生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

背中を押されて(その1)

2011-10-30 21:05:01 | 教会
昨日は日本クリスチャン・ペンクラブの童話エッセイの会でお茶の水へ行きました。一昨日はルーテル学院大学の図書室で本を閲覧させてもらい、それから三鷹の実家に向かいました。

童話エッセイの会では、毎回テーマを設けて各々がテーマにそってエッセイや童話を書いています。今回のテーマは「目」でした。「目は口ほどにものを言う」という諺がありますが、力作が集まりました。

前回のテーマは「旅」でした。わたしは魂の旅として、幼少期から何かを求めてさまよっていた魂について書きました。原稿用紙5枚で書いたので充分なことが書けませんでした。もう少し詳しく書きたいという思いが与えられています。

今日の礼拝メッセージはI先生がⅡ列王記7:3-9から「行きて告げよ」という題で語ってくださいました。
一部を紹介させていただきます。


********************
そのとき、北イスラエルはアラムに兵糧攻めにあっていました。人々は戦いに疲れ切っていました。食料は底をつき、水もあとわずかになって、町のあちこちから子どもたちの泣き声、婦人たちのすすり泣きの声が聞こえていました。

城壁の外にはツァラアトに冒された4人の男がいました。ツァラアトとは、重い皮膚病です。伝染するので、その病気にかかった人は、城壁の外にいなければなりませんでした。
4人は何日も食べていなくて、弱り果てていました。このままここにいても、城壁を越えて町に入っても死ぬことになります。アラムに投降すれば、もしかして助かるかもしれないと考えて、アラムの陣営に行きました。

すると、アラムの陣営は、もぬけのからでした。神様が、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたのでアラム軍は恐れ、陣営をそのままにして逃げ去ったからでした。

4人は、食物をいただき、置き去りにされた衣類や宝を手に入れました。
そのあとで彼らは言いました。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。(Ⅱ列王記7:9)」

北イスラエルの人たちは、アラムの軍勢がいなくなっていることを知らずに飢えに苦しんでいました。知っていたのは4人のツァラアトにかかった人だけでした。彼らは良い知らせをするために出て行きました。
神様は、わたしたちにも出て行きなさいと語っておられます。
彼らが出て行く動機は

①よきものを与えられていた(生きるのに必要なものを満たすために食事をした。このとき、彼らが食事をしたのは正しいことだった)

②人々の必要を知っていた(同胞イスラエルの人たちが飢えに苦しんでいることを知っていた)
********************



「あなたは誰のために出て行くのですか?」

と牧師先生に問いかけられ、ドキッとしました。

出て行かなくてはならないと背中を押された気がしたからです。

つづく


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愛をください

2011-10-27 21:13:25 | 日記

心の痛みを抱えている人とかかわっています。自分には愛が欠けていると思うことがよくあります。
かえって傷を深くしてしまうのではないかと恐れたり、自分自身の傷が痛んだりします。

「神様、わたしに愛を下さい」と祈らずにはいられません。石井錦一さんの詩に共感しました。紹介します。


痛みのわかる愛を

神さま、私は、ここで生まれました
 あの町で育ちました
 この学校で勉強しました
 いままで、あの仕事も
 この仕事もしてきました
 いまどこに住んでいます・・・・・と
 はじめて会った人にも
 だれにでも話すことができます
 自分が話せることは
 だれでもあたりまえのことだと
 思っていました
 差別されてきた人
 過去にいやしがたい心の傷を負った人
 心にも、身体にも障害を負ってきた人
 このような人たちと出会って
 共に語り、共に重荷を負い合うことが
 できるようになったときに
 生まれた地名を苦しみなしに言えない人
 学歴という言葉に黙ってしまう人
 何の仕事をしてきたかを言えない人
 どこに住み、何をしているかを
 はっきりと言えないさまざまな痛みに
 耐えてきた人のいることを知りました
 自分の愚かさと
 私たちのなんでもない言葉や言動が
 どんなに深く差別された人たちを
 苦しめてきたかを知りました
 私の言動と行動に、となり人の痛みと
 苦しみのわかる愛をあたえてください


石井錦一 : 著 : 「祈れない日のために」 : 日本基督教団出版局


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なぜ理不尽なことがあるのでしょう?

