして見ればいいのだと、ひとつ勉強になりました。

わたしのパソコン歴は12年。ネットを使うようになってから5.6年です。パソコン歴が長い割には使いこなせていません。
字が下手で、読めないような字を書くため、投稿するとき、どうしてもワープロで書いた物を送りたかったのでパソコンを買いました。最初のパソコンはウインドウズ95以前のもの(3.1)です。今は3台目(ウインドウズXP)になります。主人はパソコンに全く興味がないので、マニュアル本を見て試行錯誤で使い方を覚えました。意味不明なパソコン用語は、用語辞典で調べて……。

 
ネットを繋ぐようになってからパソコンに向かっている時間が長くなり、世界も広がりましたが、ネットの危うさと空しさも感じています。検索サイトは確かに便利で、図書館に行って時間をかけて調べなければわからないことが、一瞬のうちにわかり、小説を書くときの資料集めには有益です。また、乳癌の情報なども数限りなくあり、最新の治療法を知ることもできます。情報量のすごさには驚きます。
でも、色々なサイトを巡って、次々見ていると空しくなってくることがあります。


「検索サイトで調べられないことはない」と息子は言いますが、たとえば「自分はどう生きたらいいのか?」という問題などについては、ネットは答えてくれません。もちろん「どう生きたらいいか」と文字を入れて検索ボタンを押すと色々出てきます。しかし、求めている答えはみつからないでしょう。
「どう生きたらいいのか?」その答えは聖書に中にあります。ネットを繋ぐときは、ネットにはまってしまわないようにネットを切断する意志の力を与えて下さいと祈っています。



だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6-33)

愛と赦し

2006-06-28 17:31:26 | 教会
昨夜からブログ全体の字がひとまわり小さくなり、読みづらくなっています。なぜそうなったのか原因が分かりません。設定も変えられなくて困っています。わたしのパソコンだけそうなのか、他のパソコンから見てもそうなのかがわかりません。どうなんでしょうか?
goo,OCN.YAHOOの検索サイトも同じようにひとまわり字が小さくなっています。このブログとリンクしている2つのブログはいつも通りに見えます。ファンクションキーをひとつずつ押したり、色々やってみましたがなおりません。どなたかパソコンに詳しい方がおられたら教えてください。
解決しました。もとの大きさの字が表示されるようになりました。(くわしくは29日の記事に書きました。)



 今日、祈祷会で律法と法律の違いについて教えていただきました。律法というのは旧約聖書全体を示すこともあり、モーセ五書(創世記から申命記まで)を示すこともありますが、たいていは十戒のことを意味します。

 十戒とか律法というと、何か堅苦しいもののように感じる人が多いのではないでしょうか。確かに十戒には殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し偽りの証言をしてはならない……。と禁止事項が並んでいますが、十戒の前半は「神さまを愛する」ためのものであり、後半は「人を愛する」ためのものです。(ここでいう愛は男女の愛ではありません)

 法律は、守ってさえいればいいという消極的なものです。(守れない人が多くて毎日事件が起きていますが……)律法は、人がどういう行動をしたら良いのかという積極的なものです。

 子供のころ、「人様に迷惑をかけてはいけない」とよく祖母に言われました。確かに公共道徳に反すること、法律を犯すようなことはしてはいけません。でも、そこまででとどまっていました。

 イエスさまは「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ。(マタイ19-19)」と言われます。悪いことをしなければ、人に迷惑をかけなければ、それでいいのではなく、積極的に人を愛していきなさいというのです。律法は、まず神を愛することから始まります。神を愛せなければ、本当の意味で人を愛することはできません。人を愛せないと、法を犯して人を傷つけてしまうことがあります。

いきなり神を愛すると言われても……と、とまどわれる方もいるでしょうね。
神さまはご自分のひとり子(イエス)の命を犠牲にして、わたしたちの罪を赦して下さいました。このことを思うと、神さまがどれほどわたしのことを愛して下さっているのかがわかります。神さまが無条件でわたしのことを愛して下さったから、わたしも神さまを愛するのです。律法には愛と赦しがあるのだと教えていただき嬉しくなりました。

