生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

赦せない思いを抱いたとき

2012-08-30 11:27:32 | 教会
旧約聖書にある詩篇は心打たれるものが多く、何度も繰り返し読んだり、暗唱したりしています。

でも、以前から疑問に思っていたことがありました。詩篇には、なぜこんな言葉が聖書に書かれているの? と思うような憎しみの感情を表す言葉が多く含まれているのです。
イエス様は敵を赦しなさいとおっしゃっているのになぜ……?と思ってしまいます。


先日の礼拝で、詩篇137篇の意味を教えていただいて納得しました。詩篇137編には次のように書かれています。

1バビロンの川のほとり。
そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に
2私たちは立琴を掛けた。
3それは、私たちを捕らえ移した者たちが、
そこで私たちに歌を求め、
私たちを苦しめる者たちが、
興を求めて、
「シオンの歌をひとつ歌え」と言ったからだ。
(略)
8バビロンの娘よ、荒れ果てた者よ。
おまえの私たちへの仕打ちを、
おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
9おまえの子どもたちを捕らえ、  
岩に打ちつける人は、何と幸いなことよ。
(数字は節を表します)



BC586年に南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、ユダヤ人はエルサレムから遠く離れた異国に連れて行かれました。この詩編はそのときのことが書かれています。

ひとりではなくて捕虜として連れて行かれた複数ユダヤ人の思いが綴られています。作者はおそらくプロの音楽家で、イスラエルでは神を賛美するために立琴を奏でていました。それなのに異邦人の宴会で歌うことを強要されました。そのときの屈辱が記されています。

8節でバビロニアたちに仕返しする人、バビロニア人の子どもを岩に打ちつけて殺す人は幸いだと、復讐心、憎しみを表す言葉が書かれています。



このような言葉が聖書に記されているのはなぜでしょう?
3つの理由を教えていただきました。

①よい、悪いは置いておいて、人間はこのような感情を持つものであるということを知らせるために書かれています。
こういう思いを持ってはいけないといっているのではありません。

②苦しみ、憎しみを自分ひとりのうちに抱え込むのではなく、同じような苦しみや憎しみを抱いている人たちと分かち合うためです。

ヤコブ5:13に「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」と書かれていますが、ユダヤ人にとって祈るというのは、詩篇を唱えることです。つまり、苦しんでいる人は詩篇を唱えなさいと言っているのです。

③赦せない思いを神に向かって叫ぶ大切さを教えてくれます。
神様は相手に復讐することを禁じています。憎しみの思いが沸き上がったら、神様に訴えなさい。その思いを爆発させてそのまま神に用いてもらいなさい。

クリスチャンになると怒りや憎しみの感情がなくなるわけではありません。憎しみの思い、人を赦せない思いを抱えてどう生きたらいいかわからなくなるときは、詩篇を読み、神様に向かってストレートに感情をぶつけたらいいのです。


わたしを含めて人間は、ひどいことをされたらその人に仕返しをしたくなり、何年も憎しみを抱き続ける者です。そのことを知っていて下さる神様。ご存じのうえで「敵を赦しなさい」と言われたのは、赦しとは、十字架の尊い犠牲のうえに成り立つものだからなのでは……と思いました。



前回、8/27の記事に「花も」のYouTubeを貼り付けています。



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涙の谷を過ぎるときも

2012-08-27 16:12:38 | 教会
昨夕は、年に一度の教会のお祭り、めぐみ祭りが行われました。去年は用事で行けなかったのですが、今年はヒックンとママも一緒に参加できることが嬉しくて数日前からわくわくしていました。
ヒックンママの運転する車で4:30に教会に着くと、お店やゲームの準備がすっかり整っていました。暑い中、昼過ぎから準備して下さった方々に感謝!

