生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

神さまってどんなお方?(その2)

2009-11-28 20:30:07 | CS(子供伝道)

今日は御茶ノ水で行われた日本クリスチャン.ペンクラブのクリスマス会に参加しました。素晴らしい祝会でした。礼拝、賛美、朗読劇で、主の降誕の喜びが沸きあがりました。


先日の続きを書きます。

以前わたしは喘息で苦しんでいました。そのとき、神様がどのようなお方かわかっていませんでした。

喘息を治して下さいと祈ってもなかなか治らず、かえってひどくなりました。

神様はわたしの祈りが聞こえないのかな? わたしが苦しんでいることを知らないのかな? 知っているけれど治せないのかな? と思いました。でも、それは全部間違えでした。

神様はわたしが喘息で苦しむことが必要だと思って、すぐには直して下さらなかったのだと、後になってわかりました。

これは真珠貝です。真珠を作るとき、貝の中に鉛筆の芯の先ほどの小さな物を入れるそうです。小さな物を入れられた貝は痛くて大変苦しみます。でも、しばらくの間苦しんだあとには、その入れられた物が美しい真珠になっているのです。

神様に祈ってもなかなか治らなかったり、問題が解決しないことがあっても、腹を立てたりしないでください。神様があなたに必要だと思って、すぐに辛いことを取り去ってくださらないのです。

決して神様が意地悪をしているわけではありません。神様はあなたのことをとても大切に思って下さっていますから、あなたにいつもいちばん良いことをして下さるのです。

わたしは、喘息は治ってきたのですが、こんどは乳癌になりました。でも癌になったとき、喘息の苦しみを経験していたことでそれほど辛いと思いませんでした。乳癌という病気に負けてしまわないように神様与えて下さった苦しみだったのです。

乳癌になったことも良いことでした。同じ病気の人の辛い気持ちがわかるようになったからです。わたしにとって、喘息も乳癌も神様からのプレゼントでした。


神様は、あなたにもプレゼントをくださっています。ひとりひとり、みんなにです。それは素晴らしい最高のプレゼントです。何だかわかりますか?

それは、イエス様です。

クリスマスは、神様のひとり子、イエス様の誕生をお祝いする日です。今から2千年前、マリヤが「あなたは男の子を生む、名前をイエスと名付けなさい。その子は神の子ですべての人を治める王様です」と神様の使いから知らせを受けました。

「そんなこと本当にあるのでしょうか」と驚くマリヤに神の使いは「神様にとって不可能なことはひとつもありません」と言いました。その言葉を信じたマリヤはお言葉通り、救い主を産みました。

神様は、罪のために滅んでしまうしかないわたしたちに永遠の命を与えたいと思われました。それで神様はひとり子のイエス様を地上におくってくださいました。

イエス様が十字架につけられて私たちの身代りに死んでくださったおかげで、わたしたちはイエス様を信じるだけで罪赦され、永遠の命を頂けるようになりました。イエス様は十字架にかかるために人間の赤ちゃんとして生まれて下さったのです。

もうすぐクリスマスですね。イエス様という最高のプレゼントを下さった神様に感謝の気持ちをもって、クリスマス会の準備ができるようにお祈りしましょう。
              おわり




神さまってどんなお方?(その1)

2009-11-27 09:33:42 | CS(子供伝道)

22日に教会学校小学科で「神さまはどんなお方か?」についてお話ししました。紹介します。質問や聖書の言葉はパワーポイントで写しました。


神様についてみなさんがどれくらい知っているかクイズをします。

1,神様は何でも知っているといわれていますが、神様はあなたの髪の毛が何本あるか知っておられるでしょうか?

答え:神様はご存知です。

聖書にはマタイ 10:30 「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」と書かれています。

2.1000人の人が同時に天の父なる神様と言ってお祈りを始めました。お祈りの内容はみんな違っています。神様はそれを聞き分けられるでしょうか。

答え:聞き分けられます。

3神様にできないことはありますか?