先のことはわかりませんが……

2006-06-27 12:11:22 | 乳癌
さわやかな梅雨の晴れ間。グリーンを並べてみました。ほっとするひとときです。

 昨日新聞に乳癌の薬物療法についての記事がありました。
乳癌手術後、再発予防目的でタモキシフェンを飲んでいる方が、5年たったのでこの先飲み続けて良いかどうか迷っているということが書かれていました。タモキシフェンは女性ホルモンを抑える薬で、ノルバテックスもそうです。5年間タモキシフェン服用後にレトロゾールを飲むと、再発リスクが40%下がることが最近わかったそうです。

40%といわれてもぴんときません。降水確率と同じと書かれていましたが、何%というより、自分はどうなの? とそこがいちばん知りたいことです。
乳癌患者の6-7割は女性ホルモンに反応して増える癌細胞を持つそうですが、わたしもそうだったので、タモキシフェン(ノルバテックス)を飲んでいます。術後5年までの半分を過ぎたところですが、副作用で子宮筋腫が大きくなったり(これは腹部注射で抑えていますが)、更年期症状が進んだりしています。
副作用のリスク、高い薬代を考えると迷うのは当たり前です。その時がきたら、わたしも迷うでしょう。

去年87%という乳癌のドラマがありましたが(結末がもし悲劇的だったらつらくなると思い、見ませんでした)初期の乳癌でリンパ転移のない場合は、5年生存確率87%なのだそうです。
友人が「87%なら約9割じゃないの。乳癌なんて怖くないわね」と軽く言っていましたが、「87%だからたいていは大丈夫」といわれても再発転移におびえて鬱病になってしまう人もいます。

わたしは、術後4つのリンパ転移がみつかったので、10年生存確率4%という記事を病院のHPで見て、大変ショックを受けました。でも、今はその記事はなくなっており、他のサイトで5年生存確率20-30%という数字を見つけましたが、決して安心できる数字ではありません。

でも、どんなに健康な人でも、5年生存確率100%の人はいません。(今日の生存確率もです)事故や事件、急病であっという間に亡くなってしまう方は少なくありません。
それなら自分はどうなの? 5年後は? 10年後は? と誰かに聞きたい気持ちになります。でも、それは医師でもわからないのです。生存確率が0%といわれていても、生きる人もいるわけですから、%にこだわることはないわけです。


弱い者ですので、医師のひとことや数字で心乱れることもあります。泣いてしまうこともあります。
 けれども、すべてが神さまの手ににぎられていると思うと安心します。先のことはわかりませんが、わからないことで救われていることが多いですね。人をそのように造って下さった神さまに感謝します。
 自分の体の状態、再発するかしないか、いつまで生きられるのかなど、すべてをご存じである神さまにおまかせして、いまを精一杯生きていきます。


だからあすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります。(マタイ6:34)

小学科でのお話

2006-06-26 12:29:59 | CS(子供伝道)

 昨日は、教会学校小学科の礼拝で子供たちに聖書のお話をしました。教会学校でのお話は、教師が順番で担当し、2か月に1度くらいまわってきます。
1年生から6年生まで60人以上の子供たちと、約15人の大人(教師)の前で話すのですから緊張します。気の小さいわたしは、教師になって12年にもなるのにお話をする日の朝は胃が痛くなり、話すときは緊張で足が震えています。
お話の担当が決まると、2.3週間前から準備して1週間前には出来上がるようにしています。わたしは具合が悪くなると、回復するまでに1週間くらいかかるので、早目に準備するようにしています。でも、今回は先々週忙しかったので、1週間前にはメッセージ原稿は書いていましたが、覚えるのと絵を書くのはまだで、ぎりぎりに準備できました。

教案誌があるので、その通りお話をすれば、準備にそれほど時間はかからないのでしょうが、わたしの場合、自分の言葉で話したいという想いがあって、そのためには聖書を熟読し、わからないところは徹底的に調べて、祈って……準備するので時間がかかります。そして、メッセージの原稿はすべて暗記することを目指しています。

昨日は新約聖書「使徒の働き5章」のところで、イエスさまが復活され天に上られてから後の使徒たちが、迫害にもめげずに力強く伝道していくところをお話ししました。
 いつもお話しするときは、神さまのみこころと違うことを話してしまったらどうしようという恐れが沸き上がります。聖書を読んでも、充分調べても、祈っても不安になってきます。もし間違ったことを話したとしても、大人なら『これは違うのではないか?』と考えて吟味してくれます。でも、子供は素直な心でそのまま受け取るので、責任があり、ある意味恐ろしいのです。

