生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

今年の暗唱聖句大会

2010-02-28 16:48:07 | CS(子供伝道)

昨日は、JCP童話とエッセイの会で御茶ノ水まで行ってきました。9名の出席者全員が作品を提出して、2時間で9作品の合評を行いました。「橋」というテーマで書かれた、エッセイや小説、童話などです。力作ばかりで圧倒されました。


今日は、教会学校の暗唱聖句大会でした。1か月前から暗唱する聖句(聖書の言葉)の書かれたプリントを配り、覚えるようにすすめていました。
分級(学年ごとのクラス)では、聖句の意味を教えたり、パズルをしたりして意欲を盛り上げ、この日に備えてきました。

最初は、個人賞のⅠコリント13章(2/18の記事に書いています)の発表です。覚えてきた子どもは、正しく言えるかどうか教師に聞いてもらいます。
今年は5年生と2年生の姉弟が完璧に覚えてきました。校長賞として来週レストランで昼食(好きなもの)を校長先生に御馳走していただくことになりました。うらやましい~。

次にグループに分かれて2つのゲームをしました。グループは1-6年縦割りです。あらかじめグループ分けをしておき、朝、教会にきたときにグループの色のリボンのたすきをつけます。
今年は分級で暗唱できた聖句の数もポイントとしてチームの得点に加えることにしました。

最初のゲームは、「アメとり早押しクイズ」です。教師が聖書箇所を言って、子どもたちは隣の部屋に置かれているお菓子をひとつとってきます。戻ってきた子どもの中でいちばんにベルを押し、聖句が言えたら、得点になります。

覚えていない子どもは、隣の部屋に聖句の書かれている紙が貼ってあるので、それを見てもいいことになっています。

次のゲームは、「聖句並べクイズ」です。聖書個所の書かれた画用紙をグループごとに配り、その画用紙にばらばらになった聖句を正しく並べて貼っていきます。ばらばらの聖句は隣の部屋にあるので、自分のチームの色の聖句を探して取ってきます。聖句を取ってくる子どもと、並べる子どもと手分けし、協力しないとうまくいきません。優勝したグループはグループ賞としてお菓子をいいただきました。
覚えてこなかった子どもでも楽しめたのでよかったです。

暗唱聖句大会はこれで終わりではなく、今度の日曜日まで校長賞をもらえるチャンスがあります。「食事に行くより、早く帰ってテレビゲームしたほうがいいよ」と言う子ども。
「よーし、覚えてくるぞ!」と張り切っている子ども。それぞれですが、ひとつでも多くの聖句を心に蓄えてほしいなあと思いました。


暗唱聖句大会の課題で25個の聖句がありましたが、その中でわたしが特に気に入っている2つの聖句を紹介します。

わたしは、わたしを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

教会学校の奏楽で弾けない曲があると、この聖句を言って練習しました。100回ぐらい練習するうちに不思議にリズムがわかってきて弾けるようになります。

小説を書いていて行き詰ったときもこの聖句を言うと、書き続ける力が与えられます。


キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ3:16)

 
キリストの言葉を心に住まわせると、感謝にあふれて賛美したくなります。
もっとたくさんの聖句を住まわせたいと思っています。



判決は無罪です

2010-02-25 11:34:06 | 教会

急に暖かくなりました。昨日、いつものように防寒セット(マフラー、手袋、帽子)をつけて自転車で教会に行くと、着いた時には汗をかいていました。今日はもっと気温が上がるそうです。
また寒さが後もどりする日もあるでしょうけれど、ようやく春になった実感がして喜びがあふれてきます。

春といえばイースター(復活祭)が待ち遠しいです。

イエス・キリストが十字架にかかったことは信じるけれど、復活は信じられないという人は多いですね。
30年ぐらい前になりますが、友人と劇団四季のミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を観に行きました。教会へ行き始めたころだったと思います。
イエスを青年として描き、スーパースターとして祭り上げられたのですが、最後は十字架で死を遂げるという内容だったと思います。
物語はイエスの死で終わっていました。

「なぜ復活がないの?」と思いました。
「これで劇が終わってしまうなんて・・・。イエスさまは復活されたのに」
と、ショックでした。楽屋に乗り込んで、復活まで演じて下さいと言いに行きたい衝動にかられました。