めぐみ祭りは、礼拝から始まりました。バンドの奏楽で賛美が始まると、ヒックンはママにしがみついてずっと後ろを向いていました。
そういえばヒックンが教会へ来たのは一年以上前のことです。慣れない雰囲気の中、知らない人に声をかけられて恥ずかしくてたまらなかったようです。

礼拝の後、つくば大生によるジャグリングのショーを見てから、輪投げやダーツ、ボーリングなどのゲームを楽しみました。わたしは輪投げ屋さんの店員にもなりました。

出店では焼きそばやたこ焼き、焼きトウモロコシ、チジミなどがあって、おいしそうな匂いがたちこめていました。めぐみ祭りに参加しない主人や仕事で参加できない息子と娘のために夕飯の用意をしてから来たので、教会ではあまり食べないつもりでしたが、3人はおなかいっぱい食べてしまいました。

ヒックンはだんだん慣れてきて、帰るころは元気いっぱいでした。
家に帰ると、「めぐみを、めぐみを、めぐみを」と教会で賛美していた「花も」という
曲の一部を口ずさんでいたのでびっくりしました。今日初めて聞いた曲だったのです。後ろ向いて歌っていなくてもちゃんと聞いて覚えていたのですね。


「花も」の歌詞を紹介します。

ここに泉はわく
涙を過ぎるとき
やがて実を結び 
笑い声に満ちる

*花も 雲も 風も 大海も
奏でよ 奏でよ イエスを
空に響け 歌えたましいよ
めぐみを めぐみを めぐみを

あおげ天は開き
ぼくらは見るだろう
やがて花が咲き
栄光の主が来られる

*折り返し


これは詩篇84編6節「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」のみ言葉から作られています。

この箇所は、悲しいことがあって、それをただ嘆くのではなく、また逃避するのでもなく、涙を流しながら悲しみの谷を通って、そこにも神様がおられることに気づき、悲しみの谷が喜びの泉に変えられるという意味だと思います。


ヒックンへ
人生の中で悲しみにくれることもあるでしょう。でも、必ず悲しみは喜びに変わります。どんなに辛くても、過ぎ去る時がきます。笑い声に満ちるときがきます。神様が恵みをくださっているからです。



「花も」のYouTubeが見つかりました!ぜひお聞きください。
花も With Flower (MEBIG)




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理想を求めて

2012-08-23 21:03:02 | 日記
昨日、韓国人でアメリカに住んでおられるK神学生のお話しを聞きました。
K神学生は、小学生のころから理想を追い求め、完璧な人を探していたそうです。人を理解し、包容力のある人を求めていましたが、期待が大きい分何度も失望していたと聞いて、わたしもそうだったと思い出しました。

わたしは中学生の時ですが、こんな人と友達になりたいという理想を掲げていました。わたしの思いをすべて理解してくれる人、困ったとき助けてくれる人、いつもそばにいてくれる人を求めていました。でも、そのような人はどこにもいません。それでサエちゃんという名の架空の人物を作り上げ、サエちゃんを親友にしていました。
現実には友達がひとりもいなくていじめられていたのですが……。

死んでしまいたいほどつらい中学生活でしたが、空想の世界に浸っていたので耐えられたのかもしれません。わたしがファンタジーを書きはじめたのは、この時期だったのです。
現実逃避はよくないのかもしれませんが、見つめたら耐えられないような現実が目の前にあるとき、ファンタジー世界に逃避するのは一時的ではありますが、助けになります。
まだイエス・キリストのことを知らなかったときのことです。

キリストを知った時、ああ、この方がわたしの理想の方だと思いました。考え方が、語る言葉が、そしてわたしのためにしてくださったことが理想……いえ理想を超えているのです。

たとえば、「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ7:12)」
という聖書の言葉は、人に迷惑をかけてはいけませんという教えを超えていると思いました。迷惑をかけないで生きるという消極的な生き方ではなく、自分がしてもらいたいことをほかの人にするという積極的な生き方があると知ったとき、目が開かれるようでした。