 教会の80歳になるIさんから言われたことがあります。Iさんが小学生のとき教会学校でヨナの話しを聞いた。そのとき先生から、ヨナは魚に吐き出された後、海辺の町ニネベに行きましたと聞いた。けれども、後に大人になってからで調べると、ニネベは海沿いの町ではなく、内陸にあったことを知り、がっかりしたそうです。「だから、教師は間違ったことを教えてはいけない」と言われて、襟を正された気持ちになりました。


 今回準備していて、すごいと思うことがありました。わたしは毎日聖書を読むとき、2種類のデボーションの本を用いていますが、この1週間のうちに読んだどちらの本にも今回お話する使徒の働き5章のことが書かれていたのです。それを読んで、神さまが応援して下さっていることがわかりました。この箇所は、臆病なわたし自身のために神さまが下さったメッセージだったのです。

 臆病で気の弱かった使徒たちが、力強くイエスさまは救い主であると語ったこと。鞭打たれても喜んでいた使徒たちの原動力は何か?ということが示され、わたしも子供たちの前で恐れることなくお話しできました。


「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出ていった。(使徒5-41)」

結婚式(神さまの摂理)

2006-06-24 16:46:47 | 教会

今日は教会で結婚式がありました。新郎のTくんとは10年近くまえに、教会学校で一緒に下級クラスを担当しました。そのとき、Tくんはまだ大学生でした。
 新婦のK子さんは他教会の方なので、この間初めてお目にかかりましたが、とても素敵な方です。お2人は昨年の11月に出会い、お互いに一目惚れし、大晦日にプロポーズ、翌春に婚約式、そして今日結婚式となったそうです。デートして別れる前に必ず祈りあっていたと聞いて感動しました。2人ともクリスチャンホームなので、ご両親に祈りを持って育まれたのですね。

出会ってから約半年で結婚されたお2人ですが、10数年前2人が高校生の時出会っていたことがわかったそうです。松原湖キャンプの集合写真に一緒に写っていたというのを聞いて驚きました。こんなことってあるのですね。
将来のことは、だれもわかりませんから、このようなことがあると驚きますが、神さまはご存知だったのです。

それは、運命ではなく、また偶然でもなく、摂理なのです。摂理というのは、この世界で起こるすべてのことを神さまが支配して下さっているという意味です。支配といっても偉そうに上から見下ろすのではなく、ひとりひとりの人間を愛し、導いてくださるのです。   
 わたしは病気ばかりしていたので、自分は不幸な星のもとに生まれたのだ。体が弱いのは運命だから仕方ないと考えて悲観的になっていました。でも、このこともまた摂理なのだと知ったとき、神さまが何らかの目的があって、わたしの体を弱く造って下さったのだと気づきました。確かに体が丈夫だったら、じっとしているのがきらいなので、バリバリ仕事をやって、「書く」ことはしていなかったと思います。


神様の摂理によって出会い、結婚に導かれたTくんとK子さん。お2人のうえに神さまの祝福が満ちあふれますように。


ヴァイオリニストAさんのお話

2006-06-23 16:22:40 | CS(子供伝道)
 ヴァイオリニストのAさんと一緒に教会学校の教師をさせてもらっています。Aさんがこの間、子供たちに感動的なお話をして下さったので紹介したいと思います。


 ドイツに演奏旅行へ行ったときのことです。日本にいるときから、体調が悪かったため気が重かったのですが、出発しました。飛行機でトイレに入ったとき、倒れて少しの間、気を失ってしまいました。こんなこと、初めてだったので不安になりました。

 ドイツに着いてホテルで熱を計ると39℃もありました。明日は演奏会なのに困ったなあと思いました。たったひとりで言葉も通じないため、病院へも行けませんでした。薬もないので、とにかく何か食べなければと思いました。

 カップラーメンを出して、お湯をわかそうとすると……ホテルの部屋には電磁調理器があったのですが、熱くなっているところをうっかりさわってしまい、人差し指をやけどしまいました。みるみるうちに水ぶくれができ、じんじん痛みます。

 ヴァイオリンの演奏で、人差し指でつまびくところがあるのにどうしようと思い、あせりました。祈ってもらおうと日本の教会へ電話したら、風邪のため全く声が出ませんでした。

