生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

究極のアンチエイジング(その2)

2012-03-28 08:19:44 | 教会
前回の続きです。

アブラハムとサラのところに3人の神の使いがやってきます。神の使いはアブラハムに「来年の今ごろ妻のサラに男の子ができている」と言います。

そのとき、天幕の入り口で聞いていたサラは笑ったと創世記18章に書かれています。
アブラハム100歳、サラ90歳の年寄り夫婦に子どもが出来るはずがないと笑ったのです。

以前、神様から子どもが与えられるという約束をいただいていたのですから、このときサラが笑ったのは不信仰なことだと思っていました。でも、もしわたしがサラだっら……やはり笑ったでしょうね。


サラは笑ったことを否定しましたが、
「いや、確かにあなたは笑った(創世記18:15)」と指摘されます。でも、神様はそのことを罰したり、約束を反故にしたりなさいませんでした。

神様はそんなサラをほほえみながら受け止めてくださったのです。
赤ん坊が生まれたとき、サラは「神様が笑いを与えて下さった」といって喜びました。その子どもがイサク(笑いという意味)と名付けられたのは、神様のユーモアでしょうか……。

神様は「わたしの言葉は本当だったでしょう」と言って笑っておられるようです。
恵みのあるところに笑いもあります。

約束と現実の間にギャップがあっても、神の力は弱さのうちに完全にあらわれると神様は笑いをたたえながら言って下さいます。


子を産むのが不可能と思われる年になって、サラに子どもが与えられたのは、神の力によって与えられたことをサラが実感するためだったのですね。長い間待たされたのは、サラが柔和で穏やかな人に変えられるためだったのですね。


「来年の今ごろ」と繰り返し書かれているのに注目して下さい。口語訳では「来年の春」と訳されています。春とは青春。活き活きとした時間を過ごすときが青春です。

恵みに生きるとは、神との関係も人との関係もリラックスして生きることです。
クリスチャンになったのは、恵みの神と共に日々歩むためです。神と共に歩む人生は若くなります。


わたしは、今年56歳になります。でも、心の年は10代です。青春ですよ。サラの子と呼ばれるように活き活きとした時間を過ごしたいです。



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究極のアンチエイジング(その1)

2012-03-26 20:03:19 | 教会
ヒックンが家にきたときは40℃の高熱が出ていましたが、3日目には平熱になり、元気になりました。高熱があっても食欲はあったのでそれほど心配はしませんでしたが、すごい回復力に驚いています。
土曜日はケーキを買って少し早目の誕生祝いをしました。今月31日で5歳になります。


昨日教会の礼拝では3月で退職されるK先生がメッセージをしてくださいました。
一部を2回に分けて紹介させていただきます。(青字がメッセージ。緑字が聖書の言葉。茶色字はわたしの感想です。)


Ⅰペテロ3:6には「たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。」と書かれています。

サラというのは、創世記に出てくるアブラハムの奥さんのことです。
サラの特徴は、神様から若さと力を得て、90歳で子ども(イサク)を産んだことと、柔和で穏やかなことです。

Ⅰペテロ3:4には
「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい、これこそ神の御前に価値あるものです。」と書かれています。サラは夫(アブラハム)に従順に従ったことから、柔和で穏やかな婦人として高く評価されています。


あれ? サラって、もっときつい人だったんじゃないかな……?


サラは最初は支配的でした。自分の力で道を切り開こうとしていました。神様はアブラハムに星の数ほどの子孫を与えると約束して下さったのですが、それから何年経っても子どもができませんでした。

そこで、サラは考えました。自分の奴隷を夫に差し出して子どもを得ようと。それで奴隷のハガルにイシュマエルが生まれました。

ハガルは子どもが生まれた途端、サラを見下すようになったので、サラはアブラハムに訴えました。アブラハムがいいようにしなさいと言ったので、ハガルとイシュマエルを追い出してしまいました。
ハガル親子は荒野で死んでしまうところでしたが、神様によって助けられました。


このときのサラは柔和で穏やかな人とはいえないですね。


でも、サラは変えられました。
サラが90歳になったとき、アビメレクに妻として召されようとされます。アビメレクは90歳のサラをどうして選んだのでしょうか……。
そのときのサラには内面的な美しさが備えられていたからではないでしょうか。


これが究極のアンチエイジング!


