生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

小旅行で大きな収穫(その2)

2017-04-29 16:07:45 | 日記
4月25日から27日まで、三宅島に行ってきました。

主人が退職してから、年に1~2回旅行をしています。主人はSLが好きなので、SLが走っているところを追いかけて旅をしてきました。
有名なところは行き尽くしてしまったので、今回はわたしが行きたいところでいいと言ってくれました。それでカツオドリのいるところを希望しました。

昨年からカツオドリを主人公に小さな童話を4つ書いています。児童文学の仲間にカツオドリの飛ぶ海の色は何色ですか? と聞かれて、わたしは答えられず、そのことがショックでした。海の色どころかカツオドリを実際に見たこともなかったからです。

カツオドリは動物園では飼育されてないので、見るなら赤道近くか小笠原諸島に行かなければなりません。小笠原諸島の父島は船で24時間もかかるそうです。飛行機は飛んでいません。

ネットで調べているうちに三宅島の三本岳に営巣していることがわかり、行き先を三宅島にしました。船で6時間で行けるので、酔い止めを飲んでいればきっとだいじょうぶ。

チケットはあらかじめ東海汽船に電話して予約を入れました。行きは疲れると後々ひびくので、ちょっと高かったのですが特等客室を予約しました。さるびあ丸です。




ビジネスホテルの一室という感じでシャワー、トイレ付、テレビもあり、窓から海が見えました。



竹橋桟橋から乗船。出航を知らせるドラが鳴ると、冒険の旅の始まりです。わくわくしてきました。

横になると揺れがよく感じられて熟睡はできませんでした。23時半に消灯になり、うとうとしていると船内放送があり、時計を見ると明け方4時半でした。あと30分で着くと言うので、急いで支度をしました。

下船してターミナル方面に歩いていると、あらかじめ頼んでおいた宿の方が迎えに来てくださっていました。
チェックインは15時なのですが、もう部屋に入らせていただけて、7時半までまた眠れました。地上で寝られることのありがたさを実感しました。


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人生の矛盾

2017-04-24 15:51:48 | 教会
誠実に生きている人が苦難に会い、悪いことをしたり、いい加減に生きている人が恵まれた生活をしているのを見ると、疑問を感じる人がいるのではないでしょうか。

わたしは中学生のころ、誠実に生きていれば幸せになり、悪いことをしたり、不誠実に生きている人はみじめな死に方をするんだよと教えられました。
もしそれが本当なら、つらいことがあっても、まじめに生きていけます。
でも実際は、そうでないことが多く、矛盾を感じていました。

悪いことをしたり、不誠実な人が幸せになっているのを見ると、神さまは不公平ではないかと思ってしまいます。
昨日は、そのことについてどう考えたらよいか教えていただきました。

昨日はコイノニア礼拝でした。
コイノニアとは韓国の大方(デバン)教会と土浦めぐみ教会との交流のことで、各年齢層の方が訪れたり、迎えたりします。今年はコイノニア20周年の記念の年で、大方教会から31名の方々が来てくださいました。

礼拝では、大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。
旧約聖書の詩編17:14-15には次のように書かれています。


14主よ。人々から、あなたの御手で。
相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、
彼らは子どもらに、満ち足り、
その豊かさを、その幼子らに残します。
15しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。


これは、ダビデの書いた詩です。ダビデは自分の周りに敵がたくさんいて、彼らが栄えているのを見て苦しみました。
神さまの言葉通りに生きようとすると、状況が苦しくなることの多い現実です。

「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」とは、
この世で繁栄している人々は、相続分(分け前、むくい)をすでに受け取っている人々という意味です。
この世で繁栄している人々は、すでに分け前が与えられてしまったので、将来は何もなく、何の望みもないのです。
だから、このような人たちのようにならないようにしてくださいとダビデは祈っています。

神を信じない人たちは、お金が与えられると自分がもうけたと思い、私腹を肥やしています。子どもの出世を望み、子孫の繁栄を喜びます。人生は有限なので、お金を子孫に残して安心します。
この人たちには神様が抜けています。自分のため、自分の子どものため、自分の子孫のためと考えて、他者のためにという考えが欠落しています。

