生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

試練の中にある人へ

2008-07-30 16:45:02 | 教会

昨日から夏期学校の疲れが出てきています。何日もたってから疲れが出るというのは、年のせいでしょうか。今日は風が涼しいので助かります。


先日の礼拝では私の好きな聖句について語られたので、どうしても書かなければという気持ちになりました。

以前エッセイにも書きましたが、17年前喘息のひどい発作が起きたときのことです。深夜、救急センターに行き、注射を打ってもらいました。発作はいったんおさまったのですが、帰宅した後にまた起きてしまったとき、打ちのめされました。体を横たえることもできず、ひと呼吸するのに全身の力をふりしぼるほどの呼吸困難です。この苦しさが一晩中続くのなら耐えられません。早く天国へ連れて行ってくださいと神様に訴えたのでした。

そのとき頭に浮かんだ聖書の言葉が

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように試練と共に脱出の道を備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」
でした。
耐えられないはずはないんだと思ったとき、ほっと平安が与えられました。そうしたら発作は続いていたのに眠れたのです。

喘息ではずいぶん苦しい目にあっているので、どうしてわたしだけがこんなにひどい試練にあうのだろうと思っていました。

でも、聖書には、「あなたがたの会った試練は人の知らないようなものではありません。」と書かれています。柳生直行訳の聖書では
「あなたたちが今まで出会った試練は、人間ならだれでも出会うようなごくありふれたものにすぎない」
と書かれています。


困難に直面すると圧倒されて、その困難は自分だけの特殊なものだと思いがちになる
と聞いてわたしの場合もそうであったと思いました。

苦しみの最中にある人に、『あなたよりもっと大変な目に遭っている人がいるのだからがんばって耐えるように』と励ます人がいます。また、『つらいけれど、あの人よりましだから耐えなければ』と思う人がいます。
でも、比較によって悲しみ、苦しみが慰められるわけではありません。

わたしは、乳がんの手術を受けたとき、「もっと大変な手術を受けた人を知っているけど、その人は1週間で退院して今はとても元気よ。だからあなたも大丈夫」と言われました。その方はわたしを励まそうとして言って下さったのですが、1週間では回復しなかったわたしはかえって不安になりました。体質や体力に個人差があるのだから回復にも個人差があるのです。同じ病気でも人によって症状が異なるのです。
人との比較よって慰められても、それはいっときに過ぎず、かえって傷つくことがあります。


「コリント人への手紙を書いたパウロは、比較によって慰めを得なさいとはいいません。神は真実な方ですからと書いています。神の真実を見て困難に直面してください。
学校でテストをするとき、生徒の能力以上のことをテストしたりはしません。不可能なことは試練にはならないのです。
試練にあうとき、どんな試練であってもそれは耐えられるものであり、コントロール可能なものです。その根拠は、神が真実な方だからです。神様は、嘘偽りを言わず、祝福し、よきものを与え、必要を満たし、約束を守るお方なので真実な方といえます。
神様は脱出の道、のがれの道、打ち勝つ方法を与えてくださいます。」

と牧師先生が言われました。


試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

小学科夏期学校

2008-07-27 17:31:42 | CS(子供伝道)

一昨日、昨日と教会で行われた小学科夏期学校が神様の祝福のうちに終了しました。娘と一緒に奉仕しました。
これまで毎年、近辺の宿泊施設で行われていましたが、今年は教会で行うことになりました。夏期学校の参加は、わたしは10数回目ですが、教会で泊まるのは初めてです。

学生時代、夏休みに実習先の教会付属幼稚園のお泊り会で礼拝堂に泊まったことがありました。当時、クリスチャンにはなりたくないと思っていたのに「ここには、神様がいる。だから大丈夫」と感じたことを思い出しました。
その後、神様は教会にだけおられるのではなく、どこへ行っても共にいてくださることがわかりました。イエス様を信じ、受け入れてからは、わたしの中に住んで下さることがわかりました。

