生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

優先順位

2006-03-30 11:29:40 | 教会
昨日の祈祷会の学びから考えたことがまだありましたので、書いていきます。

どんな人でも神さまからタラント(才能)を与えられています。神さまは、わたしたちがタラントを用いて使命を果たすことを望んでおられます。自分には何の才能もないと思い、才能のある他の人をうらやましがっている人がいます。かつてのわたしもそうでした。自分は欠陥人間で、神さまの失敗作であると思っていたのですから。でも、神さまは人間を造るとき決して失敗などなさいません。

 自分に与えられているタラントがみつかっても、それを用いて何をしなければならないのか迷います。あまりにもたくさんのことが山積みになっていて、どこから手をつけていいのかわからないことあります。
毎日、非常に忙しく、したいと思う多くの事柄すべてをやろうとすると、自分を見失ってしまいそうです。

 イエスさまは言われました。
「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。(ヨハネ17-4)」

(ここでいわれている「あなた」とは神さまのこと、わたしとはイエス・キリストのことです。)

イエスさまは病人を癒したり、たくさんの奇跡を行いました。でも、まだエルサレムにはイエスさまを必要としている人が大勢いました。イエスさまは、すべての人のところへいかれたわけではありません。でも、イエスさまは「神さまから与えられたわざを成し遂げた」といわれました。

ひとりの人が神さまから委ねられている働きは限られています。神さまが与えて下さった役割を果たしていくことは、とても単純なことなのかもしれません。あれもこれもと自分の考えで別なことをしてしまうから、時間がなくなってしまうのです。

何が大切なのか? 今すべきことは何なのか? 祈り求めて、優先順位を決めて本当にやらなければならないことを先にやる知恵を神さまから与えていただきたいと思いました。

最近ネットにはまっている自分を反省しつつ、ネットを切る勇気を与えて下さいと祈りました。

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目的に導かれた人生

2006-03-29 17:09:35 | 教会

桜川土手の桜が咲き始めました。今日はとても風が強いです。もし桜が満開になっていたら、全部散ってしまうほどの強風です。
今日は祈祷会。風の中、自転車をこいで教会へいってきました。桜川の橋を渡るときは自転車を降りてころがして歩きました。そうでないと風にあおられて車道側に転倒する危険があるからです。強風のせいなのか、お子さんが春休みで忙しいせいか、昼の祈祷会は、わたしひとりでした。H先生が出席されたのでよかったです。H先生とふたりでI先生のお話を聞くというもったいないような機会が与えられました。

「人生を導く5つの目的(リック・ウォレン著、パーパス・ドリブン・ジャパン)」の本からの最終の学びでした。
目的に導かれた人生の利点として

1)目的を知ることによって、人生に意味が与えられる
2)目的を知ることによって、人生はよりシンプルになる
3)目的を知ることによって、人生の焦点が定まる
4)目的を知ることによって、人生に動機づけが与えられる
5)目的を知ることによって、永遠への準備が整う

の五つが挙げられていました。

人生の目的がわからずに悩んでいる人は多いのではないかと思います。私自身、中学生の頃、人生の目的がわからずに苦しみ、死を願ったほどでした。「何のために生きるのか?などと考えてないで、勉強をしなさい」と父親はいいました。でも、目的がわからなければ、勉強する意欲がわいてきません。

「神なしでは人生は目的を持ち得ません。意味を見いだせなければ、人は生きがいも希望も持つことは出来ません」と書かれています。

目先のことを目標にしたり、人から賞賛を得ることを目標とした場合、達成した後、空しさが襲ってきます。たとえば、わたしが童話の賞に入選することだけを目標にして書いていたとします。そして、入選を果たしたら、そのときは賞賛されるでしょう。でも、いずれは人の記憶から忘れ去られてしまいます。そして目的が達成されてしまったわたしは、書き続けていく気力を失っているでしょう。

「何のために書くのか?」ということをいつも神さまに問いかけながら書いていきたいと思います。
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だいじょうぶだよ