 明日、演奏会へ行けたとしても、飛行機の中のように途中で倒れてしまうのではないかと不安でたまりませんでした。その夜、祈ってはうとうと寝て、また目覚めたら祈って……と繰り返し、朝になりました。何とか演奏会をする場所に辿り着きました。会場が教会だったので、何だかほっとしました。

 必死だったので演奏のようすは覚えていません。やけどをした人差し指から血がにじんでいましたが、演奏が終わると、みんなが拍手して喜んでくれました。
 会場に日本人のクリスチャンがいました。その人に声をかけられて家に呼ばれて行き、昨日からの出来事を話しました。その人は、
「神さまが助けて下さってあなたを強め、演奏できるようにしてくださったのだ」
と言って下さり、一緒に神さまをほめたたえました。

 それまでは、自分の力や努力で演奏をするという思いがあったのですが、それからは、神さまの助けがあって初めて演奏できるのだと思うようになりました。


 海外から招かれるほどの演奏家であるAさんは、とても謙遜な方です。Aさんのすばらしい演奏や人柄は信仰からきているのだなあと思いました。
 有り難いことに、わたしが教会学校で奏楽をするときは、いつもAさんにお願いして弾いてもらっています。(おかげで下手なピアノがカバーされます)ヴァイオリンとギターとピアノの伴奏で賛美できるとは、何と恵まれているのでしょう。
                               

苦しみに会ったことは

2006-06-22 12:45:30 | 日記
先週から連日出かけていた疲れが、今ごろになって出てきています。やるべきことがたくさんあるのに動作が緩慢になっていて、手に力が入らず、朝から色々な物を落としてしまいました(コップと熱湯の入ったやかんまで……でも、コップは割れず火傷もしませんでした。感謝)こういうときはあせらずゆっくりすることですね。

昨日クリスチャン・ペンクラブのHP(このブログのブックマークにあります)に詩と俳句を新しく掲載しました。
「我慢することはない」(ここをクリックしてみてください)
という詩を読んで、泣いてしまいました。4/26の記事「苦しみの意味」にも書きましたが、わたしはずうっと我慢していたのです。主人にさえ心を開放することなく、つらい思いを我慢していたのです。でも、この詩を読んだら、神様から「我慢することはない」と言ってもらえたような気がしました。

この詩を書かれたT先生は牧師ですが、ついこの間、息子さんが急性心不全で天に召されました。T先生は息子さんの葬儀の司式をされ、告別説教もされたと伺いました。
 T先生の心情を思うと胸が張り裂けそうですが、きっと先生は思い切り泣かれたのでしょうね。辛い思いのすべてを神さまに訴えられたのでしょうね。神さまから測りしれない慰めをいただいたから、お葬儀を立派に行うことができたのだと思います。ぜひこの詩をお読み下さい。



昨日、嬉しいメールを頂きました。中学3年生の少女Nさんからで、わたしの書いた本「リピート・シンドローム」を読んで将来カウンセラーになりたいと思ったというのです。彼女は中2のときからリストカットを繰り返しており、今は必死にくいとめているそうです。ご両親にも理解されずにどれだけつらい思いをしてきたのでしょう……と心が痛みました。

でもNさんは自分の苦しみで心がいっぱいになるのではなく、自分と同じように苦しんでいる人たちのことを考え、カウンセラーになりたいと決意されたようです。苦しみを通ってきた者にしか理解できないことがあります。Nさんの経験されたつらい出来事は(これからもあるでしょうけれど)決して無駄にはなりませんよ。

聖書には「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(詩編119-71)」と書かれています。


図書館で偶然見つけたあなたの本でわたしの目標がみつかりました。
とメールに書かれていましたが、何と嬉しいことでしょう。偶然ではないんです。Nさんのことを造って下さった神さまが導いて下さったのだと思います。

Nさんに心からエールを送り、Nさんのために毎日祈っています。


空と海と地の果てへ

2006-06-21 17:38:33 | 教会

今日の祈祷会で、神さまが自然の中にその存在を示して下さるということを教えられました。空を見たとき、大自然に触れたとき、野に咲く花を見たとき、それを造って下さった神さまを感じ、感動することがあります。でも、それはクリスチャンになってからです。

 イエスさまを信じる前、自然の美しさに圧倒されて、何となくそこに聖なるものを感じることはありましたが、ぼんやりとしていました。でも、この世界も地球上の生き物もすべて神さまによって造られたのだとわかったとき、小さな花のひとつを見ても、虫を見ても、「神さまってすごい」と感動するようになりました。
ヨブ記38章には以下のように書かれています