当時の私はまだ洗礼は受けていませんでした。十字架の意味もよくわかっていませんでした。でも、イエス・キリストが死んでからよみがえったことは素直に受け入れていたようです。


昨日、水曜礼拝でイスラム教について学びました。イスラム教の神様はAllah(アッラー)ですが、それはキリスト教の神観と共通しています。コーランは聖書の内容を含んでいます。旧約聖書だけでなく福音書も含まれていると聞いて驚きました。でも、パウロの手紙は入っていないそうです。

イスラム教では、イエス様は預言者のひとりで、神の子ではありません。なので、十字架の死の事実は認めても復活は認めないそうです。

イエス様の復活は、十字架の死がわたしたちの身代わりだったこと。十字架の死によってわたしたちの罪が赦され、義とされたことの証拠です。
イエス様の復活を認めないということは、罪の赦しがない。つまり、救いがないということです。
 

日曜の礼拝メッセージでは、裁判を例にしてキリストによる救いの意味が語られました。
神様が裁判長で被告は人類です。判決は死刑。

(わたしたちは、律法を守り通すことができないのでみんな罪人です。「罪から来る報酬は死です。(ローマ 6:23)」と聖書に書かれているので、死という裁きが待っています)


当然人類は死刑になるところでしたが、裁判長は人類に刑を下さず、裁判長の一人息子に刑が施行されました。そのため、人類は無罪になりました。
裁判長の一人息子とは、イエス様のことです。


「こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」

という素晴らしいニュースをパウロはいのちがけで伝えて歩きました。


わたしも大きな声で叫びたいです。
「イエス様は確かによみがえったのです。だから、イエス様のおかげでわたしたちは無罪になったんですよ! ハレルヤ!」


祈れないとき(その2)

2010-02-22 12:16:35 | 聖書から
前回の続き、家庭集会での学びから書いています。


神様は、律法(モーセの十戒)を示し、わたしたちにそれを守るように言われました。
神様は、わたしたちが律法を守れば、祝福を与えて下さると約束してくださいました。

十戒の内容は出エジプト記20章に書かれています。
十戒には「あなたの父と母を敬え。」「殺してはならない。」「自分のために偶像を作ってはならない。」「すべてあなたの隣人のものをほしがってはならない。」などがあります。

『あの人なんか、いなくなればいいのに』と思ったら、それは人殺しと同じ罪ですし、神様より夢中になるものがあったら、それは偶像を作っていることになります。また、ほかの人のものをうらやましく思う気持ちも罪です。

そう考えると、律法を守り通すことができない自分に気づきます。それで身もだえするのですが、「神の前にあって、自分は罪人であることを告白することも律法を守り行うことの中に入っている」と牧師先生が言われました。

ダビデのように問題を抱えたまま神の前に静まり、心のうちを神様に吐露し、すべてをゆだねて神様による解決を待つことが大切だと教えていただきました。

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主があなたのことを心配してくださる。
主は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩編55編 22節)



【『ゆだねる』の本来の意味は『放り投げる』ことで、思い煩いや恐怖感をそのまま全宇宙の支配者である方の御前に差し出すことです。「あなたのみこころのままに」と祈る前に混乱した感情を正直にあるがままに注ぎ出す必要があるのではないでしょうか。

それに続く「主は、あなたのことを心配してくださる。」とは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、重荷を取り去ることでなく、重荷や思い煩いを抱えたままのあなたを支えることだからです。】


(【】で囲んでいる文章は百万人の福音に掲載された文章です)

神様に重荷を丸投げしていいのです。
こんなにダメでみじめなわたしのことを心配し、支えて下さる神様がおられることを知って、喜びが湧き上がってきました。

祈れないとき(その1)

2010-02-20 17:42:55 | 聖書から

今日は教会で教育講演会があって、託児の奉仕に出かけました。

昨日はOさん宅での家庭集会でした。
百万人の福音(いのちのことば社)の記事から、祈れないときどのようにしたらよいか教えていただきました。
(【】で囲んでいる文章が百万人の福音に掲載されたものです)