内面的な美しさは外側にもあらわれてきます。
                    
                     つづく


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究極の悲しみ

2012-03-21 12:11:24 | その他
昨日は主人の実家のお墓参りにいってきました。電車4回乗り換えて片道3時間の長旅でした。

今日はヒックンが熱を出したから預かってほしいとの電話がありました。午前中に病院へ連れて行ってから来るというので待機中です。


再び新美南吉のことを書きます。南吉は人間の究極の悲しみを知っていたのだと思います。
悲しみにはいろいろな種類がありますが、究極の悲しみは存在そのものにあるとわたしは考えています。
自分の存在が悲しいのです。なぜでしょう……。

人間は本来愛されるために生まれました。人は神によって造られ、神に愛されたからです。

最初の人、アダムとエバは神様と共にエデンの園という楽園で暮らしていました。そこには苦しみも涙もありませんでした。
ところが、神様が食べてはいけないと命じていた木の実をへびにそそのかされてエバが食べ、アダムも食べてしまいました。そのとき、罪が人類に入ったと聖書には書かれています。

その時以来、人間は労苦して糧を得なければならなくなり、やがては年老いて死ぬ者になりました。

アダムとエバは楽園から追放されてしまいますが、神様はふたりに皮の衣を着せました。皮の衣は後に来てくださる救い主イエス・キリストを表しているそうです。

エデンの園から追放したときに神様は人類を救済する計画を立ててくださっていました。
聖書は人類の救済史だと言われています。

人間は生まれながらの罪を持っていること。やがては死んでしまう存在だということが究極の悲しみなのです。死で終わってしまう人生はなんとむなしいものでしょう……。

南吉はそれに気づいて、「でんでんむしのかなしみ」をかいたのでは?と考えます。
でも、それには救いがありません。

わたしが「でんでんむしのよろこび」を書いたのは、この究極の悲しみがなくなる道があると読者に伝えたかったからです。

イエス・キリストの十字架の死によって人類の罪が赦され、永遠の命をいただくことができるようになったのです。これを福音(ふくいん)と言います。

「でんでんむしのよろこび」後半にジョイジョイさんというかたつむりが出てきますが、キリストをイメージして書きました。

さきほど「でんでんむしのよろこび(2)」を「生かされて・・・土筆文香」のHPにアップしましたので、読んでいただけると嬉しいです。


「でんでんむしのよろこび」は4パターン書きました。日本クリスチャン・ペンクラブ提出用と児童文学者協会提出用と、紙芝居用。そして今回HP用に新しく書きました。HP用に書いたのがいちばん書きたかった作品です。




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でんでんむしのかなしみ

2012-03-17 17:17:31 | 童話
来年は新美南吉(1913年~1943年)の生誕百周年です。
南吉と聞いてピンとこない人でも「ごんぎつね」の作者といえばおわかりになると思います。
北の賢治(宮沢賢治)、南の南吉といわれたほどの童話作家です。

「ごんぎつね」は今でも小学校の国語の教科書に載っていると聞いて嬉しくなりました。いつから載るようになったのでしょうか……。わたしが小学生の時は載っていませんでしたが、6歳年下の妹の教科書に載っていました。

わたしが初めて南吉の童話に出会ったのは、高校生の時、妹の教科書からでした。「ごんぎつね」を読んで涙が止まらなくなりました。相手に気持ちが伝わらない悲しみに深く共感したのです。