答え:神様にはできないことはありません。

(3問ともほとんどの子どもが正解でした。)


詩篇139編にはこのように書かれています。

主よ。あなたは私を探り、
私を知ってあられます。
あなたこそは私のすわるのも、
立つのも知っておられ、
私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、
なんと主よ、
あなたはそれをことごとく知っておられます。


神様は、何でも知っておられるのですね。あなたがしゃべる前に何て言うかご存知なのです。

なぜご存じかというと、神様はあなたやわたしのことを作って下さったからです。


それはあなたが私の内臓を造り、
母の胎のうちで組み立てられたからです。(詩篇139編)


胎というのは、お母さんのおなかのことです。

神様はわたしたちのことを造っただけでなく、わたしたちのことをわたしたち以上によく知っておられます。心の中も、これから起こることも、必要な物も・・・。
神様はあなたにとっていちばん良いものを与えて下さいます。


               つづく

クリスマス準備

2009-11-25 22:22:24 | CS(子供伝道)

教会学校(CS)小学科の教師の奉仕をさせていただいて今年で17年になります。(いま数えみて、そんなに経ったのか……と驚いています)

教会学校では10月末からクリスマス会の準備をします。一昨年までは、分級(学年ごとに分かれているクラス)ごとに発表していました。昨年からは、学年の枠を取り除いて、子どもたちが希望するものを準備して発表することになりました。

今年は、劇、合唱、ハンドベル、工作、ドラマ、体操に分かれました。わたしはドラマを担当します。

ドラマと劇は違います。劇は舞台稽古ですが、ドラマは1場面ごとに撮影し、あとで先生が編集して当日は映像で発表します。
わたしも出演します。(教会学校のダメ教師役)演技で四苦八苦しています……どうなることやら…・・・。

教会学校は、朝10時から30分の礼拝を行います。そのあと、クリスマス会の練習をします。22日から練習時間が12時半までになったため、教師は8時半からの第Ⅰ礼拝に出てから奉仕します。
第Ⅰ礼拝に出るためには、家族の朝食、昼食造り、洗濯もすませて出かけるので6時前に起きなければなりません。それでも、自宅は教会の近くなので助かっています。

遠くからバスを乗り継いで通っているI姉は、朝6時過ぎに家を出なければなりません。大変な労力です。

この前の日曜日は、教会学校低学年の礼拝メッセージをさせていただきました。(今年度から小学科は低学年、高学年に分かれて礼拝しています。それぞれ30名近くの子どもたちが出席しています)

神様が全知全能であること。神様はわたしたちに最善をなしてくださることを低学年でもわかる言葉で語るのは難しいことでした。

次回は子どもたちにお話しした内容を紹介させていただきます。

直るということ(その2)

2009-11-23 12:27:31 | 聖書から

この女の人は、医者からはひどい目にあわされ、財産は使い果たし、しかも病はなおりません。また、病のせいで社会的にも疎外されて、(当時、婦人病である長血は汚れた病だといわれていました)どれだけ辛かったことでしょう。生きる気力を失っていたかもしれません。そんなときイエス様の噂を聞いて、一筋の希望を見出したのです。

噂を聞いただけで、イエス様の着物に触れば癒されると信じたその信仰はすばらしいと思います。
イエス様に近づいたら非難され、人々に押しとどめられてしまうかもしれないのに、女の人は勇気を出して近づいて行きました。
すると、イエス様の着物にさわった瞬間に直ったのです。


「病気が治るなら『治った』と書くはずなのになぜ『直った』と書かれているのでしょうか?」
と、家庭集会メンバーのひとりが質問されて、わたしは初めて気づきました。

イエス様の言葉、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」『直した』になっていて、脚注には『救った』と書かれています。
つまり、イエス様は、病気を治しただけでなく、人格すべてを直したのだと教えられました。

イエス様は「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と問いかけました。大勢の群衆が押し寄せている中で誰が触ったかなんて・・・と弟子たちは言いますが、なぜイエス様はこのような質問をされたのでしょう。

イエス様は全知全能なお方ですから、知らないはずはないのに・・・。
イエス様は、この女の人と人格的なつながりを求めてそう質問されたようです。

女の人はイエス様に問いかけられたとき、黙って去ることもできたのに、進み出てイエス様に真実を余すことなく打ち明けました。これは信仰告白です。
これでイエス様と女の人は、人格的なつながりができました。それはイエス様が望んでおられたことでした。人格的つながりができて初めて女の人の心も直されたのですね。