夏期学校では、わたしたちは土の器で、土の器の中に宝物が入っています。その宝物とはイエスさまです。というメッセージを聞きました。


私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明かにされるためです。(Ⅱコリント4:7)



器がどんなにみすぼらしくても、またどんなに弱くてもイエス様が力を与えてくださいます。イエス様はわたしたちの内側を強めるために来て下さったのです。イエス様が入っていて下されば何の心配もする必要がありません。

イエス様はきれい好きなので、罪で汚れた心に住むことはできません。わたしたちの罪を完全に赦し、心をきれいにして下さったから、わたしたちの心に住むことができるのです。わたしたちの罪を赦すためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。


メッセージを聞いて力が与えられました。


1日目は開会礼拝のあと、ご父兄が作って下さったおにぎりと焼きそばの昼食をいただき、バスで移動して体育館でゲーム大会。教会にもどって子供たちとカレーを作り、いただきました。夜は雨が少し降りましたが、キャンプファイヤーもできました。
2日目はデボーションのあと朝食作り、水鉄砲を使ったゲーム(各々がおでこに金魚すくいのポイ(すくうもの)をくっつけ、相手チームのものを水鉄砲でねらう。やぶれたら負けというゲーム)、スイカ割り、昼食、閉会礼拝と盛りだくさんのプログラムでした。最初は緊張していた子どもたちも楽しいプログラムに生き生きと目を輝かせていました。

1-4年までの子どもたちを縦割りで4つのグループに分け、グループごとに競い合ったのですが、だんだんとチームワークが強められ、大いに盛り上がりました。
 
夜はほとんど眠れないのでは思っていましたが、5時間ぐらいはぐっすりと眠れたことを感謝しました。ひどく暑かったのは1日目の体育館の中だけで、その後少し涼しくなったので助かりました。体調をくずさずに2日間過ごせ、翌日の今日も元気に教会へ行けました。お祈りして下さった方、有難うございました。


写真は、体育館で行った風船バレーボールです。(ふたつの風船をつなげています)

神のかたちに

2008-07-24 11:09:29 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

毎日暑いですね。汗かきなので、首にあせもができてしまいました。あせもの薬を塗っています。ヒックンと同じです。
明日は教会学校の夏期学校で、教会に1泊します。わたしの体力の限界を超える奉仕です。途中で具合が悪くなるのではないかと内心恐れています。でも、きっと大丈夫。神様が足りない体力を補って下さるでしょう。
今回はわたしを含め50代の教師が多く、60代の方もがんばっておられます。1年生から4年生までの約30名の子供たちが参加します。5・6年生の夏期学校は8月末に行われます。

先日クリスチャン・ペンクラブで聞いたM姉による
「神のかたちに似せられて」
というバイブルトークを紹介させていただきます。


天地を造られた神様は、6日目に人間を造られました。創世記1章26節には次のように書かれています。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。そして彼らに海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」と仰せられた。

神様は人を造るとき、「われわれに似せて」と言われました。


聖書の神様は唯一のはずなのになぜ『われわれ』と複数になっているのでしょう。


『三つにいまして一つなる』と言われるように神様は、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)聖霊なる神の三つの位格を持っておられます。なので、われわれと言っているのです。

神様が独り言を言ったのではなく仲間(子なる神と聖霊)に話しかけておられるのです。

似せてというのは、すべてそっくりにというのではありません。神様は人を造るとき、ご自分と似ているところと、そうでないところを造られました。

人のうちに見られる神様のご性質は、*正しいことができる力 *真理を知ること *善 *聖 *義 *愛 などがあるいわれます。これらは、人間らしく生きるために必要なものです。神様はわたしたちが人間らしく生きるためにこれらのご性質をくださったのです。

それでは、神様が人間に下さらなかったものは何でしょう?
それは全知全能の力です。奇跡を行ったり、未来を予知したりする超自然的な力です。
神様は全知全能ですが、人間にはその性質が与えられていません。


