生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

裂かれた幕

2016-03-28 17:09:08 | 教会
昨日はイースター礼拝でした。最近、イースターという言葉があちこちで聞こえるようになりました。「イースターは復活祭」というところまで知っていても、復活した方は誰なのか、またどういう意味なのか知らない人が多いのではないでしょうか。

旧約聖書の時代には、罪を赦すための儀式として動物を殺して捧げるということをしていました。その規定については旧約聖書に詳しく書かれています。
でも、今は罪を赦してもらうためにいけにえを捧げる必要がなくなりました。
いけにえの儀式は、本物が出てくるための影なのだそうです。それでは、本物とは何でしょう。十字架の上で血を流されたイエス・キリストのことです。

イースターの意味を知ろうとするなら、キリストの十字架の意味を知らないと、正しく理解することができません。
「十字架なんて気持ち悪い。むごたらしい死に方をした人を主と言って信じているの?」
と以前聞かれたことがありました。

「そうですよ」とわたしは答えました。

イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったのは、わたしたちの罪を赦すために、わたしたちに代わって神様の罰を受けてくださったのです。キリスト自身が、なだめの供え物になってくださったのです。

キリストが十字架で死んで、それで終わりではありませんでした。3日目によみがえったのです。今までの肉体とは違った体でよみがえられたのです。その体は朽ちない体です。永遠のいのちをもつ体です。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント15:20)」と聖書に書かれていますが、キリストが初穂で、それに続くのがわたしたちです。わたしたちもいずれは朽ちない体になり、よみがえるのです。

イエス様が十字架に架けられて息を引き取ったとき、神殿の幕が真っ二つに裂かれたと聖書にあります。

旧約聖書の神殿には、至聖所といって神の領域があります。そこは民が入れない場所です。聖所と至聖所の間は幕で仕切られています。
人はその罪のため、神の領域に入ることができなかったのです。

神殿の幕が裂けたということは、神の領域への道ができたことです。キリストの血によって罪赦された人たちが、神様のところへ行くことができるようになったのです。

上の写真は、幕が裂かれたようすを示しています。この上に十字架があって、釘が刺さっており、もっと上には、いばらのかんむりがかけられています。携帯カメラだったので、そこまで写せなくて残念でした。

わたしは、幕が裂かれたことがうれしいです。かつては、神様って、畏れ多くて簡単に近づけないと思っていました。また、近づいたらバチが当たるのではないかと怖かったのです。

でも、神様はバチを当てるような方ではありません。ご自分のひとり子を十字架につけるまでして人間の罪を赦してくださったのです。そこまでする人はいるでしょうか?

今は、「神様」とささやいただけで「どうしたのか。わたしはあなたを守る」と言ってくださいます。ひとりぼっちを感じて涙があふれる時も、そばにいてくださるのですから、何と幸いなことでしょう。

もう、神様とわたしとの間に幕はなくなりました。イースターの恵みです。

先週と今週の礼拝メッセージを聞いて感じたこと、考えたことを書かせていただきました。



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忍耐の孫

2016-03-23 16:21:31 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
このところ毎日出かける用事があって、なかなか落ち着いてブログが書けませんでした。今週も春休みに入ったとたん、孫のヒックンが泊りがけで来るので大忙しです。

先週の土曜日は、日本クリスチャン・ペンクラブの例会でした。
今年は「信仰・希望・愛」のテーマでエッセーを書き始めています。今回は「わたしと信仰」というテーマで書いたエッセーを持って行き、グループに分かれて合評しました。

信仰・希望・愛というのは、「聖書のⅠコリント13:13に書かれている 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
という言葉からきています。

『希望』という言葉はとてもいい言葉ですね。でも、すぐ失望に変わったりします。
希望を持って進学したのに、学びたいことが学べなかった。希望を持って就職したのに上司に言われたことしかできない職場だった。などなど……