2011-10-25 12:07:15 | 教会
「誠実に生きている人が苦しい目にあい、悪い事をしている人が幸せに生きているのはなぜですか。神様は不公平です」と友人が言いました。

わたしもかつてはそう思っていました。人を傷つけ、いじめる人が幸せになって、いじめられる自分には辛いことばかり起こる……理不尽だと思いました。

理不尽だと思うことはたくさんありますよね。勧善懲悪だったらどんなにいいでしょう。でも、世の中は決してそうではありません。なぜ理不尽なことがあるのでしょう。
一昨日の聖餐礼拝のメッセージにはその疑問に対する答えが示されていました。

メッセージの一部を紹介させていただきます。
*************************

今年の聖餐式ではキリストの役割について語ってきましたが、今日は『王であるキリスト』について話します。
イエス・キリストは主の主、王の王です。イエス様が王であるとは、どういう意味があるのでしょうか。

旧約聖書(イザヤ書9:7)には「(キリストが)ダビデの王座に着いて、その王国を治め・・・」「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と書かれています。

イエス様ご自身は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています(マタイ28:18)」と言われています。

王様は何をする人でしょう……ケアする人です。高齢者ケアを考えると、傷があれば手当をし、爪を切り、お風呂に入れ、そばにいて支えます。子どもには食事を与え、よい人間関係をつくり、人格全体に配慮します。

本当に良い王様は国民をケアします。
肉体の弱さに嘆いたり、行き詰まったり、困惑したり、罪深さに嘆くとき、王なるキリストがケアしてくださいます。キリストによって悲しみは喜びに変わります。

王なる方は、勝利を約束して下さいます。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」
王なるキリストはすでに世に勝っておられるからです。

キリストは最後の敵である死も滅ぼして下さいます。(Ⅰコリント15:26)

その日、理不尽な悲しみの中にある人には慰めを与えられます。
その日、地上の苦しみ、嘆きはすべて消えてなくなります。
その日、悔いきれない過去の出来事もあふれれ出る赦しの中ですべて溶け去ります。
その日、どんな理不尽なことも神に完全に知られていたと発見して納得します。
その日、すべての痛みが癒され、この世のすべての不正や悪が燃え尽きます。
その日、感謝と喜びで輝きます。
その日、全世界が主の御名をほめたたえます。

その日を心に留めながら王の王、主の主がすべてを完成して下さると信じて待ちましょう。

聖餐式は、最後の完成の祝宴があるというしるしです。


***********************
どんなに理不尽だと思うことがあっても、これらのことが理不尽でなかったと思える日がくるというメッセージに深くうなずきました。

いまの時、置かれている場所で考えると理不尽であっても、神様の視点、永遠の視点から見ると理不尽ではないのだと思いました。神様は不公平な方ではなく、またすべてのことを知っておられる方だからです。

その日とはいつでしょう? 
この世界は滅びると聖書に書いてあります。その日にはイエス様が再び来られて新しい天と新しい地が作られることが約束されています。その日は、涙がすっかりぬぐわれる日です。その日は、今までのいっさいの苦しみが消え去り、感謝と喜びで輝く日です。

「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)」
このみ言葉を読むと涙が出ます。

肉体の弱さに嘆き、友の嘆きに共感して涙するとき、どうしようもない悲しみに襲われることがありますが、それらがすべて消え去り、喜びと感謝にあふれるようになる日がくると信じます。
すでに世に勝利した、主の主、王の王キリストを待ち望つつ……。



