生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

愛すること 赦すこと -平和を求めて(その1)

2010-08-30 13:20:46 | 教会
昨日の礼拝は、講壇交換で霞が関キリスト教会の牧師、池田勇人先生が土浦めぐみ教会に来られてメッセージをしてくださいました。
池田先生は、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)理事長で、わたしのペンネーム、土筆文香の名付け親でもあります。

まず、昨年8月にテレビ放送されたNNNドキュメント 「戦場のラブレター」について語ってくださいました。

3年前、知り合いの宣教師が池田先生のもとを訪れました。宣教師は一通の手紙を出し、これを書いた本人に渡してほしいと池田先生に託しました。
63年前、石川県に住む中野きく枝さんが、硫黄島で戦う夫にあてた手紙でした。

硫黄島の戦いでは日本兵、米兵双方とも2万人を超える戦死者が出たそうです。
日本兵の遺体が片づけられた後の砂浜で、米兵のライマン・コリーさんが休憩していると、茶封筒が風に乗って飛んできました。ライマンさんが手に取ると、それは亡くなった日本兵が持っていた手紙と思われました。

ライマンさんはその後、腰を至近距離で撃たれ大怪我をしたそうです。でも、そのおかげで命は助かり、国にもどりました。日本語が解らないので手紙の内容を理解できないまま60数年も大切に持っていたそうです。

ライマンさんは手紙を宣教師に見せ、内容を知ったとき、悩みながらもこの手紙を書いた方にお返したいと言いました。
手紙には、戦地の夫を気遣う愛に満ちた言葉が書かれ、2人目の子供を授かったことが記されていました。

池田先生ご夫妻は宣教師から託された手紙を持って石川県の中野きく枝さんのもとを訪れ、きく枝さんの前で手紙を読まれました。
きく枝さんは痴ほう症でしたが、読み終わった時「手紙ではなく夫に帰って来てほしかった」と言いました。理解しておられたのです。

ライマンさんは 「戦争に勝利はない。両国とも負け。たとえ勝ったとしても後には何も生まれない。両方の家族に悲しみを与え続けている」と言いました。

NNNドキュメント「戦場のラブレター」については、
昨年8月10日のブログに番組の内容と感想を書いています。
こちらをご覧ください。

                 つづく


時間をささげること

2010-08-28 08:46:18 | 聖書から
 何の話をしていたときだったか、
「子どもの時、お母さんはわたしの話しを聞いてくれなかった」
と娘が言いました。

わたしは決して模範的な母親ではありませんでした。感情でしかったり、子どもの心を傷つけることを言ったり……失敗の多い子育てだったと思っています。でもいまさらながら娘に言われてショックでした。
そんなに毎日忙しいわけではなかったのに、子どもの話を聞いていないとは……

「お母さんは、聞いているようで「うん、うん」と返事するけれど、ちゃんと聞いてなかったよ」
そういえばうわのそらの時もあったし、子どもの意志を無視して自分の考えを押し付けていたことがありました。

先日、礼拝メッセージで「みことばに生きる」とはどういうことか教えていただきました。
 
ガリラヤ湖で舟の中から群衆に話しをされたイエスさまは、話が終わると舟の持ち主であるシモン・ペテロに言いました。
 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」

ペテロは漁師です。一晩中漁をしていたのにその日は魚が一匹もとれませんでした。経験からすれば、今網をおろしても魚がとれるはずはないと思ったでしょう。
しかしペテロは
 「でも、おことばどおり網をおろしてみましょう」と言い、網をおろすと網が破れそうになるほどの魚がとれました。

イエスさまはこの出来事の前にペテロのしゅうとめの熱をしかりつけて治しています。ぺテロはそれを見ていました。
ペテロはイエス様のことを「先生」と呼んでいますが、ラビではなく、権威ある者として呼んでいたのだそうです。

理性や常識で判断するのではなく、みことば(イエス様のことば)だから従ったのですね。その結果、素晴らしい奇跡を目の当たりにしました。

従順といえば、イエス様ほど従順なお方はいないと思います。
イエス様は、神様のご意志に従って十字架にかかって死んでくださいました。わたしたちを救うために命を犠牲にしてくださったのです。