K神学生もキリストに出会ったとき、この方こそ理想の方だと思ったと言われました。
国籍や育った文化が違っても共通した思いのあることを知って嬉しくなりました。


今日、小説投稿サイト「星空文庫」に私の書いたファンタジー作品「海底王国」を載せました。(原稿用紙 212枚の作品です)興味のある方はご覧ください。
感想をお待ちしています。


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かわいそうに

2012-08-21 17:12:44 | 教会
暑いですね……暑いけれど気を付けて……この暑さを乗り切りましょう……

友人からの便りやメール、そしてわたしが出すものにも「暑い」という言葉が必ず使われています。それほど暑い夏ということなのですね。夏生まれでも暑さに弱いわたしは、フーフー言っています。


一昨日の礼拝ではマタイ18:21~35の箇所からメッセージが語られました。
ペテロがイエス様に兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかと尋ねています。イエス様は7度の70倍するまでと言われますが、それは490回まで赦すという意味ではありません。7は完全数なので、無限に赦すという意味です。

そのあとでイエス様は次のようなたとえ話をされます。

王のところに一万タラントの借金のあるしもべが連れて来られました。しもべは、返済できなかったので、その主人は、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じました。しもべが主人に猶予を求めると、主人はかわいそうに思って彼を赦し、借金を免除してあげました。
ところが、そのしもべは百デナリ貸していた仲間に出会ったとき、借金を返すように言い、返せないと牢屋に入れてしまいました。そのことを知った主人は、怒って借金を全部返済するまでしもべを牢屋に入れてしまいました。

という内容です。

一万タラントというのは、6千億円にあたるそうです。百デナリは百万円です。
百万円ならわかりますが、6千億円というのはどれぐらいのお金なのか、ちょっと想像がつきません。ふつうの人が個人で借金する額ではありませんね。


このたとえは何を語っているのでしょう。
「人の罪を赦せないと、天国に入れませんよ。」、とか「クリスチャンは、どれほど神様から赦されているかわかっているはずなのに、人を赦せないのはおかしいですよ」という意味にとられることがあります。そうではありません。

主人がしもべを赦したのは、しもべが心からあやまったからではありません。あやまり方がよかったからでもありません。
主人がしもべのことをかわいそうに思った(マタイ18:27)からです。それは、主人による特別な計らいによる赦しです。
何をかわいそうだと思ったかというと、しもべがこれから自分も妻子も持ち物全部売って悲惨な状況になることを知って、かわいそうと思ったのです。

かわいそうとは、憐れむことです。憐れむはギリシャ語でスプランクニゾマイといいます。それは「内臓」を意味する言葉だそうです。内臓が揺れ動くほどの思い……断腸の思いというような感じでしょうか。

かわいそうに思うということは、赦す方に痛みが伴うということです。
主人はしもべの借金を背負うことになり、また世間から責められるかもしれないのに赦しました。
それは、神様がわたしたちのことを赦してくださったことと同じです。

赦しがたい人を「赦しなさい」と言われると、『あんな人、赦せるか!』という憤りを感じます。神様はあなたを赦すとき、それよりも大きな憤りを感じたのですが、赦してくださいました。神様がわたしたちをどれほどの思いをもって扱ってくれたかを感じ、神様のすごさを知り、神様をほめたたえることが信仰生活の目的です。



わたしは、どれほど神様の内臓を痛めたことでしょう。洗礼を受ける前もその後も神様に逆らって神様を悲しませてきました。
いままで何度赦されてきたのでしょう。そのつど、神様はこんなに痛みを感じてくださっていたなんて……。もう、悲しませたくないです。みこころにかなった歩みができるように助けてください。



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ヒックンの夏休み

2012-08-18 16:38:51 | 日記
14日からヒックンが来ていました。お盆の時期でもパパとママが仕事なので、我が家にお泊りすることになりました。映画やつくばエキスポセンターに連れて行ったり、一緒に買い物をしたり……。