悩みがあまりにも深くて祈れないときがあります。
「神様、助けてください」と祈るのが精いっぱいなときがあります。

不安に押しつぶされそうになったとき、怒りと憎しみが湧き上がり、どうすることもできないとき・・・。

そんなとき、以前は祈れませんでした。憎しみを抑え、心を整えてからでないと神様の前に出られないと思っていたからです。

ところが、心に湧き上がった感情を自分で抑えようとすると、かえって混乱することがあるそうです。

【不安や怒りを押し殺してばかりいると、不機嫌を撒き散らしたり、自分を責めて鬱状態になったりする。】


詩篇55編を読むと、ダビデ(作者)が不安と恐れの真っただ中にいることがわかります。


神よ。私の祈りを耳に入れ、
私の切なる願いから身を隠さないでください。(1節)
私に御心を留め、私に答えてください。
私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。(2節)
  ……
私の心はうちにもだえ、
死の恐怖が私を襲っています。(4節)
恐れとおののきが私に臨み、
戦慄が私を包みました。(5節)


ダビデは心の内にあるすべての思いを吐露し、不安をそのまま訴えています。
ダビデは、同輩や友に裏切られました。その憎しみを神様に訴えています。

死が彼らをつかめばよい。
彼らが生きたまま、よみにくだるがよい。
悪が彼らの住まいの中、彼らのただ中にあるから。(15節)


「あなたの敵を愛しなさい」とイエス様は言われるのに、なぜこんなことが聖書に書かれているの? と疑問に思ったこともありました。
詩篇には他にもたくさん敵をのろう言葉が出てきます。


【詩編は学ぶ対象としてよりは、声に出して読むべき祈りの書ではないかと思わされています。そこに理屈を超えた変化が生まれるからです。】


詩篇を教えではなく、祈りだと考えると、読んでいるうちに自分のかかえている問題が小さくなっていくような気がします。涙を流して読みながら癒されていくのです。

これからは、祈れないときは詩篇を読もうと思いました。

            つづく

わたしの理想

2010-02-18 11:25:16 | 聖書から

朝起きると雪が積もっていました。北国に住む方は、これくらいは積もったうちには入らないのでしょうが……。降っているので、もっと積もったら車が大変と心配になりました。
ニュースをつけると、「関東地方は茨城県を中心に雪が降っています。」といっていました。
慎重派の主人は、車ではなくバスで出勤していきました。今はもう雪はやんでいます。


わたしは、子どものころ、自分がこんな人になりたいという理想を描いていました。
明るく積極的で決断力があり、聡明で皆から愛される人。大体こんな感じの理想です。
実際の自分は……というと、正反対で、暗く消極的で決断力に欠け、愚かで皆から嫌われる人(実際は嫌われていた、というより存在感のない子どもでした)

理想と現実とのギャップに苦しみ、どう逆立ちしても理想に近づくことさえできないことを知り、自己嫌悪に陥るのでした。

理想に近づくために努力しなければならないのだったら、絶望するしかありません。どんなに努力しても無理だからです。

でも、自分の力で理想に近づくのは不可能だと降参して神様に自分を変えていただくように願った時、それは可能になります。だから、理想は高いほうがいいと思います。
今のわたしの理想は、以下の聖書の言葉に表された言葉に示されています。


愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


愛の章ともいわれるⅠコリント13章からの言葉です。
教会学校の今年の暗唱聖句大会の課題にもなっています。

愛の代わりに自分の名を入れて読むと、とても無理だということがわかってつらくなります。
でも、「神は愛です(ヨハネ4:16)」と聖書に書かれていますので、愛を神様と置き換えて読むとどうでしょうか……。神様の素晴らしさに圧倒されます。

まさに神様はこのようなお方だからです。神様は御子イエス・キリストによってこの愛を示してくださいました。こんなに素晴らしい愛が存在することに感動です。

榎本保郎先生の本(旧約聖書一日一章)に「神の言葉は、人間の言葉でないから、わたしたちの判断力や能力をこえたものである。自分の状況とか能力にふさわしいものとは限らない。だから神の言葉を聞く者にとっては恐れが生じてくる。自分の可能性を超えたものだからである。躊躇するのである。」と書かれています。

わたしも初めて愛の章を読んだとき、躊躇しました。でも、『努力してこのような愛の心を持ちましょう』というわけではないので躊躇することはないのです。

これを理想として、いつかはこのように変えていただけると信じて歩んでいきたいです。

ブタを育てるトラ

2010-02-16 12:37:25 | 日記
先日、ホームページクイズに答えてくださった方にさしあげたとっておきの画像の一枚を紹介します。宣教師の先生から贈られたものを転送していただいた画像です。