希望についてのメッセージで語られたことを一部紹介します。

一般の人の考えている希望は、あきらめが混じっています。希望がかなうと、大喜びし誇らしく話すのです。しかし、失望はごく近くにあります。

聖書ローマ人での手紙には「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5)」
と書かれています。

『希望は失望に終わらない』というのは大胆な逆説です。

『聖霊』というのは、現在大活躍している生きた神様のことです。

患難さえも喜んでいるとはどういうことでしょう。患難は、ふつうは避けたいと思います。でも、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。つまり、希望は忍耐の孫なのです。
イエス様の恵みにより、患難が希望になるのですから、患難から希望までの出来事……神のドラマを書いてみましょう。
と言われ、士気が高まりました。


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古い人、新しい人

2016-03-18 16:10:56 | 教会
こんどの日曜日から受難週に入ります。
受難とは、キリストが捕えられ、十字架につけられて死に至るまでの苦難のことですが、受難週は、キリストの苦難を覚える一週間です。

そして27日の日曜日は、キリストの復活を記念するイースター礼拝です。
昨日は教会の和室で家庭集会が行われました。今回は欠席者が多く、牧師先生と4人の姉妹(クリスチャンの仲間を兄弟姉妹といいます)たちが集まりました。

キリストが十字架につけられて死んだことは、歴史上の事実で、誰もが認めることです。
キリストが3日目に復活したことも事実ですが、万人が認めているわけではありません。
復活については、歴史上最大の争点だそうです。

聖書には「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。(使徒4:33)」と書かれています。イエス様が捕えられたとき、恐ろしくて逃げてしまった臆病な使徒たちが、迫害をも恐れず復活を力強くあかししたのですから、復活は本当にあったのだとわたしは思います。

あなたは洗礼を受けたとき、十字架と復活の意味をよく理解していましたか?
と質問されました。

わたしの答えは、「よくわかっていませんでした」です。洗礼を受けたら罪が赦されることだけはわかっていました。
でも、洗礼を受けたらきよめられて、罪を犯さない者になるのだと勘違いをしていたのです。

洗礼準備も学びもなく、教会へ行き始めて半年後に牧師先生から「洗礼を受けませんか」と言われて、受けることにしたのです。
そのときは、喜びに満たされましたが、洗礼を受けてからも相変わらず罪を犯してしまう自分に絶望しました。そして、洗礼を受けた後に犯した罪は
もう赦されないのだと勝手に決め込んで、教会を離れてしまいました。それは、大きな誤解でした。
そのころは、この悩みを誰かに打ち明けることができなかったのです。

教会から離れて数年後、再び別の場所で教会へ通うことになり、少しずつ十字架の意味がわかってきました。
キリストが十字架に架けられたとき、全人類(そのとき生まれていない人も含めて)の罪が赦されたのです。全人類ということは、当然わたしも含まれるわけです。そして、罪と自覚しないで犯した罪、罪だとわかっていながら犯した罪、洗礼を受けてから犯した罪、これから犯す罪すべてが、そのとき赦されたのです。

キリストが十字架につけられたのは、わたしたちの身代わりでした。本当は、罪を犯したわたしが罰として十字架につけられなければならなかったのですが……
罪のない神の子であるイエス・キリストが代わりに罰を受けてくださったのです。

聖書には「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」
と書かれています。
『わたしたちは、キリストと共に十字架につけられたので、もはや罪ある自分(古い人)はそこで処理され、キリストが内に生きてくださる』と聞いて嬉しくなりました。

本来のわたしは、マイナス思考で、後ろ向きで、自分なんかいない方がいい人だと思っていました。それは、古い人です。
2000年前に、キリストと一緒に古い人は十字架につけられました。
古い人は死んで、わたしは新しい人になったのです。

この文章を読んで十字架の意味、復活のことも、意味が解らないと思った方は多いことでしょう。よく勉強してわかったら信じるという人がいるかもしれません。でも、勉強したからといってわかるものではありません。信じたらわかるのです。