また、南吉の書いた童話で「でんでんむしの悲しみ」という作品があります。美智子皇后が推薦されて有名になり、絵本にもなっています。

童話には自分の殻だけでなく、友達の殻にも悲しみが詰まっていることに気づくでんでんむしのことが書かれています。
紹介させていただきます


  
でんでんむしのかなしみ


  一ぴきの でんでんむしが ありました。
  あるひ、その でんでんむしは、たいへんな ことに きが つきました。

「わたしは いままで、うっかりして いたけれど、わたしの せなかの からの なかには、かなしみが いっぱい つまって いるではないか。」
 
 この かなしみは、どう したら よいでしょう。
 でんでんむしは、おともだちの でんでんむしの ところに やっていきました。
 
「わたしは もう、いきて いられません。」
と、その でんでんむしは、おともだちに いいました。

「なんですか。」
と、おともだちの でんでんむしは ききました。
「わたしは、なんと いう、ふしあわせな ものでしょう。わたしの せなかの からの なかには、かなしみが、いっぱい つまって いるのです。」
と、はじめの でんでんむしが、はなしました。

 すると、おともだちの でんでんむしは いいました。
「あなたばかりでは ありません。わたしの せなかにも、かなしみは いっぱいです。」

 それじゃ しかたないと おもって、はじめの でんでんむしは、べつの おともだちの ところへ いきました。

 すると、その おともだちも いいました。
「あなたばかりじゃ ありません。わたしの せなかにも、かなしみはいっぱいです。」
 そこで、はじめの でんでんむしは、また べつの、おともだちの ところへ いきました。

 こうして、おともだちを じゅんじゅんに たずねて いきましたが、どの ともだちも、おなじ ことを いうので ありました。
 とうとう、はじめの でんでんむしは、きが つきました。

「かなしみは、だれでも もって いるのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの かなしみを、こらえて いかなきゃ ならない。」
 そして、この でんでんむしは、もう、なげくのを やめたので あります。



わたしは、この作品をお借りして、「でんでんむしのよろこび」という童話を書きました。
童話はわたしのHP「生かされて・・・土筆文香」に前半を掲載しました(久々の更新です)のでご覧ください。後半は後日アップします。

(南吉のことは2011年9月14日ブログにも書いていますので合わせてお読みいただけると嬉しいです。)



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わたしが生きているのではなく・・・・・・

2012-03-14 16:23:55 | 教会
今日も風が冷たかったのですが、教会へ向かって自転車を走らせていると、ぽかぽか暖かくなってきました。
11日の礼拝メッセージの一部紹介と感想を書きます。


「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」
とパウロが書きました。イエス・キリストが十字架につけられたとき、パウロはそこにいませんでした。なぜキリストと共に十字架につけられたなどと書いたのでしょう……。

パウロの言う死とは、『自我を明け渡す』ことです。

「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいます。イリノイ州出身のジョン・ネルソン・ハイドは27歳の時インドに向けて出発しました
ハイドは、宣教師になるという夢がかなって得意げな気持ちでした。
ところが船室に一通の手紙が届きました。父親の親友の牧師からでした。

その手紙には『親愛なるジョンへ。私はあなたが聖霊に満たされるまで祈ることをやめません』
それを読んでジョンは怒りました。(聖霊に満たされるまでとはどういうことか? 聖霊に満たされているから宣教師になったのに……)と。
手紙を読み返しているうちに自分が間違っていることに気づきました。自分が宣教師になる準備ができてないこと、心の底に高飛車な自我があったこと、自分自身を装っていたことに気づいて船の中でずっと祈っていたそうです。


両親のいない少女がいました。少女は叔母さんに引き取られました。叔母さんとの関係はあまりよくありませんでした。
少女は高校生のときイエス・キリストを信じました。叔母さんは少女が教会へ行くのを快く思っていませんでした。
少女は叔母さんに対して悪いなあと思いつつ反抗していました。小言ばかり言う叔母さんの前に出るとどうしても悪態をついてしまうのです。

