生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

お母さん、心配しないで!

2009-04-28 12:10:51 | 乳癌

24日、病院(乳腺外来)は午後2時の予約でした。1時間程待っただけで呼ばれ、3時半には終わっていました。そのまま駅に向かい、6時半ごろ実家に着きました。
母には、薬の2次的副作用が出たため病院に寄ってから行くので遅くなると連絡していました。

「乳癌の手術して5年以上たっているのに、何でまだ治療しているの? どこか別のところが悪いんじゃないの?」
母はわたしの顔を見るなり言いました。
母に心配かけないように、乳癌の治療について今まで詳しく話していませんでした。

「普通、癌は5年たてば治療が終わるものでしょう。なぜまだ薬飲んでいるの? 知り合いで乳癌の人が何人かいるけど、みんな5年たったら治療終わったって言っているわよ」

母が疑問をもつのはもっともなことです。確かに癌は5年で治療が終わりになるケースが多いことでしょう。乳癌は5年ではなく術後10年から20年ぐらい注意が必要なのですが……。

わたしの場合は、リンパ転移があったため再発転移のリスクが高いので10年間は薬を続けた方がいいと医師に言われたのです。
リンパ転移があったことは母に話していませんし、そのことはこれからも話さない方がいいと思っています。

でも、嘘をつかずに母が安心できるように説明するには、なんて言ったらいいのでしょう……。知恵を与えて下さいと主に祈りつつ説明しました。


乳癌といっても、色々な種類があるの。ホルモンに関係しているものと、そうでないものがあるし、癌の大きさやできた場所などによって治療が違ってくるの。同じタイプ、同じステージの癌でも、術後の状態が人によって違うし、病院や医師によっても治療が異なるのよ。
わたしの場合は、術後放射線治療はしたけれど、点滴の抗がん剤治療をしなかったでしょう。だから、先生は5年で薬をやめず、まだ続けた方がよいとおっしゃるの。でも同じ薬を5年も飲んでいると効かなくなってくるでしょ。それで別の薬に変わったのだけど、わたしには合わなかったみたいで、今度また薬を変えることになったの。

いま、癌の研究が進んでいるから、次々と新薬が開発されているのよ。今まで飲んでいた薬は2007年に認証されたばかりの薬なの。

再発転移の可能性を最大限に下げるために最新で最善の治療を受けているの。治療を受けられること自体ありがたいよね。こんどまた腹部注射を受けることになったので治療費が大変だけど、医療費控除で注射の費用くらいは戻ってくるから感謝だね。

お医者さんでもわからないこともあるけれど、治療のうちに神様が働いてくださっているから、心配することは何もないのよ。
今回は薬が変わったせいで体調が狂ってしまったけど、それほど深刻なものじゃないから大丈夫。貧血といっても原因がわかっていて、治療を受けたからこれ以上ひどくならないし、血を作る機能に問題があるわけではないから心配しないで。

また薬が変わるから何が起こるかわからないけれど、すべてが神様の御手の中にあるから安心しておまかせしていればいいんだと思ってるの。


と言うと、母は納得したようでした。
詳しい治療内容については、後日HPに書かせていただきます。

25日にはJCPでよい学びができ、26日は教会でCSメッセージのご奉仕もできて感謝でした。

ようやく元気になりました

2009-04-24 12:02:55 | 乳癌

一昨日の朝、6時過ぎに目覚ましが鳴ったとき、とても気分が悪く、いつものように聖書を読むことすらできませんでした。その日、主人は東京での仕事で会議があるといっていたので、やっとのことで起き上がり、朝食の支度をしました。洗濯機におふろの残り湯を入れていると、ひどいめまいがして洗面所に倒れこんでしまいました。

さすがの主人も驚いたらしく、アルバイトに出かけようとしていた娘に「今日、休んでお母さんを病院に連れて行きなさい」と言っているのが聞こえてきました。
「午前中の受付終了が11時半だから、それまでに行けばいいから大丈夫」と答えて、寝室に這っていき、横になりました。動悸、めまい、そして頭痛がします。どれも貧血の症状だから大丈夫と思っていると、いつの間にかうとうと眠ってしまいました。

