生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

心に花を

2007-07-31 12:26:05 | 教会

先日の礼拝でケニアの宣教師、I先生から聞いた話はショッキングなものでした。
麻薬漬けにされて戦いの最前線に行かされている少年兵。少女売春。人身売買。大人が子供に盗みをさせ、幼い少女をレイプするといった悲惨なことが実際に起きているのです。

『子供は未来の希望』といわれますが、現実は未来が死に急いでいる。緑豊かだった地の緑がはぎ取られ、砂漠化していると言われました。
大人は子供を欲望のままにし、子供は生き延びるため嘘をつき、タバコや麻薬に手を出します。スラムに住む大人たちは、生活していくのに精一杯で、このような問題をそのままにしていました。


そのような中で設立されたコイノニア幼稚園の働きが紹介されました。
大人の顔色を見て、人を騙すことが身に付いていた子供たち。自己主張ばかりして全くしつけられていなかった子供たち。自分の思いを伝えられなかった子供たちが、クリスチャンの先生たちとの関わり合いによって変化していくのです。

教師が子供たちを変えるのではないと言われたことが深く心に残りました。教師は祈ってイエスさまからエネルギーをいただいて子供たちに関わります。するとイエスさまの力が子供たちに働いて変化していくのだそうです。



そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。(イザヤ35:5)
と聖書にあるように、見えていなかったものが見え、聞こえていなかったことが聞こえるようになり、子供たちは神さまから愛されている存在であることに気づくのです。

それはまるで砂漠に花が咲いていくようです。

荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。(イザヤ35:1)


荒地に花が咲く秘密は、イエスさまの十字架の死と復活の事実です。キリストの復活があるから荒地が再生するのです。


日本の社会にも砂漠が広がってきている気がします。見るべきものが見えず、聞くべき事が聞けない人々。かつてのわたしもそうでした。価値基準をどこに置いたらよいかわからず、人の意見に左右されて、いつも心騒がせていました。

エンデの「はてしない物語」に虚無が広がっていく世界が書かれていますが、現代は人の心の中に虚無がどんどん広がって行っているのではないでしょうか。
虚無をくい止めるもの、砂漠に花を咲かせるものは、イエスさまの復活の命です。わたしの心もイエスさまの復活の命を受けて再生しました。わたしの心は緑で潤い、サフランの花が咲いています。

これを読んでいるあなたの心に花が咲いていますか? まだでしたら種を差し上げましょう。たくさん花が咲きますように。
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名前を呼ばれて

2007-07-29 16:47:00 | エッセイ
 
今日の礼拝はケニア宣教師のI先生がメッセージをして下さいました。
ナイジェリアの子供たちの悲しい現実を聞き胸が痛みました。日本でも児童虐待、少年犯罪の問題、自殺の低年齢化と深刻な問題が起こっています。

今日も100%エネルギーを使い切ってしまったので、メッセージの紹介は後日にします。代わりにクリスチャン・ペンクラブで2006年4月に「私の名前」というテーマで書いたエッセイを掲載します。(わたしの本名は裕子です)

神さまのゆうことをきく子に  


裕子はひろことも読めますが、わたしの名前はゆうこです。
シャイな主人は、わたしの名前をいままで一度も呼んだことがありません。わたしの父は母の名を1日に何10回も呼びますが、義父が義母の名前を呼んだのを聞いたことがありません。いつか主人に名前を呼んでもらいたいと思っているのですが、実現するでしょうか……。
 いまは、裕子という名前を結構気に入っていますが、子どものころはいやでした。

「どうして裕子という名前をつけたの?」と母親に尋ねたのは、小学校5年生のときでした。子のつく名前は平凡でつまらないと思っていました。
母は「ゆうこと(言うこと)きくから裕子とつけたのだよ」と答えました。
(生後間もない時期に言うこときくかどうかわからないのに……。言うこときかせようという魂胆だな……。言うことなんか、きくもんか)と、反抗期のわたしは思いました。 

 中学生になって、孤独の淵に追いやられたとき、自分の存在ということを考えるようになりました。なぜ生まれてきたのか? なぜ自分はここにいるのか? なぜ日本のこの時代に、この親のもとに生まれたのか?  偶然にすぎないのだろうか?

いじめにあい、つらい日々を過ごうち、いつしか空想の世界に逃避していました。空想の世界では、好きな時代、好きな場所で過ごすことができます。空想の世界にどっぷりとつかって、自分がこの世界にいるのか空想の世界にいるのかわからなくなるほどでした。この世界に自分は存在していないのでは?と思ったほどです。

 1997年、神戸で酒鬼薔薇聖斗と名乗る14歳の少年が残虐な殺人事件を起こしましたが、少年が自分のことを「透明な自分」と書いていたことが強く印象に残りました。少年の心の内はわかりませんが、孤独と空しさの中で、自分の存在が消えて透明になってしまうように感じていたのではないでしょうか。事件を起こして、自分の存在をアピールしたかったのかもしれません。