人のために大切な物を捧げることは、神様に従うことです。示された人に自分の時間を捧げることを神様は望んでおられます。

子どもの話す言葉にじっくり耳を傾けたり、一緒に遊んだり絵本を読んであげたりすること。また、高齢者の話をじっくり聞いて共に時間を過ごすこと。このようなことが神さまの栄光を現すことだと牧師先生が言われました。


わたしは子どもの話しをしっかり聞くという基本的なことができていない母親でしたが、これからは、色々な方の話しをじっくり聞く者となりたいです。人のために時間を捧げることを厭わない者になれるように祈りました。

北海道 道央の旅(その6)

2010-08-25 16:25:45 | 日記
 美瑛から千歳空港に向かうとき、ガソリンが少なくなってあせりましたが、心配には及びませんでした。車には便利なカーナビがついています。今いるところから一番近いガソリンスタンドが検索できるのです。検索したら意外と近くにあったので、ほっとしました。

空港近くになると、カーナビが「渋滞しています」とさかんに言っていましたが、少し混んでいる程度でした。
「北海道では、この程度で渋滞って言うんだ……」
「これくらいで渋滞って言ってたら、都内ではすべての道が渋滞になってしまうね」
と話しました。
それでも千歳空港に着いたのは、3時少し前でした。ガソリンを満タンにして車を無事返すことができました。3日間で走行距離600㎞を超えたそうです。運転してくれた息子夫婦に感謝しました。

空港で一時間半もあると思ってゆっくり昼食をとっていたら、お土産を買う時間がわずかになってしまいました。先に食べ終わったわたしは、ヒックンを連れてお土産屋に。

店は混雑していました。ヒックンにおもちゃを買ってあげ、おとなしくしているうちにさあ買い物をと思ったら、ヒックンがいません。店を出てひとりで歩いているのがみえました。あわててつかまえました。危うく迷子になるところです。目が離せません。腕をつかんでないとまたどこかへ行きそうです。

鞄の奥で携帯が鳴っています。でも出られません。結局お土産は見ることもできず、娘に頼んで買ってもらいました。

搭乗手続き前もトイレやら何やらでバタバタして、飛行機に乗ったのは、ぎりぎりの時間でした。座席につくと、ほっとして汗が滝のように流れ出ました。

機内でうとうとしていると、娘が「丸い虹だよ」と言いました。みると円形の虹が出ていて、なんとその中を飛行機が通ったのです。
 (写真にうっすらと円形の虹があるのがおわかりでしょうか。虹の中に機影が写っています)

虹は、神さまが人類を一方的に祝福してくださるしるしです。

ノアの洪水あと、箱舟から出たノアとその家族はまず祭壇を築き、神さまに礼拝を捧げました。そのとき、神さまは雲の中に虹を立て、 「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはしない(創世記9:11)」とおっしゃいました。神さまは一方的に約束をして下さったのです。

その虹の中に入ったとは……。over the Rainbowではなくてin the Rainbowです。わたしたちは神さまの祝福の中にすっぽりと入れられたのです。

帰りの道中も素敵なことがありました。モノレールからと、常磐線から花火見物ができたのです。14日はちょうど東京湾花火大会をやっていたようです。また、常磐線の方は、取手花火大会が行われていて、車窓からよく見えました。ヒックンは大喜びで帰りも車中で叫びっぱなしでした。

事故も怪我もなく、ひとりひとりの健康も守られ、無事帰ることができて、心から主に感謝しました。

北海道の旅日記、当初は2回ぐらいで終わるつもりでしたが長くなってしまいました。最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

お読みになって下さった方々のうえにも神さまの祝福がありますように。

おわり

北海道 道央の旅(その5)

2010-08-23 11:48:04 | 日記
 旅の2日目は3か所も行って盛りだくさんでしたが、最終日は帰りの飛行機の時間(16時30分発)が決まっているので余裕を持って移動しなければなりません。

ホテルを9時過ぎに出発して、まずは青い池をみに出かけました。青い池はホテルから車で5分ほど、駐車場から歩いて7分と聞きました。青い池をみてから富良野へ行こうと思っていたのですが……意外と時間がかかってしまいました。

前日は、はりきって旭岳の険しい山道を登ったヒックンでしたが、疲れが出たのか、10歩も歩かないうちに「抱っこー」と言ってすわりこみます。なだめながら歩かせたり、おじいちゃんに抱かれたりしてようやく着きました。