15節で「しかし、私は……」と書かれているのは、『私は、この人たちとは違います。神を信じます』という告白です。

「目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」というのは、自分が神様から祝福をたくさん受けていることを喜ぶという意味です。
目ざめるとき、神様と対面できるとは、なんと幸いでしょう。
神と対面したダビデは、喜びに満たされて感謝にあふれ、『世の人たちの繁栄をうらやむことはしません』と告白しています。

「最も良いものはまだ来ていない。(清教徒)」という言葉があります。

人生はこの世で終わるのではないのです。最も良いものがいつの日か必ず与えられるのです。だから、人の繁栄をうらやむことはないのです。

ダビデのように神を見上げて生きていきたいです。

書いていて昨日のメッセージは、前回のブログに書いた金持ちとラザロのたとえ話とつながっていると思いました。

先週は水曜日の朝に腰を痛め、水曜礼拝と輪読会に行けませんでした。
落ち込んでいたのですが、日ごとによくなってきて、昨日はコルセットをつけて教会礼拝に2回(第1と第3)も出席し、TEENSの奉仕もできました。
感謝!!


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関心、無関心

2017-04-18 16:12:02 | 聖書から
先週の木曜日の家庭集会では、ルカ16:19~30からイエス様のたとえ話で「金持ちとラザロ」の学びをしました。遅くなりましたが、紹介させていただきます。

毎日贅沢な暮らしをしている金持ちがいました。彼の家の門前には貧乏で全身におできができているラザロという人がいて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。聖書には書かれていませんが、金持ちは、ラザロに対しては無関心だったようです。
金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
生きている間は対照的なふたりでした。

ラザロはやがて死に、みつかいたちによってアブラハムのふところへ連れていかれました。
後に金持ちも死んで葬られましたが、ハデスで苦しみを受け、見上げるとラザロがアブラハムのふところにいるのが見えました。

(アブラハムとは、ユダヤ人の先祖であると同時に『信仰の父』と呼ばれる人物です。「アブラハムのふところ」という表現は、聖書でこの箇所しかでてきませんが、明確な意味は分からないそうです)

死を味わうことにおいては、ふたりとも平等でしたが、連れていかれたところが違っていました。
金持ちが死んだ時、彼を葬った人たちがいました。葬式に出席した者は多く、彼に関心を寄せていた人たちがたくさんいたと思われます。
一方、ラザロに関心を寄せていた人はいなかったと思われます。「葬られた」とは書かれず「みつかいたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」と書かれているところに注目したいです。

ラザロという名前は「神に助けられる人」という意味があるそうです。

ルカ16:15には「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする人です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です」
と書かれています。

人からよ良い評価を受けても、神様の評価は違うということを示しています。

金持ちは、ハデスで苦しみ、アブラハムに助けを求めます。でも、アブラハムから死後の状態は変えられないと言われます。金持ちは、せめて自分の兄弟が同じような目に合わないようにラザロを自分の父の家に送ってほしいと頼みます。

アブラハムは「モーセと預言者との教え」があるので、その言うことに聞くべきだ」と言いました。

「モーセと預言者との教え」とは旧約聖書のことを指しています。

「聖書の教えに耳を傾けないのなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れやしない」
というアブラハムの言葉でこのたとえ話は終わっています。

レジュメには「信仰を持つためには奇跡や驚くべき出来事が必要でしょうか?」
「救われるために必要なのは何ですか?」
と書かれています。

実際、奇跡や驚くべき出来事が起きることがあります。でも、信仰を持つためにそれらが必要とは限りません。
救われるためには、自分の罪に気づき、悔い改めることが必要です。

このたとえ話はパリサイ人に向けてイエス様が語られました。パリサイ人とは、イエス様の時代のユダヤ人で、ユダヤの律法のすべての部分に、非常に熱心に従おうとした人々です。彼らはイエスを救い主であると認めていませんでした。