わたしが地の基を定めたとき、
あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら告げてみよ。
あなたは知っているか。
だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。
                  (4-6)
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
死の門があなたに現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。
                 (16-18)


これはヨブが苦難の中にあって、なぜ正しい者がこんな目にあうのかという疑問を神さまに投げつけたとき、神さまがあらしの中からヨブに答えていった言葉の一部です。
なぜヨブに苦難がおとずれたかという問いに対して具体的な説明はなく、神さまはいきなりスケールの大きいことを言われます。それを聞いたヨブは神さまの壮大さに圧倒されて、灰の中で悔い改めます。

この箇所を読むと、わたしは宇宙の果てや海の源や深い淵の奥底に思いを馳せてわくわくします。これまでに宇宙、地底、海底のファンタジー作品を書きました。でも、わたしの想像力には限界があります、もし地の果て、宇宙の果てを見ることができたら、想像を遙かに越えたすごいものだろうなあと思います。人は知らないけれど神さまだけが知っておられる空と海と地の果てへ行ってみたいなあと心躍らせているわたしは、かなり変わり者ですね。

このすばらしい世界を造って下さった神さまを心からほめたたえます。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩編19-1)

ことばの旨(うま)み (その2)

2006-06-20 12:27:32 | 日記
 昨日の児童文学の学びで講師の本木洋子さんのお話から受けたものを紹介させていただきます。(たくさんあったのですが書ききれません。ほんの一部です)
写真は霞ヶ浦湖畔水郷公園内、水生植物園の水車です。

 子ども向けのノンフィクションの作品はたくさん出版されていますが、文学者でない人が書いた物もあり、ことばの旨みが感じられない作品もあるそうです。

 児童文学のノンフィクション作品を書くには、徹底した取材と正確な資料が大前提ですが、本木さんは体験的取材と体感的取材を大事にしているそうです。
 資料をそのまま書いた作品には何の面白味もありません。読者が追体験できるように言葉で読者を引き込むことが大切だと言われました。

 本木さんは、たくさんの本を出版されています。著書の絵本「よみがえれ、えりもの森」「やんばるの森がざわめく」は第50回青少年読書感想文課題図書と同指定図書になっています。本木さんは絵本を作るにあたって北海道と沖縄に取材に行かれましたが、国内だけでなく、アフリカやタイ、カンボジアにも何度も行かれています。つい最近、タイで、像使いのとトレーニングを受けてこられたそうで、像使いの認定書を見せていただいてびっくりしました。
 
 体験的取材、体感的取材はフィクションの作品を書くのにも必要です。先月、樹齢100年の桜とおばあちゃんの童話を書いて合評してもらいましが、そのとき本木さんに「桜の木の描写が説明的で、その木ようすや生命力が伝わってこない」と言われました。それもそのはず、その桜の木は小学校の校庭にあり、実際に見たのは子どもが小学生のときなので約8年前でした。小学生の子どももいないのに小学校の校庭でうろうろしていたら、このご時世、不審者に間違えられるかもと思い、見に行かずに書いたのでした。でも、どうしても見に行かなくてはと思いました。

 わたしは、情景描写をするのにありきたりの使い古された言葉使ってしまうことがありました。それでは読者の心を引き込むことができません。それならどうしたら良いのか? どうしたら豊かな表現ができるようになるのか? と思い悩んでいました。今回は、その答えのヒントをいただきました。それが「ことばの旨み」でした。

「ことばの旨み」を出すには、実際に体験して、五感をめいっぱい使うこと。想像力を働かせることです。
 ひとつの「ことば」を生み出すために何年もかけている方がおられることも知りました。わたしも旨みのあることばを生み出すために、もっともっと格闘していかなくては……。


ことばには力があります。ライターは言葉をあやつる魔術師のようなものではないでしょうか。ことばは人の心に働きかけ、生き方にすら影響を与えます。(ある意味では危険を含んでいます)
わたしは、神さまのことばである聖書から毎日力をいただいています。人を生かすことばを用いる者になりたいです。


本木洋子さんのホームページ地球の番小屋をぜひご覧下さい。(ブックマークに追加しました)

ことばの旨(うま)み (その1)