名前通り青色の池で、池の中から木が生えていました。十勝岳の火山災害から美瑛町を守るため火山泥流を貯める施設として作られたブロックえん堤に水が溜まり、池になったのだそうです。白金温泉で湧出している「白髭の滝」と美瑛川の水がまざって発生するコロイドが池の水を青く見せているという不思議な現象なのだそうです。
幻想的な青色に魅せられました。(写真は実際の色と少し違っています)

泥流を貯める施設として作られたものが観光地になるとは誰が予想したでしょうか?
人生も、予想もしない方向にむかっていき、そこで用いられることがあります。当初の目的や意志と違っていても神様によって用いられる人生なら嬉しいです。

ヒックンは池を見るより、砂遊びに夢中になりました。そして、帰り道でも時間がかかり、駐車場に戻ったときは11時になっていました。
レンタカーを3時までに返さなければならないので、車中から景色を楽しみながら千歳へ向かいました。

途中でガソリンが残り少なくなってきたのに気づき、あせりました。ここでは関東のようにあちこちにガソリンスタンドがないからです。
ガス欠で止まってしまったら、JAFを呼んだとしても時間がかかってしまいます。飛行機に乗り遅れたら今日中には帰れません。緊張感が走りました。

        つづく



北海道 道央の旅(その4)

2010-08-20 12:59:46 | 日記
三浦綾子文学館から旭山動物園に向かいました。13日は良く晴れて暑く、気温は30℃近くあるように感じました。でも、関東と違って湿気がないので、さわやかでした。

ライオンや黒ヒョウは暑さでぐったり寝ていました。着いた時、ちょうどアザラシのもぐもぐタイムだったのでアザラシ館へ行くと、何重にも人垣ができていて、屋上も人がいっぱいで見ることができませんでした。

ペンギン館は割合すいていたのでよかったです。ペンギンのディズニー映画「ハッピーフィート」のDVDを見ているときは、ペンギンになりきっているヒックンです。本物のペンギンをみて大喜びでした。

ペンギンが泳ぐ姿を下からみることができました。


木の枝から顔を出したレッサーパンダに向かってヒックンは「たぬきさん、こんにちわ」と言っていました。

暑いので2時間も見て回ると疲れておなかもすいてきました。レストランにいくと、長蛇の列。動物園内で食べるのはあきらめて、別の場所に行くことにしました。
昼食をすませて次に行ったところは、大雪山旭岳です。ロープーウェーに乗って散策路を歩きました。


写真のように険しい坂道で、水たまりと石ころだらけだったのですが、何とヒックンは自分で歩くといって、どんどん上って行きました。危ないところだけパパに抱っこしてもらって一時間近く歩き通しました。
わたしはヒックンに負けてはならないとがんばって歩きましたが、一周するころには足ががくがくしていました。



頂上でパパと一緒に鐘を鳴らしました。

ロープウエーでは
富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」と大正の文人、大町桂月の言葉にもありますが、神奈川県に匹敵すると言われる、大雪山の広大さを実感できることでしょう。
というアナウスがされていました。




繰り広げられる美しい景色に神さまの創造のすばらしさを想い、心打たれました。

帰りのロープーウェーを降りると、もう5時半です。美瑛白金温泉にあるホテルへ急ぎました。

                          つづく

北海道 道央の旅(その3)

2010-08-19 13:11:42 | 日記
 三浦綾子文学館は開館12年になるそうですが、できたころから訪れたいとずっと思っていました。北海道は遠くてめったに行けないし、数年前北海道旅行した時は、旭川まで足を延ばせませんでした。

今年、願いがかなって訪れることができ、感無量でした。
1階の展示室をみてから2階にいくと、図書コーナーに「想い出ノート」と名付けられた訪問者ノートがありました。(100冊目になるそうです)わたしは、次のようなことを書きました。

  
「長年の願いがかなえられて、ここに来ることができました。三浦綾子さんに優しく迎えられているようです。
わたしは三浦綾子さんの本を読んでキリストを信じるようになりました。もし、三浦綾子さんの本に出会わなかったら、どんなに暗い人生を送っていただろうかと思います。感謝の気持ちでいっぱいです。」



そのとき、階下から聞き覚えのある声がしました。急いで階段を降りると、三浦綾子さんのご主人で、館長でもある三浦光世さんが老婦人と話していました。

5、6年前、わたしの通う土浦めぐみ教会に三浦光世さんをお招きしてメッセージをしていただいたことがありました。そのときからお変わりなく、背筋をまっすぐ伸ばされ、素敵なベージュのスーツを着こなしておられました。
三浦光世さんにお会いできるとは全く予想していなかったので、驚きました。神さまは何てすばらしいことを用意してくださったのでしょうか。