どうしたらよいか思案していたとき、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という聖書の言葉が少女の心に入ってきました。

私ではなく、私の内におられるキリストが叔母さんと会えばいいと思って祈りました。
その後、叔母さんに会うと、弱くて老いた叔母さんの姿が目に入ってきました。自分を育てるために結婚もしないで尽くしてくれた叔母さんの姿が……。

少女は叔母さんを抱きしめて泣きました。そのとき、叔母さんの心の中にあった塊が溶けていくのを感じました。
のちに叔母さんもイエス・キリストを信じるようになりました。

「キリストが私のうちに生きておられることを認めた時に事が起こります。」「自分が死ななければ、生きておられるキリストを体験することができません。」
と牧師先生が言われました。


メッセージを聞いて、心が刺されるように痛みました。わたしは高慢でした。
キリストを主とすると言いながら、いつの間にか自分の人生の主導権を自分で握っていました。自分の願いを真っ先に掲げて祈っていました。
わたしの人生をキリストに明け渡していませんでした。どうか握っているその手を開いてすべてをキリストに委ね、おまかせすることができるようにと祈りました。



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震災から一年

2012-03-11 16:16:01 | エッセイ
震災の日から1年。教会では被災者のために特別な祈りがささげられました。
今日は福島県いわき市の薄磯海岸で仏教とキリスト教の合同慰霊祭が行われたそうです。
第一礼拝後、主任牧師と10数名の方が出かけて行きました。

このたびの震災で、土浦めぐみ教会宛てにアメリカ合衆国、韓国、インドネシア、香港、モンゴル、台湾などの海外の教会から計780万円もの献金があったと聞いて驚いています。めぐみ教会を信頼して届けてくださったのです。

教会からは、義援金を用いて12回炊き出しに行き、がれき撤去や絵本支援を行い、残りは復興支援金、被災教会支援金として献金したそうです。(詳しくは土浦めぐみ教会のHPをご覧ください)

わたし個人としては、炊き出し奉仕に行くこともできず(体力的に無理なので)、ただ祈ることだけでしたが……。
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で書いたエッセイ「わたしと東日本大震災」を紹介します。
     
残されし者の使命     

そのとき、わたしは自宅のリビングでくつろいでいた。突然腹に響く地鳴りがした。すぐに揺れが始まったが、そのうちおさまると思っていた。ところが、おさまるどころかどんどん大きくなっていく。

仕事が早く終わって帰宅していた娘が部屋から飛び出してきた。
「ドア開けたからね。お母さんは、ベランダの窓を開けて。お風呂に水を入れないと……」

娘は余震が続く中でテキパキ動いている。
わたしは何もできず、すわったまま呆然としていた。そんな大きな地震が起こるはずないと思っているのだ。

マンションの上階の人がやってきたとき、はっと我に返った。上階の家では食器棚や本箱が倒れ、大変なことになっているという。

我が家では何一つ壊れなかった。主人がたんすや食器棚などすべてに地震止めをしてくれていたからだ。

停電で信号がつかず、主人は隣のつくば市から4時間かかって帰宅した。電気は1日、水道は2日、ガスは10日も止まっていた。

日が経つうちに被害の大きさを知らされた。原発事故という日本では未曽有の出来事に不安でたまらなくなった。テレビの悲惨な映像を見て、何もできない自分を責めた。神様はなぜこんな災害が起こるのを許されたのだろうか……。

ヨブ記38章を読んでいたら、主がヨブに言われた言葉、「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか」が心に留まった。

創造者である神様は、わたしたちよりもはるかに知恵あるお方である。わたしたちにはわからなくても何かの目的があってこの災害を起こされたのだと思った。

今わたしができることは『書くこと』しかない。



日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。ブックマークにあります。


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神が遠くに感じられるとき

2012-03-09 21:20:06 | 聖書から
昨日は我が家での家庭集会でした。娘も参加し、牧師先生と8名の方が来て下さいました。
「人生を導く5つの目的」(リック・ウォレン著、パーパス・ドリブン・ジャパン)の14から学びました。