そんな彼らになぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。

パリサイ人たちは、いつもイエスのあげ足を取ろうとしていました。イエス様を見下してあざ笑っていました


イエス様は、そんなパリサイ人たちにも関心を寄せ、救いに与るように願っておられたからだと教えていただき、はっとしました。
神様は、わたしたちひとりひとりに関心を寄せ、愛してくださっているのです。たとえ話に出てくるラザロのような人にも、金持ちのような人にも、救われてほしいと思っておられるのです。神様の深い愛に心打たれました。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。


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本の出版予定

2017-04-15 10:58:19 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
今年は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)が65周年を迎えます。9月に記念会が行われますが、先だって本の出版があります。題は「山川草木」。これまで「花鳥風月」「春夏秋冬」「喜怒哀楽」などの四字熟語のひとつひとつの言葉をモチーフに証し文章を書いて本にしてきました。今回の新しい本は、山水草木の他に、信・望・愛についてのエッセーも掲載されています。

三校が送られてきて、昨日は校正に時間を費やしました。200ページもあるので何時間もかかりました。目が疲れて、そのあとPCを開いたらぼやけてほとんど見えませんでした。

20名ほどのお仲間たちの文章を改めて読ませていただいて、そこから勇気と力が与えられました。
この本が多くの人に読まれ、神様によって大いに用いられるように祈っています。

一昨日の家庭集会は、クリスチャンのご夫婦が経営しているレストランで行わせていただきました。
落ち着いた店で充実した学びができ、おいしいご馳走に舌鼓を打ち、いつもと違った贅沢をさせていただき、感謝、感激でした。
今日はこれからヒックン、ナルクンが来ます。



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人の言葉に翻弄されない人

2017-04-10 15:51:47 | 教会
人の言葉に翻弄されたり、一喜一憂することがありませんか?
わたしは、褒められるとうれしくて舞い上がり、高慢になってしまいます。逆に、けなされたり、悪口を言われるとひどく傷つき、心は荒海のように騒ぎます。

人から傷つけられたとき、『わたしは感受性が鋭く、とても傷つきやすいんです。それなのにどうしてひどいことを言うのすか?』と、相手を訴えたい気持ちになったことがあります。
傷つきやすいということをまるで自慢しているようでした。でも、人は皆傷つきやすいのだと思います。傷ついてもそんなそぶりをみせず、平静を装ったり、強がりを言う人がいますが、本心は傷が痛んで泣いているのです。

ところが、傷つけられても気にしない人がいます。苦しみを受けても、そのことを喜んでいる人がいます。
以下は礼拝メッセージを聞いて考えたことです。

聖書に出てくるパウロがそのひとりです。キリストのために苦しみを受けるのはよいことですと言っています。
『ねたみや党派心、争いを持ち、自分を苦しめる人がいても、キリストが宣べ伝えられているのなら、わたしは喜んでいます。』とパウロは言うのです。

パウロは人の言葉に一喜一憂しません。
その理由は、キリストを知る絶大な価値を理解しているからです。

どんなにひどいことを言われても、けなされても、キリストを知る絶大な価値を見いだしている人は、ほかの人の言うことを気にしません。心がキリストにある喜びでいっぱいだからです。


パウロだけでなく、キリストによる喜びを持っている者はそうなのだと思います。
わたしも最近になって、ようやく人の言葉に翻弄されなくなってきました。

受難週に入りました。
受難週とはキリストの十字架の苦しみと死(=受難)を思う一週間のことをいいます。
来週の日曜日はイースター(復活祭)です。

礼拝で水野源三さんの詩に曲をつけた特別賛美を聴きました。


私がいる  水野源三
  
 ナザレのイエスを 十字架にかけよと
   要求した人 許可した人 執行した人
   それらの人の中に 私がいる


心刺される詩です。イエスキリストが十字架につけられたのは2千年も前の出来事です。十字架とわたしは何の関係のないものと思っていました。
けれども、イエス様が十字架で死んでくださらなければ、罪の問題はなにひとつ解決しません。わたしのすべての罪を赦し、解決させるために血を流し、苦しんでくださったイエス様を思って、この一週間を過ごしたいです。