2006-06-19 17:54:39 | 日記

昨日午後から今日にかけて児童文学者協会支部(北関東)の研修会に参加しました。場所は土浦の国民宿舎水郷で、家からは車で10分ほどのところです。写真は宿舎の庭から撮った霞ヶ浦です。

昨日は教会学校奉仕をお休みして、8時半からの第Ⅰ礼拝(めぐみ教会では午前に同じ内容で3回の礼拝があります)に出席してから出かけました。
 前日まで連日行事が続いており、わたしにとってハードスケジュールでしたが、体調が整えられ、元気で帰って来ました。
 
今回の研修会のテーマは「ノンフィクションについて」で、児童文学者協会理事の本木洋子さんがお話をしてくださいました。わたしはノンフィクションを書いたことがありませんし、今後書く予定もないので、あまり期待していなかったのですが、大切なことをたくさん教えていただき、とても勉強になりました。フィクションの作品を書くのにも共通したことが多くありました。本木さんが語られた「ことばの旨(うま)み」ということがいちばん心に残りました。(詳しくは後日紹介します)
 
今回は群馬、栃木、埼玉、茨城の各支部から計16名の参加でした。群馬から参加された伝承語り部のYさんと親しくさせていただけたことが嬉しかったです。皆がサッカーを見にロビーに行っている間、部屋でお話しして、すっかり意気投合してしまったのです。

Yさんは、子どものころ、新潟でおばあちゃんから語って聞かせてもらったお話を全部覚えておられ(その数は3桁にもなるそうです)それを小学校や色々なところで語っているそうです。その記憶力にも驚きますが、方言を交え、何のかざりけもなく、隣に座っている人に話しかけるように語る語り口は、まさに質の高い芸術です。

夕食後に皆の前で2つの話しをして下さり、その後、わたしにだけ
日本版「ヘンゼルとグレーテル」という物語を語って下さいました。(グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」の日本版があったことを初めて知りました)こんな間近で聞かせていただいているわたしは、何と幸せ者だろうと思いました。
小さいころ祖母から聞いた昔話が思い出され、心が温かくなりました。


ティータイム

2006-06-17 17:20:22 | 教会

 今日は、土浦めぐみ教会で婦人集会、ティータイムが行われました。わたしは、朝6時に起きて、掃除洗濯、主人の朝食準備をあわただしく済ませ、準備の奉仕をするために8時すぎに家を出ました。

 午前10時、テーブルの上にはお茶、手作りのケーキやクッキー、フィンガーゼリー(手でつまめるサイコロ型のゼリー)そしてこの写真にあるようなグラスに生けられた可愛い花が用意されました。

 大勢の方が次々訪れました。同じテーブルになった古河教会の方とお話しました。16年くらい前にその方と久喜教会でお会いしていたかもしれないことがわかったことは驚きでした。

 お茶とお菓子をいただきながら、お話を聞き、音楽に耳を傾けるすばらしい時間を過ごしました。講師の先生は古河教会の長谷川望先生です。「とこしえのたのしみ」と題して、音楽を間に挟みながらの講演でした。

 長谷川先生は、代々のクリスチャンホームで育てられ、子どもの頃から音楽に親しんでおられました。洗礼を受け、教会の奏楽の奉仕をされたそうですが、若い頃はあまり熱心ではなかったそうです。大学を卒業して就職し、結婚してふたりのお子さんが与えられましたが、間もなく奥様が病気になってしまいました。奥様は7年の入院生活の後、亡くなられたそうです。
悲しみと絶望の中で故郷の岐阜に帰ったとき、3つのサプライズがあったそうです。

1つ目は信仰のルーツを知ることができた。(盲目であったおじいさんが信仰に導かれたこと)
2つ目は信仰のリバイバルが起こった。(長良キリスト教会で、聖書が判りやすく語られるのを聞き、またゴスペルを賛美しているのを聴いて、賛美は多様であっていいことがわかった)
3つ目は再婚と献身。(岐阜で再婚されたのですが、お相手の方は、12年前まで土浦めぐみ教会で伝道師をされていたきみえ先生でした。結婚後、毎日祈り、聖書を読むうちに今までの生活がこれでいいのか?と真剣に考えるようになり、牧師になりたいという思いが与えられたそうです。そして、結婚の翌年に会社をやめて48歳で神学校へ入学され、牧師になられたそうです。)


 
 きみえ先生は、15年前わたしが最初に土浦めぐみ教会を訪れたとき、暖かく迎えて下さり、日曜礼拝では毎回のように声をかけてくださいました。わたしは、2人の子どもたちを自転車の前後に乗せて通っていたのですが、見るに見かねて(?)車で送って下さいました。家庭集会でもお世話になりました。祈りが深く、心の暖かい先生です。長谷川先生が牧師になる決心をされたのは、もちろん神さまからの働きかけがあったからですが、きみえ先生の影響が大きかったのでは……?
 