「Itと呼ばれた子」のディブ・ペルザーは、母親からIt(それ)と呼ばれ、心が深く傷つけられます。

わたしが最近書いた小説は、中学1年の少年が、母親から「あんた、だれ?」と言われ、自分の存在に疑問を持つところから始まります。少年は、ファンタジーの世界、オアシースという国へ行きますが、それは自分探しの旅でもありました。少年は、創造者であるオアシースの王に出会い、名前を呼んでもらって初めて自分の存在が確かめられます。

わたし自身、造り主の存在を知ったとき、初めて自分の存在が確かになりました。
 神さまが、わたしの名前を呼んで下さっていると感じることがあります。つらいとき、不安でたまらないとき、必死に祈っていると「裕子、裕子、大丈夫だよ」という主の語りかけが心に響き、平安が与えられます。
「裕子」は『神さまのゆうことをきく子』という意味にしたいと思いました。


 わたしは、現代社会の中で傷つきあえいでいる子供たちのことを思い、創作活動をしています。
このとき書いたと記している小説は、あしかけ4年もかかって書いています。先日3回目の書き直しをしてほぼ書き終えました。まだ細かい推敲(推敲は30回を越えています)をしなければなりません。完成しても出版される可能性は限りなくゼロに近いので、実際に傷ついた子供たちに読んでもらうことができないことが残念です……。
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多く赦された者は、多く愛するの?(その2)

2007-07-26 13:00:11 | 聖書から
昨日の続きです。

そのとき、イエスさまはパリサイ人シモンに金貸しのたとえを話されました。

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は当たっています」と言われた。(ルカ7:41-43)


そしてイエスさまは、シモンは口づけし油をぬってくれなかったが、この女は足に口づけし、足に香油をぬってくれたと言い、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。(7:47)」と女のやった行為をほめ、女に罪の赦しを宣言します。

この聖書箇所を読むと、多くの罪を赦されている人が、より愛するようになる。少ししか罪のない人は少ししか赦されないから、愛も少ないという意味のように受け取れます。  それなら、大きな罪を犯した人の方が、大きな愛をもつようになるということでしょうか?

しかし、イエスさまは、そいうことを言っているのではない。シモンがそう思っているので、そのシモンの考えに合わせてそう言われたのだと教えられて、イエスさまはこの女だけでなく、パリサイ人シモンのことも愛しておられるのだと気づきました。

ほかの聖書箇所で、イエスさまは、パリサイ人のことを偽善者とまで言っており、パリサイ人やサドカイ人、律法学者などに対して厳しい態度をとられています。

でも、実はイエスさまは、シモンのことも愛しておられた。だから、シモン自身が多くの罪を赦されている者なのだと気づかせようとしておられたのです。

シモンは、香油をぬった女を罪深い者としてさげすんでいました。そして自分は律法を守っているから、神の前に正しい人間なのだと思っていました。
シモンは女のした行為が素晴らしいものだとは思いませんでした。自分よりこの女の行為をほめるイエスさまの心がわからなかったでしょう。女より優位にたって、女のことを裁いていたシモン。シモンこそ罪深い者であるということにイエスさまは気づかせたかったので、このように語られたのでした。

わたしも、無意識に人のことを裁いてしまうことがあります。でも、自分こそ多くの罪を赦されている者なのだということを自覚して日々歩んでいきたいと思いました。


聖書の一節だけを取り出して自分勝手に解釈をすることの危険性を感じました。イエスさまの言われた言葉の中には、ほかの箇所で言われたことと矛盾するような言葉もあり、『えっ、どういうこと?』と首を傾げてしまうことがあります。言葉の表面的な意味ではなく、その下に隠されている主の深い想いを読みとらないと誤解してしまいます。だからこそ、礼拝メッセージを聞いたり、聖書を学ぶことが大切なのですね。 
                 
おわり
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多く赦された者は、多く愛するの?(その1)

2007-07-25 17:54:22 | 聖書から

先週の木曜日にSさん宅で家庭集会が行われました。日にちが過ぎてしまいましたが、新しい発見がありましたので、学びの一部を紹介させていただきます。


新約聖書のルカの福音書7:36-50に、シモンという名のパリサイ人がイエスさまを食事に招待したときの出来事が書かれています。(ここに登場するシモンはイエスさまの弟子のシモン・ペテロとは別人です。)

パリサイ人とは、新約時代のユダヤ教の一派で、厳格な律法主義者です。彼らは律法を守ることで救われると思っている倫理的な人たちです。

人を招待して食事を用意するのは、普通のこととして聖書に書かれていますが、ユダヤ人は宗教的意識が強いので罪深いとみなされた人や異邦人(外国人)とはつきあわないのは慣例でした。

パリサイ人、シモンはイエスさまが聖書知識に通じ、立派な教えをする教師(ラビ)と見ていたので家に招いたようです。

イエスさまが食卓についていたとき、ひとりの罪深い女が突然家の中に入ってきました。女は高価な香油の入った壺を持っており、泣きながら涙でイエスさまの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけをして香油をぬりました。

当時のユダヤ人は、客人に対するもてなしとして足を洗いました。足に口づけをするというのは『タムルード』(ユダヤ教ラビたちによる口伝律法集大成)にも実例が記されていて、最高の感謝と謙遜の表現だったそうです。香油は最高の化粧品で、客に対するもてなしのひとつです。