そのような能力があったらいいのに……かつてわたしはそんなふうに思ったことがあります。

でも、もし与えられていたら、欲望に従って何でもして、傲慢になっていたでしょう。


また、未来のことがわかったらいいのに……と思います。
わたしたちは、一瞬先のこともわからないのですから。もしわかっていたら危険を回避できるのに……と思います。

でも、『先のことがわかったら、ある種の災害は避けられても、恐怖と不安に駆られ、心の病にかかるか、気が狂ってしまう。また、未来に起こることに心が囚われて安心して暮らせなくなる』と聞いて、その通りだと思いました。



『知らぬが仏などと無責任な言葉がありますが、知らないからこそ今日笑っていられるのです。平安でいられるのです。先のことがわからないのは、神様の恵みなのです。』


確かにそうですね。たとえば3年後に愛する人が死んでしまうことがわかってしまったら、悲しみに心が支配されて何も手につかなくなってしまいます。また、自分が死ぬ日がわかったら、あせって落ち着いた生活ができなくなるでしょう。だからこそ、神様はわたしたちに弱さと限界を与えてくださいました。
『弱さと限界が恵みなのです』
と聞いて、目が開かれた思いがしました。

神様は深く配慮されて、あえて人間に超自然的な能力を与えなかったのですね。
弱さと限界を覚えるとき、落ち込むことはないのです。そのときこそ、神様をほめたたえたいです。


そうしたものをくださらなかった神さまですが、何よりも大事なものをくださいました。それは、イエス・キリストと聖霊です。


ヨハネ3章16節
神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、それは御子を信ずる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

使徒の働き1章8節
しかし、聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。


神さまに似せて造られたわたしたちはイエス・キリストを与えられて救われました。さらに聖霊を与えられて、イエス・キリストの証人となることが約束されています。


アーメン。心から感謝しました。

*青字、赤字がM姉の語られたこと、*緑字が聖書の言葉。*茶色字がわたしの感想、付け足しです。




もうつぶやかない

2008-07-21 17:30:28 | 教会

18日に都内の実家へ行って泊り、翌日クリスチャン・ペンクラブの例会に参加して土浦に戻ってきました。

昨日は小学科礼拝のメッセージの担当だったので、行き帰りの電車も眠らずに準備していました。
日曜の午後は賛美練習、父母懇談会、夏期学校の準備があって、帰宅したのは5時でした。さすがに夕べは疲れてふらふらでした。

小学科のメッセージ箇所は創世記のアブラハムのところです。アブラハムについては、ちょうど去年の今ごろOBIでアブラハムに教えられたこと25項目を書いたリポートを提出していました。

聖書を必死に読んで、2か月も書かかって仕上げたのでした。それなのに1年たった今、内容は半分も覚えていませんでした。もういちど読んで、約束を成就して下さる神様の力を改めて感じて強められました。

 メッセージの準備をするのは大変ですが、大きな恵みをいただきます。恐れを抱いていた時、「アブラハムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。(創世記15:1)」という聖書の言葉が自分に向けて語られた気がしてはっとしました。
「文香よ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。」

神様は、アブラハムに「あなたの子孫を数えきれないほど増やして、カナンの土地を与える」と約束してくださいます。でも、アブラハムとサラの間になかなか子ができません。高齢になってきたアブラハムは心配で悶々としていました。そのようなアブラハムに神様が「アブラハムよ、恐れるな。・・・・・」と言ったのです。


礼拝では、「呟かないように」というメッセージを聞き、振り返って、今までどれだけ呟いてきたかと大いに反省しました。物事がうまくいかないとき。自分の思い通りにならないとき、つい呟いてしまいます。
神様は全知全能ですから、その呟きも聞いておられるのです。

「呟きではなく祈りを」と牧師先生が言われました。
そうです。祈ればいいのですね。どんな小さき者の祈りでも聞いて下さる神様。そして、応答して下さる神様。とりなしの祈りによって神様はご計画を変更して下さることもあるのです。
「言葉は人を慰め、人を生かし、神を動かす」と聞きました。

逆を考えると、呟きやののしりの言葉は人を傷つけ、人を殺し、神を嘆かせると言えるでしょう。わたしは、言葉を紡いで書くことをライフワークとしています。呟きや悪い言葉ではなく、人を慰め生かす言葉を書き綴っていきたいです。