2006-03-28 10:47:21 | 
心身共につらいときに書いた詩を紹介します。
        
         だいじょうぶだよ

肩に重い鉄板が乗っているように
体が重い
地球の重力が大きくなったのでしょうか

気管支が細くなってしまったように
息が苦しい
空気の濃度がうすくなったのでしょうか

2年前の乳癌手術あとの
傷が痛む
傷口が開いてしまったのでしょうか

神さま 
助けて下さい
わたしはどうなってしまうのですか
恐れと不安に押しつぶされそうです

わたしを快く思わない人に取り囲まれ
責められ 弱り果てています

あなたの握っている手を開いてごらん
だいじょうぶだから
と語る声が聞こえました

わたしは
無意識に両手を固く握りしめていました
何を握っているのでしょうか

かた結びになった紐をほどくように
指の一本一本をゆるめていきました

ぱっと両手を開いたとき
また、語りかける声がしました

だいじょうぶだよ
どんなことが起こっても
どんな状態になっても
わたしがあなたを支えるから

だいじょうぶだよ
つまずき倒れて
一歩も歩けなくなっなら
わたしがあなたを背負うから

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結婚式

2006-03-26 16:53:11 | 日記

昨日は教会で結婚式がありました。感動的な結婚式でした。
新郎のSくんとは数年前、一緒に教会学校で奉仕していました。ギターがうまく、誠実な好青年です。新婦のMさんとは、まだ直接お話ししたことがありませんが、とてもきれいな方です。

新婦には4歳の娘さんがいます。詳しい事情はわかりませんが、Mさんはとてもつらい経験をされたようです。ケーブルテレビで教会紹介の番組を見て教会を訪れ、イエスさまを信じ、新しい歩みをはじめたころ、Sくんと出会ったそうです。
Sくんは、Mさんの過去をいっさい受け止めて暖かい愛で包み、結婚の約束をしたそうです。
牧師先生は、3枚の布を持ってこられ、SくんはMさんを包み、MさんはSくんを包み、と言いながら布で包んでいかれ、最後に大きな一枚の布を出され、このようにふたりのことを神さまが包んで下さると実演されました。

式のあと、Mさんのお父様が、感極まって涙ながらに感謝の挨拶をされました。もらい泣きしてしまいました。

式の中でMさんの好きな「月の光」という曲を青年たちが賛美しました。歌詞がとても感動的なので紹介したいと思います。

      月の光
どこまでも続く広い大地が吸い込まれる空の下で
片意地張って生きている私はあまりに無力で

何も残っていないと思ってた自分の足跡たどれば
この空の広さにまさる愛に生かされた日々があった

ひとりで泣いていた夜も 月の光があったように
今の私のありのままを包み込む愛があった

新しいご家族に神様の祝福がありますように。
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球根のうた

2006-03-25 11:43:17 | 
1月16日に植えたチューリップの球根が芽を出しました。(「ありがとう わたしのいのち」の記事参照)
時期をとうに過ぎてから植えたので、芽が出ないかと思っていました。植えて数日後、大雪がふりました。土の中で球根は凍ってしまったかもしれない。死んでしまったかもしれないと思っていました。
2週間ほど前、プランターに小さな芽がいくつか顔を出しているのをみつけ大喜びしました。少しずつ成長してきています。花が咲く日が楽しみです。

遅く植えたチューリップの球根でも、ちゃんと芽を出しました。球根の気持ちになって書いてみました。
  
        球根のうた

ここは、真っ暗な土の中
春だよ
春がきたよと
だんご虫が叫びながらごそごそと 
のぼっていった
土の上は明るい世界だという
ぼくも明るい世界をみてみたい

一匹のだんご虫がもどってきていった
「きみはなぜ芽を出さないの?
もうあったかくなったのに
ほかのプランターにはムスカリが花を咲かせているよ」

ぼくだって芽を出したい
どうしてぼくは芽が出ないんだろう……
誰にも知られないまま
土の中で腐ってしまうのかな

ぼくはどうしてここにいるんだろう
どうして生まれてきたんだろう
生まれてこなければよかったのに
苦しいよう
苦しいよう
このまま消えてなくなってしまいたい……

どれくらいたったんだろう
気が遠くなるほどの長い時間、真っ暗な中にいたけれど
いま、目覚めたら、新しい世界がみえた
何て明るいのだろう
まぶしくてびっくりした

「まあ。やっと、芽を出したのね、待っていたのよ」
女の人が、やさしいまなざしをぼくに向けた
「土の中にぼくがいること知ってたの?」
「もちろんよ。だって、わたしが植えたんだもの」
「あなたが植えてくれたの?」
「そうよ。よかった、毎日水やりしたかいがあったわ」
「ぼくのために水をかけてくれてたの?」
「そうよ。遅く植えたから、芽が出るか心配で、掘り起こしてみたいのをがまんしていたの。
ちゃんと根が伸びていたのね」
「ぼく、知らなかった。根が伸びていたこと……。ありがとう」
「成長させてくださったのは、わたしじゃないわ、神さまよ。
春を造って下さったのも、あなたのことを造って下さったのも神さまよ」
「そうなんだ……。神さまありがとう!」