6年ほど前のことです。カリフォルニアの動物園でメスのトラが3匹の赤ちゃんを産みました。ところが早産で、赤ちゃんは三匹とも死んでしまいました。

お母さんトラは産後順調に回復したのですが、ある時からみるみる衰弱していったそうです。何度検査しても病気の原因はわかりませんでした。

獣医たちは、母トラが子を失った悲しさによる精神的なうつ状態になっているのではないかと考えました。
 
他のトラの赤ちゃんを借りて育てさせようとしたのですが、国内の動物園には、ちょうど良い赤ちゃんトラがいませんでした。

そこで、獣医たちは生まれたばかりの赤ちゃんブタに、トラの皮の衣装を着せてうつ病の母トラの横に置いたそうです。

トラのお母さんはブタの赤ちゃんを熱心に育てだし、元気になったそうです。


「生かされて・・・土筆文香」のHPギャラリーの部屋には、他3枚のトラとブタの写真を掲載しています。

「詩の部屋」も更新しました。

ホームページクイズの答え

2010-02-13 15:58:06 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

ホームページクイズ(2/10の記事)楽しんでいただけたでしょうか? 解答を寄せてくださった方々。ありがとうございました。

正解をお知らせします。

①の答えは3:深浦海岸の岩山


去年、娘が白神山地へ旅行に行ったとき撮ったものです。青森県深浦海岸の山ですが、ちょっと外国の山の感じがしますね。ヘルモン山のイメージで載せました。(実際のヘルモン山とはずいぶん違うようですが・・・)
ヘルモン山とはシリア・レバノン・イスラエルの国境にあり、変貌されたイエス様が、モーセとエリヤと話していた山といわれています。

トップになぜ岩山の写真を選んだのか? というと、イエス様の弟子ペテロを思い浮かべたからです。ペテロは「岩」という意味です。
イエス様に「あなたがたは、わたしをだれだといいますか」と尋ねられて、ペテロは「あなたは、生ける神の御子(みこ)キリストです」と答え、イエス様にほめられています。(マタイ16:15-19)

キリストというのは『救い主』という意味です。つまり、ペテロは『イエスさまこそ生きておられる本当の神様の子どもで、わたしの救い主です』という信仰告白をしているのです。
イエスさまは「このことをあなたに明らかに示したのは、人間ではなく天にいますわたしの父です」「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上に教会を建てます」と言われました。

岩のように固い信仰を土台として文章を綴っていく・・・「文は信なり」をモットーとしているJCPにふさわしいと思いました。


②の答えは2:十二湖 青池

これも青森で娘が撮ってきました。

③は3:出版物

わたしの毎日の散歩コース桜川です。今年のお正月にわたしが撮りました。元の写真は左側に主人が凧あげをして、孫が見ている場面があったのですが、切り取りました。

④は3:リンク

先月末、読書会の食事会で上野に行きました。不忍池の水鳥です。2羽いたのですが1羽になってしまいました。


⑤は1:薄紫

ちなみに最初に作成した時は黒でした。

フリー素材のサイトにもいい画像がたくさんあるのですが、宗教関係は使用不可が多くて、結局個人で写した写真が使いやすいことに気づきました。この次のリニューアルまでにはもっといい写真を撮りたいと思います。


プリスカさん。画像差し上げます。JCPのメールフォームよりメールアドレスをお知らせくださいますか。

*わたしのHP、「生かされて・・・土筆文香」のINDEXページとトップページ3年ぶりにリニューアルしました。
これにはクイズ出しませんが、よろしければご覧ください。

生命の危機を救ったみことば

2010-02-12 12:21:37 | CS(子供伝道)

教会学校では、毎年2月第4日曜日に暗唱聖句大会をします。
1か月前から暗唱聖句を印刷したプリントを配って、子どもたちに覚えるようにすすめます。

今年はⅠコリント人への手紙13章と、25の聖句が課題です。
暗唱聖句大会では、学年を縦割りにしたグループを作り、ゲームをしてグループごとに競います。個人賞もあります。