10時過ぎに目覚めたときは動悸以外の症状はおさまっていました。デボーションをすませ、支度をするとタクシーを呼びました。
タクシーに乗って出かけるとき、早退して帰って来てくれた娘と出会いました。運転手さんがドアを開けてくれたので「ごめんね、早退させちゃって。ひとりで行けるから、大丈夫」と言って病院へ向かいました。

病院にさえ着けば、そこで倒れてもなんとかしてもらえると思い、診察券をにぎりしめていました。

病院に着いて、まず乳腺外来の受付にいくと、「完全予約制なので看ることはできません」と断られてしまいました。(えーっ、こんなに具合が悪いのに?)とショックでした。

「このまま薬を飲んでいていいか、それだけでも先生に聞いてもらえませんか」と言うと、やっと看護師さんにとりついでもらえました。

「薬は飲み続けてください。今日は血液検査をしてから婦人科にかかってください。明後日14時から予約入れておきましたのでまた来て下さい」
とのことでした。血液検査の後、婦人科に行くと待合室はすごく混んでいました。

予約していないので、待たされることは覚悟していました。でもこれほどとは思いませんでした。11時30分に受付をして、呼ばれたのが15時30分。なんと延々と4時間も待たされたのです。昼食もとれずに。
ますます具合が悪くなった気がしました。

やっと呼ばれて診察室に行くと、「ひどい貧血ですね。明後日乳腺外来にかかるんでしょう。そこで鉄剤出してもらえますね」と言って、薬を処方しようとしないので「薬、今日ください。お願いします」と頼んで、いただくことができました。

こんなにひどい貧血の症状が出ているのに薬は明後日でいいなんて……明後日まで具合悪くてもがまんしなさいということなのでしょうか?

婦人科の入口には、『近隣の産婦人科が縮小しているので、当院に患者が集中しています。予約していてもかなりお待たせしますがご了承くださいとい』うことが書かれた張り紙がしてありました。

考えてみると婦人科の先生は、朝8時半から次々患者を看て、お昼も食べずに4時頃まで看続けているのでしょう。そうだとしたら、疲れて患者さんの身になって考えることなどできなくなってしまいますね。

とにかく終わって、へとへとに疲れ、再びタクシーに乗って帰ってきました。院外処方なので、薬局に寄って帰宅すると4時半でした。
さっそく薬を飲むと、よく効いて元気になりました。

今日、実家に泊まり、翌日JCPの童話とエッセイの会に出席する予定でいました。母はわたしが行くのをとても楽しみにしてくれています。

きっと金曜日までにはよくなると信じて祈っていました。神様は願いをかなえてくださいました。祈って下さった方に感謝します。

今日はこれからまた病院ですが、終わってからそのまま駅に向かって東京(三鷹)までいくつもりです。今日はあまり待たされませんように。




シロヤマブキ

2009-04-21 17:37:16 | 日記

直接ではないのですが、薬の影響で貧血になり、昨日は一日ダウンしていました。
めまいと動悸、頭痛までして、夕方まで起き上がれませんでした。何とか夕飯を作るころには起き上がれたので感謝です。

今も少し歩いただけで動悸がします。でも、じっとしていれば大丈夫なので、今日はCSのお話を作ったり、童話を書いたりパソコン作業をたくさんしました。

明日は病院へ行きます。鉄剤をもらえばすぐによくなると思います。

「駅」というテーマで短編を書いていました。鍵となる花の名がなかなかみつからなくて、探していました。イースター礼拝の時、菜の花は花びらが4枚なので十字架花だと聞いて、4枚花びらの春の花を探していました。

アブラナ科はみな4枚花ですが、アブラナ科の花は菜の花も含め小花が多くて役不足です。先日、清楚ではっとするような4枚花びらの花はないものかと考えながら歩いていたら、なんとマンションの植え込みに咲いていた花が4枚花びらでした。ヤマブキに似た白い花です。でも名前がわかりません。