聖書について(その5)

2008-07-17 17:34:15 | 聖書から

聖書について著名人が言った言葉を紹介します。聖書観がうかがえる言葉です。


アブラハム・リンカーン


聖書は神が人間に賜った最もすばらしい贈り物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている。


マルチン・ルター


聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである。          

ナポレオン・ボナバルト

聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。


ウォルフガング・フォン・ゲーテ

私が獄につながれ、ただ一冊の書物を持ちこむことを許されるとしたら、私は聖書を選びます。


アイザック・ニュートン

いかなる世界の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存在する。


「それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」
と言ったナポレオンの言葉はすごいですね。確かに、聖書の言葉には、人の生き方、考え方を転換させる力があります。

ゲーテのいうように、獄につながれたり、無人島に流れ着いたとき持っていきたい書物のナンバー1が聖書なのだそうです。わたしも無人島に行くなら、ためらいなく聖書を選びます。


さて、わたしにとって聖書とは何でしょうか?たとえていうと処方箋です。

病気の人は、なんとか病気が治るように願い、処方箋にしたがって調合された薬を飲みますが、病気とは無縁で健康な人は薬を飲みません。

しかしながら、健康を自負する人でも魂の病気にかかっていることがあります。それは心の病という意味ではありません。

罪のために魂が滅びの道へまっしぐらにすすんでいるのですが、気づかない人が多いのです。

生まれながらの人間は罪をもっているので、だれもが病人だといえます。
でも、それは治療することができます。聖書という処方箋に従って、イエス・キリストという薬をいただけば、どんなに重い魂の病気でも治していただけるのです。

わたしは癌患者であり、喘息という持病もあるので毎日欠かさず薬を飲んでいます。でも、その薬は100%効くとは限りません。

魂のためにわたしは聖書を毎日読んでいます。そして聖書からイエス・キリストを毎日いただいています。キリストという薬は完全で100パーセント効果があります。

肉体の病より恐ろしい魂の病を治していただける幸いを感じています。




「聖書について」は一応今回で終わります。一応といったのは、まだまだ書き足りない気がするからです。勉強不足なので、もう少し学んでから書きます。

明日から実家に行ってきます。

聖書について(その4)

2008-07-16 16:38:22 | 聖書から

今日は旧約聖書の編集について書きます。
旧約聖書はマラキ書で終っており、そのあとすぐ新約聖書になります。その間に400年近くの時が流れていて、その時代は中間時代と呼ばれています。その時代は預言者(神様の言葉を語る人)がいなかったとはいえ、何の記録も残されていないのは不思議なほどです。しかし、この中間時代に旧約聖書が編集されたのだそうです。

捕囚の憂き目にあって、ユダヤの人々は自分たちの罪を認め、悔い改めました。祭司階級の人もバビロンに連れていかれましたが、そこでは割合自由に生活できていたそうです。祭儀の仕事がなくなったので、祭司たちは異国の地で聖書を書き写したり、編集をしました。

異国で暮らすうちユダヤ人の日常言語がへブル語からアラム語になったため、へブル語は文語として固定化されました。そのことが聖書の言葉を普遍的なものとすることになりました。

ひとくちに編集といっても膨大な書物ですから、大変な作業です。正典に入れる物とそうでない物はどのようにして決められたのか。モーセ5書(創世記から申命記まで)はBC200年に正典化されたことはわかっていますが、その他はどのようにして決定したのか、いっさいの記録が残っていないのでわかりません。
エドワード・ヤングは、「最終的に正典として認めたのは聖霊である」と言ったそうです。

いずれにしても、預言者がいない暗黒の時代にあって、人々は聖書を通して神様の御旨(みむね)を求めるようになりました。そのため旧約聖書の編集がすすんだと考えられます。