家庭集会に参加した4人の中で、よくわかってから洗礼を受けた人が2人、よくわからないけれど洗礼を受け、そのあとで徐々にわかったという人がわたしを含めて2人でした。

わたしは、信じたことによって、マイナス思考からプラス思考になり、どんなときにも希望を持つことができるようになりました。自分の力では不可能だということができたとき、内在してくださるキリストがなしてくださったのだと思います。

キリストがなしてくださったと思えば、自慢することなく、卑下することもないのです。
ありのままでいいのだと言ってくださるイエス様に感謝です!!




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成長するということ

2016-03-15 16:44:56 | 読書
先月教会学校で行われた暗唱聖句大会の表彰式がありました。
写真は、みことば20を完全に覚えた人へのプレゼントです。クッキーに「成長させたのは神です」とプリントされています。(ケーキ屋さんに頼んで文字と絵をプリントしてもらったそうです)子どもたちと共にわたしも頂きました。また、エペソ4:1-16を覚えた人へのチャレンジ聖句賞も頂きました。

表彰状には
「あなたは、暗唱聖句大会でたくさんの聖句を覚え、ぐんと成長したので、ここに表彰します。これからもますます、みことばによって成長していってください」と書かれていました。

必死に覚えたのですが、覚えているとき、頭の中がいっぱいになって、色々なミスをしてしまいました。本を間違って注文したり、子どもの誕生カードにひとこと書くのに、同じ子のカードを2枚書いてしまったり、肝心なことを忘れたり……。

それでもせっかく覚えたのですから、忘れないように毎日一回は唱えるようにしています。

今日図書館で「三浦綾子作品集17」を借りてきました。

わたしが21歳のとき読んで、教会へ行くきっかけになったエッセー「あさっての風」が載っていました。
なぜ、三浦綾子さんのエッセーを読んで心打たれたのでしょうか。文章を通してイエス様がわたしの心に触れてくださったような気がします。

そのころわたしは幼稚園に勤めていました。2年目になり、仕事に慣れてきたころでしたが、大きなストレスを抱えていました。自分が思い描いていた保育ができず、子どものためではなく、園児を獲得するために行事を派手にして、親へのアピールを強くすることが目的のような保育の在り方に疑問を抱いていました。

また、家庭では母との関係が悪くなっていて、母と顔を合わせる時間を少しでも短くするため、駅前で夕飯を食べて帰ったりしました。それでいて、寂しく、なんでこんなところでひとりで食事しているんだろう……と思って涙を流していました。

そんなとき立ち寄った本屋でみつけた「あさっての風」。
坪井栄の童話「あしたの風」を想い出し、これも童話だと思って、子どもたちにお話をしようと買い求めたのでした。(童話ではありませんでした)

読んでいくうちに、文章がわたしの心に寄り添っているように感じました。作者の三浦綾子さんはどんな人なんだろう。この人なら、わたしの心の悩みをわかってくださるに違いないとまで思い、それから三浦綾子さんの本を次々読むようになったのです。

成長ということで、「あさっての風」の中で三浦綾子さんは次のように書いています。

『本は、人を成長させてくれる大切なものだ。いま、わたしは成長という言葉を使った。わたしは若さの一つの特徴は、成長するということにあると思っている。』


子どもも若い人も年配者も日々成長できるとわたしは思っています。

聖書の言葉

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:15)」



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予測できない出来事

2016-03-10 17:22:59 | 日記
昨日は日本児童文学者協会茨城支部の例会でした。今は休会中で、かつては茨城支部でご一緒させていただいていたKさんが久しぶりに参加されました。

Kさんは本(児童書)を出版されて、ひとりひとりに配ってくださいました。
久しぶりにお目にかかって、出版に至るまでの話や近況を聞くことができ、楽しい時間を過ごせました。