わたしも当日までにはすべて覚えようと毎日暗唱していますが、記憶力が衰えているのでなかなか覚えられません。

25の聖句の中の一つに
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(ヤコブ1:21)」
というのがあります。

心に植えつけられたみことばによって生命の危機から救われることがあります。そのことを、数年前、暗唱聖句大会前の礼拝で子どもたちに話しました。そのメッセージ原稿が出てきましたので紹介します。


わたしは、宇宙が好きなので、今日はアポロ13号の話をします。これは、本当にあった話です。

1970年4月アポロ13号が打ち上げられ、月に向かっていました。打ち上げから55時間後、地球から33万キロメートルのところ、月まであと少しというところで酸素タンクが爆発してしまいました。

ヒューストン宇宙管理センターからの命令で、酸素のかくはんスイッチを押した途端爆発が起き、宇宙船内の酸素の半分以上なくなってしまったのです。

人間は酸素がないと息が吸えなくて死んでしまいますね。宇宙には酸素がないので、酸素タンクを宇宙船に積んで持っていくのですが、それが爆発してしまったのです。おまけに電気も残り少なくなってしまいました。

このままでは3人の飛行士たちは窒息して死んでしまうか、宇宙船の制御がきかなくなって、宇宙に放り出され、永遠に地球に戻れなくなってしまうかどちらかです。月着陸はとうていできません。
宇宙船の酸素の残りの量を示す目盛りがどんどん下がっていきます。

もし、あなたがこのときのアポロ13号に乗っていたらどうですか?
「あーどうしよう、もうだめだ!」とパニックになってしまいませんか?

3人の宇宙飛行士たちもあせりました。ひとりはスイッチを押した隊員に「どうしてそのスイッチを押したりしたんだ!」とどなりつけました。「おれのせいで爆発したとでも言いたいのか?」

喧嘩になりそうな2人にジム・ラベル船長は言いました。
「仲間割れはやめよう。ヒューストンからの指示でスイッチを押したんだ。わたしが指示を受けたら、わたしでも押していた。それより、落ち着こう。全能の父なる神さまがきっと助けて下さる。祈ろう」

宇宙飛行士3人ともクリスチャンでした。3人は心をあわせて祈りました。祈っているうちにひとりの飛行士の頭の中にアイデアが浮かびました。

「月着陸船を救命ボートがわりににしよう!」
アポロ13号は月へ着くことはありませんでしたが、飛行士達は月着陸船に乗り移りました。そこには3人が地球へ戻るときまでに必要な酸素が備えられていました。そして無事地球に戻って来ることができました。

もし、爆発が起きたときジム・ラベル船長がお祈りしようと言わなければ、3人は無事に地球に戻ることができなかったかもしれません。

どうしてジム・ラベル船長が落ち着いていられたかというと、聖書のみ言葉を心に蓄えていたからです。

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて下さいます(Ⅰコリント10-13)」

ジムラベル船長はこう言いました。


「どんなことでも決してあきらめてはいけない。神を信じ、神のうちに夢と希望を持ち続けよう。未来はあなたの手の中にある。神への祈りは必ずきかれる。だから、勇気を持ち続けよう。希望を失ってはいけない」


船長は、聖書の言葉に支えられていたので、あわてませんでした。人生を切り開く知恵は聖書の中にあります。船長は聖書の言葉を暗唱していました。だから、自分のことも、ほかの2人の飛行士のことも励ますことができました。

わたしは2003年12月に乳ガンの手術を受けることになりました。手術は全身麻酔をしなければならないのでこわいなあと思いました。アレルギーがあって、もしかしたら麻酔があわなくて死んでしまうかもしれなかったからです。

手術室に運ばれていくとき、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37)」という聖句を思い出して、
「そうだ。どんな中にあってもイエスさまがついていてくださるのだから、圧倒的な勝利者になれるんだ!」
と思い、安心して手術を受けられました。

このようなとき、聖書を開くことができません。アポロ13号の宇宙飛行士たちも、事故が起きたとき、聖書を出す暇がなかったと思います。人生、何が起こるかわかりません。

でも、心にみことばをたくさんたくわえていたら大丈夫です。これからもずっとみことばを覚えて下さい。


*前回のクイズ締め切りは明日正午までです。ふるってご参加ください。正解がなくても答えを書いてくださった方には景色や花、可愛い動物の画像をプレゼントします。


ホームページクイズ

2010-02-10 17:00:50 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

今日はHPの更新で疲れたので、ブレイクとしてクイズを出すことにしました。

わたしは、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の会員で、HPの管理人をさせてもらっています。HPは2004年11月に開設しました。以降、約1か月に一度会員の作品を掲載しています。