聖書編集がなされるために神様は暗黒の時代を与えて下さったのではないでしょうか。でも、そのことは、ずっと後になってわかるものですね。


今、つらい時期にある方がおられたら、絶望することのないようにと願います。どんな事柄の中にも神様の計らいがあるのだということ。その計らいは、あなたを幸せにするためのものだということを信じていただきたいです。

ほほえみながら

2008-07-13 22:32:52 | 教会

*ブックマークに新しいリンク先を2つ追加しました。
「神様の領域」と希望の風さんの「聖書の緑風」です。「神様の領域」には希望の風さん作品紹介のページがあります。ぜひご覧ください。


ヒックンが風邪をひいたので明日預かることになりました。ヒックンがいるとパソコンが全くできないので、今日もうひとつ記事をアップします。


教会学校で4年生の男の子から「ぼくのことを造ってくれた神様のことを思って生活したい」と書かれたプリントを受け取って涙が出るほど感動しています。
「天地を造られた神様が、わたしたちのことも造ってくださって、愛してくださっている」と聞いて、素直な心でそのように決心したのでしょう。わたしも見習いたいです。


 礼拝では、「主を試みないように」というメッセージでした。


私たちは、さらに、彼らの中にある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。(Ⅰコリント10:9)


「主を試みる」というのは、①神様の善意を疑うこと。②神様の力を疑うこと③神様を信頼しないこと。です。

イスラエルの民はエジプトで奴隷として辛い生活を送っていました。神様は民のうめき声を聞かれ、助け出して約束の地に導いてくださいました。約束の地に着いたとき、民はそこに強そうな人々が住んでいることを知って絶望し、神様の善意を疑いました。エジプトから助け出されるとき数々の奇跡が起きたのに、神様の力を疑いました。全能の神を信頼できませんでした。
神様は、赦し、平安、癒し、慰めなどあらゆる良きものをわたしたちに与えようとしているのに、少しの困難があると神様を疑ってしまうことがあります。常識にとらわれ、神様の不思議が見えなくなってしまうことがあります。


神様の不思議を見ることが神様を信頼することです
と聞きました。


「神様の善意を信じぬいて、ほほえみながら生涯を終えることができたらどんなに良いでしょう。」
と牧師先生が言われるのを聞いて、わたしもそうありたいと強く願いました。

ブルーベリージャム作りました

2008-07-13 22:10:42 | 日記

創作のため更新が滞るかもしれないと書きながら、今日もブログを書いています。

おいしいブルーベリージャムができましたので作り方を紹介します。
ブルーベリー 500g
砂糖     200g
レモン汁   半個分
*クッキングワイン 小さじ2
*粉寒天    2g
 *は、なくてもかまいません。粉寒天は少し硬めにしたかったから入れました。   
 この分量でジャムの瓶3本半できます。半分の量で作っても大丈夫です。

 1、ブルーベリーは水洗いして水気を切らずにステンレスかホーローの鍋に入 れ、弱火にかける。
 
 2、沸騰してきたら、砂糖、レモン汁、クッキングワインを入れ火を少し強め る。
 
 3、中火で焦がさないように煮詰めてアクを取り除く。
 
 4、10-30分煮詰めて、粉寒天を入れる場合は最後に入れて、1-2分してから火を止めてさます。(つぶつぶを残したい場合は10分ほど煮るだけでよいそうで  す。わたしは40分も煮てしまったので、写真のように滑らかな感じになりました)
  
 5、瓶は洗ってからレンジで1-2分加熱して水分をとばし、ジャムを入れて冷蔵庫で保存します。

なぜ桜は春に咲くの?