 長谷川先生はフルートで賛美して下さいました。金 元真さんの歌声もすてきでした。
 最後に詩編16-11を紹介して下さいました。

あなたは私に、いのちの道を
知らせて下さいます。
あなたの御前(みまえ)には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


あなたとは、神さまのことです。いろいろなつらいこと、苦しみの多い人生であっても、神さまに結びついたとき、苦しみがよろこびに変えられるのだなあと思いました。


素晴らしいティータイムでした。長谷川先生、きみえ先生ありがとうございました!

家庭集会

2006-06-16 17:56:45 | 教会

今日は我が家での家庭集会でした。強い雨の中、牧師先生と8人の方が来て下さいました。写真はTさんの庭に咲いた花です。名前がわかりません。知っている方がおられましたら教えて下さい。紫の色がとてもきれいです。

今日は、マルコ15:22-39から「キリストと十字架」という題での学びでした。

以前、友人から「キリストは、十字架にはりつけされたんでしょう。キリスト教って残酷なことをわざわざ言い広める宗教なのね」と言われたことがあります。
十字架はアクセサリーにもなっていますが、十字架というものを軽い気持ちで受け止めている人が多いと思います。その中で十字架を「残酷なもの」ととらえた友人は的を得ているといえます。

でも、なぜキリストが十字架につけられたのかが大切なところで、そのことを説明しようとしたのですが、当時のわたしには彼女が納得するように話すことはできませんでした。

キリストが十字架につけられたのは、わたしたち人間の罪を赦すためです。「キリストのおかげで罪赦されて救われた」とクリスチャンは言いますが、クリスチャンでない人が聞いたら、罪とは何だろう? 救われるとはどういうことだろう? と思われるでしょう。

罪とは、法に触れる罪ではなく、すべての人間がもともと持っている原罪のようなもの……嘘をついたり、人をうらやんだり、ねたんだり、憎んだり、自己中心になったり……そういうことをさします。それなら、人間は誰もが罪人になってしまうと思われるでしょう。聖書には「すべての人は罪を犯したので……」と書いてあります。

「罪の問題」
「死の問題」は人間が自分で解決することのできない問題です。

20年ほど前のことですが、祖母は亡くなる前に「わたしが死んだらどうしよう」と繰り返し言っていました。キリストを信じていない祖母は、恐らく死後の不安を抱き、もしかしたら罪に苦しんでいたのかも知れません。そんな祖母にキリストを伝えられなかったことが心残りです。

神さまは、罪に対する怒りのすべてをキリストの十字架に注がれました。イエス・キリストが十字架にかかってくださったので、どんな罪を犯してもキリストを信じるだけで罪が赦され、肉体はやがて滅んでしまいますが、魂は永遠に生きられるようになりました。キリストの十字架は、罪と死からの救いを意味しています。

レジメには以下のように書いてあります。


神であるキリストは午前9時から十字架の苦しみを受けられました。では、午前9時より前には苦しみはなかったのでしょうか? いいえ、キリストの苦しみはもっと前から始まっていたのです。言うならば、人類の始めからキリストの苦しみは始まっていたのです。人の罪のために死なれたお方は、人が罪を犯したときから苦しまれていたのです。

愛する者が過ちを犯し、罪に染まるのを何も感じることなく見過ごせるでしょうか?我が子が悪の道に陥るのを悲しまない親がいるでしょうか?あたかも自分自身のことのように心を痛めるのではないでしょうか。
神は、人間を愛するがゆえにその罪と悪をそのままにすることができません。心を痛め、苦しみ、悲しまれます。
私たちが最初に罪を犯したのはいつだったのでしょうか? そのときを覚えている人はいないかもしれませんが、キリストは確かにそのときから私たちのために苦しみ続けておられたのです。その苦しみを知った人は、深い感謝をささげずにはおられないでしょう。