写真はこの場面を描いた聖画がですが、美しい場面ですね。その女の人がどんな思いでイエスさまのところへ行ったのかと想像すると、ドラマになりそうです。女はそれ以前にイエスさまと出会っていて罪赦されたので、イエスさまに対する感謝とあふれる愛の思いをこのような行為として表わしたのでは?とわたしは想像します。

女のすることを見たシモンは「もし、イエスが預言者なら、この女が罪深い女だと知っているはずだ」と心の中で思っていました。イエスさまが女にどんな対応をするのか興味津々だったのでしょう。

罪深い女というのは「不道徳な女」ということです。シモンは、心の中で女のことをさげすんでいたのかもしれません。
             
              
つづく
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お食いぞめ

2007-07-23 13:19:24 | 日記

昨日はヒッくんのお食いぞめのお祝いで息子宅に招かれ、夕方から主人と出かけました。

写真は初公開です。公開するのを迷っていたのですが、いまのうちしか公開できないと思って……可愛いでしょう? すっかりバババカになってしまったわたしです。


ヒッくんは、4人の祖父母にかわるがわる抱かれ、ご機嫌でした。あやすと声を立てて笑います。先週も会ったばかりですが、会うたびに大きくなっている気がします。

ヒッくんを囲んで6人の大人が和気藹々と食事を共にしました。ヒックンの前に並んでいるのは、お赤飯と煮物、酢のもの、鯛、吸いものです。(まだ食べられませんが……)パパに吸い物だけ一口飲ませてもらって、顔をしかめていました。みんなに愛されてヒッくんは幸せです。

 
先日ようやくDVDプレーヤーを買ったので、昔撮ったVHSビデオをDVDにダビングしようと、再生してみました。18年前、息子が幼稚園年長、娘が2歳のときのものから数10本あったので、とても懐かしく思いながら見ました。

子供たちの誕生日や初節句の時は、両方のおじいちゃん、おばあちゃんを招いて祝っていました。ビデオに映っているおじいちゃん、おばあちゃんは何て若いのでしょう……。つい昨日のことのように思えますが、小さかった息子が、もうパパになっているのです。次の世代になっているのです。

時の流れはなんと速いこと……と、しばし感傷に浸ってしまいました。でも不思議に「あのときはよかった」と過去に戻りたい気はしません。


あのころ、わたしはすでに毎週教会に通っていましたが、色々なことで心が支配されていました。
近所付き合い、子供の教育、人間関係、健康のこと(そのころは喘息がひどかったのです)などで悩み、身の回りで起きる出来事に振り回され、心が乱れていました。
聖書の学びの中で、『自分の生きる目的は、神さまの栄光をあらわすため』だと教えられ、神さまの栄光のために生きようと決心したわたしでしたが、いつの間にか自分や家族のために生きていました。

子供の成長を見守るのではなく、ほかの子供と比較して、劣っているところをみつけると叱咤激励し、少しでも成績が上がるように教育ママぶりを発揮し、いつも「早くしなさい」と叱っていたような気がします。


いちばん大切なことを見失って、目に見えないものより目に見えるものを優先させてきた自分のあり方を思い出し深く反省しました。
 失敗だらけの子育てでしたが、祈ってきたこと、聖書を子供たちと共に読み、創造主である神さまを教えたこと。教会学校へ通わせたことはよかったことだと思っています。

 親になった息子。今は教会から離れていますが、祈って子育てをしていってほしいと願わずにはいられません。
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ヨセフ物語(その4)

2007-07-21 10:39:20 | 聖書から

さて、ヨセフはいつ兄たちを赦せたのでしょうか? このことは聖書に書かれていませんので、想像するしかありません。
わたしは、ヨセフは監獄の中で兄たちを赦すことができたのではないかと考えました。JCPで発表したとき、監獄の中で赦したと書いたのはわたしひとりでした。

JCPのほかの方の作品は、ヨセフが兄たちを赦したときが、井戸に落とされたとき、奴隷として売られたとき、兄たちと再会したとき……と様々でした。再会したとき、兄たちがヨセフを奴隷として売ったことを深く悔いていることを知って赦したと考えた方が多く、確かにその可能性も大きいです。


あの冷酷な兄たち(長男のルベンだけは別)が悔い改めているということも驚きですが、ヨセフが兄たちを赦せたというのは、すごいことだと思います。ふつうなら、復讐物語となってしまうでしょう。

ヨセフは監獄の中で自分の罪を自覚し、悔い改めたからこそ、兄たちを赦せたのではないかと想像して「監獄の中のヨセフ」を書きました。(あくまでもわたしの創作です)それを紹介します。読者を聖書のヨセフ物語を知っている方だと想定して書いていますので、ご存じない方は先に創世記37章-50章、またはこのブログの7/16、18,20のヨセフ物語(その1-3)をお読みになって下さい。

                 監獄の中のヨセフ  
            

鳥の声が今日もさわやかな天気であることを告げていた。高い塀に囲まれている監獄からは朝日を見ることができない。
「ああ、いつになったら朝日がみられるんだろう……主よ、いつですか、いつなのですか」
ヨセフは深いため息をついた。(献酌官はパロにわたしのことをいってくれなかったんだな。わたしは、忘れられてしまった。このまま一生ここで過ごすのか……)