ホームページはHP作成ソフトを使わずに娘が作成しました。最初は、暗号のようなHTMLを見て、何がどうなっているのかまったくわかりませんでした。
マニュアルを見て少しずつ理解できるようになり、(まだ、わからないことの方が多いのですが……)毎月の更新は、以前ほど時間がかからなくなりました。

今回久々にリニューアルしたので、5つのクイズを出します。3つ以上の正解者にはJCPのメールフォームからメールアドレスをお知らせいただければ、とっておきの画像を差し上げますのでお楽しみに。

13日土曜日に正解をお知らせします。三択問題ですので、勘を働かせていただければ全問正解できますよ。コメント欄に答えを書いてくださいね。
*メールでもかまいません。JCPのメールフォームから。または、「生かされて・・・土筆文香」HPのメール欄にわたしのアドレスが書かれています。

まず、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHPをここをクリックしてご覧ください。


①最初のページ(INDEXページ)の山はどこの写真でしょう?
  1:ヘルモン山
  2:ヒマラヤ山脈
  3:深浦海岸の岩山

②【活動内容】のページの写真はどこで撮影したものでしょう?
  1:五色沼
  2:十二湖 青池
  3:尾瀬

③近所(土浦市)で撮った写真はどれでしょう
  1:ペンクラブの歌1
  2:小史
  3:出版物

④今年に入ってから、このブログにアップした写真を加工して用いています。どのページでしょう?
  1:JCPへのおさそい
  2:趣旨
  3:リンク

⑤今回はメニューの色など、緑色を基調として作りました。リニューアルする前は何色を基調としていたでしょう?
  1:薄紫
  2:黒
  3:茶

めぐみの理解

2010-02-08 12:08:48 | 教会

昨日は礼拝でホセア書から神様の熱い想いを語られたメッセージを聞きました。
*青字が牧師先生の言葉、緑字が聖書の言葉、茶色字がわたしの感想です。


エフライムよ。わたしはどうして
あなたを引き渡すことができようか。
イスラエルよ。どうして
あなたを見捨てることができようか。
どうしてわたしはあなたを
アデマのように引き渡すことができようか。
どうしてあなたをツェボイムのように
することができようか。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは燃える怒りで罰しない。
わたしは再びエフライムを滅ぼさない。
わたしは神であって、人ではなく、
あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。
わたしは怒りをもっては来ない。
(ホセア11:8~9)


エフライムとは、イスラエルのこと。アデマ、ツェボイムはソドム、ゴモラの町と一緒に滅ぼされた町の名です。
神様は、イスラエルを選び、救いを与えてくださいました。でも、イスラエルの民は罪を犯しました。神様は、その罪をそのままにしておくことはできないので罰しましたが、神様は、親が我が子を愛するように、いつくしみと慰めと愛を示してくださいました。
神様は、イスラエルがどんな罪を犯しても、イスラエルは神の選びの民であることは変わらないと言っています。

エフライム、イスラエルを自分に置き換えて読んでみると神様の愛が実感できます。


「神様の恵み」は最も理解できないものです。
と牧師先生が言われました。
果たして、わたしは正しく理解しているのでしょうか?


罪を犯してそれに気づいたとき、謝罪の祈りをします。ここまではいいのですが、そのあとで、「これからは、このようなことをしないように努力します」と祈ったとしたら、それは神様が望んでおられることではありません。
自分が努力して、自分の力で罪を犯さないようにするという決心は、高慢な思いです。

自分の力に頼り、自分の努力で何かができると思っていることが間違えだと気づき、自分の力ではどうにもならないと思って神様に全面降伏したとき謙遜になれます。

自分には自慢できることがあるけれど、それを人に言わず隠していることが謙遜だと思う人がいますが、それは「よく包装された高慢」
と聞いてドキッとしました。

人は、ほかの人の心の奥底まで見ることができません。信仰深い人、謙遜な人、と人から言われたとしても、本当は『見せかけの謙遜』という名の包装紙にくるまれた高慢な心を持っている者かもしれません。