「シロ・ 春・4枚花びら」で検索すると、ありました。「シロヤマブキ」です。バラ科でヤマブキとは種類が異なるのですが、ヤマブキに葉の形も似ているのでそういう名がついたそうです。
「主の山に備えあり」です。

作品の題名は「シロヤマブキ」になりました。
金曜日までにはきっと元気になるでしょう。

めぐみ、満ちあふれ

2009-04-18 16:52:57 | 聖書から

昨日は我が家での家庭集会でした。牧師先生と8人の方が来てくださいました。
聖書個所は新約聖書のルカの福音書7:36-50です。

シモンという名のパリサイ人がイエスさまを食事に招待したとき、ひとりの女が香油をもって入って来て、泣きながら涙でイエスさまの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけをして香油をぬったという出来事が書かれています。
この箇所は2007年7月の家庭集会でも学んだところで、その内容の詳細は7/257/26のブログに書いています。



聖書の同じ箇所を学んでも、そのときによって受け止め方が違うこと。毎回初めて気づかされることがあることに驚いています。

今回は女の人が「イエスのうしろで御足のそばにたち」と書いてあったことが心に留まりました。聖書の欄外注釈によると女の人は『不道徳な女』と書かれています。つまり娼婦です。

当時の社会では娼婦は律法に反する罪深い者とされていました。ですから、その女の人はさげすまれ、社会からも疎外されていました。自分でも汚れている、罪深い者だと自覚していました。でも、生きていくためにやめることができなかったのでしょう。

女の人はただ、イエス様がシモンの家にいることを知り、イエス様に自分ができる最高のことをしたくて、香油を持ってきましたが、正面からイエス様に近づくことはできなかったのでしょう。


足を濡らすほどボロボロと涙をこぼし、髪の毛でぬぐい、足に口づけをし、香油をぬったとき、彼女はイエス様の顔を見ることもできずに、じっと下を向いていたでしょう。
その彼女をいとおしくながめるイエス様。

一方シモンは冷めた心で女の人を見下し、女のすることを止めもしないイエス様を心の中で批難しています。
女の人はイエス様を愛してやまなかったけれど、シモンはイエス様のことを愛していませんでした。そして女の人を裁いていました。


わたしの信仰は、女の人のようなのか、それともシモンのようなのか……?と、問われた気がしました。今まで自分は女の人のようだと思っていたのですが、実はシモンのようだったことに気づき、愕然としました。
わたしが彼女だったら、周りの人の目を恐れてイエス様に近づくことさえできなかったかもしれません。
もし、わたしがシモンだったら、遊女がそのようなことをしたら腹を立て、それを受け入れたイエス様をさえ批難していたのかもしれないと思って心がズキズキ痛みました。

でも、イエス様はこのシモンのようなわたしでさえ赦し、愛して下さっているのですね。そのことを感謝します。


昨日の家庭集会は、神様が参加したひとりひとりの心の琴線に触れてくださったように思います。最後の祈りをしたとき、何人かの方が涙を流していました。

学びの後は、みなさんで持ち寄った昼食をいただき、楽しくおしゃべりをしました。
神様のめぐみが満ちあふれた集会でした。

信じるとは……

2009-04-16 16:32:18 | エッセイ

「キリスト教は悪い教えとは思えないけど、処女降誕と復活は信じられない」
と、友人が言いました。
「あなたは本気で信じてるの?」
と聞かれたので。
「信じている」
と答えると、あきれたような顔をされてしまいました。


処女降誕と復活は、確かにどう考えても人間の常識ではあり得ない出来事です。そして実際本当に起こったことかどうか・・・目に見えるような証拠はありません。
処女降誕のことは別の機会に書くことにしますが……

復活のことについては、当時イエスさまと行動を共にしていた弟子たちでも信じられませんでした。イエス様は十字架にかかる前に何度も3日目によみがえることを話しています。また、旧約聖書(キリスト誕生以前に書かれていた聖書)にはキリストについての預言--復活についても書かれています。それでもなお、死者の復活はありえないと考えていた弟子たちは、空になった墓を見ても信じることができませんでした。