このごろヨセフは気が滅入っていた。前はそんなことはなかった。主が必ず助け出して下さることを信じ、主が共にいて下さることを実感してどんな仕事でも喜んでやっていた。
けれども、最近は仕事をする気力も失せて、祈る言葉も「いつ出られるのですか?」と同じ言葉を繰り返していた。
(ああ、こんなことじゃいけない。気が沈むようになったのは、なぜだろう?)ヨセフは自分に問いかけた。

献酌官と調理長の夢を解き明かし、献酌官がゆるされたとき、彼に過大な期待をした。献酌官がすぐにパロに無実の罪で投獄されている自分のことを話してくれ、パロが釈放してくれるのだと思ったのだ。しかし、何日待っても何の音沙汰もない。もうすぐ2年になろうとしている。献酌官にあれほどのことをしてやったのに忘れてしまうなんて、なんて薄情なんだと献酌官を恨んでいた。
(ああ、気落ちした原因は、この恨みだ)とヨセフは初めて気づいた。
(あれほどのことをしてやったなんていえるだろうか? 夢が解き明かせたのは自分の力ではなく、主の力なのに……)

ヨセフは、自分がなぜここにいることになったのか思い返した。兄たちに奴隷として売られ、エジプトの地に連れてこられた。その原因は自分にもあったのではないか? 父さんに特別可愛がられているのをいいことに、兄たちのことを告げ口したり、それを聞いたら兄たちがどんな思いをするかなど全く考えずに夢の話しを自慢げにしたりして……。なんて生意気だったんだろう。兄たちに憎まれて当然。奴隷として売られ、監獄に入れられて当然じゃないか。わたしに人を恨む資格はない……。

ヨセフは床に跪いて祈りはじめた。
主よ、わたしは罪を犯しました。兄たちに対しても、献酌官に対しても……わたしは人を責める資格などないのです。主よ、もういつ出られるのですかと問いません。時期が来たら、必ずあなたがここから出して下さると信じます。すべてを御手にゆだねます。
祈り終えると、ヨセフの心に朝日がさしこんできたように明るくなった。

ヨセフが監獄から出されたのはその1か月後である。


おわり

以前このブログでも紹介した自分史「アダルトチルドレンだったわたし」をブックマークにある『生かされて…土筆文香』のHP(エッセイのページ)に今日掲載しました。まだお読みになってない方はぜひご覧下さい。
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ヨセフ物語(その3)

2007-07-20 11:27:12 | 聖書から

わたしは辛いことが長く続くと、監獄の中にいるヨセフのことを思い浮かべます。無実の罪で監獄に入れられていたヨセフは、日々どんな気持ちで過ごしていたのでしょう。

監獄といっても、一部屋に閉じこめられていたのではなかったようです。ヨセフは監獄の長に認められ、すべての囚人を管理する者となっていたのですが、獄の外に出ることはできませんでした。いつ出られるかわからなかったことで、あせりやいらだちを感じなかっただろうかとあれこれ想像します。


あるとき王の献酌官と調理官が、何かの罪でヨセフのいる監獄に入れられました。その2人が同時に夢を見て、その意味がわからなくて悩んでいました。 

ヨセフが夢解きをすると、そのとおりになりました。調理官は殺され、献酌官は許されて監獄から出されます。ヨセフは「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出して下さい。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにして下さい。(創世記40:14)」と献酌官に懇願しています。


ところが献酌官は、王宮に戻ったとたんけろっと忘れてしまい、それから2年もの月日が経つのです。2年の後、パロが不思議な夢を見て、それを解き明かす人がいなくて困っていたとき、献酌官がヨセフのことを思い出します。献酌官がヨセフのことをパロに告げて、ヨセフはようやく監獄から出されます。

ヨセフが主によってみごとにパロの夢解きをしたので、帝相の地位が与えられます。囚人から一気に帝相となったのです。


パロが夢を見たこと。その夢を解き明かせる者がエジプトにいなかったこと。ヨセフの入れられた監獄がエジプトの王、パロの囚人を監禁するところだったこと、以前監獄の中で献酌官が見た夢をヨセフがみごとに解き明かしていたことに、神さまの計らいを感じます。
 
また、ヨセフが帝相になって、パロの見た夢が現実となります。7年の豊作ののち訪れた飢饉で兄さんたちがエジプトに食糧を買いにやってきてヨセフと再会するわけです。そこに神さまのご計画のすばらしさを感じます。


ヨセフの苦難を思うとき、献酌官が監獄から出されてからの2年間がヨセフにとっていちばん辛かったのではないかと想像しました。奴隷として売られた当初も辛かったことでしょう。無実の罪で投獄された当初も辛かったでしょう。でも、主人のポティファルに信頼されたヨセフは、主が共におられることを感じて心は平安だったことでしょう。監獄に入れられたときも監獄長の信頼を得たので、主に感謝していたことでしょう。

ヨセフは主が必ず監獄から助け出して下さると信じていたでしょう。でも、それがいつなのか示されていませんでした。
献酌官が釈放されたとき、望みが出てきました。ヨセフは期待して待っていたでしょう。ところがそれから2年間もなんの音沙汰もなかったのです。あせりや、いらだちは感じなかったのでしょうか?