老婦人との話が終わったとき、わたしは思わず名乗りをあげ、土浦めぐみ教会でメッセージを聞いたこと、三浦綾子さんの本を読んで救われたことを話しました。
光世さんは喜んでくださいました。

それから光世さんは、見学している人たちに館内を案内するから一緒に来るようにおっしゃり、光世さんの説明を聞きながら展示室をまわりました。
光世さんは、綾子さんのエピソードをたくさん話してくださいました。
そのひとつを紹介します。

おふたりが並んで立っている結婚式の写真をみて、
  「このとき、本当は腕を組むはずで、前日の予行演習ではそうしていたのに当日はすっかり忘れてしまった。綾子は覚えていたらしいが、はずかしくて腕を組んでくださいと言えなかったと後で言っていた」というほほえましいエピソードを語ってくださいました。

光世さんは月曜から金曜の午前中は毎日来ておられるそうです。(午前中に訪れてよかったです!)お年は86歳と聞いて驚きました。ずっとお若く見えましたので。
ご一緒に記念写真をとっていただきたかったのすが、息子から迎えに来たとの電話が入り、名残惜しい気持ちでいっぱいになりながら館を出ました。


三浦綾子文学館のパネルに書かれていた綾子さんの言葉を紹介します。
  
私は小説を書く時「人間とは何か」「与えられたこの生命を人間らしい美しさをもって生きられないものか」と苦心するのだが、なかなか一筋縄ではいかない。(「命ある限り」より)
 
つづく

*冒頭の写真は、絵葉書になっているものを写した画像です。

北海道 道央の旅(その2)

2010-08-18 16:30:53 | 日記
千歳空港でレンタカーの手続きに1時間。札幌までの移動に1時間近くかかり、昼食を終えたときには4時になっていました。

一泊目のホテルは旭川です。(旭川空港を利用したかったのですが、2か月近く前に旅行社を通して頼んでいたのに旭川空港のチケットが往復ともとれなかったのです)
札幌から旭川まで3時間近くかかるというので、札幌観光はせず、旭川に直行しました。

今回の旅行は、それぞれの思いが違っていました。主人はヒックンを旭山動物園に連れて行きたいという思い。
息子は、観光はどうでもいいから美味しいものが食べたいという願い。
嫁と娘は景色のいいところに行きたいし、美味しいものも食べたいという気持ち。(このふたりについてはわたしの推測です。違っていたらごめんなさい)
わたしは、旭川まで行くのなら、三浦綾子文学館に行きたい。そこにさえ行ければ十分と言っていました。
それで旭山動物園と文学館以外に行く場所とルートは、運転する息子夫婦に決めてもらうことにしました。

当初の予定では4時ごろ旭川に着くはずだったので、まず三浦綾子文学館に行くつもりでした。でも、着いたのが7時をまわっていたので翌日行くことにしました。
夕飯は旭川ラーメン村ですませ、ホテルに向かいました。

翌朝9時前、わたしひとりでホテルからタクシーで三浦綾子文学館に向かいました。ほかの人達は興味がないから行かないといって、ホテルでゆっくりしてから迎えに来てくれることになりました。

三浦綾子文学館は、想像していた通りのほっと安らげる場所でした。見本林(氷点の舞台となった場所)の中にあって静かでした。
執筆された本が並べられ、子供の時から晩年までの写真パネルや、三浦綾子さんの言葉が書かれているものが展示されていました。

小林多喜二の母、セキをモデルに書いた小説「母」が特別展示されていて、壷井栄がセキにあてた直筆手紙も公開されていました。

三浦綾子さんがやさしく出迎えてくださっているような気がしました。

そこで思いもかけぬ素晴らしいことがありました。

       つづく

北海道 道央の旅(その1)

2010-08-16 16:30:31 | 日記
12日から14日、主人と娘。息子一家と北海道へ行ってきました。

関西から戻って一週間もしないうちに旅行する計画をたてたときは、体調良好だったので不安はありませんでした。
体調を崩してからは、行けるのだろうか?と不安を抱きながら旅支度をしました。