復活のイエス様と実際に出会っても、弟子たちは霊を見ているのだと思いました。イエス様の手足の傷を見、魚を食べる様子を見て、初めてイエス様がよみがえったのだとわかったのです。

復活を目撃し、その後聖霊をいただいた弟子たちは、変えられました。
恐ろしさのあまりイエス様を3度否定してしまったペテロは、のちに教会の指導者となりました。イエスさまが十字架につけられていたとき逃げかくれしていた臆病な弟子たちも、迫害や死を恐れずにキリストを伝える者となっていきました。
その弟子たちの変化をみただけでも、復活は本当の出来事だったことがわかります。


もしキリストがよみがえらなかったのなら…・・・とパウロが仮定して書いています。

「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。(Ⅰコリント15:17)」
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、すべての人の中で一番哀れな者です。(Ⅰコリント15:19)」



キリストの復活が事実でないなら、クリスチャンは一番哀れな者です。
でも、事実なのですからクリスチャンは復活の命に生かされています。
それは、神様の奇跡なのです。人間の常識を超えたものなので理性で理解することはできません。


「信じるということは、疑うことをやめることではない。疑いを越えることである。それは、一種の賭けであり、冒険である。それゆえ、信じるということは決して安易なことではない。」
と榎本保郎師の「旧約聖書一日一章」491ぺージに書かれています。


疑いを越えるとはどういうことでしょう。
わたしは、不信との闘いに勝利することだと思います。
神様だけを頼っていくとき、「本当に大丈夫なんだろうか?」という声が自分の中から聞こえてきます。誰か人に頼った方がいいのではないかと思ったりします。

「神様、いっさいのことをお委ねします」と祈ってからも、迷いの中に落ち込んだりします。待つことができなくて自分のあさはかな知恵や経験をたよりに先走ったことをして失敗することもあります。

不安と恐れの中にあっても、どこまでも神様を信頼していくことが勝利への道でしょう。

イエス様は弟子のトマスに言われました。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)」


『老いと死』という問題

2009-04-14 12:57:57 | エッセイ

若い人は感じないでしょうけれど、50代になると体が日々老化しているのを感じます。ましてや老化を促進するような薬を飲んでいるわたしはなおさらです。健康な人でも避けようのないことが、老化です。


一生懸命アンチエイジングの努力をして老化を遅らせることはできても、それを止めることはできません。
どんなに長生きしても150歳までは生きられませんね。100歳なんてまだまだ先。100まで生きれば十分と思っている人でも、実際に100歳に近づくと、あっという間だったなと思うことでしょう。
わたしはファンタージー小説で、年をとらない世界を書いています。5000年たっても誰も老いることがなく子どもは子どものままなのです。だからといって、その世界の人々は幸せを感じてないのです。それは、神様を知らず、人々は罪を犯し続けていたからです。


わたしたちの生きている世界では、生物には老いと死があります。生物だけではありません。物もどんどん古くなります。酸化し、色あせ、老朽化していくのを見ると虚しさを感じます。
体も朽ちていきます。つきつめれば、わたしたちは死に向かって一直線に突き進んでいるといえるでしょう。
とても恐ろしい事実です。それなのに、みんなそんなこと気にもせずに暮らしています。



わたしは中学生ころ、死ということを考えて、暗澹たる気持ちでいました。どうしていきつく先は死なのにみんな平然としていられるんだろうと思いました。
祖母に聞くと、「縁起の悪いこと考えるんじゃない」としかられました。『人はみな老いて死ぬ』という事実に大人は目をそむけているのだと思いました。
やがてそのようなことを考えるのをやめてしまいましたが、問題は未解決のままでした。


朽ちていく速度があまりにもゆっくりなので、同じような状態がいつまでも続くような錯覚をしているのかもしれません。でも、人は身近な人の死をみたとき、『なぜ人は死んでいくのだろう?』という問題にぶつかると思います。