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メスは鳴きません

2011-10-22 16:24:41 | 日記

昨日から3日間、ヒックンを預かっています。ママが研修旅行に出かけているからです。

昨日は主人と上野の国立博物館に連れて行きました。去年上野動物園に連れて行ったのですがあまり喜ばず、遊園地ばかり行きたがるので今回は動物園の方へは行きませんでした。
息子が3、4歳のころから恐竜に興味を持ちはじめ、月に一度は国立博物館に連れて行っていました。

4歳のヒックンは相変わらず車一筋で恐竜にはあまり興味を示しません。でも、博物館の中はさわって試すものが多く、飽きることはありませんでした。

博物館の中は、恐竜の骨の展示は同じでしたが、ほかはすっかり様変わりしているので驚きました。20年ぶりぐらいに訪れたのですから当たり前ですね……。タッチパネル式のものが多く、ヒックンはさわっているうちにやり方を覚え、興味のあるものは何度も繰り返していました。

おもしろかったのは、鳴く虫の展示物です。コオロギ、キリギリスやスズムシなどオスとメスのボタンがあり、オスを押すと鳴き声が聞こえ、メスを押すと「メスは鳴きません」と声が聞こえます。それがおもしろくて「メスは鳴きません」のボタンを何10回も押して喜んでいました。

2つ寝たらママが迎えに来ると言っているのですが、今日になって「もう2つ寝たよ」と涙ぐんでママを恋しがっています。

明日はわたしが教会へ行くので、ヒックンはおじいちゃんとふたりで3時間ぐらい過ごします。教会に連れて行ければいいのですが……おじいちゃんが行かないので仕方ありません。いつかみんなで教会へ行けることを祈りつつ。




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美しさに感動する心

2011-10-20 13:19:50 | お茶の水聖書学院
今日でブログ6周年を迎えました。こんなに続けられるとは思いませんでした。先のことはわかりませんが、背後で祈って下さる方々に支えられてここまできました。ありがとうございます。これからもよろしくおねがいいたします。


OBIの学びの中で「審美感(しんびかん)」という言葉が出てきました。美しいものを見分ける感性のことです。審美感は神様が作られてわたしたちに下さった感情ですから、誰でも持っています。美しいものを美しいと感じる心を育てることが大切だと聞いてその通りだなあと思いました。

子どものころ、身近にある自然の美しさに感動していたのに、いつの間にか気づかなくなってしまったものがあり、忙しい日常の中で大切なものを失ってきたような気がします。

ヒックンが2歳のとき、ベランダで咲いたチューリップをみて「お花きれい。笑ってる」と言っていつまでもながめていました。

わたしは子どものころ、道端に咲く白い花びらを広げている小さな花を見つけたとき、なんてきれいなんだろうと思いました。祖母に花の名を聞くと「雑草だよ」と面倒くさそうに答えたのでがっかりしました。でも、後になってその花にハコベという名がついていることを知ったとき、とてもうれしかったことを思い出します。

最近は夕方になると晴れた日は必ず窓の外を眺めます。夕焼け空をみて、空のキャンバスに描く神様の絵画を感動を持って眺めるのです。(毎日違うので飽きません)

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でゾシマ長老が言っている言葉を読むと、心新たにされます。

わたしの心は……むしろ夕日を、
夕日の長い斜光を愛し、
その斜光とともに、長い祝福された人生の中の
静かな和やかな感動的な思い出を、
なつかしい人々の面影を愛している。

それらすべての上に、感動させ、和解させ、
すべてを赦す、神の真実があるのだ!