「イエス様は、人格的つながりを病気のいやしより重要だと考えておられます」と牧師先生が言われました。

わたしは以前、ただ病気が癒されることだけを望んでいました。病だけでなく、心もなおしていただかなければならない者だったのに、心の面については問題を感じていませんでした。でも、今考えてみると、病気がなおることより心がなおることの方が大切でした。
イエス様に治していただくのでなく、直していただかなければならなかったのです。

病気という苦しみを与えられて、すぐに癒されず長い間病んだおかげで自分の心のゆがみにようやく気づきました。
わたしもこの女の人と同様イエス様に出会って直していただいたのです。
『直す』という言葉は、『繕う』という言葉と同様に私の中で重要な言葉になりました。

一度直されても、また歪んでしまう者です。
イエス様とつながり続けることによって、直され、繕われ続けていく者になりたいです。

                  おわり

関連記事「繕われた者」は11月5日の記事をご覧ください。

直るということ(その1)

2009-11-22 17:08:27 | 聖書から

20日は家庭集会でした。10周年のお祝いでつくば市のレストランの一室を借りて行いました。外で行うのは初めてです。土浦で家庭集会を始めてから、本当は18年になります。最初は住んでいた町名が真鍋でしたので真鍋家庭集会といっていました。文京町に引っ越してから文京家庭集会と名を改め、それから10年たちました。

土浦駅から車で20分ほどですが、軽井沢の雰囲気ただよう場所です。お店は紅葉真っ盛りの林の中に建つログハウス風の建物です。小旅行したような気分になりました。11半開店なのに10時半から部屋を使わせていただいて、鳥の声を聞きながら聖書の学びをしました。


聖書はマルコ5:25~34 長血をわずらった女の箇所でした

ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。(略)

イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」


わたしはこの箇所を読むと、長血をわずらった女が自分のことのように思えてなりません。喘息で7年間(子どものときを含めると18年間)苦しんでいて、イエス様に出会って癒されました。


秋田生まれの父に聞いてもらおうと、ケセン語聖書のCDマルコの福音書を以前買い求めました。(ケセン語とは東北の気仙地方の言葉です。)結局父は一度聴いただけでしたが、わたしはそのCDを最近繰り返し聞いています。

イエスさまが女の人に言われた言葉は、ケセン語訳聖書では「母さん、俺ァどごォ力ども頼りどもしてけるその思いがそなだァごと救ったんだ。安心して行ぎなれ。この病で悩む事ァ後ァねァがら」となっています。

「あなたの信仰があなたを直したのです」と言う言葉を「わたしの力を頼りにしているその思いがあなたを救った」という意味の言葉に訳しています。ケセン語は慣れないと難しいですが、心情が伝わってきてジーンときます。

「安心して行ぎなれ。この病で悩む事ァ後ァねァがら」
イエス様に直接言われたように感じて涙が出ました。



つづく

*もうひとつのブログカリスには、「生かされて」過去の記事から抜粋して掲載しています。

福音とは?

2009-11-19 16:17:59 | 聖書から

先日父の死のことを書いた証し文章「心のフィルムに」(ペンライト賞佳作作品)を掲載しました。

改めて自分の文章を読んだとき、クリスチャン用語を使っていることに気づきました。


「父に福音を伝えました」と書いてあったのです。
あかし文章は、キリスト教を知らない人にもわかるように書くというのが基本です。それなのにわたしは「福音」と書いていました。

福音とは何だろう? と思われた人もおられるでしょう。福音は『ふくいん』と読みます。

福音についてブログに書こうと思っていたちょうどそのとき、日曜の礼拝で福音についてのメッセージを聞きました。


パウロは、福音を『もっとも大切なこと』として伝えたといっています。
福音とは何か、聖書には次のように書かれています。


「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと、またケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(Ⅰコリント15:3)」

(ケパとはペテロのことです。)

つまり、福音とは、大きくふたつに分けると、①キリストが死なれ、葬られたこと。
 ②キリストがよみがえられ、人々に現れたこと。
です。

ローマ人への手紙には

「主イエスはわたしたちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ロー:マ4:25)」

と書かれています。

キリストの死とよみがえりは、教会ができたころからの最初からのメッセージです。
ギリシャ語では①の「キリストが死なれ、葬られたこと」は過去形になっているのに、②の「キリストがよみがえられ人々に現れたこと」は完了形で書かれているそうです。