聖書のことば
「わたしが植えてアポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です(Ⅰコリント人への手紙3-6)」

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U子さんへ

2006-03-23 17:22:31 | 日記
苦難が自分の罪のせいではないかと思い、罰を受けなければならないのかと思い悩んでおられるU子さんへ。

人には言えない苦しみを抱え込んでいるU子さん。どのような苦しみか具体的にはわかりませんが、とてもつらい状況に置かれていることを察し、案じています。この苦しみが自分の罪に対する罰かもしれないと思っておられるようですが、決して罰ではありません。なぜなら、神さまはわたしたちに罰を与えるお方ではないからです。

わたしが乳癌になったこと、父が末期癌であること。とてもつらい事実ですが、これらのことは決して神さまの罰ではありません。

「ミルカとティナ」を読んで下さいましたか?ミルカの手足が動かなく、また口もきけなくなってしまったのは、ミルカの罪に対する罰ではありません。ティナに生まれつき障害があるのは、ティナの罪に対する罰ではありません。
 
聖書には、生まれつきの盲人をみて、弟子達がイエスさまに質問したという箇所があります。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業(わざ)がこの人に現れるためです」(ヨハネ9-3.4)

あなたのことを造ってくださった神さまは、あなたのことをとても大切に思っておられます。あなたが神さまを知らなくても、神さまはあなたのことすべて(髪の毛の数まで)を知っており、あなたの流している涙をご覧になっておられます。

本当は、罪に対して罰を与えなければならないのですが、神さまはあなたやわたしに罰を与えなくていいようにひとり子のイエスさまを十字架につけて、イエスさまに罰を与えられました。イエスさまはわたしたちの身代わりになって罰を受けて下さったのです。それが十字架の意味です。

ですから、あなたやわたしたちは、罪を犯してもイエスさまを見上げて、ごめんなさいと言うだけで赦していただけます。

聖書にはこう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1-9)」
あなたはすでに自分の罪に気づいておられますから、神さまは赦して下さいます。あなたの苦難には、必ず終わりがあります。どんなに暗くても、それはトンネルの暗さです。トンネルの出口は、今は見えなくても必ず外の明るいところへ出られます。だから、どうか絶望しないでください。暗いトンネルを通り過ぎたとき、「苦しみにあったことは幸いでした」と言えるときが必ず来ます。

神さまは「「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言って下さっていますよ。祈っています。

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ことばの力

2006-03-21 10:09:44 | 乳癌
 
 昨日「ミルカとティナ」の連載が終わりました。長い物語を最後まで読んで下さった方々、コメントを下さった方々に心から感謝します。

最近、ことばの持つ力について考えています。英語ならアルファベット、日本語なら50音の組み合わせにすぎないことばが、人を殺したり生かしたりする力を持つことに不思議を感じています。

 クリスチャン・ペンクラブでは、文章を書くことを「ことばを紡ぐ」という表現を使います。「紡ぐ」とは綿や繭から糸をつくることです。素材から紡いでできた糸が布になり、布が服やテーブルクロスなど人間に役に立つ物となっていきます。「ことば」も、もとは素材としての文字であり、それを組み合わせることによって意味のあるものとなり、人の心に届いていきます。
 ことばを紡いでできた文章をブログを通して届けることができて嬉しいです。

 昨日は風の強い中、自転車をこいで病院へいってきました。昨日は婦人科だけで、外科と内科は来月です。
 赤血球の値(血色素量)が7.3だったのが、2か月近く鉄剤を飲んだおかげで倍近くの13.5に上がっていて感謝しました。(女性の正常値は10.7~14.5)

 子宮筋腫は3つとも数㎜大きくなっていましたが、医師から「この間のように大出血しなければ大丈夫」といわれました。また、相変わらず白血球値が低いのを気にしておられましたが「風邪をひかなければ大丈夫」といわれました。

 「大丈夫」という言葉を聞いてはじめは安心したのですが、医師の言葉には条件がついています。大出血しないという保障はありませんし、風邪は、ずうっとひかないということはあり得ません。(ちっとも大丈夫じゃないじゃないの!)と、また不安の波が襲ってきました。