なぜ、釈放までにそれから2年の月日が必要だったのでしょうか。神さまはパロにもっと早く夢を見させることも可能だったのに……。
すべてのことに定められた時があることを覚えます。何の変化がないと思われるときでも、水面下で何かが起こり、解決へ向かって動き始めていることがあります。でも、水面しか見ることのできない人間にはわかりません。何の変化もないと絶望し、あきらめてしまうことがあるかもしれまれません。でも、水面下に神の見えない手が働いているのです。

待つこと。それは忍耐のいることです。だからこそ神さまはあえて待たせて忍耐を養わせ、整えられた人格が形成されるようにしておられるような気がします。

つづく
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ヨセフ物語(その2)

2007-07-18 17:02:49 | 聖書から

ヨセフ物語は、何度読んでも感動します。
以前わたしは、ヨセフのことを何の欠点もない人だと思い、欠点だらけのわたしとは大違いなので遠い存在に感じていました。失敗をしてしまうダビデやアブラハムの方が親しみやすかったのです。でも、考えてみると欠点のない人はいません。ヨセフにも悪いところがあったのです。
ヨセフは、父ヤコブのもとで暮らしていたとき、兄たちの悪い行いを父に告げ口をしたり、自慢げに夢の話しをしました。本当にそういう夢を見たのですから嘘を言っているわけではないのですが、それを聞いた兄たちがどんなにいやな気持ちになるかと想像することができなかったのです。


ヨセフの信仰はどうだったかというと、ヤコブと一緒に礼拝を捧げ、曾祖父アブラハムの神のことを聞かされていたので、もちろん信じてはいたのでしょうが、本物の信仰ではなかったと思います。

そんなヨセフが、なぜ自分にひどいことをした兄たちを赦せたのでしょうか? また、いつ赦せたのでしょうか?


いくら生意気だからといって、弟を殺そうとしたり、奴隷として外国に売るというのは、あまりにもひどい仕打ちです。ヨセフは兄たちを恨んで、エジプトの帝相になったとき、兄たちに復讐することもできたのです。

聖書にはヨセフが赦せた理由も、いつ赦せたかも書かれていません。

JCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の学びで、『奴隷として売られるまでのヨセフは、神を信じてはいたけれど、自分の都合良いように信じていた。真剣に祈ることをしなかった。
しかし、奴隷として売られてから真剣に祈り始めた。苦難の中で神が介入してくださり、共にいて下さることを実感した。自分は神の栄光を現す道具のひとつにすぎないこと、神の愛、神の力に気づいたので、兄たちを赦すことができたのではないか』
と教えていただきました。

聖書には「主がヨセフと共におられ」という言葉が何回も出てきます。この言葉が疑問を解く鍵となっています。

ヨセフは兄たちに向かって言います。

だから、今、私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。(創世記45:8)



遣わすとは派遣するという意味です。ヨセフが『奴隷として売った』と言わずに『遣わした』と言ったのは、信仰告白なのだと聞いてはっとしました。ヨセフの神観は自分を助ける神、自分に都合の良い神でした。でもそうではなく、神は父の神、兄たちの神、一族の神でもある(My Godではなく、Our Father)ということに気づいたのです。だからこのような信仰告白ができたのですね。

               つづく
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ヨセフ物語(その1)

2007-07-16 17:26:47 | 聖書から

昨日は緊張の連続でした。まずは雨の中、紙芝居を濡らさないように抱え歩いて教会まで行くのに緊張。(紙芝居はしっかりビニルでおおっていたので濡れませんでしたが、スカートと靴下がびっしょり)

数日間ピアノの練習ができなかったため奏楽で緊張。合同分級で紙芝居をするのに緊張。礼拝の後、午後は個人面談と教師会で緊張。
もっとリラックスできればいいのですが、どれも力を100%出し切ってするので非常に疲れ、ふらふら状態で4時過ぎに帰宅。夕飯の支度も手抜きできず、片づけが終わるまで休めなくて疲れはピークに。でも、ひとつひとつ守られたことを感謝しました。

台風がやっと行ったと思ったら、今日は大きな地震がありました。ここ茨城県土浦市も揺れました。物が落ちるほどではありませんが、けっこう長い間揺れていました。新潟、長野県方々が守られますようにお祈りします。


14日に行われたクリスチャン・ペンクラブ例会は、台風で雨風が強かったにもかかわらす、約20名もの方が出席されました。ペンクラブでは旧約聖書に出てくるヨセフになったつもりであかし文章を原稿用紙3枚で書くという宿題が出されていました。最初、難しくてどう書いたらいいのかわかりませんでしたが、自分がヨセフになりきって聖書の世界に身を置けばいいのだと思ったら、苦労せずに書けました。


書いた物をひとりずつ発表していきました。赦し難き兄たちを赦すというテーマなので、みんな同じような文章になるのではないかと思っていましたが、それぞれ違った場面、側面からのヨセフでたいへん面白かったです。