2008-07-12 17:56:53 | CS(子供伝道)

今日は主人と娘の3人で常総市のハーブハーモニーガーデンへ行ってブルーベリー摘みをしてきました。食べながら摘んでいきましたが、甘酸っぱくてとてもおいしです。ゆっくり出かけたので、摘んだのは午後2時ごろでした。カンカン照りで、熱中症になるのではないかと思われるほど暑かったです。わたしはクラクラしてきたので急いで摘んで日陰で休んでいました。主人と娘は一粒づつ選んで摘んでいました。
3パックも摘んだので、これからジャムを作ろうと思っています。


教会学校の準備をしていて神様の恵みを受け取りましたので、そのことを書きます。

わたしは教会学校で小学4年生を受け持っています。
4年生は毎週13-14人の子どもたちが集まってきますが、分級ではひとりひとりと個人的な話しをする時間がありません。子どもたちとコンタクトを深めたくて「思っていることや。質問があったら書いてみよう」と書いたプリントを毎週配っています。

教師が交代で子どもたちの書いたものにお返事を書いて1週間後に返します。最近返事を書くのが楽しみになっています。
娘にその話をすると「質問の答えより、どんな質問が出たかが大切だから、それを忘れないようにね」と言われました。


「質問の答えは調べれば必ず出てくるけれど、質問を思いつくことは難しいでしょ。なぜ桜は春に咲くの?という質問、大人はしないよね。大人になると春に桜が咲くのが当たり前だと思ってしまうからね。「なぜ?」って疑問に思う子どもの感性は、尊いと思う」

と言うのを聞いてなるほどと教えられました。


その中のひとつを紹介します。

質問
なぜ桜は春に咲くの?

答え
桜の木は、前の年の夏、つまり桜の花が散ってから3ヶ月後くらいに、もう次の花のもととなる「花芽」(はなめ)を作ります。でも、この花芽はいったん眠ってしまそうです。そして、気温が低い状態がしばらく続くと目をさまして育ちはじめ、春が来てどんどん温度があがっていくと、いっせいに咲くというしくみです。冬が暖かいと開花が遅れるそうです。

桜が咲くには冬の寒さと、春の暖かさの両方が必要なのですね。神様は、わたしたちが成長していくためにもつらいことと嬉しいことの両方を与えて下さるのですね。


出版記念会に招かれて

2008-07-10 12:03:43 | 日記

昨日は茨城児童文学の会の仲間の出版記念会に招かれて日立まで行ってきました。写真は日立駅前です。
出版された本を改めて読ませていただいて、どれだけのご苦労があったことかと思いました。お母様の介護をしながら加筆校正されたと聞いて、頭の下がる思いでした。多くの子どもたちに読んでもらいたいです。

かつて「青い星」の同人だった方々と久し振りの再会を喜びました。また、電車での往復のおしゃべりも楽しく(往復3時間かかりました)、大いに刺激を受けました。創作意欲がわいてきて、9月に行う合宿に「作品を提出します」と宣言してしまったのですが、実は書き上げられるかどうか全く自信がありません。

8月末までに200枚ぐらいの長編(現在7割くらい書けたところです)を書きあげなくてはなりませんので、ブログの更新が滞ることがあるかもしれません。その時は創作していると思ってくださいね。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ブックマークにありますのでぜひご覧ください。


最善の治療法

2008-07-08 12:38:37 | 乳癌

昨日は病院でしたが、珍しく待ち時間が1時間以内でみていただけました。今回は検査なしで、問診と薬をいただきました。

「あと5か月で5年ですね」と言われて感慨深くうなずきました。
5年は長かったでしょうか? 最初の2年ぐらいはとても長く感じました。そのあとはあっと言う間という感じです。

薬ノルバデックスからやっと卒業できるのですが、その後5年間別の薬を飲むことをお勧めしますと言われました。

「リンパに4つも悪い物が見つかったのですから、今なら強い抗がん剤治療をするところですが、あなたはそれを受けていません。今まで再発転移がなかったのは、ホルモン剤がよく効くタイプの癌だったからですね。まだまだ安心できないので、リスクを下げるため飲んでください」と言われました。

医師の言われるとおり、わたしは点滴による抗がん剤治療を受けていません。当時乳がん手術を執刀して下さった医師に放射線と化学療法だけでよいと言われたからです。
いまさら考えてもしかたのないことですが、本当は受けるべきだったのでは……と心が揺らぎました。当時は選択の余地も、疑う余地もなく、髪の毛が抜けるような治療をしなくてすんでよかったと単純に喜んでいたのでした。