 そのとき、聖書の詩編121篇のことばが浮かびました。

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」

 神さまは無条件で大丈夫といってくださっているのだなあと思って嬉しくなりました。

 聖書の言葉を「みことば」といいます。それは、神さまのことばだからです。神さまのことばはいのちのことばです。人に生きる力を与えます。いのちのことばをいつも心に携えていたいです。

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洗礼式

2006-03-12 21:15:53 | 教会

 わたしの通っている土浦めぐみ教会では、今日洗礼式が行われ、5人の方が洗礼を受けられました。めぐみ教会では、昨年から午前中に3回の礼拝が行われています。(夜にはオープン礼拝があります。)
 
 今回は初めての試みで、第三礼拝の中で洗礼式がありました。礼拝堂は二階ですが洗礼槽は階下です。階下で洗礼式が行われ、その様子を撮影して礼拝堂で大型スクリーンに映すという画期的な方法がとられました。

 我が家の家庭集会に集っていたOさんが洗礼を受けました。3年半くらい前、Oさんが初めてめぐみ教会の礼拝に出られたとき、隣の席になりました。初めての方だと知って、礼拝の後少しお話ししました。家が割合近いことを知り、家庭集会にお誘いすると来て下さり、それからほとんど毎回、月に一回の家庭集会に出席されていました。親しくさせていただいて、Oさんから色々な事を教えていただきました。

 Oさんには涙の谷を歩むようなつらいことがあったのですが、イエスさまをずうっと求めておられました。洗礼を受けることをわたしだけでなく、多くの人たちが祈っていました。Oさんの家の前までいって、ひそかに祈って帰ってきたという人もおられます。

 Oさんが洗礼の決心をされたとき、神さまに心から感謝しました。神さまがOさんのことをとても愛して下さっていることがわかって心が震えるほど嬉しいです。Oさん、おめでとうございます。

 十字架にかけられた方(イエス・キリスト)の言葉に対して、どういう姿勢を示すかによって人生が変わる。十字架の言葉を誠実に受け入れると、ダイナマイトのような力になる
というメッセージを聞きました。Oさんの中にも心身共に弱いわたしの中にもダイナマイトのような力が与えられているのだと思うと嬉しいですね。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1:18)

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谷間の百合

2006-03-11 18:07:02 | 日記

 昨日、実家から戻ってきました。末期癌の父の入るホスピスを見学に行ってきたのです。
父の状態はいまのところ小康を保っており、先日の暖かい日には母と近所に散歩に出かけたほどですが、いつ悪くなるかわからないので、ホスピスを探しておくように主治医から言われていました。ホスピスはベッド数が少なく、前もって予約をしていても待たされるので、早目に決めておくようにとのアドバイスを受けていました。

幸い実家は都内で駅にも近いので、緩和ケアーをしている病院は、1時間以内で行ける範囲に絞っても4.5軒あります。緩和ケアーを行っている病院が1軒もないという県もあるそうなので、もっとそういう病院がたくさんできるようにと望んでいます。

 父と母は2人暮らしで、母は体が弱いので、在宅看護は無理です。それで、できるだけいいところに入ってもらいたいと思い、見学することにしたのです。
 9日には母と妹と3人で1箇所に行き、10日は妹と3箇所をまわるつもりでした。でも、9日に行ったところがとても良かったので、10日は1箇所だけ見て、後でどちらかを選択することにしました。

 3人で出かけたことで(買い物に行くといったのですが)父は疑いを持ってしまいました。そして、余命が短いことをうすうす感づいているようで、いらいらし、とても暗い顔をしていました。そんな父を見るのがつらかったです。

 行きの電車の中で「生と死を支える」柏木哲夫著(朝日新聞社)を読みました。医師が患者の気持ちを思いやり、患者の意志を大切にし、患者が望まない治療はしない。患者と患者の家族の精神的ケアをする。と書かれているのを読んで、このような理想的なホスピスがあればいいのに……。と思いながら見学にいきました。
 すると、見学した2箇所とも、その本に書かれているようなケアーを行っていることがわかり、心から感謝しました。 

 今朝読んだ旧約聖書1日1章(榎本保朗著))の詩編46篇のところに書かれていた文を紹介します。

讃美歌512番に「君は谷に百合、明日の星」という言葉があるが、本当に涙の谷を過ぎなければならないような、死の陰を通らなければならないようなことが人生にはある。しかし、その谷にこそ咲いている百合があり、それを見つけるかどうかということが、大きな問題なのである。それを見つけた人は、もはや谷が谷でなくなってしまう。あるいは夜明けの暗闇の中で、明けの明星を見つけた人は、そのところで大きな光を見いだすのである。