エキスポセンターには子どもから大人まで楽しめる装置がたくさんあります。ゲームを通して科学的なことが学べるようになっています。ペダルをこぐとその速さに合わせて電車が動く装置は、ヒックンのいちばんのお気に入りです。

前回まではペダルに足が届かず、おじいちゃんにこいでもらっていました。今回は足が届いてこげるようになっています。足が届くのは、まだずっと先だと思っていたのに……。来春には小学生になるのですから、当たり前なのですが。成長を喜ぶと同時にあんまり早く大きくならないでほしいという身勝手な願いを抱いてしまいました。

つくばセンター内にあるプラネタリウムにも行きました。手塚治虫原作の「火の鳥(未来編)」をもとにしたアニメで、内容は高学年向きでした。
でも、終わってからヒックンに内容を尋ねると、ちゃんと理解していたのでびっくりしました。

どこへも出かけない日は、家で工作をしたり、ホットケーキを作ったり、すごろくやパズルをしたり……。主人とわたしが交代でヒックンの相手をしていました。

ほっとできるときは昼寝の時間です。ところが、ヒックンは昼寝をしなくなってきました。絵本を一冊と聖書のお話を30分もしたのにまだ寝ません。寝たふりをしていると、そっと起き上がってミニカーで遊んでいます。
「もう起きていい?」と何度も聞くので、降参しました。昼寝をしたのは、エキスポセンターに行った日だけでした。

3日目の夕方には疲れて腰が痛くなってきました。
「テニスボールを腰に当てるといいんだけど、テニスボール、売ってなかったの……」
と言うと、「ぼく、ボール持ってるよ」と言ってリュックサックからボールを出してきて、ボールで腰を押してくれました。
「これあげるから、痛いときにはまた使ってね」
と言ってボールを置いていってくれました。

ヒックンが帰った後、ボールを見て涙がこぼれてきました。
帰ってほっとしたはずなのに、またすぐ会いたくなるとは……。



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新たなる旅立ち

2012-08-11 16:22:00 | 日記
教会学校小学科でピアノの奏楽奉仕をしています。19日に新しい曲を賛美することになったので、練習に励んでいます。曲名は「約束の地へ」。すごくいい曲なのですが、とても難しくて弾くのに苦労しています。

練習といっても、主人が退職して家にいるので、なかなかピアノが弾けません。主人はずっとリビングでテレビを見ていて、ピアノはテレビの横にあるからです。
主人が昼間出かけないときは、夕方お風呂に入っている間の10分~15分が勝負です。夕食の支度を中断して練習します。
今まで弾いたことのある曲なら短時間の練習で大丈夫ですが、弾いたことのない曲だと、そうはいきません。

練習時間がどうしても足りないので、この前は水曜礼拝の後、1時間ほど教会で練習させてもらいました。
練習してもつかえてばかりなので、弾けるようになるか不安でした。ピアノを弾いていないときも録音したものを聞きながら指を動かし、必死に祈っていました。

どうしても弾けなかったら、曲を変更してもらおうと思っていたら、昨日からなんとか弾けるようになってきました。リズムがあっているかどうか心配で娘に聴いてもらうと、OKサインが出ました。しみじみ歌詞を味わいながら弾く余裕も出てきました。神様が助けてくださったのです。

「約束の地へ」はアブラハムのことを書いた歌ですが、自分の歩む道にも重ね合わせ、心ふるわせながら弾いています。
ブックマークにある土浦めぐみ教会の「めぐみミュージック」をクリックすると聞けます。楽譜もダウンロードできます。


わたしは今日で56歳になりました。体の弱いわたしが56歳まで元気で生かされていることは不思議です。現在治療を受けている婦人科の病も、治療する必要がないほどよくなってきました。

敬愛する姉妹から
「神様からいただいた記念日ですから大いに喜び感謝してください。
新しい一年がますます祝福され、使命に向かって大きく羽ばたいてください。」
というメールをいただきました。