癌の治療法は日に日に変化していますし、医師によって方法、考え方が違うのですからなんとも言えませんが、前の医師はリンパ転移のことをたいしたことではないと言い、フルツロンを飲んで白血球の値が下がったことは最後まで認めませんでした。

わたしは本やインターネットで調べて、リンパ転移の危険性を知り愕然としたのですが、今に至るまで再発転移がないので、最近はたいしたことではなかったのかもしれないという気持ちになっていました。
やはり、たいしたことだったのですね。緊張で身が引き締まる思いがしました。

最善の治療を受けたとしても、癌が進行して死にいたってしまう方もいます。わたしの受けた治療が医学的にみて最善だったかどうかわかりませんが、神様はいつも最善をなして下さるのです。
再発転移しても、死に至っても、それがわたしにとっての最善です。

今まで元気で生かされてきたことがどれだけ感謝なことか改めて実感しました。そして今、健康が支えられているのですから、神様の栄光を現わすために時間を捧げていきたいと思うのです。


にほんブログ村 病気ブログへ

聖書について(その3)

2008-07-07 11:28:08 | 聖書から

不思議なことがありました。
ブログに聖書についての記事を書こうとしていたら、OBIのDVD講義で旧約聖書が編集されたときのことを学ぶことになり、CSのメッセージを準備するために開いた教案誌にも聖書について書かれていました。今日は、午後から病院で忙しいのですが、書かずにはいられないという気持ちになりました。


聖書はもともと巻物に記されていました。印刷機もコピー機もなかった時代ですから、人の手によって書き写されてきました。原本は地球上に残ってないそうです。
書き写すといっても、人の手によれば誤写が必ずあります。誤写を防ぐため、様々な工夫がされたそうです。字数を数えたり、同じ単語がいくつあるか数えたり……。
 
1947年に20世紀最大といわれた大発見がありました。ユダの荒野にある洞窟の中で、羊飼いの少年が羊皮紙に書かれた7巻の書物を発見したのです。これが「死海写本」です。BC・2世紀から1世紀にかけての写本であり、特に旧約聖書の一つ「イザヤ書」は、完全な形で発見されました。

死海写本は、それまでいちばん古いとされていた中世のマソラ学者(ヘブル語旧約聖書本文の学問的伝承に従事した人々)によって筆写された「レニングラード写本」より1000年も古い物です。それと比較してみると、99%あっていたそうです。違っていたのは、二つの単語がひとつにつながってしまった箇所くらいでした。

ユダヤ人の学者がどれだけ努力して正確に書き写してきたかがわかります。学者たちのなかに『霊感によって書かれた聖書を変えてはいけない』という思いがあったからそれができたのだと聞いてその姿勢に頭が下がりました。
死海文書の発見は、聖書の信憑性を裏付ける有力な証拠となったわけです。

何年か前に日本で死海写本が公開されました。そのとき、教会の友人に見に行こうとさそわれたのですが、用事ができて断ってしまいました。どうしても見たいという思いもなかったのです。
今ならなんとしても見てみたいという気持ちです。

世界一の臆病者

2008-07-05 09:00:38 | 
世界一の臆病者


犬におびえ、虫におびえ、人におびえ、
病におびえ、地震雷におびえ、親におびえて生きていた
誰かに助けを求めたくて、
誰に求めたらいいかわからなくて
頼れる誰かを探していた

失敗におびえ、いじめにおびえ、裏切りにおびえ
注目におびえ、傷つくことにおびえ、明日におびえてふるえてた
誰かを信じて安心したくて
でも、誰も信じられなくて
信頼できる誰かを求めていた

長くつらい冬が過ぎたとき、求めているおかたに出会った。
わたしはそのかたのことを知らなかったのに
出会ったとき、なつかしいと思った
そのかたは遠い昔からわたしを知っていた
そのかたはわたしが生まれることを
世界の基ができる前から計画していたと言った
そのかたに出会って
世界一臆病なわたしは、勇気ある者となった