ルカの福音書18章9~14節には、取税人とパリサイ人の祈りのたとえ話が書かれています。パリサイ人は自分が律法を守り、断食もし、献金もしていることを誇って祈っています。一方取税人は自分の胸をたたいて『神様、こんな罪人のわたしをあわれんでください』と祈っています。神様は取税人の祈りを義(正しいもの)と認めてくださいました。
この取税人のような祈りこそ謙遜な祈りなのです。

神の前で、これができる、あれができると思っていたら恵みはわかりません。
何もできないものを養ってくださる神様のいつくしみと慰めと愛がわかったとき、神様の恵みがわかるのだ
と聞いてその通りだと思いました。

わたしは先週一週間CSメッセージ準備をしていて悩んでいました。難しい箇所(マタイ16:13-20)で、自分の信仰が試され、心が探られるような思いをしました。どうやって子供に伝えたらいいのか……。とても自分の力ではできないと思いました。

「神様、わたしには語ることができません。どうか力を与えてください。私の知恵ではなく、神さまの力によって語れるようにしてください」と祈っていたのです。子どもたちの前で語った時、確かに神様が力を注いでくださっていることを感じました。そのあとで、礼拝メッセージを聞いたのでした。

わたしは、子どもたちにお話しをする資格のない者ですが、神様はそんなわたしを用いてくださっています。そのことが恵みだと思いました。

もうだめだと自分に絶望することがあっても、帰って行くところ(神様のふところ)があって感謝です。

風の日の子ども家庭集会

2010-02-06 20:40:12 | CS(子供伝道)

今日は月に一度の子ども家庭集会でした。Mちゃんの家に6人の子どもたちが集まりました。
Mちゃんの家には神学生とふたりで出かけています。天気の良いときは自転車で行くのですが、今日はあまりにも風が強かったので歩いていきました。教会から歩いて20分ほどですが、冷たい風に何度も押し戻されそうになりながら、坂をのぼっていきました。

子ども家庭集会では、賛美、聖書のお話、ゲームをします。
今回わたしはゲーム担当でした。一週間ほど前、空き箱を見ていて思いついたのが紙相撲でした。
インターネットで調べると、日本紙相撲協会というのがあって、大人たちが真剣にトントン紙相撲をやっている様子が紹介されていました。
お相撲さんの型紙がダウンロードできるサイトがあったので、画用紙に印刷して作りました。

相撲界では好ましくないことが起きていますが、紙相撲の世界は違います。
子どもたちは、まわしに色を塗り、力士にそれぞれ名前をつけて対戦しまた。のぼりも立て、応援も盛り上がって楽しく遊びました。

紙相撲で遊んだ後は、神学生がお祈りについてお話ししました。

「あなたがお祈りするとき、天の神様はお祈りを聞いてくださいます。うれしい時も悲しい時も、どんなときでも祈るように。自分のために、友達のために、知らない人のために、教会の先生のために祈るようにしましょう」
と話すと、みんな真剣に聞いていました。

「祈ってごらんよわかるから」という歌を賛美して、最後に誰かお祈りできる人いますか? とたずねると、1年生のAちゃんが手を挙げました。


「今日は6人のお友達が来ることができてありがとうございます。お祈りについてお話を聞きました。みんなが、お家でもお祈りができるようになりますように」

というAちゃんの祈りに胸が熱くなりました。

帰りはまだ北風がふいていましたが、風が温かく感じられました。

恵方巻き

2010-02-04 13:12:23 | 日記

お正月、実家へ行くときの電車でおもしろい会話が聞こえてきました。
「初詣に行ったら、境内でころんで救急車で運ばれた人を見たよ。あの神社はご利益(りやく)がないね」
「そうか。じゃあ、あの神社にお参りするのはやめよう」
本気で話していのを聞いて、わたしはくすっと笑ってしまいました。
神社に行くと、ほとんどの人が無病息災、家内安全、商売繁盛などを祈りますね。自分と家族の幸せを願ってのことでしょう。

昨日は節分でした。西南西を向いて恵方巻きを食べると福がくるそうですね。のり巻き一本を切らずに黙って食べなければいけないそうですね。

昨日は恵方巻きを知人からいただいたので、わたしは切って食べました。食べきれなかったからです。また、西南西を向かずしゃべりながら食べました。豆まきはいつものようにしませんでした。

