先週の礼拝メッセージは、Ⅰコリント人への手紙10:23、24からクリスチャンの倫理は自由に基づく選択であり、その選択の動機はキリストへの愛ということでした。
今週のメッセージでは、いっさいのものを造られた大いなる神様について語られました。
Ⅰコリント10:25には
[市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。]
と書かれています。
良心の問題というのは、宗教的問題という意味です。宗教上汚れている肉かどうか心配しないでということです。(値段、栄養、健康、などについては考えないといけませんね。とくに食の安全がおびやかされている現代では…・・・)
理由が26節に書かれています。
[地とそれに満ちているものは主のものだからです。]
神様は天地万物を造られたので、いっさいが主のものなのです。
天は神の栄光を語り告げ、
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、
夜は夜へ、知識を示す。
話しもなく、ことばもなく、
その声も聞かれない。(詩編19:1-3)
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この詩篇を読むと、神様が壮大なスケールでせまってきます。
天と地、地に満ちているものすべてを神様が造られたと思うと感激します。大自然や色々な種類の動植物を見ると、どれほど科学が進歩しても人間では決して造り出すことができないものだなあと思います。
たとえ人が新しい生命を造ることができても、何もないところから創造することはできません。一粒の種もひとかけらの細胞すら生み出すことはできないのです。でも、神様は何もないところから、ことばによって造られました。そして、神様の造られたものはみごとに調和しています。
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メッセージでは肉が偶像に捧げたものであると言われた場合どうするかについて語られました。もちろん、自由なので食べてもかまわないのですが、パウロ先生は弱い心を持つ人を傷つけないように配慮して食べてはいけないと言っています。(Ⅰコリント10:28)
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わたしが乳がんの手術を受け、退院して間もないころのことです。妹が再発を心配して乳がんによいという水をわざわざ富山県まで行ってくんできてくれました。18リットル入りのポリ容器を8個も持ってきてくれました。
涙が出るほどありがたく、さっそく朝夕に飲みました。しばらくして妹が、実はその水をくんだとき、祈祷してもらったのだと言いました。祈祷された霊水だから、きっと再発しないよと言われたとき『どうしよう』と思いました。
まさに偶像に捧げた肉ですね。でも、妹がわたしの体を心配して片道5時間もかけてくんできた水を「いらない」とは言えません。わたしは、「天地を造られた唯一の神様を信じているから、水に霊的な力があるとは思っていないの。でも、富山の谷川の水は成分もいいのでしょう。とてもおいしいから、きっと体にいいのだと思う。わざわざくみにいってくれ、重いのに運んでくれて有難う。次回からは祈祷はしてもらわなくていいからね」
と言って飲み続けました。妹は気を悪くすることもなく、その後5回もくみにいってくれました。