ゾシマ長老は夕日を見て、生涯の思い出と出会った人々を思い浮かべ、愛をもって受け入れています。神さまの真実を見て、感動し、和解し、赦しを体験しています。自然をみて、神様の語りかけを聞いているのです。何というすばらしい感性でしょう。

ひとつの花を見ても、雑草だとしか思えない人、どんな名がついているんだろうと思い巡らす人、神様がこのような小さな花をも造られたのだと感謝と感動をもって見る人、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」と言われたイエス様の言葉を思い出す人……それぞれだと思います。幼子のように「きれい」と思うだけでもすてきですね。

野に咲くゆりを見て、イエス様は
「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした(マタイ6:29)」と言われました。

これは、ゆりの美しさを最大限に表現された言葉だそうです。イエス様ご自身がご自分の感性で美しいと感じられたのです。そして、人々にも美しさを理解するように語られたと教えていただいて、イエス様ご自身が持っておられる審美感をわたしたちにも下さったのだなあと嬉しくなりました。

美しさに感動する心を呼び起こされました。


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混沌とした世界が・・・

2011-10-17 21:07:41 | 教会
昨日は教会にアフリカのケニアで宣教師をされているT.I先生が来て下さいました。

T.I先生は若いとき「何のために生きるのか」の答えを求めておられました。あるとき恩師に「誰のために生きるのか」考えるように言われたそうです。

自分のために生きる道には限りがありますが、人の魂のために生きる道は限りなくあると気づいて、ケニアの人たちと共に生きる決心をされたそうです。

T.I先生のメッセージの一部を紹介させていただきます。
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この世界の初めは混沌とした世界だったと創世記に書かれています。
震災で大勢の人の命が失われ、生活が破壊された厳しい現実を見ると、この世界は混沌としているように思えます。

これまでの歴史の中でも、人々は混乱と破壊に脅かされてきました。
聖書は人間の文明や崩壊に対して何を語っているのでしょうか。

聖書は、現実を直視して書かれています。イスラエルには崩壊の危機がありました。
崩壊、敗れを経験し、その中で生きて働かれる神を驚きと感動を持ってあかししています。

聖書は現代の私たちに知恵と希望を与えてくれます。
創世記は、虚無を目の前に示しながら、人間の確かさはどこにあるのかという緊急の課題に答えようとしています。

創世記1:2には「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書かれています。世界は不確かであることが示されています。それは、現実の状態です。

厳しい闇の世界に覆われた死の現実があるのですが、その世界に神は「光があれ」と発言されました。その光は昼と夜を分ける時の光で、秩序の光です。

その後「神が仰せられた。」と何度も繰り返されます。そして、世界は神の仰せられた通りになっていきます。

この世界は、神の語りかけのある世界です。神の語りかけたことは必ずそのようになると信じる世界です。
「光があれ」という宣言により、混沌とした世界が秩序をもたらす世界になりました。
「光があれ」ということばは、イエス様が光の子として出現してくることを見てとったことばです。

神様はノアの洪水のあと「もはや大洪水が地を滅ぼすことがない」と約束されました。神の約束は必ず遂行されます。秩序を持った方がおられることを信じ、何が起こってもあわてたりうろたえたりしないように。光であるイエス様に向かって生きるように。
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創世記1章といえば、神様の天地創造のことが書かれているとしか認識していませんでした。「光があれ」という言葉が何の秩序もなく混沌とした中で語られたこと。その言葉が後に来られるイエス・キリストのことを示しているとは今まで考えたこともありませんでした。

震災のことや異常気象、地球温暖化のことを考えると、もうすぐ地球は滅びてしまうのではないかという恐れを抱くことがあります。
戦争や内乱での殺戮のニュースを見ると、この世界は混沌としていると思います。

でも、その中に秩序をもたらす光が照らされたことをしっかりと記憶しておきたいです。
神様がいつも共にいて守って下さることを覚えて、どんな災難にあってもあわてないようにしたいです。


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回復できる(その2)

2011-10-14 16:26:33 | 聖書から
わたしは、自分の身に起こるはずがないと思っているのにもかかわらず、癌になってしまいました。初期だったはずなのにリンパ転移があって、再発転移の確率が高いことを知らされました。

受け入れるにはあまりにも厳しい現実でした。パニックに陥り、眠れなくなりました。悩み苦しんでいたときに与えられた聖書のみ言葉は、喘息で最も苦しい発作のときに与えられたみ言葉と同じでした。