完了形として書かれている理由は、キリストがよみがえっただけでなく、それが継続している。すなわち、今も生きておられるという意味だと聞いたとき、「アーメン(その通りです)」と心の中で言いました。


「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。(ローマ6:9)」


わたしはキリストの復活を信じていますし、キリストが(目には見えませんが)いまも生きておられることを実感しています。でも、復活を信じることができない人にどう説明したらよいかわかりません。それは科学的に証明することができないからです。


②は完了形と同時に受身形になっているそうです。つまり、神の力によってキリストがよみがえらせられたという意味が込められているそうです。
「私たちの罪のために死なれたこと」という文は「私たちの代わりに」とも訳されるそうです。

キリストは、私たちの身代りに死んでくださいました。そしてよみがえったということは、キリストの死が身代わりとして有効であるという証拠だそうです。
つまり、よみがえりは、罪の赦しの証拠なのです。


わたしは神様をほめたたえ、心から賛美します。でも、その同じ口で悪口を言ったり、嘘をつくという罪を犯してしまう者です。

自分の人格にゆがみがあること。ほつれがあることを認めます。どうしようもなく落ち込んで、自分を責めてしまうこともありますが、そんなときは、泣きながら祈ります。

そうすると「泣かなくていい。お前はもう赦されているんだよ」というイエス様の言葉が聞こえてきます。

よみがえられたイエス様が生きてわたしに働きかけておられる証拠です。
いのちと平安を与えて下さるイエス・キリストに心から感謝します!。



*写真は昨日教会の帰りに撮った筑波山。今日は雨でけむっています。

JCPクリスマス会のお知らせ

2009-11-17 17:10:14 | 日本クリスチャン・ペンクラブ

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)関東ブロックのクリスマス会、☆ジョイフル・クリスマス☆が28日(土)に行われます。

時 11月28日(土)13時半から15時半
場所 御茶ノ水クリスチャンセンター4階416号室
内容 クリスマスメッセージ: 『光の中に光を見る』
           池田 勇人牧師
聖書:詩篇36篇9節
賛美:賛美歌276番 
特別賛美
朗読劇 「ベツレヘム通りの人々」 (脚本をJCPのHPに掲載しました。わたしも役をいただいています)

参加費  1000円


この日はオープンJCPです。JCPの会員外の方もぜひご参加ください。申込は11月
22日まで。
JCPのHPをご覧ください。JCPのHPメールフォームからも申込受け付けます。


今回はJCPのHP作成に6時間以上かかってしまいました。(いつもはそれほどかからないのですが……)初めて脚本をアップしたのですが、脚本はセル(表)を作って作成しないと字の配列がうまくいきません。

HTMLの仕組みが十分わかっていないのに、ホームページ作成ソフトも使わずに作成しているので、やたらと時間がかかります。(勉強しなくては・・・)
目を閉じると tr tdのタグがチラチラ見える始末です。
文字の前後にタグ(記号)を入れて作るのです。

HPの画面を右クリックしてソースを左クリックしてみてください。
たったひとつの記号、たとえば>が抜けただけでめちゃくちゃになってしまいます。
昨日は娘にSOSを出しました。娘がいなかったらできなかったでしょう。


朗読劇 「ベツレヘム通りの人々」は人口登録のためベツレヘムにやってきたマリヤ、ヨセフが宿を探す場面から始まります。セリフからマリヤ、ヨセフ、宿の主人たちの心情が伝わってきます。

ベツレヘムの町から拒否され、どこにも泊まるところがなく途方に暮れるマリヤとヨセフ。出産が迫っているというのに・・・・・・。しかも生まれる子は全世界の救い主なのです。

マリヤやヨセフは、神様が出産の場所を用意して下さることを信じきって一抹の不安もなかったのでしょうか?

