前回の続きです。
アブラハムとサラのところに3人の神の使いがやってきます。神の使いはアブラハムに「来年の今ごろ妻のサラに男の子ができている」と言います。
そのとき、天幕の入り口で聞いていたサラは笑ったと創世記18章に書かれています。
アブラハム100歳、サラ90歳の年寄り夫婦に子どもが出来るはずがないと笑ったのです。
以前、神様から子どもが与えられるという約束をいただいていたのですから、このときサラが笑ったのは不信仰なことだと思っていました。でも、もしわたしがサラだっら……やはり笑ったでしょうね。
サラは笑ったことを否定しましたが、
「いや、確かにあなたは笑った(創世記18:15)」と指摘されます。でも、神様はそのことを罰したり、約束を反故にしたりなさいませんでした。
神様はそんなサラをほほえみながら受け止めてくださったのです。
赤ん坊が生まれたとき、サラは「神様が笑いを与えて下さった」といって喜びました。その子どもがイサク(笑いという意味)と名付けられたのは、神様のユーモアでしょうか……。
神様は「わたしの言葉は本当だったでしょう」と言って笑っておられるようです。
恵みのあるところに笑いもあります。
約束と現実の間にギャップがあっても、神の力は弱さのうちに完全にあらわれると神様は笑いをたたえながら言って下さいます。
子を産むのが不可能と思われる年になって、サラに子どもが与えられたのは、神の力によって与えられたことをサラが実感するためだったのですね。長い間待たされたのは、サラが柔和で穏やかな人に変えられるためだったのですね。
「来年の今ごろ」と繰り返し書かれているのに注目して下さい。口語訳では「来年の春」と訳されています。春とは青春。活き活きとした時間を過ごすときが青春です。
恵みに生きるとは、神との関係も人との関係もリラックスして生きることです。
クリスチャンになったのは、恵みの神と共に日々歩むためです。神と共に歩む人生は若くなります。
わたしは、今年56歳になります。でも、心の年は10代です。青春ですよ。サラの子と呼ばれるように活き活きとした時間を過ごしたいです。
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アブラハムとサラのところに3人の神の使いがやってきます。神の使いはアブラハムに「来年の今ごろ妻のサラに男の子ができている」と言います。
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以前、神様から子どもが与えられるという約束をいただいていたのですから、このときサラが笑ったのは不信仰なことだと思っていました。でも、もしわたしがサラだっら……やはり笑ったでしょうね。
サラは笑ったことを否定しましたが、
「いや、確かにあなたは笑った(創世記18:15)」と指摘されます。でも、神様はそのことを罰したり、約束を反故にしたりなさいませんでした。
神様はそんなサラをほほえみながら受け止めてくださったのです。
赤ん坊が生まれたとき、サラは「神様が笑いを与えて下さった」といって喜びました。その子どもがイサク(笑いという意味)と名付けられたのは、神様のユーモアでしょうか……。
神様は「わたしの言葉は本当だったでしょう」と言って笑っておられるようです。
恵みのあるところに笑いもあります。
約束と現実の間にギャップがあっても、神の力は弱さのうちに完全にあらわれると神様は笑いをたたえながら言って下さいます。
子を産むのが不可能と思われる年になって、サラに子どもが与えられたのは、神の力によって与えられたことをサラが実感するためだったのですね。長い間待たされたのは、サラが柔和で穏やかな人に変えられるためだったのですね。
「来年の今ごろ」と繰り返し書かれているのに注目して下さい。口語訳では「来年の春」と訳されています。春とは青春。活き活きとした時間を過ごすときが青春です。
恵みに生きるとは、神との関係も人との関係もリラックスして生きることです。
クリスチャンになったのは、恵みの神と共に日々歩むためです。神と共に歩む人生は若くなります。
わたしは、今年56歳になります。でも、心の年は10代です。青春ですよ。サラの子と呼ばれるように活き活きとした時間を過ごしたいです。
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