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリントⅠ10-13)」


このみ言葉は、絶望の暗闇の中で見た希望の光でした。希望の光にすがって、わたしはパニック状態から脱出させていただいたのです。


ペテロは何を思ったのかイエス様の言葉に対して「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)」と自信たっぷりに言います。

ところが、いざイエス様が捕えられると、ペテロは身の危険を感じて、イエス様を知らないと言ってしまいます。

いざ事が起きた時、どんな行動をとるか自分でもわかっていないことがありますね。自分のことを正しく認識している人は少ないのではないでしょうか。

ユダもイエス様を裏切りましたが、ペテロとは違っています。ユダは事が起きる前からイエス様を裏切るという思いがあって、平常心の中で裏切ることを意図的に選択しました。

一方ペテロは、イエス様にどこまでも従っていくつもりだったのにパニックに陥り、自分でも思いもよらぬ行動をとってしまいました。でも、後にペテロはよみがえったイエス様に出会い、回復のチャンスを与えられました。

ユダにも何度か回復のチャンスは与えられていたのですが、悔い改めず、自害してしまいました。


「わたしたちとイエス様の関係がしっかりしていれば、思いもかけぬ試練が訪れてパニック状態に陥ったとしても、再び神様に立ち返ることができます。」
と牧師先生が言われました。

パニックに陥ってはいけませんというのではなく、回復できるというメッセージに慰められました。

                       おわり



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回復できる(その1)

2011-10-13 21:01:23 | 聖書から
今日は我が家での家庭集会でした。仕事が休みだった娘が久しぶりに家庭集会に参加できてよかったです。
学びは、マタイ26:30-35から、ペテロの否認の予告についてでした。


賛美にあふれた過ぎ越しの祭りの期間、イエス様と弟子達は最後の晩餐のときを持ちました。その後オリーブ山に出かけました。

そのとき、イエス様は「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。(マタイ26:31)」と言われます。

『』の中の言葉は旧約聖書のゼカリヤ書に書かれている言葉です。イエス様(羊飼い)が殺されると弟子たち(羊の群れ)は散り散りになるという意味です。十字架の預言ですが、
「それを聞いた弟子たちはどう思ったでしょう?」
と問いかけがあって、各々が感じたことを話しました。

弟子たちにとってイエス様が死ぬということは、起こりうるはずのないものでした。なので、この言葉を聞いたときは、イエス様が何を言っているのか理解できなかったでしょう。
でも、イエス様はその後、希望の言葉も語っています。

「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。(26:32)」
この言葉を聞いても弟子たちは何のことかよくわからなかったでしょうね。
でも、よみがえったイエス様に出会ったとき、弟子たちはこの言葉の本当の意味を理解することができたでしょう。

「神様は、わたしたちにときには厳しい言葉を投げかけることがあります。でも、同時に希望がなくならないように励ましの言葉を語られます。」と牧師先生が言われるのを聞いて、癌の宣告を受けた時のことを思いました。

                     つづく



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輝かせよ

2011-10-10 16:36:17 | 教会
昨日の礼拝ではI先生が『光を輝かせよ』と題してメッセージをして下さいました。
紹介させていただきます。

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マタイ5:14には「あなたがたは、世界の光です。」と書かれています。これは、み言葉の約束です。この約束をどのように受け止めますか?

イエス・キリストは「わたしは、世の光です。(ヨハネ8:12)」と言っています。光を造られ、光をもたらした方が、世界の現実の真っただ中におりてこられました。
キリストはわたしたちの心の闇の中に降りて来られました。そして、生ける神として今も心の中に住んでおられます。

「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)」
とあるように、聖書は『キリストがあなたの心に住んでおられれば、あなたはいのちの光を持っている』と約束してくださっています。

それでは、なぜあなたは光輝く生活ができないのでしょう?