「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。(詩編46-1)」)


今、わたしは暗い谷を歩いているような気持ちです。でも、神さまは谷間に百合の花を咲かせて下さっています。百合の花を見つけたとき、そこは暗い谷ではなくなるのですね。今回、谷間にたくさん百合の花を見つけました。父にも百合の花が見えるようになりますように。 

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存在の理由

2006-03-08 22:01:12 | 教会

今日の祈祷会は先週に引き続き「人生を導く5つの目的」(リック・ウォレン著)からの学びでした。

人間の存在の理由について考える時を与えられました。わたしは、中学生のころ、自分の存在の意味がわからずに苦しみました。神さまによって造られたということを知らなかったので、ただ偶然に生まれてきて、たまたまここにいるのだ。それなら、自分がこの世からいなくなってもかまわないではないかと考えていました。

でも、大人になって教会へ通うようになり、自分が神さまによって目的をもって造られた存在であること。自分の生まれる前から神さまが計画されていたこと。自分の存在そのものに価値があることを知り、生きる意味を見いだすことができたのです。
 
ちょうど、わたしはいま「存在」をテーマにした小説を書いています。友人にも愛する母親にも存在を拒絶され、自分は誰なんだろう? 存在しているのだろうか? と思い悩む少年を主人公にしています。
 たとい親から拒絶されても、確かに自分が今ここに存在し、大いなる者に愛されている。自分の存在に絶大なる価値があるのだということに気づくまでの物語です。
 
ラッセル・ケルファーの詩を紹介します。

あなたはある理由のために存在しています。
あなたは細かく精密な計画の一部を担っている存在です、
あなたは、尊い存在であり、しかもこの世に二つとないデザインで造られ、
神の目にかけがえのない女性、あるいは男性と呼ばれています。
あなたが今の姿でいるのには理由があります。
私たちの神に失敗はあり得ません。
神はあなたを母の胎の中で育まれました。
あなたは神が望まれた通りの姿をしているのです。
あなたにその両親を選ばれたのは神です。
どう感じようとも、あなたは神に望まれた通りにデザインされ、主の証印を押されているのです。
あなたが受けたあの心の傷は決して軽くはありませんでした。
しかし、あなたがその傷に苦しむ度に神も涙を流しておられました。
やがてそれはあなたの心の糧となり、
あなたは成長して神に似た者とされました。
あなたがあなたであるのには理由があります。
あなたは主の鞭によって整えられてきました。
あなたはありのままで愛されています。
そのような神がおられるのです。


あなたがその傷に苦しむ度に神も涙を流しておられました。というところ感動しました。
このブログを読んでいてくださるあなたも、ありのままで愛されているのですよ。

今日は色々忙しく、遅い時間の更新となってしまいました。明日からまた実家に行きます。
帰ってきましたらまた書きますのでよろしく。

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神さまの備えてくれた人

2006-03-07 12:57:08 | エッセイ
昨日の続きです。

その後、創価学会の友人とどうなったかというと、子供を連れてお互いの家を行き来していました。
 
 ところが、ある雨の日、彼女に呼ばれて家に行くと、創価学会の偉い(?)人がきて、わたしを折伏しようとしました。わたしに喘息の持病があると知ると、「キリスト教なんか信じていたら、喘息で道ばたに倒れて、のたれ死にするのよ」といいました。すぐに子供を抱えて家に逃げ帰りたかったのですが、雨が激しくなり、雷まで鳴ってきて、帰るに帰れなくなってしまいました。

 その人はキリスト教を信じていたら、どれだけ悪いことが起きるかということを延々と語り、それでもわたしが信仰を捨てないとわかると急に怒りだして、「創価学会に入らなくても、聖教新聞とりなさい」と命令口調でいいました。
わたしは、救いを求めて友人の顔を見ましたが、(当然なことなのですが)友人はその人に味方して「新聞だけでもとったら」と言います。そのときようやく雨が上がったので、逃げるように帰ってきました。

 その数日後、突然昼食時に今度は2人の創価学会の人と一緒に我が家を訪れ、上がり込んできました。そしてまた、この前のような話しをし始めました。わたしに弱い部分があったので、そのことを知って何回も来るのだと思いました。友人でなければきっぱり断れるのに……しっかりした信仰を持っていたら反論できるのにと思いました。