この本は何度も読みましたが、その箇所の内容をすっかり忘れていました。
そのページには、神が遠くに感じられるときのことについて書かれていました。

祈っても何の応答もなかったり、あまりにもひどい苦しみが襲ってきて、祈ることさえできなくなってしまうことがあります。

わたしは何度もそのような経験をしました。そんなときは、わたしの信仰が弱いから、あるいは自分自身に問題があるから神様が遠く感じられるのだと思って自分を責めていました。
でも、それが間違えであること。誰もが皆直面しなければならないことだと知り、ほっとしました。
それは、信仰の訓練なのだそうです。

「どのような関係にも親密な時期と距離を感じる時期があります。神との関係においても、それがどれほど親密なものであっても、振り子はこちら側から向こう側へと振れていくものなのです。(フィリップ・ヤンシー)」
と書かれています。

ダビデは神様の臨在が感じられないことについて度々文句を言っています。
ヨブは神様がおられないと感じた時、このことに希望を見出しています。

わたしたちが神様の存在が信じられなくなった時でも、神様は存在しておられるという事実があります。神さまはご自分のことを「わたしは、『わたしはある』という者である(出エジプト3:14)」と言われました。「わたしはある」は、わたしはいると訳した方がいいと聞きましたが、その通りですね。いつでもどこでもどんなときでも神は存在するお方なのです。

「神に見捨てられたと感じることがあっても、その感情に左右されずに神を信じ続けるとき、あなたは最も深いレベルで礼拝しているのです。」と書かれていました。

わたしの罪を赦すために十字架にまでかかって下さった神さまが、わたしを見捨てるはずはないのです。キリストが十字架上でなして下さったことを思いながら礼拝を捧げたいです。



わたしが書いたものが掲載されている「百万人の福音」4月号が今日送られてきました。
入選したのは奨励賞の作品1点と佳作2点でした。わたしのは佳作ですが、4月号に掲載されました。題名は「試練の学校」。実名で出ています。いのちのことば社のHPをごらんください。



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母親に愛されなくても

2012-03-06 13:21:07 | その他
今まで使っていたデスクトップ型のパソコン(Windows Vista)が使いづらくなってきました。50GBあるCドライブの容量が残り10%を切って動作がにぶくなっています。データーは外付けハードディスクに移しているのに……。使ってないものをアンインストールしたり、ディスククリーンアップをしても、一時的にしか回復せず、いつの間にかまた少なくなっています。

いつ動かなくなるかわからないので、ノートPCを購入しました。購入したPCは、今まで使っていたPCに比べてCドライブ容量が10倍もあります。
初期設定は娘にしてもらいましたが、「プリンターのインストールぐらいは自分でやってね」と言われ、四苦八苦しています。

それに慣れないPCはとまどうことばかりで、作業が進みません。
容量の大きなソフトを新しいPCに移し、主人がそれを使いうことにしました。結局わたしはもとのVista使っています。あと何年もつでしょうか……。PCは寿命が短いけれど、なるべく長く使いたいです。


日本テレビで2010年に放送されていたドラマ「MOTHER」の再放送を録画して見ています。児童虐待のドラマです。芦田愛菜ちゃんの演技に涙・涙……。

愛を与えられるはずの実の母親から虐待を受けるとは……子どもはどこに助けを求めたらよいのでしょう。でも、母親には母親の事情があって、一概に責めることはできません。

母親のおなかから生まれたとき、赤ちゃんは不安なのだそうです。最初に泣くのは、人が世界苦を背負っているからと言った人がいるそうですが、その通りかもしれません。人間は罪を持って生まれてくるのですから……。

そして、何もできない状態で生まれるので、不信感があり、不安だから泣くのだそうです。
でも、母親、あるいは母親に代わる人が、赤ちゃんを100%受容することによって不信を乗り越え、信頼を獲得します。それが希望になると聞きました。