それは、あなた自身が光を輝かせないようにしているからです。「山の上にある町は隠れることが出来ません。」とあるように、あなたのうちにキリストの光が与えられていることは明らかです。

ろうそくに灯をともして枡をかぶせれば、光は見えなくなります。
心の中にあるものを隠したり、傷つけられることを恐れて心に壁を作ってしまうと、自分の内にある光を隠してしまうことになります。
キリストの光を輝かせるようにするには次の3つのことが大切です。

①キリストを知る
自分の心の中に闇があることを信仰をもって認めると、闇の中におられるキリストを見ることができます。わたしたちの罪のために十字架にかかって死んでくださったキリストを知りたいと思うようになります。

②自分自身を知る
正直に自分と向き合って自分を見つめることが大切です。キリストの光を覆い隠しているものが何か見つめます。覆い隠しているものがわかれば、取り除いて下さいという祈りが生まれます。

③生活の中で働かれる神を知る

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)」


何のために光を放つのでしょう?
天の父なる神様がほめたたえるためです。誰かが評価されるためではありません。
わたしたちの生活の中に神が生きて働かれ、キリストの光が輝きを放つのです。他の人がその輝きを見て、神をあがめるようになるのです。

あなたが家族のために食事を作るとき、あなたが学びや仕事に真剣に取り組むとき……
神があなたの生活を通して光を放つのです。

「あなたがたは世界の光です。」
この約束を信じ、受け止めましょう。

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メッセージを聞いているとき、最初は自分が輝いているとはとても思えないと気落ちしていました。
自分自身には輝くようなものが何もなくても、キリストの光で輝くのだから、覆い隠している物を取り除くだけでいいのだと気づかされました。

その取り除く作業でさえ自分自身ではできないのですが、祈ることによって神様に取り除いていただけると知って、すぐ祈りました。

確かにわたしの心には暗い闇の部分がありました。でも、どんなに暗い闇でも光が当たれば闇でなくなります。この部分に光を当てて下さいと祈りました。


「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。
「花」にちなんだわたしのエッセイ「嫌いだった花火」を掲載しています。



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携帯電話の特訓

2011-10-08 11:41:23 | 日記
84歳の義母が最初に携帯電話の契約をしたのは6年ぐらい前のことです。ところが、全く使わなかったので2年目に契約解除してしまいました。

今年の1月に義父が召され、独り暮らしになったので再び携帯の契約をしました。
ひととおり使い方を説明して覚えたのですが、いざ音が鳴ると、どのボタンを押したらよいかわからなくなり、あせって電源を切ってしまったり、充電をしなかったりで、ほとんど使っていませんでした。

主人は3人きょうだいですが、3人とも実家から2時間半ぐらいかかる場所に住んでいます。
緊急事態が起きてもすぐに駆けつけることはできませんが、近所の方に連絡したり、救急車を呼ぶことはできます。
そのための携帯電話です。いつでも利用できるようにしておかないと何にもなりません。

それで我が家に泊まっている間に練習をすることにしました。ネックストラップを買い求め、昼間は常に首にかけておくことにしてもらいました。
らくらくホンなので、文字は大きく、音声説明があり、短絡ダイヤル登録もできるので覚えればこんなに便利な物はありません。

なぜ義母が今まで使わなかったのか不思議に思っていましたが、今回そのわけがわかりました。
音声説明が早口で聞き取りにくいのです。また、ボタンが小さくて、指の太い義母が押すと、隣のボタンまで押してしまうことが多いのです。間違ったボタンを押したとき、しきりに携帯が話すのですが、何を言っているのか分からないため、閉じてしまうのです。

間違った時はあせらずに【戻る】のボタンを押して、ひ孫(ヒックン)の写っている最初の画面に戻ってからやり直したらいいことを伝えました。

電話のかけ方と受け方を何度か練習すると、スムーズにできるようになりました。すると、楽しくなったと言って嬉しそうに何度もわたしの携帯や固定電話にかけてきました。
この次はメールのやり方も教えてほしいというので、その意欲に驚きました。