でも、その問題はすでに解決済みでした。2000年近くも前にです。でも、あまりにも多くの人がそのことを知りません。


死の問題を解決して下さった方は、イエス・キリストです。イエス様が墓の中からよみがえったことにより死に打ち勝ってくださったのです。

「しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント15:20)」

この聖書の言葉は、キリストが初穂で、後にわたしたちも死後復活するということを意味します。


一昨日のイースター礼拝では、「種が蒔かれると、芽が出て花が咲きます。花は種とは全く違う形をしています。花が咲くと、種はもうその形がなくなっています。そのようにわたしたちの体も、今は朽ちるものですが、朽ちないものに変えられるのです。」とメッセージがありました。

「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ・・・(Ⅰコリント15:42)」

わたしたちには『イエス様を信じるだけで、やがて朽ちない体に変えられる』という約束が与えられています。すごいことです。

人生が死で終わりなら、何をやっても虚しいです。でも、死で終わりではなく、朽ちない体、永遠の命をいただける約束があります。それを信じるか信じないか、人生はそれにかかっています。


受難週に書いた3篇の詩

2009-04-11 09:39:50 | 
 
イエス様の痛み

中傷され ズキズキ心が痛むとき
イエス様を感じてる
平手打ちされ
ののしられたイエス様
わたしの痛みは その何万分の一でしょうか

めまいがし 伏せることしかできないとき
イエス様に叫んでる
十字架を背負って歩き
つまずき倒れそうになったイエス様
イエス様も めまいしていたのですか

ジンジンと関節痛を感じるとき
イエス様を想ってる
わたしのために釘をさされ
壮絶な苦しみを味わったイエス様
わたしの痛みの中にイエス様がおられるのですね



イエス様の目は何色?

砂漠の中のこんこんと水のわき出る泉の色
だれも行ったことのない深海の濃い藍色
宇宙の果てにある星が放つ光の色
ノアがみた虹の色

いえいえ、みんな違います
イエス様の目は
わたしが苦しむとき一緒に流してくれる涙の色



わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか

どんなに絶望的状況にあって、のがれる術を知らなくても
イエス様が一緒にいて下さることを知っているわたしは
一筋の希望をにぎっています

ひとりぼっちで誰からも理解されなくて心がヒリヒリするときも
イエス様だけはわかってくださると知っているわたしは
真の孤独にはなりません

死の淵に立たされ、地上での時間があとわずかしか残っていないときにも
イエス様といっしょに天国へ行くことを知っているわたしは
怖がらず、安心していられるでしょう

十字架の上で神様に見捨てられるという最高につらい状況におかれたイエス様
それは、神様から見捨てられても仕方のないわたしを
見捨てられないようにして下さるためだったのですね

 
*題名の「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、マタイ27:46に書かれています。イエス様が十字架上で言った言葉です。これは詩篇22篇にある言葉の引用です。イエス様は旧約聖書に書かれている言葉を多く引用されて語っておられます。

この言葉は、イエス様が父なる神様に見捨てられたことを示します。肉体の苦痛より辛かったと思います。助けることができるのに愛するひとり子を見捨てなければならなかった神様の気持ちもどんなに辛かったことでしょう。その犠牲があったことで、わたしたちは神に見捨てられるということが永遠になくなったのです。

 
*昨日ブックマークにあるJCP(日本クリスチャンペンクラブ)のHP更新しました。ぜひご覧ください。


ふたりの犯罪人

2009-04-08 16:10:04 | 聖書から
 
今週は受難週です。毎年受難週には早天祈祷会に何回か出ていたのですが、今年はまだ行っていません。朝起きたとき、関節痛がひどいので起き上がるのに時間がかかってしまいます。また、昨日から体調不良なので無理はできません。

今年は4月12日がイースター(復活祭)です。イースターとはイエスさまが十字架で殺されたあと、3日目によみがえった日を記念する祭りです。

イースター前の1週間を受難週といいます。

 
前回の祈祷会でイエス様と共に十字架につけられた2人について考える機会が与えられました。イエス様は罪がないのに十字架につけられてしまいましたが、他の二人は犯罪人でした。どのような犯罪だったのかわかりませんが、極刑に値するほどの重罪だったのでしょう。