わたしの作品を紹介する前に、ヨセフ物語の概要を紹介します。聖書では創世記37章から50章にわたって書かれています。
ヨセフのことが創世記の4分の1も書かれているのは、ヨセフが神さまの器として選ばれたとうことだと教えていただきました。


ヨセフは父ヤコブと母ラケルの間に生まれました。10人の異母兄弟がいたのですが、ヨセフひとり袖つきの長服を着せられて父に特別に愛されていたため、兄たちに疎まれていました。ヨセフが「畑で束がお辞儀した」「太陽と月と11の星が自分にお辞儀をした」などという夢の話をしたことがきっかけとなり、荒野で兄たちに殺されそうになります。
兄たちは通りかかったエジプトの商人にヨセフを売り、父にはヨセフが獣に食い殺されたように報告します。

ヨセフはエジプトの役人ポティファルに買い取られます。ポティファルはヨセフを愛し、全財産を委ねるほど信頼します。ところがヨセフはポティファルの妻の誘惑を断ったために投獄されてしまいます。

2年の後、エジプト王パロを悩ました夢の難問を「7年間の豊作の後に7年間の飢饉が来る」と解き明かし、パロに認められて宰相の地位を得ます。その後ヨセフの夢解きのとおり飢饉が起こります。この飢饉はカナンの地にも及びました。

ヤコブの命により、ヨセフの兄たち10人は食料を買いにエジプトにきます。最初は身分を隠して兄たちと会っていたヨセフでしたが、兄たちが自分を売ったことを心から悔い改めていることを知り、ついに自分の身の上を明かし、兄たちを赦すというストーリーです。

ヨセフが兄に言うセリフが感動的です。

私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に私を遣わしてくださったのです(創世記45:4-5)


つづく
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留守電メッセージ

2007-07-14 21:49:04 | 日記

12日から出かけていました。千葉、三鷹、お茶の水へ行って帰ってきました。ハードスケジュールでしたが、実りある時を過ごしました。

三鷹の実家では、わたしが小学校の時の友人Yちゃんのお母さんNさんとお会いしてお話する機会が与えられました。38年ぶりにお目にかかったのですが、昔のままの優しい笑顔でした。Yちゃんの家に遊びに行ったときのことが昨日のように思い出されました。お母さんはいつも優しく迎えて下さいました。

今は80歳近くになられるのですが、若々しく生き生きとしておられました。短歌やエッセイを書かれ、ピアノも習い始めたそうで、最近初めての発表会に出たそうです。「この年になってもドキドキすることがあるのよ」とニコニコとしておっしゃいました。書くことについてたくさん話しをすることができて感謝でした。年をとったら、Nさんのようになりたいと思いました。

今日は、クリスチャン・ペンクラブの例会があったのでお茶の水へ行ってきました。とてもよい学びでした。今日のことは後日書きます。写真はお茶の水駅前です。十字架のある建物がお茶の水クリスチャンセンターです。(わかりにくいのですが、左上の方をよくご覧下さい)

家に帰ったら6件も留守番電話が入っていました。2通のメッセージが入っていたのですが、1通は「よろこびの泉」を読んでの感想でした。
「あなたの詩を読んで救われました。有り難うございます。」というメッセージに深く感謝しました。わたしの知らない方です。どのようにして電話番号をお知りになったのかわかりませんが、嬉しかったです。神さまが働いて下さったのですね。こちらこそ有り難うございます。留守電に録音するのは勇気がいることです。初めての方なのによく録音して下さいました。元気が出ました。
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種の蒔かれるところ

2007-07-12 08:59:00 | CS(子供伝道)

これからまた実家に行きます。千葉、三鷹、お茶の水へ行って土曜日には帰ってくる予定です。写真はマナ愛児園でプランターで育てているトウモロコシ。

        
子供のときに聖書の神さまを知ることは、ものすごく価値のあることです。たとえ、中高生あるいは大人になって教会から離れてしまったとしても、蒔かれた種は長い人生の中できっと芽を出すでしょう。ときには命を救うこともあるでしょう。

17年前娘がマナで過ごせたことがどれほど価値のあることだったのかと、今さらながら思っています。マナ愛児園卒園児母として書いた詩を紹介します。(05年に教会月報に掲載された詩です)

    
          君は思い出すでしょう

たくさんの友達に囲まれているのに
ひとりぼっちを感じたとき
君は思い出すでしょう

裏切られ傷ついて、もう誰のことも
信じられなくなったとき
君は思い出すでしょう

思いもよらぬことが起き、なすすべもなく
ひとり途方に暮れたとき
君は思い出すでしょう

病に倒れ、痛み、苦しみ、死の恐怖
不安がおそいかかるとき
君は思い出すでしょう

罪に気づき、どうすることもできなくて
胸をたたいて泣いたとき
君は思い出すでしょう

年老いて、だんだんと体がおとろえて
死を間近かに感じたとき
君は思い出すでしょう

マナ愛児園で聞いた
ご自分の命を捨ててまで愛して下さる
イエスさまのことを
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わらべうたは人生の模擬体験

2007-07-11 17:04:09 | 教会

今日、祈祷会で土浦めぐみ教会付属マナ愛児園が大切にしている遊びについて教えて戴きました。
わらべうたや、積木遊び、制作、水遊び、しゃぼん玉、泥んこ遊びを大切にしているそうです。