昨日はTEENSでお花見に行く予定でした。せっかく満開になったのですが、雨でお花見はできませんでした。

 

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もうすぐ満開

2017-04-05 20:48:21 | 日記
春休みでヒックンが遊びに来ていたので、近くの桜川へ花見に行きました。

といっても、満開には遠く、2分咲きぐらいでした。

張り切って出かけたのに、桜川の土手に着く前にころんで、ひじをすりむいてしまいました。どんなふうにころんだらひじをすりむくのか……。子どもは予測しない動きをします。



ヒックンは桜より、鳥に興味を持って、おじいちゃんの双眼鏡を借りてバードウオッチングをしました。



オスとメスが呼び合っているようで、2羽仲よく枝にとまっていました。

ヒックンは5年生になりました。まだ、「遊んで」と言ってくるので、可愛いです。カードのゲームを毎日1時間ずつつき合わされました。
中学生になったらもう遊びに来なくなるのかなあと思うと寂しいです。でも、こんどは弟のナルクンが遊びに来るでしょう。

ナルクンは3歳になりました。


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私が私の羊飼いだったら

2017-04-03 15:53:49 | ティーンズ
風は冷たいけれど、桜川の桜の蕾がふくらみ、花弁が今にもはじけそうです。

昨日はCS(教会学校)教師任命式でした。教会では1-2歳クラス、幼稚科、小学科、TEENS(中高科)、成人科、そのほか学びのクラスの教師は、任命式に与ります。(総勢59名の方が任命されました)

わたしは小学科ではなく、TEENS(中高科)教師の列に立っています。
そのことがとても不思議です。去年まで23回も小学科教師として任命されてきました。昨年は、当然、次も小学科教師の場所に立つのだろうと思っていました。

でも、今年はTEENS教師の場所に立っています。神様がそこに置いてくださったのです。いつまで続けられるかわかりませんが、はっきりしていることは、今、健康が与えられているから奉仕できるということです。
このことがどんなに貴重でどんなに喜びなのか、TEEMNSを辞めるときにわかるのでしょう。

TEENSに来ている子どもたちは40人近くいます。
その中で半分以上は小学生の時わたしが受け持った子どもたちです。すっかり大きくなって、名前を聞くまでわからなかった子どももいました。一緒に分級を受け持つ先生もかつて受け持っていた人でした。感慨深いです。
TEENSは大人とは別に礼拝をしています。場所は礼拝堂から少し離れたチャペルピスガです。メッセージは大人の礼拝と同じぐらいの長さですが、中高生でもわかりやすい内容になっています。

昨日は詩編23篇から語られました。
   詩編23篇1~8
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


人を羊にたとえています。羊は①臆病②迷いやすい(目が悪いので迷ったら自分ではもどれない)③すごく頑固という性質を持っています。
主である神様が羊飼いだったら正しく導いてくださるので「わたしは乏しいことがありません」と言えます。新共同訳では「私は何も欠けることがない」と書かれています。
もし、私が私の羊飼いだったら、人と比べ自分が欠けた者だと思い、不平や寂しさの中に置かれてしまうでしょう。
でも、神である主が私の羊飼いなら、試練の中にあっても、心に余裕が与えられることでしょう。


礼拝の後、小グループに分かれて30分ぐらい話し合いをしました。礼拝で聞いたお話しについての感想や近況報告などです。わたしの担当は中学生女子グループです。子どもたちが心を開いてよく話してくれたのでうれしく思いました。

わたしがTEENSでした挨拶を紹介します。

小学科から来ました。小学科の先生を23年もやっていたので、みなさんの中には小学生の時に分級を受け持った人がいます。校長先生も受け持ちました。みなさんが大きく成長しているので、びっくりしています。
わたしはちょうど60歳ですが、心の年は今13~15歳です。3歳から15歳までの子どもの気持ちになれるというのが私の特技です。子どものころ、子どもの心を忘れない大人になりたいと願っていました。その願いはかなえられました。
小学科ではおもに教えていましたが、TEENSではみなさんから色々なことを教えてもらいたいと思っています。よろしくお願いします。



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