そのうちのひとりはイエス様に向かって 「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え(ルカ23:39)」と悪口を言います。これは『救えるなら、救ってみろ、救えやしないだろう』と言うのと同じです。
この人は以前からイエス様のことを知っていたようです。実際に会っていたかあるいはうわさ聞いて、イエスさまがどんなことをされたかわかっていたようです。そのうえで罵倒しています。救い主だなんて言いながら、なんて無力なんだ!とばかにしています。

「私たちもこの人のようなことをするときがないでしょうか?」と牧師先生に問いかけられてドキッとしました。

前々回の記事(苦しみの理由)に書いたように間違った神観を抱いていたとき、神様を恨んでいました。神様がこの世界を支配しているというのに、なぜこんな辛いことが起こるのか・・・と問いかけていました。

自分のことを棚に上げて勝手な神観で、神様を批難していました。「勝手な神観が問題なのです」と聞いて、わたしはこの犯罪人のようなことをしていたのだと思いました。

もうひとりは 「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。(23:40,41)」と言ってたしなめます。

イエス様をののしることは、神をおそれない行為だと言っています。この人も、以前からイエス様のことを知っていたようです。この人はイエス様が神様と等しいと考えていました。罪のないお方だということも知っていました。
考えてみると、当時のほとんどの人がイエス様が神様だとわからなかったのに、この人がわかっていたということは驚きです。

「自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」と言って、自分の罪を直視しています。「自分の罪を直視することができて初めてイエス様のことがわかるのです」と聞いて、その通りだなあと思いました。

二人目の犯罪人は 「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。(23:42)」と言っています。これは『救われる資格のないわたしですが、一方的な憐れみによって私を救って下さい』という意味だそうです。それはわたしの祈りでもあります。

それに答えてイエス様は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(23:43)」と言ってくれます。この人は、どれほど嬉しく思ったことでしょう。

 『きょう』といっているのは、 これからパラダイスに行くというのではなく、今、イエス様といっしょにパラダイスにいるという意味だと教えていただきました。十字架につけられていて、肉体は苦痛の限界まできているのですが、イエス様が一緒にいてくださるので、この人には最高の喜び、平安があったのです。
ふたり目の人のような信仰を持ちたいと思いました。


写真は今日の桜川。ほぼ満開です。

花よりブーブー

2009-04-06 16:57:11 | 日記
 
3日に妹と中学2年の姪が泊まりに来て、翌日の土曜日には嫁とヒックン、主人とわたしの6人でお弁当を持ってお花見に行ってきました。お花見といっても、まだ桜川の土手の桜は3分咲きでしたが…・・・。

シートを敷いてお弁当を食べるのは何年ぶりでしょう。たくさんの家族連れの姿が見え、バーベキューをしている人たちもいました。

車が次々と河川敷に降りてくるので、ヒックンはおにぎりを食べながらキョロキョロして落ち着きません。食べ終わると、姪がボールで遊んでくれ、大喜びでした。

ヒックンはちょっと目を離すと車のところへ行こうとするので、おじいちゃんはゆっくりビールを飲んでいられませんでした。

「お花、きれいでしょ」と言うと、花より車に興味津津のヒックンは「ブーブー、いっぱい! すごーい」と言いました。

姪と会ったばかりの時は緊張した表情を見せていたヒックンも帰るころにはすっかり慣れて、「○○ちゃん、おともだち、おともだち」と言っていました。
 

日曜日には姪と教会へ行きました。中高生は、いつもはティーンズ礼拝なのですが、昨日は受難週特別礼拝だったため第2礼拝に出ていました。

受難週特別礼拝ではバッハ受難曲の賛美がありました。わたしは第3礼拝で聞いたのですが、合唱団(メンバーは教会の有志の方々)がドイツ語で歌うのを聞いてびっくりしました。この日のために何週間も練習してこられたのです。歌詞はわからなかったのですが、意味する言葉はスクリーンで表示されました。わたしは聴きながらイエス様が鞭打たれ、十字架を担いで倒れるようす。十字架にくぎづけされ、あげられるようすを思い浮かべて、涙があふれてたまりませんでした。