今回はわたしだけではありません、6人の体調が整えられること。怪我や事故のないこと。台風で飛行機が欠航にならないこと・・・などたくさんの条件がクリアされて出発できるのです。

出発の4日前にヒックンが熱を出したとの連絡が入りました。その前日に日本脳炎の予防注射をしたので、その副作用かもしれないということでしたが、病院に行っても風邪との区別がつきませんでした。
2日前からは熱が下がりましたが、大事をとって保育園は休ませ、こちらで預かることにしました。

前日になってこんどはヒックンママの体調が悪くなり、熱が出たと言うので、ずいぶん心配しました。でも熱は一日で下がり、12日の朝は6人で無事出発できました。

土浦から羽田まで、電車とモノレールで行くことにしました。11時発の飛行機でしたが、余裕を持って早目(7時過ぎ)に家を出ました。
3歳5か月のヒックンはいつも車で出かけているので、電車もモノレールも飛行機も初体験です。スーパーひたちに乗ったら、大喜びでした。車窓から見える電車に興奮して「赤い電車だ。青い電車だ。緑のもある!」と叫び続けていました。

台風の進路を気にしつつ空港へ行くと、飛行機は予定通り運航していました。
飛行機はヒックンも一つの座席にすわります。こわがって「抱っこ」と言わないか心配しましたが、平気でニコニコしていました。

わたしは、飛行機は苦手です。離陸と着陸のとき、耳と頭が耐えられないほど痛くなることがあるからです。今回はアメをなめながら、耳抜きをし続けていたらそれほど痛みませんでした。
1時間半ほどで千歳空港に到着しました。

空港を出ると小雨が降っていました。気温は21℃。北海道も暑いと聞いていたので、長そでは薄いものしか持ってきていませんでした。
でも、寒かったのはそのときだけで、翌日からは晴れて暑くなりました。

予約していたレンタカーに乗り込み、まずは札幌に向かいました。


写真は旭岳 姿見の池
                     つづく

久しぶりの関西(その4)

2010-08-11 08:45:34 | 日記
翌日は、昨日も会ったMちゃんに長田に連れて行ってもらいました。阪神大震災で焼け野原になった長田に復興の希望を託して作られた鉄人28号のモニュメントを見るためです。
朝から刺すような日差しです。暑いのは土浦と同じぐらいですが、土浦より蝉の声が勢いよく、頭の上から降ってくるような感じです。

わたしが小学一年生の時「鉄人28号」のアニメをテレビで見ていた記憶があります。鉄腕アトムと共に大好きなアニメでした。
小学校に入学した時、下駄箱の番号が28番だったので「鉄人28号だ!」と喜んだのでした。

この鉄人28号のモニュメントは、アニメーション版の設定に合わせて作られた1/1スケール像で、足を伸ばして直立させたときの全長が18mになるように製作されたそうです。
写真を何枚か撮りましたが、写す向きによって違った表情に見えるから不思議です。

長田の街はすっかり新しくなっていて、震災があったと想像つかないぐらいでしたが、人々の心の傷はまだ癒されてないのだなあと思い、街の人達のために祈りました。

鉄人28号の作者、横山光輝の書いた三国志の絵が展示されているところに入りました。そこはクーラーがきいて涼しかったのでひとしきりおしゃべりをして、早目の昼食をとることにしました。

明石のタコ焼きを初めて食べたとき(関西に住んでいたころ)感激しました。ソースをかけず、タレにつけて食べるのですが、そのおいしさは格別です。
関東ではめったに食べられないので、「お昼、何しよか?」と聞かれた時、迷わず「明石のタコ焼き」と答えました。
今回は牛筋入りたこ焼きを食べました。タコではなく、牛筋とこんにゃくを煮て味付けしたものが入っているものです。とてもおいしかったです。

あっという間に帰りの新幹線の時間が迫ってきました。長田のとなり、兵庫駅近くで仕事をしているもうひとりの友人と合流して、新神戸へ向かいました。新神戸駅の近くで働いている別の友人も見送りに来てくれました。このふたりは、昨日会えなかった友人です。
つかの間の再会でしたが、変わらない笑顔をみせてくれて嬉しかったです。

親切で愛に満ちた友人がいて、何て幸せなんだろうと思いました。
信仰について話すことはほとんどできませんでしたが、

「グリム(わたしの愛称)、生き生きしてるやんか」と言われて嬉しかったです。
神戸に住んでいたころ「死んだ魚の目をしてる」と言われたことがありました。
確かに魂が死んでいました。