聖書にはマリヤとヨセフの心情は書かれていませんが、この物語ではふたりは人間の弱さを抱えた者たちとして描かれています。

マリヤは「ふっとかすかに、神様を疑ってしまいました。」「受胎を告知されたとき、『わたしは主のはしためです。おことば通りこの身になりますように』と明け渡したのに…、不信仰でした。」というセリフを言い、

ヨセフは「『神にはなんでもできないことはない』と頭ではわかっていても、不本意なことがあると、すぐ不信仰になってしまう。私は罪深い人間だ。」と言っています。
このところに共感します。

宿泊を拒否した人たちが心痛めるところもわたし自身のように思えてなりませんでした。


昨日、今日のこと

2009-11-15 20:40:37 | 日記

昨日は子ども家庭集会の日でした。子ども家庭集会に出かける前にクリスマス会の打ち合わせをするので12時に教会で神学生と待ち合わせていました。

朝、雨はやんでいましたがすごい風で、自転車で行くのは危険です。
足がまだ完全には治っていないので、なるたけ歩きたくなかったのですが仕方ありません。

家を出て間もなく雨がパラパラ降ってきました。傘がさせないほどの風なので早足で歩いて行きました。

神様のカリスをうたいながら歩くと、四拍子なので歩調とぴったりです。
「カリス カリス カリス」とうたっていると心に熱いものが沸き上がってきて、雨も風も気にならなくなりました。
足のけがのことも忘れていました。歩いても痛くなかったからです。

結局、昨日は教会まで20分、家庭集会の家まで20分。往復で80分も歩いたのに足は大丈夫でした。

足が痛む間は教会へ行くとき雨が降らず、自転車で行けました。足が癒されたとき、雨が降りました。神様がちょうどよいときにたくさん歩かせて下さったのだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。桜川の土手はススキが風になびいていました。


今日は礼拝(礼拝でも恵まれました。後日書きますね)の後、大掃除。その後CS教師会が4時までありました。
そして今日は児童文学の作品集の提出期限日だったので、夜最終見直しをして、さきほどようやく原稿を添付ファイルで印刷屋さんに送りました。
密度の濃い、恵みあふれる2日間でした。

母のことなど

2009-11-12 17:03:46 | 日記

8日、多摩ニュータウンバプテスト教会の帰りに三鷹の実家に行きました。モノレールで立川まで出て、立川からJR中央線で20分ほどです。わたしは、このモノレールに初めて乗りました。ちょうど夕暮れ時で、クリスマスのイルミネーションが車窓を流れるように見えました。

「教会でどんな話をしたの?」と母に聞かれたので、「原稿あるから読む?」と軽い気持ちで言ってから「しまった!」と思いました。
原稿には乳癌になってリンパ転移していたこと、10年生存確率4%と知って辛かったことなどが書かれていますが、リンパ転移のことは母に内緒にしていたのでした。

これまでJCPで提出するあかし文章や童話などいつも母に見せていましたから、母も当然読みたいと思ったようです。

「早く見せてよ」とせかすので、どうしようかと思いました。でも、乳がんになってから6年たっているし、読んだことをきっかけに母が神様に心を向けるかもしれないという期待もあって、思い切って見せました。
読みながら母は涙を流していました。母が読んでいる間、祈っていました。

「リンパ転移があったの?」
と聞かれ、「そのときは大変なことだと思ったけど、6年たった今も他には転移していないから、もう大丈夫なんだ。心配かけると思って今まで言わなかったの」
と言うと、母は少し安心したようでした。
ふつう癌は5年再発転移がなければ安心していいと聞きます。でも、乳がんだけは別で増殖が遅いのだそうです。

ですから、乳がんの場合は5年ではなく10年は再発転移の可能性が高く、医学的には「大丈夫」とはいえないそうです。でも、わたしのガン細胞は、すでにいい細胞に変化しているから大丈夫なのだと勝手に思い込んでいます。
母が、生も死もつかさどって下さる神様を信じることができるように祈りました。



今日は整形外科に行ってきました。この間、足の指をぶつけてなかなか痛みが治まらないので受診すると、骨折していたことがわかり、2週間後にまた来るように言われていました。今日再びレントゲンを撮ると、すでにくっついてきているから大丈夫だと言われました。何の治療もせずに癒されたのです。心から主に感謝しました。
まだときどき痛みますが(痛みは2~3か月続くそうです)、ふつうに歩けるようになりました。


診察のあと受付で新型インフルエンザワクチン接種について尋ねてみました。
先月3時間待たされてようやく優先接種証明書をいただいたのに、予約できなかったのです。証明書のある人は9日14時から16時の間に受付で予約券をもらって下さいと病院のHPにお知らせが流れたので、9日、三鷹の帰りに病院に寄りました。15時頃行くと長い列ができていました。申し込もうとすると、「ワクチンの数以上に希望者が来たので締め切りました。」と言われました。