今日はいつもの通りOBIの通信の学びをして、創作をしました。いつも通りのことができる喜びをかみしめています。

いつもと違ったこともしました。昔書いた童話の原稿の大半を捨てました。データー化してあるものでも、書き直しのあとを残しておきたくて印刷したものをとっていたのですが、最新版を除いてすべて捨てました。

最初は、こんなに無駄をしたんだなあと思っていました。でも、そうではないことに気づきました。これはみんな習作なんだと思ったのです。
これから完成させる作品を書くための習作だったと。生涯習作で終わってしまうかもしれませんが、それはそれでいいのです。

どこへいくのか知らないで、神さまからの約束だけをたよりに旅立ったアブラハムのようにわたしも新たな旅立ちのときを迎えたのかもしれません。



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あなたが幸せになるために

2012-08-10 15:30:53 | 教会
自分のことを侮辱した相手を赦すというストーリーで童話を書いたら、児童文学の仲間から「どうして赦さなくてはならないのか? 仕返しはしないのか?」と問われました。
主人公がいとも簡単に赦しているので、納得できなかったのだと思います。

実際、赦すことはそう簡単にはできませんね。赦すにしても悶々としながら、長い時間かかってようやく赦せるというのが現実です。

この前の日曜礼拝で「赦し」についてのメッセージを聞きました。(青字がメッセージ、緑字が聖書の言葉、茶色字がわたしの感想です)


日本文化の中では、人に迷惑をかけたらあやまるように教えられますが、赦すことは教えていません。
主の祈りの中で、「私は、私に罪を犯した人を赦しました」と言っています。自分の心を正直に見つめている人は、その祈りができないと思います。赦せていないのが現実だからです。

人を赦さないと私たちの罪は赦されないのではないかと思う人もいるようですが、それは誤解です。赦さないと赦されないのなら、十字架の意味がなくなってしまいます。

聖書は「赦し」を大切なものとして考えています。十字架上でイエス様が語った言葉の第一声が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」でした。
これは、十字架につけたローマ兵をとりなして祈っているのです。

神様の「赦し」は、ご自身のひとり子のいのちをかけた特別なものです。もし神様が人間を赦さなかったら、人間は滅んでいました。

神様は、御自分がお造りになった人間が滅びるのをよしとされませんでした。それで、ひとり子イエスのいのちを人間の身代わりとして差し出されたのです。
そのことを思うと、赦せないといっている自分が恥ずかしくなります。


相手があやまっても、補償してくれても、相手への憎しみが消えないことがあります。
でも、赦せないことでいちばん苦しむのは本人です。

確かにそうです。過去にひどいことをされて、そのことを赦すことができずに憎しみを抱き続けていたとしたら、精神も肉体もむしばまれていきます。

自分を傷つけた人を怨み続けて、鬱病になった人を知っています。赦せない心は、過去に受けた傷よりももっとひどいダメージを与えるのだと思います。
とはいえ、赦すことは簡単ではありません。


神様は、赦すことに、どれだけ憤りと怒りと苦しみが伴うかわかっておられます。

あなたが幸せになるために「赦しなさい」と神さまは言われるのです。


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。



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空の色と同じに

2012-08-07 16:38:14 | 日記
春に友人から藍の種をもらってベランダのプランターに蒔きました。間引きをしながら毎日水をやっていたら、元気に育ちました。この藍で生葉染めができるのだそうです。
種をくれた友人からやり方を教えてもらったので、先日試してみました。


本当はもっと伸びて丈が70センチぐらいになるそうです。我が家のは、プランターなので根が張らないため伸びないのかもしれません。連日の暑さのせいでしょうか、葉のふちが縮れてきて青く変色しているのに気づきました。