義母は「これでいつでも繋がっていられる」と、安心したようです。定期的に充電することを忘れないようにねと言いました。
義母は昨日主人の車で帰って行きました。


携帯がいつでも繋がるようにするには備えておくことが必要ですね。いつでもイエス様に繋がっていられるためには、聖書を読み、祈る、み言葉を心に蓄えるという充電をしなければならないと思います。

充電していると、大きな問題にぶつかったときや突然のアクシデントが起きたとき、イエス様が助けて下さると確信できるのであわてずにすみます。
充電をサボっていると、不安でどうしようもなくなります。

携帯電話は充電しなければ電源が切れてしまい、電話は繋がらなくなりますが、祈るのをやめてしまったり、こちらからイエス様の手を離してしまったとしても、イエス様がつかまえていて下さるので、イエス様との関係が断ち切られることはありません。

イエス様と繋がっていられることの幸いを思いました。義母もイエス様に繋がることができますように……。




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たくさんの経験を積んだ知識と知恵に満ちた若者

2011-10-05 15:30:44 | 日記
3日、4日は義母と主人と娘の4人で筑波山の登山口にある温泉に行って一泊してきました。家(土浦市)からから筑波山登山口まで車で1時間足らずで行けます。
最初ロープウェイの乗り場のあるつつじヶ丘まで行きました。

義母は杖をついてゆっくりとしか歩けないので、筑波山にのぼるのはとても無理です。でもロープウェイで往復できればいいなあと思っていました。階段があったので、のぼれるか心配でしたが、手すりにつかまってゆっくりのぼっていくことができました。
ロープウェイに義母が乗ったら、座っていた人がいっせいに立って席を譲ってくれたのでありがたかったです。

義母は杖を使うのに抵抗を感じていたようですが、最近ようやく受け入れました。
「4本足の杖を使ったらどう?」と言うと、「あと10年ぐらいしたらね。そんな杖使うほど年寄りに見られたくないから……」と言っていました。

そういえば、敬老の日に(義母が80歳のとき)シルバーカーを贈ると言ったら「シルバーカーを使うような年寄りじゃない」と言っていました。

笑い話のようですが、その気持ちよく解ります。外見は老人でも、それは見た目だけのことです。魂は老いないのですから、心は青年のままでいられるのです。老人はたくさんの経験を積んだ知識と知恵に満ちた若者といえます。心の年は何歳に設定しても自由なのです。

聖書にはこのような言葉があります
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」

ホテルは平日だったのですいていて、お風呂は貸し切り状態でした。屋上露天風呂は夜景を見ながら入れました。

義母は長い間義父の介護をしていたので、温泉に行ったのが10数年ぶりになるそうです。娘(孫)に背中を流してもらって涙を流していました。天気にも恵まれたし、義母に喜んでもらえたので本当によかったです。



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希望の願いが込められ・・・

2011-10-02 16:58:14 | 日記
昨日は土浦全国花火競技大会でした。例年とは違った趣がありました。80回記念ということだけでなく、東日本大震災で亡くなられた方を追悼し、復興への希望の光を届ける願いが込められていたからです。午後6時から2時間半の間に2万発が打ち上げられました。

希望、仲間、笑顔などと名付けられた花火が多かったです。一生懸命希望を作り出そうとしている花火師さんたちの想いが伝わってきて涙が出そうになりました。

義母はとても喜び、部屋の中からでも見えるのですが、ずっとバルコニーに出て拍手しながら見ていました。

ヒックンは途中で飽きておもちゃで遊び始めました。みんなが花火に集中しているので、「花火はもう見ないの!」とちょっとむくれていました。

おばあちゃん(本当はひいおばあちゃん)にかわいがってもらい、「明日はおばあちゃんの家に行く」と言っていました。

今日は皆で教会に……と願っていたのですが叶わず、わたしひとりで行ってきました。



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