14時から16時の間に行けば必ず予約券がもらえると思っていたのに・・・・。
これまで2回も肺炎になっているので、早めに接種しておきたかったのですが・・・。
今日の案内では、「ワクチンが不足しているので遅れます。12月初めには接種できるでしょう」ということでした。
本当は、わたしよりヒックンのような小さい子どもに先に接種させてもらいたいです。

情報が日によって変わるので混乱します。HPで案内といってもHPを見ることができない人はどうするのでしょう。病院の掲示板を毎日見に行くのも大変ですね。
本当必要な人がワクチン接種できるようにお祈りします。


栄光満ちあふれて

2009-11-09 21:44:20 | 教会

昨日は、多摩ニュータウンバプテスト教会に招かれて礼拝で奨励をさせていただきました。
私の書いた詩に多摩ニュータウンバプテスト教会のチャキさんが曲をつけて下さったことがきっかけで、牧師先生からお招きいただいたのです。


14時半からの礼拝だったので、土浦めぐみ教会の第一礼拝に出てから駅に向かいました。自分の所属している教会以外でお話しさせていただくのは生まれて初めてです。最初は15分くらいの証しと思っていたのですが、30分の奨励と聞いて恐れと不安でいっぱいでした。
朝、めぐみ教会のS先生に祈って送り出していただいたので心強かったです。

多摩ニュータウンバプテスト教会は東京町田市小野路にあります。土浦から2時間ほどで着きました。小野路は『にほんの里100選』に選ばれた場所です。

チャキさんから伺っていて、どんな所なのだろうと色々想像しながら行きました。昔ながらの風景の残っている素敵なところで、物語が生まれそうな雰囲気です。


教会の門の前に着いても建物は見えません。門を入って狭い坂道をのぼって行くと、山小屋風の建物が見えてきました。宮崎駿の映画「耳をすませば」に出てくる場面のようです。


会堂に入ると、教会の方があたたかく迎えてくださいました。講壇は高くなくて、会衆の席と接近していたので、ほっとしました。それでも、やはり始まる前は緊張しました。

窓からは竹林、たわわに実のなった柿の木、手入れされたバラの花壇が見えます。鳥の声が間近に聞こえ、森の中にいるようでした。(上の写真は窓から見える景色)

賛美礼拝がはじまりました。
谷間のゆり合唱団が、賛美歌や「かみさまのカリス」を二重唱で歌って下さり、うっとりと聴き入りました。

そして、わたしの話すときがきました。
身体が硬直して前に出て行くのがやっとでした。頭の中が真っ白で、覚えたものをすべて忘れてしまったような気がしました。
ところが、ひとこと話したとたん、緊張が解け、平安に包まれて話すことができました。主が共にいてくださることを感じました。

内容は、詩「神さまのカリス」について。
喘息と乳がんという試練を通して神様のめぐみが感じられるようになったこと。人間関係のトラブルで高慢の罪を示され、神様から赦されることの絶大なるめぐみを感じたことなどお話ししました。

礼拝の後、交わりの時間があって、教会の方たちと親しくお話しました。

驚いたことにその後、ひとりの婦人が洗礼を受けたいとT牧師に申し出ました。
牧師先生と彼女のご主人は、その方の救いを長い間願っていたそうです。
皆で手をつないで感謝の祈りを捧げました。

聖霊の働きを感じて、心が震えました。神様の栄光が小さな礼拝堂に満ち満ちていました。

多摩ニュータウンバプテスト教会の方々、お祈りくださった方々、ありがとうございました。

追記:帰りに教会の駐車場で念願のウサギと出会いました。親子です。めったに出てこないそうです。あまり嬉しくてシャッターを押す手が震えてしまったようです。5枚も撮ったのに、ピンボケ写真ばかりでした。

失敗のままでは終わらない

2009-11-07 16:52:23 | 聖書から

水曜礼拝ではシリーズでⅠ列王記からエリヤについてのメッセージが語られています。
エリヤといえば、聖書の中の人物では、信仰の勇者といっていい人物です。でも、エリヤにも弱さがあったことを知って親しみを感じました。