深く深く感謝しました。

ツバメが巣をつくりました

2006-06-15 13:34:55 | 日記
教会学校をしばらくお休みしている子どもに手紙を書きました。

Sちゃんお元気ですか?
わたしの住んでいるマンションにツバメが巣を作りました。親ツバメが近づくと、ひなはピーピーと鳴いて、口を大きく開けます。3羽いますが、親ツバメはいちどに1羽のひなにしかえさをあげられません。

3羽のひなに同じようにえさをやっているのかな?
いちばん大きく口を開けているひなに何回もやっているんじゃないかしら。
いちばん小さなひなもちゃんとえさをもらえたかなあ……。
なんて思いながら見ています。

ツバメは、去年も同じところに巣をつくりましたが、ひなが巣立つ前に巣が落ちてしまいました。今年はぶじ巣立っていけるようにいのっています。

こんな小さなツバメも神さまがつくってくださったのですよ。神さまは、一羽のすずめのことさえ心配して下さるのですから、わたしたちひとりひとりのことを心配なさらないはずがないとイエスさまが言われました。神さまは、わたしたちの髪の毛の数さえ知っているというのですから、おどろきですね。神さまが、Sちゃんのことをとても大切に思い、心配して下さっているということをおぼえていてくださいね。また、教会学校や分級にも顔を見せて下さい。待っています。


聖書のことば
「2羽のすずめは1アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんなすずめの1羽でも、あなたがたの父のおゆるしなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんのすずめよれもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)」



2千年前のエルサレムを舞台とした創作童話「ミルカとティナ」をわたしのホームページ(ブックマークにあります)にも掲載しました。まだ読んでおられない方は是非ご覧ください。


横田めぐみちゃんミニ写真展(その2)

2006-06-14 17:35:45 | 社会

今日から写真展が開催されました。わたしは、午前中の奉仕をさせていただきました。それほどたくさんの人は来ないかもしれないと思っていたのですが、10時前から次々と人が訪れ、熱心に写真やDVDを見たり、キリスト教の月刊誌「百万人の福音」に掲載された横田早紀江さんのあかしを読んでおられました。
会場では、横田さんご一家に起こったことを語るテープを繰り返し流していました。写真に取り囲まれ、何回もテープを聴くうちに早紀江さんの思いがズンズンと心に伝わってきました。

自分の命より大事なわが子が、突然消えたようにいなくなってしまい、何年も消息がわからなかったのですから、気も狂わんばかりの思いだったことでしょう。警察で自殺か家出かもしれないと言われたとき、絶対にそんなことはないと言い切った早紀江さん。それまでのめぐみちゃんの様子をよく知っていたことと、めぐみちゃんのことを深く信頼していたからそう言い切れたのだと思います。

 めぐみちゃんがいなくなってから3か月後、早紀江さんは友人から聖書のヨブ記を読むことをすすめられたそうです。早紀江さんはこの悲しみの最中、どうしてこんな分厚い本を読むことができるのだろうかと思ったのですが、何気なく読み始めたところ、はっとする言葉が心に響きました。


私は裸で母の胎から出て来た。
また、私は裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1-21)

あなたは神の深さを見抜くことができようか。
全能者の極限を見つけることができようか。
それは天よりも高い。あなたに何ができよう。
それはよみよりも深い。あなたが何を知り得よう。(ヨブ記11-7.8)


これを読んで、早紀江さんはめぐみちゃんがいなくなってから初めて深呼吸ができたそうです。全能者である神さまは、人間の良いことも悪いことも全部ひっくるめて魂の底まで見通しておられることを教えられたそうです。その後、早紀江さんは聖書の神さまを信じてクリスチャンになります。

 
「わたしの人生にもめぐみの人生にも何か大きな使命のようなものが与えられている」
と考えるようになった早紀江さんは、この出来事を通して神さまが何をなさるか平安の中でじっと待つことができるようになったそうです。
 
「この苦しみの中で神さまに出会ったことが最高のできごとだった」

「『めぐみは生きている』ということだけにしがみついていると、何かあったときに落ち込んでしまう。何があっても、神さまのもとへいくことができる、神さまが最善をなしてくださる」
と語られる早紀江さんの信仰に心打たれました。
 
 横田さんご夫妻のために、めぐみちゃんのために、そのほかの拉致被害者のみなさんのために祈り続けようと思いました。

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