栄光の主

2008-07-04 14:00:52 | 

今週の日曜の礼拝で聞いたD・R先生のメッセージに心打たれました。
感動で胸がいっぱいになり、すぐには書けませんでした。
今週中に書かないと忘れてしまいそうなので一部紹介させていただきます。


ヨハネの福音書17章に書かれているのはイエス様の祈りの言葉です。イエス様が十字架につけられる前、逮捕される数分前に祈られた祈りです。
冒頭では「父よ。時がきました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」と祈っておられます。

『時がきました』というのは、イエス様が地上来られた目的が成就される時、つまり十字架につけられて死ぬ時が来ましたという意味です。
ここで注目したいのは、イエス様がご自分の栄光を父なる神に求めていることです。

もともとイエス様は栄光に包まれた姿で天におられました。地上に来られた時、栄光は失われ、無になった姿でした。(キリスト降誕の絵を見ると、赤ん坊のイエス様から光が放たれているように描かれているものがありますが、実際は光っていません)


「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6)」


地上におられるときのイエス様は、栄光が隠されており普通の人間の姿でした。でも、イエス様が十字架にかかってすべてのわざを成し遂げたのち、神様はイエス様に栄光を戻して下さいました。つまり、復活のイエス様は栄光のお姿なのです。

栄光に包まれたイエス様が今、わたしと共にいてくださる。そのことに気づかされて、熱い思いが湧きあがり、詩を書きました。



 栄光の主

一目でもいい
一目でもいいから
あなたの栄光のお姿を見てみたい

いま、友と祈っているから、きっと真ん中に立っておられるのですね
そっと目をあけてみようか

もしお姿をみたら、パウロのように目が見えなくなるのかな
それとも、ヨハネのように倒れてしまうのかも……

見なくてもいい
まぶたの裏に映っているから
見えなくてもいい
栄光に満ちたすばらしいおかたが
ぴったりと寄り添っておられることがわかったから

ほんの少しおすそ分け

2008-07-02 19:02:38 | 日記

祈祷会で、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からワーカーとしてネパールの病院に派遣されているN先生からお話を聞きました。
ネパールといえば、ヒマラヤ、高原地帯、と考えていましたが意外と平地が多いことを知りました。病院が少なく、とくに地方では病院へ行くまで何日もかかるそうです。道路は車が走れないのでたいていは病人を背負って運ぶそうです。背負い籠に入れられ、担がれている女のひとの写真が印象的でした。

人口10万人当たりの医師の数が、日本では198人ですが、ネパールでは21人。入院しても病院では食事が出ないため、鍋釜持参で来る人もいるそうです。
日本でいえば『おしん』の時代のように貧しいのですが、写真に写っている子どもたちの顔は生き生きとしていました。

JOCSからネパールに派遣され、結核・癩(らい)・マラリア・コレラ・天然痘・赤痢等の伝染病治療と予防、そして栄養改善のために働かれた故岩村昇氏の書かれた「共に生きるために」という本の中の一文を読んでいただきました。感動で胸が熱くなりましたので内容を紹介します。(聞き書きなので正確ではないかもしれません)


著者が地方を巡回している時、重い結核患者のお婆さんが倒れていました。入院治療が必要ですが、病院まで運んでくれる人がいません。困り果てている時、通りかかった青年がお婆さんを背負って3日もかけて運んでくれました。お礼を差し出すと、「金儲けのためにしたのではありません。ともに生きるためにしたのです。自分に余っている体力をお婆さんにほんの少しおすそ分けしただけです」と言って受け取らず山へ帰っていきました。


ネパールの人たちは、物質的には貧しくても、心が豊かなのだなあと思いました。現代の日本で失われてしまったものを持っていますね。「時は金なり」の考えではなく、人のために時間や労力捧げて共に生きることを実践しているのです。

JOCSでは、貧しく弱い立場におかれた人々のために活動が行われています。古切手を送るとコレクターの方に買われ、一箱一万円になるそうです。使い損じのハガキや外国のお金なども換金されるそうです。今日から古切手を集めることにしました。
JOCSのHPに送り先などが書かれています。

拍手ボタンです

web拍手