わらべうたの4つのすぐれた点を教えていただいて目が開かれた思いがしました。


1 遊びの中でルールを守ることの大切さを知る。ルールをやぶると面白くないことがわかり、ルールがあった方が楽しいと感じる。
2 つかまえられるかもしれないというハラハラドキドキのスリルを味わう。
3 たたかれたり倒されたりすることによって痛みを体験する。このとき、友だちにどれくらいまでたたいていいのかという程度を学ぶ。
4 仲間意識が育つ。グループごとで競うとき、チームワークが生まれる。


子供たちが『かごめこごめ』や『ロンド橋落ちた』などのわらべうたで遊ぶことによって人生の模擬体験をするというのです。
そういえば、わたしも小学生のころわらべうた遊びをしていました。テレビゲームのない時代です。友だちと遊ぶときは、ほとんどわらべうた遊びだったような気がします。『はないちもんめ』や『ひらいたひらいた』題名は忘れましたが『あぶくたった煮えたった、煮えたかどうだか食べてみよう。ムシャムシャ』というのもありました。


ロバート・フルガムが「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本を書いていますが、幼稚園の時代に砂場やわらべうたで遊ぶことの大切さを教えられました。

このような体験をしてない子どもが大人になったとき、社会問題を起こすことがあると聞きました。遊びの中で人の痛みがわかるようになるのです。早期教育に力を入れて、子供が充分遊ばないうちに大人になるようなことがありませんようにと願いました。

写真はマナ愛児園の手作りの滑り台。


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あなたの若い日に

2007-07-09 12:45:22 | 聖書から

わたしの通う教会にはマナ愛児園という付属幼稚園があります。わたしの娘もマナ愛児園の卒園生です。17年前土浦に越してきたとき、娘は3歳でした。翌年マナに入園させることができ、2年間通いました。息子はそのとき小学生になっていたので……残念でした。来週はマナの20周年記念礼拝です。


礼拝メッセージではマナ愛児園のキリスト教教育について語られました。


1『創造者であり、全知全能である神さま。善意に満ちておられる神さまがおれること』を子供たちに伝えること。
2み言葉(聖書の言葉)の歌を賛美すること。
3祈ること。


マナ愛児園はこの3つのキリスト教教育の土台を据えているのだそうです。娘は高校3年の時洗礼を受けましたが、「マナがわたしの人生の基盤だよ」と言っています。


あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(伝道者の書12:1)


幼い時に創造者を知ることは、なんという恵みなのでしょう。わたしは18歳までイエス様のことを知らなかったので、子供の時に教えてもらっていれば、どれだけよかっただろうと思います。(それでいま、子供伝道に燃えているのです。)


神はいるのか?自分が生まれてきたのは何故か?自分は誰なのか?生きる意味は何か?なぜ生きていなくてはならないのか?どうして人は年をとって死んでしまうのか?死んだらどこへいくのか?
 中学生の時はそのような疑問を抱いて悶々としていました。空しくて毎日死にたいと思っていました。


ずっと後になって、その疑問に対する答えがすべて聖書に書かれていることがわかります。神さまは確かにおられ、どういう神さまなのかということも、聖書に書かれています。
それは、わたしのためにひとり子の命を捧げて下さるほど愛して下さる神さま。善意に満ちておられる神さまです。

キリストに出会う前もなんとなく神さまの存在は感じていました。でも、子供のときの神さまに対するイメージは、悪いことをするとバチをあてるという恐ろしいものでした。中学生のころは、喘息がひどくてなかなか治らなかったので、神さまは意地悪をしているのだと思っていました。高校生になってからは、神さまはわたしが病気だということを知らないか、あるいは病気を治す力がないのかのどちらかだと思いました。
 聖書を読み、神さまが愛のお方であること、全知全能であることを知ったとき、今までの神観がすべて間違っていたことに気づきます。


辛い出来事が次から次へと訪れ、神さまの善意が信じられなくなってしまうことがあるかもしれません。
でも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と言って下さる神さまが、悪意をもってわたしをいたずらに苦しめるはずがありません。苦難には意味があり、終わりがあります。
それは耐えられない苦難では決してないと約束されています。たとえ何が起こっても神さまは善意に満ちたお方であることを信じ続けたいです。


あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。(Ⅰコリント10:13)
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「それは非常によかった」のに……

2007-07-07 11:57:26 | CS(子供伝道)
コメントにリンクを貼ったり、宣伝文など書かれたものがありましたら無断で削除させていただきますので、ご了承下さい。


今年の2月、教会で教育講演会がありました。「子供の発達とメディア」と題して児童文学者斉藤惇夫氏と小児科医田澤雄作氏が語ってくださいました。
(2月19,20日に書いています)カテゴリーCS子供伝道をクリックして読んで下さい。)

教会学校では、講演会の内容を受けて3月と4月の2回、教育主事のI先生が子どもたちに特別なメッセージをしてくださいました。1回目は3月6日に書きましたが、2回目に語られたことをまだ紹介していませんでしたので、今日紹介させていただきます。(青字がI先生の語られたこと、緑字は聖書の言葉です。)