今は、当時に比べ体力も記憶力も劣っています。でも、神様から力を注がれて生きる気力に満ちています。
昔あって今ないものは肉体の若さです。今あって昔ないものは魂の若さです。

聖書の言葉
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)


                  おわり



*コメント受け付け再開しました。

久しぶりの関西(その3)

2010-08-10 11:47:49 | 日記

5日。JCPの学びを終えた後、神戸へ向かいました。学生時代の友人たちと会う約束をしていたのです。
わたしは中学1年から12年間、神戸市東灘区に住んでいました。神戸は第2のふるさとです。

地下鉄烏丸線に乗って松ヶ崎から京都へ。JRに乗り換えて京都から三宮まで約一時間でした。
大阪を過ぎるあたりから、なつかしさで胸がいっぱいになり、車窓の景色をじっと眺めました。街は、高層ビルやマンションが立ち並んでおり、昔の面影はありませんでした。(震災後に建てられたものが多いそうです)

でも、山は昔と変わりません。六甲山系の山を切り開いた住宅地に住んでいたので、山を見ると昔のことを思い出します。
三宮駅近くのホテルに荷物を置いて、友人との待ち合わせ場所に行きました。

友人というのは、頌栄短期大学の人形劇部の仲間です。11人のメンバーのうち、10人が兵庫県に住んでいます。友人のほとんどは働いており、平日なので集まれる人は少ないと思っていたのですが、4人が仕事を早退して来てくれました。2人は遠く姫路からです。

久しぶりなのに、毎日会っていて昨日別れたばかりのような感じで、おしゃべりに花が咲きました。お互い学生時代の愛称で呼び合っているので、姓が変わっても関係ありません。


バスの窓から「フラワーロード」と書かれた標識が見えます。


気持ちはすっかり学生時代に戻っていますが、話題は更年期のこと、身体をこわしたこと、老眼になったこと(これには個人差がありました)、親の介護の問題、孫が早く欲しいことなど年相応のことを話していました。でも、みんな同じ年ですから、気が楽です。

孫がいる人はわたしひとりでした。もうすぐ孫が生まれる人はいましたが・・・。
写真を持って行って孫自慢をしてしまいました。

前回会った時は3~4年前だと思っていたのですが、なんと6年前だったことにあとから気づきました。(この時のことは、2006・5・12~5・21の
ブログに書いています)
時がたつのは早いですね。
                 つづく

久しぶりの関西(その2)

2010-08-09 12:31:36 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

写真は京都の関西セミナーハウスの庭から8/4に撮った写真です。山が色づいて秋のようですが、真夏の風景です。

1泊2日のJCP夏期学校は盛りだくさんのプログラムでした。
児童文学者の今関信子先生の本「命をつなぐ250キロメートル」という作品について。
山本優子先生の「見果てぬ夢を」という本についてお話を聞きました。

以前滋賀県でJCP夏期学校が行われたとき、今関先生にお目にかかっています。そのとき童話や児童小説を書いていることを話しました。今回も声をおかけすると、わたしのことを覚えていてくださいました。
作品の中にストレートに信仰を出されているけれど、やはり、悩み葛藤の中から作品を生みだしておられることを伺って共感しました。

山本優子先生のご本は、明治38年に盲学校を設立した左近允孝之進(さこんのじょうこうのしん)という方の伝記です。
100年ぐらい前の人物なのでほとんど資料が残っておらず、苦労されたことを伺いました。

昨日の礼拝で茨城県古河教会の牧師先生がメッセージをしてくださいましたが、牧師先生のおじい様が生まれつきの盲人で、岐阜の盲学校に入学されたこと、盲学校の校長先生から福音を聞き、信仰を持たれたことを聞きました。
「祖父は、目が見えなかったから、心に光が与えられたのです」という言葉に、左近允孝之進と重なりました。

グループに分かれての学びでは、久保田暁一先生のグループになりました。
久保田暁一先生は三浦綾子文学の研究もされていて、「「お陰さまで」三浦綾子さん100通の手紙」 や「三浦綾子の世界―その人と作品」などの本を出版されています。

以前のJCP研修会でお目にかかったことはありましたが、直接お話ししたのは初めてでした。
「力をたくわえて希望を持って書き続けること。心ある人を神は放っておかない。」と言われた久保田先生の言葉に大いに励まされました。