Kさんを迎えるためにケーキを予約し、花束を頼みました。例会は10時から始まるので、9時40分に花屋さんに確認し、45分にケーキを取に行き、10時に会場につく予定をたてていました。ところがハプニングが起きました。

花屋に向かう途中、会場の予約が午後しかとれていないと先に会場についた仲間のひとりから電話があり、真っ青になりました。

午前午後と続けて部屋を予約したはずなのに、午後だけということはありえないのに……。いよいよ認知症が始まったのかもしれない……と思いながら、まず会場へ急ぎました。会場に着いてよく調べてもらったら、向こうのミスで、午前午後予約が入っていました。

ほっとしたのもつかの間、ケーキ屋と花屋に走って行き、10時過ぎにはなんとか会場に戻ることができました。

今日もまた、予測できないことが起こりパニックになりかけました。
わたしは日本クリスチャン・ペンクラブのHPを作製しています。今日は月に一度の更新日です。何日もかかって記事を作り、USBに保存していました。
当日はFFFTPを起動し、アップロードするだけなので、トラブルがなければ5分で終わります。(5分で終わったことは年に数回でしたが……)

今日はFFFTPを起動すると、ダイアログボックスが現れ、パスワードが違っていますと書かれているのです。
何度パスワードを入れても「違います」と出て、使えません。

数日前にサーバーが移転する作業をやっていて、移転は終わったというメールが届きました。こちらでする作業についてたくさん書かれていましたが、よくわからないので、何もしていませんでした。そのせいだと思いました。

電話でサポートをやっていますと、メールには書かれていましたが、電話番号が書かれていません。
娘は嫁いでしまい、遠方なのですぐには来てくれそうもありません。今度、家に来るのは5月の連休と言っていたので、それまで更新できないなんて……とあせりました。例会案内などを載せているので、困るのです。

あせっていろいろな操作をしかけてから、はっとして手を止めました。かえって変な設定をしてしまい、修復不可能になる恐れがあると思ったからです。
いちどPCを閉じて、静かに祈りました。

「HPの更新ができません。いつもと同じやり方をしているのに、どうしてもわからないのです。わたしの手には負えません。助けてください。主よ、どうか知恵と力を与えてください」
祈ってからふっと、パスワードを変えたことを思い出しました。

「長い間パスワードを変えていないと危険です」という警告が出たので、変えていたのです。
覚書を見ると、そのパスワードは記録されていました。
急いでFFFTPを起動し、新しいパスワードを入力すると、いつもの画面が現れました。

原因は、笑ってしまうような単純なことでした。
誰も助けてくれないと思って、パニックになりかけましたが、助ける方がおられることを忘れていたのです。

聖書の言葉
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。(詩編121:5)

日本クリスチャン・ペンクラブのHP、ここをクリックしてごらんください。


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愛の根拠

2016-03-07 17:21:38 | 日記

土曜日に主人と水戸の偕楽園に行ってきました。

茨城県土浦市に住んで25年になりますが、これまで偕楽園へ行ったことが一度もありませんでした。毎年行きたいと思いつつ時期を逃していたのです。

土浦から水戸までは電車で40分ほどです。

水戸駅からバスが出ていますが、土日は偕楽園駅に電車が停まるので、土曜日に行くことにしました。

偕楽園駅では赤い着物を着た梅大使さんが迎えてくれました。






梅は満開まであと一歩という感じでしたが、みごとでした。雲っていたのでけっこう寒く、厚着して行ってよかったです。





偕楽園から歩いて10分ぐらいのところに歴史館があるので、そこへも行きました。

歴史館では大きな収穫がありました。戦国時代の人々の暮らしがわかって、嬉しくなりました。当時の屋根瓦を触れたり、刀の重さを実感できたり……。おもしろかったです。

日曜日の礼拝では、『神がこれほどまでに』という題でメッセージが語られました。
Ⅰヨハネ4:11には「愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」と書かれています。それは、ヨハネがその時代の人々に書いた手紙ですが、現代のわたしたちに向けてのメッセージでもあるそうです。