「MOTHER」のつぐみも、生まれたときは母親から受容され、愛されたのです。生後一年の養育がその子どもの一生を決定するといいますから、つぐみの性格が素直なのはそのせいなのでしょう。

生まれてすぐ捨てられたり、愛されずに育った子はどうなるのでしょう……。時期がすぎてからでも、たとい大人になってからでも誰かに愛されることよって修復は可能です。希望はあるのです。

母親に愛されなくても、父なる神様が愛して下さっている。そこに希望を見出せます。

日曜礼拝で語られた聖書の言葉。
「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない(哀歌3:29)」



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病に苦しむ誰かのために

2012-03-03 17:23:33 | その他
3月に入ると心まで暖かくなりますね。明るい日差しがまぶしいです。

キリスト教の月刊誌、「百万人の福音」で毎年ペンライト賞を募集しています。4年前、癌で召された父のことを書いた文章がペンライト賞佳作に選ばれ、掲載されました。
昨年、自分の病気のことを書いて再び応募しました。やはり佳作に選ばれ、4月号に掲載されることになりました。

前回は、父の死の数か月前からブログにリアルタイムで書いていたことをまとめた文章なので、たくさんの人に読まれることに抵抗はありませんでした。むしろ読んでいただけるのは嬉しいことでした。

でも、今回は嬉しいという感情はまだ湧いてきません。むしろ、知っている人に読まれると思うと、深い心の傷跡があらわにされるようで痛みを伴います。(一部はブログやHPにも書いていますが……)

編集部から先月20日に電話をいただいたとき、ほんとうに驚きました。
「百万人の福音に掲載してよろしいですか」と聞かれたので、「はい」と答えたものの、あの文章が掲載されてしまうのだと思うと辛くて2~3日眠れませんでした。

それなら、なぜ書いて投稿したのでしょう……。
ペンライト賞に出した文章の最後に
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩編119:71)」という聖書の言葉を記しました。

わたしは子ども時代で13年。大人になってから12年、計25年間喘息で苦しみました。なぜこんなに苦しまなければならないのか……と問い続け、病を受け入れられずに精神的にも苦しみました。その後、乳がんになり、死の淵に立たされました。

絶望の淵に立って初めて見えてくるものがあって、気づいたら病気になったことを感謝するようになっていました。苦しみに会ったことが幸いだと心から思えるようになっていました。長い時間かかってようやく達した心境です。

このことを書くように誰かに促された気がして、書きはじめました。でも、辛いことを書くという作業は苦しく、何度も途中で書くのをストップしました。するとまた、書くようにとの促しがますます強く感じられます。

気のせいと思って無視することもできたかもしれません。でも、無視したら体中の骨が痛むような気がします。もしかして、この促しは神さまからだろうか……。そうだとしたら無視してはいけない……。
そう思って書き上げたのが昨年の暮れでした。でも、ためらいがあって、すぐには投稿しませんでした。

年が明けて教会へ新年礼拝に行くと、今年の年間テーマの聖句が掲げられていました。
「神の力は私の弱さの中に完全に現れる。私が弱い時こそ私は強いのです。(Ⅱコリント12:9-10より)」

この聖句を読んだとき、弱さをさらけ出したあの文章を送りなさいと神様から示された気がしました。わたしがためらっていたのは、精神的にも肉体的にも弱いことを大勢の人に知られるのが嫌だというのが主な理由だったのです。でも、神さまの前では、むしろ弱い方がいいのです。弱い人により大きく神様の力が働くのです。
そう思って締め切り間際に投函しました。

入選したと聞いたとき、「あの促しはやはり神様からだったのだ」と確信しました。
病で悩んでいる誰かのために神様がわたしの文章を用いようとして下さっているのかもしれません。会ったこともない誰かのために……。

「百万人の福音」4月号は今月半ばにいのちのことば社から発売されます。



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