                 つづく

久しぶりの関西(その1)

2010-08-07 17:21:03 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
4日、5日はJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の夏期研修会で京都まで行ってきました。5日に研修が終わった後、神戸まで足を延ばして6年ぶりに学生時代の友人と再会を果たし、6日の夜帰宅しました。

7月の初め、OBI(お茶の水聖書学院)のサマースクーリングで軽井沢に行く予定でいたのに当日朝に熱を出して行かれなくなってしまいました。
旅支度をしていて当日キャンセルしたことは今までなかったので、ショックでした。

母に言うと「自己管理が出来てないからだめね。 わたしなんかこの一年一度も病院へ行ってないのよ」としかられてしまいました。
「でも、こんなこと初めてよ」と言うと「子どものころはいつもそうだった」と母。

そういえば、幼稚園のころは遠足に行ったおぼえがありません。当日にいつも熱を出して休んでいました。喜びと緊張で熱を出していたのです。
「幼稚園のころと一緒にしないで」と言いましたが、精神年齢はそのころとあまり変わってないかもしれません。

サマースクーリングが行けなかったため、それが軽いトラウマになっていたようで、当日朝になるまで心配でした。でも、今回は神さまが行かせてくださいました。



JCPの研修会は関西セミナーハウス(京都市左京区)で行われました。そこは、茶室や能楽堂、日本庭園もあり、緑に囲まれた静かで落ち着ける場所でした。歴史的風土特別保存地区になっているそうで、竹林には手を入れられないのだと管理されている方がおっしゃっていました。

関西JCPの方たちとは3年ぶりにお目にかかりました。なつかしい方々との再会が嬉しかったです。

つづく

特別に愛された人

2010-08-02 16:49:26 | 教会
昨日の礼拝では12弟子のひとり、ヨハネにスポットが当てられたメッセージを聞きました。
ヨハネとは「主は恵み深い」という意味だそうです。
ヨハネの書いた福音書や手紙を読むと、ヨハネは「愛の人」という印象を受けます。ダビンチの最後の晩餐の絵では、ヨハネは少女のような顔をしています。
ヨハネは愛に満ちた穏やかな性格ではないかと想像していました。

しかし実際は、もと漁師ですからたくましかったのではないか。気性の激しい性格で、信用できる人物ではなかったようだと牧師先生が言われました。
確かにヨハネはイエスさまから『雷の子(ボアネルゲ)』(マルコ3:17)という名をつけられています。

また、兄弟のヤコブと共にイエスさまのもとに行って「あなたの栄光の座でひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」と頼んでいます。
他の弟子たちを差し置いて、自分が偉くなりたいという思いから、抜け駆けして頼んでいるのです。

そんなヨハネですが、彼が執筆した聖書記事には自分のことを『愛する弟子』と書いています。
ヨハネが変わったのは、イエスさまが十字架上で息を引き取られる少し前に、母マリヤをヨハネに託したときからではないかと聞き、心打たれました。
イエスさまの弟子の中には実の弟もいたのに、なぜ信用に値しないヨハネに母を託したのでしょうか……。

イエスさまが一方的にヨハネを信頼したからこそ託したのでしょう。
それから、ヨハネは変わったのです。
イエス様が復活された後は、ペテロの最大の協力者となって働き、人々からはエルサレム教会の柱として重んじられたそうです。

「わたしたちも、神様に一方的に信頼されてこの場に集められています。」と牧師先生が言われました。


こんないい加減なわたしが、神様に信頼されていると思うと心が震えます。
日によって気分が変わり、意志薄弱で決心したことをすぐくつがえしてしまうわたしは、信頼するに値しない者です。
でも、神様はそんなわたしを信頼して用いようとされ、たとい失敗しても絶大な愛で覆ってくださいます。

自分のことを「愛する弟子」とヨハネが書いたのは、自分が神様に特別に愛されていると感じたからでしょう。
わたしも、神様に特別愛されていると感じます。えこひいきされているのではないかと思うことがあります。

神さま。あなたの愛する者がここにおります。どうか神さまの栄光を現すために用いて下さい。


*久々にHP「生かされて・・・土筆文香」を更新しました。
今年の5月、このブログに「がん患者としての心境」を書いていましたが、それを加筆修正してHPにアップしました。


帰ってきました。コメント再開しています!(8/7 12:19)

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