北イスラエル王のアハブ王は妻にシドン人の王エテバアルの娘イゼベルを迎えました。彼女はバアルとアシェラという偶像をイスラエルに持ち込みました。
アハブ王は積極的にバアルを拝み、バアル信仰を国の宗教としようとしていました。

主の預言者たちはイゼベルによって殺され、オバデヤによってかくまわれた預言者たち100人はほら穴に隠れていました。
このような暗黒時代にエリヤは、アハブ王の前に現われ、いきなり
「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」 (Ⅰ列王記17:1)
と宣言しました。


神様はエリヤに3年間雨を降らせないと告げ、ケリテ川のほとりで暮らすように言います。エリヤはケリテ川の水と、カラスが運んできたパンによって養われます。その後、バアル預言者と対決をします。

450人のバアルの預言者たちが、バアル神の祭壇にいけにえをささげ、バアル神を呼び求めます。バアル神が天より火を下して応えれば、バアル神の勝ち。同じように、エリヤが主の御名を呼んで、主の祭壇にささげられたいけにえに天から火が下されれば、主の勝ちという対決をしたのです。
もちろん、勝利したのはエリヤの信じるまことの主でした。

華々しい勝利、そして三年ぶりの雨が降ったあと、エリヤはアハブ王の妻イゼべルに恐れを抱き逃げ出しました。
イゼベルがバアル対決で負けたのに降参せず、エリヤを殺すと宣言したからでしょうか・・・。エリヤは、荒野で疲れ果て、神様に死を望みます。バアル対決で勝利したエリヤと同一人物とは思われないほど弱々しい姿です。


「エリヤは普通の人だったのです」牧師先生が言われました。3年間耐え、バアル対決をして、精根尽きはててしまったのです。
エリヤはもう少しで目的を達成できるはずだったのに、弱さの故に失敗してしまいました。

そんな彼に神様は優しくいたわるのです。御使いがパン菓子と水の入ったつぼをエリヤの前に置き「起きて、食べなさい」(1列王記19:5)と、2回も食べ物を与え、力づけています。

主は失敗も受け止めて下さり、いたわって下さいます。


「神様は失敗のままでは終わらせず、失敗をも生かして下さいます」
と聞いて嬉しくなりました。


明日は、友人の教会で奨励をさせていただきます。失敗を恐れずに前へ進みます。

朗読会のお知らせ

2009-11-05 17:45:04 | 日記

今月17日に 自作詩を朗読する会が開かれます。



時 2009・11・17(火) PM 3:00~4:00     

場所     御茶ノ水クリスチャンセンター B1 アイリーンホール
         千代田区神田駿河台2-1 ОCCビル 
            (℡)03-3296-1001
   
入場無料



第1部は日本クリスチャン・ペンクラブの詩歌の会のメンバーが自作詩を朗読します。
第2部は日本詩人クラブ会員の方が海外受賞作品を朗読します。

詩に興味のある方はぜひお越しください。

繕われた者

2009-11-05 17:20:45 | 聖書から

OBIでマルコの福音書の章題をつけるという課題が出て、マルコを繰り返し読んでいます。
繰り返し読むと聖書の深みに一歩一歩入っていく感じがします。何度も読んでも読むたびに、新しい発見があり、心ふるわせています。
み言葉(聖書に書かれている言葉)の力は、本当にすごいと実感します。

新約聖書は、マタイの福音書から始まり、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書と続きます。福音書にはイエス様の生涯、教えが書かれています。マタイ、マルコ、ルカは共感福音書といいます。内容が重複している部分もありますが、それぞれ特徴があります。

マルコはせっかちなローマの人に向けて書かれたそうで、前置きは短く、いきなり本編に入っていきます。キリストの系図も誕生場面もなく、一章に漁師のシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが弟子として召されることが書かれています。

シモンペテロとアンデレに、「人間を取る漁師にしてあげよう」とイエス様が言われたとき、ヤコブとヨハネは何をしていたかというと、舟の中で網を繕っていました。(マルコ1:19)
繕うというのは、やぶれたり、穴が開いたのを修繕することです。


中学生のころ、母に編みものを教えてもらってマフラーを編みました。毛糸をからませてしまうと、祖母が「貸しなさい」といって、ていねいにほどいてくれました。
わたしがほどこうとすると、ますますからまってしまい、いらいらしてハサミで切ってしまうことがよくありました。