 教会の牧師先生に相談すると、今後家に招かれたり、訪問されたら、子供どうし遊ばせるためだけならいいけれど、創価学会の話しはお断りだとはっきり言うように助言を受けました。反論はしてはいけないとも言われました。

 でも、気の弱いわたしは面と向かって言うことができず、手紙に書いて彼女の家のポストに入れました。彼女は強引だったとあやまりました。

 それでまたおつきあいがはじまろうとしていたとき、彼女のご主人が転勤になって、一家は引っ越していきました。神さまはいちばんいいかたちで彼女と離れさせて下さいました。

 彼女のおかげで、わたしはかえってキリストと結びついたような気がします。彼女も神さまが備えてくれた人なんだなあと思っています。
 それから一度も彼女に会っていませんが、お会いする機会があったら、彼女にすばらしいイエス様のことを伝えたいです。


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わたしの罪のために……

2006-03-06 13:32:05 | エッセイ
昨日、受洗の面接を受けた友人から、「あなたの罪の為にイエス様が十字架にかかられたことを信じますか?」と質問されたけれど、文香さんはどのようなときにこのことを信じたのですか?というメールを頂きました。それに答えるかたちで書きます。

わたしは、洗礼を受けたとき、自分の罪には気づいていましたが、自分の罪のためにイエス様が十字架にかかって下さったという明確な信仰を持っていませんでした。

 なぜ罪に気づいたかについては、救いの証し「心のすき間が埋められて」に書きましたので省きますが、もしそのとき、「あなたの罪がイエスさまを十字架につけたのですよ」と言われたら「えっ、何で? イエスさまが十字架にかかったのは2千年も前のことなのに……」と思ったことでしょう。

 洗礼を受けた当時のわたしは、自己中心という罪に気づいていましたが、自分がすごい罪人とだは思っていませんでした。少なくとも人を傷つけたり、悪口を言いふらす人たちよりはましだと思っていたのです。みかけは温和で人とトラブルを起こしたこともなかったので、周りからは「いい人」と言われていました。家の中では母に逆らい、わがままを言っていましたが、外では穏やかだったのです。
 
 聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」という言葉があります。わたしは、友達が困っているときは助け、悲しむときは同情し、共に泣くことができました。でも、共に喜ぶことができないのでした。
たとえば、当時は「売れ残りのクリスマスケーキのようにならないように」と言われていたように適齢期は24歳でした。25歳になると売れ残りと言われた時代です。
短大の友人の結婚が決まったと聞くと「おめでとう」と言いながら、心では悲しんでいました。結婚してからは、すぐに子供が欲しかったのに与えられなかった時期に友人のおめでたの報告を受けると、やはり口では「おめでとう」といいながら悲しみました。

自分に子供が与えられた後には友人の妊娠、出産を心から喜べるようになったのですが、自分の願いがかなわないうちは喜ぶことができないという、自分勝手な人間でした。
キリスト教はご利益宗教ではないのに、祈り求めることといえば、自分の健康、夫、子供の健康、幸せばかりで、人のためにはオマケのように少しだけ祈っていたのでした。

「心のすき間」にも書きましたが、わたしは洗礼を受けて間もなく教会を離れてしまいました。その間、結婚して長男が与えられました。同じ団地で向かいの棟に住む人と子供を通して知り合いになりました。
彼女は創価学会に入っていました。なんども集会に誘われて仕方なく行ったのですが、どうしても気が進まないのであるとき、「わたしはクリスチャンだから、そういう集まりには行きたくないの」と断りました。
すると、その人はキリスト教の悪口をいい、「処女がキリストを産んだなんていうことをまさか本気で信じていないでしょうね」と、詰め寄りました。優柔不断なわたしは「信じてないけど…」と答えて、彼女は「ああよかった」と喜んだのを覚えています。

本当は信じていたのに嘘をついたのです。信仰は違っても、彼女はわたしにとって必要な人でした。はじめての子供をかかえて、母乳のことや離乳食のことなど色々不安のある時期でしたが、彼女はよき相談相手、よき助言者でもありました。同ころ生まれた乳飲み子を持つ母親で親しい人はそのときは彼女しかいませんでした。わたしは、彼女の友情を失いたくなかったのです。
 
でも嘘をついたことで神さまを裏切ったうしろめたさと罪の重さに耐えられなくなって、再び教会へ足を向けたのでした。「心のすき間(6)」では、再び教会に行くようになった理由を喘息の不安のためと書きましたが、この出来事もその理由のひとつです。
 