神さまは、天と地、太陽、月、地球、海、鳥、魚、地上の動物、木、草、花、そして人間を造って下さいました。聖書の創世記に「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった(1:31)」と書かれているように、神さまの造ったものはすべて良いものです。
ところが、良いいものが良いことのためにだけ使われていない場合があります。良いものを、悪いことのために使うのは罪です。

たとえば、手はどうでしょう? 手をつなぐと友だちになれますね。それは良いことですが、手で悪いこともできます。
車はどうでしょう? ほとんどのお友達が教会に来るのに車に乗ってきています。車があると便利ですね。でも、運転を間違うと大変なことになります。人に怪我をさせたり、死亡事故もあります。
包丁はどうでしょう? お母さんが料理をするのに使いますね。悪いことに使うと人を傷つけたり、使い方を誤ると大変なことになります。

(注:車や包丁は人間が作った物ですが、神さまが創造された鉱物などを材料としています。神さまが創造された材料を使わずに人間が作り出した物はないので、これらも神さまが造ったものといっています)

 
みなさんは、たくさんの良いものを持っています。やさしい心、勉強や運動をする力等……。聖書のテモテの手紙2には「そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(1:14)」と書かれています。神さまからゆだねられたというのは、神さまがまかせてくださったという意味です。神さまが喜ばれるような使い方をしたいですね。
「神さまの下さった良いものを良いことのために使うにはどうしたらよいでしょうか?」


最後に子供たちへの問いかけがありました。


メッセージのあと話し合うと、低学年の男の子が「包丁で人を殺す」「人間の皮をはぐ」と言ったのでびっくりしました。本人は残酷なことを言っているつもりはなく、もちろん実際にやっていいことだと思っているわけではありません。このような言葉が子供の口から出てくるのは、やはりメディアの影響だと思います。

わたしたちは、神さまから与えられた物の管理者としてまかされています。神さまから与えられたものはすべて良いものなのに、いままでどれだけのものが悪いことのために使われてきたでしょう……。


アインシュタインは、1930年ごろ原子爆弾を作るもとになる理論を考えつきました。実際に原子爆弾を作る仕事にかかわったわけではなく、人の命が奪われることを望んだわけではありませんでした。しかし、その理論を元にアメリカで原子爆弾が作られ、日本に落とされてしまいました。
そのことをアインシュタインが知ったとき,彼はうめき声をあげたという有名な話があります.
神さまの与えられた物で間違った使い方をしてしまったことによる最大の悲劇ですね。


規範なき時代にあって、良いことと悪いことの判断さえつかなくなっている社会の中に生きている子供たちに、聖書から正しい規範を学んでほしいと思いました。



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クリスチャンとは……

2007-07-06 13:01:09 | 聖書から

今朝テレビをつけっぱなしにして家事をしていたら、生活ほっとモーニング(NHK)に漫画家のやなせたかしさんが出演されていました。88歳になられるそうですが、現役で仕事をされておられ、スマートでおしゃれで、若々しいその姿に魅せられて、思わず家事の手を休めて話しに聞き入りました。

アンパンマンの発想のもとは、やなせさんが戦争で飢えの苦しさを体験したことにあるそうです。戦争は正義のために闘い、人を殺します。でも、敵国もまた正義のためといって闘っています。A国とB国で正義が異なります。それは本当の正義ではありません。でも、飢えている人にパンを与えることは、どこの国でも必要とされ、それが本当の正義だと思っているというようなことを言われました。

自分の身を犠牲にして与えるアンパンマンの行為は、イエスさまの愛を思わせます。

「人生の辛い経験は何一つ無駄にならない」
という言葉に、神がすべてのことを益としてくださるという聖書の言葉を思い出しました。


話しは変わりますが……
クリスチャンは、まじめで品行方正な人と思っている人が多いことに驚きます。
「わたしはまじめじゃないから、クリスチャンにはなれない」と言って教会へ行くことも敬遠する人がいます。

また、『クリスチャンは、愛の人で、親切である』と考えていた人が、クリスチャンの中にそうでない部分を見てつまずいてしまうことがあります。
「あんな人がクリスチャンなら、わたしはクリスチャンになりたくない」と言うのを耳にすると悲しくなってしまいます。わたしにつまずいた人もたくさんいるでしょう。わたしは愛の人では決してないからです。
愛のお方、イエスさまのようになりたいと願っているのですが、まだ工事中なんです。

再び教会に通い始め、クリスチャンとしての歩みを始めた当初は、自分がクリスチャンであることをなかなか人に言えませんでした。あんな人がクリスチャンなの?と思われることを恐れていたのです。


実際、「クリスチャンのくせに」と面と向かって言われたこともありました。でも、わたしをみて、「あんな人でもクリスチャンになれるなら、わたしもなれるかもしれない」と思う人もいるかと思って、自分がクリスチャンであると言うことにしました。

クリスチャンは、みんな工事中です。自分の罪を自覚して、その罪がキリストの十字架によって赦されたのだと信じている者です。罪を犯さない人がクリスチャンではないのです。罪人だからこそイエスさまを必要としているのです。


医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)


関連記事:2006年2.12の「工事中」という日記をご覧下さい。
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