8月半ばごろに花が咲くそうで、花の咲く前に摘み取って染めるといいと聞き、枯れないうちに摘み取ることにしました。

ヒックンが遊びに来たので、一緒に染めました。まず、染める布(ストールとハンカチ)の何箇所かをつまんでゴムを巻きました。こうすると模様ができます。

それから藍の葉を摘み、摘んだ葉を手でちぎります。
葉の分量は10グラムほどです。ミキサーに葉と300ミリリットルの水を入れ、スイッチを入れます。
深緑の液体ができました。「野菜ジュースみたい」とヒックンが言いました。

これをガーゼでこしてボールに入れ、ストールとハンカチを漬けました。5分程してみると黄緑色に染まったので引きあげると、いちまいは青空のような水色に変わりました。

「わー、きれい。空の色とおんなじだ!」
ヒックンは目をキラキラさせていいました。
(いちばん上の写真、実際の色よりくすんで写っています。実際はこのブログのバックの色のようです)

あとの2枚は液体と同じくすんだ黄緑色です。
生葉染めの場合、絹やナイロンは染まるけれど、木綿は染まらないということが後でわかりました。(>_

ストールの水色を見ていて、世界にはどれほどたくさんの色があるのだろう……と思いました。もし、世界に色がなく、モノクロの世界だったら、つまらないでしょうね。

神様は人の目を楽しませるためにたくさんの色を作って下さったのですね。
色の組み合わせを考えるとき、自然の色を参考にするといいと聞いたことがあります。空の青、雲の白、山の緑、土の茶色……神さまの配色は素晴らしいですね。



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よりよく生きるためには・・・

2012-08-03 16:45:49 | 教会
暑い日が続いています。明日息子一家が泊まりに来るのでホームベーカリーでカボチャパンを焼きました。
確かにドライイーストを分量通りに入れたはずなのに半分ぐらいしか膨らみません。Hという記号が出ていたので調べると、室内温度が高すぎて発酵不足のパンができてしまったようです。こんなこと初めてです。がっかりしました。

最近、オリンピックで盛り上がっていますが、メダルをとるためにどうしたらよいか研究に研究を重ねて努力しているようすをうかがうと、驚かされます。血を吐くような努力をしてきても、本番でミスが出ることがあります。メダルを取ることだけが目的だとしたら残念ですね。でも、昨日の新聞には、敗退した選手たちの功績をたたえる記事が載っていたので嬉しくなりました。

どうしたら早く走れるか、どうしたらいい成績がとれるか、どうしたら有名大学に入れ、有名企業に就職できるか……多くの親が自分の子どもが他の子どもより抜きんでることを望みます。そして、それが子どものためだからと思って一生懸命になります。


この前の日曜日の礼拝メッセージで次のようなことが語られました。

子どもが生まれたばかりのときは、親は子どもの存在そのものが目的で、子どもがいてくれることだけで満足しています。子どもも親がそばにいてくれるだけで満足します。親そのものが目的だからです。

でも何年か経つと、親は子どもに自分の理想像を描き、それに合わないと子どもを叱りつけたりします。
子どもも成長すると、より楽しく遊ぶため、働くため、より良く生きるため、親を手段にすることがあります。

モーセは出エジプト記33:15で「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」と言っています。
それは、『神様がわたしの目的です。もし、神がいっしょにいてくださらないのなら、たくさんの富や健康、いのちが与えられたとしても、何の意味があるのですか?』というモーセの渾身の叫び声です。

わたしたちは、神を自分がより良く生きるための手段としていまませんか。人生の処世術観点で神を見ていませんか?

「イエスを信じる目的は何ですか? イエスこそが目的です。」と牧師先生が言われました。


自分自身を顧みると、不安から解放されるため、落ち込んでも絶望しないため、色んな人の言葉に翻弄されないために信仰を持とうと思ったことがありました。でも、それらはイエス様を信じた結果得られるものであり、そのために信じるというのは間違っていることに気づきました。
でも、目的と手段をはきちがえたとしても、それに気づいたとき、神さまそのものが目的だというところに何度でもたち帰って行けばそれでいいと言われて、ほっとしました。



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