3年のブランクの後、教会へいって、平日の婦人会にも出席し、そこで入門の学びをしているとき、イザヤ書53章4、5節のみ言葉がわたしの心をとらえました。

 まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎(とが)のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。


(自分勝手な道を歩いていたのは、このわたしだ。自分本位で、人から嫌われないように嘘までつき、人の幸せを願うどころか嫉妬していた。このわたしの罪がキリストを十字架につけたのだ)とはっきりとわかったのです。
 
わたしは自分の罪のためにさめざめと泣きました。でも、その後で罪赦された喜びが沸き上がってきました。「「種入れをかかえ泣きながら出ていく者は、束をかかえ喜び叫びながら帰ってくる(詩編126:6)」

神様は罪に泣く者のために「赦し」というすばらしいプレゼントを用意して下さっています。キリストが十字架にかからなかったら、わたしの「罪」は永遠に赦されないのだと思うと、イエスさまのしてくださったことに胸が熱くなるのです。


その後、創価学会の友人とどうなったかについては、明日書きます。
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不安の波

2006-03-04 11:30:04 | 乳癌
今年2月20日に発行された日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のニュースレター15号(文は信なり)掲載されたエッセイです。書いたのは去年の12月です。


「白血球値が下がっています。感染症にかかりやすくなっているので気をつけて下さい」
乳癌の手術から2年目の検査後、医師からそういわれました。抗癌剤の副作用かもしれません。癌になる前は5千もあった値が2千になり、正常値を大きく下回っています。
 
不安の波がどっと押し寄せてきました。というのは、その半年ほど前に肺炎になったからです。幸い3週間ほどで治りましたが、白血球が少ないので、風邪をひいたらまた肺炎になってしまうかもしれない。それより、インフルエンザにかかったらどうしよう……。予防注射はしましたが、抗癌剤を飲んでいる人は効かないことが多いと注意を受けていました。

そして、もし新型インフルエンザがはやったら……。ああ、わたしはいちばんに感染して死んでしまうかもしれない……。
 
乳癌の再発転移の不安も突然津波のように襲ってきます。リンパ転移があったので、脳、肺、肝臓、骨などに再発転移する可能性が高いといわれている者です。体調のいいときは、忘れていますが、頭痛が続くと、脳腫瘍ではないか? 咳が続くと肺癌では? と心配になってきます。
 
神さまはいつもわたしに最善をしてくださることを信じていますから、たとえ再発転移が起きても大丈夫と、たいていは平安な気持ちでいられるのですが、ときたま不安の波がやってきます。
 
わたしは、不安を抱くことはいけないことだと思っていました。神さまにしっかり委ねていれば不安の波に襲われることはないはずだと。不安でたまらなくなるのは不信仰の証拠と思い、不安になるたび自分を責めていました。
しかし、教会の修養会で、「人が不安を感じるのは当たり前のことです。なぜなら神さまがそのように造られたからです」というメッセージを聞いて、救われた気持ちがしました。

「不安を抱かなければ、地震などの災害の備えもしなくなるので(多少の)不安はかえって抱いた方がいいのです。でも、不安にとらわれてはいけません」
と聞きました。

いままで不安が襲ってくると、何とかのがれようと必死にもがいていました。でも、そのメッセージを聞いて、不安になる自分を受け入れられるようになりました。

不安の波は、海の波のようです。さざ波のように小さな波のこともありますが、時には津波のように大きな波が襲いかかります。波がきたら逃げないで頭から波をかぶりましょう。力をぬいて、波にもまれて流されましょう。
深い海の底にひきずりこまれる前に神さまがしっかりつかまえてくださることを信じて。

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。申命記31-8」


感謝なことにこの冬、インフルエンザにはかかっていません。風邪はひきましたが、すぐに病院へいって薬を飲んだので熱も出ることなく治りました。薬が効いたのは奇跡的なことです。
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心の膜が取り除かれて

2006-03-03 12:30:04 | エッセイ
今日は、去年の3月、教会で発行している月報に載せていただいた記事を掲載します。


 わたしが礼拝に出席する時は、ハンカチとティッシュが必需品です。必ず何度か涙が出るからです。「わたしって、おかしいのかなあ?」と思っていたら、2月の「月報めぐみ」に礼拝中に何度も涙しているというN兄のあかしを読んで、「よかった、わたしだけじゃなかったんだ」と嬉しくなりました。