キリストを信じる前のわたしだったら、そんなことは縁起が悪いと思ってできなかったでしょう。豆まきも、しないと大変なことになると、必死に豆をまいていました。

キリストを信じる前は、バチをあてる恐ろしい神様にじっと見られているような気がしていつもビクビクし、漠然とした不安を抱いていました。

クリスチャンは、聖書に示された神様を信じていますが、聖書の神様はバチをあてるようなお方ではありません。苦難や病気は罰として与えられているのではないのです。

また、キリスト教はご利益宗教ではありません。信仰すれば、入試に合格し、病気が治り、お金が儲かるというものではありません。

それでは、キリストを信じても、何のいいこともないとがっかりされる方がいるかもしれません。

キリストを信じたら、苦難がなくなるわけでも、病気が治るわけでもありませんが、どんな苦難や病が訪れても対処できるようになるのです。漠然とした不安がなくなり、喜び、感謝、平安が与えられるのです。こんなすばらしいことはないとわたしは思っています。


夕暮れには涙が宿っても

2010-02-01 17:51:19 | 教会

昨日の礼拝では詩篇30編からのメッセージを聞きました。

詩編30篇
1主よ。私はあなたをあがめます。
あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはなさらなかったのです。
2私の神、主よ。
私があなたに叫び求めると、あなたは私をいやされました。
3主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、
私が穴に下っていかないように
私を生かしておかれました。

4聖徒たちよ。主をほめ歌え。
その聖なる御名に感謝せよ。
5まことに御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
6私が栄えたときに、私はこう言った、
「私は決してゆるがされない。」
・・・・・(略)・・・・・

10聞いてください主よ。
私をあわれんでください。
主よ。私の助けとなってください。
11あなたは私のために
嘆きを踊りに変えてくださいました。
 あなたは私の荒布を解き、
 喜びを私に着せてくださいました。
12私のたましいがあなたをほめ歌い、
 黙っていることがないために。
 私の神、主よ。
 私はとこしえまでも、あなたに感謝します。



詩篇30編の最初は「主よ。私はあなたをあがめます。」と書かれ、
最後には「私はとこしえまでも、あなたに感謝します。」と書かれています。あがめるとは賛美することですから、賛美で始まって、感謝で終わっています。
これは礼拝にあてはまります。

詩人(詩編の作者)は、いつまでも賛美していたいのに、黙らせるもの・・・つまり礼拝を妨げるものがあると書いています。
それは悲しみです。

詩人が死に直面するほど大きな病気をしたことがわかります。大きな病が礼拝の妨げになったのです。


わたしも死に直面するような病気(喘息と乳癌)になりました。具合が悪い時、礼拝を守ることができませんでした。
でも、病気で礼拝出席ができないことは罪を犯すことではありません。
むしろ順調な時のほうが罪を犯しやすいです。


6節には 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない」
と書かれています。栄えた時・・・つまり体調良好で順調にことがすすみ、何かをなしえたとき、自分の力でなしえたと思います。
でも、それは高慢な思いです。詩人は、思い上がりの中で神を忘れていたと告白します。

その結果、神様が怒り、顔を隠されてしまいます。詩人は嘆き悲しみます。
でも、その嘆きは踊りに変えられるのです。


わたしは、この詩篇30編の中で11節の「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。」と、5節の「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」の箇所が好きです。

悲しみにおそわれたとき、主を賛美したり、感謝することはなかなかできません。自分で自分の感情がコントロールできなくなってしまう経験を何度もしました。泣いても仕方ないとわかっていても涙が止まらなくなってしまうのです。


そんなとき、祈ることが必要だと牧師先生が言われました。


「神様! 助けてください」とひとこと叫ぶ祈りでもいいのです。
「苦しい!」といううめきでもいいでしょう。


詩人も祈ったのです。「あなたに叫び求める」「あなたを呼び求める」と書いています。

神様は祈りに必ず応えてくださいます。嘆きを踊りに変えてくださいます。



わたしは病気がいやされたとき。また、罪赦されたことがわかったとき、まさに嘆きが喜びに変えられました。

どんなにか細い声で助けを求めても応えてくださる神様を心からほめたたえます。

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