「おばあちゃんはどうして上手にほどけるの?」と感心して尋ねると「年寄りは、気が長いからできるんだよ」と言いました。(わたしは年をとっても無理かもしれませんが・・・)


からまった毛糸を解きほぐすことと繕うことは似ていますね。どちらも忍耐が必要で、丁寧に時間をかけてしなければできない仕事です。

この箇所に『繕う』という言葉が書かれているのは、イエス様がこの4人の新しい弟子たちに網を繕うように、人の心のやぶれ目や傷を繕って治す者になりなさいという意味が含まれていると知って目が開かれる思いがしました。

わたしはイエス様に繕われた者だと気づいたのです。わたしの心を網にたとえると、もつれてからまり、ねじれて穴があき、捨てられてもしかたないものでした。イエス様はそれをていねいに解きほぐし、つなぎ、繕ってくださいました。


「お前の心は繕われた。今度はお前が心の網がもつれて苦しんでいる人を繕ってあげなさい」
と言われているような気がしました。

わたしの心は繕われても、すぐにもつれさせてしまいます。自分では繕うことができません。そのときはイエス様に助けを求めて何度も何度も繕ってもらいます。

繕われたことの喜びをあかしすることによって、聞く人に神様の癒しを体験していただけたらどんなによいでしょう。

あかし文章を書くことによっても、繕われていくのだと思いました。

最悪は最善に

2009-11-02 17:13:41 | 聖書から

昨日は召天者記念礼拝で、死について考えるときが与えられました。
召された方の写真が次々とスクリーンに映し出されました。父の写真をみたときは、やはり涙が出ました。


19世紀の英国の詩人ロバート・ブラウニングの詩、「プロスピシー(展望)」が紹介されましたが、書き記すことができませんでした。

インターネットで調べると、原文と訳が出ていましたが、英文も日本語訳も難解です。

心に留まった言葉は
with God be the rest!  です。

【天国に行ってからは神様と共にあって、すべてが備えられるので、他のことは何も案じることはない。
】という意味を含んでいるそうです。

ブラウニングは、愛する奥さんが召された直後にこの詩を書きました。奥さんはブラウニングと旅行中、肺結核が再発しました。医者を呼びに行かせる間にブラウニングの腕の中で息をひきとったそうです。

奥さんは肺の病気だったので、呼吸困難で非常に苦しんで召されたそうです。
ひどい喘息の発作を体験したわたしは、息がほとんどできないときの苦しみがわかります。あのような苦しみは2度としたくないと思っていました。

愛する人が苦しむのを見ることほどつらいことはないでしょう。
ブラウニングは、(妻にこんなひどい苦しみを与えるなんて・・・愛する妻をなぜ死なせたのか・・・)と神様を恨んだでしょうか? 

いいえ。恨むどころか、神様と共にある幸いを綴っているのです。ブラウニングは、
『死の現実は悲惨だが、目を覆わず、死のすべてを味わわせよ。』

『信仰の勇者には、最悪が最善に変わるので、死の現実に雄々しく立ち向かおう。』

といっています。

わたしは乳がんの手術後、リンパ転移があると知ったとき、死が間近かもしれないと思いました。そのとき、死を恐れました。天国の希望は抱いていましたから、死そのものは恐ろしくないのですが、死に至るプロセスを恐れました。癌が肺に転移して呼吸困難で死ぬのだけはいやだと思い、もしそうなるのなら、いっそのこと事故で、苦しむ間なく召されたらいいのにと思ってしまいました。

でも、ブラウニングは勇敢にも『死に至るまで最期の一戦をして、死のすべてを味わわせよ』といいます。

『苦痛は安らぎに変貌する。』と言い切った彼は、召された後、神の懐に抱かれて永遠に憩うという希望をしっかりと握っていたのでしょう。
聖書に書かれている「死は勝利にのまれた」ことを信じているので、死を正面から見つめられたのですね。

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。(Ⅰコリント15:54)」


黙示録21:1-9、7:9、7:14-17、14-13には、明確な神様の約束が記されています。

「事は成就した。わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。わたしは渇く者にはいのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(黙示録21:6)」

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