 ある日の礼拝で涙を流したときのことを書いてみます。
 司会の方が「天の父なる神様」と祈り始めると、神様を父と呼べることに感激して涙します。主の祈りでは、「私たちの負い目をお赦しください」のところで、ああ、イエスさまの十字架によって私の罪が赦されているんだなあと心が震えます。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました(ヨハネ15-9)」
と聖書が読まれ、イエスさまにどれだけ深く愛されているのかと思い感動します。「神は、ご自分の子どもを身代わりに差し出すほどにあなたを大切に思って下います」というメッセージにどっと涙があふれます。賛美歌や聖歌の歌詞にも、祝祷の言葉にも感動して、後奏のあとしばらくは胸がじーんとして言葉が出ません。

いつからこんなに涙もろくなったのでしょう……。以前は礼拝に出ても心動かされることなく、メッセージを聞きながら頭の中で別のことを考えていたり、つい居眠りをしてしまったこともありました。

ところが、一昨年の12月に乳がんの手術を受け、術後10分の4のリンパ転移があることを知らされました。リンパ転移の意味がどういうことなのかを知ったとき、体の中に電流が走ったような戦慄を覚えました。リンパ転移3つ以上ある人は、再発転移のリスクが非常に大きいといわれ、5年後、10年後の生存確率がぐんと低くなります。

死ぬことが怖いわけではありません。ただ、ずうっと先にあると思っていた死が、すぐ近くに来ているかもしれないと思い、身震いしたのです。人間誰でも必ず死は訪れます。でも、その当たり前のことがわからずに、いつまでも同じ様な日がずうっと続くのだと思っていました。

日曜ごとに礼拝に出席できることを当たり前のように思っていましたが、必ず最後のときがくるのだと自覚したとき、これではいけないと思いました。それで毎回、この礼拝が生涯で最後の礼拝だと思うことにしました。わたしの心は膜でおおわれていて、心のアンテナの感度は鈍くなっていましたが、そのときから心の膜は取り除かれました。

それから、ハンカチとティッシュが礼拝の必需品となりました。流す涙は悲しみの涙ではなく、感動の涙です。礼拝は至福の時です。病気のおかげで、こんなに素晴らしい礼拝にあずかることができて、わたしは乳がんとリンパ転移に感謝しています。



この記事を書いてから約1年。心境は全く変わっていません。祈祷会でも涙が出ます。2人ずつで祈りあうときには、必ず泣いてしまいます。暖かい心と熱い思いで自分のために祈っていただけることに感動で胸がいっぱいになるからです。
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「カシコギ」を読んで

2006-03-02 12:47:38 | 日記

「カシコギ」(チョ・チャンイン著 サンマーク出版)を読みました。感動で胸がいっぱいです。白血病の少年とその父親の小説ですが、内容を知らないで図書館から借りてきました。   

 同じ著者の「スンウ」(フォレストブックス)という本を読んで、とても良かったので借りてきたのです。乳癌になってから、死に瀕するような病気の人がでてくる本やドラマを意識的に避けていました。「1リットルの涙」も見ることができません。自分の身に起こるのではないかと思ってつらくなるからです。
何度も途中で読むのをやめようと思いつつ、泣きながら最後まで一気に読んでしまいました。

 カシコギというのは不思議な習性をもつ淡水魚の名前です。この魚のオスは、メスが産み捨てた稚魚を必死に育て、子が成長していくと自らは死んでしまうのだそうです。「カシコギ」は物語の内容を暗示させる題名です。2000年に韓国で出版され、160万部も売れ、映画にまでなっているそうです。

 タウムの母親が家を出ていき、タウムは父親のチョンに育てられます。タウムは白血病におかされます。タウムの病気が骨髄移植しないかぎり治らないと知ったとき、チョンは犠牲的な愛を示します。

 タウムの入院しているベッドサイドの壁に貼ってあったという言葉に心打たれました。

「あなたが虚(むな)しく過ごしたきょうという日は、
きのう死んでいった者があれほど生きたいと願ったあした」
(56ページ)

 人は、‘生きたい’とどれだけ願っても、たといそのためにどれだけの財を投じても、一日でも寿命を延ばすことはできません。乳癌になる前は、‘生きたい’と願うのに死んでいく人たちの心境を思いやることはほとんどありませんでした。でも、今は違います。闘病中の父のことも考え合わせると、今この時も‘生きたい’と願うのに死んでいく命があるのだなあと思わされます。
 
 限りある命。与えられているきょう。きょうという日を虚しく過ごさないようにしたいです。


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