あとで姪に聞くと、「全然意味がわからなかった」と言うので、イエス様の生涯と十字架と復活の話を聞かせました。すると、「聖書を読んでみたい」というので、ギデオンの小さな聖書をあげました。今度は旧約もついている聖書を買ってあげようと思いました。
 
今日は、姪が帰る日です。姪といっしょに近所のスーパーに買い物に行き、歩きながらあれこれおしゃべりしていると、「Mママ(わたしのこと)の家で暮らしたいな」と姪がぽつりと言いました。その一言で感動し、ホロリとしてしまいました。

お昼は娘と3人でホットプレートでお好み焼きを焼いていただき、娘が新宿まで送って行きました。姪が帰ったあとは寂しさが襲ってきて、夕飯の支度をする気力もありません。夏休みにまた姪が来るのを待ち望んでいます。

苦しみの理由

2009-04-03 12:10:57 | エッセイ
 
「なぜですか、神様?」「こんなに辛いことがあると、この地上で生かされている意味がわからない」「神様はどうしてこんな目に合わせるのかしら」と友人が言いました。

次から次へと大変なことが起こり、今もまだ大きな試練の中にいる友です。
何て言ったらいいか励ます言葉も、慰めの言葉もみつかりませんでした。

 
試練のまっただ中にあって意気消沈している人に聖書の言葉を持ってきて 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ 8:28と聖書に書いてあるから、あとで考えればきっとよかったと思えるよ」などと言えば、かえってその人を傷つけることになります。

その人が、自分でそのように気づく場合はいいのですが、他の人に「聖書にこう書いてあるから」と言われたら辛いでしょうね。それはヨブの友人のようです。わたしは、以前ヨブの友人のような過ちを犯したことがあります。


ヨブの友人は、苦難の中にあるヨブを慰め、見舞うために来たのにひどい言葉でヨブを責め立ててしまいます。
因果応報を解き、ヨブに罪があることを指摘します。友人にそう言われるとヨブはやっきとなって自分の潔白を証明しようとします。

ヨブの苦しみは、なぜ自分がこのような不幸に見舞われたのかという理由がわからないところにありました。理由なく災難に見舞われたヨブはすっかりいじけてしまって、自分の生まれた日をのろうようにさえなります。

 
わたしはその気持ちがよくわかります。わたしもいじけていました。若者言葉で言うと、やさぐれていました。

洗礼を受けたものの、教会を離れていたころのことです。長男を出産した後、喘息になりました。(子どものころ小児喘息だったのですが、16歳のとき漢方薬で治っていました)
喘息の癒しを願ったのに治るどころか、年々症状が重くなってくるので、神様を恨みました。この病が治らなければ生きていも仕方ないと思うほどでした。

不信仰な私は、神様がどのようなお方か知りませんでした。
わたしが喘息で苦しんでいることをあるいは神様は知らないのかもしれない。それとも知っていて癒そうとしているけれど、神様でもできないのかもしれないと思ったりしました。

そして、なぜこんな苦しい思いをしなくてはならないのかという理由を問いかけていました。

 
再び教会に導かれ、礼拝メッセージを聞き、聖書を真剣に読むようになって、自分の神観が間違っていたことに気づきました。 『全知全能なる神』『創造者である神』と聞いても、最初は具体的にどういうことかわかりませんでした。神様は、ことばによって世界を創造され、わたしのことも造って下さった。そして、神様にできないことは何もないのだとわかったとき、ヨブが神の臨在に触れてひれ伏したように、わたしも降参し、自分の思い上がりを悔いたのでした。

地上で起こることの理由はぼんやりとしかわかりません。でも、天国に行った時には顔と顔を合わせてみるようにはっきりわかるのだそうです。だから、いまはなぜと問うのはやめましょう。

 
ほんとうは理由が知りたいのではなくて、心からの慰めを求めていたのかもしれません。わたしの友人もたぶんそうなのでしょう。

ヨブの友人のようにではなく、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者とともに喜べるような人になりたいです。


関連記事:なぜ苦しみがあるのでしょう2008年3月14日~22日

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