「互いに愛し合うべきです」と言われても、愛せる人と愛せない人がいて、嫌いな人や自分に意地悪する人は愛せないと思う人が多いことでしょう。わたしもそうでした。親切にしてくれる人、やさしい人を愛するのはたやすいことですが、自分を憎んでいる人を愛するなんて不可能だと思いました。
でも、『愛し合うべきです。』と言うには、根拠があります。

愛されたから、愛しなさい。
赦されたから、赦しなさい。

この愛するとは男女の愛ではありません。アガペーの愛です。大切にするということです。


神さまが、そのひとり子のいのちを与えるほどにわたしやあなたを愛してくださいました。このことが、愛の根拠です。相手がどんな人であっても根拠があれば愛せるのですね。

わたしはあの人が愛せない。
神さまが、わたしのことを大切にしているのに
神さまは、あの人のことも大切にしている
あの人のためにも死んでくださった
わたしも大切にしたい、愛したい
神さまがこれほどまでも愛しているあの人のことを



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白髪になっても

2016-03-01 16:24:31 | CS(子供伝道)
日曜日は教会学校の暗唱聖句大会でした。一か月以上前から聖句の書かれた冊子を子どもたちに配り、家で覚えたり、分級(学年ごとのクラス)で覚えたりしてきました。

暗唱聖句大会当日は覚えていない子にも覚えている子にも楽しくできるゲームが用意されていました。暗唱聖句大会の委員がさまざまな工夫を凝らして、長い時間かけて備えてきたゲームが行われました。

低学年(小1~小3)を4グループに分け、グループごとに競いました。みことば並べ替えクイズは、ただ並べ替えるだけでなく、一部の言葉を隠しておき、グループで隠された言葉を考えるという凝ったものや、上の句下の句でとる百人一首のようなカルタ。聖句には関係ないのですが、一年生も楽しめるジャンケンゲームや、お兄さんが背負っているかごに新聞紙のボールを投げ入れるゲームなどもあり、2時間はあっという間に過ぎました。

暗唱聖句大会の聖句は毎年違うのですが、今年は少し長いのが多かったです。毎日家事をしながら、散歩をしながら、最後の方はクリアケースにプリントした聖句を入れて、風呂場に持って行き、お風呂につかりながら覚えました。すべて覚えた時は、ちょっとでも頭を動かしたらこぼれ落ちてしまうのではないかと思うほど……。

覚えた20の聖句の中で、とくに心に留まった聖句を紹介しますね。

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが、しらがになってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。」イザヤ46-4


年を取っていくとだんだん不安になってきます。白髪が増え、体が思うように動かせなくなり、やがて歩けなくなってしまうかもしれないと思ってしまいます。そんなとき、この御言葉を思い出すと平安な気持ちになります。歩けなくなっても神様は背負ってくださるんだ。自分がどんな状態になっても、神様が救い出してくださるのだと、嬉しくなるのです。
覚えるコツは、「あなたがた」は2回、「わたし(神様のこと)」は5回出てくること。
聖書箇所は、46-4を白(4、6)い毛が4本と覚えました。


「わたしはあなたがたに立てている計画をよく知っているからだ。=主のみ告げ=。それはわざわいではなくて平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11

わたしたちの人生に神様は計画を立ててくださっています。どんな計画なんだろう。これから大変辛いことが起きるのではないかと恐れます。でも、大丈夫。神様がわざわいではなく、平安を与え、将来と希望が与えられるといわれるのですから。

覚えるコツ
20の聖句のうち、エレミヤ書はこの聖句だけだったので、この聖句は『エレミヤの肉いい計画』と覚えました。にくいい→29:11エレミヤと肉は、あまり関係ないですが・・・・・・。

子どもたちの心に植え付けられた聖句が、大人になったときに大きな力となることを祈っています。


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